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2019/12/24

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019)


 
 ついに終わった。14年前の夏にも「完結」を経験したけれど、『シスの復讐』は最終章というよりは最後のピースがぴったりはまって6部作が「完成」するといった意味合いが強かったし、「本当は9部作の構想だった」という話がなんとなく幻想を見させてくれてはいたので、あまり終わってしまったというような印象は薄かった。しかし、もはやその幻だった9部作さえも完全に終わったのだ。

2019/09/29

『ジョン・ウィック』(2014)


 ロシアン・マフィアの若頭が車欲しさに男の家を襲撃する。手下とともに男を袋叩きに、うるさい飼い犬は始末して、まんまと69年式のマスタングBOSS429を自分のものにするが、持ち帰った車を一目見た途端組織の古株が血相を変え、ボスである父親さえも激怒する。車の持ち主の名はジョン・ウィック。かつて組織のために働いていたこともある伝説の殺し屋で、車と犬は妻を亡くしたばかりの失意の彼にとってかけがえのない存在だったのだ。最強の男ジョン・ウィックを怒らせてしまったことに戦慄するマフィアのボス。しかし自分の息子がやらかしてしまったことだ、もうやるしかない。というわけで、マフィア対ひとりの戦争が始まるのだった。

 犬は愛らしいし、車はかっこいいけれど、それだけではない。どちらもジョンにとって亡くしたばかりの妻の存在に通じる大切なものだった。犬は死期を悟った妻がこっそり手配していた新しい家族であり、車には裏社会からの引退を決意させるほど愛した妻との思い出が詰まっていた。妻を亡くし、彼女が遺したものさえも奪われてしまったジョンにとって、裏社会への帰還と復讐は自分自身を取り戻すための唯一の道だったのだ。

 キアヌ・リーブスの不吉な佇まいとスマートなアクションがいいのと、やっぱり漫画みたいな設定が魅力。殺し屋ばかりが集う高級ホテル、裏社会だけで流通する独自貨幣、独自のルール、あからさまな隠語……。それらをひたすら高級に、重厚に、格調高く描くので、文句なしにかっこいい。中学生の頃観たらより夢中になったことだろう。まあ当時も『コンスタンティン』に夢中だったので似たようなものだが。裏社会の世界観も天国地獄といった異界と置き換えられそうだ。どちらも不吉な顔つきのスウェーデン人が君臨しているし。ちなみに『コンスタンティン』のサタン、ピーター・ストーメアは二作目に登場するがその話はまた今度。

2019/07/18

ボー・ピープはいつか


 陶器の身体でありながら外の世界に飛び出した彼女が、いつか絶対に確実に必ず割れるだろうということは明白だ。すでに両腕がテープで補修されていることから、その危険とは常に隣合わせであることは明らかで、次も助かるという保証はない。それを踏まえると、彼女が自ら外に出ることを選んだという意味の大きさになにも思わないわけにはいかない。ほかのどのおもちゃたちよりも壊れやすいからこそ、彼女の外の世界への憧れは一層強かったのだろう。少なくとも好き勝手に外で活動できて、多少危ない目に合ってもへっちゃらなウッディやバズとは違う(ウッディなんて所詮身体がぬいぐるみなので、どこかにぶつかってもまず壊れない)。大きなリスクは願望をより強くし、彼女を安全なランプの台座から、危険だが本物の人生へと駆り立て、ほかのどのおもちゃよりもタフにした。弱さをバネに強さを得たのだ。

 ウッディがボーに惹かれたのは、もちろんもともと恋仲だったというのもあるだろうけれど、そんな彼女が外で生きているという事実そのものに、強い衝撃を受けたのではないかと、ぼくなどは思う。テープでとめられているだけで、すでにぽきりと割れてしまっている彼女の腕を目の当たりにした彼は、彼女が常に危険を伴った生き方をしていることを知る。自分がそばで助けなければと思ったか?いやいや、今更彼女には助けなど必要あるまい。多少冒険したことはあっても、所詮ウッディは子供部屋暮らししか知らないし、今までそれがおもちゃにとっての幸福だと信じてきた。外の世界では新参者だ。そうではなく、彼は彼女がいつかなにかの拍子にパリーンといってしまったときに、そばで見届けなければいけないと感じたのではないだろうか。もちろんぼくの妄想だし、場合によってはウッディには陶器の恋人を助けることができる。しかし、繰り返すようだが、いつかは取り返しのつかないことになるかもしれない。そのときに誰もそばにいなければ、ボーはただのゴミとして最期を迎えることになる。

 ゴミ。幼児の工作から生み出されたフォーキーは自分をゴミだと思い込んでいたが、物語を通じておもちゃとしての自覚、あるいは人格を得る。ゴミ同然の素材で作られたおもちゃと、持ち主不在で外で生きるおもちゃは、どちらも一歩間違えればゴミになってしまうという危うさを抱えている。道端に落ちている小さなぬいぐるみのキーホルダーを見かけたことはないだろうか?ぼくはよく見かける。俯いて歩いているから落ちているものをよく目にするのだ。しっかりした既製品で、置いてある場所が少しでも違うなら、ちゃんとおもちゃに見えるだろう。しかし、道端に落ちているというだけで、そいつはゴミ同然の状態になる。ボー・ピープたちはその道を選んだのだ。自由の代償として、おもちゃとゴミの中間的な危うい存在になった。そしてボーは、屋外で暮らす陶器の人形という、割れ物のゴミとして一番わかりやすい。フォーキーとボーはそういうふうに対比できる。

 ボーが本当に割れ物になってしまうのは本編が終わった直後かもしれないし、また20年くらい先かもしれない。いずれにしてもいつかその日はやってくる。とにかくウッディよりも先に彼女が壊れてしまう可能性のほうが高い。一体ふたりはどんな冒険を繰り広げていくのだろう。エンドクレジット中にあったおまけとして、テキ屋の景品のおもちゃをどんどん子どものもとへ送り出していくなんてのは序の口、まだまだいろいろなことがふたりを待ち構えているに違いない。

 ボーとウッディそれぞれ性別から、抑圧と束縛を知っていたからこそ自由を手にできた女性が、不自由を感じていなかったからこそかえって従来の価値観の中で苦悩するに至った男性に手を差し伸べ、ふたりで未来を切り拓く、といった構図を見ることもできる。よく出来た物語だと思う。そうして、その寓意にとらわれることのない普遍性も兼ね備えている。もっと広い意味で、『トイ・ストーリー4』はひとが自分自身の人生を歩む物語であって、そのタイトルに反して人間の物語なのだと思う。

2019/07/12

『トイ・ストーリー4』(2019)


 書き終えてみてかなり、というか完全に踏み込んで書いてしまったことに気付いたので、鑑賞後にお読みください。読んでいるひとがいればの話だけれど。

 もはや「トイズ・ライフ」と呼んだほうがいいくらいだった。シリーズを振り返ってみても、おもちゃの物語から、おもちゃの人生の物語へと展開していったように思う。そうして『トイ・ストーリー4』はウッディ自身の物語にも決着をつけた。残念ながらウッディやボー・ピープ、新しいおもちゃたち以外のお馴染みの仲間たちは、バズ・ライトイヤーも含めて完全に脇役で、ほとんど見せ場らしいものはないのだけれど、それを犠牲にしてでもウッディとボー・ピープの「生き方」に焦点を当てたことに価値と意義があったと思う。

 今回のお気に入りは、ウッディたちの敵役でもあるおままごと人形のギャビー・ギャビー。黄色いワンピースに黄色いリボン、黄色い靴が洒落たヴィンテージの人形だ。メイン機能である発声器が不良品なので背中の紐をひっぱってもしゃべることができず(人間が遊ぶ上でしゃべれないだけで、自由意志でしゃべることはできる)、おままごと人形の本領を発揮できずにアンティーク店の中で長いことくすぶっている。いつか店主の孫の女の子に遊んでもらう日を夢見て、ひとりで取り扱い説明書を見ながらお茶会の練習などをするなど健気さを見せるが、年代が近く発声器の作りも同じであるウッディと出会い、彼の発声器を奪おうと企む。全ては子どもに遊んでもらうため……。声を演じるのはドラマ「マッドメン」でお馴染みクリスティーナ・ヘンドリックス。ギャビー・ギャビー自体60年代製ということで「マッドメン」時代のもの。同じくヴィンテージの腹話術人形ベンソンたち(何体もいる) を従えているのだが、ベンソンの見た目も手伝ってなんとなくマッドメンたちを従えているようにも見える。こいつらがウッディを追いかけるシーンはとても怖い。不気味なおもちゃが登場するのも『トイ・ストーリー』の魅力。

 フォーキーも忘れられない。ウッディたちの新しい持ち主である女の子ボニーが、幼稚園の1日体験で作った工作人形。先割れスプーンとモールで出来た、まさに幼稚園の工作といった感じの見た目で、その成り立ちのせいか目覚めた瞬間から自分のことをゴミだと思い込んでいる。ちょっと目を離すと自分からゴミ箱に飛び込むので、今のボニーにはフォーキーがなによりも大切だとわかっているウッディは、彼がゴミ箱に入らないよう寝ずに見張るほど。このゴミとおもちゃの線引きの微妙さや危うさは、子どもの頃はもちろん今でも工作が好きなぼくもよく考えることだ。自分で作ったものには愛着がある。しかしそれは既製品ではなく、非常に脆い。一歩間違えると、ぼくの気分次第でゴミ同然となる。ボール紙で作ったボバ・フェットのヘルメットにしても、なにかの拍子にぼくの目にはゴミとして映ってしまうかもしれない。作ったものにはそういう危うさがあると思う。描いた絵にしてもそうだ。

 しかし、それは自作のものに限らない。前作の悪役、クマのぬいぐるみロッツォは、用済みになったおもちゃはゴミ同然だと豪語し、ウッディたちは焼却炉を目前に死さえ覚悟した。もう要らない、となってしまえば、どんなに出来がよく、値の張ったものでも、ゴミとなってしまう。いたずらな断捨離の犠牲になったものを思い出すといい。ついさっきまで必要に感じられ、価値のあったものが、ちょっとしたことでゴミ袋行き。全ては人間の気分、意識、見方次第である。こんなに気まぐれで恐ろしいものはないだろう。そこまでいくと、おもちゃの役割どころの話ではなく、物の価値とはという話になってくる。『トイ・ストーリー』シリーズはそこまで行ってしまったのだと思う。特に今作はほとんど付喪神的なものさえ連想する。遊ばれることなく長年放置されたギャビー・ギャビーの怨念じみた強迫観念もそうなら、子どもに遊ばれる以外の道を自分自身で選び取ったタフなボー・ピープもそう。少なくともぼくはもうおもちゃを処分できそうにない。おもちゃ以外の物さえも捨てるのが恐ろしい。もちろん、そういうわけにはいかないので、だからこそ手にするものを厳選するべきなのだろうと思う。

