2019/07/31

「婦人公論」8/9号



「婦人公論」8/9号でのジェーン・スーさん連載挿絵。知らぬ間に出来ていた肌の染みからお母さんのことを思い出すお話。

2019/07/30

「SPUR」9月号



 「SPUR」9月号の映画レビュー連載では、ロバート・ゼメキス監督、スティーブ・カレル主演の『マーウェン』を紹介しています。

 集団暴行によって負傷し記憶の一部も失った男性が、G.Iジョーのフィギュアやバービー人形を使って庭に作った架空の世界を作り、そのフィギュア世界の写真が反響を読んだという実話、をもとに作られたお話で、男性をカレルが演じる。現実の実写パートと、主人公の妄想としてのフィギュア世界を描いたCGアニメーションパートの2つの世界によって構成されているのが特徴。フィギュア世界の主役はもちろん主人公をモデルにしたフィギュア(実際のカレルより若くてたくましい)で、彼とともに戦う美女フィギュアは、それぞれ現実パートでの女優たちに対応する。中でもロシア人という設定のグウェンドリン・クリスティーがとてもよく、フィギュアが欲しくなる。実際はG.Iジョーやバービーによって作られたと言われているが、映画の中では全く別の、リアルな作りのアクション・フィギュアとなっている。またG.Iジョーはハズブロ社、バービーはマテル社と、ライバル社の二大フィギュア(それぞれ男児向けと女児向けを代表している)なので、もし映画の関連グッズとしてフィギュアが出るなら、全然関係ない会社が全く別枠のシリーズで出すことになりそう。

2019/07/23

「買い物とわたし」中国語版






 週刊文春での連載時から挿絵を担当していた山内マリコさんのショッピング・エッセイ集「買い物とわたし 〜お伊勢丹より愛をこめて〜」の中国語簡体字版をいただきました。漢字とはいえ外国語と自分の絵が一緒になっているとやはり上がります。言葉だけでなく、装丁も独自バージョンで、本文中の挿絵を集めたコラージュになっています。単純に組み合わせたのではなく、丁寧に切り取った上でバランスよく合体させひとつの装画のように仕上がっているのがすごい。バラバラに描いていたものなのでこういう形になると新鮮で、イラストは使い方も大切だなと改めて思います。本文の方でもあちこちの挿絵から持ってきたちょっとした要素をワンポイントで使われたりしていて、自分が描いたものを違った角度から見られます。ましてや描いてからだいぶ時間が経ったものばかりなので、ほとんど初めて見るような感覚。オリジナル版の装画は折り込みページに入っています。

 全ては山内さんから文春での連載のためにイラストをオファーされたのが始まり。毎週お気に入りのものや新たに購入された物の写真をもらい、それを参考に描いていた。テキストで書かれているストーリーと、品物の絵をどういうふうにまとめあげるか考えるのは大変でもあったけれど、楽しさもあり、挿絵を描く基礎みたいなものが作られたと思う(今もまだ作っている最中だとは思うけれど)。それに多くの読者の方同様、山内さんの買うものについて知る楽しみもあった。

 アナログで毎週よく描いていたなあ。そして今回そのアナログ画が、まるでレイヤー分けされていたかのように綺麗に切り取られているのにも感激した。一切アナログで描かないというわけではないけれど、仕事はすっかりデジタルで描いている今、なかなか前のやり方は出来ないけれど、同じようになにか品物の絵を描くことはできるので、自分の持ち物や好きな物をもっといろいろ描いてみようかな。

2019/07/22

「山と渓谷」8月号




 「山と渓谷」8月号(山と渓谷社)にて、「南アルプス ユネスコエコパーク」のイラストマップを描いています。かなり情報が多いですが、なんとか見づらくならないようにまとめられたはず。マップの仕事も少しずつ入るようになったけれど、自分自身が方向音痴で地図を理解するのが難しいタイプなので、まだまだ毎回ひいひい言っている。地点同士の位置は微妙にずれてしまうし、あっちの道とこっちの道の長さ、交わり方なんかも描いているうちにずれてしまう。でも、基本的には対象を見ながら絵を描くということと変わらないので、少しずつできるようにはなっていると思う。そうして、実際に道を歩いているときにも感覚が鋭くなっていけばいいけど。

