2015/06/18

「スタッキング可能」感想



  会社に勤めたことないけれど、オフィスって思っていたより楽しそうだなと思った。「スタッキング可能」の登場人物たちが度々思い至るように、そこは学校をそのまま上の階層に(それこそ積み上げられている上の方に)押し上げたような側面があるのかもしれない。各々もちろん責任を持って仕事をしているのだけれど、閉鎖的な空間に人間関係があって、仲良い人、良くない人、しゃべったことない人がいて・・・。
 オフィスに勤める人々のそれぞれの思惑や考えを読んでいるのは楽しいし、全然違ったキャラクターの視点を行ったり来たりするわりには、皆同じことを思っていたりして、なんだほんとは皆わかりあえるんじゃんって安心したりもする。
 色とりどりの付箋、ポストイットのイメージも十人十色な登場人物達のイメージと重なるところがあるかもしれないと感じたので、たくさんのポストイットをくっつけて歩く毛むくじゃらなチームリーダー(もといE木さん)を描いてみた。
 ときどき突如挿入されるシャーロック・ホームズの茶番(行間遊びというのだろうか)も楽しい。

 街頭(実際は公園だが)演説と会話劇で繰り広げられる「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」は声に出して、役になりきって読んでみたくなるリズム感があって、とても好きです。

2015/06/17

「停電の夜に」感想


 別に移民の問題を訴えているような本でもないし、アメリカで暮らすことを悲劇的に描いているわけでもない。登場人物たちはそれぞれの事情で故郷をあとにし、あるいはその両親のもとに生まれ、アメリカで暮らしている。その中で起きる様々なエピソードが淡々と描かれているわけで、それはとても個人的な物語となっている。二つの異なった世界に挟まれた個人的な物語。同時に外から見た、客観的に描かれたアメリカでもあり、インドの姿にもなっている。
 見知らぬ世界で暮らすのは移民の人に限らない。たとえば地方から都会に出てきた人にだって、その喪失感や、馴染みのないところで今までと全然違った生活をしなければならないことがある。なにからなにまで違うから、戸惑いながらもどこかに新鮮さを見出して暮らしていく。
 ぼくは「セン夫人の家」がお気に入り。エリオット少年があずけられたのはインド人夫婦の家で、セン氏は大学教師。夫人は夫のいないひとりの時間にエリオットをあずかることになる。このエリオットというのが母親と二人暮らしで、仕事から帰った母がワインとチーズで夕食にする傍らで宅配ピザを食べるという生活をおくっている現代アメリカっ子なのだが、対してセン夫人はナイーブなインド女性で、いつも故郷に思いを馳せたりアメリカ生活の勝手の違いにひどく戸惑っている人。この二人の交流がなかなかおもしろい。
 セン夫人が勇気を振り絞ってアメリカ生活に慣れようと奮闘するのを、エリオット少年がじっと観察しているふうに描かれている短篇だ。夫人の奮闘がやがて寂しい展開をもたらすのだけれど・・・。
 ところどころに登場するインド料理も字で読んでいてとても美味しそう。
 このあとラヒリが書いた長編「その名にちなんで」は、この短篇集「停電の夜に」に出てきていた要素を全て結集してつくったような傑作なので、また追々感想を書きます。

2015/06/13

「マーベル・シネマティック・ユニバース」/「アベンジャーズ」への繋がり


 今回はイラスト記事での一作ごとの感想は割愛。一本ずつ書いていたら新作「アヴェンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開してしまうどころか、年が暮れてしまう。マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)は一作ごともおもしろいのだが、なにより全体としての繋がりや体系がおもしろいので、その系譜を簡単にまとめてみた。2008年の「アイアンマン」から始まり、ハルク、ソー、キャプテン・アメリカのエピソードが語られた上で、それらは一旦2012年に「アベンジャーズ」へと収束していき、さらにフェーズ2へと展開を続けていく。

 娯楽映画を地で行きながらも、キャラクターの背景をよく描いている。一作ごとがその主役キャラクターのプロフィールとなっており、他のキャラクターの映画とのリンクも随所に盛り込まれている。同じ役者が演じる同じキャラクターが繋ぎ役としてこっちの映画からあっちの映画へと駆け回り、別々の映画でありながら同じ世界を描いていることが伝わってくる。別々の監督が別々に撮った映画たちなのによくこれだけ整合性というか、調和を取れたものだと思う。特にそれまでソロで主演を張っていたヒーロ―達が一同に集う「アベンジャーズ」では、一体どうやって収拾をつけるのかと思ったが、これが綺麗にまとめられている。しっかりひとりひとりに見せ場が用意され(ヒーロー達だけではなく、今まで各映画に繋ぎ役として顔を出していた脇役にさえもだ)、映画観ている間はまるでカラフルなコミックのページをめくっている気分だった。
 もちろん全ての作品に原作者スタン・リーがカメオ出演している(マーベル映画のお決まり。あのじいさん、ヒッチコック気分かよ!)。