 そんなふうに、ときに大切にしてくれ、ときに身勝手な人間だが、それは必ずしもおもちゃが生きていくのに不可欠というわけではない。その可能性を、ウッディは再会したボー・ピープから教えられる。この陶器の羊飼い人形は、かつて3作目よりも以前、2作目よりも後の時点でバザーに出されるためにウッディたちの前から立ち去らなければならなかったのだが、その後も人間の都合で転々とし、最終的に彼女は自分が自分の持ち主になることを選ぶ。新しい持ち主のボニーがまともに遊んでくれなくなり、アンディとの楽しかった日々を思い出してばかりのウッディに、ボーはそれ以外の生き方を提示するのだった。

 ウッディが仲間のおもちゃたちとはぐれて冒険を繰り広げるというのは、一作目からのお約束の展開ではあるのだけれど、今回はそこに単なる話運び以上の大きな意味があり、とうとうウッディは自分の居場所を自分自身で決める。冒険を終え、バズやジェシー、ポテトヘッドやレックスたちと再会したウッディは、ボーに再び別れを告げ、仲間たちのもとに戻ろうとする。フォーキーとともにボニーのもとに戻り、また楽しい日々が始まるだろう。自分にそこまで出番はないかもしれないが、フォーキーを支え、ボニーの幸せを見守らなければならない。しかし、ウッディは立ち止まる。立ち止まって振り返る。振り返るとボーと目が合う。ボーが、はっと息を呑み、胸を高鳴らせるのが画面から伝わる。これが本当に陶器の人形だろうか、というほどの人間的な表情。大きく見開かれた目に紅潮した頰。ボーは本当にウッディのことが好きだったんだ、と心から思える。ウッディは最後の一瞬で、選ぶ。

 おもちゃを大事にしましょう、物を大切にしましょうというところに留まらず、迷える者が自分の人生を切り拓く様さえも描いて見せた『トイ・ストーリー4』は、まさにバグズ・ライフならぬトイズ・ライフだった。

2019/07/01

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)


 2014年の『GODZILLA ゴジラ』の続編であり、『キングコング: 髑髏島の巨神』を含めた「モンスターバース」シリーズとしては3作目。サンフランシスコの戦いの後、ゴジラが姿を消してから5年。世界各地で怪獣を研究する秘密機関モナークだったが、テロリストの襲撃により南極で管理していた氷塊が崩壊、そこに眠っていたモンスター・ゼロことキングギドラが覚醒する。それを待ち受けていたかのように姿を現わすゴジラ。かつて太古の地球で王座を争ったゴジラとギドラの宿命の対決に呼応するように、モスラやラドンをはじめ世界中で怪獣たち(タイタン)が目覚め、まさに怪獣大戦争の様相を呈す……。

 着ぐるみでないデジタルで描かれた怪獣たちは、作り物としての怪獣というよりは生き物というニュアンスが強い。なので、なんとなく「大きな動物」を見ているような気分だった。前作もそうだったけれど、ゴジラの妙に人間臭い表情がおもしろいし、今回はギドラの3つの頭がちょっとしたトリオ漫才みたいなやりとりをするのがよかった。真ん中がリーダー格(長男?)なのだろうとは思っていたが、それぞれに性格が出ているのも、細かい描写ができるからこそ。もちろんそれゆえに恐ろしさや残忍さみたいなものもよく出ていた。残忍さと言えば、大好きなサリー・ホーキンス扮するグレアム博士が、ギドラに食べられてしまうのはショックすぎた。ゴジラを応援する気持ちに熱が入るというものだ。

 怪獣としてはモスラが一番のお気に入り。日本のオリジナル版を子どもの頃観たときは、ゴジラ以上にインパクトが強く(色のせいだろうか)、東京タワーに繭を張るシーンも絵としてパワーを感じた。例の歌を歌うとモスラが来てしまうので、以後親が脅しで歌うのを怖がった。その歌も今回はかっこよくアレンジされて壮大なテーマとして流れる。テーマと言えば伊福部昭によるゴジラのテーマも真正面からしっかり使われていて胸が高鳴った。多少のアレンジはあるが、それもハリウッド式の盛り上がりがあってよかった。どれだけギドラがパワフルであろうと、この曲をバックにゴジラが大地を踏んで雄叫びを上げれば、誰が本当の王かは一目瞭然である。

 人間たちが皆どこかぶっ壊れているのも、よかった。怪獣プロレスのインパクトが強すぎて人間たちの行動や物語は荒唐無稽に見える?いやいや、そもそもあの世界はぶっ壊れているのでそれでいいのだ。怪獣の存在を平気で受け入れ、畏敬の念を込めてタイタンとか呼んじゃったりして、次から次へと降りかかる災難に対処して適応していく神経の図太さ。あれくらい狂った世界では全くおかしくない。むしろぶっ壊れていなきゃおかしい。そもそもそのぶっ壊れたひとたちのキャラがまたいい。芹沢博士とマディソンちゃん、あなたたち本当に怪獣が好きですね。「全ての生き物に敬意を払っている」という芹沢のセリフもよかったな。やっぱり怪獣は生き物なんだ。

 ところで、次回はついにゴジラとコングの対決が予定されているわけだけれど、宇宙から来た雷を吐くドラゴンでさえ敵わなかったゴジラ。体内に原子炉があって、熱核反応さえ起こしてしまうモンスター・キングに、一見大きいだけのゴリラがどう挑むのだろうか。それだけで気になってしまう。コングも40年間でなにか特殊な変貌を遂げているのだろうか。電気を帯びてパワーアップとか?しかし、バカにはできない。コングはただのコングではないのだ。彼もまた王、キングコングなのである。

2019/05/12

『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)


 真っ先に浮かぶ感想としては、「すごいものを観た」。非常に長尺であるということは事前に聞いていて、ちょっとよくわからない脅し文句が並んでいるのも目にしてはいたが(トイレに立たないため前の晩から食事をとるなとか)、楽しい映画なら3時間などあっという間だった。逆に退屈な映画なら本編90分でも苦痛である。自分でも驚いたが、3時間飲み物もなしによく集中したと思う。自宅にいるときは30分に一度くらいにコーヒーだの白湯だの入れているが、集中していれば必要ないんだな。

 というわけで内容に触れないわけにはいかないので以下スポイラー・アラート。ブログ・トップ画面で表示される冒頭文章に本題が入らないように稼いだのだ。

 前作『インフィニティ・ウォー』で全宇宙の生命の半分を消滅させたサノスの所業をどうやって帳消しにし、消されたひとたちを元に戻すのか、というのが一番注目されていたところだが、その鍵はアントマンと、彼が脱出してきた量子世界にあった。アントマンは『アントマン&ワスプ』のラストで量子世界に閉じ込められてしまうのだが(量子トンネルの外で彼を呼び戻すはずだった仲間がサノスに消されてしまったから)、5年経って偶然にも脱出を果たす。しかし、彼が向こうで体感していた時間は非常に短く、時間の流れ方が外の世界とは異なっていた。量子トンネルを応用すれば時間を遡ることができ、サノスの企みを阻止することもできるのではないか。こうして悲劇から5年、アベンジャーズは再び力を合わせて最後の大勝負に出るわけだ。アントマンが大きな役割を果たしたのがなかなかうれしかった。

 時間を遡ってどうするのかといえば、赤ん坊のサノスを殺すわけではなく(この作戦はぼくも以前思いつき友達に話すも「とてもヒーローのやることではない」と一蹴されたのだが、劇中でウォーマシンことローディが同じことを提案していた可笑しかった)、かつて各地に散らばっていたインフィニティ・ストーン(サノスが使ったパワーの源であり、これまでの作品にキーアイテムとして登場してきた)を、サノスが収集する前の時点から集めて現代に戻り、消えた人々を呼び戻すのだという。そういうわけで、これまで各ストーンが登場した作品の場面へと、ヒーロー達がタイムスリップするのだが、これがちょっとした懐かしの場面集とその裏側といった感じで、2012年に飛ぶと、一作目『アベンジャーズ』での戦いの最中にあるニューヨーク、2013年は『マイティ・ソー:ダークワールド』のアスガルド、2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』における惑星モラグに行くと、ピーター・クイルがヘッドフォンでレッドボーンを聴きながら踊っているのが見える、といった具合。ストーリー上自然に今までの冒険の一部を思い返すことができるくだりで良かったし、単に観たことある場面ではなく、その裏側や、違う視点が描かれるのがおもしろかった。

 すっかり和解したトニー(アイアンマン)とスティーブ(キャプテン・アメリカ)は、さらに1970年に飛び、アメリカ軍基地(シールド施設でもある)に保管されていた四次元キューブを回収しようとするが、トニーはそこで亡き父ハワードと遭遇する。正体を隠して父親と話を合わせるトニーに、ハワードはもうすぐ息子が生まれるが父親になることをどう受け止めていいかわからない旨を告白する。その当の息子であるトニーにも、今や娘がいた。彼はこのアベンジャーズの反撃に加わることを最後まで渋っていたのだが、それは彼がこの5年の間に家庭を築いていたからだった。再び失敗すれば今ある幸福さえも失ってしまうのではないかという恐怖を、彼は娘の寝顔から感じていたのだ。だからアベンジャーズが現代の時点から人々を復活させようとしたのは、5年間に起こったことを変えないためでもあった。全て無かったことにするには、5年間は長すぎた。トニーの娘モーガンのように新たに生まれてきた命はもちろんだが、その間強く生きてきた人々の時間さえも否定してしまうからではないかと、ぼくなどは思う。

 常に良好な関係ではなかったトニーとハワードだが、トニーはようやくハワードと同じく父親になり、同じ感情を共有するに至った。今までぼくはトニー・スターク、アイアンマンにあまり感情移入してこなかったけれど、今やぼくも父親である。そしてトニーと同じく娘がいる。それだけで十分だ。トニーとモーガンの父娘はもちろん、トニーとハワードの会話には熱いものを感じる。最初から親だったひとなどおらず、子どもが生まれてもなかなかその実感や自覚は持てないかもしれない。よい親とはなにか、親らしさとはなにかも、恐らく正解はない。ただ、ふたりのスタークのように探り探りで親に「なろうとし続ける」しかないのだろうと思う。

