2019/03/30

『キャプテン・マーベル』(2019)


 90年代のサミュエル・L・ジャクソンということで『パルプ・フィクション』、宇宙人と接触するエージェントということで『メン・イン・ブラック』。あと、戦闘機ものとして『トップ・ガン』に通じるところもあるらしいんだけど、ぼくは観ていないのでとりあえず触れないでおこう。話の展開がおもしろく、どんでん返しというほどではないにせよ、物語の仕掛けにどうしても触れないと感想にならないので、以下、そのあたり詳しく書いてしまうことを予め断っておきます。

 クリー帝国とスクラル人は戦争状態にあり、物語はクリー視点から始まる。地球人と見た目が変わらない人々や、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でお馴染みの青い肌のヒューマノイドたちから成るクリー帝国と、緑色の肌で尖った耳をした古典的な醜いエイリアンであるスクラル人は対照的に描かれる。前者は感情移入しやすい外見で、スタイリッシュな武器で戦い、見るからにヒーロー的だ。ブリー・ラーソン扮する主人公ヴァースもクリー側だが、彼女は6年前にクリーに拾われる以前の記憶がない。見知らぬ場所、知らない女性の姿を度々夢に見ては、それらが意味するところや自分の正体がわからず苦悩していた。

 そういうわけでスクラルとの戦いの最中、地球に迷い込むヴァースだが、そこで出会うのはまだアベンジャーズを創設する前、政府機関S.H.I.E.L.D.のいちエージェントでしかないニック・フューリー。サミュエル・L・ジャクソンの顔がデジタルの力で25歳若返る(エージェント・コールソン役のクラーク・グレッグも同様)。若返り合成はこれまでも『アントマン』のマイケル・ダグラス、『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー』のロバート・ダウニー・Jr.などでも披露されてきたが、いずれもちょっとした回想シーン程度だった。本作ではサミュエルの顔が全編に渡って若いまま。なんだけど、これが全然違和感ないんだな。例によってスター・ウォーズ脳のぼくは、メイス・ウィンドウの外伝映画なんかの可能性を考えちゃったりする。

 若きフューリーの助けを借りながら、ヴァースは記憶の断片と地球で得た手がかりから自分の正体を探る。フラッシュバックで少しずつ浮かび上がってくるイメージには、つねに逆境に立ち向かう若い彼女の姿がある。自分自身が何者なのかわからない状態で主人公が冒険を始めたり、時系列がバラバラの断片的なイメージの挿入などは、謎が謎を呼ぶ感じで引き込まれる。どうなっていくんだろう、と考えながら観る映画は楽しい。それでいて展開の調子もマーベルらしい軽快な感じなので、全然疲れたりもせず、おもしろい。

 いろいろあって、ついにヴァースは自分がキャロル・ダンヴァースという地球人だったことを知るが、それは、自分がどうしてクリーに拾われたのかという真相や、今自分が身を投じている戦いの別の側面を知ることにも繋がっていく。クリー帝国にとってスクラルは野蛮な攻撃者だったが、スクラルにとってもクリーは残忍な侵略者だったことがわかるのだ。スクラルのリーダー、タロスを演じるのはベン・メンデルソーン。バットマン映画の『ダークナイト・ライジング』、SW外伝『ローグ・ワン』、『レディ・プレイヤー1』などでの小悪党役が印象的で、最近ではすっかりそのイメージが着いているひと。少なくともぼくはそう思ってる。だから、メンデルソーンが扮する緑色で耳の尖ったエイリアンなんて、すごく悪役らしいんだけど、その先入観もまたこの映画の仕掛けのひとつだった。前述したクリー人たちのヒーロー的な容貌も同じことで、その見た目の対比自体ミスリードだった。戦争の違う角度を知ったキャロルは、戦いを避けて新しい居住地を探したいと願うスクラルに手を貸すことにする。

 とは言え、クリーとスクラルがやっているのは戦争であって、本当ならそこに客観的な善悪なんてものは決められない。スクラルが一切悪いことをしていないわけでは全然ないだろう。重要なのは、キャロルが自分自身の意志でどちらの味方をするか選択したことだ。本当のことを教えてくれず、自分を戦いの武器として利用しようとするクリーと、攻撃的なところもあるが難民と化して疲弊し、平和を求めるスクラル。少なくとも、キャロルの中でどちらを助け、どちらと蹴りをつけるべきかはっきりしている。こうして彼女は記憶とパワーだけでなく、主体的な自分自身を手に入れるのだ。ここがいちばん熱い。