「SALUS」8月号




 東急沿線フリーマガジン「SALUS」(東急電鉄)8月号で、オリーブオイル特集ページにイラストを描いています。少し緑の具合を変えていろいろなオリーブオイルのボトル描くのがおもしろかった。夏のパスタ料理の紹介ページも楽しい。

 主要なカットのほかにも余白に小さなものをあちこち描き込んでいて、やり方としては事前に送ってもらった誌面のレイアウトデータに、そのまま下書きを描き込むことで位置や大きさの具合を調整できる(もちろん別レイヤー)。一点ずつバラバラに描くこともできるけれど大きさや縦横の比率を決めたり、ほかのカットと線の具合に統一感を出したりするのが少し面倒。なので、ひとつの画面の中でいっぺんに描いてしまう。下書きにオーケーをもらったら、そのまま新しいレイヤーをかぶせて清書の線でいわゆるペン入れをし、色をつける。各要素は別レイヤー、別グループにして、先方が多少動かせるようにしておく。作業ベースになる誌面レイアウトのデータは必ず原寸サイズであること。そんな感じでやっている。

月面着陸50周年


  7月20日はアポロ11号の月面着陸の日だった。7月20日なんて今までは旧海の日か、夏休みが始まる時期くらいとしか覚えていなかったけれど、50周年ということで去年あたりから話題だったので、初めて月面着陸の日として意識した。10年前はそこまで話題になっていなかったような気がするけれど、そこはやはり今年は半世紀という節目だからかな。10年前と言えばぼくは初めて「エヴァンゲリオン」を観て、そのエンディング・テーマである「Fly Me to the Moon」を気に入った頃だったので、そこからアポロ計画へ関心が向かってもよさそうだったけれど(同年に出たビデオ・ゲーム「ベヨネッタ」でもこの曲がテーマソングで、こちらのアレンジも好きだった)、ぼくが現実の宇宙開発にあまり関心がなかったというのもある。今更という感じだけれど、最近は俄然興味が出てきた。こういうものに遅いということはないだろう。新しい発見についての話も楽しいし、スペース・レース時代も当然おもしろい。昔の宇宙開発のディテールは、そのまま当時のSF観に繋がっている感じがまたいい。ロケットや金魚鉢型のヘルメット、レトロ・フューチャーである。宇宙船ではなくロケットというのがいい。

 上の絵をTumblrにアップしたところ、ひとつコメントが来ていた。そのひとは子どもだった当時、月面着陸の様子を流すテレビの前で月面地図を広げ、アームストロングやオルドリンが降り立った地点を鉛筆で書き込んだりして彼らの動きを必死に追いかけていたという。その紙の上に、そのひとは一体どんな世界を見ただろうか。月から送られてきたあの有名な映像と同じ灰色の世界か、あるいはどこかに怪物がひそんでいそうなミステリアスな黄金の砂漠か。現在の月と地球との通信速度は、詳しいことはわからないので置いておくとして(昔より速いに決まっているが)、少なくとも地球上では場所を越えた同時性というのは行くところまで行っており、どこにいようとなんでもすぐに伝わってくる。そのせいで実際に見てもいないことを体験したかのような錯覚さえ覚えてしまうこともあるのだが、とにかくあらゆる情報が素早く送られてくる。一方、さっきのコメントをしてくれたそのひとは50年前、テレビの前で地図を広げて鉛筆で印をつけることで月との同時性をつかもうとした。地図と鉛筆、それからおそらくは想像力。そのひとは当時のことを今でも鮮明に覚えているらしいが、テレビの前で地図を広げ、ブラウン管と紙との間で両眼をせわしなく行き来させる子どもの姿が、ぼくの目の前にも思い浮かぶようだ。あれくらいの年代のアメリカを舞台にした映画でよく見るような居間の風景。ごついテレビが床からほんの少しの高さのところにあって、子どもたちはうつ伏せになるやら、あぐらをかくやらしてその前に集まり、大人たちはそれを一歩後ろから、ソファか、あるいは食事を載せるためのボードがついた椅子(家族全員がテレビに向いて食事をするという発想がまずすごい)に着いて、子どもたちほど手放しではないにせよ、やはりある程度興奮しながら見ている。情報はのろく限られている。映像もお世辞には綺麗とは言えない。でも、その子には地図と鉛筆があれば十分だった。本当にそれだけで満足だったかはわからないが、満ち足りた時間だったはずだ。