 思えば最初の『アベンジャーズ』を観た2012年の夏というのは、非常に惨めな時期だった。仕事は無くほとんど無一文で、なけなしのお金で映画を観たのを覚えている。そこまで興味があったわけではないのに、ましてや『アイアンマン』1と2しか観ていないような状態だったのに、なぜか突き動かされるように観に行った覚えがある。大方ネットで話題だったからだろうと思うけれど、話題だからといって無いお金を出してまで観る人間ではないことはわかってもらえるだろう。とにかく余裕のない頃で、その日の食事も取れるかどうか微妙な有様だった。それでも、この映画は観たい、と強く感じたのだろうと思う。それから7年が経とうとしている。とても余裕に満ち溢れているわけではないにせよ、一応人並みに生活をしている。7年前はお金も無い上にとても孤独だったが、今では結婚して子どももいる。雲の上の存在だった人たちが家に遊びに来てくれるようになった。友達もいる。怖がる必要のない本物の友達だ。

 遠くに来たような気もするが、ぼく自身はずっと同じところにいるような気もする。変わらずに夢中になれるものがある一方で、いつまでも思い出しては嫌な気分になることもある。つまりはいろいろあったわけだけれど、その年月で、自分も父親になったということが、繰り返しになるけれどトニー・スタークと重なるようだ。2008年から観てきたわけではないが、途中からでもリアルタイムで体験できて良かった。見届けられたという満足感でいっぱいだ。アイアンマンに始まり、アイアンマンに終わったところも綺麗だと思う。10年よくやってくれた。あなたはアイアンマンだ。そして、親になってから観るアベンジャーズは熱い。ぼくにもハートがある。

 トニー・スタークはともかく、たくさんキャラクターが登場するので、前からのお気に入りキャラクターが顔を出すと、まるで大勢の中に知った顔を見つけたときのようなうれしさを感じる(なんだそこにいたのか!)。お気に入りの作品、お気に入りのキャラクターは人それぞれあるだろうけれど、ぼくの場合それはスター・ロードやアントマンだった。ユーモラスなキャラクターは友達感が強い。今回スター・ロードの出番はあまり多くないけれど、復活して再登場したときはやはりうれしかった。今回はちょっとトホホな役回りだったなあ。前述のようにアントマンのテクノロジーがみんなの役に立つのもうれしかったし、ネビュラのキャラクターが深くなっていくのも良かった。カレン・ギランみたいなひとは好みだな。お気に入りのひとたちを含めて全員集結してアッセンブルするクライマックスは言うことなし。好きなキャラクターはこれからもどんどん描いていきたい。

2019/03/30

『キャプテン・マーベル』(2019)


 90年代のサミュエル・L・ジャクソンということで『パルプ・フィクション』、宇宙人と接触するエージェントということで『メン・イン・ブラック』。あと、戦闘機ものとして『トップ・ガン』に通じるところもあるらしいんだけど、ぼくは観ていないのでとりあえず触れないでおこう。話の展開がおもしろく、どんでん返しというほどではないにせよ、物語の仕掛けにどうしても触れないと感想にならないので、以下、そのあたり詳しく書いてしまうことを予め断っておきます。

 クリー帝国とスクラル人は戦争状態にあり、物語はクリー視点から始まる。地球人と見た目が変わらない人々や、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』でお馴染みの青い肌のヒューマノイドたちから成るクリー帝国と、緑色の肌で尖った耳をした古典的な醜いエイリアンであるスクラル人は対照的に描かれる。前者は感情移入しやすい外見で、スタイリッシュな武器で戦い、見るからにヒーロー的だ。ブリー・ラーソン扮する主人公ヴァースもクリー側だが、彼女は6年前にクリーに拾われる以前の記憶がない。見知らぬ場所、知らない女性の姿を度々夢に見ては、それらが意味するところや自分の正体がわからず苦悩していた。

 そういうわけでスクラルとの戦いの最中、地球に迷い込むヴァースだが、そこで出会うのはまだアベンジャーズを創設する前、政府機関S.H.I.E.L.D.のいちエージェントでしかないニック・フューリー。サミュエル・L・ジャクソンの顔がデジタルの力で25歳若返る(エージェント・コールソン役のクラーク・グレッグも同様)。若返り合成はこれまでも『アントマン』のマイケル・ダグラス、『キャプテン・アメリカ:シビル・ウォー』のロバート・ダウニー・Jr.などでも披露されてきたが、いずれもちょっとした回想シーン程度だった。本作ではサミュエルの顔が全編に渡って若いまま。なんだけど、これが全然違和感ないんだな。例によってスター・ウォーズ脳のぼくは、メイス・ウィンドウの外伝映画なんかの可能性を考えちゃったりする。

 若きフューリーの助けを借りながら、ヴァースは記憶の断片と地球で得た手がかりから自分の正体を探る。フラッシュバックで少しずつ浮かび上がってくるイメージには、つねに逆境に立ち向かう若い彼女の姿がある。自分自身が何者なのかわからない状態で主人公が冒険を始めたり、時系列がバラバラの断片的なイメージの挿入などは、謎が謎を呼ぶ感じで引き込まれる。どうなっていくんだろう、と考えながら観る映画は楽しい。それでいて展開の調子もマーベルらしい軽快な感じなので、全然疲れたりもせず、おもしろい。

 いろいろあって、ついにヴァースは自分がキャロル・ダンヴァースという地球人だったことを知るが、それは、自分がどうしてクリーに拾われたのかという真相や、今自分が身を投じている戦いの別の側面を知ることにも繋がっていく。クリー帝国にとってスクラルは野蛮な攻撃者だったが、スクラルにとってもクリーは残忍な侵略者だったことがわかるのだ。スクラルのリーダー、タロスを演じるのはベン・メンデルソーン。バットマン映画の『ダークナイト・ライジング』、SW外伝『ローグ・ワン』、『レディ・プレイヤー1』などでの小悪党役が印象的で、最近ではすっかりそのイメージが着いているひと。少なくともぼくはそう思ってる。だから、メンデルソーンが扮する緑色で耳の尖ったエイリアンなんて、すごく悪役らしいんだけど、その先入観もまたこの映画の仕掛けのひとつだった。前述したクリー人たちのヒーロー的な容貌も同じことで、その見た目の対比自体ミスリードだった。戦争の違う角度を知ったキャロルは、戦いを避けて新しい居住地を探したいと願うスクラルに手を貸すことにする。

 とは言え、クリーとスクラルがやっているのは戦争であって、本当ならそこに客観的な善悪なんてものは決められない。スクラルが一切悪いことをしていないわけでは全然ないだろう。重要なのは、キャロルが自分自身の意志でどちらの味方をするか選択したことだ。本当のことを教えてくれず、自分を戦いの武器として利用しようとするクリーと、攻撃的なところもあるが難民と化して疲弊し、平和を求めるスクラル。少なくとも、キャロルの中でどちらを助け、どちらと蹴りをつけるべきかはっきりしている。こうして彼女は記憶とパワーだけでなく、主体的な自分自身を手に入れるのだ。ここがいちばん熱い。

 ところで、キャロルの夢に現れた女性はローソン博士といって、演じるのはアネット・ベニング。彼女の正体はクリー人だった(正体が地球人だったキャロルとは逆だね)。博士は『キャプテン・アメリカ:ファースト・アベンジャー』でキーアイテムだった四次元キューブを、戦争を終わらせるために使おうとしていたらしく、また難民となったスクラルたちを助けてもいた。四次元キューブは空間を司るインフィニティ・ストーンのひとつ。どうしてローソン博士が持っていたかというと、おそらくは『キャプテン・アメリカ』のラストでキューブを回収したハワード・スタークが渡したのだろう。これまではてっきりスタークがそのままシールドに渡したのかと思ったが、90年代のフューリーはじめシールドがキューブの存在を知らない様子なので、スタークが個人的に保持し続け、ローソン博士となんらかの協力関係を築いて提供したと考えられる。あくまで個人的な穴埋めだが。とにかく、絶大な信頼を置いていたローソン博士が、危険をおかしてスクラルたちを助け、戦争を終わらせようとしていたというのは、キャロルがスクラルを助ける理由として十分だった。

 本作は超人たちの存在を知る前のニック・フューリーのプリクエルとして見ることもできる。あの強面の眼帯司令官の知られざる過去。なんて言ったらかっこいいかもしれないが、それほど壮絶な経験をしているわけでもなく、かなりとぼけた野郎だったことがわかる。そのギャップは、もちろん笑える。片目を無くした理由も、さぞ血なまぐさい戦いがあったのだろうなと思っていたら……。まあ、これは見てのお楽しみ。クリーやスクラルの逆転、キャロルやローソンの正体よりも、実はこれが一番重要な真相じゃないかと思える。

 どうして今90年代に時計を戻し、フューリーとキャロルことキャプテン・マーベルの出会いを描いたかと言えば、もちろん『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』のラストシーンで、絶望的な状況で最後の力を振り絞ってフューリーが古ぼけたポケベルでキャプテン・マーベルを呼び出して終わったから(このポケベルはキャロルが改造して渡したもので、通信範囲はなんと銀河二つ分)。絶体絶命のときにフューリーが呼び出したのはどんなひとなのか。そいつはどれだけ強いのか、全宇宙の生命体の半数を消し去ったサノスに太刀打ちできるほどなのか、という好奇心が『キャプテン・マーベル』には寄せられていたというわけだ。しかし、単に過去編や次回へのブリッジとしてだけでなく、そこにちゃんとひとつの物語としてのおもしろさがあるのが、すごいと思う。レゴが欲しい。

2019/03/24

『スパイダーマン:スパイダーバース』(2018)


 単独世界の「ユニバース」じゃなく、複数(平行)世界から成る「マルチバース」というのがとにかくいい。単一世界になるとどうしても小さな矛盾であるとか、物語の重複みたいなものが指摘されたりして窮屈さを感じるけれど、マルチバースだったら平気。演じる俳優が交代したり、作品自体がリブートされて仕切り直されたりすると、いちいち前のものと整合性、連続性が気にされたり、無かったことにされた、みたいに騒ぐノリもあまり好きではないので(作り手は前のを無かったことにするなんて一言も言ってない)、そういう意味でも全ての世界線を包括するマルチバースは楽しい。ここではトビー・マグワイアもアンドリュー・ガーフィールドもトム・ホランドも同時に存在していて、互いに全く矛盾しない。日本の特撮でやったスパイダーマンだって存在する世界だ(実際に「スパイダーバース」のコミックでは日本版にも言及があるらしい)。世界は広い。

 コミック的な映像は強烈で、ぼくは3DIMAXで観たこともあって、まるでコミックの中にいるようだった。確かにぼくはコミックの中にいた。漫画表現みたいなものの良さも改めて思い知った。吹き出しの文字ってこんなにかわいいものなんだ。2Dのようで3Dなキャラクターからも目が離せない。絵なのか、CGなのか、トゥーンレンダリングなのか、もはや呼び方がわからない。ただひとつ言えるのはアニメーションで、生きたコミックだということ。

