2019/11/05

インスタグラムのDM

 インスタグラムはイラストや仕事のことを載せると同時に趣味の写真もアップしているのだが(趣味の方が圧倒的に多い)、最近はテキストをつけるのが億劫なのでノーキャプションで投稿している。ブログのように使う人も増えたと思うけど、個人的には写真主体のものなので下手に言葉はつけなくていいかなと思っている。なによりモバイルの端末でテキストを打つのが面倒くさいのと、文中にリンクが貼れないのも致命的に感じる(URL自体は書けるけど、シンプルなアドレスじゃない限りリンクも生きていなければコピーもできないURLを貼っても仕方がない)。まあ、普段のこのブログでもそんなにリンクを貼ったりはしないのだが。それでもなにか告知したりするときに不便だし、そういう理由もあってなかなかメインのポートフォリオページとしても使う気になれない。この際だから言うけど、イラストでも写真でも、作品を見せたいひとは母艦としてギャラリーページは別で持っておくべきだと思う。確かにインスタは手軽で広めやすいし反応もわかるけど、あれはあくまで出張所として使うべきで、サイトはインスタのみ、みたいのはあまりお勧めできない。と言って、ぼくがお勧めできなくたって大抵のひとには関係ないのだが。ただ、画質が低くなったり、画像の縦横サイズが制限されたりする仕様から考えても、メインのポートフォリオとして不十分であることはわかってもらえるはず。
 
 とは言え別に悪く言うつもりは全然なく、なにが言いたいかと言えば簡単に画像を流すツールとしては全然申し分ないのと、やはり視覚的なものというのは言葉の壁を越えやすいというのを改めて実感した。海外のフィギュアのフォトグラファーの何人かがフォローを返してくれたのはうれしく、やはりそれはぼくがスター・ウォーズのイラスト、特にスター・ウォーズのアクション・フィギュアのイラストを描いていたかららしくて、通じるものは通じるなあと思った。フィギュア写真を本格的にやっているわけでもなく、普段撮るものも別段おもしろくもないのだが、それでも絵を通してフィギュア写真を撮っているひとに興味を持ってもらえたというのはうれしい。なにか訴えるものを込められたのかもしれない。なにより普段一方的に見ているだけの相手が反応を示してくれるのはインターネットの醍醐味だと思う。視線を少しでも低くすると醜い応酬の絶えない世界だが、それでもまだ楽しさは残っている。残っているどころではない。これが本来で、本体なのである。初めてインターネットに触れてしばらく経つが、未だに驚きと感動は絶えない。

 十代の頃から見ていたSWのフィギュアのサイト、「Rebelscum.com」は初期から最新まで発売された全てのフィギュアの写真がアーカイブされている規模の大きいサイトなのだが、そこのフォトグラファーでもあるD・マーティン・マイアット氏がぼくのページを見てくれるようになった。彼は映画『マーウェン』のフィギュア撮影にも関わっていたので、このあいだSPURの映画レビューで描いた『マーウェン』のイラストも気に入ってくれた。これは雑誌かなにか?みたいな風に聞かれたので、日本の雑誌でイラストでレビューしたのですというようなことを説明したのだが、そりゃ知る由もないですよね。そこからはDMをもらって話が弾んだ。弾んだかどうかはわからないがいろいろと話した。最近は翻訳アプリの性能も上がって、それほど違和感のない英文がすぐ作れるから非常に助かる。もちろん思いつく限り自力でも打つ。おそらく片言の域を出ていないだろうけれど、それでも会話が成り立っているのでうれしい。同国人とも会話が成り立たないのにな。しかし、外国語を通すと言葉のやりとりとはなんと楽しいことだろうか。本当は母国語でもこれくらい楽しいはずなのだ。簡単に扱えるから雑になっているだけで。ぼくは言葉を今よりもっと時間をかけて考えていくべきかもしれない。ちなみにマイアット氏はぼくが田舎でブラウン管のパソコンモニターを通して彼の写真をぼけえっと見ていた頃、東京にいたこともあったらしい。件のサイトは全てのフィギュアの詳細を写真で見せてくれるので、手足がこれだけ動くとか、ヘルメットを脱がすとこうなるとか、そういうのが全部わかった。なのでアマゾンのページでよくわからないところはそこで確認して、購入を検討したものである。

 それにしても皆インスタのDMをよく使うんだなあ。SPURで前に紹介した『エイス・グレード』でもティーンたちはインスタDMでコミュニケーションを取っていた。おそらくこちらでのLINEくらい使っているらしい。当初劇中ではフェイスブックのメッセージ機能を使う予定だったところを、主演の子にそんなの今誰も使ってないっすよと言われて変更したのだとか。しかしそれも今に古くなってしまうのが世の常である。とりあえず今は楽しい。見ず知らずの外国人にもばんばんDM送るくらいの勢いは見習いたい気もする。コメントやDMをくれたひとはほかにもいるのだが、それはまた今度話そう。

10年前のポケモン

 慌ただしい10月が終わって力が抜けている。もちろん11月もやることはあるのだが、ひと通り大変な時期が過ぎるたびに一旦放心してしまう。とりあえず週末は本を読んでネットフリックスを観てレゴを触って放ったらかしてあったポケモンのゲームをやった。新しいものではない。10年前のタイトルである。それでもブランクがあるのでぼくには新しい。知らないポケモンが増えていてわけがわからない。せいぜい第3世代くらいまでしかわからないのだ。新しいキャラクターは見ているぶんには楽しいが、何タイプのやつなのかわからないやつもいるから困る。たとえば以前は全体的に黄色っぽかったら電気タイプ、青かったら水、緑だったら草、赤かったら炎、というように初めて見たやつでも色でなんとなくタイプがわかった。灰色だったら岩とかね。そうでなくてもデザインでなにがモチーフなのかがわかれば、タイプもなんとなく予想できる。岩っぽいなら岩。まあ、これも第2世代の時点で樹木と見せかけて岩、みたいなやつが出てきたのであてにならなくなったが。少なくともそういうのは特殊な例だった。ところが今プレイしているものだとそれらが全然ヒントにならない。慣れればわかるようになるのかもしれないが、モチーフもなんだかなんの動物なのかわからないというか、無機物なやつも増えたと思う。そもそもタイプそのものが増えているので、炎は草に強く、草は水に強く、水は炎に強い、というような直感的にわかる関係が複雑になった気がする。10年前の作品でもこれだから、最近のは相当大変だろうなあ。毎作欠かさず追っていれば全然そんなことはないのだろうけれど。そういうわけでひいひい言いながらポケモンをやっている。なんだかんだゲームはポケモンくらいが一番ちょうどいいと思う。ブランクが長い分、やっていない作品はまだまだあるので、楽しみは残っている。全部やってようやくスイッチの新作に手を伸ばせるけど、そのときにはもう新しいプラットフォームが出てきているかもしれない。電子ゲームはこれが厄介である。その点レゴブロックは30年前のパーツでも現役で使えるのでいい。摩耗してスカスカになっていなければ。