 それから半世紀後、そのひとはインターネット(これもまたソ連との宇宙競争から生じた産物のひとつである)で見ず知らずの日本人が描いた月面着陸のイラストを見る。そいつは人類が初めて月面を歩く瞬間を見た世界人口20パーセントにも入っていないし、アメリカ人でもなければ、1969年に生きてさえいない。一切同時性から外れている、にも関わらずそいつは「偉大なる一歩」の様子を知っており、絵に描ける程度には視覚イメージを持っている。これから50年後にもまた、同じように当時となんの繋がりも持たない人間が同じことをするし、できるはずだ。記録がそれを可能にする。そこに生の記憶や体験はないかもしれないが、それを追おうとすることはできる。月で起きていることと自分を同期するために、地図に鉛筆で印を書き込んだ行為がそうだし、自分が知ることのなかった半世紀前のことを、写真と想像で絵にする行為も同じことだと思う。少なくともその行為自体は生の体験となる。月に行っていない、テレビの前で地図を広げていただけの子どもの体験を、ぼくはものすごくかけがえのないものだと感じたのだから。そうして、60歳くらいになったそのひとはぼくの絵を見て、そのときのことを書いてくれた。この事実だけでぼくには十分である。ぼくにも月面着陸にまつわる思い出がひとつ出来たわけだ。

2019/07/18

ボー・ピープはいつか


 陶器の身体でありながら外の世界に飛び出した彼女が、いつか絶対に確実に必ず割れるだろうということは明白だ。すでに両腕がテープで補修されていることから、その危険とは常に隣合わせであることは明らかで、次も助かるという保証はない。それを踏まえると、彼女が自ら外に出ることを選んだという意味の大きさになにも思わないわけにはいかない。ほかのどのおもちゃたちよりも壊れやすいからこそ、彼女の外の世界への憧れは一層強かったのだろう。少なくとも好き勝手に外で活動できて、多少危ない目に合ってもへっちゃらなウッディやバズとは違う(ウッディなんて所詮身体がぬいぐるみなので、どこかにぶつかってもまず壊れない)。大きなリスクは願望をより強くし、彼女を安全なランプの台座から、危険だが本物の人生へと駆り立て、ほかのどのおもちゃよりもタフにした。弱さをバネに強さを得たのだ。

 ウッディがボーに惹かれたのは、もちろんもともと恋仲だったというのもあるだろうけれど、そんな彼女が外で生きているという事実そのものに、強い衝撃を受けたのではないかと、ぼくなどは思う。テープでとめられているだけで、すでにぽきりと割れてしまっている彼女の腕を目の当たりにした彼は、彼女が常に危険を伴った生き方をしていることを知る。自分がそばで助けなければと思ったか?いやいや、今更彼女には助けなど必要あるまい。多少冒険したことはあっても、所詮ウッディは子供部屋暮らししか知らないし、今までそれがおもちゃにとっての幸福だと信じてきた。外の世界では新参者だ。そうではなく、彼は彼女がいつかなにかの拍子にパリーンといってしまったときに、そばで見届けなければいけないと感じたのではないだろうか。もちろんぼくの妄想だし、場合によってはウッディには陶器の恋人を助けることができる。しかし、繰り返すようだが、いつかは取り返しのつかないことになるかもしれない。そのときに誰もそばにいなければ、ボーはただのゴミとして最期を迎えることになる。

