2018年6月29日

『ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)


■ 重厚で殺伐とした世界を生きたハン・ソロ

 ポスターのイメージとは裏腹に、重厚なクライム調で驚いた。常にどこか薄暗く、モス・アイズリーの酒場以上に得体の知れない連中がうごめいている中で、ひとりの若者がどうやって自由を手に入れて生き延びてきたかが語られていた。

 ハンの故郷コレリアからしてとても暗い。ミレニアム・ファルコンや反乱軍のブラッケードランナーの故郷でもあるこの造船惑星は、もっとハイテクで進んだ未来都市のイメージだったんだけど、曇り空に悪魔的な工業地帯といった感じ。ハンはそこでたくさんの孤児とともにギャングに飼われているわけだけど、そこにはスカイウォーカー親子やレイといったSWの主人公たちが経験してきた「自分はここで一生を終えるのか」という不安や絶望感みたいなものがあって、やっぱり閉ざされた世界からの脱出はSW全編に渡るテーマだなと思った。閉塞感や絶望感は、ひとを冒険に駆り立て、危険だが自由な世界への原動力となる。ハン・ソロも最初は農夫や奴隷だった少年たちと同様、何者でもなかったのだ。

 何者でもないし、独り。まさか「ソロ」という名前が本当にそこから来ているとは思わなかったが、わかりやすくて気に入った。伝説的な名前(のちにスカイウォーカーの末裔となる男にも受け継がれる苗字だ)を名付けたのが、志願兵を受け付ける小役人だったというのも、そっけなくていい。まさに文字通り取るに足らない名前だったのだ。

 ハンが一度は帝国軍に入隊していたという設定は、昔からあった。そのバージョンでのハンは帝国アカデミーで優秀な成績をおさめ、エリートコースを約束されていたが、ウーキーの奴隷が虐待されているのを目の当たりにしてそれを助けてしまう。エイリアンの奴隷は帝国において合法だったので、自身の良心に従ったはずのハンは罰せられ、軍から追い出されてしまい、最後には命の恩人である彼に忠誠を誓ったひとりのウーキーが残っただけだった、という話だった。

 ハンが帝国軍に入っていたこと、その中で生涯の友となるチューバッカと出会ったことは旧設定も今回の映画も共通しているが、おもしろいのはそれを少しずつズラしているところだ。ハンはエリート士官なんかではなく、泥沼化(まさに泥沼だ)した前線に送られるヒラ兵士である。そこで彼は泥まみれになって死と隣り合わせの塹壕で戦うことになる。この泥だらけの塹壕戦、ミンバンの戦いはシリーズでもっとも「戦争」という感じのするシーンだった。『ローグ・ワン』はその意味ではまだまだいつものSWだったのだ。

 ストームトルーパーはいつもの白ではなく、泥で汚れてくたびれきっていて、ハンはじめ一般兵の装備もごちゃごちゃ泥々としていて超汚い。なによりもSWの戦場でありながら「敵」の姿が見えない。これがすごい。そこらじゅうレーザーや爆発による煙で視界が悪く、光弾は飛んでくるがどんなやつが撃ってきているのかは全然見えない。一体誰となんのためにやっている戦いなのかは全然説明されない。そこがすごくリアルな気がした。ハンもつい上官にこう漏らしてしまう。「ここじゃ俺たちが“敵”ですよ」


■ キャラクターたちとミレニアム・ファルコン号

 そんな感じで重々しい調子だんだけど、だからこそハンの軽快さ、チューバッカの動物的魅力、ランド・カルリジアンの小狡さなんかが際立つ。キャラクターが少ないからこそ、それぞれの持ち味がよく表現されているし、話も入り組まずにわかりやすい。重要でないキャラクターはわりとあっけなく死んだりするところも、前述のミンバンの戦いのように、いつ死んでもおかしくない緊張感、みたいなものが漂っていていいな。ハン、チューイ、ランド以外は誰が死んでもおかしくないのだし。

 ミレニアム・ファルコン号との出会いの物語でもあるが、やはりキャラクター、人物の関係へのフォーカスが大きい。ハンがファルコンに乗り込んだだけではまだ画は完成しない。伝説のケッセル・ランを飛んでいく中、EP5『帝国の逆襲』の名曲である「The Asteroid Field」のアレンジが流れながら、ついに副操縦席にチューバッカが腰掛けた瞬間、全てがあるべきところにおさまって、ばっちり出来上がったような感動がある。ファルコンそのもののディティールがそこまで映し出されないから存在感が薄いように感じるひともいるかもしれない。しかし、ハンはまだあの船と出会ったばかりでそのディティールをよく知らないのだから、あれくらいで正しいのだと思う。ぼくたちの知るお馴染みの船は彼らの冒険や築き上げた友情によって出来上がっていったからで、あの時点ではまだ全てが白紙だ。それを象徴するかのように、ファルコンの外装も最初は白い。

