2018/10/29

『search/サーチ』(2018)


 パソコンの画面だけでこんなに緊迫感が出るのかと驚く。大きなスクリーンで観るPC画面というのもなかなか新鮮だけれど、ずっと観ているとそんなことは忘れて、気付けば主人公と一緒に画面の中に手がかりを探している。車で移動するシーンをグーグル・マップで表現したりするのがおもしろい。エンジン音とともに矢印が黄色い線の上で動いていくだけの画なんだけど、早く、早く行かないと、という焦りが伝わってくるからすごい。PC画面だけなので、人物の表情や会話は内臓カメラによるフェイスタイムや配信動画で演出されるわけだけれど、実際も皆あんなにフェイスタイム使うのかな。ぼくはどうもあれが苦手で、なんで嫌になったかというと、なんの断りもなく一方的にあれで通話をかけてくるひとが多かったから。この映画の中のように普及・浸透していれば問題ないだろうけれど、全員が全員同じように使ってないものはもうちょっと考えて欲しいものだ。別に部屋が見られるのが嫌とかはないんだけど(見られるつったって、パソコンに向かっている自分の背後しか映らないし、背後は壁だ)、なんとなく部屋で気抜いてる顔を見られたくないというか。いや、外でだってわりと抜けた顔しているんだけど、なんかこうね。多分当たり前のようにあれで電話してくるひとが気に食わなかったんだろうな。顔にチックが出るから、相手に顔を注視されたくないんだろう。同じ理由で自分を映す動画配信とかも、興味なくはないが自分でやるには抵抗がある(話すことがあるかどうかは置いておいて)。でも、ティーンズには当たり前の発信方法なんだろうなあ。とは言え、主人公の娘マーゴットが初めてパソコンのアカウントを作る2000年代半ばというのは、ぼく自身がインターネットに触り始めた時期でもあったので、マーゴットの成長とともに移り変わっていくパソコン画面の変化とかは、親近感があった。ポケモンが好きなところも良いですね。そういえば、あるところで出てくる「好きなポケモンはカクレオン」ていう台詞(台詞というよりチャットのコメントか)は若干伏線だったような気がする。詳しくは書かないでおくけれど、気にしてみて。なにはともあれ、この映画を観たら、パソコンの操作や目にする画面ひとつひとつに大きな意味があるような気がしてきて、楽しい。物語上の展開ではあるけれど、個人的な範囲でのインターネット検索だけでいろいろなことが突き止められるんだなあと改めて思う。というか、PC画面だけで物語が成り立つというのは、それだけ生活の中でPCや端末の画面を見ている時間が長く、生活の一部(ひとによっては一部どころではないだろう)が画面の中に移されているということなんだろうなあ。

『クレイジー・リッチ!』(2018)


 光と色の洪水に酔いながらも物語そのものは古典的でわかりやすい。だから楽しい。それを彩るのは、ナポレオンの予言通り巨大な獅子が目覚めた世界、フレッシュな映像、新しいパワー。見ていて飽きない。見ていて飽きないと言えば、オークワフィナ。髪型と顔つきの組み合わせがだいぶぼくに響いてきたんだろうな。特徴的な声でしゃべり続けるところも良い。衣装は何種類かあったと思うけど、資料が乏しいのでとりあえずいちばん印象的なウサギ柄を描いてみる。終盤でフワフワなスカートはいてるシーンもあったはず。最初に登場したときに着ていた犬柄の部屋着も良かったな。あの、お金持ちが着てるヒラヒラしたスカーフ生地みたいな部屋着はなんて言うんだろうね。ゴージャスなものは少し敬遠することがあるけれど、細部をよく見ると、当然良いものがある。映画を理由に憧れを抱くのは、それはそれで偏見に近いかもしれないが、アジア的ゴージャス感の見方が変わった。リッチではないけれど、ぼくもなにか自分の中のアジアンな感覚を発見したい。餃子が食べたくなるし、麻雀も覚えたくなった。

 クレイジー・リッチな世界に迷い込むシンデレラな主人公レイチェルが、生まれ故郷であるアメリカと、人種的ルーツであるアジアとの間に挟まれるというのも興味深い。同時に、決して裕福ではない移民かつ母子家庭な身の上でお金持ちの世界と出会うので、別々の世界に二重に挟まれるわけだ。移民二世としてアメリカからアジアに「戻って」くるというのは、間接的な里帰りの構図にもなっていて、どこかリベンジな帰還にも見えてくる。そういう意味ではレイチェルは単なるシンデレラではないんだな。彼女の「よそ者の目」を通して観客は煌びやかな世界を目にし、彼女は自分のルーツたるアジアを知る。少なくともその一面を。シンガポールも実際にどんなところか見てみたいな。高所恐怖症だから、ビルの上のプールは無理。

2018/10/26

おじさん化対策

 27歳などまだまだ小僧に過ぎないがだんだんおじさんに向かっている気がしなくもないので、なんとなくおじさん化を防ぐ方法を考える。いや、世の中良いおじさんもいるので、というかほとんどはさ、良いおじさんなんだけどさ、なりたくないおじさんというのはあるので、理想の大人になるために考えてみましょう。ざっと思いついたのは以下の通り。

 まず年齢をかさに着ないようにする。すでにぼくの同世代のやつらが「今の若い子は〜」などと口走っているのを見かけるので、ゾッとする。どうしてそうも年寄りぶりたいのか理解できない。恐らく先輩にされたことを後輩にしたがるあの馬鹿な習性から来ているのだろう。だいたい「今の若い子は初代ニンテンドーDSを知らないんだよなあ」ってなんだよ。ギャグなのか。「今」の捉え方がぼくとはだいぶ違うようだ。ぼくなんか、80年代あたりまでは「現代」だぜ(それもどうなんだ)。あと、当然同い年で活躍しているひともたくさんいるんだけど、早くもその半生を振り返る番組などがあってビビる。え、もうそんな年齢なのか。波乱万丈があってしかるべき年齢なのか。まあ、そういうのはだいたい中学高校を振り返る程度だけれどね。だよな。安心した。

 それにちょっと近いところで、主語が世代になるやつ。これも避けたい。「我々」とか言い出すんだよな。我々と呼べるような集団に属したことがないから全くわからない。そりゃタレントが同い年か一個下一個上とかだと知ると、それだけなんとなく親近感が湧いたりはするから、ぼくもなんだかんだ言ってもルーツに世代が絡んでいるなと思うんだけれど、我々と呼べるほどの連帯感とか帰属意識みたいなものはないなあ。我々ってあんた。宇宙人か(この連想がすでにおじさん)。