絵本「OH NO!」


 作画を担当した木坂涼さん作の絵本「OH NO!」が偕成社より発売されました。初の絵本作画ということで慣れないことが多かったですが、形になってなによりです。見ての通り題字や著者名も描き文字で、背表紙、カバー色含め装丁と言える部分もやりました。「はじめての英語の本」、というのがテーマで日本語情報が皆無のカバーとなっています。



 「OH NO!」をはじめシンプルなフレーズが様々なシーンで飛び出す1日を描く内容。やさしい英文だけで展開します。


 こんな感じで誰かしらが「OH NO!」と言います。


 最初はひとの「OH NO!」を笑って見てる主人公だが……。


 小学校に上がるくらいのお子さんが身近にいる方はプレゼントにぜひ。最初に触れる英語がぼくの描き文字だったら、うれしいな。書店によってはその外観から海外の絵本の棚に置かれていましたが、まあそれもよいでしょう。自分ではあまり意識していませんが、「向こうっぽい」と言われる絵を描いてきて、なんとなく結果に繋がったように思います。トミ・アンゲラーが亡くなった年に、「すてきな三にんぐみ」の邦訳を出している会社から作画担当の絵本が出たのは、一種巡り合わせだと思うことにしています。

2019/10/26

The Mandalorian


 本国ではいよいよ11月からディズニープラスで配信開始のドラマ「ザ・マンダロリアン」より、ザ・マンダロリアン。アクション・フィギュアの予約に出遅れてしまったのでとりあえず全身描く。描くとそれだけでシェイプが手に伝わってくるような気がするので、欲しいフィギュアがあったらまず描くのがいいと思う。結局こいつの名前は出てなくて、フィギュアなどでもそのままザ・マンダロリアンという名称になっていることから、クリント・イーストウッド扮するバウンティ・ハンターと同じように名無しで通すキャラクターになるらしい。もちろん全然いい。初登場時のボバ・フェットよりも謎に包まれているわけだが、そうなるとやはり素性というか正体が気になってしまう。名前さえ出さないのにはなにか理由があるのではないか。こいつの正体自体が物語の重要なキーなのではないか。いっそカークーンの大穴を生き延びたボバ・フェットなのではないかという見方さえある。言われてみれば演じるペドロ・パスカルが本編中で素顔を見せるとは限らないわけで、普通にボバ・フェットである可能性もなくはない。結局ボバ・フェットかよと思ったりもするが。それにもしボバが正体を隠して活動するのなら、彼の代名詞であるところのマンダロリアンのヘルメットなどかぶったりはしないのではないか、とも思う。

 ところで絵に描いてみるとその装備は結構ごちゃ混ぜに見える。特に初めてヴィジュアルが公開されたときから言われているように、右の肩当ては『ローグ・ワン』に登場したショア・トルーパーのものに非常に近いし、左の方はまた別のものだ。腿のパーツも左右バラバラで、ジャンゴ・フェットやボバ・フェットに比べて規格の揃った装備ではない。ジャンゴの鎧が綺麗に揃っていたこともあって、ボバの装備はだいぶカスタマイズされているように見えたものだが、そのボバよりもさらにジャンクな印象。不揃いで左右非対称な感じが、とてもベテランっぽい。さらにヘルメットはクロムメッキでいよいよごちゃ混ぜなのだが、色彩によって整えられているところもあり、ヘルメットがいい具合に際立っていて、他のキャラクターにはない雰囲気がよく出ている。


 おまけで「ホリデー・スペシャル」カラー。先が二股になった槍状の武器は「ホリデー・スペシャル」でボバ・フェットが持っていたものとしてお馴染みだ。鎧にクリーム色が盛り込んであるところもホリスペのボバを意識してそうだけど、どうだろう。そこでショア・トルーパーのパーツが役立ったというのも、どちらも好きな身としてはうれしい。

ブログのテンプレートがおかしくなったので

 モバイルで閲覧する場合はデザインが決まっているので関係ないけど、PCでのブログのテンプレートがなんだおかしくなった。カスタマイズしたものでどこをどう直すかもよくわからなかったのでとりあえず既存のスタンダードなテンプレートに切り替えました。

 具体的に言うと部分ごとでフォントが違ってしまったんだけど、テンプレートの編集は全然触ってないのでなにがきっかけでそうなったのか見当もつかない。なんとなくページ自体というよりブラウザの問題じゃないかとも思ったけど、実は使い勝手もあまりよくなかったのでいい機会と思い前の形に戻した次第。インデックスで記事冒頭の見出しが並ぶ感じが見やすいとも思っていたけれど、記事によっては抜粋分だけで終わってしまうボリュームのものもあったので逆に煩わしいところも(ちょっとした短文も書きづらい)。知識があれば記事の字数に応じて冒頭を抜粋するようにもできたのかもしれないけれど、あまりそこまで凝る気にもなれない。ぼくは基本的に用意されているフォーマットを使うことに徹するタイプなのだ。