 ゴミ。幼児の工作から生み出されたフォーキーは自分をゴミだと思い込んでいたが、物語を通じておもちゃとしての自覚、あるいは人格を得る。ゴミ同然の素材で作られたおもちゃと、持ち主不在で外で生きるおもちゃは、どちらも一歩間違えればゴミになってしまうという危うさを抱えている。道端に落ちている小さなぬいぐるみのキーホルダーを見かけたことはないだろうか?ぼくはよく見かける。俯いて歩いているから落ちているものをよく目にするのだ。しっかりした既製品で、置いてある場所が少しでも違うなら、ちゃんとおもちゃに見えるだろう。しかし、道端に落ちているというだけで、そいつはゴミ同然の状態になる。ボー・ピープたちはその道を選んだのだ。自由の代償として、おもちゃとゴミの中間的な危うい存在になった。そしてボーは、屋外で暮らす陶器の人形という、割れ物のゴミとして一番わかりやすい。フォーキーとボーはそういうふうに対比できる。

 ボーが本当に割れ物になってしまうのは本編が終わった直後かもしれないし、また20年くらい先かもしれない。いずれにしてもいつかその日はやってくる。とにかくウッディよりも先に彼女が壊れてしまう可能性のほうが高い。一体ふたりはどんな冒険を繰り広げていくのだろう。エンドクレジット中にあったおまけとして、テキ屋の景品のおもちゃをどんどん子どものもとへ送り出していくなんてのは序の口、まだまだいろいろなことがふたりを待ち構えているに違いない。

 ボーとウッディそれぞれ性別から、抑圧と束縛を知っていたからこそ自由を手にできた女性が、不自由を感じていなかったからこそかえって従来の価値観の中で苦悩するに至った男性に手を差し伸べ、ふたりで未来を切り拓く、といった構図を見ることもできる。よく出来た物語だと思う。そうして、その寓意にとらわれることのない普遍性も兼ね備えている。もっと広い意味で、『トイ・ストーリー4』はひとが自分自身の人生を歩む物語であって、そのタイトルに反して人間の物語なのだと思う。

2019/07/12

『トイ・ストーリー4』(2019)


 書き終えてみてかなり、というか完全に踏み込んで書いてしまったことに気付いたので、鑑賞後にお読みください。読んでいるひとがいればの話だけれど。

 もはや「トイズ・ライフ」と呼んだほうがいいくらいだった。シリーズを振り返ってみても、おもちゃの物語から、おもちゃの人生の物語へと展開していったように思う。そうして『トイ・ストーリー4』はウッディ自身の物語にも決着をつけた。残念ながらウッディやボー・ピープ、新しいおもちゃたち以外のお馴染みの仲間たちは、バズ・ライトイヤーも含めて完全に脇役で、ほとんど見せ場らしいものはないのだけれど、それを犠牲にしてでもウッディとボー・ピープの「生き方」に焦点を当てたことに価値と意義があったと思う。

 今回のお気に入りは、ウッディたちの敵役でもあるおままごと人形のギャビー・ギャビー。黄色いワンピースに黄色いリボン、黄色い靴が洒落たヴィンテージの人形だ。メイン機能である発声器が不良品なので背中の紐をひっぱってもしゃべることができず(人間が遊ぶ上でしゃべれないだけで、自由意志でしゃべることはできる)、おままごと人形の本領を発揮できずにアンティーク店の中で長いことくすぶっている。いつか店主の孫の女の子に遊んでもらう日を夢見て、ひとりで取り扱い説明書を見ながらお茶会の練習などをするなど健気さを見せるが、年代が近く発声器の作りも同じであるウッディと出会い、彼の発声器を奪おうと企む。全ては子どもに遊んでもらうため……。声を演じるのはドラマ「マッドメン」でお馴染みクリスティーナ・ヘンドリックス。ギャビー・ギャビー自体60年代製ということで「マッドメン」時代のもの。同じくヴィンテージの腹話術人形ベンソンたち(何体もいる) を従えているのだが、ベンソンの見た目も手伝ってなんとなくマッドメンたちを従えているようにも見える。こいつらがウッディを追いかけるシーンはとても怖い。不気味なおもちゃが登場するのも『トイ・ストーリー』の魅力。

