2019/06/30

「SPUR」8月号



 「SPUR」8月号の映画レビュー連載では、「COLD WAR あの歌、2つの心」を紹介しています。戦後間も無いポーランドで音楽家ヴィクトルと歌手志望のズーラが出会い恋に落ちるが、やがてヴィクトルは西側への亡命を決意。当時まだ壁が建設されていないベルリンを経由してふたりで脱出するはずだったが、直前にズーラが断念。ヴィクトルは独りでパリへ渡り、ズーラは国に残る。ふたりはそこから15年もの間、鉄のカーテン越しに再会と別れを繰り返すことになるのだった……。タイトルはずばり「冷戦」だけれど、よくイメージされる冷戦の物語ではない。東西の指導者やスパイといった人たちの駆け引きなどはないし、もちろん戦乱も描かれない。ただ隔たれた恋人たちがいるだけ。そんな小さな視点の物語だけれど、めちゃくちゃパワーがあって、そんなラブストーリーを「冷戦」と名付けるところがいい。ポーランドの民族舞踏なども出てきて音楽もインパクト大。大局的なお話だけでなく、個人的な物語もまた時代と世界を持っているんだなあ。

「婦人公論」7/9号



「婦人公論」7/9号、ジェーン・スーさん連載の挿絵。ビヨンセやマドンナなど、一見遠い存在でもつねに自分に寄り添い励ましてくれるポップスターたちについて語られています。


2019/06/25

SWタイトル問題


 『エピソード5/帝国の逆襲』より。ダース・ヴェイダーが通信中にオゼル提督を見えない手で処刑し、傍らのピエット艦長をその場で昇進させる場面。息を詰まらせたオゼルが苦痛にあえいでいる間も、表情ひとつ変えずに(それでいて内心怯え上がっているはずなのが伝わってくる)ヴェイダーからの指令を聞くピエット艦長がまたいい感じである。後任者はつねに前任者の無残な最期を脳裏に浮かべながら、恐怖を原動力に仕事に取り組むのである。嫌な職場だなあ。

 と、そんな誰でも知っている名場面の説明はいいとして、今回どうしてもいい加減最終的な決定を下したかったのが、作品のタイトルについて。ご存知のように『スター・ウォーズ』シリーズは副題が面倒である。一作目が後付けで『エピソード4』とつけられたり、かと思えば『エピソード7』にあたる『フォースの覚醒』から、そのようなナンバリングがつかなくなったしまった。オリジナル三部作時代のシンプルな副題を意識してのことだろう。確かにすっきりしていてかっこいいが、9部作並べた際に締まりがない。前の6本については全て話数がついているからである。意図的に話数を抜きにして呼称しているケースやひともいるのだが、それも含めて非常に気持ちが悪いのだ。ましてや9部作でひとくくりにするのなら、やはり全てに数字がついていたほうがいい。数字は、しっかり並ばなくてはならない。なんだか数字に病的なこだわりを持つ吸血鬼のキャラクターのようだが、そしてぼくは決して算数が得意なほうではなかったが、しかし数字は並ばなくてはならない。なにより順番がわかる。ただでさえ順番がわかりづらいSWシリーズ、それはとても重要なことだ。そして、こういう文章で言及するときにも数字で呼んだほうが早い。

 とは言え、副題で呼びたくなるテンションもわかる。数字は便利である反面表情がつきづらく、かえって数字で言われてもどの作品かぴんとこないひともいる。まあそんなひとのことまで配慮してSWに関するテキストを書き連ねる気などないのだが、それでもできるだけわかりやすさは考えたい。たとえばEP5はEP5と呼ぶよりは、『帝国の逆襲』と呼んだほうがわかる。『帝国の逆襲』は『帝国の逆襲』過ぎる。なにを言っているんだと思うかもしれないが、ほかに呼びようがない。単に第5話と呼ぶのは軽過ぎる。5という数字の中に『帝国の逆襲』というワードの強烈さやニュアンスがどうしても含まれない。というのは、まあ、気分的な問題であって好みの話なのかもしれないが、たとえば普通の会話の中で「エピソード5」と言っても恐らく(相手にもよるのだが)「それってどれだっけ」みたいに返ってくるので、副題で呼ぶほうがいい場合もある。逆に副題で呼んだ際に「それって何番目だっけ」と返される場合もあるので頭が痛くなってくるのだが。

