2015年6月15日

「私が宇宙旅行について思うこと」



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 私の友人は皆宇宙旅行が大好きだ。
 ちょっと近所のドラッグ・ストアに行くような気軽さで種子島の宇宙港から、あるいはアメリカ経由でケネディ・スペース・ポートから飛び立ち、休暇を月面や火星で過ごす。そうして帰ってきたら旅先で撮影した写真を次から次へとコミュニティ・ネットにアップロードして知人に見せる。私はそうした写真を見てげんなりする。どの写真にも私の姿は無い。どうして私は彼らのような気軽さで宇宙旅行に出かけることができないのか。
 お金も時間も無いわけではない。実際私の友人たちは皆私と変わらない月給で生活している。それでもあれこれとお金を工面して、うまいこと資金をつくって宇宙旅行に出かけるのだ。一体どうやってやってるのかわからないが、私が買っている物を彼らは買わないようにしているのかもしれない。お金の使い方は人それぞれだ。彼らは少しでも憂鬱な気分に落ち込んだりすると、すぐ宇宙旅行に出かける。地球上のどんなリゾート地より、宇宙旅行が彼らにエネルギーをもたらす。月のパワーのせいだろうか。いずれにせよ彼らは快活な様子で地球に戻って来て、再び仕事に戻っていく。
「火星には地球のような息苦しさはないよ。そりゃ外に酸素は無いけどさ。でも、コロニーの中は本当に解放的で過ごしやすいんだよ」
「文化的な生活がしたけりゃ火星に行くことさ」
「宇宙に出ると世界が変わるよ」
「月面のショッピング・ステーションはお金がいくらあっても足りないわ」
「月では誰もが仲良くしてるんです」
「地球での国籍なんて無いも同然よ」
「いやあ、宇宙は”呼ばれた”人間じゃないと行けないもんだねえ」
「オーガニックなら火星が一番ね」
 以上、私の友人たちのありがたい発言の一部。流行に敏感で、外の世界に対して飽くなき好奇心を抱き続ける彼らの言葉は、いつだって私の考えの先を行き、常に前に歩き続けることをやめない。私は彼らに憧れると同時に、苛立ちを覚えたりもする。
 会社の帰りに書店に立ち寄って旅行コーナーを物色する。国内旅行、海外旅行、それから今流行りの宇宙旅行のガイドブックが特設コーナーに並ぶ。スペース・シャトルでの旅費はどんどん安くなっていく一方だった。旅行代理店はどんどん安いプランを組み続ける。本当にそんな金額で大気圏の外に出て行って大丈夫だろうかと、少し心配になるくらい。けれど皆は大喜びだ。ガイドブックを買い、インターネットでスポットを調べて、外宇宙滞在の注意事項を確認し、はしゃいで荷造りをする。月に持っていった方が良い物はなんだろうか。滞在中に無いと困る物はなんだろうか、などと考えながら荷物のリストを作成する。そこからすでに彼らは輝いている。
 私はなにも旅行が嫌いだったり苦手だったりということはない。むしろ好きだ。これでも国内外の旅行は何度も行っている。国内旅行はのんびりと行けるし、海外旅行はほんの少し不安と隣り合わせになりながらも、それでも自分の家の周りにはない風景や文化に新鮮味を感じて、大きな遊園地に行っているような気分になれる。地球での旅行なら、私も随分慣れたものだ。以前はやはり国内外旅行に対しても、私は腰が重かった。別に行きたくないわけでもなかったが、うーむ。やはり気軽さが持てなかったのだ。
 やっと世界を旅行できるようになった私だが、流行はいつも私の先を行く。私が初めてニューヨークのタイムズ・スクエアに足を運び光と広告のパレードをぼうっと眺めている頃には、友人たちは月面に建設されたテーマパークで遊びながら地球そのものを景色の一部として見上げながらはしゃいでいた。それはまさにウォルト・ディズニーの夢の実現だったろうけれど、私はまたしても置いていかれた気分だった。いつでも私がいる世界は皆にとってちっぽけなのだ。
 どんな気分だろうか。スペース・シャトルの丸みを帯びた窓から地球を見下ろす気分は。初めて外から眺める我が家は、どんなふうに見えるのだろう。やはり、地球を外から見るという体験は、自分のものの考え方に大きな影響をおよぼすだろうか。かつて私が海外にすら行ったことがない頃、よく友人たちは海外旅行をすると自分の世界が変わると言っていた。私は彼らが旅行の前後でどう変わったのかよくわからなかったが、本人たちとしては劇的な精神的変化を遂げていたらしい。そして今、宇宙旅行に行く彼らは同じ言葉を繰り返す。地球を外から見るとどんな悩みも吹っ飛ぶよ。