 記事本文の冒頭部分だけが並んでいる感じは一見シンプルでよかったけど、そもそもその形式にしようとしたのは、記事が丸ごと上から下に並んでいる形だと、ひとつの記事が変に長くなったり載せる画像が多くなったりすると見辛いのではないかと思ったからで、それも記事ごとの区切り(投稿ごとのヘッダーとフッター)を強調すればわりと解決するし、最近は仕事の紹介を一件ずつ書くようになって、あまりひとつの記事でごちゃごちゃしなくなったので、前の形であまり懸念がなくなった。なんだかんだ昔ながらのブログの形式が好きというのもある。ずらっと文章が並んでいるところがいい感じだ。見栄えに関してはきりがないし、あまりガワのことを気にせず単純なフォーマットの中で書いていきましょう。

「SPUR」12月号



 マヤ・ホークがカバーを飾る「SPUR」12月号の映画レビュー連載では、リメイク版の第二章『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』を紹介しています。前作での子どもたちの戦いから27年、大人になってそれぞれの人生を歩む仲間たちが故郷に戻って再び恐怖と対峙する。個性的な子どもたちをそれぞれまたクセのある大人俳優が引き継いでいるのも楽しいけれど、大人になってようやくトラウマと向き合えるという、時間の積み重ねが画面から感じられるのも良さ。CG時代のスティーブン・キングものはイメージが留まるとこを知らない……。いっそマヤ・ホークも出てきそうな雰囲気だけど、思えばオリジナル版を真似た「ストレンジャー・シングス」と、とても「ストレンジャー・シングス」っぽく見えるこのリメイク版、不思議な環ができている。こういう相互の影響がいいものを作っていくんだなあ。

「婦人公論」11/12号



「婦人公論」11/12号でのジェーン・スーさん連載挿絵。今回は話法のアップデートについて。今日日前線で情報に触れて思考していれば自然と身につくであろう考え方や言葉の選び方、慎重さなどが全然見られない相手は現役としては扱えない、アップデートを欠かしてはならないというお話。とっくに合理的で筋の通った形に更新されてしまったことがらについて、いつまでもひと昔前の非合理なスタンスでいるということは、前線で新しい情報に触れていないということ。もちろん常に風通しをよくしていてもそれぞれ少しずつ違う考え方をするのだろうけれど、しかし現役であれば考え続ける姿勢自体は誰しも変わらない。現役と退役ということで鳥と恐竜を添えて少しポップに。

2019/10/14

大人の相槌

 何人かで集まっているときなんかに、興味のなさそうな、あるいは知らなそうな話題に自然に相槌を打てるひとは本当に大人だと思う。興味がなさそうで知らなそうというのも決めつけかもしれないが、しかし話の文脈上そのひとが知り得ないであろうことにうなずいていることが多いので、まあそう見て問題ないだろう。ポイントは自然であること。知らないのになにうなずいてるの、などという意地悪な指摘をさせることのない自然さである。その自然なうなずきは、話者をリラックスさせその舌をより滑らかにする。場が盛り上がる。だから大人として身に付ける技能なのだろう。もちろんぼくも立派な大人なので、何度かこれを試したことがあるのだが、ぼくがやるとどうも不自然さが際立つのか、「うんうん言ってるけど興味ないでしょ?」とはっきり言われてしまう。はっきり言うことないじゃないか、がんばってるのに。しかし、がんばらなければできないようならまだまだだ。大人の相槌はそいつがうなずくことに違和感を覚えさせない自然さあってこそである。わざとらしくうなずくよりは黙ってたほうがいいかと、よくわからない話題の際には静かにしていると、それもやっぱり「興味なさそうだねえ」などと言われてしまう。どうしろというのだ。興味がないことが多すぎる。というか、そういう場合は大抵興味とか以前に、ぼくが知らないひとや出来事の話題だったりするので、興味の持ちようがない。そこで自然な相槌、あるいは「へえ、そんなことがあるんですねえ」などと今初めて聞かされる立場をうまいこと使ったようなことを言えるといいのだが、まあそれができたら今頃社交界のスターだよな。

2019/10/05

「婦人公論」10/8号



 「婦人公論」9/10号でのジェーン・スーさん連載挿絵。サーカスを観に行かれたというお話。

「SPUR」11月号



 「SPUR」11月号の映画レビュー連載では、『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』を紹介しています。エイス・グレードとは8年生のことで、高校にあがるひとつ前の学年で、日本で言うところの中学最終学年。高校進学を目前にした冴えない主人公が、高校デビューに向けて一生懸命変わろうとするのだが、例によって自分らしくない無理をしてしまうというお話。それ自体は繰り返し描かれてきたような気がするけれど、インスタグラムでのコミュニケーションや主人公がYouTubeで動画を作っていたりとイマドキなティーンの生活が描かれているのが魅力。大人になって子どもができてもまだぼくにはティーン的な悩みが残ってるんだなと観ていて思ったけれど、案外誰でもそうかもしれない。

2019/09/29

『ジョン・ウィック』(2014)


 ロシアン・マフィアの若頭が車欲しさに男の家を襲撃する。手下とともに男を袋叩きに、うるさい飼い犬は始末して、まんまと69年式のマスタングBOSS429を自分のものにするが、持ち帰った車を一目見た途端組織の古株が血相を変え、ボスである父親さえも激怒する。車の持ち主の名はジョン・ウィック。かつて組織のために働いていたこともある伝説の殺し屋で、車と犬は妻を亡くしたばかりの失意の彼にとってかけがえのない存在だったのだ。最強の男ジョン・ウィックを怒らせてしまったことに戦慄するマフィアのボス。しかし自分の息子がやらかしてしまったことだ、もうやるしかない。というわけで、マフィア対ひとりの戦争が始まるのだった。

 犬は愛らしいし、車はかっこいいけれど、それだけではない。どちらもジョンにとって亡くしたばかりの妻の存在に通じる大切なものだった。犬は死期を悟った妻がこっそり手配していた新しい家族であり、車には裏社会からの引退を決意させるほど愛した妻との思い出が詰まっていた。妻を亡くし、彼女が遺したものさえも奪われてしまったジョンにとって、裏社会への帰還と復讐は自分自身を取り戻すための唯一の道だったのだ。