 冒頭にもあるように、このブログではとりあえず最初に登場する際に話数と副題をフルで並べた正式なタイトルを書いてから、そのあとは全部数字で略すみたいなことにしているが、テキストはそれでいいとして、イラスト内におけるタイトルがずっと悩みの種だった。

 一体なんでそんなことに延々こだわって悩んでいるのかと思われるかもしれないが、ぼくには重要なのだ。「もうこれで決めよう」とケリがついてすっきりしない限り気持ちが悪くてしょうがないのだ。なにが悩みどころかと言えば、一言で言って絵の締まり方である。テキストでは気にならないことも、絵に書き添えられた書き文字となると、事情が変わってくる。つまり、「エピソード5」まで入れると非常に長ったらしく見えるのだ。さらに言うと、話数を含めることでタイトルに「一本の映画感」がなくなってくるように思える。いや、一本の映画なのには違いないのだが、なんと言えばいいだろうか、第5話、みたいなのがつくことでなんとなく締まりが悪いのだ。ぼくはSWについて書いたり描いたり考えたりすることをそのままライフワークにしているような頭のおかしい人間だが、あくまでSWを映画として取り扱いたい頭もあったりする。だからこそわざわざ公開年を表記している。決してインユニバースに入りすぎない、あくまで一本ごとの映画としての感覚。年号と一緒に監督の名前とか書いてあればよりその雰囲気は出ると思う(さらに締まりが悪くなさそうなのでそれはやらないのだが)。単体として映画ごとの存在感を考えるとき、話数をつけることに抵抗が生まれてくる。もはやそれぞれの作品に話数がついていなかった期間のほうがずっと短くなっているのだが、どこかで副題だけで書いたほうがかっこいい、みたいな気持ちもある。同時に、長々と書いてきているように話数にこだわりたいという気持ちも小さくない。

 前の6部作については、話数込みが正式なタイトルなのだから、そのままそう書けばいい話である。そう、厄介なのは7本目から話数がつかない形が一応の正式タイトルになってしまったことなのだ。一応、と言ったのは、媒体によってはシリーズ全体の整合性を考えて話数をつけて書いている場合があったり、そもそも本編冒頭の宇宙空間を流れる黄色い文字の中にはちゃんと話数がつけられていたりするからだ。

 つまるところ、要点としてはシークエル三部作表記に合わせるのか、6部作のルールにシークエルを合わせるのかというところになる。数字による連続性や順列と、すっきりした副題のどちらを優先するべきか。前者を優先した場合には、シークエルの正式なタイトルを都合よく変えてしまっているという後ろめたさが、後者を優先した場合には、プリクエル三部作世代で話数つきで統一された6部作に慣れ親しんでおきながら、そういうところで気取っちゃうんだ、ははーん、というような声が自分の中で聞こえてくる。そこまで考えたところで思考がもう身動きできない。
 
 しかし、そうやって並べて比べてみたところでどちらのほうがより自分がこだわる要素が多いのかが見えてくる。話数つきには数字による一貫性とともに、やはり自分のこれまでのSWへの親しみ方が含まれている。話数付きこそ、自分が慣れ親しんだSWではなかったか。自分が観ていた頃のSWには、話数がついているのが当たり前だった。数字によって作品同士の関係性が際立ち、意識が時系列の上を移動する。そうだ、SWというのはエピソード群なのだ。結局のところ、副題のみの表記というのは、どこかで気取りがある。話数がついていないほうがスマートだが、それはスマートに見せたいという意識がどこかにあるからなのだ。ではシークエル三部作の正式なタイトルは尊重しないのかと言えばそんなことはなく、あくまでその場合は副題に便宜上話数を付け加えるだけである。そもそもぼくが個人的に描いているものはそこまで正式である必要がない。ぼくの文脈で統一して問題がない。というわけでぼくの中ではSWシリーズは話数をつける形を基本とする。すっきりである。