 ガイドブックが月面でのホットなスポットを紹介している。地球の宇宙港と結ばれているルナ・スペース・ポートを中心に商業施設が広がっている。中でもフォン・ブラウン・モールは超巨大ショッピング・モールで、月面での生活に欠かせないグッズはもちろん、地球に出回らない商品も多く揃えられている。月面限定のブランドものに皆目がない。そして極めつけはやはりディズニーランド・ルナだろう。月旅行者なら誰もが必ず訪れる文字通りの未来都市。月面コロニーの経済発展を象徴するかのような場所となっている。
 もちろん私だって行ってみたい。日本のディズニーランドですらあれだけ楽しめるのだ、月面版はもうなにがなんだかわからないくらいハイになれることだろう。他にもガイドブックをめくればめくるほど、フルカラーの写真で紹介されている月面施設の数々は私の好奇心を刺激した。そこには宇宙旅行において恐れられている危険はこれっぽちっも感じられない。宇宙の底知れぬ暗さなども無い。月面都市はこれでもかと眩い光で照らされており、今では地球から満月を見上げるとその灯りが見えるくらいである。月の明るさが変わってしまったのだ。
 夜空は宇宙旅行を楽しむ人達によって照らされているようなものだ。彼らが宿泊する月面ホテルの無数の窓から漏れる灯りや、彼らが遊ぶ遊園地が、カジノが、その他様々なエンターテインメントによって生み出される光が地球を照らすのだ。宇宙旅行に行けない人々、行かない人々はその光の下で夕食を食べ、地球の裏側で今なお続いている紛争の様子をテレビで観て憂鬱になり、ベッドに潜って眠りにつく。
 私はもはや我慢ならない。私が未だ宇宙旅行の経験していないという事実に。このまま外の世界を知らずに一生を終えてしまうのだろうか。かつて海外旅行をしたことのなかった頃にもこの不安があった。一生小さな自分の国の中で、保守的で未だに古い考え方に縛られた哀れな母国を出ることなく一生を過ごすのか。解放的な気分で海外旅行をせずに人生を終えるのか。そういった不安が一気にこみ上げてきたことがある。外に出たい。閉じ込められている気分だ。誰でもいい、私をここから連れ出して。ここでないところならどこでもいい。そのとき私は急にいてもたってもいられなくなり、一番近くにある外国のガイドブックを買ったのだった。海外旅行のガイドブックを買ったのも読むのも初めてだった。だが買って読むだけでどこかほっとした。私は外に出るための努力をしている。私は自分からアクションを起こしたのだ、と。あとは簡単だった。ガイドブックに書いてあることを実践するだけ。どこに行ってなにを見れば海外旅行をしたことになるのか、それが一通り書いてある。親切なことだ。私は諸々の手続きを済ませて生まれて初めてパスポートを取得すると、仕事のスケジュールを調整して航空機のチケットを取って宿泊先を予約した。高校時代の修学旅行以来になる飛行機への搭乗だった。あのときのフライトは飛行機が空港を飛び立ってちょっと旋回して少し飛んだらすぐ目的地の空港に着いてしまったから拍子抜けしたものだ。でもそのときは違った。うたたねを何度繰り返してもまだ飛行機は飛んでいる。私がこの年齢まで暮らしてきた、一歩も出たことのなかった国がどんどん遠ざかって小さくなっていった。私は海外に出た。海の外である。その先には途方もないほどの世界が続いているはずだった。こうして私は初めての海外旅行を敢行した。敢行もなにも、最初から私の前に障壁などなかった。ただ私だけが私の行く手を阻んでいたように思えた。
 そして今私は未だ行ったことのない宇宙旅行を前に、かつて海外旅行に抱いていたのと同じ感情を抱いている。またしても発作的な不安が襲いかかってきたのだ。私はこのままこの地球という、大宇宙においてはほとんど無意味といってもいいほど小さな星から一歩も出ることなく死ぬのか。自分の生まれ育った惑星を外から見ることなく?冗談ではない。息が詰まりそうだ(地球にはこれだけ酸素があるのにも関わらず、だ!)。
 私の世界はかつて自分の国だけだった。そして海外旅行ができるようになって私の世界は広くなったはずだった。それが今、世界はさらに広がり、私がいくらあがいたところで私の世界はどんどん小さくなっていく。私の世界が広くなることは一向にない。まるで世界の方に嘲笑されているような気分。お前はどうやったってちっぽけなのだと宣告されているような気分だ。
