2018/09/29

営業報告

■「フイナム・アンプラグド」08号(講談社)


 特集「インドをバックパック旅行。」にいくつかカットイラストを描いています。デリ探索のページのあちこちにあるほか、スナップ写真にも入っています。





■「SPUR」11月号(集英社)



 「SPUR」映画レビュー連載ではこの週末から公開された『クワイエット・プレイス』を紹介しています。『ワンダーストラック』で一躍スターの仲間入りを果たしたミリセント・シモンズが、再びパーソナルを生かして「音」にまつわるサバイバル・ホラーで活躍。少しでも物音を立てれば即死してしまう終末世界に生き残ったとある一家。口をきかずに手話でコミュニケーションし、静寂を守って生き抜いてきたが、母親はもうすぐ出産を控えていて……。怖いだけでなく、観ているこっちまで身じろぎひとつできなくなる緊迫感がいいです。


■「婦人公論」10/9号



 「婦人公論」ジェーン・スーさん連載挿絵です。お墓参りの帰りにしゃぶしゃぶ。酷暑のためお父様の体を心配していたスーさんでしたが、意外な健康法を聞かされることに。


■映画サイト「CINEMORE」


 映画サイト「CINEMORE」での連載は10回目が更新されています。前回に続きハロウィーンネタ。「闇の騎士と首なし騎士を結ぶスケアクロウの恐怖」と題して、バットマンの悪役スケアクロウと、アメリカのハロウィーン定番怪談「スリーピー・ホロウの伝説」の関係について。



■映画『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』イラスト寄稿


 三木聡監督最新作に、応援イラストを寄稿しています。縮めて『音タコ』、ということでタコを描いています。これ幸いとちゃっかり麻生久美子とふせえりも描きました。久しぶりに『インスタント沼』を観たらやっぱりおもしろかったなあ。イラストは公式サイトでご覧いただけます。


 9月はこんな感じである。9月中に取り組んだものはまた来月お知らせできることでしょう。

ツイッター9年目にして思うところ

 なんとこの夏で9年目である。よくぞこんなものを9年も続けているものだ。そのうち一体どのくらいの時間をこれに費やしてしまったのか。実際に触っていない時間でもこれのせいで悩んでいたことが多かったように思うし、思考のあり方のようなものを一時期支配されていたような気がする(果たして今はどうだかね)。もちろん、いろいろな出会いがあったし、描いた絵をアップしてひとの目に触れるようにしていたことで、ここまで仕事を広げられたのは確かだ。だから今後もぼくはツイッターはやめはしないだろう。なんだかんだ性には合っているところもある。フェイスブックなんかと違ってね。

 と、それを前提とした上で、やっぱりうんざりすることばかりなんだよな。画面を開けばだいたい誰かしらが何かしらへの文句を垂れている。大抵がなにかへの、誰かへの反論だ。ぼくもついついそういうことを書き込みたくなるし、実際書いちゃってる。だから誰であれあの入力画面やタイムラインを前にするとどうにかなっちゃうんだな。書き込む習慣さえついていればね。だから、とりあえずはなにを読んでもいちいち反論を書くのはやめよう。直接返信して文句を言うのもみっともないし、「こんなこと言ってるやつがいたんだけど」という切り出しでそれへの反論を書くのなんかもっと痛い。ぼくがこれをよくやりがちなんだけどね。極力それが特定の誰かにならないようにかなりぼかすわけだけど。でもそれって、下手をすると架空の敵を設定してそれに言い返してるようなものだよな。それはかなりまずい。実際にそういうひともいるだろう。無益だから本当にやめよう。イラついても反論を書かない。

 まあそれが出来れば苦労はしないけれどね。それができないからみんな大揉めに揉めるわけだ。あるひとはエアリプなんかじゃなく、直接そいつに返信して、真っ当な意見から見当違いなこと、言いがかり、反論、さらには暴言まで書き込む。よくよく考えればすごい神経だ。会ったこともない、ネット上でさえそれまで絡みもないような知らないひとに、挨拶どころかいきなり反論を書くって、相当のことだ。そこにかかってるエネルギーみたいなものを考えると、やっぱり虚しくなる。「ぼくもそう思います!」みたいなコメントじゃない限り返信しなくていいとさえ思えてくる。それで話が盛り上がる方がよっぽど楽しい。インターネットは口喧嘩のツールじゃなく、同好の志を見つけるためのものだし。まあそればっかりで似たようなひとだけの沼にはまっていくのも考えものだけれど。同じ考え方のひとだけで集まってどんどん精鋭化することもあるから、良くも悪くもという感じだ。そのバランスもそいつ次第だろう。

 140字の上限におさめなきゃいけないから、文章の練習になるなどと言われていた頃もあったし、実際ぼくもそう思っていたことがある。いかに少ない言葉で簡潔に、さらには誤解を生まないように書くのに結構頭を使うし、そうやって考えた末に残り何文字書けるかという数字の表示がぴったり「0」になったときは快感さえある。全然ひとつのツイートにおさめられず、何個にも渡ってぐだぐだ続けているのはみっともなく見えることもあった(今でこそぼくは全然気にせず書き散らしているが)。そういう書き方なために途中だけ抜き出されて誤解される場合もあるだろうから、ひとつのツイートにおさめないと誤解されそうなことなど最初から書くなとさえ思ってしまうわけだが、しかし、140字ぴったりにおさめようおさめようとする文章の書き方は、だんだん思考自体をそれに最適化していってしまうんじゃないかな。140字ぴったりで言いたいこと全てを書ききっているツイートというのは、パターンが見えてくる気がする。書き出し、つかみ、オチ、みたいな感じで。詳しい分析は面倒だからしないけど、注意して見るとわかってもらえると思う。君は頭がいいだろうしね。「誰それがいついつどこどこ、こういう状況のときにこれこれこういうことした(言った)って話好き」みたいなやつもそう。「〜って話好き」。これなんなんだろうね。なんかネット全体で使われてる言い回しなんだろうけれど、リツイート稼ぎには最高の表現なんだろうなあ。好きっていうのを表明するのは全然いいんだけど、なんかその裏に「俺はこんなことを知ってる」「お前ら知らないっしょ?」みたいなひけらかしを感じちゃうんだよな。好きである以上になにか自分で思ったこと考えたこと、それがなんで好きなのかみたいなコメンタリーがないのも安っぽい。ただそのまま情報が書かれているだけ。とりあえずリツイートされていいねされればいいみたいな感じ。そんなのばっかりで気が滅入っちゃうよ本当に。