 ただ、EP9で「スカイウォーカー・サーガ」なるものが完結したあとにくる次のサーガ群が、どういうふうに整列していくのかを考えると、またしても頭が重くなってくる。

2019/06/17

怪我をした動物

 怪我をしたナフシが茂みの中で見つかったのは放課後のことで、最初に見つけたのはどこかのクラスの女の子たちだった。彼女たちは必要以上に騒ぎ立てずに仲間内だけで手負いの動物をなんとかしようとした。ナフシは火星の農村では非常にありきたりな動物で、農作物を狙う害獣とされており、どこかの農場でナフシが罠にかかると、そこの主人が小さなトラックに乗せて近所に見せて回っていたものだ。ジムの家にも一度火星人の農場主がレーザー檻の中で丸まったナフシを見せに来たことがあって、幼いジムはその酷い悪臭に思わず鼻をつまんだものだった。それが生きた獣の匂いだった。日曜の朝にやっている動物アニメに登場するナフシのキャラクターからは全く想像できない匂いだった。実物のナフシは全く可愛らしくもなければ愉快でもなかった。
 だから、学校の裏の茂みで怪我をしたナフシが見つかったと聞いたとき、ジムは正直あまり近づきたくなかった。ジムの父親は農家ではなかったが、入植者として害獣の危険性を知っていたから、常に息子に対して無闇に野生の動物に近寄らないように言いつけていた。ジムはその年頃の子どもたちの例に漏れず、なにをするにもまず親から言われていることを判断の材料にしていた。
 それでも子どもには好奇心というものがあったので、ジムはクラスメイトたちと一緒に茂みを見に行った。すでに最初の発見者たるグループはナフシに飽きて立ち去ったあとだったが、後から来た子どもたちが発見時の興奮をそのまま引き継いでいた。彼らはまるで自分たちが最初に発見したかのような態度で見物に来た連中にあれこれ指図をしていて、最初にナフシを見つけたときどんな様子だったかを説明していた。
 ジムは他の子達の肩越しにその動物を見た。紫色の茂みの中で、濃い緑色の毛皮の塊が丸まっていた。身体に対して頭は小さく、とがった耳と鼻面が突き出していた。目を閉じているのか開けているのかはっきりしない。怪我をしていると聞いていたが、具体的にどこがどう悪いのかよくわからなかった。ただ、ぐったりしているのはわかるし、子どもたちがこれだけ集まって騒がしくしているのに、まるで逃げる様子がなく、その気力も湧かない様子だった。ジムはかつて家の庭先に連れてこられた、罠にかかったナフシを思い出した。ちょうどあれと同じような感じだ。
 その場を仕切っていた子たちが、自分たちでこのナフシの世話をしてやろうと言い出した。明日からここに給食の残りなどをここに持ってきてやろう。ナフシは雑食だから、特別に加工しているものでなければ大抵のものは食べるだろう、ということだった。彼らは獣医ではないので、ナフシの具合がどんなふうに悪いかわからなかったが、動物なんてものは食べれば回復するだろうと考えたのだった。
 成り行きで、その場にいる全員がこの動物の世話をするメンバーに数えられた。ジムは他の皆が非常に乗り気で、張り切っているのを見て、少し戸惑い、本音を言わないことにした。なんだか面倒なことに巻き込まれてしまったなと思ったが、なんとなく放課後にそういう一部の輪の中に加えられたことが少しうれしくもあった。しかし、やはり得体の知れない、あまり綺麗とは言えない野生の動物に関わりたくなかった。