 どのスパイダーマンも自分が世界で唯一のスパイダーマンだと思っていたけれど、平行世界から集合してそうじゃないことを知る。スパイダーマンはそりゃそうそういるもんじゃないけれど、似たようなことは誰でも感じるんじゃないかな。こんな人間は自分だけだと思っていたら、同じようなひとが他にもいたなんてこと。まあ、そんなところに落ち着かせるには大きすぎる作品だけれど、スパイダーマンは超人でもお金持ちでもない、誰でも共感できる「親愛なる隣人」ということで。ひとりじゃなかったんだ、ていう気持ちはやっぱりうれしい。

2019/03/11

『アクアマン』(2018)


 地上に逃れたアトランティスの女王と、彼女を助けた灯台守の男との間に生まれたアクアマンは、半分アトランティス人で半分地上人。そんな彼が、海を汚染する地上人に戦争を仕掛けようとする異父弟のアトランティス王と対決し、真の王として海中世界と地上世界との架け橋になろうとするお話。典型的な貴種流離譚がわかりやすく、また陽気なサーファーみたいなアクアマンのキャラクターが親しみやすいので、楽に楽しめる(最近のアメコミ映画ではとても重要なことだと思う)。海中世界の都市や兵器もおもしろかった。個人的なお気に入りはカニ人。甲殻王国とアトランティスの合戦シーンは見どころ。

 スーパーマンとバットマンが織りなすダークなDC世界において、ワンダーウーマンとアクアマンが差し色になっている印象。ニコール・キッドマンは『バットマン フォーエバー』以来のDC作品じゃないかな。『アントマン&ワスプ』のミシェル・ファイファーの役どころとほとんど同じだったけれど、ミシェル・ファイファーもまた『バットマン リターンズ』のキャットウーマンだったことを思うと、結構重なる。

 海中の兵器や戦いが、ちょっとした宇宙という感じだったので、同じような色彩・ノリでグリーンランタンとかやったら楽しそうだと思うなあ。

2019/03/09

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』(2018)


 『ハリー・ポッター』と世界観を共有するシリーズ第二作。簡単におさらいすると、ハリーたちがホグワーツ魔法魔術学校で使っていた教科書「幻の動物とその生息地」の著者である魔法動物学者ニュート・スキャマンダーの冒険を描くお話で、時代は1920年代頃に遡る(ハリーたちのお話は1990年代)。今作では若き日のアルバス・ダンブルドアが登場し、旧友かつ宿敵であるゲラート・グリンデルバルドと対立。ダンブルドアとグリンデルバルドの関係が当局に怪しまれているため、代わってニュートがその邪悪な野望を追うことになる。

 グリンデルバルドの、ヴォルデモート卿とは全く違うタイプの悪役としての確立が大成功だったと思う。出生へのコンプレックスからマグルを憎み、支配ないし滅ぼそうとしたヴォルデモートに対し、グリンデルバルドの動機は「マグルを放っておけば世界が滅びかねない」という危機感からくるものだったことが明かされる。もちろん闇の魔法使いとしての所業は正当化されないが、グリンデルバルドがみんなの前で見せた「未来のヴィジョン」は、ぼくたちマグルに嫌でも突き刺さる。彼が見たヴィジョン、それは果てしなく続く廃墟を彷徨う難民、あるいは強制収容所の囚人たち、上空を飛び去る戦闘機はセストラルよりも不気味で、しまいには全てを焼き尽くす炎と巨大なきのこ雲……このあとマグルが引き起こすことになる第二次世界大戦の様子だったのである。それを見た魔法使いたちは驚愕する。どんな魔法をもってしてもこんな惨状は生み出せないとでも言いたげな驚き。マグルは世界を滅ぼす力を持ちつつあるのだ。だからこそ、グリンデルバルドは魔法使いが彼らを管理・支配するべきだと説く。それに対し、恐らく観客たるマグルたちは返す言葉もないだろう。そういう意味で本作はスクリーンの外にいるマグルにも語りかけている。

 ここからは個人的な勝手な予想なのだけれど、グリンデルバルドの見たヴィジョンは、ほかでもないグリンデルバルドが引き金、あるいはきっかけのひとつになるのではないだろうか。ちょうど、アナキン・スカイウォーカーが自分の見たヴィジョンの実現を避けようとした結果、自分でその結末を招き、愛する人々を滅ぼし、ダース・ヴェイダーとなってしまったように。少なくとも、ぼくたちは第二次大戦が実際に起こることを知っている。だからグリンデルバルドの努力は恐らく報われない。そして彼の企みがそのままヴィジョンの実現に繋がっていくのではないだろうか。

 グリンデルバルドという名は「ハリー・ポッターと賢者の石」の時点から登場する。ハリーが蛙チョコレートの魔法使いトレカでダンブルドアを引き当て、そこに書かれたプロフィールに、「1945年にグリンデルバルドを敗る」とあるのだ。1945年。今更言うまでもない現代史のいち起点、世界大戦終結の年だ。第二次大戦を避けようとしたグリンデルバルドが、第二次大戦終結の年にダンブルドアに引導を渡されるというのは、今後の『ファンタスティック・ビースト』を予想する上でも重要だと思う。世界大戦とグリンデルバルドにはなにか深い関係が生じるのではないだろうか。

 ついでに言えば、ハリーの宿敵であるヴォルデモートは1945年にホグワーツを卒業している。ますます匂う。さらに、今作にはのちにヴォルデモートの使い魔となる大蛇ナギニが登場する。なんと、かつてナギニは動物に変身する人間、「動物もどき」であり、その正体は東洋の美女であった(演じるのはクラウディア・キム)。劇中ではだんだんと人間に戻れなくなっていくだろうということが説明され、彼女の未来を暗示させる。彼女は一応ニュートたちのパーティに加わることになるが、それがどうしてヴォルデモートの愛蛇になるのだろうか?『ファンタビ』の物語はこれらの運命が交わるであろう1945年に向かっていくのかもしれない。

 ダンブルドアの蛙チョコレート・カードに書いてある人物としては、ほかにも錬金術師ニコラス・フラメルがゲスト登場する。しかも真っ赤に輝く石も出てきて、世界観の原点を思い出させた。ナギニもそうだし、なによりホグワーツ城も久しぶりにスクリーンに登場するので、『ハリー・ポッター』シリーズへの繋がりも大きい。ちらりと登場する若き日のマクゴナガル先生がキュート。ざっと計算してみるとハリーたちが通う頃には、マギー・スミスでさえ追いつかない結構な年齢になっていたはずだが、そこはそこ、魔女だからね。猫に変身する魔女の先生が普通のマグルと同じように年を重ねるわけがない。

2018/12/24

『Merry Christmas! 〜ロンドンに奇跡を起こした男〜』(2017)


 今お馴染みのクリスマス、つまりはぼくが好きなクリスマスというのはこの時代から始まったものらしく、その歴史は比較的新しい。キリスト教のお祝いだけでなく、北欧の冬至のお祭りの要素も加わって今の姿となっていて(クリスマス・ツリーなんてその代表で、キリスト教とは無関係の北欧由来のものだ)、そう考えるとぼくたちが本場としてイメージしているクリスマス像も結構カスタマイズされているというわけだ。起源や経緯を忘れてしまうのはよくないけれど、しかし国や地域によって祝祭の形が変わっていくのはおもしろく、またそうやって広がっていくものもあるのではないかと思う。廃れていたクリスマスのお祝いを再発見したディケンズは、クリスマスを発明するとともに、救っていたのかもしれない。自分に合ったクリスマスを楽しみたい。

 「クリスマス・キャロル」そのものは映画も観たことあるけれど、一番イメージが強いのはディズニーのアニメ『ミッキーのクリスマスキャロル』だ。スクルージをスクルージ・マクダック、マーレイをグーフィ、ボブ・クラチットをミッキーといった具合にみんなディズニーキャラクターに置き換えられたもので、親しみを持って名著の内容を知ることができた。ちなみにスクルージ・マクダックの名前はこのスクルージが由来になっている(よくお金を数えてるもんね)。お気に入りはグーフィー扮するマーレイだった。スクルージの前に現れる昔の商売仲間の幽霊マーレイ。グーフィーの特徴である長い手足がおどろおどろしいポーズを取り、身体中に鎖が巻きついたその異様な姿が、子供心に印象的だった。というわけで本作でもマーレイがお気に入りだ。

2018/12/22

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(2017)


 遺してしまった妻を日々見守る夫の幽霊の物語、というわけでは全然ないのがおもしろいところ。妻を守ろうとかそういうわけでもなく、ただただ自分が死んだあとの日常を部屋の隅にひっそり佇んで見つめ続けるだけ。そうこうするうちに妻は身辺を整理して、夫と暮らした家から引っ越していってしまう。もちろん夫の幽霊は新居までついていくのだろう、と思ったらこれが家に残ったまま。ここからおや?となる。

 やがて新しい住人一家が越してくる。妻と暮らした家に知らない連中が住み着くのはおもしろくない。地下鉄の幽霊に教わらなくとも多少物に触れられるので、食器を割ったりしておどかして追い出す。するとまた別の連中がやってきて住み着く。またおどかす。気づくと家は空き家を通り越して廃墟になっている。しかし彼はまだそこにいる。彼は妻ではなく家に憑いているのだろうか?