 ファルコンと言えば、船の秘密も明かされた。ランドの相棒ドロイド、L3-37のプログラムが船には組み込まれていたのだ。L3はシリーズにおいては初めてドロイドとしての権利を主張するキャラクターだが、そのプログラム上の性別が女性であることも興味深い。寓意性を持った彼女は、権利意識を持つ人々を戯画化しているように見えてしまいそうなところもあるが、それも含めて挑戦的なキャラクターだと思う。

 ファルコンが「彼女」と呼ばれていたのは単に船舶が女性名詞だからというだけではなかったわけだ。EP5でC-3POが「この船のコンピューターはひどい訛りがある」と指摘していたが、あれはL3のことだったのかな。


■ スピンオフっぽさと「映画」とのバランス

 シンプルでテンポよく進んでいく物語でいながら、スピンオフなのでオタクへの目配せも忘れていない。カリダ、ミンバン、オーラ・シング、モー星団、テラス・カシ……。スピンオフっぽい用語が随所に散りばめられていて、このほかにもぼくの知らない言葉も出てきたかもしれない。ほら、ぼくそんなに詳しくないし。でも、テラス・カシはわかる。テラス・カシ知ってますか?初代プレイステーションのSW格闘ゲームで「マスター オブ テラス・カシ」というやつがあったんだけど、テラス・カシというのはSWで格闘ゲームがやりたいがために作り出されたあの世界の武術なのだ。

 とは言えルークはライトセイバー振り回すし、キャラはそれぞれの武器を使うのでどのあたりがテラス・カシなのかはよくわからないんだけど、一見どうしようもないゲームに見えて、実は結構おもしろいらしい。

 ちなみに物語においてはもともとはジェダイに対抗するため、ジェダイを牽制するために編み出された武術だそうで、映画ではダース・モールが使っていたとされている。そう、実はちょっとした伏線だったのだ。

 ハンが恋した彼女は、シスの暗黒卿から落伍しながらもクローン大戦を生き延び、暗黒街でひそかに勢力を伸ばしていたモールの配下だったわけだが、最後に黒幕としてこういうキャラクターを投げ込んでくるあたりも、実にSWスピンオフらしい。飛び交う用語、情報の密度が作り出す世界観の奥行き、そして意外なキャラクターの登場。こういった盛りだくさんなところ、雑多なところにSWスピンオフの魅力があると思う。それでいて本作は一本の宇宙犯罪ものとして(西部劇でもギャング映画でもいい)、一本の映画としてもおもしろいというバランスの良さ。


■ ソロという名前

 彼はいかにして「ハン・ソロ」となったのか。その物語を知った上だと、EP7『フォースの覚醒』でのレイに対する老ハンの態度への印象も変わってくる。レイになにかを見出したハンは彼女の師となるが、それは孤独に生き抜いてきたレイにかつての自分の姿を見たからではないか。若きハン同様、レイもまた初めて乗ったファルコンで、初めて握った操縦桿で神がかりなテクニックを見せる。ソロという名前は、家族は誰もいないという理由でつけられたものだが、それならレイもまたレイ・ソロになり得るのではないか?

 孤独なレイの擬似的な父親になるハンだが、しかし彼には本当の息子がいる。家族が増えることで、ソロは適当な名前からちゃんとした苗字となったはずだが、孤独の名を受け継いだ息子はやがて家族のもとを去りその名を捨ててしまう。さらには最初のソロである父親も殺してしまう。

 ソロという名を与えられることで「自分」を手に入れたハン。そのハンに認められることで冒険へと旅立ったレイ。そしてソロの名を捨てながらも、孤独に転落してしまうベン。果たしてソロは呪われた名なのか?それともアイデンティティや自由への切符なのか?レイとベンがハン・ソロの存在によって結び付けられた擬似的な兄妹であることは確かだ。かつてジェイナとジェイセン・ソロという別バージョンのソロ兄妹がいたように。

