2019/05/30

ワープ

 出来事を書き出そうと思ったが実際に起こったイベントはどうしても個人的事情が関わるし、ディティールをどこまで書き出すかを考えている時間が惜しいので、まあ書けそうになったときにしよう。時系列は気にしなくていいはずだ。それでも主な出来事を書き留めるのであれば、子どもを連れて初めて帰省をしたのだった。高速バスに乗っているときの体感時間はどんどん短くなってしまい、今度のが一番短かった。大都会の真ん中からトンネルに潜り、途中何回か外に出るものの、あっというまに景色は緑の中になってしまう。高速道路に乗るにしても、もっとこう街並みを間近で見ながら、少しずつ建物の種類が変わっていき、臨海地域に移り、建物の数が減っていき、みたいな移り変わりをぼんやり眺めたいのだが、感覚ではほとんどトンネルだった。さらにぼくはその小旅行のために徹夜で仕事を片付けていたので、バスが動き出して少ししたら寝てしまった。最初のトンネルに入ったあたりで寝ている。すると次に目を開けたら山の中である。これではワープのようなものだ。早いのはいいけど。

 地元のほうは相変わらずで、前よりも田畑を覆い隠すソーラー・パネルが増えたように思えた。両親が宿を取ってくれたので、実家よりもずっと綺麗なところでのんびり過ごす。大雨だったけれど、かえってゆっくりできた。小さい頃から遊びに行っていたレストランホテルだけれど、思えば『トイ・ストーリー』を初めて観たのも、レゴの大きなセットを目の当たりにしたのもその家でだった。いろいろと思い出すことがあった。そうでなくとも、最近思い出すことが多い。夜にチキンを食べ、朝には分厚いトーストにベーコンとスクランブルエッグを食べた。大雨の去った朝はよく晴れていて、親子三人で海辺を歩いた。ばあばにも会えたし、ひ孫の顔を見せることもできた。なにか綿々としたものを感じる。自分に子どもができたとは言え、ぼくも子であり孫のままなのだなあ。老人ホームというものには初めて行った。老人というのもいろいろらしい。

2019/05/29

「山と渓谷」6月号



 「山と渓谷」6月号(山と渓谷社)にて、立山黒部アルペンルートのイラストを見開きで描いています。富山はちょっとしか行ったことがないけれど、ああいう大きな山脈を見ると、太平洋側の呑気な地域で育った自分が見てきた山は、かわいらしい丘みたいなものに思える。本当に大きな山のある地域で夕焼けを見たとき、黒々とした大きな山が壁のように聳えていてどこか恐ろしい感じだったのを覚えている。まだ空は赤いのに、ふもとの道路はもう真っ暗で、車はヘッドライトを照らしていた。結構衝撃的な風景だった。

 大きな山のせいで日の光が半日しか入ってこない村で、みんなで問題の山の土を運び出して低くして、日照時間を伸ばすという絵本があったなあ。子どもの頃はそんな山あるかいなと思ったものだが、ああいう風景を見るとそういう話が切実に思えるし、山の大きなシルエットにただならぬ気配を感じて畏怖を抱くのも不思議なことではない。

2019/05/26

ボバ・フェットのヘルメット完成


 去年の年末から取り組んでいた(というか年末年始で終わらせるつもりだった)手製のボバ・フェットのヘルメットがついに完成。リアルに近い造形をがんばって再現するつもりだったけれど、造形力に限界がありこだわっていたらきりがなく他のことに手がつかず生活に支障をきたすので、ほどよく平面な、イラスト的なもの、あるいは子どもの工作的なものに転換。こっちのほうがぼくには合っていた。


 寸胴というか、円柱状にしたのは作るのが簡単だからだが、着想は『ホリデー・スペシャル』とか『ドロイドの冒険』などのアニメ版のタッチから得た。そちらでは顔や側面のモールドも平らなので真似しやすい。描き込みは最低限にしておいた。


 頭の黄色い模様はキルマークと呼ばれていて、どうやら殺したひとの数らしい。しかし公式の設定かどうかよくわからない。獲物(賞金首)の数かとも思ったが、ボバほどのハンターにしてはちょっと少ない気がするので、その中でも特に殺めた数、みたいなことなのかなあ。なによりこのマークの数が『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』で違っていたりするのがまたややこしい。単純にハン・ソロを捕らえたから増えた、ということならこれはやはりキルじゃなくてハントした数ということにもなる。冷凍ソロ争奪戦でライバルを殺しているとかいう解釈もできるが……。



