2019/09/29

『ジョン・ウィック』(2014)


 ロシアン・マフィアの若頭が車欲しさに男の家を襲撃する。手下とともに男を袋叩きに、うるさい飼い犬は始末して、まんまと69年式のマスタングBOSS429を自分のものにするが、持ち帰った車を一目見た途端組織の古株が血相を変え、ボスである父親さえも激怒する。車の持ち主の名はジョン・ウィック。かつて組織のために働いていたこともある伝説の殺し屋で、車と犬は妻を亡くしたばかりの失意の彼にとってかけがえのない存在だったのだ。最強の男ジョン・ウィックを怒らせてしまったことに戦慄するマフィアのボス。しかし自分の息子がやらかしてしまったことだ、もうやるしかない。というわけで、マフィア対ひとりの戦争が始まるのだった。

 犬は愛らしいし、車はかっこいいけれど、それだけではない。どちらもジョンにとって亡くしたばかりの妻の存在に通じる大切なものだった。犬は死期を悟った妻がこっそり手配していた新しい家族であり、車には裏社会からの引退を決意させるほど愛した妻との思い出が詰まっていた。妻を亡くし、彼女が遺したものさえも奪われてしまったジョンにとって、裏社会への帰還と復讐は自分自身を取り戻すための唯一の道だったのだ。

 キアヌ・リーブスの不吉な佇まいとスマートなアクションがいいのと、やっぱり漫画みたいな設定が魅力。殺し屋ばかりが集う高級ホテル、裏社会だけで流通する独自貨幣、独自のルール、あからさまな隠語……。それらをひたすら高級に、重厚に、格調高く描くので、文句なしにかっこいい。中学生の頃観たらより夢中になったことだろう。まあ当時も『コンスタンティン』に夢中だったので似たようなものだが。裏社会の世界観も天国地獄といった異界と置き換えられそうだ。どちらも不吉な顔つきのスウェーデン人が君臨しているし。ちなみに『コンスタンティン』のサタン、ピーター・ストーメアは二作目に登場するがその話はまた今度。

2019/09/24

久しぶりのインク



久しぶりにインクで線画を描いてみた。色はいつも通りデジタル彩色。ほとんど似たような感じで描けるということもあって線画含めフォトショップでしばらく描いていたけれど、やっぱりどうも画面の中だけで作業が完結するのは疲れるところもあり、紙に触れる習慣は絶やさないほうがいい。うまく扱えずに諦めかけていたGペンも、久しぶりに触ってみて、全然イラスト向きじゃない万年筆用の薄いインクをつけて描いてみたら、これがなかなかスラスラ描けるではないか。どうも以前使っていたインクは濃度が高かったらしい。さらさらした軽めのインクだとうまくいくらしいのと、ペンの運びを立体的に意識するとうまくいくヨーダ。紙の表面になにかを彫りつけるような感覚、普通のペンではなく彫刻刀を扱うような気でいるといい。そういった立体的、物理的な感触は、不思議と手に心地よかったりもする。それにデジタル作業にはない緊張感もかえって集中を誘う。キータッチで元に戻せないのは不便で不安でもあるが、逆に偶発的な線を見つけることもでき、一見思ったように引けなかった線にもだんだん価値が出てきたりする。もちろんかと言ってデジタルで描くという行為の地位は低くなったりはしない。それぞれ一長一短である。絵を描くという行為自体に差はない。道具の違いだけである。というのを何度説明してもわかってくれないひともいる。なんにせよ、肉筆で描く習慣はデジタル作業の方にもいい影響を与えるだろうし、逆もあると思う。

「TRANSIT」第45号




 ロンドン特集の「TRANSIT」第45号、「ジェントリフィケーションと変化するロンドンの街」ページにイラスト描いています。ロンドンのジェントリフィケーションを促進させている人々について。これでイラストで関わった「TRANSIT」は4冊目となりますが、今回も読み応えのある内容。旅行もしたくなります。イギリス関連でもちろん王室の解説もあり、日本の皇室も含めた「世界の王室大全」もおもしろいです。イギリス的なアイテムの絵も、自分でもう少し描こう。

 どうも旅行に対しても一歩踏み出しづらい性分だけれど、これからはもう少し挑戦してみたい。ロンドンも特に関心の強いところなので行ってみたい。専門学校時代、研修旅行でヨーロッパに行っていた一団が羨ましかったものだ。いずれ自分で行こうと思っていた。でも、どこかに行ってみたいと思っていると、大抵なんの目的で行きたいの?とか言われて出鼻をくじかれることも多い。そんなことで出鼻をくじかれるぼくも弱すぎると思うけれど、しかし、なんの目的かって言われたら、言葉に詰まってしまう。特にないけどなんとなく行きたい、みたいなことを返せば、そんなノリで行ったって意味ないよみたいなことを言われもし、鼻どころか心が折れてしまいがちだった。でも、今にして思えば目的なんてなくていいに決まっている。むしろ目的のない旅行に行きたい。特別見たくてしょうがないものがなくても、行ってみないことには始まらないと思う。