 フォーキーも忘れられない。ウッディたちの新しい持ち主である女の子ボニーが、幼稚園の1日体験で作った工作人形。先割れスプーンとモールで出来た、まさに幼稚園の工作といった感じの見た目で、その成り立ちのせいか目覚めた瞬間から自分のことをゴミだと思い込んでいる。ちょっと目を離すと自分からゴミ箱に飛び込むので、今のボニーにはフォーキーがなによりも大切だとわかっているウッディは、彼がゴミ箱に入らないよう寝ずに見張るほど。このゴミとおもちゃの線引きの微妙さや危うさは、子どもの頃はもちろん今でも工作が好きなぼくもよく考えることだ。自分で作ったものには愛着がある。しかしそれは既製品ではなく、非常に脆い。一歩間違えると、ぼくの気分次第でゴミ同然となる。ボール紙で作ったボバ・フェットのヘルメットにしても、なにかの拍子にぼくの目にはゴミとして映ってしまうかもしれない。作ったものにはそういう危うさがあると思う。描いた絵にしてもそうだ。

 しかし、それは自作のものに限らない。前作の悪役、クマのぬいぐるみロッツォは、用済みになったおもちゃはゴミ同然だと豪語し、ウッディたちは焼却炉を目前に死さえ覚悟した。もう要らない、となってしまえば、どんなに出来がよく、値の張ったものでも、ゴミとなってしまう。いたずらな断捨離の犠牲になったものを思い出すといい。ついさっきまで必要に感じられ、価値のあったものが、ちょっとしたことでゴミ袋行き。全ては人間の気分、意識、見方次第である。こんなに気まぐれで恐ろしいものはないだろう。そこまでいくと、おもちゃの役割どころの話ではなく、物の価値とはという話になってくる。『トイ・ストーリー』シリーズはそこまで行ってしまったのだと思う。特に今作はほとんど付喪神的なものさえ連想する。遊ばれることなく長年放置されたギャビー・ギャビーの怨念じみた強迫観念もそうなら、子どもに遊ばれる以外の道を自分自身で選び取ったタフなボー・ピープもそう。少なくともぼくはもうおもちゃを処分できそうにない。おもちゃ以外の物さえも捨てるのが恐ろしい。もちろん、そういうわけにはいかないので、だからこそ手にするものを厳選するべきなのだろうと思う。

 そんなふうに、ときに大切にしてくれ、ときに身勝手な人間だが、それは必ずしもおもちゃが生きていくのに不可欠というわけではない。その可能性を、ウッディは再会したボー・ピープから教えられる。この陶器の羊飼い人形は、かつて3作目よりも以前、2作目よりも後の時点でバザーに出されるためにウッディたちの前から立ち去らなければならなかったのだが、その後も人間の都合で転々とし、最終的に彼女は自分が自分の持ち主になることを選ぶ。新しい持ち主のボニーがまともに遊んでくれなくなり、アンディとの楽しかった日々を思い出してばかりのウッディに、ボーはそれ以外の生き方を提示するのだった。

 ウッディが仲間のおもちゃたちとはぐれて冒険を繰り広げるというのは、一作目からのお約束の展開ではあるのだけれど、今回はそこに単なる話運び以上の大きな意味があり、とうとうウッディは自分の居場所を自分自身で決める。冒険を終え、バズやジェシー、ポテトヘッドやレックスたちと再会したウッディは、ボーに再び別れを告げ、仲間たちのもとに戻ろうとする。フォーキーとともにボニーのもとに戻り、また楽しい日々が始まるだろう。自分にそこまで出番はないかもしれないが、フォーキーを支え、ボニーの幸せを見守らなければならない。しかし、ウッディは立ち止まる。立ち止まって振り返る。振り返るとボーと目が合う。ボーが、はっと息を呑み、胸を高鳴らせるのが画面から伝わる。これが本当に陶器の人形だろうか、というほどの人間的な表情。大きく見開かれた目に紅潮した頰。ボーは本当にウッディのことが好きだったんだ、と心から思える。ウッディは最後の一瞬で、選ぶ。

 おもちゃを大事にしましょう、物を大切にしましょうというところに留まらず、迷える者が自分の人生を切り拓く様さえも描いて見せた『トイ・ストーリー4』は、まさにバグズ・ライフならぬトイズ・ライフだった。