 前も書いたように頭頂部と後頭部とで色が若干異なる、のを再現してみた。しかしこういう微妙な色分けを再現しようと思ったばっかりに、全体の緑色のテイストで非常に悩んだ。後頭部が頭頂部より濃くなければならないとすると、頭頂部は自然少し明るめの色のほうがいいということになるが、明るすぎるとちょっと雰囲気が違って見える。元来絵の具を調合するのが下手なので、思うような色が作れず困った。映画もシーンごとに若干色味が違って見えるし(照明の問題もあるが、そもそも衣装がいくつかあって、同じ作品内でも別物のときがある)、コスプレ衣装として定番のカラーはあるが、別にそれに忠実にしたいわけでもない。あくまでイラストの色のような雰囲気にしたい。そうなると数多あるボバ・フェット玩具の色味などを参考にするのだが、これが本当に星の数ほどあって、一時頭がおかしくなりそうだった。黄色が強めの緑なのか、青が強めの緑なのか、暗いのか明るいのか。強めのアレンジを加えてもよかったが、元がデフォルメチックなだけに外し過ぎると全然ボバに見えなくなりそうなのが怖かった。ちなみにぼくはオリジナルのマンダロリアン戦士の格好とかは全然興味なくて、したいと思わない。あくまでボバ・フェットがいいのであって、オリジナルの戦士とかになると、たとえ顔だけボバのそれと同じでも、それはもうSWでもなんでもないような気がする。アニメ版の造形を参考にしたのでアニメ版の色彩も合いそうだったけれど、おそらく王道の色のボバを一度作らないと満足できなさそうだったので、変わり種は次の機会ということで。
 

 というわけで完成して満足。ヴェイダーやトルーパーもいいが、やはり一番好きなヘルメットはボバ・フェットである。この新しいUTの絵はアニメ『ドロイドの冒険』のボバ。アニメ配色もいつか試してみたい。首から下も作るかどうかわからないけど、できたらやる。そしてまた、ガントレットを緑にするか赤にするかで悩むんだろうな。工作は楽しい。

2019/05/25

ディズニーウェディングに行く


 これは5月の連休より前、4月末のことだったんだけど、中学時代の同級生の結婚式に行った。ディズニーランドのアンバサダーホテルである。ディズニーウェディングに参列することもそうそうなさそうなので貴重だった。プロフィールビデオで生い立ちが説明される中、中学時代だけすっぽり抜け落ちているのが可笑しかった。これはしょうがない。いやあ、お互いよく生き残った。



 普通にパークに行ったときにはまず見ない光景なんだけど、一度に4体揃うとなかなかの迫力。というか強烈だった。ぼくは着ぐるみのミッキーに(恐怖で)大泣きしたタイプの子どもだったけど、まじまじと見ていてわかったことがひとつ。鼻面が前に勢いよく飛び出しているのが、その独特の迫力の一因ではないかと思う。ましてや先端恐怖症的にはおっかないものがある。ドナルドの方も飛び出してはいるのだが、鼻に比べれば平らで優しい感じ。

2019/05/12

『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)


 真っ先に浮かぶ感想としては、「すごいものを観た」。非常に長尺であるということは事前に聞いていて、ちょっとよくわからない脅し文句が並んでいるのも目にしてはいたが(トイレに立たないため前の晩から食事をとるなとか)、楽しい映画なら3時間などあっという間だった。逆に退屈な映画なら本編90分でも苦痛である。自分でも驚いたが、3時間飲み物もなしによく集中したと思う。自宅にいるときは30分に一度くらいにコーヒーだの白湯だの入れているが、集中していれば必要ないんだな。