「エドウィン・マルハウス」を読み返す

 この夏はまたスティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」を読み返していた。読み進めていないものも結構あるのだが、これもたまに読み返したくなるので。特に子どもたちがトレーシングペーパーで漫画本を写したり落書きをしたり、エドウィンが漫画や文章を書いたりという描写が好きで、なんとなく自分の創作意欲も刺激されるような気がして読み返したくなる。なによりこの本はボリュームがあるのでなにかひたすら読みたいというときにもいい。最初に読んだときの感想はここでもイラスト入りで載せたけれど、何回か読んだあとだとまた印象も違う。最初はエドウィンが精神的に参ってしまう過程や、ジェフリーがだんだん親友の伝記を書くことに取り憑かれていく様子がおもしろかったが、今回前よりおもしろく感じたのは、ジェフリーがエドウィンに対してこいつ本当はバカなんじゃないかと薄々感づき始めるところ。というかこういう印象は最初に読んだときにはなかったのだが、全体像がわかると細部からそういうのが感じられる。ジェフリーがそれらしく大げさに脚色しているとは言え、やっぱりエドウィン自身にもなにか非凡なものがあるのではないかという期待が、最初に読んだときにはあったのだが、読めば読むほどエドウィンは平凡で、書かれている短い人生は誰の子ども時代とも通じるありふれたものである。

 そもそも本当にエドウィンが天才肌だったらその子ども世界にはこんなに移入できないだろう。ジェフリーが伝記作家らしく脚色している部分を丁寧にはがしたり、あるいは隙間から少しずつ漏れ出てくるエドウィンのフツーさを拾っていくのが、このお話のおもしろいところである。それで、ジェフリーはエドウィンが本当はおバカなんじゃないかと気づきそうになるのだが、そのたびにいやいやまさか、エドウィン・マルハウスは天才だぞと自分に言い聞かせるかのように観察を軌道修正するのも可笑しい。エドウィンのおバカな行為にはなにか意味があるに違いない、と。本当の天才はこの伝記を書いたジェフリー君の方でした、みたいな見方は簡単なのだが、ジェフリーはどちらかというと狂人のレベルである。ジェフリーは天才に憧れるからこそ、ほかの誰かを天才に仕立て上げてその伝記を書き、天才に対して即席の優越感に浸るのだ。
 
 あと、どうもエドウィンの母、マルハウス夫人への観察がやけに細かい気がする。エドウィンの伝記を書いているのでその家族もよく見ているのはわかるのだが、どうも妹のカレンとか父親のマルハウス教授なんかに比べてマルハウス夫人の描写が細かい。登場するたびに今日はどんな髪型でどんなエプロンかとか、みんなで海水浴に行ったときは水着がどうだとか、いちいち細かいのだ。ぼくの印象ではエドウィンの服装だってそこまでちゃんと書いてないと思うのだが。ジェフリー自身のお母さんも出てくることは出てくるが、マルハウス夫人ほどの描写はなく全然造形が浮かんでこない。幼い頃友達と遊ぶと、自然そのお母さんがいつもそばにいる、だからそれも含めて観察している、というのはまあわかるのだがそれにしても……。さあ、どういうことだろうなこれは。

好きな音楽について

 好きな音楽について聞かれるとき、ほとんどの場合ごまかしている。あまり聴かないとか、まあいろいろととか、適当に言っている。とは言え別にそれは嘘ではない。あまり熱心に聴く方ではないし、いろいろはいろいろだ。それでも一応好きなものはあると言えばある。ではどうしてはっきりそれを言わないのかと言えば、単純にバカにされそうだからである。我ながらくだらない理由だとは思う。現にぼくはひとからどう思われようが気にせず好きなことに打ち込んでいる方だ。しかし音楽に関してはどこか気恥ずかしいものがある。