 キアヌ・リーブスの不吉な佇まいとスマートなアクションがいいのと、やっぱり漫画みたいな設定が魅力。殺し屋ばかりが集う高級ホテル、裏社会だけで流通する独自貨幣、独自のルール、あからさまな隠語……。それらをひたすら高級に、重厚に、格調高く描くので、文句なしにかっこいい。中学生の頃観たらより夢中になったことだろう。まあ当時も『コンスタンティン』に夢中だったので似たようなものだが。裏社会の世界観も天国地獄といった異界と置き換えられそうだ。どちらも不吉な顔つきのスウェーデン人が君臨しているし。ちなみに『コンスタンティン』のサタン、ピーター・ストーメアは二作目に登場するがその話はまた今度。

2019/09/24

久しぶりのインク



久しぶりにインクで線画を描いてみた。色はいつも通りデジタル彩色。ほとんど似たような感じで描けるということもあって線画含めフォトショップでしばらく描いていたけれど、やっぱりどうも画面の中だけで作業が完結するのは疲れるところもあり、紙に触れる習慣は絶やさないほうがいい。うまく扱えずに諦めかけていたGペンも、久しぶりに触ってみて、全然イラスト向きじゃない万年筆用の薄いインクをつけて描いてみたら、これがなかなかスラスラ描けるではないか。どうも以前使っていたインクは濃度が高かったらしい。さらさらした軽めのインクだとうまくいくらしいのと、ペンの運びを立体的に意識するとうまくいくヨーダ。紙の表面になにかを彫りつけるような感覚、普通のペンではなく彫刻刀を扱うような気でいるといい。そういった立体的、物理的な感触は、不思議と手に心地よかったりもする。それにデジタル作業にはない緊張感もかえって集中を誘う。キータッチで元に戻せないのは不便で不安でもあるが、逆に偶発的な線を見つけることもでき、一見思ったように引けなかった線にもだんだん価値が出てきたりする。もちろんかと言ってデジタルで描くという行為の地位は低くなったりはしない。それぞれ一長一短である。絵を描くという行為自体に差はない。道具の違いだけである。というのを何度説明してもわかってくれないひともいる。なんにせよ、肉筆で描く習慣はデジタル作業の方にもいい影響を与えるだろうし、逆もあると思う。

「TRANSIT」第45号




 ロンドン特集の「TRANSIT」第45号、「ジェントリフィケーションと変化するロンドンの街」ページにイラスト描いています。ロンドンのジェントリフィケーションを促進させている人々について。これでイラストで関わった「TRANSIT」は4冊目となりますが、今回も読み応えのある内容。旅行もしたくなります。イギリス関連でもちろん王室の解説もあり、日本の皇室も含めた「世界の王室大全」もおもしろいです。イギリス的なアイテムの絵も、自分でもう少し描こう。

 どうも旅行に対しても一歩踏み出しづらい性分だけれど、これからはもう少し挑戦してみたい。ロンドンも特に関心の強いところなので行ってみたい。専門学校時代、研修旅行でヨーロッパに行っていた一団が羨ましかったものだ。いずれ自分で行こうと思っていた。でも、どこかに行ってみたいと思っていると、大抵なんの目的で行きたいの?とか言われて出鼻をくじかれることも多い。そんなことで出鼻をくじかれるぼくも弱すぎると思うけれど、しかし、なんの目的かって言われたら、言葉に詰まってしまう。特にないけどなんとなく行きたい、みたいなことを返せば、そんなノリで行ったって意味ないよみたいなことを言われもし、鼻どころか心が折れてしまいがちだった。でも、今にして思えば目的なんてなくていいに決まっている。むしろ目的のない旅行に行きたい。特別見たくてしょうがないものがなくても、行ってみないことには始まらないと思う。

「エドウィン・マルハウス」を読み返す

 この夏はまたスティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」を読み返していた。読み進めていないものも結構あるのだが、これもたまに読み返したくなるので。特に子どもたちがトレーシングペーパーで漫画本を写したり落書きをしたり、エドウィンが漫画や文章を書いたりという描写が好きで、なんとなく自分の創作意欲も刺激されるような気がして読み返したくなる。なによりこの本はボリュームがあるのでなにかひたすら読みたいというときにもいい。最初に読んだときの感想はここでもイラスト入りで載せたけれど、何回か読んだあとだとまた印象も違う。最初はエドウィンが精神的に参ってしまう過程や、ジェフリーがだんだん親友の伝記を書くことに取り憑かれていく様子がおもしろかったが、今回前よりおもしろく感じたのは、ジェフリーがエドウィンに対してこいつ本当はバカなんじゃないかと薄々感づき始めるところ。というかこういう印象は最初に読んだときにはなかったのだが、全体像がわかると細部からそういうのが感じられる。ジェフリーがそれらしく大げさに脚色しているとは言え、やっぱりエドウィン自身にもなにか非凡なものがあるのではないかという期待が、最初に読んだときにはあったのだが、読めば読むほどエドウィンは平凡で、書かれている短い人生は誰の子ども時代とも通じるありふれたものである。

 そもそも本当にエドウィンが天才肌だったらその子ども世界にはこんなに移入できないだろう。ジェフリーが伝記作家らしく脚色している部分を丁寧にはがしたり、あるいは隙間から少しずつ漏れ出てくるエドウィンのフツーさを拾っていくのが、このお話のおもしろいところである。それで、ジェフリーはエドウィンが本当はおバカなんじゃないかと気づきそうになるのだが、そのたびにいやいやまさか、エドウィン・マルハウスは天才だぞと自分に言い聞かせるかのように観察を軌道修正するのも可笑しい。エドウィンのおバカな行為にはなにか意味があるに違いない、と。本当の天才はこの伝記を書いたジェフリー君の方でした、みたいな見方は簡単なのだが、ジェフリーはどちらかというと狂人のレベルである。ジェフリーは天才に憧れるからこそ、ほかの誰かを天才に仕立て上げてその伝記を書き、天才に対して即席の優越感に浸るのだ。
 