 というわけで内容に触れないわけにはいかないので以下スポイラー・アラート。ブログ・トップ画面で表示される冒頭文章に本題が入らないように稼いだのだ。

 前作『インフィニティ・ウォー』で全宇宙の生命の半分を消滅させたサノスの所業をどうやって帳消しにし、消されたひとたちを元に戻すのか、というのが一番注目されていたところだが、その鍵はアントマンと、彼が脱出してきた量子世界にあった。アントマンは『アントマン&ワスプ』のラストで量子世界に閉じ込められてしまうのだが(量子トンネルの外で彼を呼び戻すはずだった仲間がサノスに消されてしまったから)、5年経って偶然にも脱出を果たす。しかし、彼が向こうで体感していた時間は非常に短く、時間の流れ方が外の世界とは異なっていた。量子トンネルを応用すれば時間を遡ることができ、サノスの企みを阻止することもできるのではないか。こうして悲劇から5年、アベンジャーズは再び力を合わせて最後の大勝負に出るわけだ。アントマンが大きな役割を果たしたのがなかなかうれしかった。

 時間を遡ってどうするのかといえば、赤ん坊のサノスを殺すわけではなく(この作戦はぼくも以前思いつき友達に話すも「とてもヒーローのやることではない」と一蹴されたのだが、劇中でウォーマシンことローディが同じことを提案していた可笑しかった)、かつて各地に散らばっていたインフィニティ・ストーン(サノスが使ったパワーの源であり、これまでの作品にキーアイテムとして登場してきた)を、サノスが収集する前の時点から集めて現代に戻り、消えた人々を呼び戻すのだという。そういうわけで、これまで各ストーンが登場した作品の場面へと、ヒーロー達がタイムスリップするのだが、これがちょっとした懐かしの場面集とその裏側といった感じで、2012年に飛ぶと、一作目『アベンジャーズ』での戦いの最中にあるニューヨーク、2013年は『マイティ・ソー:ダークワールド』のアスガルド、2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』における惑星モラグに行くと、ピーター・クイルがヘッドフォンでレッドボーンを聴きながら踊っているのが見える、といった具合。ストーリー上自然に今までの冒険の一部を思い返すことができるくだりで良かったし、単に観たことある場面ではなく、その裏側や、違う視点が描かれるのがおもしろかった。

 すっかり和解したトニー(アイアンマン)とスティーブ(キャプテン・アメリカ)は、さらに1970年に飛び、アメリカ軍基地(シールド施設でもある)に保管されていた四次元キューブを回収しようとするが、トニーはそこで亡き父ハワードと遭遇する。正体を隠して父親と話を合わせるトニーに、ハワードはもうすぐ息子が生まれるが父親になることをどう受け止めていいかわからない旨を告白する。その当の息子であるトニーにも、今や娘がいた。彼はこのアベンジャーズの反撃に加わることを最後まで渋っていたのだが、それは彼がこの5年の間に家庭を築いていたからだった。再び失敗すれば今ある幸福さえも失ってしまうのではないかという恐怖を、彼は娘の寝顔から感じていたのだ。だからアベンジャーズが現代の時点から人々を復活させようとしたのは、5年間に起こったことを変えないためでもあった。全て無かったことにするには、5年間は長すぎた。トニーの娘モーガンのように新たに生まれてきた命はもちろんだが、その間強く生きてきた人々の時間さえも否定してしまうからではないかと、ぼくなどは思う。

 常に良好な関係ではなかったトニーとハワードだが、トニーはようやくハワードと同じく父親になり、同じ感情を共有するに至った。今までぼくはトニー・スターク、アイアンマンにあまり感情移入してこなかったけれど、今やぼくも父親である。そしてトニーと同じく娘がいる。それだけで十分だ。トニーとモーガンの父娘はもちろん、トニーとハワードの会話には熱いものを感じる。最初から親だったひとなどおらず、子どもが生まれてもなかなかその実感や自覚は持てないかもしれない。よい親とはなにか、親らしさとはなにかも、恐らく正解はない。ただ、ふたりのスタークのように探り探りで親に「なろうとし続ける」しかないのだろうと思う。

 思えば最初の『アベンジャーズ』を観た2012年の夏というのは、非常に惨めな時期だった。仕事は無くほとんど無一文で、なけなしのお金で映画を観たのを覚えている。そこまで興味があったわけではないのに、ましてや『アイアンマン』1と2しか観ていないような状態だったのに、なぜか突き動かされるように観に行った覚えがある。大方ネットで話題だったからだろうと思うけれど、話題だからといって無いお金を出してまで観る人間ではないことはわかってもらえるだろう。とにかく余裕のない頃で、その日の食事も取れるかどうか微妙な有様だった。それでも、この映画は観たい、と強く感じたのだろうと思う。それから7年が経とうとしている。とても余裕に満ち溢れているわけではないにせよ、一応人並みに生活をしている。7年前はお金も無い上にとても孤独だったが、今では結婚して子どももいる。雲の上の存在だった人たちが家に遊びに来てくれるようになった。友達もいる。怖がる必要のない本物の友達だ。

