2020/01/18

ブログ移転

 昨年の更新をもってこのブログの更新は終わります。7年ほど続けていて、せっかくなら同じところで10年続けたいところでしたが、メインサイトをブログ形式で更新できるようにリニューアルしたので、そのいちカテゴリーを日記や雑記として使うことにしました。昨年サイトいじりを始めた際には、しばらくは新旧両方のブログを同時に使って様子を見るなどと書いていましたが、大方新しい方でよさそうな気もするので、さっさとこちらは閉めようと思います。
 そういうわけで新しい「ブログ」は以下になります。

https://mizmaru.com/archives/category/blog

 いずれにせよブログというメディアは続けます。拡散性が低い上読むひとも少なかろうと思いますが、その分ブログにはめまぐるしく流れていくSNSのポストにはない、じっくりと字数(そしてあるいはひとの目)を気にせず書き連ねられるという、自分だけのメディアとしての価値があると考えています。場所を移して気分を新たに、もっとたくさん文章が書ければいいなと思います。もちろん絵も。

2019/12/24

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019)


 
 ついに終わった。14年前の夏にも「完結」を経験したけれど、『シスの復讐』は最終章というよりは最後のピースがぴったりはまって6部作が「完成」するといった意味合いが強かったし、「本当は9部作の構想だった」という話がなんとなく幻想を見させてくれてはいたので、あまり終わってしまったというような印象は薄かった。しかし、もはやその幻だった9部作さえも完全に終わったのだ。

2019/12/19

サイトリニューアル中

 メインサイトをリニューアルしています。URLは変わらないけれど、中身をワードプレスで作り変えてみた。投稿にしろ固定ページにしろ、基本はブログ型になるけれど、カテゴリー別に記事一覧を表示するようにすれば、作品集としても使えるので、Tumblrの作品ページに変わるポートフォリオをようやく作れそう。さらにブログそのものもそちらで書けるので、いろいろと整ったらこちらのブログの更新は停止したいと思います。記事数も多くなってきて、もう少しすると開設から10年になるけれど、そんなもの待ってる必要もないので、あっさり変えてみてもいいと思う。いずれにせよ今すぐではないし、新しいブログを始めるとしてもしばらく同じものを両方に投稿して様子を見るつもり。『スカイウォーカーの夜明け』の感想も当然更新するだろうし。年末のお休みの間にいろいろと手入れができればと思っている。ホームページ作りはやっぱり楽しい。楽しいが、結構大変なこともあって時間が取られてしまうので、ある程度出来上がっているテンプレートを使って、その中で好きなように作るのがいいのかもしれない。なによりレスポンシブなレイアウトというのが、自力で手打ちしてやるにはきついものがある。用意されているデザインならどの端末で見ても文字サイズなど自動で切り替えてくれるから大変助かる。

2019/12/17

SW来日イベント


 ちょうどワールドプレミアをやっていたようだけれど、先週参加させていただいた来日イベントについて。レッドカーペット・イベント自体初めてな上にやってくるのがSWキャストたちとあっては舞い上がらずにはいられない。会場内はもちろん一歩外に出た場外にも見物客がたくさんいて、さすがはSW。最初に入ってきた車から真っ白な衣装に身を包んだデイジー・リドリーが現れたときの興奮と言ったらいちいち説明してなどいられない。だけどあえて書くなら、ああ、やっぱり本当にいたんだなという感じ。いや、いることはわかってる。映画だということは百も承知、キャストにしたって他の出演作を観てはいる。しかし、SWという衣をまとって現れると、途端に現実感が揺らいでしまう。おそらくは今回の『スカイウォーカーの夜明け』での白い衣装をイメージしたようなお召し物だとは思うけれど、ぼくはどこか『新たなる希望』のラスト、英雄たちに金メダルを渡すときのレイア姫を連想した。セレブレートにぴったりな衣装。ただならぬ輝きを放っていた。

 レッドカーペットというのはなんとなく一直線にずっと敷いてあるようなイメージだったけれど(本場ハリウッドでのイベントではそうなのかもしれないが)、今回は会場内でぐるりと回ったコースになっていて、一見大した距離には見えないけれど、それでもメディアのカメラの前に立ち止まっては丁寧にコメントし、一歩歩けばファンの声に応え、また別のメディアにコメントする、というのを繰り返しているとなかなか前には進まず、なるほどレッドカーペットというのは結構時間のかかる道なんだなと知る。アンソニー・ダニエルズ、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック、と次々キャストがやってくると、もうデイジーが今どこを歩いているのかよく見えなくなる。おそらくあの一際人だかりの大きいところがそうだろう、といった感じ。

 そういうわけで最初にデイジー・リドリーがコースの一番最後にあるマスコミブースにたどり着いたのは結構な時間が経ってからだけれど、不思議と長くは感じなかった。待ち遠しかったことは確かだが、待っている間の一瞬一瞬まで楽しい時間だった。それに長い道のりを歩き終えたスターたちの顔に全然疲れた様子がないのがすごい。さらにそのあとステージにあがって全員揃っての挨拶。ひとりずつでもフォースが強かったが全員並ぶと結構な迫力である。なによりこんな豪華な面々が揃ってやってきてくれたことに感激する。映画でもようやくレイ、フィン、ポーの主人公たちが揃って画面に並んでくれるわけだが、それがぼくの目の前でも実現しているのだ。『フォースの覚醒』公開からまだ4年しか経っていないが、この3人はもう立派なSWのヒーローたちである。

 そして初めてレッドカーペットを見物してわかったのは、柵の中でスターたちを待っているファンも相当タフということ。というかぼくも含め会場内ほとんど全員立ちっぱなしである。最初に書いたように場外から熱い視線を送っている大勢も同じで(途中で雨が降り出しても人が減る様子はなかった)、ああいうパワーを目の当たりにすると、こういうイベントはみんなによって出来ているんだなと思う。カーペットの両側で微動だにせず立ち続けていたトルーパーのひとも本当にお疲れさま。


