生きた動物への憧れや、電気仕掛けの模造動物の描写のほかにも、映画にはなかったマーサー教という要素がおもしろかった。人間とアンドロイドの区別に用いられる共感能力が、この未来の宗教によって強調されて興味深いのだけれど、非常に精神的な描写なので映画では割愛されてよかったと思う。
動物の描写で虚しくなるのは、なんといってもイジドア君(映画におけるセバスチャン)が衰弱して死にそうな電気猫を修理しようとするシーン。電池ボックスだか機構部だかの蓋を開けようと毛皮の中を探るもなかなか見つからず、ぐずぐずしているうちに猫は絶命してしまう。そう、猫は本物だったのだ。それでもイジドアはそれをよく出来ている高級の模造品だと思い込む。イジドアの少し抜けた感じももどかしいのだけれど、それでも彼に少し同情を覚え、とにかく猫がかわいそう。
人間とアンドロイドの違い、境界が曖昧になり、自分たちの存在に自信が持てなくなるというのがこのお話の肝なのだけれど、動物と模造動物の境目もここまで来るとあやふやになってくる。本物そっくりで、その必要もないのにリアルさのためにわざわざ病気で苦しんだりして見せる電気動物を、本物同様にかわいがったり、ご近所に本物を飼っているように見せかけたり、あるいはそもそも模造だと知らずに、本物の動物だと思って飼っていたり。その一方でイジドアみたいにどうせ全部模造だろうという前提で動物と接している者もいたりする。
人間とは何か、なにをもって人間なのかという疑問の前に、生き物とは、生命とは何か、みたいな問いもあるように思える。