 別のエピソードへの理解を深める手助けをしてくれるところも、スピンオフのいいところだ。全体でひとつの歴史を作るのがスピンオフであり、ユニバースなのだ。

2018年6月28日

どうして懲りずにまたボバ・フェットを作っているのか


 前買って作ったやつは塗装してぐちゃぐちゃになったからです。どうして塗装したくなってしまうかというと、プラモやレゴというのは作っているときが楽しいのであって、出来上がったあともなにか手を加えたくなってしまうからだ。レゴの場合は何度でも組み立てたりバラしたり、同じ部品で違うものが作れるだろうけれど、プラモの場合はそうはいかないし、プラモでぼくができる改造といえば色を塗るくらいしかないので、塗っちゃうんだなあ。
 
 そして、その色塗りもあまり上手じゃないんだよ。正直言うとこれは立体物だから勝手が違うというわけではなく、平面においても実は絵の具類の塗りは下手。もうずっとデジタル彩色で絵描いてることからもおわかりいただけるでしょう。

 そういうわけでボバも、C-3POとR2-D2(結婚式のときケーキトップに使ったやつだったんだけど)も下手くそな色塗りでどろどろのぐちゃぐちゃになってしまったとさ。なので、ひとつずつ作り直してまたやり直そうかなと思ったわけ。ああ、K-2SOもダメになっちゃったね。ドロイドなんてボバに比べたら塗る必要ないんだけど、コンビは砂の中歩いてるイメージ強いし、K2も結構傷だらけだから、筆を取ってしまったんだなあ。

 プラモ作り直し第一号となったボバ・フェット。同じキットを二回作るなんてことは初めてだったけど(途中ですごく馬鹿々しい気分にもなったけど)、二回作るとより良さがわかりますね。キットの良さも、ボバ・フェットそのものの良さもわかる。いやあ、貴重な体験だった。


 これ、すごくびっくりしたんだけど、実は緑色が二種類使われている。すごく細かい。ストームトルーパーを作ったときも、ヘルメットのバイザーが黒ではなく、プロップ通りに緑色のクリアパーツになってることに感動したなあ。ボバもこういうふうにヘルメットの後頭部が、他の部分とは違う種類の緑色なのだ。

 全体のパーツでは、ヘルメットのてっぺんと顔面、背中に背負うジェットパック、両腕のガントレットが同じ緑色。ヘルメットの後頭部、背中と胸側のプレート、股間のプレートが同じ緑色となっている。二色つかないので、全ての色分けが実物と同じかどうかはわからないけれど、ヘルメットにおいてはこのように後頭部だけが若干違う色となっている。


 完成。うん、塗装なんてしなくてもこの成型色のままでも全然かっこいいし、十分である。ボバだから汚れてなければならない、などとこだわる必要はなかったのだ。おでこの凹みや胸の傷など、特徴的な部分は立体的に表現されているので、それでもういいんじゃないかな。

 申し分ない立ち姿だ。キットを組み立てて作ったのに、ちゃんと人間がこういう衣装を着ている、という感じに見える。かなり広い可動範囲でいろいろポーズがつけられるのに、関節によってプロポーションが損なわれているということはない。

 ボバっぽい体型かと言うとそうでもない。個人的な感覚だけれど、こんなにがっしりとした肩幅ではないし、がたいが良すぎる。立ち姿はリアルかもしれないけれど、姿勢が良すぎる。これはプラモというか、フィギュアの永遠の課題なんだけど。


 ボバってくたびれてるんだよね。装備もボロボロだし、部分ごとに色も違っててすごくホームメイドな雰囲気が漂う。そこが魅力だ。恐らくその装備の重さもある程度姿勢に影響してるだろう。そんなくったびれた感じで、登場シーンといえばほとんど黙って突っ立ってるだけなんだけど、なぜかものすごい存在感を放っている。ただ突っ立ってるだけだからこそ、こいつ何者なんだ、というただならぬ雰囲気があるのだろう。ましてやあのダース・ヴェイダーに向かってタメ口をきくようなやつである。

 ヴェイダーやストームトルーパーのようにヘルメットに表情がないのも大きい。そして、あれだけ色彩によって善悪がはっきり塗り分けられている世界で、緑色や黄色、しかも傷だらけで剥げまくっているごちゃごちゃの装備という出で立ちが異質さを出してもいる。同じような色彩の賞金稼ぎグリードが前作でハン・ソロに撃ち殺されているところも興味深い。