 遠くに来たような気もするが、ぼく自身はずっと同じところにいるような気もする。変わらずに夢中になれるものがある一方で、いつまでも思い出しては嫌な気分になることもある。つまりはいろいろあったわけだけれど、その年月で、自分も父親になったということが、繰り返しになるけれどトニー・スタークと重なるようだ。2008年から観てきたわけではないが、途中からでもリアルタイムで体験できて良かった。見届けられたという満足感でいっぱいだ。アイアンマンに始まり、アイアンマンに終わったところも綺麗だと思う。10年よくやってくれた。あなたはアイアンマンだ。そして、親になってから観るアベンジャーズは熱い。ぼくにもハートがある。

 トニー・スタークはともかく、たくさんキャラクターが登場するので、前からのお気に入りキャラクターが顔を出すと、まるで大勢の中に知った顔を見つけたときのようなうれしさを感じる(なんだそこにいたのか!)。お気に入りの作品、お気に入りのキャラクターは人それぞれあるだろうけれど、ぼくの場合それはスター・ロードやアントマンだった。ユーモラスなキャラクターは友達感が強い。今回スター・ロードの出番はあまり多くないけれど、復活して再登場したときはやはりうれしかった。今回はちょっとトホホな役回りだったなあ。前述のようにアントマンのテクノロジーがみんなの役に立つのもうれしかったし、ネビュラのキャラクターが深くなっていくのも良かった。カレン・ギランみたいなひとは好みだな。お気に入りのひとたちを含めて全員集結してアッセンブルするクライマックスは言うことなし。好きなキャラクターはこれからもどんどん描いていきたい。

2019/05/09

スター・ウォーズの日イベント

 まあ思った通り、連休中やろうと思ってたこと全部はできなかったけれど、もともと立てていた予定は楽しく過ごせたし、ゆっくり過ごせたのでよかった。『アベンジャーズ:エンドゲーム』を観たので、ずっとそのことを考えたりした。遠くから来てくれた友達を案内もできた。ちょうど5月4日でスター・ウォーズの日だったので、六本木のJ-WEVE主催イベントを覗いた。夏日のような暑さで混み合っていたけれど、雰囲気だけ楽しんだ。キッズがたくさん来ていたのが印象的。まだまだ子どもは好きらしい。親の影響もありそうだが。


 去年のコミコンのときからコスプレと写真撮る習慣ができた。天気がいいのでキャプテン・ファズマは遠くからでもかなり目立っていたけれど、近くで見るとダクトテープ大活躍のコスチュームで、そういえば自分も『フォースの覚醒』公開時に作ったヘルメットはダクトテープで仕上げたなあなんて思い出した(結局不恰好になったので処分した)。また作るならやっぱりダクトテープだな。ほかのキャラクターにも使えそうだ。アントマンとか。ただ、ダクトテープは表面が柔らかいので、爪を立てたりすると跡がそのまま残る。傷だらけというのもいいかもね。


 去年のコミコンでも撮ってもらったドラマ『マンダロリアン』のガンファイター。あれからいろいろ新情報が出たけれど、それでもその完成度が色褪せることは全然ない。調べればいろいろな資料が手に入る時代だけれど、少ない情報で絵とか衣装を作るのはやはりセンスが試されるのだろうなあ。一作目公開当時のコスプレなんかも、資料が少ないぶん適当なひともいれば、だからこそ気合いの入っているひとが結構いたということが、残ってる写真からもわかる。そういえば、去年このひとを見て自分もボバ・フェットを出来に関わらず一回作ってみようという気になったのだけれど、この連休が始まる頃についにヘルメットが完成した。運ぶ方法がちょっと用意できていなかったので、このイベントでは断念したけれど、持って来れたらよかったろうなあ。いずれ被っていろんなひとと撮りたい。

