2019/01/29

娘、つかまり立ちをする

 あっという間に随分大きくなった。転がって移動するようになったと思っていたら、そのうち手足でずり這いをはじめ、そうこうするうちに膝を折ってはいはいの姿勢になり、同時に膝を立てるようにもなり、そうしたらもう正座のようなポーズをして、そのまま適当なところを手で掴んで立ち上がるようになった。これらのことがほんの一ヶ月くらいの間に起きたので驚いている。ある程度思い通りに移動ができるようになると、家中どこへ行っても後を追ってくる。少しでも姿が見えなくなると不安がって泣き顔で追いかけてくるのだ。しかし、ようやく彼女がぼくを追って洗面所までたどり着く頃には、ぼくは用を済ませてリビングに戻るところ。健気にもすぐに方向転換してまた追いかけてくる。姿が見えなくなると追いかけてくる、というのは寂しいという気持ちを覚えたということなので、いよいよこれは心が成長してきた証拠である。

 劇的な成長を見てふと思うのは、彼女の同級生にはまだ生まれてきていない子がいるということ。これはよく妻とも、そういえばそうなんだよなと言い合って不思議がっている。本当に不思議だ。あんまり不思議がると早生まれのひとにはなんだか失礼な話なのだけれど(妻も2月生まれだから、同級生がつかまり立ちするようになった1月にはまだ生まれていなかったわけだ)、そう考えると一年というのは思っていたよりも長い。同じ学年であってもいろいろな段階の子が一緒になるということなんだな。
 
 これは別に一年間のどの時点に生まれたかどうかの話はあんまり関係ないかもしれないが、中学に上がったばかりのとき、随分みんな体格が様々だなあと思った。このあいだまで小学生だったこともあって、まだまだ幼げなやつもいれば、もうほとんど出来上がっておじさんみたいなのもいて、ぼくみたいにでかいのもいれば、小柄なのもいた。さすがに中学の段階になれば月齢なんてもはや関係ないほど同じくらい成長しきっているのだろうけれど、一口に同い年と言っても内訳は様々で、本当は同じ条件で比べてもしょうがないくらい多様だったんだなあと思う。気の合うやつもいれば、全然合わないやつがいるのも全く当然のことで、あそこまで能力とか体格の差に辟易することもなかったなあ。と、そんなのことは大人になって、教室というのをゲームの俯瞰図のように見下ろせるようになったから言えることなんだけれど。

 中学行ってショック受けたことなんて挙げたらきりがないんだけど、なによりもまず学年の階級制度ね。学年ひとつ違うだけでひとはあんなにも尊大に振る舞えるのかとひどく驚いたものだ。小学校の頃は上級生だって君付けして遊んでたのにな。完全にその頭で中学上がったからとてもショックだった。ああ、もう年長のひととはレゴで遊べないのかと。なんだかわからないままそんな階級社会に組み込まれてしまったので、困ったものだ。そりゃ確かに迫力のあるひともいたけれど、大抵はぼくなんかより背が低くて幼い顔したやつばっかりで、そういうのが一生懸命怖い顔をして、低くなり始めたばかりの声でがなり立ててるのは可笑しかった。が、誰も可笑しがらないんだな。思っていても全然出さない。本当に誰にも聞かれないところで初めて同級生たちが本音を言ってくれたときにはほっとしたものだ。この階級制度がまだまだピュアなぼくにはあまりにも滑稽で不思議でならなかったので、中学校生活が少し慣れはじめた頃にあった担任との個人面談でこのことを聞いてみた。少しは慣れたか、困ったことやわからないことはないかと言うものだから、聞いたわけだ。こりゃ一体なんなんですか? すると担任は、
「最初はそりゃびっくりするかもしれないね。でも、先輩後輩の関係は社会に出ても一生ついてまわるから、練習だと思ったらいいよ」
 マジかよ。これを聞いたときの絶望といったらない。てっきりあの厳格な階級制度は教師のあずかり知らぬところで勝手に敷かれてるもので、なにかこう、一種のいじめみたいなものだと思ってたから、やめさせたほうがいいんじゃないですかくらいの感じで指摘したんだけど、先生もグルだったか。だめだこりゃ。こんなことを黙認してる学校にこれから三年も通うのかよと、蒼白である。よく耐えたものだ。まあ三年間とは言っても、三年生はもう上がいないので、神経使うのは二年間だけなんだよな。とは言えこの二年が子どもには長い。永久に感じられた。

 当時も滑稽に思っていたので、大人になってからはもはや微笑ましいくらいに思える。なにを怖がっていたのか、みんな同じように子どもだったのにな。もちろんそれも今だから言えることだ。いや、今でもあの年代の強そうなやつは怖いがね。ぼくは自分がすっかり大人になってるという意識が薄いので、というかたまに忘れるので、たまに賑やかな学生グループがいると、絡まれたらどうしようと思ってしまう。