 その場の盛り上がった雰囲気にひと通り合わせてから、ジムは帰路についた。別になにか役割を当てられたわけではないのでひと安心だった。家から毛布を持って来いみたいなことは言われなかった。子どもたちの思いつきで、計画性は一切ない。明日適当に給食の残りを集めて持って行こうくらいのことしか考えていない。どこかの獣医に様子を見せようとか、話の通じそうな先生を選んでことを知らせようとか、そういうことは誰も考えていないだろう。
 ろくな計画もないのに盛り上がっていた皆の熱を思うと、ジムの気持ちはかえって冷めた。冷たいものが広がっていくような感じがして、そういう自分は非常に嫌な子どもなのではないかという気さえしてきた。皆が怪我をしたかわいそうな動物の面倒を見ようと言っているそばで、病気を持ってそうな動物に触りたくないなあなんて考えているなんて、優しくないのではないかと思った。
「なんか、気持ち悪かったね」
 肩のあたりに声がしてそちらを向くと、同じクラスのモンザだった。そういえば先ほどの一団の中に顔を見た気がする。あまり話したことはないが、特に距離がある相手というわけでもなかった。共通の友達がいるので、同じ場に居合わせることも多かった。ジムはあまり女の子と話すのが得意でないから(男の子も別に得意ではないが)、なにか話しかけられるとどう返事しようかなと一旦間を置いてしまうのだが、このときはまさにそのとき考えていたことを言い当てられたような気がしたので、反射的に、そうだね、と答えていた。しかし、答えたあとで一体なにが気持ち悪かったのだろうかと思い返した。
「ナフシが?」
 一応そう聞いたら、モンザは目を細めて口の片端だけが上がった微妙な笑みを浮かべ、首を横に振った。
「怪我した動物を気持ち悪いだなんて、思ってないよ」
 モンザの言葉に、ジムはしまったと思った。これではとても薄情なやつだと思われてしまう。普段言葉を交わす間柄ではないにせよ、この子からそう思われるのはなんだか嫌だった。
「いや、一応聞いただけさ。どっちかと言えば、気持ち悪かったのはあすこにいた皆だね」
 そんなふうに無様に取り繕ったところで、モンザは笑ってくれた。
「そうだね。私が言いたかったのは、あの場がってことなんだ」
「なるほど、あの場か」
 確かに妙な居心地の悪さがあって、あの場から立ち去りたかった。面倒なことに巻き込まれてしまった、なにか役割を押し付けられたらどうしようといった不安。正直に思ったことが言えなさそうな雰囲気。それに、今にして思えば手負いの動物を前にそういう自分の心配ばかりしていたのも、なんだか自分で腹立たしかった。
「でも、かわいそうはかわいそうだ」
 並んで道を歩きだしてから、少ししてからようやくジムは言った。なんとか形になって口から出てきたその言葉にに、モンザは、ふうんと軽く頷いた。
「かわいそうっていうのはでも、共感とは違うよね」
「え?」
「かわいそうっていうのは、なんていうのかな、少し偉そうな感じ」
「えっとお」
 ジムが必死に相手の言わんとしている意味を考えようとしていると、モンザが顔にかかった髪を手ではねのけて、ジムを見据えた。
「たとえばね、先週までクー・アムドが足にギプスしてたでしょ。皆大丈夫かって聞いていたけど、誰もかわいそうとかは言わないし、思わなかったわけ。君、思った?」
「思わなかった」
 本当はそれどころかあまりクー・アムドに興味がなかった。彼が足にギプスをしていたことも、今モンザに言われて思い出したくらいだ。
「たぶんかわいそうなんて言ったら、あの子は怒ったと思うよ。ひとはひとからかわいそうと言われてときに初めて、かわいそうなひとになるんだよ」
「そんなの考えてもみなかったなあ」
「そりゃ、どう考えても不幸なひとというのはいるし、自分を不幸だと思ってるひともいるんだけど、でも、そういうひとをかわいそうと言ったら、それはやっぱり失礼な話だと思うな」
「かわいそうは失礼」
 ジムは繰り返した。とりあえず繰り返すしかなかった。
「そう。ちゃんと助けてあげられないんなら、かわいそうなんて言っちゃだめだよ」
 モンザはそれ以上は言わなかった。だったら、あのナフシはどう表現するべきなのか。彼女自身そこから先を論じられなかったのかもしれないが、少なくともこの時点でのジムにはそこまでで十分だった。今まで考えもしなかったものの見方を知ったような気さえしたのだった。
「本当に明日から皆で世話をすると思う?」
 ジムが尋ねると、モンザはまたしてもゆるやかに首を振った。
「給食の残飯を持ってくだけでは世話とは言えないよ。うちには犬がいるんだけどね、具合が悪くなったとき、それはもう大変だったよ。それに、どうせ最初の1日、2日で皆飽きるよ。皆が飽きるのが先か、あのナフシが死んじゃうのが先かって感じだろうと思う」