 あと、どうもエドウィンの母、マルハウス夫人への観察がやけに細かい気がする。エドウィンの伝記を書いているのでその家族もよく見ているのはわかるのだが、どうも妹のカレンとか父親のマルハウス教授なんかに比べてマルハウス夫人の描写が細かい。登場するたびに今日はどんな髪型でどんなエプロンかとか、みんなで海水浴に行ったときは水着がどうだとか、いちいち細かいのだ。ぼくの印象ではエドウィンの服装だってそこまでちゃんと書いてないと思うのだが。ジェフリー自身のお母さんも出てくることは出てくるが、マルハウス夫人ほどの描写はなく全然造形が浮かんでこない。幼い頃友達と遊ぶと、自然そのお母さんがいつもそばにいる、だからそれも含めて観察している、というのはまあわかるのだがそれにしても……。さあ、どういうことだろうなこれは。

好きな音楽について

 好きな音楽について聞かれるとき、ほとんどの場合ごまかしている。あまり聴かないとか、まあいろいろととか、適当に言っている。とは言え別にそれは嘘ではない。あまり熱心に聴く方ではないし、いろいろはいろいろだ。それでも一応好きなものはあると言えばある。ではどうしてはっきりそれを言わないのかと言えば、単純にバカにされそうだからである。我ながらくだらない理由だとは思う。現にぼくはひとからどう思われようが気にせず好きなことに打ち込んでいる方だ。しかし音楽に関してはどこか気恥ずかしいものがある。

 これはひとえに過去に好きな音楽を否定された印象があまりにも強いためだと思うのと、ちょっと周囲に詳しい人間が多すぎるというのがある。そこに比較的耳の肥えている両親やN響でヴァイオリン弾きだった祖母、音感の良い弟という家族構成が関係しているかどうかはわからないが、少なくとも友人には音楽が大好きでひとつ尋ねると20くらい返ってくるような人間が多いのは事実で、そういう中で過ごしているとなかなかおいそれとこういうのが好きで、とは口に出せなくなる。予め牽制されてしまうケースも多い。こんなの聴くやついないよね、みたいなことを先に言われたらもうなにも言えまい。そんな必要が全くないのは頭ではわかっているけれど、彼らが認める水準でなければいけないような気がしてしまい、音楽を楽しむどころではない。

 クラスメイトたちの邦楽の趣味についていけないときに、ひとは彼らの知らない洋楽を聴き始めるのだと思う、大抵は。ぼくもその例に漏れず、最初はそれで誰からもケチをつけられずに気楽だったのだが、だんだんぼくが洋楽を聴くらしいということがどうやってか伝わり、なんだか詳しい人間が寄ってきてしまうと、話は変わってくる。こっちは自転車乗ってるときに気分よくなれればなんでもいいくらいなので、あまり深度のある話を振られても困るのである。また洋楽というのは同時代のものだけでなく、父親世代の渋いものも含まれるので、そっちに行かれるともうついていけない。そういうわけで今度はアニソンを聴くようにしてみる。これも最初は邦楽聴いてるひととも洋楽聴いてるひとともどこか隔絶しているところがあってよかったのだが、折しもアニソンやヴォーカロイドがだんだんメジャー化してテレビでもやるようになった時期、周りで聴く人間が増えると最初の問題に戻ってしまう。映画のサントラももちろん大好きだが、これは映画そのものへの批評とも結びついているのでやはり面倒くさくなってくる。『ラ・ラ・ランド』の挿入歌が好きだなんて言ってみなさいよ。なんであんなに叩かれなきゃいけないのかわからない。なにがそんなにいけないのかも。

 というわけで最後にクラシックに行き着く。よく映画なんかでIQの高い子がイヤホンでクラシックを聴いている描写があるが、なるほどあれはああいうポーズや演出だけでなく、結構理にかなっているものなのだとわかる。歌詞がないので余計な情報に思考が邪魔されることがない。いろいろな曲調はあるが、それでいて安定がある。だがどうもぼくの気に入っているものを貶したがる人間というのは後を絶たないようで、チャイコフスキーが好きだとそのときは珍しく口を滑らせたところ、チャイコ?あれもそんなにうまくないなあ、なんてことを言われて愕然としたものである。チャイコフスキーも駄目ならもうぼくに言えることはないです。うまくないってのはどういうことだ。だがよくよく考えてみればクラシックこそマニアや知識の押し付けの多そうなジャンルではないか。「エスパー魔美」にもそういうやつが出てきたじゃん。しかし、それはどのジャンルでもそうで、嫌なやつはどこにでもいるのだ。そうして、自分に嘘をついてジャンルを逃避先にしたぼくも大変に愚かであった。まあ、それでいろいろなものを聴いたとは思う。

 そんなわけのわかんないひとたちの言うことは気にしないでいいとは、よくわかっているのだが、しかし嫌なことを言われたときの印象、好きなものが否定されたときの印象というのは強い。トラウマというほどではないがそのことが引っかかって動かなくなってしまった部分が頭の中にあるらしい。その証拠に、やはり好きな音楽を聴かれたときに即答できずに逡巡してしまう。ただなあ、そこであれが好きですこれが好きですと言ったところで、じゃあこれこれこういうのも聴いたほうがいいとか、ライブとか行かないの?とか言われるのが目に見えていて、自分の視野も狭いことはわかっているのだが、あんまりそちらの熱量を本位にした物言いをされるとぼくは閉口してしまうんだよな。自転車や地下鉄に乗ってるときに聴く程度、では駄目だろうか? 0か100かの世界にぼくは疲れてしまった。

 しかし、これが音楽でなく、もっと自分が得意な分野だったら、果たしてぼくは今のぼくと同じような気分のひとに、理想的な対応ができるだろうか?マウント取られるかもしれないという恐れるのは、逆の立場だったら自分が取りそうだからではないか。そう思うと、やはりなにも言えなくなる。私も最近スター・ウォーズ観始めたんですよと言われたときにぼくが結構反応薄いのはそのせいで、なにか口をついて出た言葉が水を差すのではないかと恐れている。そういうわけで口数が減る。口が重くなる。