 続いて翌日の記者会見。印象的だったのはやはりみんな口を揃えて「終わるのがさみしい」ということ。ぼくだってさみしいよ。しかし作っている側のさみしさというのは単にシリーズが終わるというだけではなく、毎日通っていた現場にもう行けないこと、そこで会っていた人々との仕事が終わってしまうということを意味し、それを聞かされるとSWと言えど仕事なんだなあと思った。それからアンソニー・ダニエルズの「あと数日で映画の内容を秘密にしなくていいと思うとほっとする」という発言も、なるほどと思った。そういうプレッシャーももちろんあるのだろう。そしてそれを聞いて、そうか、あと数日なんだと自分でもわくわくした。2年間、いや、『フォースの覚醒』公開の時点、もしかするとシークエル三部作制作発表の2012年からずっと待っていた結末が、あとほんの少しで明らかになるのだ。

 でもそのあとは?オスカー・アイザックの言うように公開されたら本当に終わりが来てしまうのでは?ドラマや次の三部作の話はあるけれど、このシークエル三部作は確かに終わってしまう。しかし、少なくともぼくは完結しただけでは本当には終わらないと思う。今と当時とでは感覚も状況も違うかもしれないが、2005年の夏、『シスの復讐』を観たあとのほうが熱を強く感じていたような気がする。知りたかった物語の全容がわかった上で想像が膨らむという面があった。映画館で観てきたものを頭の中で反芻し、さらに大きくしていた。子どもの頃のような想像の遊びは今ではしづらいかもしれないけれど、それでも大人になってから追い続けたこの三部作のこともずっと思い返し続けるだろうと思う。ぼくにとってSWのシリーズで断絶のようなものはない。全ては糸で繋がって、この先にも続いている。

 出演者や作っている人たちを間近で見て、当たり前のことだけれど生きた人間を実感した。彼らの姿、話していることを見聞きして、改めて自分はシークエルが好きなんだなとわかった。シークエルはとにかくいろいろなことを言われるが、作っている側も大変だろうということは言うまでもない。ぼくの思い込みかもしれないが、監督や社長の顔にはどこか大変な仕事を経験してきた疲れや、それが終わったことによる安堵のようなものがあったような気がする。楽しいことばかりではないだろう。むしろ大変なことばかりだと思う。ハットのように重い責任がのしかかっていることは当人たちが一番よく知っている。共同脚本のクリス・テリオがふと漏らした「喧嘩をしながら脚本を作った」という一言はずっしりと来た。一体どんな「喧嘩」を経て物語が完成したのだろうか?それを目の当たりにするのも、もう今週中のことである。終わるのはさみしい。しかし、これで9部作のサーガがついに完成し、「宿命の環が閉じる」と思うと、ずっと好きでいてよかったなと思える。














 あとは夜明けを待つばかり。

2019/12/10

「MOE」2020年1月号



 「MOE」2020年1月号にて、現在寺田倉庫で開催中の「スター・ウォーズ アイデンティティーズ:ザ・エキシビジョン」のイラストレポートを描いています。10月に全然仕事と関係なく個人的に見に行きましたが、その後でまさか仕事に繋がるとは。全体の雰囲気を紹介しつつ、好きで見入っていたところなども入れてレポートにしています。


 すでにSNSで撮ってきた写真はアップしているけれど、撮影OKということでとにかくたくさん撮ったので、それも交えてまた別にここで感想など書こうかな。

 この展示はそのタイトルの通りSW作品のアイデンティティー、世界観を支えるキャラクターたちのオリジンがどこにあるかを紐解く内容になっており、衣装や模型などの立体物ももちろん多いんだけど、やはりキャラクターの成り立ちということで設定資料やスケッチ、コンセプトアートなどの平面資料がとにかく多い。絵を描く身としてこれはかなりありがたく、ラルフ・マクォーリーやジョン・モロ、ジョー・ジョンストン、そして大好きなロン・コッブといったデザイナーたちの肉筆を延々凝視していた。そんなボリュームいっぱいの展示を見つつ、要所要所で自分自身の生い立ちや性格、ものの考え方等を入力していくと、展示を見終わる頃には自分のアイデンティティーが反映されたオリジナルのキャラクターが出来上がるという体験型の要素もあり、多くの意味で実際に足を運ばなければわからない楽しさがあった。




 今回の「MOE」誌上のSW特集自体も、デイジー・リドリーやJ・J・エイブラムス監督のコメント、シリーズ年表、SWのインスピレーション元となった作品たちの特集、絵本カルチャー誌ということでSWの絵本紹介など見所読みどころ満載です。絵本雑誌によるSW特集にイラストを描くことができて本当によかったです。

 「スター・ウォーズ アイデンティティーズ」は来年1月13日まで開催中。

「SPUR」2020年1月号



 「SPUR」2020年1月号の映画レビュー連載は、『シャイニング』の続編に当たる『ドクター・スリープ』。前号の『IT』に引き続き二回連続スティーブン・キングものです。雪に閉ざされたホテルでジャック・ニコルソン扮する実の父親に殺されそうになるも、母親とともに生き延びたダニー少年の40年後を、我らがユアン・マクレガーが演じる。特別な力「シャイニング」の使い方やホテルでの惨劇以降自分をつけ狙ってくる幽霊たちを退治する方法を身に付けたダニーが、自分と同じ力を持つ少女と出会ったことにより戦いに巻き込まれ、ついには再びあの展望ホテルに足を踏み入れることに……。

 『シャイニング』劇中での光景が回想として入るが、実際の映像と見紛うほどの再現度。それだけでなく、事件直後の後日談として、母とダニーのふたり暮らしの様子なども描かれる。当時のシェリー・デュヴァルやジャック・ニコルソンをCGメイクアップで再現するなどということはせず、全く別の役者がそこまで顔を似せることもなく雰囲気だけで演じているところがなかなかすごい。結構それらしく見える。こういうのを見せられると、このキャラクターはこの俳優でなければだめ、というようながっしりした縛りが緩み、キャラクターそのものの概念というか、象徴的なイメージが強くなるような気がする。バットマンはいろいろな俳優が演じてもいいというのと同じような感じ。

 『レディ・プレイヤー1』でも『シャイニング』のシーンを再現していたのが記憶に新しいので、似たようなパロディに見えないかどうか気になったけれど、丁寧な雰囲気作りでちゃんと『シャイニング』の続編に仕上げていたと思う。スティーブン・キングがスタンリー・キューブリックの映画版をあまり気に入っていなかったのは有名な話だけれど、今作はそんな原作者とキューブリック映画のファン両方に気を遣ったような、ちょうどいいところに落ち着いている印象。と言ってもぼくは『シャイニング』の原作も『ドクター・スリープ』の原作も読んでいないのだが。キューブリックの映画版とは少し違うノリの部分は原作由来だろうなあなどと読んでみた次第。『IT』もそうだけど、キング作品もそのうち読んでみたいなあ。