「そりゃ随分な言い方だ。でも、多分そうなんだろうなあ」
 それよりジムはモンザの犬が気になった。「犬ってどんな犬?」
「大きいよ。お父さんが地球から連れてきたばかりのときはちょっと元気がなかったんだけど、今はすごく元気で、一緒に遊んでると私のほうが先にくたびれるんだ。犬、見たことある?」
 犬について話すモンザは、先ほどの冷めた感じとは打って変わって目が輝いていた。それを見たジムは、モンザを少しかわいいと思った。でも、僕が怪我をした臭いナフシみたいになったら、さっきみたいに細めた目に半笑いで見てくるんだろうなあ、とも思った。
「図鑑でなら見たことあるよ。いろんな形のがいるよね。その犬、さっきのナフシより大きいの?」
「大きいよ。うちの庭に来るナフシをよく怖がらせて追い返してる」
 それを聞いてジムもなんだか怖くなった。ジムが図鑑で見て気に入っている犬と言えば小さなビーグル犬だった。モンザの家にいるのはきっとシャーロック・ホームズと対決したような大きな犬なのかもしれない。
「今度うちに見にくる?」
 モンザにそう言われて、女の子から招待を受けたのはうれしかったが、内心すっかり怖くなっていた。
「うん、見たいな」
 と言ったものの、明日明後日と日が経つうちにこの話が適当に流れていくといいなあと、少し思うジムだった。
 ふたりの歩いている長い道路が、もうすぐ二手に別れるところだった。ジムの記憶が正しければモンザは彼とは反対の方向へ帰っていくはずだった。この密かな会話はもうすぐ終わってしまう。明日の朝教室で顔を合わせたときに、同じように会話ができるとは限らない。ジムは茂みでうずくまった動物を目にしてからというもの、ずっと胸につかえていた不安を吐き出すことにした。
「ナフシのこと、先生に言ったほうがいいかな」
 それは質問と表明のちょうど中間くらいの言い方で、本当に恐る恐る口に出した感じだった。ジムはその年頃の気の小さい少年の例に漏れず、なにか問題が起こると大人を頼り、大人に確認を取り、大人に承認を得たほうがいいのではないかと考えるタイプだった。その性質によって、彼は同級生たちと多少無茶をする遊びというのができないでいた。彼にとって大人に内緒で怪我をした動物を世話をするというのは、どこかの農場のフェンスをよじ登って向こう側へ渡ったり、建物の屋根に登ったり、自分たちがまだ対象年齢に達していないビデオ・ゲームで遊ぶのと同じくらい危険なことだった。
 なにより、父親から聞かされていたナフシの不潔さや時折見せる凶暴さが怖かった。
「別に言わなくてもばれると思うよ」
 モンザはあっさり言った。「給食の残りをこっそり黙って持っていくなんてこと、あの子たちにはできないよ。どうせ変に騒がしくするだろうし、先生だって馬鹿じゃないからね、いつもと違う皆の様子に気付くと思うよ」
 モンザの冷静な推測や、その観察眼のようなものに、ジムはすっかり驚いていた。この子はこんなふうに教室を見ていたんだ。ジムも級友たちのことを一歩引いたくらいのところで見ることが多いけれど、それでもやっぱり一緒になって遊ぶので(危険のない範囲でだが)、モンザのように考えることはなかった。同時に驚くのは、モンザはそんなふうに周囲を見ていながら、普段から孤立することはなく、少なくともジムの目には皆とうまくやっているように見えることだった。
 ジムは、モンザを大人びていると思った。その大人びたモンザは、このやりとりの中でジムと他のクラスメイトたちとを明確に分けて話していた。もちろん、ひとは誰かと話すとき相手のことだけは他の連中のことと別にして話すものだと、ジムはこのあと知っていくことになるが、それでも、この場では彼は彼女の側の人間であり、彼女が自分の考えを話してもいいと認めた相手だった。もしかすると明日には知らん顔されてしまうかもしれないけれど、今この時間だけ、ジムはモンザと秘密を共有している。それは怪我をした動物を自分たちだけで世話しようという取り決めなんかよりも、はるかに魅力的な秘密だった。
「じゃあ、また明日」
 分かれ道のところで、モンザから切り出した。「ナフシのことはまあ、適当にやり過ごそう。明日も皆に合わせてればいいよ。私もそうするから」
「わかった」
 ジムは言った。「じゃあ、また」
 家に帰ってから、ジムは両親にナフシのことを話さないでおいた。モンザの物言いからは、なんとなく大人には黙っておいたほうがいいというようなことが読み取れたからだ。帰り道に彼女が言っていたのは、つまりは放っておけということなのだと。積極的に関わろうとする必要もなければ、事態を収束させるために大人を関わらせる必要もないということ。ジムでもそれくらいはわかった。あんなふうでいながら、普段から教室でうまいこと振舞っているモンザの言うことは、信頼できる気がしたのだった。