 そんな愚痴も、今までならそれ自体ツイートしていたかもしれないけれど、こうしてブログに書くほうが字数をケチケチせずに思う存分書けるからいい。自分の思考をツイートでブツ切りにして消費したくないんだよな。それはとてももったいない。なにか考えたことや書きたいことがあるなら、やっぱりブログだ。ここはぼくだけのノートで、リツイートもいいねもないから気楽である。それでいて一切ひとの目に触れないわけではないのでそこまで汚い書き散らしにはならない。一方ちょっとした思いつきはツイートでいいし、メモ気分でツイートしたものをあとでブログで詳しく書くというのもありだ。なんにせよブログを楽しむのと同様ツイッターも楽しく使いたいものである。

 イラストレーターとしてのアカウントでもあるのだから、ひたすら描いたものや最近の仕事についてアップし続けるのが正しいのかもしれないが、何度もそれを意識しては失敗してきた。絵日記とか、1日一枚アップみたいなこと、全然できない。どうしてもぼくの根っこのところにはオタクがいる。ファンボーイがいる。好きなものは大いに語りたくなるし、同じようなものが好きなひとともオタク話をしてしまう。はっきり言って同業者よりもSWオタクのほうがフォローしてる人数が多いと思う。同じ仕事をしているひととの仲ももう少し広げたいところなんだけど、やっぱり同好のひと、同好な上で好感の持てる相手とのやり取りは楽しいし、発見も多い。そりゃ趣味のことばかりでもよくないかもしれないが、無難なことしか書かずにイラストだけアップするってのもやっぱりどこか味気ない。ぼくにはね。ぼくが描くものは、ぼくの趣味に基づいているものでもあるだろうから、そこはやっぱり切り離したりしなくていいんだと思う。そこもやっぱりバランスだろう。

 とにかくなにか読んでそれは違うだろと思ったり、イラついたりしても反論は書かない。違うだろ、と思っただけで十分だ。全ての意見を表明する必要はないし、当然ながら本当に思ったことなど書かなくていい。今こうして書いているこのブログでだって思ったこと全てを書いているわけじゃあない。そこは、SNSほどではないにせよ、ほどよくひとの目を気にできる、ということが効いてくるわけだ。ネットに本当に思ったことなんか書かなくていいし書くべきではないんだ。本音を漏らすのは家族とか仲の良いひとの前だけなのと同じなんだな。どんなツールでも使い方をコントロールすればこっちのものだ。楽しくやろう。

2018/09/28

皇帝がデス・スターにこだわった理由

 かの偉大なる銀河皇帝パルパティーンがこだわったバカでかい灰色のボールは、そもそもなんのために造られたのか。いくら万雷の拍手で認められた皇帝と言えど、広大な銀河に散らばる無数の惑星を元老院抜きで統治する(おさえつける)のは至難の技だった。たとえ直接操れる総督たちを各惑星に置いているとしても、元老院を黙らせておかなければ、ただでさえ反乱分子があちこちにいるので内乱が本格化する恐れがある(実際激化したわけだが)。今度戦いが起これば、それはクローン大戦のような途方もない内乱であると同時に、クローン大戦とは違ってシスがコントロールできる戦争ではない、本物の戦争になる。それに帝国元老院は名前を変えただけで結局中身は共和国元老院と変わらず、共和国晩年の堕落ぶりは健在だった。そういうわけで、共和国の代名詞とも言うべき元老院が残っている限りは、まだまだ皇帝の支配は完全ではない。彼の思い描く新生シス帝国にそんなものは必要ないのだ。

 ということで各惑星を一様に沈黙させられる究極兵器にして最終兵器が必要だった。それがデス・スターというわけだ。一撃で惑星を宙図から消し去ってしまうその火力は、たとえそこにかかる資金や資材を使って増強した艦隊でも敵うものではない。艦隊も強力なことには変わりないが、皇帝にとってはそれもまた脅威だった。配下であるはずの提督たちがいつ自分に歯向かうか知れたものではないから、彼らに対抗できる力を個人的に持っておきたかったんじゃないかな。皇帝は誰も信用しない。信じるのは自分の計画と力だけ。だからこそ同じような役職や地位をたくさん用意して、高官たちの競争を煽って不満の矛先が自分に向かわないように常に気を配っていたという。狡猾であると同時に悲しい老人でもある。そもそも彼がシス・マスターになれたのも、由緒正しいシスの手順に従って自分の師を殺したからだ。疑いや裏切りがシスの道なんだよ。