 そこでさらなる不安と恐怖がやってきた。かりに私がスペース・シャトルのチケットを取って、月面に行ったとしよう。さぞ楽しいだろう。これで私も宇宙旅行好きの仲間入りだ。だが、そのあとは?世界は月と火星で終わってくれるのか?そのあとさらに世界は広がるはずだ。宇宙は人間の想像が追いつけないほど、本当に途方もなく広がっているのだから。ほとんど無限といえるその空間に一体どれだけの惑星があることだろう。今後人類は火星より先にある星にも植民地を築くのではないか。こうしている間にもアメリカは外宇宙に向けて探査機を送り続けて調査を進めている。より多くの惑星に人類が居住可能な施設が建設されるだろう。もちろん新しいリゾート地も開拓される。惑星でなくたっていい、コロニーとして使用できる巨大な宇宙ステーションだって建造できるはずだ。そうなればもはや世界の広がりは留まるところを知らない。無限に広がっていくことだろう。私が気軽に月や火星に行けるようになる頃には、友達は皆ナントカカントカ言う新しく発見された惑星に旅行しに行っているだろう。別の太陽系すら旅行し、未知の文明と接触して自分の世界を無限に広げていくことだろう
 とても私はそれに追いつくことができない。どこまでもどこまでも広がっていく世界の最前線に追いつけない。追いついたと思ったらまた置いていかれている。そのたびに私は今のような、不安や閉塞感、無力感に襲われるのだ。私はやはり、友人たちの旅行写真をただ見せられる側の人間なのだろうか。彼らの土産話というか、ほとんど自慢としか思えない話を延々聞かされて、行ったことのある人にしかわからない感動を下手な言葉で表現されて、彼らが望むような相槌を打ち続けなければならないのだろうか。
 皆一体どこまで行くのだろうか。私の世界は、私という人間はどこまで小さい存在なのだろう。
 そして私が見落としていること、大変重要なのは、皆はきっと不安に駆られて旅行に行っているのではないということだ。好奇心に駆られて、行きたいから行くのだ。では私はどうして不安を抱いてしまっているのだろうか。行きたけりゃ行けばいいのに。ただ、この行きたいという気持ちも、やはり一番奥底にある動機が不安から来ているような気がする。
 結局、今の私に出来ることと言えば、書店で買った月面ガイドブックを熟読して自分が宇宙旅行をしている姿を簡単に想像できるようにしておくことくらいだ。そのうち、初めて海外旅行をしたときと同様にふとした瞬間に行く気になって、あっという間に私はロケットの中だ。そしたらもう私は毎週末だって月世界旅行を出来るようになるはずだ。私は初めて自分の国の一番端まで出かけたときのことや、初めて外国に旅したときの、その旅行をしようと思って準備をしたときの気持ちの高ぶりを忘れていない。実際に旅行をしている最中よりもずっと感動したはずだ。自分が初めての世界に出かけようとしていることに。私にとって重要なのはあのときの感動ではないか。
 世界が無限の広がりを見せる一方で、私がそこに行くまでは私の中でそこは存在していないも同じなのだ。人類が銀河系規模のネットワークを築く頃になっても、私が銀河中を旅していなければまだ私にとって銀河系は存在していない。大きく広がっていく世界が重要なのではなく、私がそこに出かけていくことが重要だ。友達の誰かがどこそこに行ったということもまた重要ではない。私がそこに行くことが重要なのだ。そしてなにより、私は人に言われたからそこに行くのではなく、自分で行ってみたいと思ったときに、そこに行かなければいけない。
 今日はもう寝よう。私はガイドブックを閉じてベッド脇のサイドテーブルに置いた。部屋の照明を落として暗闇の中を見つめる。宇宙はこの部屋より暗いだろう。底の見えない暗さだ。いつだったか、旅行で古いお城の庭にあった古井戸を覗いたときを思い出す。あれよりも暗いのだろう。目を閉じる。私は自分がスペース・シャトルに乗り込んで大気圏外に出て行く様を想像した。スペース・シャトルの中では映画を観られる。やはりSF映画が多いだろうか。シャトルの船内はスタンリー・キューブリックの映画に出てきたようなデザインだろうか。機内食はどんなだろう。シャトルがルナ・ポートに到着する。ガイドブックには月面の施設は全て大気シールドで覆われていて、宇宙服無しで地球の地上と変わらない生活をおくることができると書いてあった。シャトルのタラップを降りたら大きく深呼吸して月の空気を味わおう。まずどこからどうやってまわっていけばいいだろう。きっとスペース・ポートにはタクシーやバスが待っているはずだ。乗り込んでホテルの名を告げればドライバー・ロボットが温かみの無い声で生返事をして連れていってくれるはず。私はもう月旅行者だ。私の中のワールド・マップが月にまで広がって、そこが私にとって最も遠い場所となる。
 私の世界は私に合わせて広がっていく。
 私の世界は私にとってちょうどいいのだ。

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