 ヘルメットの表情といえば、恐ろしく視界の悪そうなバイザー。もしかするとあのゆったりとした動きや歩き方は、視界の悪さから慎重に動いていたからではないかとも思うが、演じていたジェレミー・ブロックが参考にしたのは、「ドル箱三部作」でクリント・イーストウッドが演じたキャラクターだそうだ。言われてみればプリプロ版ボバは体の前面をポンチョらしき布で覆っていたりして、イーストウッド扮するキャラクターと重なるところがある。そしてあちらも賞金稼ぎ、バウンティ・ハンターだ。


 さて、これが前回作って色を塗ったやつ。なんでこんな色にしたんだと思われるかもしれないけれど、これにはちゃんとモデルがあるのであって、ぼくがまたトチ狂った色彩感覚で塗ったわけではない。このバージョンの配色について説明するために、時計を1978年に戻そう。

 もともとボバ・フェットはストームトルーパーの上級版、スーパー・ストームトルーパー(スーパー・トルーパーとも)として生み出されたという。ストームトルーパーの指揮官なので、全身は真っ白だった。ラルフ・マクォーリーとジョー・ジョンストンによって創造され、最初の真っ白なアーマーはジョンストン自身がテスト着用もした。

 上級トルーパーという最初の設定は、後のストームトルーパーの前身となるクローン・トルーパーが、ボバ・フェットと同じ遺伝子を元に作られたという設定にほんの少し生かされている。シークエル三部作におけるストームトルーパーの指揮官、キャプテン・ファズマもボバ・フェットの影響下にあるキャラクターだろう。

 真っ白だったボバはこのあと何度も改良され、色も塗られていく。1978年9月、カリフォルニアはサン・アンセルモでの興行パレードに、その途上にあるボバの姿がお披露目された。ダース・ヴェイダーの横を歩くプリプロ版のボバは、現在知られているのとは少し違う配色で、おでこに目(耳とも言われている)が描かれていたりする(この目の模様はアニメ『クローン・ウォーズ』の主要キャラ、クローン兵キャプテン・レックスのヘルメットに描かれることになる)。

 最初に書いたような、アーマーの部分ごとに緑色の種類が違うというのは、たぶんいろいろなバージョンが作られていく中でひとつ前の色が部分的に残されたりとか、そういう過程で出来た色の違いなんじゃないかなと思う。

 その後、同年11月に放送された『ホリデー・スペシャル』におけるアニメ・パートに、これまた違う色彩のボバ・フェットが登場。映像作品としてはこれが最初で、映画よりも先にアニメでの初登場となる。この『ホリデー・スペシャル』版のボバの魅力については前にも書いたね(→該当記事)。アニメではヘルメットが水色、胸部プレートが薄黄色といった配色だが、アニメのデフォルメに加え、前述したようなプリプロ版で色が未決定だったからではないか。

 そして1979年。おなじみケナー社がボバのフィギュアを出すが、これがプリプロ版の配色をもとにしている(というかまだプリプロ版しかなかったのだろう)。基本的に全身水色で、胸部プレートは緑色、右手のガントレットは赤、左手は黄色。このガントレットが左右で赤と黄色というところがプリプロ版の最大の特徴だろう。79年に発売されたフィギュアはこのボバのみ。→参考画像(Rebelscum.com)

 というわけで、ぼくがどろどろに塗った色はこの「プリプロ版を参考にしたケナーのフィギュア」の配色に従っているのだ。長かった。


 これはこれで気に入っちゃいたんだがね。でも基本の水色があんまりうまくいかなかったし、プリプロとケナー、と二重に映画とは違うバージョンの配色なので、なんだかしっくりこなかった。これならプリプロ版をそのまま再現すればよかったんだろうけれど、ケナーの玩具の再現というところにこだわりすぎた。あれはケナーのレトロな人形だから合う色なのかも。

 このボバを最後にプラモデルやフィギュアを塗っていない。またどっかでやっちゃうのかもしれないが、ぼくは多分買った状態でのおもちゃが好きなんだろうな。製品としてのプレーンな状態がいちばん魅力的なのかもしれない。自分で手を加えた瞬間、よくも悪くも自分のものになってしまうというか。

 長々と書いてきたように、ボバ・フェットというキャラクターはカスタムによって成り立っている。制作過程もそうだし、設定中でもそう。ましてや、プリプロだけでなく、映画に登場してからもEP5『帝国の逆襲』とEP6『ジェダイの帰還』とで色や細部が変わっているのだ。つねに姿を変え続けている、様々な色を持ったキャラクターでもある。だからこそ汚したくなるし、塗りたくなるし、いじりたくなる。