 謀反と言えば、皇帝は最初のデス・スターを野心的で狡猾な人物、ウィルハフ・ターキン総督に任せていた。ターキンのような冷酷な男であればこの恐るべき兵器をうまく監督することだろう。力を持ち過ぎた彼はいずれ自分に歯向かうかもしれないが、だからこそ皇帝は密使ダース・ヴェイダーを送り込み、暗黒卿がつねに総督の傍らについた。ヴェイダーはエリアドゥ出身のグランド・モフにおとなしく仕えている振りをしながらも、彼が妙な真似を起こさないように監視していたんだな。同じような目的で保安局のスタッフたちもデス・スターに乗り込んでいた。EP4の会議室のシーンで確認できる白い制服を着たヒゲの男、ウルフ・ユラーレンがその代表である。彼らは味方の間で皇帝への忠誠心が正しく保たれているかを見張っていたわけだが、その監視対象にはもちろんデス・スターによって皇帝に匹敵するほどの力を持ち始めているターキンも含まれていたはずだ。

 結局、反乱同盟軍の力を見くびった司令部のせいで初代デス・スターは吹き飛んだ。木っ端微塵に。ターキンをはじめ多くの高官たちが死に、有能な人材も多く失われた。ターキンのくだらないプライドは、小さな排熱ダクトと同じくらい重大な敗因だった。そんなわけで、第二デス・スターを造るときにはグランド・モフのような高い位でもなければ、ターキンのように頭が切れる野心家でもない、平凡で扱いやすい男が司令官に選ばれた。ジャジャーロッドである。その大抜擢により佐官でありながらモフの称号を得た彼は、恐ろしいシスの師弟からのプレッシャーと大幅に遅れた建設スケジュール表に日々悩まされることになる。

 扱いやすい男を司令官に任命した皇帝は、完成間近になった第二デス・スターに自ら乗り込み、司令官の背後から命令を出すことにする。なぜなら初代デス・スターのように他人に任せて、自分はコルサントの宮殿でどっかり玉座に座っているなんてことでは、その超兵器がいつ自分の頭上にやってくるか知れたことではないからだ。ジャジャーロッドと言えど自分が持った大きすぎる力を自覚し、いつ「その気」になってしまうかわからない。扱いやすいやつでも信頼はできない。だから自分で乗り込んでコントロールする必要があった。エンドアの戦いというのは皇帝が同盟軍を誘き出して罠にはめることで起こさせたわけだが、最終的に同盟軍の中隊はデス・スターのコアまで入り込み、メイン・リアクターを破壊するので(フォースとかスカイウォーカー親子とは関係ないところで)、結局のところデス・スターにいたのは誤算だったんだな。もちろん初期の構想通り、皇帝がコルサントの宮殿にいたとしても(そもそもこの草稿にはデス・スター自体出てこなかったような気がするが、まあいい)、ヴェイダーがルークをそこに連れて行って一連の戦いが起きるなら、やはり彼は弟子に裏切れて死ぬだろう。そして彼の一番の誤算は、かつて自分が殺した師と同様、弟子の裏切りを察知できなかったことだ。完全な支配の完成、シスの偉大なる計画の成就を前に目が眩んだ(酔っ払っていた)ダース・プレイガスと同じく、ダース・シディアスは無我夢中でビリビリやっているうちに弟子に殺されるのでした。ていうか、一番の誤算はプレイガスの弟子になってシス卿になったことだろ。

 恐怖政治のための兵器としてはそんな感じだろう。さて、デス・スターにはもうひとつの側面があった。ダークサイドの秘技の代替としての兵器である。シディアスの師プレイガスは、ミディ=クロリアンに働きかけて生命の創造に取り組んでいたわけだが、ダークサイドの道を極めれば、惑星の生死さえ操れたという。地上に生きる生命体から命を奪うことも、宇宙を取り巻くフォースによって惑星そのものを破壊することも。なるほど宇宙と万物を結びつけるエネルギーとしてのフォース、究極的なところではそんなこともできるのかもしれない。プレイガスは半ばそのレベルに到達していたようだが、哀れな弟子にはその知識は受け継がれなかった。シディアスが師に疑いを抱いていたのは、全てを教えてはくれなかったせいでもあるようだ。いずれにせよシディアスは惑星を破壊するほどの力を得ることはできなかったし、生き物の生死を操ることもできなかった。せいぜい両手の指先から電撃を出すくらいのレベルってわけさ。デス・スターのような兵器にこだわったのは、到達できなかったダークサイドの力の代わりだったからなんだな。EP4でヴェイダーが高官たちに向かって言った「テクノロジーによる恐怖を過信するな。惑星を破壊できる力とてフォースの前では取るに足らん」というのは、そのことを知った上での言葉だったかもしれない。ダークサイドのフォースを信奉するヴェイダーは、マスターがそういう手段を取ることに反感を覚えていたわけだ。弟子になったときに聞かされた賢者プレイガスの偉業に(ほとんどそれを聞いたからこそヴェイダーはシスになったとさえ言える)、自分のマスターは全く到達できていないのだと、幻滅さえしていたんじゃないかな。

 というわけで、皇帝の野望、シスの計画を具現化したデス・スターはシリーズ全体に渡るひとつのテーマでもあるが、エピソード9にスターキラー2とかが出てきたらさすがのぼくもキレそう。