 あとダジャレを言うのとか。ギャグでもなんでも思いついたことをすぐ言うのはまずい。そもそもギャグを言おうというのがまずい。おじさんはギャグを言いたがるものだ。そしておじさんが言うギャグなどおもしろかった試しがない。

 うろ覚えで話す。これもいけませんね。とは言え仕事でなにか書く際に資料を確かめるのも面倒なのに、日常会話のためにものを調べるのもだいぶ怠い。ぼくもだんだん映画のタイトルを覚えなくなっている気がする。説明文的な邦題が多いせいもあるんだけど、しかしそれも覚える気が起きないのは、いけない。それくらいは覚えてなきゃまずい。おじさんのうろ覚えというのはどうしてああも近いようで遠い言葉になるんだろうなあ。ぼくは元来イメージが先に浮かぶタイプなので、これに陥る可能性は十分ある。

 映画と言えば俳優の名前がだんだん怪しい。同時に登場人物の名前も怪しい。作品や俳優にもよるんだけれど、たとえば俳優がそんなに有名じゃなかったりよく知らない場合には、役名とか、単に主人公、ヒロイン、みたいに呼ぶ。俳優が有名で思い入れがあったりする場合にはキャラ名なんて全然覚えずにたとえば「悪役のポール・ベタニー」みたいに言う。「ローラ・ダーンの提督」とか。やばいな、SWのキャラクターさえ覚えられなくなっている。最近の新キャラが名前含めて全然印象的でないせいもあるが。俳優の名前で通すのもなんだかストーリーの世界観に集中していないようだし、気取っている調子が癪なんだけど、同時にキャラ名で通すにはあまりにも強烈なひとはいるし、作品によっちゃ名前なんかあってないような登場人物ばかりの場合もある。アルファベットの頭文字しか与えられていないことも少なくない。だからあまりそこは統一しなくていいんだけど、しかしそのときどきでスタンスを変えるとこっちも混乱するんだよな。そして最終的に役者も役名も覚えられないポンコツに成り果てるのではないかという恐怖。どうする。

 とは言えひとの顔と名前は覚えたほうがいい。覚えることを諦めたときからひとは老いるのだ。ただし、ぼくみたいなのはひとの顔を覚えると、あいつだあいつだとなって、物語に集中できなくなったり、なんだかどこを歩いていても知った顔に会っているような気がして疲れたりするから、難しい。バランスと集中次第だろうか。

 ものを覚えることも重要だが、それはやっぱりものごとに関心を持つということだ。なんでもかんでも気にし出したらまたそれはそれで疲れるが、少なくとも若いうちに関心のあったものについてはアップグレードしていくべきだし、そこから関連付けて別のものに広げたり、新しい分野を開拓することはやめないほうがいい。なんだかおじさん化よりも老化そのものの話になってきたが、とりあえず肉体的なことはここでは置いておこう。とにかく感性を鈍らせないように。良いおじさんになろう。

2018/10/24

「CINEMORE」連載更新


 映画サイト「CINEMORE」の連載が更新されています。前回分を告知しそびれたので今回まとめて二回分。まずは11回、「吸血鬼ノスフェラトゥ対ドラキュラの花嫁」と題して、「ドラキュラ」原作者ブラム・ストーカー亡き後、夫の作品の著作権を巡ってドイツやアメリカの映画界と闘った未亡人フローレンス・ストーカーのお話。元祖ドラキュラ映画として今では伝説的な作品になっている「吸血鬼ノスフェラトゥ」だが、実は一切許諾や権利を獲得していないで作られた海賊版であり、この作品の封切りからユニバーサルによる映画化に至るまで、フローレンスの長い闘いが始まるのであった……。




 そして12回、「ユニバーサル・モンスターになろう」。ハロウィン直前の最後の更新ということで仮装のテーマにもってこいの3人の怪物を紹介。今やハロウィンで仮装するキャラクターは無限にあるが、今あえて古典的なモンスターをやったら、かっこいいんじゃないかなと思った次第。それぞれ仮装に推したいポイントと、ちょっとしたお話を。怪物の数だけ物語があるなあ。


 というわけで4回に渡ってハロウィン特集をしてきた。ぼく個人のハロウィンをどうするかはまだ未定だけれど、ちょっとでも映画を通してハロウィンを楽しむ助けになれば幸いです。前の二回は以下の通り。まあ、季節関係なくこの手の映画のことは繰り返し書きたい。

・9回「ティム・バートンとヒーローたちの『エド・ウッド』的友情」
https://cinemore.jp/jp/news-feature/412/article_p1.html

・10回「闇の騎士と首なし騎士を結ぶスケアクロウの恐怖」
https://cinemore.jp/jp/news-feature/424/article_p1.html

2018/10/22

ニセモノの可能性とオリジナルの模索


 見ての通り二次創作というか、パロディというか、ファンアート的絵が多い。好きだというのを表現したいという気持ちが強い。その上に成り立っているから、基本的に意地悪な感じのパロディはやらないし、自分なりに愛は表現しているつもりだ。あくまでライフワークの範囲として、たとえばこの絵を勝手にポストカードにして売ったりはもちろんしない。売って欲しいという声もたまにあるがその旨を説明して丁重にお断りしている。そこはファンアートを作る上でのマナーだと思う。というかルールか。とは言え、これらのファンアートはぼくがどれくらい描けるのか、どういうふうに描けるのかというサンプルにもなっているので、間接的にはこれで仕事を得ていると言うことはできる。スヌーピーにしろ『スター・ウォーズ』にしろ、ファンアートから公式的な仕事へと発展した大変幸福なケースもあるので、ファンアートで好きを表現することには意味があると思う。

 ただ、そればかりだと自由に使うことのできる絵が少なくなる。たとえば展示の依頼があった際、版権に関係ないプレーンな自作が少ないと結構困る。グッズの依頼があったときも同様。わりと映画や既存キャラクターの絵も展示に組み入れてしまうひとがいるけれど、そういうひとも基本の自作がある程度あるからそれができるわけで、とにかくぼくはバランスがあまりよくないのではないかと思う。自分を構成している好きなものを並べて、それによって自己紹介をしているわけだから、それはそれで悪いことではないのだが(前述のような公式への発展ケースもあるし)、オリジナル作が少ないことに対してどこかで負い目のようなものを感じているのは確か。じゃあ無印のものをどんどん描けばいいのだが、さて、いざ映画やキャラクターと全然関係ない、自分による絵を考えるとき、手が止まる。なにを描けばいいのか。自分の世界観とは何か。オリジナルとは何か。身動きが取れなくなる。批評脳のようなものを育てすぎた結果、ひとの作品について分析することに慣れてしまったため自分の創作が全くできなくなるというのに近いだろうか。いや、そんな混み入った話でもない。ただ単純に描くものがないだけ。