 重機がやってきて家が取り壊された。気づくとそこは建設現場になっている。次に気づくと幽霊は家があった場所に建った高層ビルにいる。周囲はすっかり様変わりし、大都市が出来上がっている。なんとなくそこはずいぶん年月が経った未来の世界だということが伝わってくる。どれだけ時間が経とうとも家があった場所に彼はいる。妻でもなく、家でもなく、土地に取り憑いているのだろうか?彼 は気が滅入って(?)ビルから飛び降りる。シーツが落ちるだけなんだけど、とにかく飛び降りる。

 今度はあたりが平原になっている。かつて暮らしていた家の周りの風景に近いが、もっとなにもない。馬車がごろごろやってきて、開拓者の一家が降りてくる。ほとんど野宿みたいな生活をしながら、父親が言う。ここに家を建てよう。しかし次の瞬間には身体中に矢が刺さった状態で一家が地面に倒れている。荷物はめちゃめちゃ。先住民の襲撃にあったのだろう。幽霊は小さな女の子の死体を見下ろす。一瞬で彼女は骸骨になり、それが崩れて地面に還る。幽霊は時間をも越えてこの土地に憑いたのだ。そして彼にとってはあらゆる事象が一瞬のうちに、同時に起こっているのだ。

 やがてそこに家が建ち、夫婦が越してくる。かつての自分たちである……。

 時を越えて同じ場所に居続ける幽霊像、その途方の無さがおもしろい。それがシーツのお化けという究極的に単純でアイコニックな幽霊によって描かれるのが最高。かわいさや可笑しさを感じさせるその姿が画面にいるだけでただならぬ雰囲気が出るし、そのシンプルな姿はときに哀愁を、ときに怒りや恐怖を感じさせるようになる。目穴が二つ空いてるだけなのに、表情が出てくる。いや、表情を考えさせられる。シーツのお化けがここまで偉大とは思わなかった。単純ゆえにインパクトがすごい。

 夫婦の生活や、遺された妻の日常も、じーっと見ていられる。妻のルーニー・マーラが、夫の死の直後に差し入れでもらったパイを黙々ともぐもぐ食べ続けるところなんか、思わず凝視する。どかどかと食べる勢いから、悲しいのか苛立っているのか怒っているのかと想像する。そしてその全部が伝わってくる。言葉が無くても場面を理解しようとじっと観察する感覚は絵本を眺めているときに近い。グラフィック・ノベル的とも言える。そしてシーツのお化けのヴィジュアルはそういう雰囲気とも合っているし、それを際立たせる。ぼくももっと白くて目がちょこんとついただけの幽霊を描きたい。

2018/10/29

『search/サーチ』(2018)


 パソコンの画面だけでこんなに緊迫感が出るのかと驚く。大きなスクリーンで観るPC画面というのもなかなか新鮮だけれど、ずっと観ているとそんなことは忘れて、気付けば主人公と一緒に画面の中に手がかりを探している。車で移動するシーンをグーグル・マップで表現したりするのがおもしろい。エンジン音とともに矢印が黄色い線の上で動いていくだけの画なんだけど、早く、早く行かないと、という焦りが伝わってくるからすごい。PC画面だけなので、人物の表情や会話は内臓カメラによるフェイスタイムや配信動画で演出されるわけだけれど、実際も皆あんなにフェイスタイム使うのかな。ぼくはどうもあれが苦手で、なんで嫌になったかというと、なんの断りもなく一方的にあれで通話をかけてくるひとが多かったから。この映画の中のように普及・浸透していれば問題ないだろうけれど、全員が全員同じように使ってないものはもうちょっと考えて欲しいものだ。別に部屋が見られるのが嫌とかはないんだけど(見られるつったって、パソコンに向かっている自分の背後しか映らないし、背後は壁だ)、なんとなく部屋で気抜いてる顔を見られたくないというか。いや、外でだってわりと抜けた顔しているんだけど、なんかこうね。多分当たり前のようにあれで電話してくるひとが気に食わなかったんだろうな。顔にチックが出るから、相手に顔を注視されたくないんだろう。同じ理由で自分を映す動画配信とかも、興味なくはないが自分でやるには抵抗がある(話すことがあるかどうかは置いておいて)。でも、ティーンズには当たり前の発信方法なんだろうなあ。とは言え、主人公の娘マーゴットが初めてパソコンのアカウントを作る2000年代半ばというのは、ぼく自身がインターネットに触り始めた時期でもあったので、マーゴットの成長とともに移り変わっていくパソコン画面の変化とかは、親近感があった。ポケモンが好きなところも良いですね。そういえば、あるところで出てくる「好きなポケモンはカクレオン」ていう台詞(台詞というよりチャットのコメントか)は若干伏線だったような気がする。詳しくは書かないでおくけれど、気にしてみて。なにはともあれ、この映画を観たら、パソコンの操作や目にする画面ひとつひとつに大きな意味があるような気がしてきて、楽しい。物語上の展開ではあるけれど、個人的な範囲でのインターネット検索だけでいろいろなことが突き止められるんだなあと改めて思う。というか、PC画面だけで物語が成り立つというのは、それだけ生活の中でPCや端末の画面を見ている時間が長く、生活の一部(ひとによっては一部どころではないだろう)が画面の中に移されているということなんだろうなあ。

『クレイジー・リッチ!』(2018)


 光と色の洪水に酔いながらも物語そのものは古典的でわかりやすい。だから楽しい。それを彩るのは、ナポレオンの予言通り巨大な獅子が目覚めた世界、フレッシュな映像、新しいパワー。見ていて飽きない。見ていて飽きないと言えば、オークワフィナ。髪型と顔つきの組み合わせがだいぶぼくに響いてきたんだろうな。特徴的な声でしゃべり続けるところも良い。衣装は何種類かあったと思うけど、資料が乏しいのでとりあえずいちばん印象的なウサギ柄を描いてみる。終盤でフワフワなスカートはいてるシーンもあったはず。最初に登場したときに着ていた犬柄の部屋着も良かったな。あの、お金持ちが着てるヒラヒラしたスカーフ生地みたいな部屋着はなんて言うんだろうね。ゴージャスなものは少し敬遠することがあるけれど、細部をよく見ると、当然良いものがある。映画を理由に憧れを抱くのは、それはそれで偏見に近いかもしれないが、アジア的ゴージャス感の見方が変わった。リッチではないけれど、ぼくもなにか自分の中のアジアンな感覚を発見したい。餃子が食べたくなるし、麻雀も覚えたくなった。

 クレイジー・リッチな世界に迷い込むシンデレラな主人公レイチェルが、生まれ故郷であるアメリカと、人種的ルーツであるアジアとの間に挟まれるというのも興味深い。同時に、決して裕福ではない移民かつ母子家庭な身の上でお金持ちの世界と出会うので、別々の世界に二重に挟まれるわけだ。移民二世としてアメリカからアジアに「戻って」くるというのは、間接的な里帰りの構図にもなっていて、どこかリベンジな帰還にも見えてくる。そういう意味ではレイチェルは単なるシンデレラではないんだな。彼女の「よそ者の目」を通して観客は煌びやかな世界を目にし、彼女は自分のルーツたるアジアを知る。少なくともその一面を。シンガポールも実際にどんなところか見てみたいな。高所恐怖症だから、ビルの上のプールは無理。

2018/06/29

『ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)


■ 重厚で殺伐とした世界を生きたハン・ソロ

 ポスターのイメージとは裏腹に、重厚なクライム調で驚いた。常にどこか薄暗く、モス・アイズリーの酒場以上に得体の知れない連中がうごめいている中で、ひとりの若者がどうやって自由を手に入れて生き延びてきたかが語られていた。

 ハンの故郷コレリアからしてとても暗い。ミレニアム・ファルコンや反乱軍のブラッケードランナーの故郷でもあるこの造船惑星は、もっとハイテクで進んだ未来都市のイメージだったんだけど、曇り空に悪魔的な工業地帯といった感じ。ハンはそこでたくさんの孤児とともにギャングに飼われているわけだけど、そこにはスカイウォーカー親子やレイといったSWの主人公たちが経験してきた「自分はここで一生を終えるのか」という不安や絶望感みたいなものがあって、やっぱり閉ざされた世界からの脱出はSW全編に渡るテーマだなと思った。閉塞感や絶望感は、ひとを冒険に駆り立て、危険だが自由な世界への原動力となる。ハン・ソロも最初は農夫や奴隷だった少年たちと同様、何者でもなかったのだ。

 何者でもないし、独り。まさか「ソロ」という名前が本当にそこから来ているとは思わなかったが、わかりやすくて気に入った。伝説的な名前(のちにスカイウォーカーの末裔となる男にも受け継がれる苗字だ)を名付けたのが、志願兵を受け付ける小役人だったというのも、そっけなくていい。まさに文字通り取るに足らない名前だったのだ。

 ハンが一度は帝国軍に入隊していたという設定は、昔からあった。そのバージョンでのハンは帝国アカデミーで優秀な成績をおさめ、エリートコースを約束されていたが、ウーキーの奴隷が虐待されているのを目の当たりにしてそれを助けてしまう。エイリアンの奴隷は帝国において合法だったので、自身の良心に従ったはずのハンは罰せられ、軍から追い出されてしまい、最後には命の恩人である彼に忠誠を誓ったひとりのウーキーが残っただけだった、という話だった。

 ハンが帝国軍に入っていたこと、その中で生涯の友となるチューバッカと出会ったことは旧設定も今回の映画も共通しているが、おもしろいのはそれを少しずつズラしているところだ。ハンはエリート士官なんかではなく、泥沼化(まさに泥沼だ)した前線に送られるヒラ兵士である。そこで彼は泥まみれになって死と隣り合わせの塹壕で戦うことになる。この泥だらけの塹壕戦、ミンバンの戦いはシリーズでもっとも「戦争」という感じのするシーンだった。『ローグ・ワン』はその意味ではまだまだいつものSWだったのだ。

 ストームトルーパーはいつもの白ではなく、泥で汚れてくたびれきっていて、ハンはじめ一般兵の装備もごちゃごちゃ泥々としていて超汚い。なによりもSWの戦場でありながら「敵」の姿が見えない。これがすごい。そこらじゅうレーザーや爆発による煙で視界が悪く、光弾は飛んでくるがどんなやつが撃ってきているのかは全然見えない。一体誰となんのためにやっている戦いなのかは全然説明されない。そこがすごくリアルな気がした。ハンもつい上官にこう漏らしてしまう。「ここじゃ俺たちが“敵”ですよ」


■ キャラクターたちとミレニアム・ファルコン号

 そんな感じで重々しい調子だんだけど、だからこそハンの軽快さ、チューバッカの動物的魅力、ランド・カルリジアンの小狡さなんかが際立つ。キャラクターが少ないからこそ、それぞれの持ち味がよく表現されているし、話も入り組まずにわかりやすい。重要でないキャラクターはわりとあっけなく死んだりするところも、前述のミンバンの戦いのように、いつ死んでもおかしくない緊張感、みたいなものが漂っていていいな。ハン、チューイ、ランド以外は誰が死んでもおかしくないのだし。

 ミレニアム・ファルコン号との出会いの物語でもあるが、やはりキャラクター、人物の関係へのフォーカスが大きい。ハンがファルコンに乗り込んだだけではまだ画は完成しない。伝説のケッセル・ランを飛んでいく中、EP5『帝国の逆襲』の名曲である「The Asteroid Field」のアレンジが流れながら、ついに副操縦席にチューバッカが腰掛けた瞬間、全てがあるべきところにおさまって、ばっちり出来上がったような感動がある。ファルコンそのもののディティールがそこまで映し出されないから存在感が薄いように感じるひともいるかもしれない。しかし、ハンはまだあの船と出会ったばかりでそのディティールをよく知らないのだから、あれくらいで正しいのだと思う。ぼくたちの知るお馴染みの船は彼らの冒険や築き上げた友情によって出来上がっていったからで、あの時点ではまだ全てが白紙だ。それを象徴するかのように、ファルコンの外装も最初は白い。