「婦人公論」12/10号



 気付いたら1ヶ月更新していなかった。反省反省。このままでは去年の記事数はおろか一昨年より少ないまま今年が終わってしまう。というわけで仕事の記録から。「婦人公論」12/10号のジェーン・スーさん連載の挿絵。台風被害が相次いこの秋、避難所生活を余儀なくされた女性たちに想いを馳せる内容。非常時には二の次以下にされてしまいがちな女性の健康上のあれこれ、自分を守るためにはもう少し「個」を保ってもいいのでは、ということでこのような絵。稲妻を白くすると誌面の地と繋がっておもしろいかなと思った次第。

 この場を借りて言えば、例の台風ではぼくの地元も大打撃を受け、何日も実家と連絡が繋がらず状況が全然わからないというような具合だった。電話が繋がらないとこんなに不便かと、普段電話で話すのが大嫌いなぼくが思うのだった。ずっと停電しているらしいのでネット環境ももちろんだめ。とりあえず連絡のついた高校の友達に直に様子を見に行ってもらってようやく無事とわかったのだけれど、こういうときに地元に友達がいるといいですね。仲良い人がほんのちょっとでもいると助かります。結局こちらの心配や流れてくる噂とは裏腹に、うちの実家に関してはそこまで深刻なことはなかった。田舎でひとも少ないから小学校で配る物資もだいぶ余ってしまったらしい。そのあともしばらく電気は戻らず電話も繋がらないので詳しい様子はわからないという状況が続き、まあ件の友達とは連絡がつく以上こちらに知らせる手段が一切ないというわけではないので、なにも言ってこないということは多分なにごともないのだろうくらいに思っていたけれど、それでも不安は不安ということで、弟が運行の再開した高速バスで向かうことになった。しかしうちの実家というのは街の駅からだいぶん離れたところにあり、最低限自転車でもないと移動は難しい。自分で車で行かない限り勝手に帰って勝手に立ち寄るというのがしづらい。こちらから向かうという連絡が入れらない以上迎えも呼べない(曲がりなりにも被災しているところを一方的に訪ねて迎えに来てくれというのも変な話になる)。どうしようかというところで再びさきほどの友達が登場。弟を駅から実家まで車で送ってくれるという。なんていいひとなんでしょうか。もちろん両親は変わらず無事。お父さんはいつも通りソファで寝転がっていた。心配して損した、なんていうことはもちろんないが、しかし自分たちが何事もないことがわかっている方にしてみれば、がんばって方法を見つけてこちらに連絡を入れようというような気が起きづらいのかもしれない。それにしてもどうしてそんないいひとがぼくなどの友達でいてくれるのだろうか。それはたぶんいいひとだからだろう。

2019/11/05

インスタグラムのDM

 インスタグラムはイラストや仕事のことを載せると同時に趣味の写真もアップしているのだが(趣味の方が圧倒的に多い)、最近はテキストをつけるのが億劫なのでノーキャプションで投稿している。ブログのように使う人も増えたと思うけど、個人的には写真主体のものなので下手に言葉はつけなくていいかなと思っている。なによりモバイルの端末でテキストを打つのが面倒くさいのと、文中にリンクが貼れないのも致命的に感じる(URL自体は書けるけど、シンプルなアドレスじゃない限りリンクも生きていなければコピーもできないURLを貼っても仕方がない)。まあ、普段のこのブログでもそんなにリンクを貼ったりはしないのだが。それでもなにか告知したりするときに不便だし、そういう理由もあってなかなかメインのポートフォリオページとしても使う気になれない。この際だから言うけど、イラストでも写真でも、作品を見せたいひとは母艦としてギャラリーページは別で持っておくべきだと思う。確かにインスタは手軽で広めやすいし反応もわかるけど、あれはあくまで出張所として使うべきで、サイトはインスタのみ、みたいのはあまりお勧めできない。と言って、ぼくがお勧めできなくたって大抵のひとには関係ないのだが。ただ、画質が低くなったり、画像の縦横サイズが制限されたりする仕様から考えても、メインのポートフォリオとして不十分であることはわかってもらえるはず。
 
 とは言え別に悪く言うつもりは全然なく、なにが言いたいかと言えば簡単に画像を流すツールとしては全然申し分ないのと、やはり視覚的なものというのは言葉の壁を越えやすいというのを改めて実感した。海外のフィギュアのフォトグラファーの何人かがフォローを返してくれたのはうれしく、やはりそれはぼくがスター・ウォーズのイラスト、特にスター・ウォーズのアクション・フィギュアのイラストを描いていたかららしくて、通じるものは通じるなあと思った。フィギュア写真を本格的にやっているわけでもなく、普段撮るものも別段おもしろくもないのだが、それでも絵を通してフィギュア写真を撮っているひとに興味を持ってもらえたというのはうれしい。なにか訴えるものを込められたのかもしれない。なにより普段一方的に見ているだけの相手が反応を示してくれるのはインターネットの醍醐味だと思う。視線を少しでも低くすると醜い応酬の絶えない世界だが、それでもまだ楽しさは残っている。残っているどころではない。これが本来で、本体なのである。初めてインターネットに触れてしばらく経つが、未だに驚きと感動は絶えない。

 十代の頃から見ていたSWのフィギュアのサイト、「Rebelscum.com」は初期から最新まで発売された全てのフィギュアの写真がアーカイブされている規模の大きいサイトなのだが、そこのフォトグラファーでもあるD・マーティン・マイアット氏がぼくのページを見てくれるようになった。彼は映画『マーウェン』のフィギュア撮影にも関わっていたので、このあいだSPURの映画レビューで描いた『マーウェン』のイラストも気に入ってくれた。これは雑誌かなにか?みたいな風に聞かれたので、日本の雑誌でイラストでレビューしたのですというようなことを説明したのだが、そりゃ知る由もないですよね。そこからはDMをもらって話が弾んだ。弾んだかどうかはわからないがいろいろと話した。最近は翻訳アプリの性能も上がって、それほど違和感のない英文がすぐ作れるから非常に助かる。もちろん思いつく限り自力でも打つ。おそらく片言の域を出ていないだろうけれど、それでも会話が成り立っているのでうれしい。同国人とも会話が成り立たないのにな。しかし、外国語を通すと言葉のやりとりとはなんと楽しいことだろうか。本当は母国語でもこれくらい楽しいはずなのだ。簡単に扱えるから雑になっているだけで。ぼくは言葉を今よりもっと時間をかけて考えていくべきかもしれない。ちなみにマイアット氏はぼくが田舎でブラウン管のパソコンモニターを通して彼の写真をぼけえっと見ていた頃、東京にいたこともあったらしい。件のサイトは全てのフィギュアの詳細を写真で見せてくれるので、手足がこれだけ動くとか、ヘルメットを脱がすとこうなるとか、そういうのが全部わかった。なのでアマゾンのページでよくわからないところはそこで確認して、購入を検討したものである。