 翌朝、ジムは寝坊したわけでもなく普段通りの時間に学校に着いたのだが、すでに教室が騒がしかった。どうやら何人かは早めに登校してナフシの様子を見に行っていたらしいのだが、ことは思い通りにいかなかった。例の茂みに獣の姿はなく、かわりにスコップを持ったサエキ先生がいたのだ。その場においてスコップを持った先生の姿くらい、状況を的確に説明するものはないだろう。
 教室は一階で、窓の外がちょうど例の茂みに続く小道になっているのだが、窓の外にサエキ先生が立っていて、登校してきてだんだん人数が増えてきている生徒たちに向かってことの次第を説明していた。あのナフシはすでに息絶えていたので、皆さんが登校する前に埋めました。
 生徒たちのほとんどは憤っていた。特に張り切っていた中心人物たちは涙を流しながらなにやらわめいていた。どうしてそんなふうに涙を流すのだろうとジムには不思議でならなかった。ナフシは昨日怪我をした状態で見つかっていて、一緒に遊ぶ時間も親密になる時間もなかった。そもそもナフシはそのへんの道でしょっちゅうひかれている。あの子たちはそれを見るたびにあんなふうに泣くのだろうか。もちろん、あのひとたちはなんで泣いているのと、近くにいるクラスメイトに聞くことはできない。それは恐ろしくてできなかった。
 サエキ先生はいつでも冷静でゆったりと話すので、自然と話している相手の気持ちも落ち着いてしまうのだが、今朝もやはり生徒たちは次第に落ち着いていった。落ち着いてくると、生徒の中からいろいろと質問が出てきた。ナフシはどんなふうに死んでいたのか、あの子はどこをどんなふうに怪我をしていたのか、そもそも怪我だったのか、など。
「先生が見たところ、怪我をしていたようです。最初はそのへんで車にぶつかったのかなと思いましたが、よく見ると首のあたりに深い傷がありました。なので、皆さんがどうにかできる怪我ではなかった。少なくとも給食の残りをあげる程度のことではね」
 先生が看病の計画を具体的に言い当てたので、皆は驚いたようだった。モンザの言う通り先生は鋭い。
「でも先生、傷ってどんな傷ですか?首にあったってことは誰かが……」
 再び飛び出してきた質問に、先生はさわやかに笑いながら首を振った。
「あはは、人間の仕業ではないですよ。もちろん、このあたりの農場にはナフシに対する罠をしかけているところが多いですけどね。でも、そういうので出来る傷ではなかったです」
 サエキ先生はそこで少し迷った。「……まあ、皆さんをあまり怖がらせてはいけないとは思いますが……そうですね、なにかもっと大きい動物に噛まれたような跡でした」
 例えば大きい犬みたいな、と先生は付け加えた。
 途端にジムの背筋にぞくっとした感覚が走った。恐怖ではない。恐怖ではないが、あることに気付いてしまったという、一種のショックのようなもの。そして、それに気付いた自分をどこかで得意にさえ思った。
 イヌってなあに先生、と尋ねる声。すぐに先生が、それは地球にいる動物で、人間のパートナーのような存在だと答える。
「きっとあのナフシは、どこかの農場に忍び込んだときにそこの番犬に噛まれたのかもしれませんが、しかし先生の知る限り、このあたりで犬を飼っているようなおうちは思いつきませんねえ。もしかすると、山にマーシャン・ウルフがいるのかもしれません。皆さんも子どもだけで山や森に入ったり、暗くなってから農場のまわりをうろつくなんてことはしないようにね」
 ショックから覚めたジムは、自分が教室の床の上に立っているということを思い出し、その感覚を取り戻した。それから少し遅れて、周囲を見回す。もちろんこっそりと。よく知った顔がいくつも並んでサエキ先生の話に聞き入っている。しかし、その隅の方に、あまり興味のなさそうな顔で立っている女の子を見つけた。
 モンザもこちらを向いた。