 じゃあオリジナルとは何だろうか。この言葉、軽々しく使われてはいるがなかなか重く感じる。オリジナル。果たして完全に自分のオリジナルだと胸を張って言えるものなどどれだけあるだろうか。どれだけ描けるだろうか。なんの版権にも触れない普通の絵って何だろう。月並みな発想だがたとえば風景画。風景画は目の前の風景を描いたもので、その風景はそいつが自力で作ったものではない。山々ならそれは自然が作り出したものだし、田園ならお百姓が作ったもので、街並みは大勢の人間が発展させたものだ。タイムズスクエアの絵を描くとする。そこにはおびただしい数の広告や看板が並んでいる。コカ・コーラの看板も風景の一部だが、当然描き手のオリジナルではない。ブロードウェイ舞台の広告やマクドナルドのアーチも同様。そのまま描き写すひともいれば、色彩の組み合わせですぐに連想できるほど有名なものなら、細部はごまかしたり、あるいはちょっとアレンジしてコカ・コーラやマクドナルドそのものではなくしたりもする。レゴ・ランドのジオラマの街の看板もそういう工夫がされていたね。でも結局それだって言ってしまえば街並みのパロディ化だ。なにか自動車を描く。自動車は自動車メーカーの作品だ。食器を描く。それもまた陶芸家やメーカーの作ったもの。どこのメーカーでもない、普遍的なイメージでマグカップを描く。四角形の横に半円をふたつ重ねた簡単なものだ。しかし、それもまたマグカップという既存の形に過ぎない。元からあるイメージで、マグカップを描こうとしたひとなら必ず描く形である。それはオリジナルか?と、ここまで来るともはや屁理屈である。つまり、オリジナルとはモチーフの問題ではなく、描き方の問題なのだ。線や色、デフォルメ、遠近感の意図的な無視、あるいはどこまでも写実的な描画、その表現の仕方にオリジナリティがくっついてくる。タッチ、なんていう簡単な言葉で片付けてもいいが、とにかくモチーフがどうこうという話ではない(著作権の話はまた別)。

 ファンアートは好きだという気持ちを表現できるし、運が良ければ(ものが良ければ)公式側から引っ張り上げてもらえる。オーケー、それはいいだろう。そこには意義があるし、そういうケースがある以上公式側も勝手に金銭を得ない限りファンアートをダメとは言っていない(黙認に近いだろうと思う)。でも、全部二次創作だと前述のような弊害も出て来る。別にそこまでプライドが高いわけでもないので、いつまでもひとの作ったものの魅力を借りながら描いていくことに抵抗はそれほどない。ただやっぱり、自分自身を維持するためにも、あるいはもう少し先へ進めるためにはプレーンな自分のモチーフは必要になってくる。両立できればそれが一番いい。やっぱりSWの絵を描くのは楽しいし、描いてないと具合が悪くなるし。そもそもぼくがこれくらい仕事ができるようになったのも、映画や本のイラストレビューを描き始めたからだった。それよりも前、全然仕事がなかった頃というのは変に自分の絵にこだわりながら、それでいてファン的感覚もあって、それを素直に表に出せなかったものだから、中途半端だった。そんなことだからどれだけ描きためても仕事に繋がるような作品群が出来上がらない。どれくらい描けるのかが伝わらないからね。いきなり最初から「ぼくの考えた宇宙人」の絵では見せられた側も困るというものだ。それで、誰もが知っている普遍的作品の引用という方向にシフトしていった。「それっぽいもの」を描くことから、「そのもの」を自分の線で描くことにしたわけだ。対象がお馴染みのものなら画力が伝わりやすい。商業イラストレーションというのは一概には言えないにせよ、要望されたもの、あるいは商品などすでに世の中にあるものを描く場合が多い。もちろん映画も定番のテーマだ。だから、すでにあるものを描く、というのはイラストレーターとしては別にいけないことではなく、むしろ正攻法のひとつだったのだろう。とにかくお金が無くて途方に暮れていたので、いろいろと焦って悩んで、無理なこともしたものだけれど、結局は昔から慣れ親しんだ「好きなもの」が道を開いてくれた。そういう経緯がったから、ぼくはファンアートを軽視できないのだ。

 語弊を恐れずに言えばニセモノの魅力みたいなものはあると思う。もちろん勝手にディズニーのグッズを作ってネットで売っているのを肯定はしない。趣味に毛の生えた小遣い稼ぎならまだしも(それだって結構苛立つが)、規模によっては本物が被る被害も大きいだろう。本物が得るはずだった対価を奪っているわけだからね。ただ、アジアの露店(日本にだってある)で売られているニセモノのロゴが入ったTシャツを、けしからんと思うよりは、可笑しくて微笑ましく思う感覚はどこかにあるし、現にパチモンのコレクターは多い。オフィシャルな商品でも最近だと「これじゃない」系のデフォルメが施されたものがあるよね。ニセモノの言い知れぬゆるさや可笑しさみたいなものは、しかるべき手順を踏めばアレンジとして成立するのだ。ゆるさにオリジナリティが生じていることもあるはずで、ぼくのファンアートにいまひとつ足りないのは、そういうデフォルメの部分ではないかと思う。いや、十分奇妙に解釈したSWを描いているとは思うのだが、まだまだ対象をしっかり描くこと(それも大切なことなんだけど)に集中しすぎていて崩す余裕があまりない。そこはもしかしたらオタク的細かさのせいなのかもしれない。もう少しニセモノのゆるさを出して、品良く崩すことができれば(崩す、という言葉には多少ネガティブな印象があるが、言い換えれば柔らかくすることだ)、モチーフがなんであれもう少しオリジナリティが出るのではないか。それを発展させていくことで、映画やキャラクターと関係ない、自分のモチーフがようやく生まれて来るのではないか、とちょっと思う。最初は中途半端に「それっぽいもの」を描いていて、それが素直に「そのもの」を描くようになり、今度また「そのもの」から「別物」、つまり自分を作ろうとしている。回り道になったのかもしれないが必要なプロセスだったとは思う。