2019/07/07

「TRANSIT」44号




 「TRANSIT」44号(講談社)の砂漠特集に挿絵を描いています。砂漠に住む人々が水や食料にどう向き合って対処しているかという内容。スイカを食べたり、ラクダからミルクを得たり、デーツを育てたり。なんとなく砂漠の背景に現地の人を描くと、エルジェっぽくていい。

 「砂漠の惑星」という響きがいい。砂漠そのものについての解説や、砂漠を旅する際のハンドブックも入っているので、実際に旅行する際はもちろん、「デューン/砂の惑星」のような物語、あるいは惑星タトゥーインを舞台にしたSWの二次創作を作るときにも役立ちそう。

2019/07/06

セサミがまだまだ教えてくれること


 娘は「セサミ・ストリート」に夢中である。YouTubeの公式チャンネルを延々と流しているわけだけれど、最近のものから昔のものまで結構ランダムに見られるので、時折ぼくが子どもの頃観た記憶のあるものとかもあって、なかなかいい。そういえばNHKでやっていた頃はよく観ていたし、原風景の一部と言える。ちょうど今年で50周年なのだが、たくさん新しいキャラクターが登場しているとはいえ、基本的なやつらはずっといて、娘が観ているキャラクターをぼくもよく知っているし、なんならぼくの母も知っているというのは改めて思うとすごいことだ。

 たくさんの歌が流れる中でわかったのは、とにかくそこには子どもたちに自分を好きでいてほしいというメッセージがあること。自分の髪や肌の色に誇りを持とうといったものはもちろんだが、さらに印象的だったのは自分の名前を好きでいようというものだ。僕の、私の名前はこれこれで、全然変えようとは思わない、といった歌。なるほど、いろいろなルーツを持った人々が暮らす国では、外見の特徴だけではなく名前もまたいろいろなタイプがある。そうでなくとも、周囲になかなかいない珍しい名前の人間はいるもので、ぼくもそうだ。もちろんぼくは自分の名前が好きだ。印象が強くて覚えてもらえるし(たまに水原とか端丸とか書かれることもあるが、そんなのは放っておこう)、教室に同じ名前のやつはまずいないからよそよそしく苗字で呼ばれたり、混乱を招くこともない。なによりペンネームを考える手間がかからなかった。だから、大前提として自分の名前は好きなのだが、それでもどこかで気後れみたいなものはある。両親に対して恥ずかしい限りだけれど、今でも名乗りづらくなることがある。電話口なんかは特にそうだ。電話の相手が一回でこの名前を聞き取ることが少ないからかもしれないが、理由はそれだけだろうか。病院の待合室でフルネームを呼ばれるときの気持ちはなんだろうか。あんまり聞かれたくないとか、どこかで思っているのかもしれない。ただの自意識過剰かもしれないが、子どもの頃に一切名前のことをとやかく言われたことがないと言えば嘘になる。今なら物珍しさからだとわかるが、そのときは悔しくて嫌だったものだ。とは言え、それでこんな名前は嫌だなあなんて思ったことはなくて、ますます自分で好きでいなければと思ったものだった。セサミの歌はそのあたりを改めて確信させてくれる。ぼくはもっとはっきりとした声で名乗るべきだ。

 思うに、セサミが励ますのはアメリカの子ども、移民の子どもだけではないのだと思う。アルファベットはこれでもかと刷り込んでくるが、アメリカで暮らしてもいなければ、子どもですらないぼくがこうして励まされている。髪質や肌の色だって、人種問わず悩んでいるひとがいるだろう。ぼくだって癖っ毛で浅黒い方だ。もちろん、ぼくなんか呑気なほうで、本当にそのことで苦しめられている人々と比べることなんてできないけれど、誰もが自分の外見や特徴について考えるはずだ。だから、マペットたちが歌う内容には広い普遍性があるのだと思う。それは場所や時代をも越える。いつの時代もそのメッセージが響くのはいつまで経っても解消されないものがあるからだという見方もできるだろうけれど、だからこそセサミがそれを発し続けていることには価値がある。子どもの頃観ているときはこんなこと考えもしなかった。ただ単に楽しい人形劇、吸血鬼みたいなやつが数字を数えては大喜びしているのがおもしろかった。もちろんそれも魅力だが、自分に子どもが生まれて、これから先なにをどう教えていいかわからなくて不安という身になってみて、セサミが教えてくれることはどんどん増えるようだ。