 ところで、キャロルの夢に現れた女性はローソン博士といって、演じるのはアネット・ベニング。彼女の正体はクリー人だった(正体が地球人だったキャロルとは逆だね)。博士は『キャプテン・アメリカ:ファースト・アベンジャー』でキーアイテムだった四次元キューブを、戦争を終わらせるために使おうとしていたらしく、また難民となったスクラルたちを助けてもいた。四次元キューブは空間を司るインフィニティ・ストーンのひとつ。どうしてローソン博士が持っていたかというと、おそらくは『キャプテン・アメリカ』のラストでキューブを回収したハワード・スタークが渡したのだろう。これまではてっきりスタークがそのままシールドに渡したのかと思ったが、90年代のフューリーはじめシールドがキューブの存在を知らない様子なので、スタークが個人的に保持し続け、ローソン博士となんらかの協力関係を築いて提供したと考えられる。あくまで個人的な穴埋めだが。とにかく、絶大な信頼を置いていたローソン博士が、危険をおかしてスクラルたちを助け、戦争を終わらせようとしていたというのは、キャロルがスクラルを助ける理由として十分だった。

 本作は超人たちの存在を知る前のニック・フューリーのプリクエルとして見ることもできる。あの強面の眼帯司令官の知られざる過去。なんて言ったらかっこいいかもしれないが、それほど壮絶な経験をしているわけでもなく、かなりとぼけた野郎だったことがわかる。そのギャップは、もちろん笑える。片目を無くした理由も、さぞ血なまぐさい戦いがあったのだろうなと思っていたら……。まあ、これは見てのお楽しみ。クリーやスクラルの逆転、キャロルやローソンの正体よりも、実はこれが一番重要な真相じゃないかと思える。

 どうして今90年代に時計を戻し、フューリーとキャロルことキャプテン・マーベルの出会いを描いたかと言えば、もちろん『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』のラストシーンで、絶望的な状況で最後の力を振り絞ってフューリーが古ぼけたポケベルでキャプテン・マーベルを呼び出して終わったから(このポケベルはキャロルが改造して渡したもので、通信範囲はなんと銀河二つ分)。絶体絶命のときにフューリーが呼び出したのはどんなひとなのか。そいつはどれだけ強いのか、全宇宙の生命体の半数を消し去ったサノスに太刀打ちできるほどなのか、という好奇心が『キャプテン・マーベル』には寄せられていたというわけだ。しかし、単に過去編や次回へのブリッジとしてだけでなく、そこにちゃんとひとつの物語としてのおもしろさがあるのが、すごいと思う。レゴが欲しい。

2019/03/29

「マリコを止めるな!」(林真理子著/文藝春秋)装画・挿絵


林真理子さんの新刊エッセイ「マリコを止めるな!」の装画と挿絵を担当しました。週刊文春での連載エッセイ一年分をまとめた一冊。ということで去年話題になったことがらを連想させるようなカバーに。映画ポスターのパロディは編集さんのアイデア。


 挿絵より一点。肖像画として残っている西郷隆盛の礼服姿、絵柄も独特なのでインパクトが大きい。上野でお馴染みの浴衣姿とはまた違う印象。まあ浴衣で犬の散歩しているほうが親しみやすいか。

 今月はずいぶん本の仕事があった。それにビッグネームの連続。今も書籍の仕事やっている最中ですが、また来月以降、刊行の際に紹介します。

2019/03/27

「おバカさん」(遠藤周作著/角川文庫)装画


 今週、角川文庫から復刊された遠藤周作著「おバカさん」の装画を担当しました。遠藤周作と言えば「沈黙」くらいしか読んだことありませんでしたが、本作は元々新聞連載だったこともあり、軽快な運びで展開が気になる娯楽作。こういう話もあったんだと恥ずかしながら驚くと同時に、そういう軽快な調子の中にも時折深い愛が垣間見え、「沈黙」に通じるものも感じられます。

 商社マンの兄とタイピストの妹の家に、兄のペンパルだったフランス人がやってくるところから、物語は、というか騒動は始まる。そのフランス人がかのナポレオン・ボナパルトの末裔だというのだから、迎える方は大騒ぎ。高貴な外国人がやってくると勝手に決め込んで支度するも、いざ横浜に着いた船まで迎えに行くと、薄汚いちんちくりんな格好の、とても美形とは言えない馬面の男が現れる……。なんだかんだ期待していた妹のほうはがっかり。ガストンというその男は、現代もなんとなく続いている外国人(特に白人)に対する幻想みたいなものをことごとく裏切っていき、行く先々で騒ぎを起こしていく。面倒なやつだけど、どうも憎めないガストン。そんな彼には日本に来た目的があるらしく……。というお話。