 それにしても皆インスタのDMをよく使うんだなあ。SPURで前に紹介した『エイス・グレード』でもティーンたちはインスタDMでコミュニケーションを取っていた。おそらくこちらでのLINEくらい使っているらしい。当初劇中ではフェイスブックのメッセージ機能を使う予定だったところを、主演の子にそんなの今誰も使ってないっすよと言われて変更したのだとか。しかしそれも今に古くなってしまうのが世の常である。とりあえず今は楽しい。見ず知らずの外国人にもばんばんDM送るくらいの勢いは見習いたい気もする。コメントやDMをくれたひとはほかにもいるのだが、それはまた今度話そう。

10年前のポケモン

 慌ただしい10月が終わって力が抜けている。もちろん11月もやることはあるのだが、ひと通り大変な時期が過ぎるたびに一旦放心してしまう。とりあえず週末は本を読んでネットフリックスを観てレゴを触って放ったらかしてあったポケモンのゲームをやった。新しいものではない。10年前のタイトルである。それでもブランクがあるのでぼくには新しい。知らないポケモンが増えていてわけがわからない。せいぜい第3世代くらいまでしかわからないのだ。新しいキャラクターは見ているぶんには楽しいが、何タイプのやつなのかわからないやつもいるから困る。たとえば以前は全体的に黄色っぽかったら電気タイプ、青かったら水、緑だったら草、赤かったら炎、というように初めて見たやつでも色でなんとなくタイプがわかった。灰色だったら岩とかね。そうでなくてもデザインでなにがモチーフなのかがわかれば、タイプもなんとなく予想できる。岩っぽいなら岩。まあ、これも第2世代の時点で樹木と見せかけて岩、みたいなやつが出てきたのであてにならなくなったが。少なくともそういうのは特殊な例だった。ところが今プレイしているものだとそれらが全然ヒントにならない。慣れればわかるようになるのかもしれないが、モチーフもなんだかなんの動物なのかわからないというか、無機物なやつも増えたと思う。そもそもタイプそのものが増えているので、炎は草に強く、草は水に強く、水は炎に強い、というような直感的にわかる関係が複雑になった気がする。10年前の作品でもこれだから、最近のは相当大変だろうなあ。毎作欠かさず追っていれば全然そんなことはないのだろうけれど。そういうわけでひいひい言いながらポケモンをやっている。なんだかんだゲームはポケモンくらいが一番ちょうどいいと思う。ブランクが長い分、やっていない作品はまだまだあるので、楽しみは残っている。全部やってようやくスイッチの新作に手を伸ばせるけど、そのときにはもう新しいプラットフォームが出てきているかもしれない。電子ゲームはこれが厄介である。その点レゴブロックは30年前のパーツでも現役で使えるのでいい。摩耗してスカスカになっていなければ。

絵本「OH NO!」


 作画を担当した木坂涼さん作の絵本「OH NO!」が偕成社より発売されました。初の絵本作画ということで慣れないことが多かったですが、形になってなによりです。見ての通り題字や著者名も描き文字で、背表紙、カバー色含め装丁と言える部分もやりました。「はじめての英語の本」、というのがテーマで日本語情報が皆無のカバーとなっています。



 「OH NO!」をはじめシンプルなフレーズが様々なシーンで飛び出す1日を描く内容。やさしい英文だけで展開します。


 こんな感じで誰かしらが「OH NO!」と言います。


 最初はひとの「OH NO!」を笑って見てる主人公だが……。


 小学校に上がるくらいのお子さんが身近にいる方はプレゼントにぜひ。最初に触れる英語がぼくの描き文字だったら、うれしいな。書店によってはその外観から海外の絵本の棚に置かれていましたが、まあそれもよいでしょう。自分ではあまり意識していませんが、「向こうっぽい」と言われる絵を描いてきて、なんとなく結果に繋がったように思います。トミ・アンゲラーが亡くなった年に、「すてきな三にんぐみ」の邦訳を出している会社から作画担当の絵本が出たのは、一種巡り合わせだと思うことにしています。

2019/10/26

The Mandalorian


 本国ではいよいよ11月からディズニープラスで配信開始のドラマ「ザ・マンダロリアン」より、ザ・マンダロリアン。アクション・フィギュアの予約に出遅れてしまったのでとりあえず全身描く。描くとそれだけでシェイプが手に伝わってくるような気がするので、欲しいフィギュアがあったらまず描くのがいいと思う。結局こいつの名前は出てなくて、フィギュアなどでもそのままザ・マンダロリアンという名称になっていることから、クリント・イーストウッド扮するバウンティ・ハンターと同じように名無しで通すキャラクターになるらしい。もちろん全然いい。初登場時のボバ・フェットよりも謎に包まれているわけだが、そうなるとやはり素性というか正体が気になってしまう。名前さえ出さないのにはなにか理由があるのではないか。こいつの正体自体が物語の重要なキーなのではないか。いっそカークーンの大穴を生き延びたボバ・フェットなのではないかという見方さえある。言われてみれば演じるペドロ・パスカルが本編中で素顔を見せるとは限らないわけで、普通にボバ・フェットである可能性もなくはない。結局ボバ・フェットかよと思ったりもするが。それにもしボバが正体を隠して活動するのなら、彼の代名詞であるところのマンダロリアンのヘルメットなどかぶったりはしないのではないか、とも思う。