 絵が描けるからなのか、どこかに工作願望やアレンジ願望みたいなものがあるし、最初にも書いたようにプラモはいつまで作る作業を続けたくなってしまうから、手を加えたくなる。でも、ぼくがおもちゃを集めるのは、おもちゃが他人の作品だからなんだよね。ひとが作ったものだからお金を払って買いたくなる。そこに自分で手を加えてより良くなる場合も多少はあるかもしれないけれど(ちょっとした修理とか)、基本的にはそのままにしておくほうが、ぼく個人にとってはいいのかもしれない。

2018年6月26日

営業報告



 今月の仕事。まずは「SPUR」最新号の映画レビュー連載では、デイヴ・マッカリー監督、カイル・ムーニー、マーク・ハミル出演の『ブリグスビー・ベア』を紹介しています。
 ようやく、ようやくマーク・ハミルが独特の貫禄と、やはり独特なジョーカー式のしゃがれ声とともにいろいろな作品に出始めました。遠回りしたからこそ、スカイウォーカーの呪いとジョーカーへの変身を経たからこそ得られた存在感があると思います。と、それらしいことを書いておきましょう。




 「婦人公論」でのジェーン・スーさんの連載挿絵。サムイ島に行かれたらしいです。




 「グリーン・ゴーラ」vol.10(幻冬舎)には本文カット複数。



 フォレスト出版、小川正人さん著「[新版]アメリカの高校生が読んでいる経済の教科書」の装画。




 「映画ナタリー」の『ワンダー 君は太陽』特集ページにイラストレビューが掲載。


 スティーヴン・チョボスキー監督、ジェイコブ・トレンブレイ主演作。『ルーム』ではまだ小さかったジェイコブも、あっというまに5年生。今回演じるのは30回近く顔を手術した少年。それまで家庭学習だったのを、両親の思い切りと本人の勇気で普通の学校に通うようになるが……。
 主人公は『スター・ウォーズ』が大好きという設定でもう掴まれます。しかもパダワン(ジェダイ見習い)の三つ編みを真似して、いちばん好きなキャラはボバ・フェットという趣味のよさ。さらにマインクラフトで遊ぶ(劇中では「家作りゲーム」というふうに訳されていた。まあ間違っちゃいないが)。
 記事のほうでは固有名詞や既存キャラを出さず、こういうふうに間接的な描き方をしたけれど(察してください)、むしろそのままチューバッカとボバ・フェットを描くよりおもしろみがあるかも。いくらでも描きようや伝えようはあるので、こういう工夫はどんどんしていくことにしよう。
 今週は『ハン・ソロ』がようやく日本で公開するけど、この『ワンダー』とさっきの『ブリグスビー・ベア』もSWファンにはおすすめの作品。ファン心理みたいなものに訴えるものがある。ファンであることさえ物語として成立し、広がっていくところに文化を感じます。二次創作や、サンプリング、好きな作品への想いを表現することをやめてはならないのだ。

2018年6月24日

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017)


 でっかい魔法使いのおじさんの頭の形のお店とか、オレンジ果実型のお店とか(オーランドもアナハイムもオレンジ群だから?)、とにかくそういう、ディズニーの世界観を禍々しく解釈した建物(ディズニーランドってこういう感じだろ?みたいな適当な真似)が並ぶ光景はなかなか悪夢的。アナハイムでの失敗から、オーランドでの開発はなにもかもコントロール下で行われたとばかり思っていたが、それは単に内側から「忌々しい外の世界」をうんと遠ざけただけなのかもしれない。もちろんそれだけでも「フロリダ計画」は成功したと言えるのだろう。

 2番目のディズニーパーク建設計画そのものをタイトルとしたこの映画は、ウォルトが図らずもその王国から遠ざけてしまった子どもたちの物語だ。パーク内で遊んでいる人々がおそらくこれっぽっちも考えないであろうすぐ外側での暮らしが生々しく映し出され、王都建設が湿地帯になにをもたらしたのかがだんだん浮かび上がってくる。「7人の小人」の名がついた大きな道路を、目的地に向かって脇目もふらず走り去るたくさんの車、彼らの注意を少しでも引こうと派手に飾り立てる土産店やアイスクリーム店、とにかくお城っぽい見た目の安モーテル、廃墟同然になった空き家群、そしてところどころに残された、開発前の名残である沼地……。そこは夢と現実の狭間として、またひとつの世界観を持つ。