2018/09/27

ブログのカスタマイズはほどほどに

 なんとかずっとやりたかった形にブログのテンプレートを調整できた。トップページに並ぶ記事は全文表示から、冒頭部分を抜き出しての一部表示の一覧となった。少しは見やすくなったと思う。全文表示も古典的でよかったけれど、たとえば長文記事が連続したりするとそれより少し前にアップした仕事の報告とかが埋もれる。ちょっとした創作なんかをやった日にはそれをスクロールしていかないといけなくなる。仕事について書くときは写真が少し多くなるので、それがずらずら並んでるところも見づらかったので嫌だった。こうして一部表示の記事一覧となれば、そのあたりは全然気にしないでやっていける。サムネイル画像とテキストが横に並んで配置されたらもっといいのかもしれないが、ここまでやるのにだいぶ苦労したし、これ以上コードをいじりたくないのでこのあたりでもういいだろう。疲れた。

 bloggerはこの国では全然流行ってないらしく、カスタマイズ例を紹介してくれる有志の数も少ない。しかし、記事の一部表示一覧は利用者みんなが考えることらしく、見た限り有志ならなにかしら方法を書いていた。ただ、それぞれちょっとずつぼくが欲しいものとズレていたり、ちょうどよさそうでも参考にした結果あまりうまく動作しなかったりして、困った。もう少し知識があれば自由度も上がるのだが、専門でないものはひとが作ってくれているものや有り物を使うのが一番いい。必要以上に負担を抱えずに済む。基本的に技術的なものは人任せである。

 結局いちばんイメージに近いことをやっているひとを参考に、そこに自分なりの調整を加えてこの形になった。たぶんいろんなブログで見たやり方をごちゃ混ぜに打ち込んでしまっているので、互いに干渉して動作していない部分も多いと思う。自力で全部書くのは難しいだろうけれど、せめてひとが書いていることや、仕組みが完全に理解できれば、一貫性のある記述ができるんだけどなあ。こういうことを一旦始めると他のことそっちのけでいつまでもやってしまうから辛い。別に急ぐことでもなんでもないのに、どうも自分のウェブサイトが自分にとって不完全な状態、調子悪い状態でネットの海に浮かんだままになっていると思うと落ち着かず、気が済まなくなるらしい。中学生で初めてホームページ的なものを作り始めたときもそうだった。ブログを初めて書いたのもその頃だけど、あれもだいぶテンプレートいじりで悩んだ。今よりももっと知識がなかったから、かなり原始的なことで悩んでいたように思う。それをほっといたまま学校行くのが嫌でしょうがなかったな。それがなくとも学校行くのは嫌でしょうがなかったが。

 そんな感じだったのにウェブ設計の方に進むほど興味は持たなかった。あくまで趣味の域にとどまった。ていうか、そもそもネットで絵を発表するための媒体を作りたかったわけだから、ウェブ作りそのものが目的になることはないわけだ。コンピューターのことはそれほど得意じゃないし。ホームページ作りも、打ち込んだものがなかなかうまく反映されず苛々することのほうが多い。その分うまくいったときは楽しいけれど。

 しかし、こうしてかなり時間を使って、苛々しながら打ち込んでは消しを繰り返しながらも、それでもまだ完璧ではなく、まあ許せるくらいのものしか作れないということに、少し落ち込む。仕事にしていることでもないのだからまあいいじゃないかと思う自分もいるが、同時に、もっとできれば思ったようなサイトがいくらでも作れるのに。完璧な形で文章や絵を載せられるのに、と言う自分もいる。

 中学のときはどうやって納得させたかというと、とりあえず自分は絵でも文章でも、とにかく数作ることに専念しようと考えた。ガワのことはとりあえず考えなくていい。そこにも作品的な性質はあるが、いちばん重要なのはそこに載せる絵だ。最低限のものになっていればそこまで凝ったものをデザインにする必要はないし、そもそも掲載する絵以外に絵みたいな部分がベースにあったら見づらいだろう。まっさらなところに絵と文字が並んでいれば十分である。

 大人になった今、中学生のときよりは体裁や見た目を気にしたほうがいいような気がするのだが、でもやっぱり凝ったことはできないので適当なところで諦めてしまったほうが楽だろう。重要なのは絵。あと文章。とにかく数作っていく。モバイル閲覧時の体裁も本当に面倒くさくて本来の目的を見失いそうなので、もう気にしたくない。モバイルはモバイル向けのテンプレートに切り替えているので、細かい部分調整できないし味気ないけど、簡易版ということで。とにかく早く中身に集中したい。

2018/09/26

恐竜はバカみたいな色のやつがいい


 夏の終わりに虎ノ門のタミヤの店でティラノサウルスのプラモデルを買った。レトロな感じがいい。バンダイの綺麗で優しいキットばかり作っていたから、接着剤がないと組み立てられない、成型色が灰色一色の昔ながらのプラモデルは新鮮だった。作る感がある。恐竜の玩具が欲しかったんだけど、なかなか好みに合うものが見つからないでいた。シュライヒの精巧かつ頑丈な動物フィギュアの恐竜がコレクションには定番らしいのだが、どうもしっくり来ない。色が思っているのと違う。だいぶ細かく塗られているのだが、色味が全然好きじゃない。茶色とかくすんだ色ばかりで、明るい色があると思えば禍々しい柄だったりする。実際に地球上にいた生物としてリアルさを出しているのかもしれないが、生物学的な色彩などあまり求めていない。もっとバカみたいな緑色一色みたいなやつがいい。『ジュラシック・パーク』以前の、昭和の恐竜のイメージである。爬虫類的な緑色しかイメージされていなかった感じ。体型や形状も最新の研究に基づいてなんかなくていい。直立に近いポーズで頭が大きくて歯列がむき出しの、怪獣のようなティラノサウルスでいいのである。わかりやすい恐竜のイメージがいい。ウェスタン・リバー鉄道で途中遭遇するやつらみたいな感じでいいのだ。ストップモーションの初代『ロスト・ワールド』の感じでいい。
 