 ところで絵に描いてみるとその装備は結構ごちゃ混ぜに見える。特に初めてヴィジュアルが公開されたときから言われているように、右の肩当ては『ローグ・ワン』に登場したショア・トルーパーのものに非常に近いし、左の方はまた別のものだ。腿のパーツも左右バラバラで、ジャンゴ・フェットやボバ・フェットに比べて規格の揃った装備ではない。ジャンゴの鎧が綺麗に揃っていたこともあって、ボバの装備はだいぶカスタマイズされているように見えたものだが、そのボバよりもさらにジャンクな印象。不揃いで左右非対称な感じが、とてもベテランっぽい。さらにヘルメットはクロムメッキでいよいよごちゃ混ぜなのだが、色彩によって整えられているところもあり、ヘルメットがいい具合に際立っていて、他のキャラクターにはない雰囲気がよく出ている。


 おまけで「ホリデー・スペシャル」カラー。先が二股になった槍状の武器は「ホリデー・スペシャル」でボバ・フェットが持っていたものとしてお馴染みだ。鎧にクリーム色が盛り込んであるところもホリスペのボバを意識してそうだけど、どうだろう。そこでショア・トルーパーのパーツが役立ったというのも、どちらも好きな身としてはうれしい。

ブログのテンプレートがおかしくなったので

 モバイルで閲覧する場合はデザインが決まっているので関係ないけど、PCでのブログのテンプレートがなんだおかしくなった。カスタマイズしたものでどこをどう直すかもよくわからなかったのでとりあえず既存のスタンダードなテンプレートに切り替えました。

 具体的に言うと部分ごとでフォントが違ってしまったんだけど、テンプレートの編集は全然触ってないのでなにがきっかけでそうなったのか見当もつかない。なんとなくページ自体というよりブラウザの問題じゃないかとも思ったけど、実は使い勝手もあまりよくなかったのでいい機会と思い前の形に戻した次第。インデックスで記事冒頭の見出しが並ぶ感じが見やすいとも思っていたけれど、記事によっては抜粋分だけで終わってしまうボリュームのものもあったので逆に煩わしいところも(ちょっとした短文も書きづらい)。知識があれば記事の字数に応じて冒頭を抜粋するようにもできたのかもしれないけれど、あまりそこまで凝る気にもなれない。ぼくは基本的に用意されているフォーマットを使うことに徹するタイプなのだ。

 記事本文の冒頭部分だけが並んでいる感じは一見シンプルでよかったけど、そもそもその形式にしようとしたのは、記事が丸ごと上から下に並んでいる形だと、ひとつの記事が変に長くなったり載せる画像が多くなったりすると見辛いのではないかと思ったからで、それも記事ごとの区切り(投稿ごとのヘッダーとフッター)を強調すればわりと解決するし、最近は仕事の紹介を一件ずつ書くようになって、あまりひとつの記事でごちゃごちゃしなくなったので、前の形であまり懸念がなくなった。なんだかんだ昔ながらのブログの形式が好きというのもある。ずらっと文章が並んでいるところがいい感じだ。見栄えに関してはきりがないし、あまりガワのことを気にせず単純なフォーマットの中で書いていきましょう。

「SPUR」12月号



 マヤ・ホークがカバーを飾る「SPUR」12月号の映画レビュー連載では、リメイク版の第二章『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』を紹介しています。前作での子どもたちの戦いから27年、大人になってそれぞれの人生を歩む仲間たちが故郷に戻って再び恐怖と対峙する。個性的な子どもたちをそれぞれまたクセのある大人俳優が引き継いでいるのも楽しいけれど、大人になってようやくトラウマと向き合えるという、時間の積み重ねが画面から感じられるのも良さ。CG時代のスティーブン・キングものはイメージが留まるとこを知らない……。いっそマヤ・ホークも出てきそうな雰囲気だけど、思えばオリジナル版を真似た「ストレンジャー・シングス」と、とても「ストレンジャー・シングス」っぽく見えるこのリメイク版、不思議な環ができている。こういう相互の影響がいいものを作っていくんだなあ。

「婦人公論」11/12号



「婦人公論」11/12号でのジェーン・スーさん連載挿絵。今回は話法のアップデートについて。今日日前線で情報に触れて思考していれば自然と身につくであろう考え方や言葉の選び方、慎重さなどが全然見られない相手は現役としては扱えない、アップデートを欠かしてはならないというお話。とっくに合理的で筋の通った形に更新されてしまったことがらについて、いつまでもひと昔前の非合理なスタンスでいるということは、前線で新しい情報に触れていないということ。もちろん常に風通しをよくしていてもそれぞれ少しずつ違う考え方をするのだろうけれど、しかし現役であれば考え続ける姿勢自体は誰しも変わらない。現役と退役ということで鳥と恐竜を添えて少しポップに。

2019/10/14

大人の相槌

 何人かで集まっているときなんかに、興味のなさそうな、あるいは知らなそうな話題に自然に相槌を打てるひとは本当に大人だと思う。興味がなさそうで知らなそうというのも決めつけかもしれないが、しかし話の文脈上そのひとが知り得ないであろうことにうなずいていることが多いので、まあそう見て問題ないだろう。ポイントは自然であること。知らないのになにうなずいてるの、などという意地悪な指摘をさせることのない自然さである。その自然なうなずきは、話者をリラックスさせその舌をより滑らかにする。場が盛り上がる。だから大人として身に付ける技能なのだろう。もちろんぼくも立派な大人なので、何度かこれを試したことがあるのだが、ぼくがやるとどうも不自然さが際立つのか、「うんうん言ってるけど興味ないでしょ?」とはっきり言われてしまう。はっきり言うことないじゃないか、がんばってるのに。しかし、がんばらなければできないようならまだまだだ。大人の相槌はそいつがうなずくことに違和感を覚えさせない自然さあってこそである。わざとらしくうなずくよりは黙ってたほうがいいかと、よくわからない話題の際には静かにしていると、それもやっぱり「興味なさそうだねえ」などと言われてしまう。どうしろというのだ。興味がないことが多すぎる。というか、そういう場合は大抵興味とか以前に、ぼくが知らないひとや出来事の話題だったりするので、興味の持ちようがない。そこで自然な相槌、あるいは「へえ、そんなことがあるんですねえ」などと今初めて聞かされる立場をうまいこと使ったようなことを言えるといいのだが、まあそれができたら今頃社交界のスターだよな。