 というようなことを改めて考えたのは、つい最近もちょっと、好きな音楽について言われたからで、具体的に言えば、あんなのただのファッションじゃん、だそうである。だったらなんだと言うのだろうか。はっきり言ってぼくはファッションで聴くよ。自転車乗ってるときに気分がよければいいのだから。そもそも、どうしてぼくはぼくの好きなものを否定するようなひととつるんでいるのだろう。なにかを間違えている気がする。極端なところに迷い込んでいるのだと思う。自分を守るためにすべきは黙りこくることではなく、自分に合った世界観を探すことだと考え始めている。極力ストレスの無い世界観を。

 白状するか。ぼくは主にフォール・アウト・ボーイとコールド・プレイとアニマルズとパラモアとチャイコフスキーとアラン・シルヴェストリとユーリズミックスとELOとメリー・ホプキンスとフランク・シナトラとナンシー・シナトラと椎名林檎とショスタコーヴィチとラヴェルとブロンディが好きである。いずれもぼくにとって内省向きのアンセムをもたらしてくれる。恥ずかしがるのは彼らにとって大変無礼であろう。しかし、単に好きであるという以上の深度は求めないで欲しい。少なくともこれらのアルバムが壁面を埋め尽くしているとかは、全然イメージしないでほしい。というか正直言って全然持っていない。何曲も知らないものも多い。グループに関しては全員の名前も覚えていない。それで好きと言えるのかよと亡霊が言う。その程度でも好きなら好きと言っていいと思うし、言わなければいけないとも思う。

2019/09/10

TABFに行った話


 7月のことになるけれど、TABFことTOKYO ART BOOK FAIRに行ったことを書くのを忘れていた。その名の通りアートブックのフェアなのだが、画集や写真だけでなく、個人制作のZINEが見どころ。ちょうど直前にその存在を知り、見てみたらおもしろいかもとひとから勧められてもいたので、足を運んだ。ZINEを作りたいと思っていたので参考にもしたかった。

 改めて、ZINEというのは基本的には個人が趣味で作るちょっとした冊子(冊子にも満たない場合もしばしば)のことで、呼び方はMagazineやFanzineの短縮から来ているらしい。言ってみれば同人誌みたいなものだ。個人だけでなくグループで発行することもあるし、当然販売もされる。安価な用紙にモノクロで刷ってホチキスで留めただけのものから、紙質や印刷、塗料にこだわって綺麗に製本したものまで多種多様なものがある。大判の新聞のような紙を折りたたんで作るパンフレットのようなものもあるし、手のひらを握って隠せるくらいの豆本サイズのものなど、その形式もいろいろ。内容も画集や写真集、漫画、詩、文章などなんでもあり。そのひとが発信したいことを印刷して束ねる、それがZINEである。


 これはかのミランダ・ジュライが書いたもので、サンフランシスコ発の雑誌「The Thing Quarterly」の「第1号」らしい。特定の紙媒体に縛られず、オブジェクトを出版するというコンセプトのもとに、10年間いろいろなひとといろいろな形の「雑誌」を送り出したらしい。まさに形に捕らわれないZINEの究極的なレベルである。ZINEは紙であることに最も大きな意味があるんだけど、これはさらに物であることに重きを置いているというわけか。

 


 紙に捕らわれないのももちろんかっこいいけれど、やっぱりぼくがZINEと聞いて思い浮かべるのはこういうやつらだ。コピー用紙にレーザープリンターでばばばーっと刷った感じ(「プリント」じゃなくて「刷る」が似合う)。画質など気にせず見えりゃいいというレベルの写真と、読めりゃいいというレベルの掠れたタイプ文字の列。ZINEの歴史にはバンドが自分たちのフライヤーを冊子状にした流れも入っていて、そういう雑だけど勢いのある雰囲気は純粋にかっこいい。


 結構長い時間見て回って、買って帰ったのはこれくらい。左上の「ピーナッツ」の漫画本はZINEでもなんでもない普通の漫画本だが、一目惚れして買った。ピンバッジは有名なZINEレーベルのマーク。残る二冊は非常にZINEらしいZINEで、イラスト・漫画主体なので参考になりそう。内容はもちろんなんだけど、ZINEというのはやはりそのフォーマットが重要で、そこをおもしろがるものでもあるなと思った。いろいろな作品を紙として、物として持っておくことの意義を、手軽に感じることのできる媒体。正直言って一回ぱらぱらめくったらもう二度と見返さなそうなものや、ちょっとアバンギャルドすぎてついていけないものもあったけれど、そういったものもオブジェクトとして持つ意味がある。飾っておいてもいいし、コレクションしてもいいのだ。じっくり読むものもあれば、何回もぱらぱらめくりたくなるものもあり、それ自体がアートとして完成しているものもある。ZINEはそういう雑多な自由を持っていると思う。
 そういうわけで、これらを参考に作ったぼくのZINEプロトタイプは、ひとつ前の記事の通り。

2019/08/31

ZINEを作る


 なんとか8月が終わるまでにZINEらしきものを作ることができた。前からなにか作りたいと思っていて、今年の目標のひとつにもなっていたけれど、なかなか取り組まないので見かねた妻に背を押される形で夏の工作課題ということになっていた。なんとなくハードル高く感じていたけれど、とりあえずと思って作ってみると、普段画面の中で完結してしまいがちなデジタル描画のイラストでさえ、紙に印刷されることで一気にモノとしての存在感を帯びてとても新鮮な感じ。大したものでなくとも物体にしておくこと自体が大切らしい。








 最近ものから以前のものまで、ファンアート含めてお気に入りを脈絡なく貼り付けてイラスト集的にまとめた。よく考えたら両面印刷用紙がなかったので普通のコピー用紙に両面印刷したのだが、裏移りしてよれよれになった感じがかえってラフなZINEの雰囲気を出している、かも。とりあえずこれはプロトタイプということで、用紙ともう少し大きめのホチキスで作り直すつもり。