 「アイアンマン」は、特に日本の男子達を夢中にさせたのではないだろうか。天才技術者にして大企業の社長トニー・スタークは負傷した自身の身体を支えるためにハイテクなパワード・スーツを制作して着用する。この「自分で作って着る」というところに男子は夢中だ。日本の特撮ヒーローの「変身シーン」に通じるアイアンマンのスーツ装着シーンや、試行錯誤を繰り返してひとり工作に励むトニーの姿はまさに少年そのもの。続く「アイアンマン2」でも自分で黙々とスーツ制作を続けるトニーだが、アイアンマンの物語では「作る」という行為が重要な軸になっているのかもしれない。いずれにせよメカを作るという行為は大変魅力的だ。もちろん戦うシーンも爽快。ロバート・ダウニー・Jrにトニー・スタークというキャラクターが憑衣というか、ものすごくはまってるところも人気の理由。

 「インクレディブル・ハルク」ではすでに科学者ブルースが実験事故で怒ると緑色の巨人ハルクに変身してしまう身体になったその後から物語が始まるところが新鮮。怒りを沈める修行に取り組むブルースだが、どうしても緑色の巨人に変身してしまうという宿命と向き合う。スターク社がちらっと出てきたり、ブルースをハルクにしてしまう実験の元が、第二次大戦中にキャプテン・アメリカを生み出した研究と同一であるところなど、世界観の広がりを感じさせる。小柄なティム・ロスが悪者ハルク化するところも良い。本作でブルース/ハルク役はエドワード・ノートンなのだが、大人の事情で以降の作品では降板。ノートンのハルクは、変身前と後でのギャップが大きいところがよかった。「アベンジャーズ」ではマーク・ラファロが演じるが、この人はすでにごつくてハルクっぽい顔をしている。どちらのハルクも好き。

 「マイティ・ソー」のソーとは北欧神話の雷神トールに基づくキャラクター。ヒーローというかもう神様である。マーベルの設定では北欧神話の神様は別の星から地球に来て巨人と戦った宇宙人ということになっている。身勝手な行動で王国の平和を乱した罪で王である父親に地球へと追放されてしまったソーが、地球で出会った天文物理学者ジェーンたちとともに危機を乗りこえるお話。ジェーン演じるナタリー・ポートマンも、その助手ダーシー役のカット・デニングスもかわいいし、研究仲間セルヴィグ博士役のステラン・スカルスガルドは最近のぼくの推しおじさん。
 神様たちの住む宇宙側の話が壮大なのに対し、地球サイドの物語はとてもスケールが小さい。これまでのMCU映画とは違い、同じ地域から全然離れない。宇宙側のスケールとのバランスのためだろうと思うけど、これがまた良いのだ。宇宙側で大変なことになっているときに地球サイドはものすごくのほほんとしている印象。北欧神話であるためか、監督はケネス・ブラナー。ハリウッドのヨーロッパ人頼み。

 ぼくがMCUで一番好きなのは「キャプテン・アメリカ」。監督は「スタ―・ウォーズ」のスタッフとしてもお馴染みのジョー・ジョンストンで、彼は「ロケッティア」にて第二次大戦中のヒーローというレトロ・フューチャーな冒険活劇をみごと描いてみせたので、同じくナチと戦うキャプテン・アメリカにはもってこい。
 ときは戦時中、身体が弱いがひと一倍優しく愛国心を持つスティーブは徴兵検査におちてばっかりだったが、その精神を買われてスーパー・ソルジャー計画に被験者として参加、超人血清を打たれてひょろひょろだったのが瞬時にめちゃくちゃなマッチョになり(バックグラウンドがちょっと三島由紀夫っぽい)、星条旗に文字通り身を包んでナチスの科学部門ヒドラとそのリーダー、レッド・スカルと戦う。
 キャプテン・アメリカに技術提供をするのがトニー・スタークの父親ハワード・スタークだったりするところに世界観リンクがあっておもしろい。
 最終的に戦いに勝利するも、ヒドラの飛行機で北極に墜落してしまったキャプテン・アメリカは生きたまま氷漬けになってしまい、70年後の現代になって発見されて目を覚まし、アベンジャーズに加わる。ものすごい展開だが時代まで越えてリンクしてしまうのがMCUなのだ。