2019/10/05

「婦人公論」10/8号



 「婦人公論」9/10号でのジェーン・スーさん連載挿絵。サーカスを観に行かれたというお話。

「SPUR」11月号



 「SPUR」11月号の映画レビュー連載では、『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』を紹介しています。エイス・グレードとは8年生のことで、高校にあがるひとつ前の学年で、日本で言うところの中学最終学年。高校進学を目前にした冴えない主人公が、高校デビューに向けて一生懸命変わろうとするのだが、例によって自分らしくない無理をしてしまうというお話。それ自体は繰り返し描かれてきたような気がするけれど、インスタグラムでのコミュニケーションや主人公がYouTubeで動画を作っていたりとイマドキなティーンの生活が描かれているのが魅力。大人になって子どもができてもまだぼくにはティーン的な悩みが残ってるんだなと観ていて思ったけれど、案外誰でもそうかもしれない。

2019/09/29

『ジョン・ウィック』(2014)


 ロシアン・マフィアの若頭が車欲しさに男の家を襲撃する。手下とともに男を袋叩きに、うるさい飼い犬は始末して、まんまと69年式のマスタングBOSS429を自分のものにするが、持ち帰った車を一目見た途端組織の古株が血相を変え、ボスである父親さえも激怒する。車の持ち主の名はジョン・ウィック。かつて組織のために働いていたこともある伝説の殺し屋で、車と犬は妻を亡くしたばかりの失意の彼にとってかけがえのない存在だったのだ。最強の男ジョン・ウィックを怒らせてしまったことに戦慄するマフィアのボス。しかし自分の息子がやらかしてしまったことだ、もうやるしかない。というわけで、マフィア対ひとりの戦争が始まるのだった。

 犬は愛らしいし、車はかっこいいけれど、それだけではない。どちらもジョンにとって亡くしたばかりの妻の存在に通じる大切なものだった。犬は死期を悟った妻がこっそり手配していた新しい家族であり、車には裏社会からの引退を決意させるほど愛した妻との思い出が詰まっていた。妻を亡くし、彼女が遺したものさえも奪われてしまったジョンにとって、裏社会への帰還と復讐は自分自身を取り戻すための唯一の道だったのだ。

 キアヌ・リーブスの不吉な佇まいとスマートなアクションがいいのと、やっぱり漫画みたいな設定が魅力。殺し屋ばかりが集う高級ホテル、裏社会だけで流通する独自貨幣、独自のルール、あからさまな隠語……。それらをひたすら高級に、重厚に、格調高く描くので、文句なしにかっこいい。中学生の頃観たらより夢中になったことだろう。まあ当時も『コンスタンティン』に夢中だったので似たようなものだが。裏社会の世界観も天国地獄といった異界と置き換えられそうだ。どちらも不吉な顔つきのスウェーデン人が君臨しているし。ちなみに『コンスタンティン』のサタン、ピーター・ストーメアは二作目に登場するがその話はまた今度。

2019/09/24

久しぶりのインク



久しぶりにインクで線画を描いてみた。色はいつも通りデジタル彩色。ほとんど似たような感じで描けるということもあって線画含めフォトショップでしばらく描いていたけれど、やっぱりどうも画面の中だけで作業が完結するのは疲れるところもあり、紙に触れる習慣は絶やさないほうがいい。うまく扱えずに諦めかけていたGペンも、久しぶりに触ってみて、全然イラスト向きじゃない万年筆用の薄いインクをつけて描いてみたら、これがなかなかスラスラ描けるではないか。どうも以前使っていたインクは濃度が高かったらしい。さらさらした軽めのインクだとうまくいくらしいのと、ペンの運びを立体的に意識するとうまくいくヨーダ。紙の表面になにかを彫りつけるような感覚、普通のペンではなく彫刻刀を扱うような気でいるといい。そういった立体的、物理的な感触は、不思議と手に心地よかったりもする。それにデジタル作業にはない緊張感もかえって集中を誘う。キータッチで元に戻せないのは不便で不安でもあるが、逆に偶発的な線を見つけることもでき、一見思ったように引けなかった線にもだんだん価値が出てきたりする。もちろんかと言ってデジタルで描くという行為の地位は低くなったりはしない。それぞれ一長一短である。絵を描くという行為自体に差はない。道具の違いだけである。というのを何度説明してもわかってくれないひともいる。なんにせよ、肉筆で描く習慣はデジタル作業の方にもいい影響を与えるだろうし、逆もあると思う。

「TRANSIT」第45号




 ロンドン特集の「TRANSIT」第45号、「ジェントリフィケーションと変化するロンドンの街」ページにイラスト描いています。ロンドンのジェントリフィケーションを促進させている人々について。これでイラストで関わった「TRANSIT」は4冊目となりますが、今回も読み応えのある内容。旅行もしたくなります。イギリス関連でもちろん王室の解説もあり、日本の皇室も含めた「世界の王室大全」もおもしろいです。イギリス的なアイテムの絵も、自分でもう少し描こう。

 どうも旅行に対しても一歩踏み出しづらい性分だけれど、これからはもう少し挑戦してみたい。ロンドンも特に関心の強いところなので行ってみたい。専門学校時代、研修旅行でヨーロッパに行っていた一団が羨ましかったものだ。いずれ自分で行こうと思っていた。でも、どこかに行ってみたいと思っていると、大抵なんの目的で行きたいの?とか言われて出鼻をくじかれることも多い。そんなことで出鼻をくじかれるぼくも弱すぎると思うけれど、しかし、なんの目的かって言われたら、言葉に詰まってしまう。特にないけどなんとなく行きたい、みたいなことを返せば、そんなノリで行ったって意味ないよみたいなことを言われもし、鼻どころか心が折れてしまいがちだった。でも、今にして思えば目的なんてなくていいに決まっている。むしろ目的のない旅行に行きたい。特別見たくてしょうがないものがなくても、行ってみないことには始まらないと思う。