 漫画はやっぱりこうして形にすると本当に漫画らしく見えてくる。いずれは漫画だけで一冊作りたいし、ファンアートはファンアートだけでまとめて、SWのZINEなんかを別で作ってもいいだろう。オリジナル、あるいはあまり版権に触れない内容であれば販売してもいいと思うけれど、まずは作って見せるものとしてやっていきたい。慣れたら記事とかコーナーみたいなものを設けて、少しずつ内容を詰めていきたいけど、あまり形式ばるとZINE特有の手軽さがなくなってしまいそうなので、まあそこまで凝らずにやっていこう。

2019/08/29

「SPUR」10月号



 「SPUR」10月号の映画レビュー連載では、明日(30日)公開の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を紹介しています。クエンティン・タランティーノ監督、レオナルド・ディカプリオ&ブラッド・ピット主演で描くハリウッドの黄金時代。贅沢な2時間40分、作り込まれた背景に様々な実在の人物、つねに流れているカーラジオ、何度も見直したくなるボリュームです。いずれは部屋で流しっぱなしにしたくなる作品になるはず。全ての物語が運命の1969年8月9日(シャロン・テート殺害事件)に向かっていくわけだけれど、事件について知っている気で観たら……。詳しいことはまた公開後に感想を書くとして、まるでカーラジオをそのまま録音して突っ込んだかのようなサントラがとてもよさそうで、欲しい。

「婦人公論」9/10号



 「婦人公論」9/10号でのジェーン・スーさん連載挿絵。「ムズムズまでの距離」ということで、どういうポイントで「そういう気分」になれるのかというお話。イラストは途中で登場する「消防士カレンダー」の消防士。海の向こうでは半裸でムキムキの消防士のカレンダーが人気らしく、男同士で体に泥を塗りあったり、動物と戯れていたり(山火事から助け出したていらしい)するのだが、決しておもしろというわけではなく大真面目なセクシー系のカレンダーである。

2019/08/21

必要に応じて

 絵のタッチは急に作れるものではない。仕事をやっていく過程で、必要に迫られて形成されていくものだと思う。自然に出来上がっていくものだとも言えるが、やはり必要に応じて、というほうが的確だと感じる。ストレスなく進められる方法、時間内にできるやり方、あとで修正しやすい作り方など、そういうものは作業手順だけではなく描く内容にもそのまま活きてくる。ぼくはひとの影響を受けやすいので、ちょっとしたことで新しいやり方に憧れたりするのだが、これまでの積み重ねの上に絵柄が出来上がるのだとすれば、急に流れをぶった切ってしまうのは好ましくないかもしれない。新しいことを始めるのはいいけれど、急には形にならないので、やはりやってきたことを活かしながらの方がよさそうだ。つまり、昨日までのやり方をとりあえずそのまま続けるしかない。それが今のところの自分のタッチだから。変な意識はせず、自然に描けばなんでも自分の絵になるはず。どんなものでも描けば自分のもの、というのはひとから言われた言葉で、ひとの言うことをとにかく聞かないぼくにしては珍しく(それにしてはひとの言われたことを気にするのだが)覚えている言葉である。誰に言われたかは忘れた。

『フォースの覚醒』ボトルキャップ


 なにかが足りないと思えば、おそらくはこれだと思う。スター・ウォーズと言えば夏で、ペプシだった。冬興行はクリスマスと合わさるから、それもいいけれど、やはり夏のほうが楽しいと思う。惑星タトゥイーンの灼熱の二重太陽が夏の日差しと結びつき、銀河の映像はコーラの味を思い出させる。そういうわけで、架空のSWペプシキャンペーンを想いながら夏を過ごしている。一度のキャンペーンにしてはキャラが少なすぎるので(恐らく60種以上あったはずだ)もう少し描いてもいいし、『ローグ・ワン』やEP8の分も作りたいな。無いなら作るか描くかすればいい。青いキャップの上にちょこんとキャラクターを載せただけで、あの夏の雰囲気が出るのだからおもしろい。

 当時のラインナップを見返して思ったけれど、とにかく細かいキャラまでカバーしている。あまりにも端役すぎるものはいないが、お馴染みのキャラクターばかりというわけでもない。脇役のジェダイ、議長の補佐官、主人公を乗せただけのリキショー・ドロイド……。でもどれも画面の中で印象的だしなんらかの役割がある。良いラインナップだ。まだ描けていないものを加えて、当時のキャンペーンポスター風のものにしてみてもいいかも。

2019/08/13

映画『永遠に僕のもの』コメント


 8月16日公開の映画『永遠に僕のもの』にコメントを寄稿しています。1970年代に実在したアルゼンチンの連続殺人犯のカルロス・ロブレド・プッチの凶行を描いた作品で、その美しい造形から逮捕後に「死の天使」だ「黒い天使」だと世間を騒がせた青年がいかにダークサイドに堕ちていったのかが掘り下げられています。終身刑で本人は存命中なので、現在どんなふうなのかは検索するとすぐ出てきます。本人がこの映画をどう受け取ったかという記事なども出てきますが、それはともかく。

 逮捕後に人々が驚いたのはその美貌だけでなく、彼に一切罪悪感がなかったことでもあるらしく、劇中でもとんでもないことをし続けながらも澄ました顔。作品全体にもその雰囲気があって、恐ろしいはずなのだが何故か笑えてきたりもする。その欲望の暴走はひとから物をくすねたり借りパクしたりするところから始まるのだけれど、そのせいかレコードにしろ拳銃にしろ、物の雰囲気や存在感がよかった。画面から物欲が伝わってくるような感じ。

「ヘアモード」9月号



 「ヘアモード」9月号のTシャツコーナー、今月のテーマは「80-90年代ロック」で、シチュエーションはフェス会場。思えばフェスらしいものは一度しか行ったことがなく、なかなか嫌な思いをした一回きりなので、またどこかで挑戦はしてみたいんだけど、毎年にこの時期になると雑誌上に現れるかわいらしいキャンプギアを見ているのが楽しいな。というのは毎年書いてる気がする。