 タミヤの恐竜キットはそのイメージにぴったりだった。見ての通りティラノサウルスもかなり妙な形である。頭が平らで並んだ歯の感じも非常に間抜けで素晴らしい。お尻がやけに膨らんでるところも着ぐるみの怪獣みたいだし、足なんてこれどうなってるんだ。粘土細工みたいなところなんかまさに古典特撮のようだ。というわけでバカみたいな緑色に塗った。何色にするか迷ったが、500円くらいのものなのでまた何個か作ってもいいかも。とりあえず普遍的な緑色にしたけど、あえて真っ黄色とか、どピンクにしてみても「そういう置物」らしくてかわいいかもしれないし、気が向いたらリアルさを意識して普通に塗ってもいい。まあ、この間の抜けた感じのレトロな造形にはあまりリアルな色は合わない気がする。

 とりあえずバズ・ライトイヤーのフィギュアと並べて飾っている。自分なりにチョイスした玩具で『トイ・ストーリー』っぽい連中を揃えるのもおもしろいかもしれない。それこそタミヤの兵隊のキットを全部緑に塗ってマニアックなアーミーメンを作ったら楽しそう。

2018/09/25

やはりブログを書きたい

 またひとのブログを見て、やはりブログを書かなければならんという気分に。忙しいことを理由に放置しがちで、更新と言えば仕事の記録ばかりだが、もっと感覚的に、好きなことを書き散らしたい。ツイッターでばらばらと書いているだけではもったいないし、いまひとつ欲求が満たされない。長文をだーっと書きたいという欲求があるんだろうな。連続ツイートしてもそれは満たされない。ブログには「いいね」は付かないが、直接の反応が見られなくてもいい。むしろ誰も読んでないだろう、という気分で書くことができるから気が楽だ。それでいながらもしかしたら読んでるひとがいるかもしれない、という微妙にひとの目が意識できるところがちょうどいい。誰も見ないノートに思いつきや愚痴、思考の地図みたいなものを延々書くこともあるけれど、無制限すぎてページが茫漠と広がっている感じで結構途方に暮れることもある。全くひとに見せないというのも逆に不満が残るのだ。というわけでブログが最高。もはや以前のように日記の書き方とか、趣味と仕事のバランスとか、そんなことは気にならない。余計なルールなしに、一度好きなように書いてみたい。そういう意欲を刺激してくれるブログがあったわけ。ひとのブログを読んでそういう気持ちになれるのはいいことだ。読みたいという気持ちも書きたいという気持ちも満たされる。
 
 好きなようにしばらく書くことで見えるものもあるかもしれないし、そんな下手な目的みたいなものは持たないほうがいいのかもしれない。いずれにせよ文章を書きたい、創作がしたいという欲求が奥底にあって、ブログを書くのがいちばん手っ取り早い。大長編小説を書こう、などと変に構えて書き物机の前に正座して(もちろん和服である)原稿用紙に万年筆を走らせる、あるいは山奥のオフシーズンのホテルに家族とともに住んでタイプライターに向き合うなどという様式的なことはしないでいい。ブログに思いついたことを書いてしまえばいいのだ。イラストレーターのブログらしくしなければ、アカウントらしくしなければなどもはや考えなくていい。文章を書くことも絵を描くことも分けなくていい。実際合体している仕事もある。いや、仕事がどうだろうと関係ない。やりたいと思ったのなら全て等しくぼくのやりたいことだ。絵も文章もセットだし、もしかしたらレゴ・ブロックでホグワーツ城を建造することも同じことなのかもしれない。思ったことを書く、なんかのお話を書く、絵を載せる、スター・ウォーズの話をする、仕事の紹介をする。それがこのブログだ。オーケー。

ダース・モールの変化を考える

 『クローン・ウォーズ』、『ハン・ソロ』、『反乱者たち』という三つの時代でどう変わったのかを考える。CWを生き延びた後で犯罪組織のトップに君臨できたのは戦時中にそういう連中とつるんでいたりして暗黒街に精通していたから(そりゃ全身刺青入れてるあんなおっかないやつがギャングのボスにならないわけがないよな……)。そもそもEP1以前にシディアスの命令でブラック・サンの要人を抹殺したりしているのでその時点から闇社会にはかなり通じている(レジェンズ設定だが、CW製作陣は少なくともこのことを参考にしている)。シディアスやその師であるプレイガスはジェダイへの復讐と銀河支配のために裏の世界に影響力を持っていたわけで、犯罪組織と手を結ぶのはシスお馴染みの手段。案外CWでのモールも師たちのやり方を参考にどんどん勢力を伸ばしたのかもしれない。
 
 『ソロ』のモールはおよそ20年ぶりにレイ・パークが演じたとあって、だいぶ貫禄があった。ガタイはいいがほっぺにボリュームがある。アニメのモールは顔が面長でスマートで物足りなかったが、下半身を失ったまま半狂乱になってゴミ溜めで生き延びていたのだから痩せていても変ではない。研ぎ澄まされているということ。やたらとしゃべるのはずっと独りだったからだろう。小説「ダース・プレイガス」によればドロイド相手に訓練に明け暮れる日々、時折シディアスが様子を見に訪ねてくると結構うれしかったらしい。かわいいじゃん。

 『ソロ』では犯罪組織のボスなので、食事も栄養もよく取れていることだろう。下半身が丸ごと機械だと普通の食事でいいのかどうかはよくわからないが。その機械の両足もCWとはデザインが違うようだが(なんだかロボコップみたいになっている)CWを経て装備が変わっていても不思議はない。コミックとか読んでないのでわからないが、シディアスに負けた後下手をしたら義足が奪われていたかもしれないし、戦いで破損したのかも。