「エドウィン・マルハウス」を読み返す

 この夏はまたスティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」を読み返していた。読み進めていないものも結構あるのだが、これもたまに読み返したくなるので。特に子どもたちがトレーシングペーパーで漫画本を写したり落書きをしたり、エドウィンが漫画や文章を書いたりという描写が好きで、なんとなく自分の創作意欲も刺激されるような気がして読み返したくなる。なによりこの本はボリュームがあるのでなにかひたすら読みたいというときにもいい。最初に読んだときの感想はここでもイラスト入りで載せたけれど、何回か読んだあとだとまた印象も違う。最初はエドウィンが精神的に参ってしまう過程や、ジェフリーがだんだん親友の伝記を書くことに取り憑かれていく様子がおもしろかったが、今回前よりおもしろく感じたのは、ジェフリーがエドウィンに対してこいつ本当はバカなんじゃないかと薄々感づき始めるところ。というかこういう印象は最初に読んだときにはなかったのだが、全体像がわかると細部からそういうのが感じられる。ジェフリーがそれらしく大げさに脚色しているとは言え、やっぱりエドウィン自身にもなにか非凡なものがあるのではないかという期待が、最初に読んだときにはあったのだが、読めば読むほどエドウィンは平凡で、書かれている短い人生は誰の子ども時代とも通じるありふれたものである。

 そもそも本当にエドウィンが天才肌だったらその子ども世界にはこんなに移入できないだろう。ジェフリーが伝記作家らしく脚色している部分を丁寧にはがしたり、あるいは隙間から少しずつ漏れ出てくるエドウィンのフツーさを拾っていくのが、このお話のおもしろいところである。それで、ジェフリーはエドウィンが本当はおバカなんじゃないかと気づきそうになるのだが、そのたびにいやいやまさか、エドウィン・マルハウスは天才だぞと自分に言い聞かせるかのように観察を軌道修正するのも可笑しい。エドウィンのおバカな行為にはなにか意味があるに違いない、と。本当の天才はこの伝記を書いたジェフリー君の方でした、みたいな見方は簡単なのだが、ジェフリーはどちらかというと狂人のレベルである。ジェフリーは天才に憧れるからこそ、ほかの誰かを天才に仕立て上げてその伝記を書き、天才に対して即席の優越感に浸るのだ。
 
 あと、どうもエドウィンの母、マルハウス夫人への観察がやけに細かい気がする。エドウィンの伝記を書いているのでその家族もよく見ているのはわかるのだが、どうも妹のカレンとか父親のマルハウス教授なんかに比べてマルハウス夫人の描写が細かい。登場するたびに今日はどんな髪型でどんなエプロンかとか、みんなで海水浴に行ったときは水着がどうだとか、いちいち細かいのだ。ぼくの印象ではエドウィンの服装だってそこまでちゃんと書いてないと思うのだが。ジェフリー自身のお母さんも出てくることは出てくるが、マルハウス夫人ほどの描写はなく全然造形が浮かんでこない。幼い頃友達と遊ぶと、自然そのお母さんがいつもそばにいる、だからそれも含めて観察している、というのはまあわかるのだがそれにしても……。さあ、どういうことだろうなこれは。

好きな音楽について

 好きな音楽について聞かれるとき、ほとんどの場合ごまかしている。あまり聴かないとか、まあいろいろととか、適当に言っている。とは言え別にそれは嘘ではない。あまり熱心に聴く方ではないし、いろいろはいろいろだ。それでも一応好きなものはあると言えばある。ではどうしてはっきりそれを言わないのかと言えば、単純にバカにされそうだからである。我ながらくだらない理由だとは思う。現にぼくはひとからどう思われようが気にせず好きなことに打ち込んでいる方だ。しかし音楽に関してはどこか気恥ずかしいものがある。

 これはひとえに過去に好きな音楽を否定された印象があまりにも強いためだと思うのと、ちょっと周囲に詳しい人間が多すぎるというのがある。そこに比較的耳の肥えている両親やN響でヴァイオリン弾きだった祖母、音感の良い弟という家族構成が関係しているかどうかはわからないが、少なくとも友人には音楽が大好きでひとつ尋ねると20くらい返ってくるような人間が多いのは事実で、そういう中で過ごしているとなかなかおいそれとこういうのが好きで、とは口に出せなくなる。予め牽制されてしまうケースも多い。こんなの聴くやついないよね、みたいなことを先に言われたらもうなにも言えまい。そんな必要が全くないのは頭ではわかっているけれど、彼らが認める水準でなければいけないような気がしてしまい、音楽を楽しむどころではない。

 クラスメイトたちの邦楽の趣味についていけないときに、ひとは彼らの知らない洋楽を聴き始めるのだと思う、大抵は。ぼくもその例に漏れず、最初はそれで誰からもケチをつけられずに気楽だったのだが、だんだんぼくが洋楽を聴くらしいということがどうやってか伝わり、なんだか詳しい人間が寄ってきてしまうと、話は変わってくる。こっちは自転車乗ってるときに気分よくなれればなんでもいいくらいなので、あまり深度のある話を振られても困るのである。また洋楽というのは同時代のものだけでなく、父親世代の渋いものも含まれるので、そっちに行かれるともうついていけない。そういうわけで今度はアニソンを聴くようにしてみる。これも最初は邦楽聴いてるひととも洋楽聴いてるひとともどこか隔絶しているところがあってよかったのだが、折しもアニソンやヴォーカロイドがだんだんメジャー化してテレビでもやるようになった時期、周りで聴く人間が増えると最初の問題に戻ってしまう。映画のサントラももちろん大好きだが、これは映画そのものへの批評とも結びついているのでやはり面倒くさくなってくる。『ラ・ラ・ランド』の挿入歌が好きだなんて言ってみなさいよ。なんであんなに叩かれなきゃいけないのかわからない。なにがそんなにいけないのかも。

 というわけで最後にクラシックに行き着く。よく映画なんかでIQの高い子がイヤホンでクラシックを聴いている描写があるが、なるほどあれはああいうポーズや演出だけでなく、結構理にかなっているものなのだとわかる。歌詞がないので余計な情報に思考が邪魔されることがない。いろいろな曲調はあるが、それでいて安定がある。だがどうもぼくの気に入っているものを貶したがる人間というのは後を絶たないようで、チャイコフスキーが好きだとそのときは珍しく口を滑らせたところ、チャイコ?あれもそんなにうまくないなあ、なんてことを言われて愕然としたものである。チャイコフスキーも駄目ならもうぼくに言えることはないです。うまくないってのはどういうことだ。だがよくよく考えてみればクラシックこそマニアや知識の押し付けの多そうなジャンルではないか。「エスパー魔美」にもそういうやつが出てきたじゃん。しかし、それはどのジャンルでもそうで、嫌なやつはどこにでもいるのだ。そうして、自分に嘘をついてジャンルを逃避先にしたぼくも大変に愚かであった。まあ、それでいろいろなものを聴いたとは思う。