 当然昔書かれたお話なので、時代特有の表現や聞き慣れない言葉が多いんだけど、それでも人々の生活にそこまでの変化はないし、昔の東京のアングラな部分がちらほら覗くのもおもしろい。どんどん発展していく大東京の片隅で、ガストンが触れ合うのは世捨て人や娼婦、労働者にヤクザものと、華やかな街の中心からはみ出た人々。街の裏側へ裏側へと行こうとするガストン、全然自分とは関係ない弱き者、傷ついた者に不器用ながらも手を差しのべようとする彼の行動に、なんとなく彼がなにを体現しているのか、来日の目的が浮かび上がってくるような気がする。というのは、巻末の解説とか、すでに世に出回っているこの作品の感想を見たりするとわかっちゃうことなんだけど、ガストンが何者なのかはぜひ読んで想像してください。

 大使館や駐留軍、あるいは映画俳優でしか外国人を見ることのなかった時代。どうしたって「ガイジン」はかっこいいというイメージが人々の頭にあって、ガストンを迎える兄妹の、特に妹の方はまさにそのイメージのためにガストンに幻滅するんだけど、そんなのは勝手に幻想を押し付けて勝手にがっかりしているわけで、よくよく考えれば失礼な話。外国から本当にいろいろなひとがやってくるようになった今でも、ぼくらはまだまだハリウッド俳優や綺麗なモデルとかのイメージを持っちゃないだろうか?ガストンの風体やそれに対する妹の反応というのは、そういう意識になにかを打ち込んでくるようで、改めないとなあと思ったりもする。ガストンの人となりを間近で見ているうちに、妹は彼の中身の魅力を理解し始めるんだけど、そういうのは随分月日の経った今でも、重要なことであることには変わりないんだな。



「婦人公論」4/9号



 「婦人公論」4/9号のジェーン・スーさん連載挿絵。女のひとは服の種類が多くて楽しい反面洗濯が大変というお話。レディースの洋服は、確かに絵に描くときとかも結構悩みます。男のひとが思っている以上に形が様々。気をつけないと全部ワンピースを描いてしまいそうになるので、いろいろ描けるようにはしたい……。

SPUR 5月号



 「SPUR」5月号の映画レビュー連載では、先週から公開となった映画『バンブルビー』を紹介しています。『トランスフォーマー』シリーズのプリクエル(前日譚)、なんだけどこれまでの『トランスフォーマー』映画の内容とちょっと噛み合わないところもあるらしい。でも一本の映画として大変おもしろく、かわいく、かっこいい作品なので、とりあえずそういうのは気にしない。主人公は『スウィート17モンスター』で難しい17歳を演じたヘイリー・スタインフェルド。今回はひとつ年を取った18歳のタフガール。手と顔を汚して車をいじる姿がクール。ヘイリーは『スパイダーマン:スパイダーバース』のスパイダーグウェンの声を担当しているので、今年のナードアイドルの顔になるんじゃないかと思う。

 黄色い車の映画ということで、黄色好きのぼくとしてはなんとしても描きたかったが、実はぼくが黄色という色が好きなのには、なにを隠そう黄色い車が関係している。小さい頃、あれは夕方だったのか、早朝だったのか、とにかく青みがかった薄闇の中、父親の運転する車で海岸を見に行くことがあったのだが(海の様子を見に行くのは波乗りをする父の日課)、その近辺に家並みの中に、その黄色い車があった。通りかかるたびに父がそちらに注意を促す。そのうちに通りかかるたびに、今日も黄色い車がある、今日はいない、なんていうように気にするようになった。ような気がする。それがどんな車かはよく覚えていない。父が特に気にしたところを見ると、ピックアップトラックとかそんなところだろう。記憶の中で実際よりも強調されているかもしれないが、青みがかった薄暗さの中で、その黄色い車がぱきっと浮かんでいるのが印象として残っている。

 『バンブルビー』の主人公チャーリーは、映画が始まった時点ですでに父親を亡くしている。母親はすでに新しい恋人を迎えていて、弟もそっちになつきはじめている。でもお父さんっ子だったチャーリーはなかなか現実に向き合えない。ほかの家族とは距離を置いて、ひとり車をいじっている日々。そんな中、黄色いビートルに変身して地球に潜んだバンブルビーと出会う。