 『反乱者たち』では主人公エズラにダークサイドを説く闇仙人として登場する。独り。上半身は裸。隠れて暮らさなければならないらしく、ギャングのボスの頃よりも過酷なせいか痩せに戻っている。『ソロ』のあと、彼の犯罪組織は帝国軍に攻撃されたか、ライバル組織との抗争によって壊滅したか、彼自身が裏切れて破滅したのかもしれない。シディアスに裏切られた彼のことだから最終的な目標は皇帝に復讐すること(もちろん生きているとわかればオビ=ワンも)、さらに帝国を乗っ取ることも視野に入れていただろう。帝国との敵対は必須である。クリムゾン・ドーンなる組織の規模はよくわからないが、CW時代にモールが率いた組織シャドウ・コレクティブがある程度元型になっているならそこまで小さくはないだろう。帝国にとって目障りな犯罪組織となれば標的にされる。『ソロ』劇中でケッセルのスパイス鉱山を牛耳っていたパイク・シンジケートという組織はCWでシャドウ・コレクティブに加わってモールに協力していたが、分離主義勢力との戦いで多くの犠牲を出すと同盟関係を終わらせた。間接的とは言えモールの命令で動いていたベケットやソロたちがケッセルで連中と敵対するのはそのため。このようにモールには敵が多いので、『ソロ』から『反乱者たち』までの間に決定的な敗北をして多くを失う。全てを失ったモールにとって、自分と同じく隠遁の身になったオビ=ワンと対峙することは唯一の救いだったのだろう。ここで憎きケノービとの決着さえつけられれば、自分の存在には意味があったとでも考えたのかもしれない。

 まあ顔つきが実写映画とアニメで違うのなんて、そんなのアニメのデフォルメだとしか言いようがないが、見た目が変わっているときとそのときの状況や身の上はそんなにズレてはいない。痩せているときには痩せているなりの背景がある。

 こうして書いてみると散々なやつである。暗殺マシーンのごとく育てられてシスの野望の駒にされ、腰から上下に真っ二つにされながらも生きながらえて戻ってきてみたら居場所がない。シスとジェダイ両方を相手に独力で勢力を広げるも、とうとう父親同然のシディアスに敵視されこれに敗れる。密かに犯罪組織を率いて帝国の時代になんとか座っていられる場所を得るが、そこからもやがて追われる。最後にオビ=ワンとの一騎打ちに人生の全てをかけるが、あっさり敗れる。シスにもなれなければジェダイにも敵わず、暗黒街でも頂点には登れなかったモールは何者だったのか。何者でもなくなったザブラクの男は、オビ=ワンの腕の中で息を引き取る。

2018/09/22

映画『バーバラと心の巨人』イラスト寄稿



 10月12日より公開される映画『バーバラと心の巨人』に応援イラストを寄稿しました。公式サイトでご覧になれます。


 豪華な顔ぶれです。死後くん氏の絵が最高ですね。KILLしちゃやばいって。本作は日系アーティストのJ.M.ケン・ニイムラが作画したグラフィック・ノベル「I KILL GIANTS」の映画化作品。ウサ耳に眼鏡、身体と不釣り合いな大きなハンマー状武器という主人公バーバラのヴィジュアルは、日本特有の戦闘少女像を思わせます。最近だと「悪魔バスター★スター・バタフライ」といったアニメもあるし、こういうモチーフもローカライズされているなあ。日本で作るとこれでもかというくらいキラキラした感じになって、もちろんそれが好きでそれに救われてる(?)ひともいるんだけど、そこにカートゥーン的な雰囲気が混ざると途端にパンチが効いてきて、女の子もどこか泥臭さみたいなものを持ち始めるからかっこいい。

才能は必要ないと言うひとには才能がある

 たとえば「絵を描くのに才能は必要ありません!」みたいなこと言うひとがいるけど、大抵の場合そのひとには才能があって、そのことにあまり自覚がないんじゃないかと思う。誰だって自分が当たり前にできることを特殊な能力だとは思わない。手塚治虫の名言(もしくは暴言)に「僕にもできるからあなたにもできます!」みたいのがあったと思うけど、あれなんかはいい例だと思う。天才というのはなかなか冷酷だ。恐らくそういう発言に傷つけられたひとは少なくないだろう。そりゃ、ただ単に「絵を描く」というだけなら技術もセンスも必要ないかもしれないけど、それを続けたり、他人に見せたり(不特定多数に向けて発表したり)、ましてやそれで金銭を得ようというのは、どんな場合でもやはり一定の才能があるはずだと思う。そんなことを言うと、ぼくにも才能はあるぜと言ってるようなものだが、別に否定はしない。才能というとなんだか掴みどころのない、いわゆるギフト的なものや霊的な壮大なものを連想しがちなので、ここはスキルとかやる気くらいの言葉に言い換えてもいいと思う。それともあれかね、ぼくは自分にそういうのがあると思っているからこそ、必要ないと言ってのけてしまうひとに反感があるのかな。そうではないと思いたいが。「必要ないって言えるのはあんたにそれがすでに備わっているからだよ……」と言いたくなるのは、やはりぼく自身の劣等感の裏返しなのか。あるいは、「いやいや、あんたには才能あるよ!」と敬意を込めて言いたいのかもしれない。それだけのものを描いてきて、才能が無いとは言わせないよ。

 いや待てよ。そもそも「絵を描くのに才能は必要ありません」は、別にそのひとが自分に当てはめて言ってることではないんだよな。この言葉の直前には恐らく「あなたが」というのがきっと入る。「あなたが絵を描くのに才能は必要ありません」つまり「オレみたいに長く仕事で続けるわけじゃないなら才能なくてもできるよ」ということか。なんだか腹が立ってきた。そう考えると「僕にもできるからあなたにもできます」というのとはまた意味が違ってくる。「僕にもできるから」というのはまさに自分の力を自覚していないが、「あなたがやる分には」は自分の能力を自覚している。やっぱり手塚治虫が一番怖い。