2018/10/18

SWドラマ『マンダロリアン』


 『アイアンマン』の運転手、じゃなくて監督でお馴染みのジョン・ファブローが製作と脚本を担当する、『スター・ウォーズ』のTVドラマシリーズ『マンダロリアン』。マンダロリアンというのは、映画では賞金稼ぎボバ・フェットとその父親(クローン・テンプレート)ジャンゴ・フェットが着ている印象的な装甲服が代表する、銀河におけるヴァイキング的戦士部族である。ちなみにフェットがマンダロリアンと直接的に関係あるのかどうかは微妙で、特に関係ないのに勝手に装甲服を着ているという大方の解釈らしい。個人的にはそのほうがさすらいの傭兵っぽくはある。ただ、そうなるとジャンゴの遺伝子を元に量産されたクローン・トルーパーや後のストームトルーパーが、マンダロリアン戦士の系譜であるという感じが薄れたりもする。
 
 ジョン・ファブローがインスタグラムにアップした黒字に黄色い文字で書かれたSW的なあらすじによると、『マンダロリアン』はEP6よりも後の帝国崩壊後、新共和国の時代、そしてファースト・オーダーの台頭よりも前、という空白の30年間の比較的自由に創作できる範囲を舞台にするらしい。当然その時代にはジャンゴもボバも死んで久しいので主人公はどうやら新キャラ。ファブローのあらすじによると「A Lone Gunfighter」、すなわち孤独なガンマンだそうで、宇宙西部劇を体現するハン・ソロの宿敵として登場したボバ・フェットの原初的イメージとも重なる。二丁拳銃をくるくるまわしてホルスターにしまうジャンゴ・フェットも言うまでもない(まず名前がジャンゴだもんね)。由緒正しいマンダロリアンキャラというわけだ。

 公開されたファースト・ルックの印象は、個人的には中世ファンタジーのさすらいの戦士といった感じ。茶色い防具がなんとなくああいう世界観の革の防具に見える。キャプテン・ファズマほどテカテカじゃないにせよクローム的なヘルメットも甲冑っぽいし。こいつがフェット親子と違ってマンダロリアンのちゃんとした子孫なのか、それともやはり寄せ集めの装備(右肩当てがスカリフ・トルーパーのものに見える)を身にまとったやつなのかはまだわからないけれど、タイトルから察するに少しはマンダロリアンそのものを掘り下げたり、象徴的に扱ったりはするんじゃないかな。

 ところどころに『ホリデー・スペシャル』や、企画が凍結された幻のゲーム『1313』のボバのイメージが入っている。それはこのイラストの通り。恣意的に色は揃えているけれど、それを差し引いても意識しているのは確かだろう。特に『1313』のコンセプト・アートにおけるボバのルックスに非常に近い。背中に背負っている武器は『ホリデー・スペシャル』で怪獣をひっぱたいていた謎の槍と近い形をしているようだ。そもそもEP4よりも前を描くはずだった『1313』のボバが、EP4後を描いた『ホリデー・スペシャル』のヴィジュアルに少し寄せて描かれた印象があるんだけどね。二つのイメージが今回の新キャラに結実したわけだ。いやあ、それにしてもやっぱりホリスペ版ボバはいいなあ。結局そこか。

 全身に武器やガジェット満載のパワードスーツで空を飛び回るアイアンマンを撮ったファブローが、マンダロリアンのお話をやるっていうのは、結構ぴったりなんじゃないかな。願望を言えば、ボバ・フェットの装備作りに関わって最初に自分で試作品を着用し、後にロケットパックで飛び回るWW2のヒーロー『ロケッティア』を撮ったジョー・ジョンストンにもうにか絡んでほしいところでもある。

2018/10/15

『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』が楽しい理由


 まずハロウィンとクリスマスを接触させたところ。こんな発明はほかにない。ハロウィンがクリスマスの明るさに憧れて、真似をするというアイデアが素晴らしい。しかもそれがストップモーション・アニメでミュージカル仕立て。ハロウィンの住人たちの唯一無二の造形は人形でなければ出ない存在感だし、クリスマス世界のおもちゃ感も際立ってくる。二つの異なる世界の対比も見ていて飽きない。

 久しぶりに観て改めて感動したのは、やはり冒頭のハロウィン・タウンのパレード。カボチャ頭のカカシが通り過ぎたあとに現れる暮石と、そこに映り込むお化けのシルエット。しかも歌ってる。初めて観たときはこの暮石の質感にびっくりしたものだ。人形とお化けが大好きな子供の心を掴まないわけがない。この冒頭のテーマのなにがいいって、これだけでハロウィン・タウンの世界観及び登場人物たちの紹介が済んでしまうところだろう。どんな場所で、どんな連中が、どんな価値観で暮らしているのかがすんなり入ってくる。余計な説明なしにストーリーテリングができるのはミュージカルの利点だけれど、このハロウィンのテーマは大成功だ。子どもにとってはちょっと情報量が多いところもいい。本当に画面の中でいろんなやつがいろんな動きをしていて目を見張る。だから何度観ても飽きない。しかも愉快な音楽。最高。次から次へとキャラクターが登場して自己紹介をしていくわけだが(悪役であるウギー・ブギーまでちゃんと自己紹介しているのが可笑しい)、町の中を進んでいくカメラワークはまるでディズニーランドのアトラクションのようでもある。あれを観ているときの妙な高揚感は、そこにあるのではないだろうか。バートン版ホーンテッド・マンションに迷い込んだかのような感覚。今じゃこの作品がホーンテッド・マンションとコラボしているのだからおもしろい。とにかくそういう、仕掛け絵本的な細かさとインパクト、アトラクション的興奮がある。