 ファルコンと言えば、船の秘密も明かされた。ランドの相棒ドロイド、L3-37のプログラムが船には組み込まれていたのだ。L3はシリーズにおいては初めてドロイドとしての権利を主張するキャラクターだが、そのプログラム上の性別が女性であることも興味深い。寓意性を持った彼女は、権利意識を持つ人々を戯画化しているように見えてしまいそうなところもあるが、それも含めて挑戦的なキャラクターだと思う。

 ファルコンが「彼女」と呼ばれていたのは単に船舶が女性名詞だからというだけではなかったわけだ。EP5でC-3POが「この船のコンピューターはひどい訛りがある」と指摘していたが、あれはL3のことだったのかな。


■ スピンオフっぽさと「映画」とのバランス

 シンプルでテンポよく進んでいく物語でいながら、スピンオフなのでオタクへの目配せも忘れていない。カリダ、ミンバン、オーラ・シング、モー星団、テラス・カシ……。スピンオフっぽい用語が随所に散りばめられていて、このほかにもぼくの知らない言葉も出てきたかもしれない。ほら、ぼくそんなに詳しくないし。でも、テラス・カシはわかる。テラス・カシ知ってますか?初代プレイステーションのSW格闘ゲームで「マスター オブ テラス・カシ」というやつがあったんだけど、テラス・カシというのはSWで格闘ゲームがやりたいがために作り出されたあの世界の武術なのだ。

 とは言えルークはライトセイバー振り回すし、キャラはそれぞれの武器を使うのでどのあたりがテラス・カシなのかはよくわからないんだけど、一見どうしようもないゲームに見えて、実は結構おもしろいらしい。

 ちなみに物語においてはもともとはジェダイに対抗するため、ジェダイを牽制するために編み出された武術だそうで、映画ではダース・モールが使っていたとされている。そう、実はちょっとした伏線だったのだ。

 ハンが恋した彼女は、シスの暗黒卿から落伍しながらもクローン大戦を生き延び、暗黒街でひそかに勢力を伸ばしていたモールの配下だったわけだが、最後に黒幕としてこういうキャラクターを投げ込んでくるあたりも、実にSWスピンオフらしい。飛び交う用語、情報の密度が作り出す世界観の奥行き、そして意外なキャラクターの登場。こういった盛りだくさんなところ、雑多なところにSWスピンオフの魅力があると思う。それでいて本作は一本の宇宙犯罪ものとして(西部劇でもギャング映画でもいい)、一本の映画としてもおもしろいというバランスの良さ。


■ ソロという名前

 彼はいかにして「ハン・ソロ」となったのか。その物語を知った上だと、EP7『フォースの覚醒』でのレイに対する老ハンの態度への印象も変わってくる。レイになにかを見出したハンは彼女の師となるが、それは孤独に生き抜いてきたレイにかつての自分の姿を見たからではないか。若きハン同様、レイもまた初めて乗ったファルコンで、初めて握った操縦桿で神がかりなテクニックを見せる。ソロという名前は、家族は誰もいないという理由でつけられたものだが、それならレイもまたレイ・ソロになり得るのではないか?

 孤独なレイの擬似的な父親になるハンだが、しかし彼には本当の息子がいる。家族が増えることで、ソロは適当な名前からちゃんとした苗字となったはずだが、孤独の名を受け継いだ息子はやがて家族のもとを去りその名を捨ててしまう。さらには最初のソロである父親も殺してしまう。

 ソロという名を与えられることで「自分」を手に入れたハン。そのハンに認められることで冒険へと旅立ったレイ。そしてソロの名を捨てながらも、孤独に転落してしまうベン。果たしてソロは呪われた名なのか?それともアイデンティティや自由への切符なのか?レイとベンがハン・ソロの存在によって結び付けられた擬似的な兄妹であることは確かだ。かつてジェイナとジェイセン・ソロという別バージョンのソロ兄妹がいたように。

 別のエピソードへの理解を深める手助けをしてくれるところも、スピンオフのいいところだ。全体でひとつの歴史を作るのがスピンオフであり、ユニバースなのだ。

2018/06/24

『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017)


 でっかい魔法使いのおじさんの頭の形のお店とか、オレンジ果実型のお店とか(オーランドもアナハイムもオレンジ群だから?)、とにかくそういう、ディズニーの世界観を禍々しく解釈した建物(ディズニーランドってこういう感じだろ?みたいな適当な真似)が並ぶ光景はなかなか悪夢的。アナハイムでの失敗から、オーランドでの開発はなにもかもコントロール下で行われたとばかり思っていたが、それは単に内側から「忌々しい外の世界」をうんと遠ざけただけなのかもしれない。もちろんそれだけでも「フロリダ計画」は成功したと言えるのだろう。

 2番目のディズニーパーク建設計画そのものをタイトルとしたこの映画は、ウォルトが図らずもその王国から遠ざけてしまった子どもたちの物語だ。パーク内で遊んでいる人々がおそらくこれっぽっちも考えないであろうすぐ外側での暮らしが生々しく映し出され、王都建設が湿地帯になにをもたらしたのかがだんだん浮かび上がってくる。「7人の小人」の名がついた大きな道路を、目的地に向かって脇目もふらず走り去るたくさんの車、彼らの注意を少しでも引こうと派手に飾り立てる土産店やアイスクリーム店、とにかくお城っぽい見た目の安モーテル、廃墟同然になった空き家群、そしてところどころに残された、開発前の名残である沼地……。そこは夢と現実の狭間として、またひとつの世界観を持つ。

 特にムーニーたちが沼地で遊ぶシーン。幽霊のような枝を垂れ下げた大木が生え、見ているだけでジメジメした気分になるが、遊んでいる子どもたちは至って楽しげである。なにより「普通なら」マジック・キングダムで遊んでいるであろう子どもたちが、マジック・キングダムになり損ねた沼で遊んでいるという画が象徴的である。

 この湿地帯が選ばれたのは、もちろん値段が安く広大な土地を必要としたディズニーにとって好都合だったからだ。沼で遊ぶ子どもたちさえも、「フロリダ計画」の産物なのだ。

 そんなムーニーたちを不幸だとかかわいそうだとかは、こちらは勝手に言うべきではない。確かに彼女を取り巻く世界は限られているかもしれないが、少なくとも彼女自身は常に前向きで、日々を楽しもうという意欲でいっぱいである。もちろんその影で彼女の母親はじめ大人たちの苦悩があるわけだが。

 ウォルトがムーニーたちのような子どもたち、あるいは彼女の母親のような人々の生活を知り得たか?ノーだ。実は彼は「フロリダ計画」の最中、1966年12月15日にこの世を去っている。計画の行方も、王国の完成も、その周囲に出来上がった不思議な世界のことも、彼は知らない。

 さらに弟の意思を引き継いでディズニー・ワールドを完成させた兄のロイ・ディズニーもまた、開園からたった三ヶ月後に脳梗塞で死去した。孫とともにディズニーランドに行こうとしていたその日に。

 ディズニー兄弟は「フロリダ計画」がやがてどんな世界をもたらすのかを知り得なかったし、それは未来都市エプコットとは全然違う世界だが、エプコットを夢見たのと同じような前向きさを持つ、子どもたちの世界なのだと思う。

 もしぼくがアナハイムにしろオーランドにしろ、向こうのパークに行くことがあったら、ホテルの予約は本当に気をつけたいところだ。

2018/06/08

『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』(2018)


 白状すると2008年当時は『ダークナイト』に夢中でマーベルのキャラクターなどこれっぽっちも興味がなかったし、バットマン映画のインパクトが大きすぎたので、『アイアンマン』や『インクレディブル・ハルク』もそれに便乗した映画に過ぎないと思っていた(なぜかDVDが出た当時はウィル・スミス主演の『ハンコック』が2本のマーベル映画と抱き合わせになっていたように覚えている。世間としてもそれくらいの認識だったのだろう)。

 あれから10年、まさかこんなに巨大なシリーズに、しかもバットマンが代表するDCコミック映画を軽々と凌駕するようになっているなんて。17歳の自分に教えてやりたいよ。

 三度目の大集合にしてもはや何人いるのか数える気にもなれないくらいに膨れ上がったヒーロー軍団と対峙してもまったく引けを取らないサノス。銀河皇帝も思いつかないようなとんでもないジェノサイドを企んでいるやつなのに、なぜか途中から負けて欲しくない(勝って欲しい、ではない)と思うようになっている自分がいる。手段を選ばない悪い奴、というのはよく言われるものだけれど、手段を選ばないことがどれだけ大変なことかをサノスは体現した。

 ハルクが序盤だけ登場してあとは変身できなくなるところ、ハルクがつねに画面で暴れてたらお話として困るから調整されているのだろうけれど、ブルース・バナーの新たなキャラ性が出ていておもしろい。思春期グルートが不愛想で後ろに隠れちゃってるところなんかも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』の時点で計算してたのかわからないが、そういう作用になっているのかな。うまくできているなあ。
 

2018/04/16

『スリー・ビルボード』(2017)


 どこか行き詰まってしまったような田舎町、それでも生きるしかないのだということを見せつけてくる登場人物たちは、みんな熱い。主役の三人は言うまでもないけど、脇をかためるピーター・ディンクレイジやルーカス・ヘッジズ、窓から落とされてとんでもない目にあってしまうケイレブ・ランドリー・ジョーンズまでもがどこか清々しい感じがする。

 ルーカス・ヘッジズの役どころに既視感があるのはもちろん『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。難儀な長男役のイメージがついてきたけど、メジャー・デビュー作は『ムーンライズ・キングダム』で、バイクにまたがって主人公を執拗に追い回していたあの意地悪な少年である。サムとスージーのロマンチックな逃避行を邪魔するもスージーのハサミで傷つけられ、後半は松葉杖ついてまで憎まれ役を続けるあいつだ。
 『マンチェスター〜』ではそのスージー役だったカーラ・ヘイワードがルーカスの彼女役なのだからおもしろい。そして、『ムーンライズ〜』でそのスージーの母親役だったのが、本作『スリー・ビルボード』の主役フランシス・マクドーマンドなのである。『ムーンライズ〜』で刺され、『マンチェスター〜』では刺された女の子と恋仲に、本作で今度はその子の母親と親子になっているというわけ。難儀である。