2019/06/14

「UOMO」7月号



 「UOMO」7月号(集英社)では、マーケットプレイスサイトの「FARFETCH」について漫画仕立てで解説しています。「集英社の雑誌に漫画を描いた」というのは、文芸やイラストレーションに関心の薄い友達にも自慢ができますね。嘘ではない。

「CREA」6月号




 「CREA」6月号(文藝春秋)はパン特集でした。ぼくは「手みやげにしたいサプライズなパン」という見開きページにイラストを描いています。カラフルなマーブル色のベーグルや、上下で挟んでいるパンが違うサンド、出汁巻卵のホットドッグ、巨大なメロンパン、ミントクリームのたっぷりかかったチョコミントクロワッサンなど、見た目にもインパクトのある変わったパンが大集合しています。もちろんぼくもパンが好きです。美味しいパンはなにもつけなくても平気です。

2019/06/10

1日はそんなに長くない

当たり前のことだけど、最近ようやく気づいた。学校行ったりバイトしてたりするときの感覚を引きずっているせいかどうも、1日は長くていろんなことができると思い込んでいて、その長さに見合った成果を出せないとなんだか駄目な1日だったような気がして気が滅入るが、そもそも1日の長さなどたかが知れている。なにかひとつ済ませられば十分で、もっと言えばなにも進展がなくても別にいいくらいなのだ。1日にいろいろなことをやろうとするからくたびれてしまうのだ。当たり前のことだが、こうして書いておくことで自分で納得できてその気になれるというわけだ。

2019/06/07

渋谷の民泊手引書


 渋谷の新しい観光を考える会より発行、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)編集、Airbnb協力の配布冊子、民泊手引書のイラストを担当しました。民泊のホストになる人向けの「ホストになりたい人のための手引書」(グリーン)と、民泊をやっている住宅の近所に住む人向けの「隣で暮らす人のための手引書」(レッド)の二種類の冊子と、奥渋谷のローカルマップがセットになっています。


 「ホストになりたい人のための手引書」では「民泊をはじめよう」と題して、届出や諸々の対策、メリットなどが説明されています。


 「隣で暮らす人のための手引書」では「民泊、どう付き合う?」と題して、民泊とはなんなのか、渋谷にどれくらいあるのか、騒音やゴミなどの心配はどうか、困ったらどうすればいいのかといった疑問や不安に丁寧に答えてくれるとともに、民泊があることで地域にはどんなメリットがあるかなどが説明されています。

 付属の奥渋谷ローカルマップも非常に見応えがあり、民泊ホストや利用者でなくとも役立つ情報満載です。SPBSで配布されるので見かけたらぜひ。

「anan」No. 2153



 「anan」No. 2153、「チャージ&デトックス情報局」 のスーパーフード特集に挿絵を多数描いています。アメリカのスーパー、ホールフーズが毎年発表する食のトレンドに基づいて、流行が予感される注目のスーパーフード等について、そのパッケージなどをイラストにしています。バーガーキングがヴィーガン向けに作ったワッパーが気になる。