 そして上記5作で活躍したヒーロー達、そしてちらほらと登場していた脇役達が一同に終結するのが「アベンジャーズ」。果たして戦時中の軍人(超感覚が古くてカタい)、雷の神様(もう人間の存在を超越している)、金持ち社長(プレイボーイで自惚れ屋)、超危険な緑のクリーチャー(怒ったらもう抑止がきかない)といった面々がチームなど組めるのかと誰もが心配。しかも超人たちに加えてスカーレット・ヨハンソン演じる元ロシアの女スパイ・ブラック・ウィドウ(年齢設定がおかしいんだが・・・)や、サミュエル・L・ジャクソン演じる司令官フューリー(実際リーダーシップがあんまりない)、ジェレミー・レナー扮する弓矢の名人ホークアイ(地味)など、「普通の」人間も同じチームなのだからすごい。実際、戦闘シーンになると超人たちがド派手なアクションを繰り返す中、ブラック・ウィドウはハンドガンをドンパチ撃ち続けているし、ホークアイはひたすら弓を引いている。でも適材適所というか、それぞれが全然違う特色を持って互いに補い合うところがアベンジャーズの肝。大変楽しい映画となっている。

 以上。まずは「アベンジャーズ」までのフェーズ1のおさらいでした。「アベンジャーズ」以降、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」に向かって展開していくフェーズ2に続く・・・。

2015/06/10

「アデル、ブルーは熱い色」感想


 この映画に関しては単に「レズビアンを描いた映画」とするには抵抗があるし、あまりそのテーマを念頭に置いて考えたくない。わざわざ同性同士の恋愛というラベルをつける必要がないからだ。この映画で描かれていることは異性同士の恋愛でも普通に起こり得ることなのだし。それでも、終いまで観ると、やはりアデルが根っからのレズではないことも、エマとの間に生じるズレ要因のひとつとなったのだと思う。同性愛かどうかはさほど重要ではなく、彼女はただ、エマという人、鮮やかなブルーの光線を放つエマその人が好きになっただけだったのだろうと思う。

 たとえば、労働デモのシーンとプライド・パレードのシーンの対比。
 前半でアデルの高校生としての暮らしぶりが描かれるわけだけれど、その中に労働デモに参加するシーンがある。仲間と騒ぎたいだけの興味本位で参加しているのか、本当に政治的関心が強いのかは少し計りかねるけれど、見たところ前者としての印象が強い。もちろん、アデルとエマの属する世界や階級(この言葉を使って人間やその家庭をカテゴライズするにはやはり抵抗があるのだけれど)の違いを描いてもいるのだろう。だが、その後になってエマとともにプライド・パレードに参加するシーンではずいぶん違った印象を受ける。アデルは労働デモのシーンほど熱狂している様子がない。イベントの性質が違うので、怒鳴り声を上げることもないのだが、それでもどこか心ここにあらずといった様子でぼうっとしている印象を受けるのだ。ノリきれていないんだよね。
 アデルとエマの違いは徹底的に描かれる。たとえば家庭や進路がそうだし、ボロネーゼとオイスターはその違いのアイコン。フランスでの現実的な格差のことはよくわからないけれど、違いのポイントを探していくのも映画を観る上で楽しいと思う。

 最終的にずっと囚われていたものからふっきれて、前に進もうとするアデルからは力強さと成長のようなものを感じる。十代の終わりから二十代前半というかなり重要な時期を捧げてしまったものから脱却するなんて簡単なことではないのだけれど、誰もが経験することなのかもしれない。アデルの場合、それがエマだったということ。アデル自身がブルーになっていたのが印象的だ。それも、劇中登場したどの時期のエマよりもずっと濃い青をまとっていた。時間の経過とともに、どんどん青くなくなっていったエマとは対照的な姿だが、それはエマとの関係が終わり彼女の影響下から脱しても、自分にとって大切なものは変わらず抱き続けているのだということを表していたのかもしれない。最後はアデル自身がブルーになったのだ。