 これはひとえに過去に好きな音楽を否定された印象があまりにも強いためだと思うのと、ちょっと周囲に詳しい人間が多すぎるというのがある。そこに比較的耳の肥えている両親やN響でヴァイオリン弾きだった祖母、音感の良い弟という家族構成が関係しているかどうかはわからないが、少なくとも友人には音楽が大好きでひとつ尋ねると20くらい返ってくるような人間が多いのは事実で、そういう中で過ごしているとなかなかおいそれとこういうのが好きで、とは口に出せなくなる。予め牽制されてしまうケースも多い。こんなの聴くやついないよね、みたいなことを先に言われたらもうなにも言えまい。そんな必要が全くないのは頭ではわかっているけれど、彼らが認める水準でなければいけないような気がしてしまい、音楽を楽しむどころではない。

 クラスメイトたちの邦楽の趣味についていけないときに、ひとは彼らの知らない洋楽を聴き始めるのだと思う、大抵は。ぼくもその例に漏れず、最初はそれで誰からもケチをつけられずに気楽だったのだが、だんだんぼくが洋楽を聴くらしいということがどうやってか伝わり、なんだか詳しい人間が寄ってきてしまうと、話は変わってくる。こっちは自転車乗ってるときに気分よくなれればなんでもいいくらいなので、あまり深度のある話を振られても困るのである。また洋楽というのは同時代のものだけでなく、父親世代の渋いものも含まれるので、そっちに行かれるともうついていけない。そういうわけで今度はアニソンを聴くようにしてみる。これも最初は邦楽聴いてるひととも洋楽聴いてるひとともどこか隔絶しているところがあってよかったのだが、折しもアニソンやヴォーカロイドがだんだんメジャー化してテレビでもやるようになった時期、周りで聴く人間が増えると最初の問題に戻ってしまう。映画のサントラももちろん大好きだが、これは映画そのものへの批評とも結びついているのでやはり面倒くさくなってくる。『ラ・ラ・ランド』の挿入歌が好きだなんて言ってみなさいよ。なんであんなに叩かれなきゃいけないのかわからない。なにがそんなにいけないのかも。

 というわけで最後にクラシックに行き着く。よく映画なんかでIQの高い子がイヤホンでクラシックを聴いている描写があるが、なるほどあれはああいうポーズや演出だけでなく、結構理にかなっているものなのだとわかる。歌詞がないので余計な情報に思考が邪魔されることがない。いろいろな曲調はあるが、それでいて安定がある。だがどうもぼくの気に入っているものを貶したがる人間というのは後を絶たないようで、チャイコフスキーが好きだとそのときは珍しく口を滑らせたところ、チャイコ?あれもそんなにうまくないなあ、なんてことを言われて愕然としたものである。チャイコフスキーも駄目ならもうぼくに言えることはないです。うまくないってのはどういうことだ。だがよくよく考えてみればクラシックこそマニアや知識の押し付けの多そうなジャンルではないか。「エスパー魔美」にもそういうやつが出てきたじゃん。しかし、それはどのジャンルでもそうで、嫌なやつはどこにでもいるのだ。そうして、自分に嘘をついてジャンルを逃避先にしたぼくも大変に愚かであった。まあ、それでいろいろなものを聴いたとは思う。

 そんなわけのわかんないひとたちの言うことは気にしないでいいとは、よくわかっているのだが、しかし嫌なことを言われたときの印象、好きなものが否定されたときの印象というのは強い。トラウマというほどではないがそのことが引っかかって動かなくなってしまった部分が頭の中にあるらしい。その証拠に、やはり好きな音楽を聴かれたときに即答できずに逡巡してしまう。ただなあ、そこであれが好きですこれが好きですと言ったところで、じゃあこれこれこういうのも聴いたほうがいいとか、ライブとか行かないの?とか言われるのが目に見えていて、自分の視野も狭いことはわかっているのだが、あんまりそちらの熱量を本位にした物言いをされるとぼくは閉口してしまうんだよな。自転車や地下鉄に乗ってるときに聴く程度、では駄目だろうか? 0か100かの世界にぼくは疲れてしまった。

 しかし、これが音楽でなく、もっと自分が得意な分野だったら、果たしてぼくは今のぼくと同じような気分のひとに、理想的な対応ができるだろうか?マウント取られるかもしれないという恐れるのは、逆の立場だったら自分が取りそうだからではないか。そう思うと、やはりなにも言えなくなる。私も最近スター・ウォーズ観始めたんですよと言われたときにぼくが結構反応薄いのはそのせいで、なにか口をついて出た言葉が水を差すのではないかと恐れている。そういうわけで口数が減る。口が重くなる。

 というようなことを改めて考えたのは、つい最近もちょっと、好きな音楽について言われたからで、具体的に言えば、あんなのただのファッションじゃん、だそうである。だったらなんだと言うのだろうか。はっきり言ってぼくはファッションで聴くよ。自転車乗ってるときに気分がよければいいのだから。そもそも、どうしてぼくはぼくの好きなものを否定するようなひととつるんでいるのだろう。なにかを間違えている気がする。極端なところに迷い込んでいるのだと思う。自分を守るためにすべきは黙りこくることではなく、自分に合った世界観を探すことだと考え始めている。極力ストレスの無い世界観を。