 クリスマスをテーマにしながらも、宗教的な要素が全然ないところも大きい。もちろん宗教色があったらダメとか、そういうことではない。ただ、あそこで描かれているクリスマスというのは、日本人にとってのクリスマスにすごく近いのではないか。ツリー、リース、電飾、プレゼント、サンタ・クロース、スノーマン、楽しい、みたいな。それ以上奥へは踏み込まないし、意味付けもない。わかりやすいクリスマス。それが日本でもこの映画がここまで人気な理由ではないだろうか。クリスマス・ツリーなんていうのは本来キリスト教とは関係なくて、北欧の冬至のお祭りのものだったのが、ヴィクトリア女王の時代にイギリスに渡って来て今のようにクリスマスと合体したということだし、案外ぼくらが「本場」だと思っている国々でも、結構新しく再定義されているわけだ。だから、日本のクリスマスもやっぱりクリスマスには変わりないのだと思う。人形アニメの「赤鼻のトナカイ」とか、スース博士の「グリンチ」などに親しんできたバートンにとっても、クリスマスは宗教的なものというよりも、「クリスマス」そのものだったんじゃないかなあと思う。そういう意味で、バートンはチャールズ・ディケンズに次いでクリスマスを定義したことになるのかもしれない。クリスマスに魅せられた骸骨のジャックは、必死にそれを研究して、ああでもないこうでもない、一体クリスマスとはなんぞや、とつるつるの頭を抱えるわけだけど、最終的に、まあいいや、自分なりに解釈して楽しもう!とお馴染みの謎ポジティブさで吹っ切れる。まさにその感覚だ。起源や意味はよくわからないけれど、楽しいからやるのだ。電飾が綺麗だから、プレゼントがうれしいから、サンタが素敵だから、デートの口実になるから、ケーキが美味しいから、なんとなく暖かいから、だからクリスマスを祝うのだ(もちろん敬虔なひとが祝うクリスマスも尊いってことは、忘れちゃいけない)。「ユーリカ!」というジャックの叫びはストレートにぼくたちに響いてくる。この映画はクリスマスのローカライズに成功しているというわけだ。
 
 「ハリー・ポッター」がおもしろいのもそこのところだろうな。魔女狩りといったこちらの史実も少しは絡むんだけど、基本的に宗教観みたいなものとは無縁なところで魔法界が描かれている。でも、ハリーたちも普通にハロウィンやクリスマスを祝う。あそこで描かれるハロウィンやクリスマスもたぶん、『ナイトメアー〜』で描かれるそれと同じ感じだろう。そこのところが謎に思われる場合もあるんだけど、あんまり細かいことを気にせず楽しいモチーフを採用している感じが、「ハリー・ポッター」のわかりやすさじゃないかなあ。学校に幽霊がいるのもそうだし、なんなら幽霊たちもクリスマスを祝うしね。これもまた魔法世界のローカライズなんだと思う。

 ハロウィンがクリスマスに憧れて真似をする、というアイデアは、『ナイトメアー〜』の物語の成り立ちと直に繋がってくるようにも見える。バートンはきっと「グリンチ」みたいな話を書こうとしながら、自分なりのフェアリーテイルを作り上げた。出来上がったものは「グリンチ」に通じるところもありながら、でも全然違う、別個の作品となっている。バートンもやっぱりジャックみたいに「ユーリカ!」を得たのかなあなんて思う。憧れをオリジナルに変換できるていうのはやっぱりすごいことだ。ぼくもそれができるようになりたい。やっぱり子どもの頃に観た作品から学ぶことは多い。

 表題の答になっているかどうか微妙になってきたが、とりあえず久しぶりに観て思ったことのメモ。今後観返すたびにまた思うところもあるだろう。好きな作品については何度でもいくらでも書いてみたい。書き忘れたが最初の写真はフランフランから出た『ナイトメアー〜』のクリスマスツリー。インターネットで見た感じよりは少しチープな印象もあるけれど、トップにゼロがいたり、オーナメントの色がよかったり、なにより今までありそうでなかったツリーだから、すごくうれしい。広い家に移ってきて、大きいツリーを飾れるようになったのも幸福な感じがする。なによりこのツリー、ハロウィンツリーも兼ねて今から飾れるのがいい。10月から12月まで飾りっぱなしだぜ。

初のトークショーを終えて


 10月13日のB&Bでのトークショーは無事に終了しました。お越し下さったみなさんどうもありがとうございました。登壇しているにも関わらず半ば都甲さんのお話に聞き入っている感じでしたが、ぼくの言ったことや尋ねたことがところどころで繋がっていればいいなと思うばかりです。

 B&Bのトークショーは何度か観覧しているのだけれど、まさか自分が向こう側で話すとは思ってもみなかったので、かなり感慨深い。初めてのことで、もとより人前で話すのが得意でないので、うまく言葉が出てこなかったり、なにか言おうとしても会話が進むにつれて忘れてしまい(流行りの言葉で言うと「頭が真っ白に……」みたいな)、言うタイミングを逃すなどして、口が重くなったりしたのだけれど、なにより都甲さんのお話はすごくおもしろかったし、会話自体もとても楽しかった。話すことを楽しむことが重要と、事前に都甲さんから言われていたので、それでよかったのかなと思う。1対1だと結構テンションが上がって話せるわけだから、もうちょっとがんばって大勢のひとが見ているところでもリラックスしてしゃべれるようになりたいな。実は書くだけでなく話すことも好きなんだな、ということに気づいたりもした。もしまた機会があったら、もっともっと話すことを楽しみたい。もちろんこれが最初で最後にならなきゃの話だけれど……。そんなわけで初のトークショーでした。

 読書体験というのは、同じ本でも時期によって全然違うものになるんだなあと、改めて思った。このトークショーに備えて「ライ麦畑でつかまえて」を読み返していたわけだが、初めて読んだときは年が近かったためかかなり近くからホールデンの奇行を見ていた気がしたのが、27歳になって読んでみると少し違って見える。微笑ましくもあるのだ。別にぼくだってそんなに年配になったわけじゃあないんだけど、あいつの一個一個の見栄の張り方とか格好の付け方とかが、前よりもさらにおもしろおかしいんだな。前読んだときも半分滑稽な感じではあったんだけど、今はかなりかわいく見える。本人は至って真剣なところがまたいい。それは別にバカにしているわけじゃなくて、よりおもしろく、愛らしいということなんだ。こうやって口調がホールデンに寄り始めるくらいに、やっぱりおもしろいんだよ。本当の話。「ライ麦」もだいぶ違った表情が見えるのだから、大好きな「フラニーとズーイ」も今読み返したらまた違うんだろうな。噛めば噛むほど味が出る、みたいなたとえはあんまり好きじゃないしこの場合合ってるか微妙なんだけど、なんだろうな、噛んでると色の変わるガム?いや、それじゃあまりにもチープすぎる。何年かおきに会うと友達が少しずつ変わっているとか、少し恥ずかしいたとえだけど、そんな感じではないだろうか。もっともっと読みたい本もあるけど、お気に入りの本はどんどん読み返してみよう。これから先読み返すたびに違う感想が出るんだと思うと、わくわくする。なにか一冊でも、ボロボロになってバラバラになってしまうくらい繰り返し読み返せたら、自分にとっても、もしかしたらその本にとっても幸せじゃないかなあなんてことを思う。