「SPUR」7月号



 「SPUR」7月号の映画レビュー連載では、ハビエル・バルデム&ペネロペ・クルス夫妻主演『誰もがそれを知っている』を紹介しています。夫妻が扮するのは、今は別々の道を歩む元恋仲の幼馴染で、親戚の結婚式で再会するのだが、そこでペネロペの娘が誘拐されてしまう。犯人は式に参列した親戚や友人の中にいるのではないかと疑われ、脅迫により通報ができないのでハビエルが独自に動く。あんまりがんばるので奥さんからはなんであんたがそんなに一生懸命になる必要があるのとか言われるのだが、それでもがんばる。幼馴染のことがまだ好きだからという単純な理由を見出すこともできるのだが、どこか他人事として済ませられないものを感じているのだろうということがわかる。やがて、ハビエルの知らない秘密が明らかになっていくのだが、映画のタイトルの通り、「誰もがそれを知ってい」た……。小さい街では秘密は秘密ではなくなるのだ。当事者が知らなくとも。というお話。

 ハビエル&ペネロペが夫妻だったこと自体、誰もが知っていることなのだろうけれど、ぼくは今回初めて知った。そういえばふたりとも『パイレーツ・オブ・カリビアン』に出ている。ハビエル・バルデムといえば『ノー・カントリー』のただならぬ雰囲気の殺し屋とか、『007 スカイホール』の悪役が印象的だが、本作では普通のひと。愛すべき平凡な男という感じだが、でもどこかに影があるのがやっぱりらしい。

「婦人公論」6/11号



 「婦人公論」6/11号、ジェーン・スーさん連載の挿絵。お父様が文鳥を飼い始めたというお話。文鳥というとグレーと黒の模様が印象的だけれど、小さい頃はもっとぼんやりした茶色らしい。よくよく思えば雛というのは成体とは全然違うのでそりゃそうか。特に鳥類は鶏のひよこ、ペンギンの雛などを見ても全然違う。

 鳥の飼育といえばぼくの実家では鳩や鶏を飼っていたことがあって、特に鶏がいる頃は結構楽しかった記憶がある。鳩は怪我をして迷い込んだレース鳩で、足缶を取らせてくれるようになるまでうちで世話をしていた。主に父が。足缶を取ればすぐに連絡先がわかるはずだったのだが、鳥好きの父はまだ怪我をしているからとか、慣れていないからとか言い訳をして足缶を調べるのを遅らせていた。飼い主に連絡がついたらあとはあっという間に迎えがきて、随分お礼をされたようにも覚えている。大切なレース鳩だったのだ。鳩のために父が作った小屋(巣箱どころではない、学校のうさぎ小屋ほどの大きさ)は空っぽになったが、間も無く鶏の一団がやってきた。真っ白な羽毛に真っ赤なとさかのオスが一羽と、オレンジ色のような茶色のメスが三羽。小屋は拡張されてかなりの大きさになり、大人ひとりがかがんで入れる広さになった。鳩は見てても大しておもしろくなかったけれど、鶏は歩き回るし、鳴き声はおもしろいし(本当に毎朝例の鳴き声を放つので驚いた)、なにより大きな卵を毎朝産んだのでそれを取りに行くのが楽しかった。朝行って覗くと藁の上に三つほど茶色い卵がかたまって置いてあって、手に取ると温かいのである。まるで農場の生活だ。学校で嫌な行事(陸上大会だの体操大会だの)があると、前の日に鶏を見ながら、ああ、次に鶏を見るときには嫌なことは全部終わっているんだろうなあ、ぼくが嫌な思いしている間もこの鳥たちはここでずっとコッココッコと過ごしているんだろうなあ、いいなあ、などと思っていた。

 鶏のいる日々はわりとあっけなく終わる。狸かなにか、獣の類が網を破って四羽全部食い荒らしてしまったのだ。狸に食べられるくらいならぼくが食べたのになあと今でも思う(具体的になんという種類の鶏だったのかはわからないが)。鳥を飼うのは確かに楽しい。