 そこで生まれた月の話に戻る。あの階級制度、学年という線で区切られてはいたけれど、生まれた月で考えたらほとんど同い年みたいなことも当然あったろうね。たとえばおっかねえ先輩が3月末の生まれだったとして、こっちが4月始めの生まれだったら、とか思うと、もうくだらなくなってくる。なにをあんなに威張り腐っていたのだ。そうでなくともほんの数ヶ月同い年みたいな期間もあるわけで、ああ、なんで当時は気付かなかったのだろう。いや、気付いていたら気付いていたでより釈然としなかったか。とにかく、そんなよく考えれば当たり前のことにも、なかなか思い至れないほど感覚を麻痺させる世界だった。娘にはそういうのとは無縁な世界で生きて欲しいものだ。あんなものは知らなくていい。

2019/01/15

とりあえずポケモンを描く




 なんだかんだポケモンを描くのは楽しい。やはりぼくはポケモン・キッズだったか。ゲームは、DSになってからのものもちょっとはやったんだけど、未だに名前がわかるのは第3世代くらいまでなので、もう少しいろいろやり込んでいきたい。最新作はもちろん、未プレイのものはかなり溜まっているはずだ。興味はあれどまだ手に取っていない本同様、これからの楽しみである。だいたいポケモンの名前が言えないなんてダサい。

 いずれにせよ、今も昔も最初の三匹というのは進化するとかわいくなくなるという様式らしい。進化してもかわいいままのやつだっているのにな。特にぼくは真ん中の段階のやつが一番かわいくないように思う。最初はかわいいし、最後もかわいくはないにせよインパクトや完成さがあるんだけど、真ん中は真ん中だけあってどうも中途半端な見た目だ。これが三部作映画だったら真ん中の作品は名作になることも多いのに。リザードとか全然好きじゃなかったなあ。思えばこれまでプレイしたタイトルでは一度も最初に炎タイプを選んだことがないと思う。絶対に草か水を選んでいる。モチーフの動物がそっちのほうが毎回好きなやつ、ということもあるだろうけれど、なんとなく炎は敬遠している。真上に向かって炎を吹いて、翼と両腕を広げた堂々たるリザードンのイラストを初めて観たときは、子どもながらに魅力を感じはしたが、どうもその熱いイメージが、これから冒険をしようっていうときのお供に選びづらいのだ。今度未プレイのものをやるとき、試しに選んでみようか。
 
 ふとプライム・ビデオでアニメの第1シリーズを見返し始めたら、なんとも言い難い感情の波のようなものが押し寄せてめまいがするようだった。単純な懐かしさだけではない。あの無限とも思えた時間の感覚や、毎日少しずつ違うことが起こることの楽しさや未知への恐怖、色の洪水、嫌だったこと、夕食の時間、13インチくらいのブラウン管の光、大嫌いなあいつら、好きなひとたち、ソフトビニールの匂いとか、そういうものが一気にやってきて強烈なものを感じた。子どもの頃夢中だったもの(今でもだいたい全部好きなんだけど)はほかにもたくさんあるが、こういう感覚がやってくるものはポケモンのアニメくらいからしかない。ほかのものは大人になってからもちょくちょく摂取しているせいかもしれないし、ポケモン第1シリーズは放送当時以来観ていないからかもしれないが、とにかく強烈だった。芋づる式に記憶が蘇ってきてそれはもちろん嫌なことも含まれているけれど、なにか逆に新鮮なものを感じた。感覚の中でも特に匂いは記憶を呼び起こすというが、なんだろう、この場合は単に視覚が記憶と繋がっているだけではないような気がする。毎週欠かさず観ていたわけではないので、途中観たことがない話も多いのだが(そもそも第1話からも観ていない。ゲームで炎タイプを避けてきたのに対し、アニメ版で最初に観たエピソードはヒトカゲと出会う回だった)、はっきりと見覚えのあるエピソードはこれを観たとき自分は部屋のどのあたりに座ってテレビを観ていたのかとか、空間の感覚が一気に戻ってくるようだった。さすがに晩御飯までは覚えていないが、その時期の自分がどういう暮らしをしていたのか、日々の楽しみはなんだったのか、そういうものが思い出された。大抵の場合懐古に走るのはみっともないことだとされがちだが、もともと自分がなにを好きだったのかは忘れたくない。そうしてそれは今の情報の多さの中にいると簡単に忘れてしまう。迷ったらスター・ウォーズかポケモンを描けばいいのだ。