 黄色い車とお父さん、っていうところで、個人的にもいい感じの映画だった。いや、ぼくのお父さんは元気でやっているけれど。ロボットたち(ロボットって呼んでいいのかわからないが)のデザインが昔のアニメを意識した感じになっていてよかったな。去年コミコンでおもちゃの展示を見て以来、「トランスフォーマー」が気になっていたので、これを機にいろいろ見てみようか。

瑞丸、花粉症とアレルギーになる

 子どもの頃からアレルギーとは無縁だったつもりだったが、今思えばあれを食べたときのあの変な感じはアレルギーだったのかもなあ、なんて思ってたら、ここに来て一気に症状がひどくなった。ナッツ系、特にアーモンドとカシューナッツは食べた途端に耳や喉の奥がむずがゆくなったものだが、最近はむずがゆいどころではない。ヒリヒリする。いくら耳をほじっても、喉仏をかきむしってもおさまらない。切り開いて洗いたいくらいだ。なるほど、こういうのをアレルギーというのか。まだちゃんと検査などはしていないけれど、大方そうだろうと思うので、それが含まれているものは食べないようにしている。ピーナッツや落花生なんかは平気だったけれど、最近は食べていなかったのでそれも避けている。柿ピーなんかも避けないといけないし、チョコレートとかはちゃんとパッケージ裏の内容表示を見て、アーモンドが含まれていないか気をつけないといけない。と、お菓子類ってのはこれが入っているものが多いということを改めて知る。あれもこれもアーモンドが入っている。スターバックスもちょいちょい砕いたアーモンドが入っているので要注意。症状の有無に関わらずもとからそんなに好きじゃないので、そこまで不可欠なものとは思えないんだよなあ。そんなことないのかな。

 それから、去年からも怪しかったけれど、今年は本格的に花粉症がきつくなった。アレルギーと花粉症はどうやら関係があるらしいので、なにかそういうタイミングだったのだろう。犬の散歩をしているだけで眼がしょぼしょぼむずむず、ごろごろして大変だった。目玉を取り出して洗いたくなる、なんていうのを聞いていたが、まさにそういう感じだ。そうでなくともぼくは眼が乾きがちで、チック症で眼が気になってぱちぱちとやるのだが、そこに花粉症なんか来たのでもう顔が大変である。どうにかなっちゃいそうだ。足の小指をぶつけたドクター・エヴァザンはこういう顔するかもしれないというような顔を往来でするのはまずい。というわけで花粉症防護の眼鏡を買ってみたんだけど、これがだいぶ楽になる。ただ、両側の隙間を塞いでいるのでだいぶ視界が制限され、最初は結構怖かった。でも、顔を動かして周囲をよく見るようにはなったかも。眼鏡とマスクが必需ということで、ストームトルーパーのヘルメットなんか被って過ごしたらいいんじゃないかと思うがどうだろう。それなら楽しい。

2019/03/24

『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)


 単独世界の「ユニバース」じゃなく、複数(平行)世界から成る「マルチバース」というのがとにかくいい。単一世界になるとどうしても小さな矛盾であるとか、物語の重複みたいなものが指摘されたりして窮屈さを感じるけれど、マルチバースだったら平気。演じる俳優が交代したり、作品自体がリブートされて仕切り直されたりすると、いちいち前のものと整合性、連続性が気にされたり、無かったことにされた、みたいに騒ぐノリもあまり好きではないので(作り手は前のを無かったことにするなんて一言も言ってない)、そういう意味でも全ての世界線を包括するマルチバースは楽しい。ここではトビー・マグワイアもアンドリュー・ガーフィールドもトム・ホランドも同時に存在していて、互いに全く矛盾しない。日本の特撮でやったスパイダーマンだって存在する世界だ(実際に「スパイダーバース」のコミックでは日本版にも言及があるらしい)。世界は広い。

 コミック的な映像は強烈で、ぼくは3DIMAXで観たこともあって、まるでコミックの中にいるようだった。確かにぼくはコミックの中にいた。漫画表現みたいなものの良さも改めて思い知った。吹き出しの文字ってこんなにかわいいものなんだ。2Dのようで3Dなキャラクターからも目が離せない。絵なのか、CGなのか、トゥーンレンダリングなのか、もはや呼び方がわからない。ただひとつ言えるのはアニメーションで、生きたコミックだということ。

 どのスパイダーマンも自分が世界で唯一のスパイダーマンだと思っていたけれど、平行世界から集合してそうじゃないことを知る。スパイダーマンはそりゃそうそういるもんじゃないけれど、似たようなことは誰でも感じるんじゃないかな。こんな人間は自分だけだと思っていたら、同じようなひとが他にもいたなんてこと。まあ、そんなところに落ち着かせるには大きすぎる作品だけれど、スパイダーマンは超人でもお金持ちでもない、誰でも共感できる「親愛なる隣人」ということで。ひとりじゃなかったんだ、ていう気持ちはやっぱりうれしい。