ラフォーレ原宿FRAPBOIS


 「ゲスの極み乙女。」結成6周年記念のFRAPBOISコラボにてメインイラストを描いています。24日月曜までラフォーレ原宿1.5階(階段)にFRAPBOISのポップアップショップが出ており、そこに大きく絵が貼り出されています。ラフォーレ原宿にこんなに大きく貼り出されることはそうそうなかろうと思い記念に撮ってきました。連休中よかったら観に行ってみてください。
 イラストが使われているグッズはTシャツとスマホリングとなります。
 Tシャツはオンラインでも購入できるようです。



2018/09/17

「TRANSIT」第41号




 トラベル・カルチャー誌「TRANSIT」第41号(euphoria factory)のニューヨーク特集にて、「リーマンショック以降のビジネスと社会」というページにカットを4点描いています。リーマンショックからの10年の間に、価値観やビジネスの形がどのように変わっていったのか、また今後どこへ行こうとしているのか、が4項目で解説されていて、それに対する挿絵。
 直前のページは長谷川町蔵先生によるコラム「HIP HOPは何を歌ったか」です。

 2008年の9月頃と言ったらぼくはまだ16歳の高校2年生。夏休みに観て例に漏れず衝撃を受けた映画『ダークナイト』の余韻冷めやらず、延々とジョーカーやトゥーフェイスをはじめバットマンの悪役たちのことを考えてばかりだったなあ。今もそのへんはあんまり変わらないか。
 
 ニューヨークの街の方の絵もそのうち描きたいな。行ったことないのに描いちゃいけないということはないし。

「CINEMORE」連載第9回


 映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
 「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第9回が更新されています。

 ティム・バートンも60歳。というわけで今回はバートンと彼の三人のヒーローたちについて。憧れの怪奇映画スターたちを自分の映画に起用して親交を深めるその姿は、まさに『エド・ウッド』でのエド・ウッドとベラ・ルゴシの関係と重なる。憧れを自分の世界に取り込んでいけるのも才能。

https://cinemore.jp/jp/news-feature/412/article_p1.html

瑞丸、レゴランドに行く


 夏らしいことなどひとつもせずに終わったが、唯一それらしかったのは7月下旬にレゴランドに行ったくらい。名古屋に仕事で用事があったので、いい機会だと思ってちょっと空いた時間に立ち寄った。2、3時間寄っただけだけど、とんでもない暑さだったのでそれくらいでちょうどよかったかも。広さやボリューム的にも、2時間だと物足りないけど5時間いたら手持ち無沙汰になりそうな感じだったので、ちょうどよかった。

 夏休み初日かその翌日くらいのタイミング、家族連れか外国からの観光客ばかりだったので、独りでまわる男はどうしても浮いていたと思う。だんだん流行ってきているらしい独りディズニーランドをやりたくてしょうがなかったけど、それより先に独りレゴランドデビューとなった。いろいろな楽しみ方が確立されている大御所のテーマパークと違って、まだまだ普通に複数人で行くところのようだ。日によっては独りでまわっているレゴ好きのひともいそうな気がするけれど。
 

 アトラクションはちょっとしか乗ってなくて、どちらかというとこのジオラマをメインで見てしまった。日本各地がブロックで再現されている。名所がぎゅっと凝縮されているんだけど、全部細かく見ていくとだいぶ時間がかかる。レゴランドといえばこのジオラマパーク、というイメージが子どもの頃からあったけど、実際に見てみるとだいぶ日に焼けて変色しているところも多い。そりゃそうだ。特にこの日はすごく日差しが強くて、見ている間にも色褪せていきそうだった。雨が降ったら濡れるだろうし。メンテナンスが大変そうだ。
 

 早朝の新幹線に乗ってやっと名古屋に着いたのにまた東京の景色を見るというのは微妙な気分だったけれど、よく出来ていますね。


 お台場のガンダムを独自デザインのロボットで再現。確かそばにあったボタンを押したら動いたような。道路の車は結構このボタンとかハンドルで動かすことができて、街の雑踏やお祭りの音などが出る。


 東京エリアもそうだったけど、実際にある広告やその位置関係の再現度が高い。提携している企業はそのまま作り、そうじゃないところは少し名前をアレンジしたり(渋谷のTSUTAYAはTSUBASAに)それっぽいものにしている。それっぽいものでリアルな景色を作るというのは、イラストを描いている人間としても結構参考になる。むしろ実際の看板をそのまま描くより芸があるかもしれない。


 グリコの看板もミニフィグの絵にしたのだからこういうのもミニフィグにすればいいのに、と思う。細かいとは思うけどレゴの世界観ぽくない。「BISHIE」というのは「BISHONEN(美少年)」を指す英語ネットスラングだそうだ。右のピンクのところにある字はよくわからない。「GUCAR」と読めると思うんだけど調べてもヒットしない「SUGAR」の間違いかな。BISHONENがBISHIEなら、美少女はどうなるんだろう。 BISHOまで同じだが。


 路線バスは別として、車はだいたい特定の車種を意識してなかった気がしたけど、土地柄かこのトヨタ車はよく登場した。どれか一台は前述のようにボタンを押すと動いた。



 富士山を中心にありがたい建物が大集合してかなりありがたい景色に。富士山はブロックではない。



 こういうのはさすがにちょっと。これくらいはレゴらしいキャラクターでよかったんじゃないかなあ。愛知出身の友人によると、こういうところが名古屋っぽい、らしい。ただ、版権キャラの処理の仕方は勉強になった。配色で連想させる一方で、明確にそれを作ってはいない、という微妙なライン。ニセモノというのは奥が深い。