 特にムーニーたちが沼地で遊ぶシーン。幽霊のような枝を垂れ下げた大木が生え、見ているだけでジメジメした気分になるが、遊んでいる子どもたちは至って楽しげである。なにより「普通なら」マジック・キングダムで遊んでいるであろう子どもたちが、マジック・キングダムになり損ねた沼で遊んでいるという画が象徴的である。

 この湿地帯が選ばれたのは、もちろん値段が安く広大な土地を必要としたディズニーにとって好都合だったからだ。沼で遊ぶ子どもたちさえも、「フロリダ計画」の産物なのだ。

 そんなムーニーたちを不幸だとかかわいそうだとかは、こちらは勝手に言うべきではない。確かに彼女を取り巻く世界は限られているかもしれないが、少なくとも彼女自身は常に前向きで、日々を楽しもうという意欲でいっぱいである。もちろんその影で彼女の母親はじめ大人たちの苦悩があるわけだが。

 ウォルトがムーニーたちのような子どもたち、あるいは彼女の母親のような人々の生活を知り得たか?ノーだ。実は彼は「フロリダ計画」の最中、1966年12月15日にこの世を去っている。計画の行方も、王国の完成も、その周囲に出来上がった不思議な世界のことも、彼は知らない。

 さらに弟の意思を引き継いでディズニー・ワールドを完成させた兄のロイ・ディズニーもまた、開園からたった三ヶ月後に脳梗塞で死去した。孫とともにディズニーランドに行こうとしていたその日に。

 ディズニー兄弟は「フロリダ計画」がやがてどんな世界をもたらすのかを知り得なかったし、それは未来都市エプコットとは全然違う世界だが、エプコットを夢見たのと同じような前向きさを持つ、子どもたちの世界なのだと思う。

 もしぼくがアナハイムにしろオーランドにしろ、向こうのパークに行くことがあったら、ホテルの予約は本当に気をつけたいところだ。

2018年6月23日

「村上春樹の100曲」装画


 立東舎から刊行された栗原裕一郎さん編の「村上春樹の100曲」の装画を担当しています。前にも告知しましたが、先日ようやく発売となりました。
 自分の装画としては珍しくはっきりした一枚絵となっています。一枚絵の装画に憧れがあったので、形になってうれしいです。今後ももっとこういうワンシーンのようなものが描ければいいなと思っています。
 似顔は、結構難しかったけど、まあまあ似たなと思います。
 描き込まれているレコードジャケットは、いずれも本の中に登場する100曲からの引用です。わかりやすいものからちょっと地味なものまでいろいろチョイスしました。

 村上作品に登場する膨大な音楽について、一曲ずつ解説するという非常に濃厚な内容となっています。ハルキストの方もそうでない方も是非。

引っ越しから一週間

 引っ越して一週間、ようやく落ち着いたのでブログを書く。
 実家を出たときのことを入れればこれで人生四度目の引っ越しになるのだけれど、さすがに回を重ねるごとに荷物が多くなる。夫婦ふたりで生活していればなおさらである。大切なものを手放すのは、一度失敗したので二度としたくないが、できるだけ無駄なものを減らした生活にしていきたい。と、引っ越しが終わったばかりのときは思ったりするんだよね。どうせ増える。

 そういうわけで荷造りがいちばんしんどくて、引っ越し業者がやってきて運び出してくれたときにはほっとしたものだけれど、なんと食器棚の裏側の板に大穴を開けられてしまうというアクシデントが発生。こんなことそうそうないと思うんだが、どうしてこうぼくは間が悪いというか、こういうことばっかり起こるんだろうなあ。あとで修理業者がきて直しますと言われたけれど、分解できるタイプのものではないので無理矢理バラして元に戻すということになりそうだが、綺麗に直るのかねえ。

 こういう技術的なことに関しては、専門業者はすごいものを持っているから信頼できる、というような神話がなんとなくあると思うけど、ぼくは今回の引っ越しで別に日本だからって必ずしも優れてるということはないなと実感した。

 まずこれまで住んでいた部屋の内装工事が杜撰すぎてひどかった。大急ぎで張り替えたらしい壁はぽろぽろ崩れるし、コンセントの差込口のカバーが壁からズレて浮かんでいる状態。こんな適当な仕事あるのかよと思ったものだ。