星野源オフィシャル・イヤーブック「YELLOW MAGAZINE 2018-2019」


 星野源さんのオフィシャル・イヤーブック「YELLOW MAGAZINE 2018-2019」にて、一部本文イラストを描いています。こちらは一般書店では扱われない限定的な本なので、詳しい内容については伏せますが、買われた方はぜひご覧ください。豪華な印刷物はうれしくなりますね。



2019/03/21

「HAIRMODE」4月号



  女性モード社の「HAIRMODE」でのヴィンテージTシャツ紹介コーナーの挿絵。4月号のテーマは「お土産」ということで、ご当地Tが紹介されています。ハンバーガーがうまく描けるようになった。というか、お店の中、みたいなシチュエーションが描けるようになった……。前回同様、男の子が遅れてやってきている。

「90秒の別世界 短歌のとなりの物語」(千葉聡著/立東舎)装画


 立東舎より刊行、千葉聡さんの「90秒の別世界 短歌のとなりの物語」で装画を担当しました。歌人である千葉さんの小説デビュー作で、いち見開きで読み切れるショートショートと、そこに添えられた既存の短歌それぞれ100編が楽しめる本となっています。SF的なお話が多いので、このようなカバーイラストとなりました。見た通り好き放題な絵ですが、自分の好き放題が本の世界観とうまく合って、装画として役に立てるのは理想的ですね。誤解を恐れずに言うならば、だんだん自分の絵になってきたような気がする。


 帯の色などもイラストの配色に合わせていただきました。本は必ず帯がかかるので、装画は重要なモチーフ(店頭で見せたいもの)が帯より上に来るように考える必要があります。かといって、帯を取ったらなんにもない、では寂しいので、見えても見えなくても絵が成立するものを考えます。今回のように下が透けているようなデザインの帯はうれしい。


 カバーの袖も含めてイラストの配色をデザインに生かしてもらっています。自分の絵が本のカバーについているという時点で、本を読む人間としてはうれしいのですが、絵の配色が本全体に行き渡ってるというのはより感動を覚えます。本を作る手伝いができたんだなあと強く実感できます。

2019/03/11

『アクアマン』(2018)


 地上に逃れたアトランティスの女王と、彼女を助けた灯台守の男との間に生まれたアクアマンは、半分アトランティス人で半分地上人。そんな彼が、海を汚染する地上人に戦争を仕掛けようとする異父弟のアトランティス王と対決し、真の王として海中世界と地上世界との架け橋になろうとするお話。典型的な貴種流離譚がわかりやすく、また陽気なサーファーみたいなアクアマンのキャラクターが親しみやすいので、楽に楽しめる(最近のアメコミ映画ではとても重要なことだと思う)。海中世界の都市や兵器もおもしろかった。個人的なお気に入りはカニ人。甲殻王国とアトランティスの合戦シーンは見どころ。

 スーパーマンとバットマンが織りなすダークなDC世界において、ワンダーウーマンとアクアマンが差し色になっている印象。ニコール・キッドマンは『バットマン フォーエバー』以来のDC作品じゃないかな。『アントマン&ワスプ』のミシェル・ファイファーの役どころとほとんど同じだったけれど、ミシェル・ファイファーもまた『バットマン リターンズ』のキャットウーマンだったことを思うと、結構重なる。

 海中の兵器や戦いが、ちょっとした宇宙という感じだったので、同じような色彩・ノリでグリーンランタンとかやったら楽しそうだと思うなあ。

2019/03/09

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(2018)


 『ハリー・ポッター』と世界観を共有するシリーズ第二作。簡単におさらいすると、ハリーたちがホグワーツ魔法魔術学校で使っていた教科書「幻の動物とその生息地」の著者である魔法動物学者ニュート・スキャマンダーの冒険を描くお話で、時代は1920年代頃に遡る(ハリーたちのお話は1990年代)。今作では若き日のアルバス・ダンブルドアが登場し、旧友かつ宿敵であるゲラート・グリンデルバルドと対立。ダンブルドアとグリンデルバルドの関係が当局に怪しまれているため、代わってニュートがその邪悪な野望を追うことになる。