2019/08/12

尋ね人





 漫画を描きたいと思っていて、描かなければ始まらないので細かい話など考えていない。墜落したロケットを背景にとぼとぼ歩いている絵と、宇宙人酒場のカウンターでバーテンに聞き込みをしている絵だけが最初にイメージとしてあって、間を埋めて繋げただけ。モス・アイズリーのカンティーナみたいなのを描きたかっただけでもある。そんなテンションだったけれど、しかし描いてみると自分でも続きを見たくなってきた。火星の魔法学校をやめてどこかへ消えたひとを探しにきたのだから、ここはたぶん火星ではないのだろう。

気づけば10年

 この8月でツイッターを始めて10年になるらしい。もう具体的な状況は覚えていないけれど、ツイッターのプロフィール欄に2009年8月から利用していると表示されているのでそうなのだろう。確かフィギュアの情報を追いたくてメーカーのアカウントを見るために始めたのだと思う。それが、今ではどちらかといえば自分から見せるために使っている(フィギュアの情報も見てるが)。簡易的な発表の場として十分に機能しているし、いろいろなひととも知り合えたが、じっくりなにかを書くというのは、やはりブログにしておきたいと思う。なにか書きたいことがあったとき、140字の制限に合わせてコンパクトに圧縮して書いてしまうのはもったいない気がするし、見ているとどうもそうした短文ゆえの誤解とズレから言い争うひとも多い。というか、そんな字数制限の中に言いたいことを思ったように伝わるように書くのはかなり難しい(いくつも書き足していったとしてもひとつひとつの幅に限りがある)。書きたいことは書きたい量書いたほうがいいのだ。自分も気をつけなければいけないが、短文を書き続けていると思考まで短文に合わせたものになってしまうような気がして恐ろしい。これは個人的な体感だけれど、携帯デバイスから書くというのも、それに拍車をかけているように感じる。出先で思いつきを書き留める、その手軽さが安易さに繋がって、不用意な言葉になることもあるだろう。まあなんでもいいが、言葉は丁寧にしたい。

 まさかこんなふうに喧嘩の道具になるとは思わなかった、と言えば嘘になるが、少なくとも目に余るものがある。見たくもなければ関わりたくもないが、そう書くとまるで高みから見物しているようにも取られそうなので難しいところだ(すでにだいぶ自分のことを棚に上げて書いているが)。知らないふりをするしかない。そもそもが他人の独白を読むものであって、それがだんだんきつくなってくるのであれば、それは向いていないということになるのかもしれないが(しかし他人の愚痴や不平不満を読み続けるのに向いている人間がいるのだろうか)、使い方はそれぞれなので、できるだけきつくならないよう工夫しておけばいいと思う。自分でもどこかでやらなければいいと思うところもあるけれど、きっぱりやめてしまう必要も特にないというか、なんとなく続けてるうちに10年経ったというわけだ。それに、もはややめるとか続けるとかいう話でもないと思う。ほかに取って代わるものが現れない限りは残しておきたい。

2019/08/01

「ペンギンの憂鬱」感想


 そのタイトルと装画から気になっていた本。いざ読んでみたらその可愛らしいイラストからは想像できない展開に冷や汗が出るほどだった。売れない作家と憂鬱症のペンギンによるちょっと不思議な生活、程度では全然ない。不思議というより不穏で、得体の知れない危うさが徐々に迫ってくる感じがとても怖い。
 
 舞台は1990年代、連邦の崩壊による混乱と不安定が続くウクライナの首都キエフ。芽の出ない作家ヴィクトルは旧知の編集長から新聞の死亡記事執筆を依頼されるが、それはまだ存命中の人物の死亡記事を、いざというときのために準備しておくというものだった。短編以上を書いたことのないヴィクトルには、これがなかなか調子よく書ける。調子よくなってきたヴィクトルの傍らには、経営難の動物園からもらってきた皇帝ペンギンがいる。最初のうちはこのペンギンに大した意味はないのだが、だんだんどこか張り詰めた雰囲気の中、数少ない息抜きをもたらすモチーフとなっていく。

 ついにストックしてあった追悼文が必要となったとき、ヴィクトルの物語は動き出す。気のいいお巡りさんと仲良くなったかと思えば、怪しげな男から幼い娘を預かることになるし、その子を見てもらうためにシッターとして雇ったお巡りさんの姪と関係を持つことに。編集長は誰の追悼文を書くのかをどんどん指示してくるものの、状況を説明してくれはしない。ヴィクトルはどんどん書き、人がどんどん死ぬ。死亡記事と人々の死との関係について、嫌な予感がしてくる。

 それはともかく、コーヒーを淹れてひたすら原稿を書き続ける様子は、読んでいて楽しい。こんなふうに仕事ができたらいいなという感じがする。いつか長編を書きたいという夢を持ちながらも、匿名で追悼文を書くという仕事にプロとして取り組む。将来への不安に対し、自分は今回り道をしているのだと言い聞かせたりする。短い追悼文の中に、書かなければならない情報と、文芸性みたいなものを両立させるコツを掴みはするが、恐らくそれほど才能のある人物ではない。そういう地味な造形が好感を抱かせる。

 死亡記事作家は自分の人生が自分の知らないところで動かされ、なにかに利用されていることに苛立ち、不安を覚えるが、目の前にある風変わりだが温かみもある生活と、とりあえずは向き合っていくことになる。どう見てもなんらかの陰謀に巻き込まれているけれど、預かった娘ソーニャと憂鬱なペンギンとの日々のディテールみたいなものが楽しくもある。というか、それがなかったらきっとひたすら怖いだけだし、それがあるから怖さが際立つとも言える。この生活が壊れたらどうしよう、ソーニャに危険が及んだらどうしようという不安がつきまとうようになるのだ。本当に怖いのは、得体の知れないもの、そして抗うことの難しい強い力によって日々を牛耳られることだと思う。ヴィクトルの日常にはその両方が潜み、彼からその全容が見えることはない。そんな不穏さの中、ペンギンというモチーフが効いてくる。やっぱりペンギンが好きだなぼくは。

2019/07/31

「婦人公論」8/9号



「婦人公論」8/9号でのジェーン・スーさん連載挿絵。知らぬ間に出来ていた肌の染みからお母さんのことを思い出すお話。