2019/05/03

時間はあまりに茫漠なので

 改元が決まった頃にも書いたけれど、これでとうとう生まれ育った年代が終わったわけである。もうとっくに平成生まれということで珍しがられることもなくなったけれど(90年代生まれも同様)、これからは、かつて自分が子どもの頃大人たちに抱いていたような遠さみたいなものを、自分の中にも持っていくことになるんだろうな。もちろんこれは、元号の関係ない文化圏でも同じことで、だいたい10年ごとに区切られた年代の中でひとは大人になったり年寄りになったり、お子様扱いされたり、懐かしんだりする。なんにしても、こういうタイミングで子どもが生まれて親になったというのは、ある種の巡り合わせだろうと思う。娘自身にしたって、旧時代の超末期に生まれて、これから先元号と同じ調子で年を重ねていくことになる。もしかすると、後々になって父親と同じ元号なんて嫌がるかもしれないけれど。でも、元年に1歳は覚えやすいよ。

 時間そのものが人工的なものかどうかはさておき(このあたりのことは詳しくない。惑星や恒星の動きが時間をもたらしているのであれば、宇宙自体が時間を生んでいると言えるだろうし)、しかしこうして時間というものを、キリストが生まれてから100年ごと、その内の10年ごと、あるいは君主在位期間で区切って時代を定義しようというのは、意味のないことではないと思う。いろいろな区分があってややこしいこともあるけれど、しかしそれだけ時間の流れには視点やバリエーションがあるということで、たとえばアベンジャーズの新作を観ている3時間ならあっという間だが、田舎でバスを待っている1時間は半日くらいに思えたり、いやそれはちょっと違うが、まあとにかく自分の中でも人生がいろいろな時期に分けられるのである。そうでなければ時間とはあまりにも茫漠で捉えどころがなく、いつなにが起こったか思い出すこともできないだろう。ちなみにぼくは現代史を考えるときにやっぱりスター・ウォーズ1作目公開の1977年を起点にしがちである。1977年よりあとか前かで頭に印象付けているところがある。つまりはそういうことだ。

「世界のへんな肉」(白石あづさ著/新潮文庫)装画


 白石あづささんの「世界のへんな肉」(新潮文庫)の装画を担当しました。世界各地でいろいろな動物(あまりこちらでは食用のイメージがないものが主)を食べてきた記録で、旅行記としても読むことができます。ぼくはジビエとかは好きですね。

「HAIRMODE」6月号



 女性モード社の「HAIRMODE」でのヴィンテージTシャツ紹介コーナーの挿絵。6月号のテーマは「大学」で、カレッジTシャツが紹介されています。キャンパスの芝生に、学生でないカップルが遊びに来ている図。

 


 そういえば5月号を紹介しそびれていた。テーマは「70年代ロック」でした。ライブハウスに来ているカップルの図。ライブハウスというのをよく知らないので結構調べたけれど、雰囲気出ているだろうか。いつか行くこともあるだろうか。

「SPUR」6月号



 「SPUR」6月号の映画レビュー連載では、5月17日公開の『アメリカン・アニマルズ』を紹介しています。00年代に実際に起きた大学生たちによる希少本強奪事件を描く。白昼堂々図書館の展示室に強盗に入るという無謀な犯行もインパクトがあるが、学生たちの稚拙な動機や計画が形作られていくところがメインでもある。途中で事件を起こした本人たちの証言も挟まれ、時折4人それぞれの記憶が食い違ったりもするのもおもしろく、事件がどんどん伝説みたいになってくる。彼らの人生がいっときの出来心(というからには結構用意があったわけだが)でいかに狂ったかも語られる。ぼくはどうも自分が子どもの頃、十分にどう過ごしていたかを思い出せる年代に起こったこと、あるいはその頃を描いた映画とかに弱いんだなあ。

「婦人公論」5/14号



 ぼやっとしていたらあっという間に改元してしまったけれど、とりあえず溜まっている告知から。「婦人公論」5/14号のジェーン・スーさん連載挿絵。ファム・ファタルというのは魔性の女といったような意味で、本人になにか自覚があるわけではないけれど、どうも異性たちが絡んでくるというスーさんのお友達のお話。時折SNS上でコンタクトを取られるもののそれ以上のことはなにもなく、それ以上は踏み込んでこないということで、一方的に額装されて遠巻きに気にされているようなイメージに。