 グリンデルバルドの、ヴォルデモート卿とは全く違うタイプの悪役としての確立が大成功だったと思う。出生へのコンプレックスからマグルを憎み、支配ないし滅ぼそうとしたヴォルデモートに対し、グリンデルバルドの動機は「マグルを放っておけば世界が滅びかねない」という危機感からくるものだったことが明かされる。もちろん闇の魔法使いとしての所業は正当化されないが、グリンデルバルドがみんなの前で見せた「未来のヴィジョン」は、ぼくたちマグルに嫌でも突き刺さる。彼が見たヴィジョン、それは果てしなく続く廃墟を彷徨う難民、あるいは強制収容所の囚人たち、上空を飛び去る戦闘機はセストラルよりも不気味で、しまいには全てを焼き尽くす炎と巨大なきのこ雲……このあとマグルが引き起こすことになる第二次世界大戦の様子だったのである。それを見た魔法使いたちは驚愕する。どんな魔法をもってしてもこんな惨状は生み出せないとでも言いたげな驚き。マグルは世界を滅ぼす力を持ちつつあるのだ。だからこそ、グリンデルバルドは魔法使いが彼らを管理・支配するべきだと説く。それに対し、恐らく観客たるマグルたちは返す言葉もないだろう。そういう意味で本作はスクリーンの外にいるマグルにも語りかけている。

 ここからは個人的な勝手な予想なのだけれど、グリンデルバルドの見たヴィジョンは、ほかでもないグリンデルバルドが引き金、あるいはきっかけのひとつになるのではないだろうか。ちょうど、アナキン・スカイウォーカーが自分の見たヴィジョンの実現を避けようとした結果、自分でその結末を招き、愛する人々を滅ぼし、ダース・ヴェイダーとなってしまったように。少なくとも、ぼくたちは第二次大戦が実際に起こることを知っている。だからグリンデルバルドの努力は恐らく報われない。そして彼の企みがそのままヴィジョンの実現に繋がっていくのではないだろうか。

 グリンデルバルドという名は「ハリー・ポッターと賢者の石」の時点から登場する。ハリーが蛙チョコレートの魔法使いトレカでダンブルドアを引き当て、そこに書かれたプロフィールに、「1945年にグリンデルバルドを敗る」とあるのだ。1945年。今更言うまでもない現代史のいち起点、世界大戦終結の年だ。第二次大戦を避けようとしたグリンデルバルドが、第二次大戦終結の年にダンブルドアに引導を渡されるというのは、今後の『ファンタスティック・ビースト』を予想する上でも重要だと思う。世界大戦とグリンデルバルドにはなにか深い関係が生じるのではないだろうか。

 ついでに言えば、ハリーの宿敵であるヴォルデモートは1945年にホグワーツを卒業している。ますます匂う。さらに、今作にはのちにヴォルデモートの使い魔となる大蛇ナギニが登場する。なんと、かつてナギニは動物に変身する人間、「動物もどき」であり、その正体は東洋の美女であった(演じるのはクラウディア・キム)。劇中ではだんだんと人間に戻れなくなっていくだろうということが説明され、彼女の未来を暗示させる。彼女は一応ニュートたちのパーティに加わることになるが、それがどうしてヴォルデモートの愛蛇になるのだろうか?『ファンタビ』の物語はこれらの運命が交わるであろう1945年に向かっていくのかもしれない。

 ダンブルドアの蛙チョコレート・カードに書いてある人物としては、ほかにも錬金術師ニコラス・フラメルがゲスト登場する。しかも真っ赤に輝く石も出てきて、世界観の原点を思い出させた。ナギニもそうだし、なによりホグワーツ城も久しぶりにスクリーンに登場するので、『ハリー・ポッター』シリーズへの繋がりも大きい。ちらりと登場する若き日のマクゴナガル先生がキュート。ざっと計算してみるとハリーたちが通う頃には、マギー・スミスでさえ追いつかない結構な年齢になっていたはずだが、そこはそこ、魔女だからね。猫に変身する魔女の先生が普通のマグルと同じように年を重ねるわけがない。

2019/03/07

今年はZINEを作りたい

 ZINE作りっていうのは専門学校通ってる頃から周りで流行っていて、在学中は使い放題だったエプソンの8色式インクジェットプリンターを駆使していろいろ試してみたものだが、卒業してからはとんと作っていない。学生の頃もそんなにおもしろいものは作れてなくて、せいぜいちょっとした画集のようなものや、授業のレポートのようなものだったと思う。メディアとしてすごく自分好みだし、なによりもどんな形であれ自分で本を作るというのが魅力的なので、いろいろ作ってみたかったのだが、いざ「自由に本を作る」となると目の前に広がる自由度があまりにも途方もなく感じて、どんなものを作ったらいいか全然思いつかなくなり、用紙選びなども億劫になってしまい(なんかこだわらないといけない、みたいに思ってしまった)、結局特になにも作らずに冷めてしまった。