 それにしても小さい町というのは本当に誰も彼も知り合いで、噂などが広まっていくのが本当に早いなあ。警察署長が癌である、という全く公言されていないことでもみんな知っているくらいだから、大きな看板3枚に貼り出された言葉はさぞ強烈だろう。そこに書かれている内容以上に、その情報の強さもまた住人たちにショックを与えたんじゃないかな。不満や批判を具体的な言葉で目に見えるところに貼り出す、というのは、目に見えない形で情報が行き交い、周知の事実を口には出すことが憚られている小さな町では、かなりの暴挙なのかもしれない。

 ショックと言えば、歯医者のシーンが地味に怖い。このあいだから歯医者に通っているので、どうしてもあのシーンを思い出してしまう。まあ、被害を受けるのは歯医者の方なのだが。

2017/12/21

『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』(2017)


 いやはや、この年末は妙に忙しく12月15日もその日締め切りの仕事に前の晩から取り組んでおり、早朝にそれらを送り出してから一旦眠り、午後になって飛び起きて映画館に向かったわけで、非常に頭がぼんやりとくたびれていたのだけれど、そんなところにこんなとんでもないレーザー・ビームのような映画を見せつけられては、もはやぼくの脳みそは処理が追いつかない。
 だから、鑑賞間もない今はまだ自然と感想もとりとめのないものになってしまうかもしれない。実際、観た直後にノートにめちゃくちゃに書き散らしたものを今参考にしようとしても、ほとんどなにを言いたいのかわからない感じである。ただ、すごい興奮していることが伝わってくる。

 とにかく胸がいっぱいだった。これまでで最もフラットな気持ちで観ることができたSWでもある。事前の考察を全くしなかったわけではないけれど、それでも積極的に予告編でわかる以上のことを調べようとはしなかった。と言うのも、前作の『フォースの覚醒』の際にあまりにも調べ、考えすぎたからである。
 そのおかげか、全く予想のつかないストーリーを大いに堪能できた。金曜日に観て、帰宅してから前述のようにノートをとり、あまりインターネットを見ることもせず、自分の中だけで感動を増幅させていった。土曜、日曜もまだ余韻が残っており、思い返してはうれしくなってため息をつき、始終ニヤついていたので妻から大変気味悪がられた。
 未知のSWを観ることがこれほどまでに楽しいのかと、驚き、感動した。これもことあるごとに言っていることだけれど、オリジナル三部作の前日譚であるプリクエル三部作世代のぼくにとって、先のわからないSWを観られることはこの上なくうれしい。だって、先がわからないのだから。

 なにより情報量が多い。キャラクターが多い。展開がめまぐるしい。スピードがある。それでいて全く収拾がつかなくなるということはない。
 新しい『帝国の逆襲』として観ることはできるし(もっと言えば『ジェダイの帰還』要素も強い)、同じシリーズとして他エピソードと通じる部分も少なくないけれど、そこまでテンプレートに沿うこともなく、全く新しいストーリーを見せてくれたと思う。SWにおいては新しい演出、美しい画作り、シリアスの中にほどよく挟まれるユーモア、ダークさとポップさ……物語として非常にバランスが取られている。

 バランス。それは本作のテーマでもある。光と闇、善と悪の境界が曖昧になり、絶対的な正義として信じられてきたジェダイさえ過去の遺物であることが示される。光があたるぶん闇も深くなるというルークの言葉はとても印象的だ。まるでその言葉が言い表すように、レイとカイロ・レンは拮抗する。そうしてレイは闇に、カイロ・レンは光への誘いに心を揺さぶられ、いつしかふたりの間に奇妙な絆が出来上がる。

 ふたりが交信をするときの演出もおもしろい。その場に互いの姿が見え、互いの感触が伝わり、互いがいる環境さえ伝わってくる(雨が降る中にいたレイと交信した際に、宇宙船の中にいたカイロ・レンの顔が濡れるのだ)。表裏一体のふたり。ふたりの関係は非常に興味深い。
 山場である共闘もとても熱いけれど、最終的にカイロ・レンはファースト・オーダーの新たなリーダーになることを選ぶ。かつてダース・ヴェイダーが皇帝を倒して自分が支配者になろうとしていたことを考えると、ようやく祖父に代わってそれを成し遂げたかのように見える。その点では彼はかの暗黒卿を超えたわけだ。もちろん、レイはそんな彼にもう手を差し伸べることはなく、拒絶する。カイロ・レンからの交信を遮断するレイの心境が、ミレニアム・ファルコンのタラップが閉じられることで表現されているのもとてもよかった。それは父親の船からの拒絶でもあるのだ。
 
 レイの出自が明らかになることで、このふたりの間にはもうひとつの構図が生まれる。特別でない者と特別な者だ。一方は名もない貧しい人々から生まれた孤児であり、もう一方は空を歩む選ばれし血筋を引く。前者は愛されず、後者はきっと多くの期待を背負って育ったはず。しかし、今では逆だ。どこの馬の骨とも知れないレイが愛と期待を受け、伝説のスカイウォーカーの血を引くベン・ソロ——カイロ・レンは深い闇に落ちた。
 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』で、主人公の父親が実はとんでもない化け物で、育ての親の方が本物よりも親らしかった、という展開が非常に魅力的だった。SWに代表される血統主義的な物語に対するカウンターのようでとても今っぽく感じられた。これを先にやられては、もうレイの出自が結局ルークの子供だとか、そんなんじゃ絶対ダメだと思った。他の物語がどんどん新しさを得ていく中で、まだSWは血統の物語にこだわってしまうのかと。確かにSWのサーガは同時にスカイウォーカーのサーガでもある。しかし、それだけではない。それだけではいけない。もっともっと物語に広がって欲しい。
 そもそもぼく個人はあまりSWを血筋の物語というふうには捉えていない。そこにあまり還元したくない。まずルーク・スカイウォーカーという主人公がいて、それからその父親の物語を明らかにしていった、というだけであって、別に家系図を追っているわけではなかろう。正直、たった親子二代で血筋もくそもあるかと思う。
 果たして、新しいSWは血統の呪縛から離れた。もちろんスカイウォーカーの物語もまだ続いている。今回のスカイウォーカーは闇に落ちたベン・ソロだ。そして彼に対抗するのが、特別でない人々、名もなき人々代表、レイ。もしかすると今後、レイがベン・ソロを救うという展開があるのではないだろうか。だって、そうすれば特別でない人々がスカイウォーカーを救ったことになる。これまでのお返しのように。そうだったらとても優しく、美しいと思う。

 フォースはジェダイのものではない、というルークの言葉は同時に、フォースはスカイウォーカーのものではないと言っているようにも思える。それに呼応するかのように、本作のラストではリゾート都市で働かされていた少年が、なんとフォース感知者であることが示される。ルークの「最後のジェダイは私ではない」という言葉は、まだレイがいるということを指しているのと同時に、まだ銀河のいたるところにフォースに目覚め、可能性を秘めた人々が大勢いるであろうことを示唆しているようにも思えてならない。スカイウォーカーだけがフォースの申し子でないのだ。


 だからこそ、全ての人々がフォースとともにあると言える。そう思うと、本作に登場する大勢のキャラクターたちがより魅力的に思えてくる。フォースやジェダイとはなんら関係のない人々。ときに悪の側につき、ときに正しい道を歩んでいる勇気ある人々。
 前作から登場したキャラクターたちの拾い方が見事だった。特にマズ・カナタ。ここぞというところで登場し、しかもそれなりに戦闘スキルがあることがわかって熱い。あのゴーグルにはあんなスキャン機能があったのか。そしてジェットパック。ジェットパックだよ?前作ではヨーダとジャバ・ザ・ハットの要素を兼ね備えているように思えたが、なんとボバ・フェット要素まで持っていたとは。急に気に入ってしまった。

 もちろんキャプテン・ファズマが大好きなぼくとしては、彼女のリベンジが実現したのもとてもうれしい。憎きFN-2187への執念が伝わってくる。それはもう一筋縄ではいかない複雑な感情のはずだ。かつて自分が訓練した部下の脱走は彼女にとって大変な屈辱であろう。フィンを倒すことは自分の失敗の後始末をすることでもある。だからこそより一層執念深くなる。

 フィンの攻撃で片目のレンズが砕け、演じるグウェンドリン・クリスティーの左目が覗くシーン。食いしばった歯の隙間から押し出したかのような声で「やはりお前はクズだ」と言い放つ。悔しさと憎しみが溢れる。彼女は確かに悪党だけれど、冷酷で残虐な悪党だけれど、信じていた部下に裏切られ、対決するも破れてしまった悔しさや苛立ちに全く共鳴できないわけではない。常にそのクローム・ドームに顔を隠し、およそ人間のように見えなかった彼女が、最後に一瞬だけ片目を覗かせて人間らしい苛立ちを見せ、奈落へと落下し炎に包まれる。最高である。キャプテン・ファズマよ、永遠なれ。

 それにしてもレーザーを弾いてしまうあの装甲、かっこよすぎる。あの立ち姿が素晴らしい。前から好きだったキャラクターを、より好きになれるのはとても幸せなことだ。というか、レーザーでも傷ひとつつけられない装甲服、炎の中でも耐久性があるのではないだろうか。もちろんそれなりに火傷を負うことにはなりそうだけれど(むき出しになった左目はもうダメだろう)、それでも一命は取りとめられるのではないか。大火傷からの生還だなんて、ほとんどダース・ヴェイダーじゃないか。まさか、あのクローム・ボディに機械の呼吸音を加えて復活するのでは、などという妄想が捗る。
 あの最後はとてもかっこいいので、あれでもういいと思うけれど、もちろん復活したらそれはそれで大歓迎である。ぼくはわりとなんでも大歓迎なのだ。

 ファズマとは違うタイプで、やはり同じくらい魅力的なのがハックス将軍である。本作ではよりキャラクターに磨きがかかっていたのではないだろうか(ファズマもピカピカに磨かれてはいたが)。
 若くて実戦経験が浅く、それでいて冷酷さや大言壮語は人一倍というキャラクターだからこそのあの憎めなさ。まさに頂点でない悪役、ミドル・ヴィランの魅力である。冒頭から本当におもしろかったなあ。一体ポー・ダメロンの言っていた彼の母親の話とはなんなのだろうか。それをレイアが知っているというのはどういうことだろうか。
 本作でかなりの比率でユーモアを受け持っていたのように思えるけれど、しかし、彼はスター・キラーのレーザー砲で共和国の惑星をいくつも滅ぼした張本人である。いかに未熟で小物然としていても、その冷酷さや狡猾さは油断できない。というか、だからこそ恐ろしいところもある。
 今回、それまで対等なライバル関係だったカイロ・レンと、ようやく明確な上下が出来たわけだけれど、ハックスが隙あらば新しいリーダーを出しぬこうとしているのはその表情から見て取れる。実際にスノークの謁見室で倒れていたカイロ・レンに対し若き将軍は銃を抜こうとしていたのだ。彼はこのままカイロ・レンの言いなりになるのか、どこかで彼を陥れようとするのか。レイとカイロ・レンの関係だけでなく、カイロ・レンとハックスの関係もまた興味深いものがある。