 ちなみに問題の第38話はプライムの一覧にも当然無い。視聴不可能にして永久欠番。でも最近ポリゴンのぬいぐるみとか見るようになったね。あいつに罪はないもの。

2019/01/14

「文藝別冊:総特集 森見登美彦」


 小説家・森見登美彦さん特集の「文藝別冊」(河出書房新社)、「森見登美彦をつくった100作」ページにてカットイラストを描いています。100作なのでそのまま100点。一度に描いたカット数としては最多です。子どもの頃から大人になってからまで、4つの時期に分けてお気に入りの作品が紹介されています。本は書影、映画はポスターやイメージとなっています。エッセイ集「太陽と乙女」(新潮社)の装画に引き続いて森見さんの世界にイラスト添えられてうれしいです。



 絵本や児童文学から始まり、コミックや映画、小説へとその世界は広がっていきます。自分が好きなものがあるとうれしく、まだ触れていない作品には興味が湧いてきます。


 SWはやっぱり第1作目ポスターがかっこいい。



2019/01/07

とりあえず2019年の計画を書き出す

 非常に好き放題の休みだったがそれももうおしまい。明日からまた描いたり考えたりすることが増えるので、その前に一旦今年やりたいことを、実現可能かどうかはさておきひと通り書き出しておきたい。

 まずは絵をたくさん描く。のびのびと。これは放っておいてもやるだろうしやらないとどうしようもない。去年後半はずいぶん描けたから、この調子で続ける。

 ブログをめちゃくちゃ書く。これも今の調子で続ける。去年の年間記事数がいまのところ最多なので、今年はそれを上回るように。書きたい書きたいと思いながらもやっぱり書き逃すことが多いので、もう少し気軽にやりたいな。あと、書くのに時間がかかってしまうこともあるので、できるだけ短い時間で書くことを心がける。本当にすぐ煮詰まっていけない。長文はいいけどくどいのはいけない。

 そもそもブログに集中しようと思ったのはSNSがどんどんやりづらくなってきたからだが、今年はより一層使い方を考えたい。特に半ば放置しているフェイスブック・ページをどうしたらいいか。一応インスタグラムと同期させて同じような内容にしようと思ってるんだけど、果たして。ツイッターとインスタグラムはなんとなく住み分けできるけど、FBはブログがある以上必要を感じないんだよなあ。ブログの更新や新しい絵のアップをし続けるだけのお知らせコーナーでもいいんだけど、それもそれで味気ない。FBだけで見てる場合そんなのはあまりおもしろくないし。いやいや、FBだけで見ているひとのことを考え始めたらそんなの全部のSNSでそれぞれの閲覧者を気にしなきゃいけなくなるので絶対考えないほうがいい。見てるひとのためにやらなきゃというのが多分一番モチベーションの低い動機。どうしたものか。

 SWサイトを作り込む。なんだかすっかりさぼってる、というか忘れてるんだけど、ぼくは一応SWのファンサイトを作ったのだった。今のところはこのブログで書いたことをそのままイラストと一緒に移してるだけなんだけど、せっかくホームページなんだから単なるアーカイブだけでなくもう少し作りたい。とりあえずタイトル通り自分の好きな、自分の思うSWを集めたスクラップ帳みたいにすればいいと思っていたんだけど、それにしてもちょっと方向を決めなさすぎたかも。入門的なページがあるとか、各話解説があるとか、キャラ図鑑があるとか、なにか好きなキャラクターについて掘り下げるとか、そういうのをもう少し、なんとなくでいいから決めてもいいかも。縛りをつくると、また例によって身動き取れなくなりそうなので、ゆるくていいんだけど。

 SWサイトのほかに、「ハリー・ポッター」のサイトも作りたいなと密かに考えている。ホグワーツをホームページで作れたら楽しそう。あまり凝ったことはできないし、すぐ続けられなくなるので、本当に簡単なイラストで教室とか部屋とか、ヴィネット的なものを描いて並べて貼ったりしたい。で、そこまで考えるとそういうのをSWでもやりたいなと思えてくる。デス・スターとか、ジャバの宮殿とか。

 あとは持ち物を減らす。まあこれは一番難しいんだけど、結構コレクションや持ち物が増えてきたところで、一旦整理をしてみたい。やたらに物を処分するのは気がひけるが、物欲や収集にきりがないところもあるし、なにより空間が有限である。好きなもの、大事なものをより愛せるように、比較的どうでもいいものはどんどん手放そう。それはまあライフワーク上の活動も同じで、やりたいことが多いからこそ、やらなくていいことを最初からある程度決めておいたほうがいいかもしれない。向いてないこととか。とりあえずそんなところか。年始に構想する計画としてはずいぶんどうでもいい感じのことばかりだが、思いついたらまた書こう。もっと個人的なことはノートに書き出しておく。