 まずひとつ作れば勢いが生まれる。自分に合ったやり方が見えてくる。というわけで、今年はなにか作ってみたい。様式もそこまで決め込まなくていいし、用紙なんかも適当なコピー用紙とかでいいと思う。変に綺麗なものを作ろうとしたのがいけなかった。凝ったものは確かに素晴らしいけれど、ぼくにとってZINE作りは手軽なものであってほしい。コピー用紙をざくっとホッチキスで綴じたラフな感じも、ZINEの良さだと思う。簡単なものをいくつか作っていくうちに、いやでも凝りたくもなるだろうし。

 作りは簡単でいい。オーケー。で、問題は内容なんだけど、とりあえずはなにか自分の雑誌を作るつもりでいくつかコンテンツを考えて詰め込んでみようかな。イラストがあり、文章があり、なんの足しにもならない雑記があり、ちょっとしたお話があり、偽の広告があり、おもちゃの写真なんかも入れていいだろう。

 映画や読書の感想も結構描いているから、ああいうのこそ本にまとめたらよさそうだし、なんといっても『スター・ウォーズ』に関しては何冊でも作れそうな気がする。『ハリー・ポッター』の冊子だって作りたいし、自分のイラストでポケモン図鑑を作るのもいいと思う。なんとなくのアイデアならいくらでも浮かぶんだよなあ。もちろん版権絡みのもの、ファンジン的なものは販売はしないで、完全に自分のために作る。親しいひとにはプレゼントしてもいい。それもまた作品のうちになるし、こういうものが作れる、作りたい、興味ある、という表現にもなろう。

 版権に触れない自分発のフリーな内容なら、多少販売してもいいかもしれない。でも、まず今は作ることだけを目的にしてみよう。何冊か号を重ねられたらおもしろいだろうな。そのとき、ぼくはブログのほかにメディアを持つことになる。紙のメディアだ。

2019/03/06

なんちゃって自動筆記


 仕事でちゃんとしたものばかり描いているので、たまには頭や手をリラックスさせて、特に意味のないものを描いてみたくなる。いわゆるオートマティスム(自動筆記)みたいな感じで(厳密に言うとオートマティスムというのはトランス状態や憑依といったものが絡んでくるやばめのものらしいが)、特になにも考えずにすらすらペンを走らせて適当な形にしてみる。なにも考えずにやるのが重要なんだろうけれど、見ての通りどこかに顔をつけているので、ちゃんとした自動筆記では全然ないですね。というか、本当に意味のないものとか、嘲笑混じりで言われる「アート性」みたいなのがとても嫌なので、そういう照れ隠しみたいな感じで顔を書き加えているのだと思う。色つけは線のときより考えている。配色の練習にもなればいいかな。




 意味のない形を目指したつもりが、だんだん生き物らしくなった。やっぱり動物やクリーチャーが好きなのかな。本当に意味のないものっていうのもなかなか難しい。とりあえず描いているぶんには、線を引いている以上の意味がないので、とても楽しい。特になにも描く気がしなくても、いつでも線は描きたいのだ。はっきりした具体的なものばかり描いてきたものだから、こういうリフレッシュの仕方を知らなかった。ぼくにはこういう柔らかさが必要だと思う。

 なにが正しいかは人によるだろうけれど、ぼくはあんまり描いたり作ったりするものにコンセプトといったような計画性を持たない方がうまくやれるタイプなのかもしれないと、最近思う。もちろん基本的にはコンセプトは重要とされるのだが、しかしなんにでもそんな立派な着想がなければいけないということはなくて、なんか思いつきでちゃちゃっと描いたものでもかわいいものはかわいい。意味のあるものばかりでもくたびれる。肩幅が画面いっぱいの水平線に広がっているだけでめちゃくちゃおもしろいわけで。小賢しいことばかり考えなくてもいいのだ。学生時代はとにかくなんでもコンセプトが求められた。自分で描いたもの作ったものをちゃんと説明できないでどうする、とよく言われたものだけれど、しかしぼくなんて基本的に「犬を描きたいから描いた」程度の説明しかできないし、する必要をあまり感じない。仕事だったら多分「頼まれたから描いた」とかになるだろう。もちろんその企画としてのコンセプトや目的、意図はあるだろうけれど、それは往々にしてこちらが考えることじゃないしなあ。もちろん、自分でなにか伝えたいことがあってそれを描くこともあるだろうけれど、それは自然に、半ば衝動的に「伝えたい」と思うから筆を取ることだろうし、結局それも「描きたいから描いた」というところに行き着くと思う。学校でうるさく言われたようなコンセプトっていうのは、どうも頭でっかちだったような気がする。おそらく「描きたいから描いた」なら、「どうして描きたいと思ったのか」っていうところを突っ込んでくると思う。どうやらそれを説明できないといけないらしいのだ。もしかするとそれは、上の方で書いたような、「頭や手をリラックスさせて気分転換のために特に意味のない形のものを描いてみたかった」みたいなことでも十分よかったのかもしれないし、「それでなにを表現して伝えたいのか」みたいなことまで聞かれるかもしれない。いずれにせよぼくは、あんまり深く考えて描かないほうがいいタイプなんだろうなあ。うまいことをやろうと思うとだいたい失敗するし、身構えれば身構えるほどおもしろくないものになる。学校で言われたことなんて、話半分で聞いておけばいいって最初からわかってたけど、それでもやっぱり、頭のどっかに残っちゃってるんだなあ。