 ジオラマをじっくり見ているだけでだいぶ時間が過ぎて、強い日差しと容赦ない暑さの中で細かいものをじっと見ていたせいか、途中何度か意識が遠くなり、ぼくはこの大量のブロックに囲まれて死ぬのか、と思った。


 レゴの定番、海賊船。森見登美彦氏の「太陽と乙女」カバーにも描きましたね。ディズニーシーの帆船と同じく中に乗れる。あそこまで広くはない。

 アトラクションはドラゴンのコースターと、サブマリンに乗った。ドラゴンは小さめのコースターなんだけど、これが結構怖い。王国シリーズ(騎士シリーズとも)でお馴染みの緑色のドラゴンの形をしたカートのおもちゃ感が頼りない感じなのだろうか、余計に怖く感じた。ぼくの体が大きいせいもあると思う。先日の台風直撃でこのドラゴンは一部壊れてしまったらしい。前述のジオラマもいくつかやられたとか。レゴは永久にその形をとどめてはおけないのか。
 サブマリンの方は、やはりレゴではお馴染みの黄色い潜水艇で海底を探検するという体で、ディズニーシーの「海底2万マイル」に近いんだけど、こちらは船窓の外を本物の魚が泳いでいて驚いた。水族館と提携しているので、潜水艇で大きな水槽の中をゆっくり進んで行くというような形になっているのだ。魚の種類も豊富で、普通に水槽越しに見るよりも距離が近いように感じておもしろかった。一緒に水中にいるような目線。これは絶対乗ってほしい。


 日曜の夜によくやっていた、はごろもフーズの缶詰コーンのCMを思い出す。ずっと見てると気が遠くなる。

 自分で部品を組み合わせてミニフィグを作り、それを買えるコーナーがあちこちにあった。部品はだいたい同じような感じだったけど、結構おもしろいものも多かった。子どもに混じってやっていると、欲しい部品を見つけた途端に横の子にかき混ぜられるよ。


 これもまた気が遠くなるが、レゴはこれくらいめちゃくちゃなごちゃまぜになっている方がそれらしい。かき混ぜているうちに元々探していた部品がどんなだったかわからなくなり、がしゃがしゃ言う音に酔ってきて一種のトランス状態に陥る。それがレゴ・ブロック。全てはサイコー。

2018/09/01

営業報告

■ ケトル VOL.44(太田出版)


 ゼロ年代音楽を振り返る「ケトル VOL.44」(太田出版)、「ゼロ年代の日本の音楽業界を振り返る10のキーワード」というページにて多数カットを担当しました。音楽には疎いぼくですが、ゼロ年代はぼくのティーンエイジと重なるので、なんとなく懐かしいものも多いです。


 子どものときはiPodなんてとても手の出ない夢のガジェットだった。最初はホイールのところにこんなにボタンがあったのか。


 高校にあがると背伸びして「ローリングストーン」誌など読むようになり、フェスに持っていくアイテム特集などよく見た。行かないのに。今でもフェス特集によく登場する、そこまで本格的でないちょっとオママゴト感のあるキャンプ用品とか見るのは好き。いや、本格的なものもあるだろうけど。なんか、ブーニーハットかぶってるひとばっかりになっちゃった。


 着うたの項目にこういったカットを描くにあたり、折りたたみ式携帯電話を調べていたら、なんかやっぱり「来ることのなかった未来」(未来は未だ来ずと書くのでなんだか意味が重複してる気もするが)感が溢れてたなあと思う。発光する小さな画面の中にぎゅうぎゅうに詰まったツール、デジタル表示、都会の早朝、宇多田ヒカル、そういうイメージ。
 シンプルな板状で全体が画面になっているだけの今の端末よりも、いろいろな形状があるのも楽しい。触れる立体感というか、モノとしての存在感がある。ボタンが触れるのも安心する。メディアスキンにちょっと憧れてたな。


 ボーカロイドなんて描くのは非常に久しぶりで、しかも仕事で描くことになるとは。自分の雰囲気でかわいく描けたと思う。初音ミクの発売は確か2007年頃だったから、もう感覚的には半分10年代に入ってる。


■ SPUR(集英社)



 「SPUR 10月号」ではシャーリーズ・セロン主演『タリーと私の秘密の時間』を紹介しました。赤ちゃんが身近にいるせいか、赤ちゃんの絵が少し上手に描けた。三人の子を産んだあとのお母さんを演じるためすごい増量をしたセロンの姿は話題でしたが、お話もなかなかすごいです。


■「婦人公論」(中央公論社)



 ジェーン・スーさんの連載、今回はフランスのお話。日仏の違い、そしてどこの国も変わらないこと。ということで、この並び。
 最初は雷門じゃなくて鳥居にしようとしていたが、凱旋門が特定の場所にある「凱旋門」であるのに対し、鳥居は特にどこの、というイメージがない上、なんだかずっしりした凱旋門に対して線が細すぎやしないかと思って悩んだ結果、雷門を思いつく。大きさは違うだろうけど、結構同じくらいの存在感あるんじゃないかな。
 いまどきパリジェンヌの格好がベレー帽にボーダーなのはご愛嬌。そもそも個人的にはブロンドより黒髪のイメージがあるが、絵的には、ね。少し「イッツ・ア・スモールワールド」的な感じも出てよかった。ステレオタイプ的表現には多少気を配りたいけど、こういういろいろな国のひと、みたいな絵をもっと描きたいな。


■ 通訳翻訳ジャーナル(イカロス出版)



 前にもカバーイラストを描いた「通訳翻訳ジャーナル」。脱サラして翻訳者になるには、という特集のカット。「会社を辞めて翻訳者になろう!」の見出しがちょっといいですね。