 ハックスの部下たちもまたいい味出している。ドレッドノートの艦長キャナディのふてぶでしさなどとてもいい。投下された爆弾によってドレッドノートが破壊されていく中、ブリッジに炎が達するときの「ふん!」というよう表情がたまらない。短い登場シーンだけれど、常にふてくされたような表情は、どこか未熟で若いハックス坊ちゃんの指揮下にいるのが不満げに見える。キャナディの部下たちもなんだかいい表情のひとたちばかりなんだよなあ。特にスコープを覗いている薄めの顔をしたアジア系のひとがかっこいい。

 アジア系といえばペイジとローズのティコ姉妹である。なにを隠そう前述のキャナディ艦長とそのドレッドノートを沈めたのは捨て身で爆弾を投下されたペイジである。演じるのはベトナム人女優のゴー・タイン・バン(英名:ヴェロニカ・グゥ)。そうそう、爆撃機の内部のディティールもよかったな。『博士の異常な愛情』を思い出した。ヴェロニカ・グゥは表情がとても凛々しく、アジア系ならではのエキゾチックさがSWと合っている。そして、その顔つきと薄汚れたフライトスーツなどの装備との組み合わせが、妙に戦争感を増しているように見えるのは、ぼくが同じアジア人だからかもしれない。
 ペイジの妹ローズを演じるケリー・マリー・トランも同じくベトナム系。パンフレットによると両親はベトナム戦争時にアメリカに渡った過去を持つらしい。そのバックグラウンドが戦火に巻き込まれたローズと重なる。ローズのキャラクターも素晴らしい。とにかく顔がチャーミングである。姉役のヴェロニカ・グゥとは全然違う顔つきだけれど、ローズはケリー・マリー・トランだったからこそあそこまで魅力的で立ったキャラになったのではないかと思う。

 キャラクターと言えば、ヨーダのことも忘れられない。
 なんと、『帝国の逆襲』の懐かしのパペットの姿でヨーダの霊体が登場するのだ。ジェダイの書物を燃やそうとするルークの背後に、その特徴的な後頭部が映った際には声を上げそうになったほどだ。ルークを見守る霊体の後ろ姿が映るだけで終わりかと思いきや、ルークとの会話まで始まった。その昔ながらのヨーダの姿に泣いた。
 ヨーダはルークに対しジェダイの書物を焼き払うよう促し、躊躇するルークをよそに雷を落として全てを燃やしてしまう。ヨーダはうれしそうに笑う。
「カビ臭い書物のことなど忘れてしまえ!」
 ああ、このケタケタと笑うヨーダこそヨーダという感じがするなあ。険しい顔で戦うヨーダも悪くはないが、やはりこれがオリジンだ(時系列ではこちらがあとだけれど)。
 ヨーダはジェダイの書物などよりもレイが重要だと諭し、ついにこのジェダイ・マスターまでも古から続いてきた概念を捨てたのには驚いた。ヨーダもフォースとの旅の中で変わったということか。いや、もしかしたらこの霊体のヨーダは、ルークが自分の意識と対話しているにすぎないのかもしれない。いずれにせよふたりの対話は懐かしいものを感じさせ、ヨーダの優しげな眼差しはついつい見ていて顔がほころんでしまう。

 なんか、本当にフォースの力とは関係を持たない普通の人々が続々と登場してきて楽しい。その一方でヨーダがジェダイの呪縛を解いたりするのだからおもしろい。
 確かに今までの神話感とは変わる。しかし、こうして物語のスタンダードが崩され、作り変えられると思うとわくわくするものがある。今までにない雰囲気に戸惑うひともいるだろうけれど、予想の範疇で作られてもおもしろくないだろうと思う。
 これまでのSWの、なんとなくあったルールを壊し、誰も思ってもみなかった形に再構築していくからといって、決して今までの神話が否定されるわけではない。むしろ今までの作品があるからこそ、こうして新しいことができるのだ。そうして、新しいものが古いものを際立たせもする。
 いずれにせよぼくは、オリジナル三部作の呪縛から解き放たれ、真の新しさを持ち始めたSWを応援したい。物語は、神話はそうして更新され、続いていくのだと思う。


 どのキャラクターも愛おしい。それは人物だけではなく、動物——クリーチャーたちも同様である。レイが目撃したルークの自給自足生活の一部始終ではタラ=サイレンの乳しぼりのほかにも、ルークが長い銛でもって大きな魚を仕留めるくだりもある。ルークがチューバッカと同じディナーを作ったことがあるかどうかはわからないけれど、あの島ではそういう自然の恵み的なものがかなり描かれる。SWではあまり描かれなかったことだ。タトゥーインの露天でなにやら生き物の肉がぶらさがってたりしたこともあるけれど、直接的に狩りや採取といった、命を得るという描写はなかったと思う。そこが新鮮だった。それにしてもチューイ、あそこまで調理したならちゃんと食べなよ。

 SWにはとにかくクリーチャーが多く登場するし、中でも騎乗用に使役されているやつはたくさん出てくる。デューバック、バンサ、トーントーン、イオピー、カドゥ、ファンバ、ドラゴン・マウント……本当にたくさん登場する。しかし、それらの動物はほとんど道具か背景くらいにしか使われない。ましてやそれらが虐げられたり、酷使されたりしている描写はない。しかし、描かれていないだけで普通にあり得ることだ。そこで本作ではようやくヒューマノイドの都合で酷使される動物が登場した。

 食べて、使役する。ここまでは獲物や家畜との関係である。しかし、酷使されていたファジアーを主人公たちが助け出したところからその関係は変わる。ファジアーを助け出すと同時に、ファジアーに乗って逃げ延びるのだ。助け、助けられたのだ。
 そうしてクライマックス。ミネラルの惑星クレイトで窮地に陥ったレジスタンスの戦士たちは、クリスタルの体毛を持つヴァルプテックスの導きによって脱出路を見出す。ここでも動物に助けられたと言える。また、クレイトの戦いに駆けつけたミレニアム・ファルコンの船内にはポーグが何羽も住み着いており、巣まで作っていた。操縦するチューバッカはもうポーグに手は出さない(船を荒らされてかなり頭に来てたようだけれど)。特に巣を作っていたのは印象的だ。だって、それはもう生息域が広がっているということであって、チューイによってローストチキンにされていたシーンとは真逆の意味を持っているのだから。
 こうして物語を通して、ひとと動物の関係が変わっていく。一方的に動物から得ていただけだったのが、最後には共生という関係に発展していくのである。共生。非常にフォース的で、SWにおける、いや、世界における理想である。
 全体的に暗く、試練の多い物語だけれど、ときにユーモアやポップさがあり、ときにこういう希望の種のようなものが散りばめられているところが、この作品の愛おしいところである。
 大好きな『スター・ウォーズ』となった。

2017/11/06

『ブレードランナー2049』(2017)


 東京っぽいのは日本語の看板と自販機だけじゃないってこと。誰の目にも入るところに性的イメージが溢れかえっている様子はひとごとじゃあないのだ。
 それにしても、ディストピア作品に「今っぽさ」を感じるというのはなかなかどうして怖いものである。今現在にその兆しがあるということだから。

 自分の思い通りにカスタマイズできるホログラムの恋人について思うところはたくさんあるけれど、「思い通りにできる恋人」という、人間性を否定された、というよりそれが必要ないとされた存在でありながら、どこか人間に憧れ、人間的自由を夢見ているようなところは、レプリカントほど人間に近くないだけあって(というかより「作り物」として人間から遠い)切実というか悲痛さすら感じる。

 メインを張る女性キャラクターがふたりともある目的のために造られた女性であることを、演じたふたりはどう思ったのだろうかというのは、この前の会見で気になったことだ(あまりにもハリソン・フォード一辺倒でふたりの女優たちへの質問が少なすぎたので……)。衣装が露出の多いものばかりだったと漏らしたアナ・デ・アルマスのコメント(それさえハリソン絡みのくだりで少し触れただけのことだったが)には、役柄への心境も少しは含まれていたのではないかなあと、今になってなんとなく思うのだった。いやわからないけれど。

 造られた女性といえば、レイチェルである。あまり詳しくは書かないが、『ローグ・ワン』のレイア姫のような感じだと言えば十分だろう。ただ、あのレイア姫よりも再現度が高かったような気がする。ぞれはぼくが『新たなる希望』のキャリー・フィッシャーほどには、『ブレードランナー』のショーン・ヤングを見慣れていなかったせいかもしれないが。それにしてもふたりとも変な髪型だよねえ。
 
 『インディアナ・ジョーンズ』にしろ、『スター・ウォーズ』にしろ、『ブレードランナー』にしろ、結局はハリソン・フォードの演じた伝説的なキャラクターの子供がどうなったという話になってしまうのは、仕方のないことなのだろうか。
 ぼくはそんなに思い入れが強いわけではないし、正直言ってオリジナル作は何度見返しても途中で眠くなって全然頭に入ってこないくらいなのだが(やはりSWのようにPew-Pew!なサイファイが性に合っているのだろう)、『ブレードランナー』まで家族の話になっていくのはどうなのだろうなあとも思う。もちろん続編としてうまいこと繋ぎまとめていたと思うし、おもしろかったからいいのだけれど。じっくりじっくりといった雰囲気も小説のそれに近いような気がする。Kがデッカードの息子でないだけいいか。あのふたりの擬似親子的な関係も好きである。

 まあとにかく、真空管みたいなガラスドームの中でフランク・シナトラのホログラムが歌っているのがまさにレトロフューチャーといった感じで最高である。今現在ですら亡くなって久しいスターが、未来的な技術であるホログラムによって投影されているというギャップが素晴らしい(装置もちょうどいい具合にクラシカルな雰囲気がある)。この作品世界の20世紀後半の歴史は現実のそれとは違うので、もしかすると存命中にホログラム技術が確立されて撮影をした可能性はあるのだけれど、いずれにせよ昔のものが流行るという未来像はわくわくするものがある(劇中の時点でそれが廃れてしまっているというところもまた良い)。エルビス・プレスリーのホログラムが機材の老朽化でほとんど歌が聞き取れないくらい途切れ途切れで、姿が明滅するのも逆にかっこいい。あそこマイケル・ジャクソンも欲しかったな。そっちに持ってかれてしまいそうだけれど。