2019/07/02

あらかじめ設定する必要はない

 そう、映画感想の描き方を模索中である。しばらく安定しないと思う。いや、永久に安定しないかもしれない。仕事でイラストと書き文字による記事を作っていると、どうしても個人的にそういう凝ったものを作る余力がない。観た映画も読んだ本もしっかり感想をまとめないとなあと思っているうちにどんどん摂取した作品が積まれていく。積ん読はしていないが積み感想をしてしまっている。別に仕事ではないし誰かに言われているわけでもないのだが、どこか自分が続けるべきもののようにとらえているので、しばらくなにも書いていないと常にさぼっているという気分になって落ち着かない。かといってどの映画についても同じテンションで描けるわけではないし、無理に描いても楽しくない。仕事じゃないのに楽しくないというのは、もはややる意味がない。もっと気軽に手軽に描ける形式にシフトしたほうが、たくさん描けるのではないか。不安や不満があるのはとにかく描けていないからなので、とりあえず描ける形で描けばいい。簡単なものが基本としてあれば、普通のテンションのものは簡単に描き、ちょっと熱の入るものについてはちょっと手を加えて描くという形にできる。変にシリーズ見出しをつけるとラインが固定されてしまってやはりだんだん続けづらくなるので、それも取っ払う。シリーズ見出しについては、最初の頃はあって、途中から去年まで無くしていたのだが、今年に入ってからはまた入れるようにしていた。途中で無くしたのは、見出しが入るという前提が全体のスペースを窮屈にしているように感じたこと、分類してしまうと融通がきかなくなるといった理由からだったが、今年に入ってまたカチンコ型のマークを入れるようにしたのは、逆になにも形式や縛りがないとレイアウトがつけづらいと思ったから。必ず右上にマークが入ることで、全体の配置もある程度つけやすくなる。ほどほどに制限があったほうが、ぼくの場合はやりやすいのではないかと思う。しかし、結局はそういう決まった形式は自然と身構えてしまうものだし(原稿用紙に作文を書く際に、タイトルを書いて氏名を書いてから、一行空けてから本文を書き出すよりは、なにも前置きなしに書き出したほうが気楽で、かえってすらすらいけるみたいな感じと言おうか)、手軽ではなくなり、重荷になってしまうという結論に至った。

 いや、形式がある上に凝ろうとするせいだろうか?枠があっても中身は手軽な感じだったら続けられたのだろうか。むしろ規格化された形式が中身の手軽さをある程度締める、みたいなことにもなっただろうか。傍目には好きにしろという感じだろうが、ぼくにとっては重要なことだ。いや、本当にそうだろうか?重要だと思い込んでいるだけで、本当に好きにしたら、もしかしたらふっきれるのだろうか。しかし、好きにしようと思った結果がこういう悩みに繋がっているようにも感じる。ほどよく制限がないと、ぼくは自由を前に途方もない気持ちになったりする。どこからどう手をつけていいかわからなくなる。しかしこれを克服するためにも、一度抵抗を感じながらも思い切って通してみたら、その先に行けるのだろうか。そもそも作るものをそこまで整然とさせる必要はない。いっそなにがしたいのかよくわからないくらいの、ぐちゃぐちゃ感があったほうが楽しい。そのほうがアイデアや思考が湧き出ている感じがする。勢いがある。綺麗に見せようとしすぎたのかもなあ。絵は綺麗にしたいが、その並びなど、一貫性とか、連続性とか、そういうものは全然綺麗じゃなくていいのだろうな。それを意識しなくなったらもう少し変わるかもしれない。並びってなんのことかと言えば、ウェブサイトのギャラリーで一望したときの体裁のことなのだが、そういうアーカイブ感を意識しながら作るのがもう間違っている。自分がどういう世界を作っているのか、作れているのかを確認しているつもりだったけれど、そんなの普通に昨日描いたものが今日の自分を縛り付けてしまっている原因だよな。少しは意識していいのかもしれないが、とりあえずサイトに並んだサムネイルの体裁とか、そんなこと考えるのはやめよう(そんなこと考えていたのかと思われそうだが)。体裁だなんて、もっとも取るに足らんものだろう。適当にやっていけば、自然とスタイルは身に付くのだから、あらかじめなにか設定する必要は本当にないのだろうな。自分が毎回違う形で描いているつもりでも、結局全部自分が描いたものとして一貫したものはあるだろうし。たくさん描いたあとでまとめればいいわけであって、ひとつひとつを描いている段階からまとめようとしなくていいのだ。