 そんなわけのわかんないひとたちの言うことは気にしないでいいとは、よくわかっているのだが、しかし嫌なことを言われたときの印象、好きなものが否定されたときの印象というのは強い。トラウマというほどではないがそのことが引っかかって動かなくなってしまった部分が頭の中にあるらしい。その証拠に、やはり好きな音楽を聴かれたときに即答できずに逡巡してしまう。ただなあ、そこであれが好きですこれが好きですと言ったところで、じゃあこれこれこういうのも聴いたほうがいいとか、ライブとか行かないの?とか言われるのが目に見えていて、自分の視野も狭いことはわかっているのだが、あんまりそちらの熱量を本位にした物言いをされるとぼくは閉口してしまうんだよな。自転車や地下鉄に乗ってるときに聴く程度、では駄目だろうか? 0か100かの世界にぼくは疲れてしまった。

 しかし、これが音楽でなく、もっと自分が得意な分野だったら、果たしてぼくは今のぼくと同じような気分のひとに、理想的な対応ができるだろうか?マウント取られるかもしれないという恐れるのは、逆の立場だったら自分が取りそうだからではないか。そう思うと、やはりなにも言えなくなる。私も最近スター・ウォーズ観始めたんですよと言われたときにぼくが結構反応薄いのはそのせいで、なにか口をついて出た言葉が水を差すのではないかと恐れている。そういうわけで口数が減る。口が重くなる。

 というようなことを改めて考えたのは、つい最近もちょっと、好きな音楽について言われたからで、具体的に言えば、あんなのただのファッションじゃん、だそうである。だったらなんだと言うのだろうか。はっきり言ってぼくはファッションで聴くよ。自転車乗ってるときに気分がよければいいのだから。そもそも、どうしてぼくはぼくの好きなものを否定するようなひととつるんでいるのだろう。なにかを間違えている気がする。極端なところに迷い込んでいるのだと思う。自分を守るためにすべきは黙りこくることではなく、自分に合った世界観を探すことだと考え始めている。極力ストレスの無い世界観を。

 白状するか。ぼくは主にフォール・アウト・ボーイとコールド・プレイとアニマルズとパラモアとチャイコフスキーとアラン・シルヴェストリとユーリズミックスとELOとメリー・ホプキンスとフランク・シナトラとナンシー・シナトラと椎名林檎とショスタコーヴィチとラヴェルとブロンディが好きである。いずれもぼくにとって内省向きのアンセムをもたらしてくれる。恥ずかしがるのは彼らにとって大変無礼であろう。しかし、単に好きであるという以上の深度は求めないで欲しい。少なくともこれらのアルバムが壁面を埋め尽くしているとかは、全然イメージしないでほしい。というか正直言って全然持っていない。何曲も知らないものも多い。グループに関しては全員の名前も覚えていない。それで好きと言えるのかよと亡霊が言う。その程度でも好きなら好きと言っていいと思うし、言わなければいけないとも思う。

2019/09/10

TABFに行った話


 7月のことになるけれど、TABFことTOKYO ART BOOK FAIRに行ったことを書くのを忘れていた。その名の通りアートブックのフェアなのだが、画集や写真だけでなく、個人制作のZINEが見どころ。ちょうど直前にその存在を知り、見てみたらおもしろいかもとひとから勧められてもいたので、足を運んだ。ZINEを作りたいと思っていたので参考にもしたかった。

 改めて、ZINEというのは基本的には個人が趣味で作るちょっとした冊子(冊子にも満たない場合もしばしば)のことで、呼び方はMagazineやFanzineの短縮から来ているらしい。言ってみれば同人誌みたいなものだ。個人だけでなくグループで発行することもあるし、当然販売もされる。安価な用紙にモノクロで刷ってホチキスで留めただけのものから、紙質や印刷、塗料にこだわって綺麗に製本したものまで多種多様なものがある。大判の新聞のような紙を折りたたんで作るパンフレットのようなものもあるし、手のひらを握って隠せるくらいの豆本サイズのものなど、その形式もいろいろ。内容も画集や写真集、漫画、詩、文章などなんでもあり。そのひとが発信したいことを印刷して束ねる、それがZINEである。


 これはかのミランダ・ジュライが書いたもので、サンフランシスコ発の雑誌「The Thing Quarterly」の「第1号」らしい。特定の紙媒体に縛られず、オブジェクトを出版するというコンセプトのもとに、10年間いろいろなひとといろいろな形の「雑誌」を送り出したらしい。まさに形に捕らわれないZINEの究極的なレベルである。ZINEは紙であることに最も大きな意味があるんだけど、これはさらに物であることに重きを置いているというわけか。

 


 紙に捕らわれないのももちろんかっこいいけれど、やっぱりぼくがZINEと聞いて思い浮かべるのはこういうやつらだ。コピー用紙にレーザープリンターでばばばーっと刷った感じ(「プリント」じゃなくて「刷る」が似合う)。画質など気にせず見えりゃいいというレベルの写真と、読めりゃいいというレベルの掠れたタイプ文字の列。ZINEの歴史にはバンドが自分たちのフライヤーを冊子状にした流れも入っていて、そういう雑だけど勢いのある雰囲気は純粋にかっこいい。


 結構長い時間見て回って、買って帰ったのはこれくらい。左上の「ピーナッツ」の漫画本はZINEでもなんでもない普通の漫画本だが、一目惚れして買った。ピンバッジは有名なZINEレーベルのマーク。残る二冊は非常にZINEらしいZINEで、イラスト・漫画主体なので参考になりそう。内容はもちろんなんだけど、ZINEというのはやはりそのフォーマットが重要で、そこをおもしろがるものでもあるなと思った。いろいろな作品を紙として、物として持っておくことの意義を、手軽に感じることのできる媒体。正直言って一回ぱらぱらめくったらもう二度と見返さなそうなものや、ちょっとアバンギャルドすぎてついていけないものもあったけれど、そういったものもオブジェクトとして持つ意味がある。飾っておいてもいいし、コレクションしてもいいのだ。じっくり読むものもあれば、何回もぱらぱらめくりたくなるものもあり、それ自体がアートとして完成しているものもある。ZINEはそういう雑多な自由を持っていると思う。
 そういうわけで、これらを参考に作ったぼくのZINEプロトタイプは、ひとつ前の記事の通り。