 ところで、アデルの父親が芸術家志望のエマに「芸術で食べていくのは大変だ」とかなんとか講釈を垂れるのだけれど、美術の道を志す人が、ろくに知りもしない外野から「食べていくのが大変だ」などと無責任な忠告をされてどんなに苛立ちを覚えるか、ぼくは知っている。だからあのシーンでのエマの絶妙な表情には感動した。絶対苛立ってるだろうな、将来が不安定でよく見えないことは本人が一番よく知っているのだから(それでいて相手はあくまで自分の身を案じて言っているのだから、苛立ちをどこへ向ければいいのかわからない)。
 それでもアデルの両親の「レベル」に合わせて、相手にとって都合の良い返事をしてなにごともなく会話を進めるエマを「大人だなあ!」と思った。いやあぼくだってああいう状況でああいったことを言われても憤慨したりはしないけれど。

 未だに判明しないが、アデルのクラスメイトのものすごいつり目の人が気になっている。エマとともに遊びにいったアデルがクラスメイト達からやいのやいのと言われたあとで、アデルを擁護しようとする彼女。この女優の名前がわからないのだ。キャスト名を片端から画像検索にかけてもわからない。ノンクレジットだろうか。わかる人がいたら教えていただきたいです(資料が乏しいので似顔絵がいまひとつですが・・・)。その後アデルの誕生パーティにも来て、リッキ・リーの「I Follow Rivers」に合わせて踊る姿が大変綺麗で愛らしいのです。

 ウーン、生牡蠣が食べたい。ボロネーゼは映画を観た翌日に食べた。
 

2015/06/02

HEROES & VILLAINS FROM THE PHANTOM MENACE


 コアなファンな間では賛否ある曰く付きのエピソードだが、ぼくは好きだ。結局最初に触れたSWムーブメントというのが、1997年の特別篇公開と、それに続く1999年のこの「ファントム・メナス」公開の時期だから、子供時代の思い出と直結しているわけだ。特にすでに小学二年生になっていた1999年の記憶ははっきりとしていて、「ファントム・メナス」はぼくにとって夏休みを連想させる。ムーブメントの時期そのものもそうだが、夏の青い空に似た爽快感がこの作品にはあると思うから。昔からSWを見てきた上の世代がなんと言おうと、この映画はぼく(と同世代人)にとって最初のSWでなかろうか。年長者の口ぶりを真似て玄人ファンぶる気にはなれない(玄人ファンて何だ・・・)。
 突っ込みどころはたくさんあれど、それもまた「ファントム・メナス」の個性と言えるのではないか。いずれにせよSWファンは賛否に関係なく、「ファントム・メナス」について語ることをやめないのだ。その意味でもこの作品はシリーズ中において特別な位置づけにあると言える。

2015/06/01

「シンデレラ」感想


 やっぱり皆が観たいのは後日譚前日譚とかよりも、その物語自体の実写版だと思う。よく知る物語だからこそ新たにアレンジするのだろうけれど、よく知る物語を本物の俳優や映像で観たいのだ。もちろんこの「シンデレラ」に一切新要素がないわけではない。けれど、その唯一挿入されたアレンジ要素が、今までほとんど語られなかったシンデレラの実母との思い出という、ごく自然ですんなり入って来る、本当に丁度良いアレンジなのだ。それ以上変なアレンジを加えていないので、ストーリーの進行も自然で、突っ込みたくなるところもほとんど無い。
 ケイト・ブランシェットの継母も、とても嫌なやつだったが女性としてちゃんと立体化されているようにも思えた。その嫌な性格にも少し含みがありそうだったけれど、それを決して全部語ろうとしないところが良い。あれくらいで丁度良いと思う。継母なりに思うところもあったらしいが、とりあえず悪い奴は悪い奴だから悲惨な最期を迎えなければならない、と「綺麗に」収まっている。
 アニメ版では戯画化されて邪気の無かった宮殿側の人物達も、良い具合に権威や階級に毒されていて、ステラン・スカルスガルドの大公はアニメ版のような道化ではなく、狡猾な野心家として描かれている。こういったところにこそ実写化する意味があるのではないだろうか。本物の生きた人間が演じるのは、元のストーリーをそのままトレースしたり、派手なアクションシーンを取り入れたりするためだけではないはず。生きた人間としてのキャラクターが物語に深みと奥行きを与えてこそ、実写化する意味があると思う。
 特にCG製の妙なクリーチャーが出て来ることもなく(むしろ最新の映像技術で表現されたカボチャや動物が馬車や従者に変身していくシークエンスは素晴らしい)、徹頭徹尾「シンデレラ」を実写化することに努めていて大変好感が持てた。昨年の「マレフィセント」で消火不良を感じた人は満足できるのではないだろうか(そもそも映画のタイプが全然違うが)。
 そういえば、継母の飼う凶悪な黒猫ルシファーも実写で登場したのは個人的に大変うれしかった。