2018/10/12

先月の記事数が今年最多

 ご覧のようにバラバラとブログを書いているわけだけれど、先月の記事数は今年で最多である。これだけでも少しうれしい。今月はもっと書ければいいと思う。たくさん書いてなにか効果があるかどうかなどは気にしない。書くだけで楽しいから、その時点で目的は済んでいる。別に本音を吐いてスカッとしているわけでもなく、ひとに見せられる程度のものしか書いていないにも関わらず、なんだろう、この気持ちのいい感じは。ツイッター書くのよりも楽しい。まだまだツイートはしているんだけど、思いつきを書くにはやはり適している。問題はそれを改めてブログにまとめて書くかどうか。そこは正直言って微妙。ツイートするときのテンションとか熱量みたいなものを、改まってブログ書くときにも同じくらい保てるかと言えばあんまりそういうことはない。最初からこうして特に目的もなくブログに書き出しているときは、勢いがつくんだけどね。ついついツイートしてしまいそうな思いつきさえも、少しずつブログに落とせるようにしていければいいかな(全然ツイートしなくなる、てことはないし、ツイッターやめるってことはないにしても)。それには文量が要るのだろうけれど、そこは一度書き出してしまえばある程度の長さにはなるだろう。実際に今もこれくらい書き出している。とりあえず先月の記事数多くてうれしいということを言いたかった。今見たら、このブログではひと月に15以上記事を書いたことはないようだ。今月は16記事行けるだろうか。もちろん、そんな目標を立てて書かなくていいんだけど。気づいたら行ってた、くらいがいいのであまり意識しないようにしよう。

机上の空間

 机の上はできるだけすっきり、広めに使いたい。ただ、ぼくが初期の収入で買ったカリモクの机というのが学習机タイプで、両脚が天板の上まで突き出して、そこに天板と同じ横幅の棚板が渡されているという、棚付きのもの。棚板の縦幅は天板の3分の1くらい。棚板の裏側には溝があって、そこにブックエンドの金具をはめ、本やノートを並べられるというわけだ。写真を載せれば早いのだけれど、せっかくなので文章だけで説明した。伝わってるかどうかは気にしない。さて、これを買ったときはまだぼくの愛機というやつはMacBook Proだったので、コンピューターを棚板の下まで押し込んで、その手前の天板スペースを十分に取って作業ができた。当時は仕事にも水彩絵の具を用いていたので、天板のスペースはある程度必要になるし、フォトショップで作業するにしてもコンピューターの手前にペンタブレットを置かなければならないから、それくらいの場所が要る。やがてMacBookが壊れてしまうんだけど、電源系がおかしいのはわかっていたので、修理に出そうかと思ったのだが、結構使い込んだし、修理している間仕事ができない、どうせなら新調したらどうか、ということで21.5インチの4KディスプレイのiMacを買った。思えばMacBookの13インチとかの画面でよく絵を描いていたものである。急に大きな画面になったときは結構な衝撃だったけど、なにより眼も首も肩も楽になったのがよかった。ただし、iMacは机の棚板よりも背が高いので、前のように棚板の下に置くことができず、天板上のスペースが取れなくなってしまった。画面を左右どちらかに斜め向きに置いたりもしてみたが(昔パソコンが大きかったはそうやって置いていたよね。Xファイルで見た)、どうしても身体の正面にないとやりづらい。集中できない。疲れる。それでしばらくずっと棚板よりも前の真ん中に置いて使っていた。ペンタブの置き場所はギリギリ、天板上の残されたスペースでは大きめの紙を広げることもできないので、自然大きな絵は描かなくなった。A4用紙縦向きでいっぱいな感じだもん。机の上でアナログ作業のスペースが取りづらかったのが関係しているかは微妙だが、そうこうするうちに作業工程のほとんどをデジタルに移すことに。スペース取る必要はなくなったが、しかしどうも画面が近いような気がする。威圧感がある。これ、もっと奥に置いたほうがいろいろすっきりするんじゃないかなあ。そうだ、棚板を外せばいいんだ。棚板だけを外しただけでも全体の強度やバランスが崩れるんじゃないかとも思えたが、引っ越しをする際に旧居で分解した机(組み立て式なのだ)を新居で組み立てていたら、どうも棚板がなくても別に変わらないことがわかった。そういうわけで、この夏はずっと棚無しの状態で、コンピューターを机のずっと奥に押し込んで、手前の空間を広くして過ごしてみた。どうだったかって?机の奥の方を覗き込んでる状態だから眼も肩も首も疲れたよ。結局これMacBookを使っているときと同じ姿勢に戻ってしまったというわけだ。黙々と棚板を元に戻し、iMacをぐっと前に置く。棚の上にフィギュアを並べる。棚があると天板の上に置くものが少なくて済む。結局のところデフォルトの状態がいちばん機能的だったということだ。

2018/10/09

瑞丸、27歳になる

  すっかり大人だよ。しかし今年もレゴブロックのセットをもらって大喜び。娘まで生まれたのに全然変わらない。いっそ形が入ったほうがよさそうだ。シルクハットにモノクルにカイゼル髭でも生やしたらいい。いやね、しばらく疎遠だった友達とふと思い立ってコンタクトを取ったらやっぱりいいひとでね(そもそもこいつと問題があったというよりは一緒に入ってたLINEグループが苦痛過ぎて逃げ出したのだった。いい機会だから教えてあげるけど、10人以上いるグループには絶対入らないほうがいいよ。その人数になると人間の種類が多くなりすぎるというか、全く気の合わないやつらも出てくる。そもそも直接接点のない相手もいるから全然居心地よくない。そういうわけで今はせいぜい5人くらいの気心知れたひとたちとだけで秘密基地めいたものを作っているというわけ。ていうか27歳にもなってまだそんなことしてんの?)、話しているうちに2年前に買ったきり開けもせずに積んでいるレゴ、積んレゴがあって、そういや近く君誕生日だからあげるよ、と言うではないか。別に喧嘩したわけではないんだけど、あまり印象のよくない疎遠のなり方だったはずなのに、なんて気の広いやつだろう。何事もぼくのほうがいろいろ気にし過ぎているのかもしれない。そういうわけで着払いで送ってもらって、今朝さっそく届いたわけ。とても大きい。作ったら載せる。