 白状するか。ぼくは主にフォール・アウト・ボーイとコールド・プレイとアニマルズとパラモアとチャイコフスキーとアラン・シルヴェストリとユーリズミックスとELOとメリー・ホプキンスとフランク・シナトラとナンシー・シナトラと椎名林檎とショスタコーヴィチとラヴェルとブロンディが好きである。いずれもぼくにとって内省向きのアンセムをもたらしてくれる。恥ずかしがるのは彼らにとって大変無礼であろう。しかし、単に好きであるという以上の深度は求めないで欲しい。少なくともこれらのアルバムが壁面を埋め尽くしているとかは、全然イメージしないでほしい。というか正直言って全然持っていない。何曲も知らないものも多い。グループに関しては全員の名前も覚えていない。それで好きと言えるのかよと亡霊が言う。その程度でも好きなら好きと言っていいと思うし、言わなければいけないとも思う。

2019/09/10

TABFに行った話


 7月のことになるけれど、TABFことTOKYO ART BOOK FAIRに行ったことを書くのを忘れていた。その名の通りアートブックのフェアなのだが、画集や写真だけでなく、個人制作のZINEが見どころ。ちょうど直前にその存在を知り、見てみたらおもしろいかもとひとから勧められてもいたので、足を運んだ。ZINEを作りたいと思っていたので参考にもしたかった。

 改めて、ZINEというのは基本的には個人が趣味で作るちょっとした冊子(冊子にも満たない場合もしばしば)のことで、呼び方はMagazineやFanzineの短縮から来ているらしい。言ってみれば同人誌みたいなものだ。個人だけでなくグループで発行することもあるし、当然販売もされる。安価な用紙にモノクロで刷ってホチキスで留めただけのものから、紙質や印刷、塗料にこだわって綺麗に製本したものまで多種多様なものがある。大判の新聞のような紙を折りたたんで作るパンフレットのようなものもあるし、手のひらを握って隠せるくらいの豆本サイズのものなど、その形式もいろいろ。内容も画集や写真集、漫画、詩、文章などなんでもあり。そのひとが発信したいことを印刷して束ねる、それがZINEである。


 これはかのミランダ・ジュライが書いたもので、サンフランシスコ発の雑誌「The Thing Quarterly」の「第1号」らしい。特定の紙媒体に縛られず、オブジェクトを出版するというコンセプトのもとに、10年間いろいろなひとといろいろな形の「雑誌」を送り出したらしい。まさに形に捕らわれないZINEの究極的なレベルである。ZINEは紙であることに最も大きな意味があるんだけど、これはさらに物であることに重きを置いているというわけか。

 


 紙に捕らわれないのももちろんかっこいいけれど、やっぱりぼくがZINEと聞いて思い浮かべるのはこういうやつらだ。コピー用紙にレーザープリンターでばばばーっと刷った感じ(「プリント」じゃなくて「刷る」が似合う)。画質など気にせず見えりゃいいというレベルの写真と、読めりゃいいというレベルの掠れたタイプ文字の列。ZINEの歴史にはバンドが自分たちのフライヤーを冊子状にした流れも入っていて、そういう雑だけど勢いのある雰囲気は純粋にかっこいい。


 結構長い時間見て回って、買って帰ったのはこれくらい。左上の「ピーナッツ」の漫画本はZINEでもなんでもない普通の漫画本だが、一目惚れして買った。ピンバッジは有名なZINEレーベルのマーク。残る二冊は非常にZINEらしいZINEで、イラスト・漫画主体なので参考になりそう。内容はもちろんなんだけど、ZINEというのはやはりそのフォーマットが重要で、そこをおもしろがるものでもあるなと思った。いろいろな作品を紙として、物として持っておくことの意義を、手軽に感じることのできる媒体。正直言って一回ぱらぱらめくったらもう二度と見返さなそうなものや、ちょっとアバンギャルドすぎてついていけないものもあったけれど、そういったものもオブジェクトとして持つ意味がある。飾っておいてもいいし、コレクションしてもいいのだ。じっくり読むものもあれば、何回もぱらぱらめくりたくなるものもあり、それ自体がアートとして完成しているものもある。ZINEはそういう雑多な自由を持っていると思う。
 そういうわけで、これらを参考に作ったぼくのZINEプロトタイプは、ひとつ前の記事の通り。