2019/03/03

映画『ブラッククランズマン』イラスト寄稿


 3月22日に公開されるスパイク・リー監督最新作『ブラッククランズマン』の宣伝にイラスト寄稿しました。
主な掲載記事はこちら。
 https://natalie.mu/eiga/news/320625

 70年代コロラドで、地元初の黒人警官がKKKへの潜入捜査に挑むという物語で、実話がベース。電話担当の主人公と対面担当の同僚という、ふたりでひとりを演じる潜入捜査の痛快さもおもしろいが、あらゆる不満を有色人種にぶつけようとするクランメンバーたちのゾッとする思想や、しかし同時に伺える彼らの行き詰まった気配などは、今現在にも通じる。というか地続き。完全に昔の話と言えないところがもどかしいけれど、だからこそ力強いパワーを感じられる物語だと思う。

 写真は寄稿したイラストをそのままステッカーにしてもらったもの。具体的にどこで配布されているのかちょっとよくわからないですが、一般試写を観たひとがもらっていたので、恐らくはプレス周りで配布しているらしい。

2019/03/02

仕事紹介のやり方

 ブログでの仕事紹介のやり方を少し変えてみた。成果物が世に出たタイミングでの更新をついつい忘れるうちに、月末に一度の記事に複数件分書き出すようになっていたが、どうもそれだと単独で特に紹介したい仕事などもたまにあって、なんだかそれぞれの仕事の扱いの大きさが変わるようでフェアじゃないような気がしたので、できるだけ一件ずつ別々に書いていくことにする。ブログトップの表示が前とは変わったというのもある。最初の画像一枚と冒頭の数行分だけ表示するという今の状態だと、記事の後のほうで紹介している仕事がどうも埋もれているような感じがするので、よくない。一件ずつ別々のほうが角が立たないし、なんだかんだこれがいちばんしっくりくる。最初の頃はこうだったし。仕事の数が増えたからといって一緒くたにまとめるのは味気ない。一個一個更新するのを楽しみたい。

「HAIRMODE」3月号



 女性モード社の「HAIRMODE」にて、ヴィンテージTシャツ紹介コーナーの挿絵を描いています。毎回Tシャツのテーマが変わり、しばらく続きます。今回は「アニメとTシャツとわたし」。


 告知しそびれていましたが先月号から始まっていました。この回は「映画とTシャツとわたし」。

「婦人公論」3/12号



 「婦人公論」3/12号のジェーン・スーさん連載挿絵。男の人が女の人を一概にひっくるめて語ることがあるけれど、その逆もよくあるのではないか。両性とも抑圧を受けているから辛いのではないか。本当はともに立ち向かうものがあるのではないか、というようなお話。「それぞれの背景」を知ることが重要。実はお互い同じくらい大変なんだということがわかる絵になっていればと。込み入ったお話は説明的な絵になりすぎないよう気をつけたいところ。

SPUR 4月号



 「SPUR」4月号の映画レビュー連載では、エマ・ストーン、オリヴィア・コールマン、レイチェル・ワイズ主演『女王陛下のお気に入り』を紹介しています。派手な化粧とかつらで着飾った道化のような男たちが、女王をまつりあげて国を動かしていく中で、喪服のような暗い色調のシックなドレスに身をつつむ女たちの存在が際立つ。『ハン・ソロ』にエキストラ出演していたズザ・テハヌが、やはりちらっと登場している。冒頭、エマ・ストーンが乗合馬車に乗っているシーンに注目。