2019/07/01

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)


 2014年の『GODZILLA ゴジラ』の続編であり、『キングコング: 髑髏島の巨神』を含めた「モンスターバース」シリーズとしては3作目。サンフランシスコの戦いの後、ゴジラが姿を消してから5年。世界各地で怪獣を研究する秘密機関モナークだったが、テロリストの襲撃により南極で管理していた氷塊が崩壊、そこに眠っていたモンスター・ゼロことキングギドラが覚醒する。それを待ち受けていたかのように姿を現わすゴジラ。かつて太古の地球で王座を争ったゴジラとギドラの宿命の対決に呼応するように、モスラやラドンをはじめ世界中で怪獣たち(タイタン)が目覚め、まさに怪獣大戦争の様相を呈す……。

 着ぐるみでないデジタルで描かれた怪獣たちは、作り物としての怪獣というよりは生き物というニュアンスが強い。なので、なんとなく「大きな動物」を見ているような気分だった。前作もそうだったけれど、ゴジラの妙に人間臭い表情がおもしろいし、今回はギドラの3つの頭がちょっとしたトリオ漫才みたいなやりとりをするのがよかった。真ん中がリーダー格(長男?)なのだろうとは思っていたが、それぞれに性格が出ているのも、細かい描写ができるからこそ。もちろんそれゆえに恐ろしさや残忍さみたいなものもよく出ていた。残忍さと言えば、大好きなサリー・ホーキンス扮するグレアム博士が、ギドラに食べられてしまうのはショックすぎた。ゴジラを応援する気持ちに熱が入るというものだ。

 怪獣としてはモスラが一番のお気に入り。日本のオリジナル版を子どもの頃観たときは、ゴジラ以上にインパクトが強く(色のせいだろうか)、東京タワーに繭を張るシーンも絵としてパワーを感じた。例の歌を歌うとモスラが来てしまうので、以後親が脅しで歌うのを怖がった。その歌も今回はかっこよくアレンジされて壮大なテーマとして流れる。テーマと言えば伊福部昭によるゴジラのテーマも真正面からしっかり使われていて胸が高鳴った。多少のアレンジはあるが、それもハリウッド式の盛り上がりがあってよかった。どれだけギドラがパワフルであろうと、この曲をバックにゴジラが大地を踏んで雄叫びを上げれば、誰が本当の王かは一目瞭然である。

 人間たちが皆どこかぶっ壊れているのも、よかった。怪獣プロレスのインパクトが強すぎて人間たちの行動や物語は荒唐無稽に見える?いやいや、そもそもあの世界はぶっ壊れているのでそれでいいのだ。怪獣の存在を平気で受け入れ、畏敬の念を込めてタイタンとか呼んじゃったりして、次から次へと降りかかる災難に対処して適応していく神経の図太さ。あれくらい狂った世界では全くおかしくない。むしろぶっ壊れていなきゃおかしい。そもそもそのぶっ壊れたひとたちのキャラがまたいい。芹沢博士とマディソンちゃん、あなたたち本当に怪獣が好きですね。「全ての生き物に敬意を払っている」という芹沢のセリフもよかったな。やっぱり怪獣は生き物なんだ。

 ところで、次回はついにゴジラとコングの対決が予定されているわけだけれど、宇宙から来た雷を吐くドラゴンでさえ敵わなかったゴジラ。体内に原子炉があって、熱核反応さえ起こしてしまうモンスター・キングに、一見大きいだけのゴリラがどう挑むのだろうか。それだけで気になってしまう。コングも40年間でなにか特殊な変貌を遂げているのだろうか。電気を帯びてパワーアップとか?しかし、バカにはできない。コングはただのコングではないのだ。彼もまた王、キングコングなのである。