 それで、新居にきてからもインターネットの配線をいじりにきたひとがどうも間の抜けた感じで頼りなく、おかしいなあおかしいなあとブツブツ言いながら家の中を探し回ったあと、結局最初に調べたプラグのところに目的の配線があった、てな具合で、最終的に出来上がったものはプラグのカバーからびよーんと新しく繋げたコードが伸びているという非常に不安定な絵面になった。

 別にもっと完璧にやれというわけでは決してない。大きな荷物を運んでいればどこかにぶつけてしまうのは当たり前だし、初めて訪れた見ず知らずの他人の家の中で目当てのものがなかなか見つけられないのも人間なら当たり前だ。この前役所の窓口はわりと融通が利くということを書いたけれど、ひとはわりと融通が利くし、わりと適当で、わりと頼りないものなのだ。専門の業者だからって大きな期待や勝手なものを押し付けるのはやめましょう。いや壊したものは弁償してもらうけど。
 そう考えると自分自身ももっと適当なところがあってもいいのか(いいのか?)。

 さて新しい家だけれど、まず明るい。床から天井まで伸びた大きな窓(旧居から持って来たカーテンの丈が全然足りない)からは完全に日が暮れるまで外の光が入り続ける。初めて内見に来た日は曇って雨が降っていたのだけれど、そんな曇天でも照明無しの部屋の中は明るかった。いいことだ。ついでに言えば部屋から月が見える。

 旧居はとにかく窓のない部屋で、午前中をある程度まわってしまうともう全然外の光が入ってこなかった。大きな道路に面しておりしょっちゅうトラックが通っては窓が震え、夜中まで変な灯りがついていて騒々しいところだった。ついでに言えば夜中はよくタクシードライバーが目の前の植え込みに用を足していた。デ・ニーロもびっくりのファンキーさである。

 そんな都会の暗部みたいなものを集約させたような地域から一転、絵に描いたような「閑静な住宅街」に越して来たわけだ。建物の高さに制限があるから空はとても広い。東京と言えど外れの方なので少し歩けば畑ばかりの懐かしい風景。あはははは、4年間ひどいところで我慢しているとこんなにいいこともあるのか。

 そういう「ちゃんとしたところ」ではそれなりに責任が伴うもので、ゴミの分別が非常に厳しいらしい。いや、パンフレットを見た限り普通だったのだけれど、今まで暮らしていたところが緩すぎたのだ。おそらく前のところもそれなりにルールはあったのだけれど、マンションのゴミ捨て場を見る限りほとんどのひとが守っていなかった。ほとんどのひとが守っていないと自分もだらしなくなってしまう弱いぼくである。

 今度からはそうはいかない。きっちりした善良な市民ばかり住んでいるところだろうから(周りの家はどれもまるで車のCMで寒い寸劇の舞台になってそうな新築ばかりだ)、ゴミも綺麗に出さなければならない。

 さっそくお弁当のトレイやレトルトのビニール袋をちゃんと洗って、ビニールと紙が一体になっているような包装は分解して、役所でもらったパンフレットに書いてある通りの形でゴミを出した。お弁当のトレイを流しで洗っているとき、自分がものすごい丁寧なことをやっているという気がして妙な恍惚感が降りて来たものだ。これがちゃんとした生活か。普通のひとのフリはこうやってするのか。

 そうして翌早朝、初めてのゴミを出しに、外にある金属製の大きなゴミ集積ボックスを開けてみると、中には生ゴミとペットボトルがごちゃ混ぜになった袋、毛布を丸めて袋に詰めたもの、はなから袋に入れていないお弁当のトレイ(洗っていない)などが満載だった。
 かくして新居での生活は始まった。

2018年6月8日

役所、黄色いあざ、子どもの名前

子どもの出生届けや引っ越しに関しての手続きで役所に行く。役所に行くときというのはつい身構えてしまうけれど、案外すんなり済むことも多い。出直さなければ駄目かと思って冷や汗をかいたときも、なんだかんだ手を打ってもらえる。役所のひとだって人間なのだ。

 単純な手続きを人工知能がやるようになれば、今のような融通はきかなくなるかもしれない。機械のお役人など、考えただけでゾッとするが、管理という仕事にはもってこいだし、ぼくが知らないだけですでに使われているかも。