 今年は誕生日について初めて知ったことが少しある。まず今年の1月に逝去した女優フランス・ギャルが同じ10月9日生まれだったこと。ジョン・レノン、ギレルモ・デル・トロ、秀島史香といった「同じ誕生日のひとリスト」を更新(お前が生まれるよりもずっと前から10月9日生まれのひとをつかまえてなにを言う)。別に同じだからどうってことは全然ないんだけど、しかし不思議と素敵なひとばかりだな。嫌なひとが全然いない。素晴らしい。いや、嫌なひとなんてこの世の中にはいないよ、なに言ってんの。


 そしてこれはひとの誕生日じゃないんだけど、10月9日は韓国の記念日「ハングルの日」なんだそうだ。これも昔からそうだったはずなのに今年になって初めて知った。まだまだ自分の誕生日へのリサーチが甘い。世宗大王がハングルの元である訓民正音という書物を公布したことを記念しているそうな。もう日付の縁がある時点でこりゃ勉強しないわけにはいかない。英語、仏語、中国語に加えやっぱり韓国語もぼくの「いつか覚える語リスト」に加わるのであった。いつ覚えるんだか。そもそも将来的には何ヶ国語話すつもりなのか。ハット語とクリンゴン語はいいのか。そもそも母国語さえ、お、おぼつつかなあのに。
 韓国語と言えばアニメ「アドベンチャー・タイム」のレディ・レイニコーン。ひとりだけ韓国語を話し、そのセリフには別に字幕がつくわけでもなく、理解できるキャラだけがうんうん頷くだけで済まされるみたいな感じのキャラなんだけど、かなり印象的。見た目は頭がユニコーンで体が虹、だからレイニコーン。しかし見ているとだんだん東洋の龍に見えなくもない。アジア系の設定(?)はそのあたりからかな。要するにR2-D2とかチューバッカみたいに、みんなと違う言葉を話すけどコミュニケーションは取れる、という異種族相棒キャラなんだけど、それを実在の国の言葉でやっているためなかなか賛否もあるらしい。わからないでもない。アジア人は宇宙人でもなければファンタジーの住人でもないからね。とは言えレイニコーンは素敵なキャラだし、そこにはリスペクトや憧れなんかもあると思う。東洋の言葉が英語圏からしたらミステリアスで不思議な響きを持っているのは確かだろう。そういう一方的な幻想視もまた偏見と根を同じくする、ということも当然あるけれど、まあこのあたりは受け取り方次第だからなんとも言えないし、なんとか言うつもりもない。それはそれで覚えておきましょう。レイニコーンのおかげでその言葉の響きに惹かれたひとも多少はいるだろう。ぼくも結構その口だ。そういえば『スター・ウォーズ』ではケニアやインドネシアの言葉かなんかをエイリアンに言わせたりしていて、そこの国のひとたちには普通に言ってることがわかるとかなんとか、そういう話もあったなあ。憧れと偏見というのは表裏一体、切り離せないものなのかもしれないなあ。


 ギレルモ・デル・トロの『シェイプ・オブ・ウォーター』には10月9日という日付が大きく映し出されるシーンがある。水路が増水したときに魚人を水の中に返そう、次の増水は10月10日だ、というところで日めくりカレンダーがめくられるんだけれど、前日である9日がめくられる(ちぎられたかな?)わけだ。これを見たとき、あ、やっぱりギレルモ・デル・トロも自分の誕生日の日付が好きなんだなと思ったけど、そのあたりのメイキング事情はよく知らない。自分でその日付を設定したのか、それとも彼に対する贈り物的なニュアンスでそうなったのか。いずれにせよ『シェイプ・オブ・ウォーター』はぼくたちの誕生日と結び付けられる。「ぼくたち」だってさ、笑っちゃうよ。
 同じ誕生日のひと、みんなおめでとう。

2018/10/08

【トークショーのお知らせ】都甲幸治×川原瑞丸「ホールデンに憧れた少年が、サリンジャーに出会ったら」

 映画『ライ麦畑で出会ったら』公開記念トークショーにて、都甲幸治さんとお話させていただきます。J・D・サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」が好きすぎる高校生の冒険を描いた本作のことをはじめ、「ライ麦」やサリンジャーについてお話をします。日程は以下の通り。

日時:10月13日(土) 19:00〜21:00
場所:本屋B&B
   東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F
入場料:前売り1,500円(1ドリンクオーダー)
    当日店頭2,000円(1ドリンクオーダー)

 →詳細・ご予約

なんとこの滑舌の悪いぼくがとうとうトークショーに登壇することに。しかもお話させていただくのは翻訳家、アメリカ文学研究者の都甲幸治さん。初めてなので緊張しますがわくわくもします。楽しくおしゃべりができればと思っています。うら寂しい10月の週末、お時間ご興味あればぜひお越しください。
『ライ麦畑で出会ったら』は10月27日(土)からの公開です。

2018/10/06

なんでもとりあえず書いてみよう

 ブログをもっと書こう、と思い立ったら早速先月は今年で一番の記事数になった。大半がどうでもいい内容だし、一番重要であろう営業報告の記事が下の方へ埋もれるので、やたらと更新していいのかとも思うのだが、しかしブログを書くと思いの外すっきりした。とりあえずなんでも書いてみることだ。絵でも文章でも、とにかく形にして頭から吐き出そう。ひとつひとつは大したことないかもしれないし、大したものを作ろうとも思っちゃいないんだけれど、たくさん数を作っていくことで見えてくるものもあるだろう。体裁は気にせずどんどん描く。落書きレベルでもいいし、なにか浮かんでるものがあるなら出し惜しみする必要はない。すぐに形にできなさそうなアイデアがあったら、それも簡単にメモとして書き出してみよう。こいつ構想ばかりで全然形にならないじゃん、みたいに思われても嫌だなあと思って表に書くのを避けていたところも多い。書いちゃえばいいのだ。どう思われるかもとりあえず気にしなくていいし、アイデアを盗まれるんじゃないか、みたいな心配も取り越し苦労だ。そもそも盗まれるほど大層なアイデアじゃない。そこも含めて気楽にやりたい。どうせぼくの考えたエピソード9はこんな感じ、みたいな妄想話ばかりなんだから。せっかくだからこれはもうちょっと落ち着いたらじっくり取り組んでみよう、なんてことも考えなくていいかもしれない。思いついたらすぐ描いてしまう。そのモチーフがその一回しか使えないなんてことはないから、また同じものをあとで描いてもいいのだ。その、もうちょっと落ち着いた時とやらにさ。ひとつのモチーフは一度きり、じゃない。そんなこと言ったらすでにぼくは同じ犬を何度も描いているし。アクバー提督は前描いたからなあ、なんてことも気にしなくていい。描きたかったらいっぱいアクバー描いていいのだ。描くたびに変わるのだから。同じモチーフなら画力がどのくらい上がったか、みたいなところも際立って参考になる。描くたびによくなるはずだ。そう考えれば繰り返し描くことはかなり重要だ。だいたいお前、すでにフィギュアを持ってるキャラクターも、新造形になったり、他の会社が出したりしたら買うじゃん。好きなキャラならいろいろな種類揃えてるじゃん。ボバ・フェットなんて何種類持ってるんだよ。レゴのセットだってついこのあいだ出た宇宙船がすぐに新しいセットになって出たりする。同じモチーフは何度描いてもいいし、何度でも描くべきなんだ。

2018/10/05

今月から来年のノート


 来年のノートは10月始まりのロルバーン。来年の12月分まであるマンスリーページのあとにある程度ボリュームあるノートが続く。ここ3年くらいはモレスキンのウィークリー(主にキャラクターコラボ目当てで)を使っていたが、結局マンスリーが個人的には見やすいというのと、万年筆のインクの乗りがよく、少し黄味がかった用紙、広めの大きさを求めたところこのロルバーンとなった。確かリングじゃない中綴じのノートタイプもあったはずなんだけど、その場では見当たらなかったからまあいいや。リングタイプは何度もめくっている内にページがちぎれてしまいそうなのが不安なんだけどね。ただ、とにかく厚さがあるからたくさん書ける。黄ばんだ紙は目が落ち着く、気がする。ついでに念願の黄色いラミー万年筆も購入。在庫処分でかなり安かった。今使っているグレーのラミーもペン先が馴染んできていい感じにだらしのない字が書けるんだけど、黄色が欲しかったのだ。万年筆のペン先は新品と使い込んだものじゃ全然違うということは、あとで思い出した。この黄色のやつがいい感じの線を引けるようになるまでどのくらいかかるのかわからない。
 予定表は、とにかく全体の流れを一望できるほうがいい。それは仕事を始めた当初から思っていたから(最初から週刊誌の挿絵の仕事でかなりかっちりしたサイクルでやらなければならなかったからね)しばらくマンスリーだったのだけれど、書き込まないといけない予定とか作業工程みたいなものが増えたので試しにウィークリーに切り替えた。ウィークリーで使いづらいということはなかったけれど、ページをめくらないと次の週が見えないのと、1ヶ月全体で見たときの線みたいなものが見えづらいので、マンスリーに戻したわけだ。試写の予定を書くにしても、どの映画がいつ頃公開になるのかがすぐわかったほうがいい。1週間が決まったリズムで、その流れに集中すればいい感じならウィークリーでもよかったかもしれないけど、やはり今の仕事の進め方だと(連載も毎月のものになっているし)、1週間単位より1ヶ月単位で全予定を一望できたほうがいいんじゃないかな。
 とりあえず先月まで使っていた『スター・ウォーズ』のモレスキンがまだ12月まで残っているから、そこには日記でも落書きでも、なにかしら書き散らしてしまおう。白紙が残ったまま使わなくなったノートがあまりにも多すぎる。

2018/10/02

瑞丸、自転車にひかれそうになる

 よくひかれそうになるんだが、今回は今までになくひかれそうだった。横断歩道渡ってたら前からどうも左右のどっちに行きたいのかはっきりしないゆらゆら自転車が来るなあと思って、こっちもどっちによけようかなあと一瞬迷いはしたんだけど、こういうときはいち早くぼくはこっちによけるから、という表明をしたほうがいいので、さっと一方によけたら、まだ向こうはゆらゆらなんだよな。案の定そのまま目の前に突っ込んで来るの。別にそこまでお年は召してない感じのおばさんなんだよ。でもなんかハンドル切るのもぎこちなければ、停止状態からペダル踏み込むのにも一苦労みたいな動きなんだよな。勘弁してほしい。思わず「おいおい」と声が漏れた。相手がどんな顔してたかは見てない。こういうときは目を合わせないに限る。都会で生きる知恵である。怪我さえしなければそのまま過ぎ去っていく風景である。ああ、こういうふうに田舎者が身を守るために知恵を絞った結果が「都会の人間は冷たい」になるのかな。それは都会の人間ではないのだよ。警戒心の強すぎる地方出身者なのだ。とにかく、そんな感じでひかれそうになった。というか、前から思ってたけどみんなつま先がぎりぎり地面に届くくらいの高さのサドルにまたがってるんだよな。小学校のとき自転車のサドルは足の裏が全部しっかりつく高さにしましょうとか教わったはずなんだけど、なんでまたあんな、足の親指で地面蹴るような高さになってるんだろう。こぎやすいのかな。ゆらゆら運転は荷物とか子どもとか乗せてる以前にそれのせいじゃないの。子どもを乗せてるお母さんはだいたいそんなふうに見えるから、今に転倒して坊やの頭蓋がかち割れてしまうのではないかと見ていて気が気じゃない。買い物の荷物も積まなきゃいけない、子どもも上と下両方送り迎えしないといけないとか、そういう事情はわかるけど、自転車もそこまで万能じゃない。とにかく危ない。なんでいい大人に自転車の乗り方まで言わなきゃいけないんだよ。うんざりする。ゆらゆらしてなくてもまるで自分は風にでもまったかのように歩行者と歩行者の間をすり抜けていくやつもいるし、車も普通に通る道で大きなカーブを描きながら颯爽と角を曲がったりするし、横断歩道もなんもないところで突然渡り始めるし、しまいには小学生中学年がやりがちな片手離しや両手離しをしながら走ってるおじさんがいたりする。一体どうしたっていうんだよ。あんなのがうようよいるんじゃ、ぼくなんかが車運転した日にはひき殺しちゃうかもしれない。それでも車が悪いことになるんだもんな。嫌んなっちゃうよ。いくら気をつけても無理だ。本当に亀のような速度で運転するしかない。でもそれだと後ろから自称江戸っ子がパーパー鳴らして来るわけでしょ。一体どうなっているのだ。