 ぼくたちはディストピア的未来を想像するとき、20世紀的な独裁者が支配する世界を思い浮かべるけれど、実際は誰か個人や特定の組織がその意志を持って支配するというよりは、人工知能が管理するゆえに融通がきかなくなった世界というのが、現実的なところじゃないかな。決して人工知能が意志を持って劇的に変わるとかそういうのではなく、もっと自然に、人工知能を使っていたらいつの間にかそうなった、みたいな未来だ。

 なんてことをぼんやり考えていたら、妻がぼくの喉のあたりがやたら黄色いと言った。役所の壁の鏡で見ると確かに喉元から顎の裏あたりまで、戯画化された黄色人種というか、シンプソンズみたいに真っ黄色になっている。これじゃこのブログでも使っているアバターの自画像のようだ。

 黄疸というやつらしいが、黄疸で検索するとガン関連の記事が出てきたりして、額のあたりにさくらももこのキャラクターみたいな縦線がつーっと走って白目になりかけたが、ぼくは先週親知らずを抜いたばかりで、まだ腫れが完全に引いていない状態であることを思い出す。かなり深いところから、砕きながら引っこ抜いたわけだけれど、縫合した跡にはまだ糸が通ったままだ。おそらくはそのあたりに通っていた神経に触れたらしく、はぐきのあたりの感覚が鈍くなった。

 そういう親知らずの抜歯のあとでは、首のあたりに黄疸が出るものらしい。少し喉に違和感があるが、手術したあとが治っている証拠らしい。病気じゃなくてホッとして、なにもかもうまくいきそうなくらい明るい気分になったが、浮き沈みの激しさに妻が呆れた。

 子どもの出生届は受理され、自分で考えた名前の漢字が初めて公的な書類に印字されるのを見て、不思議な気分になった。ジュンパ・ラヒリの小説のように自分の名前が嫌にならなければ、この子は一生をこの名前で過ごすのだ。もちろんゴーゴリのような名前でもなければ、父親のような独特な名前でもないだろうから、別に気にしないと思うが。

『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』(2018)


 白状すると2008年当時は『ダークナイト』に夢中でマーベルのキャラクターなどこれっぽっちも興味がなかったし、バットマン映画のインパクトが大きすぎたので、『アイアンマン』や『インクレディブル・ハルク』もそれに便乗した映画に過ぎないと思っていた(なぜかDVDが出た当時はウィル・スミス主演の『ハンコック』が2本のマーベル映画と抱き合わせになっていたように覚えている。世間としてもそれくらいの認識だったのだろう)。

 あれから10年、まさかこんなに巨大なシリーズに、しかもバットマンが代表するDCコミック映画を軽々と凌駕するようになっているなんて。17歳の自分に教えてやりたいよ。

 三度目の大集合にしてもはや何人いるのか数える気にもなれないくらいに膨れ上がったヒーロー軍団と対峙してもまったく引けを取らないサノス。銀河皇帝も思いつかないようなとんでもないジェノサイドを企んでいるやつなのに、なぜか途中から負けて欲しくない(勝って欲しい、ではない)と思うようになっている自分がいる。手段を選ばない悪い奴、というのはよく言われるものだけれど、手段を選ばないことがどれだけ大変なことかをサノスは体現した。

 ハルクが序盤だけ登場してあとは変身できなくなるところ、ハルクがつねに画面で暴れてたらお話として困るから調整されているのだろうけれど、ブルース・バナーの新たなキャラ性が出ていておもしろい。思春期グルートが不愛想で後ろに隠れちゃってるところなんかも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』の時点で計算してたのかわからないが、そういう作用になっているのかな。うまくできているなあ。
 

2018年6月5日

I am your father !

 かくして無事子どもが生まれた。いわゆるベビーシェマの容赦のないパワーを思い知っている。

 当然ながら現実の出産は『シスの復讐』とは違う。ますますあのシーンが安っぽく感じられる。そもそもガラスの向こうでおじさんたち(しかもひとりはカエル)が見てるのがありえないし(この場合のありえないとは、現実的でない、というのと同時に神経的にありえない)、なんなら立ち会ってるのも旦那でもなんでもないおじさんである。パドメもそりゃストレスで弱ってしまうわけだ。

 子どもが生まれた感想がそれかよと思われてしまうかもしれないが、心境に整理がつかないのだ。これから少しずつ書いていこうと思う。

 ただ、永久に続くかのように感じられた長い時間、そしてもっと長い時間を体感したであろう妻の強さ、ついに覆いの向こうからにゅっと現れたその赤紫色の顔を見た途端、あ!と思わず声が出たことは忘れないだろうな。