2018/11/28

『ハン・ソロ』のひとたち

 『ハン・ソロ』のブルーレイを見返しているうちに好きなキャラがどんどん増えたのでどんどん描く。この感じでほかのエピソードのキャラも描いていったらとても楽しそうだ。SWのキャラばかり描いていていいのか、と自問していたが、描くのが楽しいならそれでいいはず。これに関してはモチーフそのものよりは、線や雰囲気をアピールできればいいと思う。


 ベケット一味のパイロット(兼料理番?)、リオ。4本腕のお猿。声を当てたのはジョン・ファブロー。軽口でいいキャラだったけど、猿キャラをチューバッカに譲るためかいちばん最初に死ぬ。ティーザーポスターとか、レゴなどの玩具ではこの絵のように青い体毛が首回りを覆ったデザインだったけど、映画本編ではこのあたりはすっきりして、もっと毛足が短くて毛色も暗い見た目になっていた。玩具メーカーに前述のデザインが渡されている感じから、おそらく直前で変更になったと見る。理由は知らない。


 帝国軍のズザナ・ラット伍長。ほとんどはっきり映らないキャラで、「その場にいた」くらいのひとだけど、劇場パンフレットではバストアップ写真と名前が載っている。スタイルがいい。オリジナル三部作だと帝国軍のユニフォームはもっとよれよれで着ているひとたちもあんまりスタイルよくないんだけど(あくまで垢抜けない悪役という感じ)、新作の帝国軍はかっちりきっちりしている印象。ズザナ・ラットを演じるのはイギリスの女優兼ダンサー兼モデルのズザ・テハヌ。綺麗。モブキャラは演者の名前を少しいじってキャラ名になることがあるから、いいなあ。上下ともに印象的な名前。なんとなくだけど、イギリスのガチの英語の地名とか苗字て、アメリカの英語とはまるで違う独特さがある。スコットランドの地名とか全く読めない。


 惑星コレリアでハンをはじめ孤児たちを囲っていたギャングの一員、モロック。ボスであるレディ・プロキシマ(こいつもかなりすごい見た目だったので描きたい)に仕えているわけだが、ジャバ・ザ・ハットでいうところのビブ・フォーチュナみたいなものか。ビブと違うのは、逃げ出したハンとキーラを追いかけて自らトラックを運転する行動派なところ。あのトラック・スピーダーの無骨さもよかったな。ちなみにこいつが放つ猟犬クリーチャーは、本物の犬が着ぐるみを着て演じている。EP4のバンサ方式だね。本物の動物が演じるからすごく説得力のある動きをする。ところでモロックはMolochと書くんだけど、これは古代中東の神モロク(モレクとも)と同じスペル。豊作の神にして人身御供の儀式で有名で、牛や山羊などと一緒に人間の赤ちゃんを生きたまま焼いて捧げるらしい。なるほど、だからモロックは孤児たちをこき使っているのかもしれない。杖の持ち手にはおびただしい数の人間が合体したレリーフになっているのも不穏。人間が優位に立つ帝国の支配下で、こういう杖を持って(なんならこの杖で宇宙港にいたストームトルーパーを威圧する。コレリアでかなり影響力のあるギャング団とあって、帝国軍もおいそれと手出しできないようだ)闊歩するあたり、人間に対してなにか恨みでもあるのかもしれない。頭部を覆うこの白い蛇腹やマスクが幼虫みたいでいい。


 列車強盗の際に列車を守ろうとする特殊ストームトルーパー、レンジ・トルーパー。分厚い防寒着に毛皮、ごつい磁力ブーツを身につけたごちゃごちゃ感がおもしろい。ストームトルーパーがムートンコートというのもいい。彼らはこんな大げさな装備でやっと列車の上でバランスを取っているのに対し、ハンたちは特別な装備のない軽装でひょいひょいと動き回る。ところでクローン・トルーパーの足の裏にも磁力パッドの設定があったような。まああれは申し訳程度の補助的なもので、これはもっと本格的なものなのだろう。足を接地させたときと、離したときとでランプの点滅が変わるんだけど、ちょっと『ゴースト・プロトコル』を思い出すね。そもそも列車の上でやりあうのも『ミッション・インポッシブル』だ。これ、もっと機動性が高ければスター・デストロイヤーやデス・スターの地表でも活動できそう。宇宙戦の中じゃすぐやられちゃいそうだけど。小惑星の表面で作業するときにも使ってそう。

やっぱり好きなもの

 いろいろなものを見たり読んだり知ったりしたかもしれないけれど、やっぱりこれが好きだなというのを確認しておくと気持ちがブレなくていい。新しいものを避ける、というわけではなく、全く岸の見えない大海に出たときに唯一頼れる羅針盤みたいな感覚で、子どもの頃から変わらず好きなものを心にとどめておく。というわけで、やっぱりぼくはスター・ウォーズとハリー・ポッターとポケモンだな。この三つだけ大事にしていられれば多分大丈夫。ほかにもたくさんあるけど、興味の持続性がだいたい同じように続くのはこの三つくらい。ポケモンはもう何作もプレイしそびれているし、お前ナニモンだというような新種も膨大な数いて、確かにブランクはあるかもしれないけれど、大人になっても抱ける温度感が子どもの頃と変わらなくて、驚くと同時に安心した。ゲームは新しいハードを買わなきゃ追えないところがあるので、まあキャラクターを愛する形でもいいだろう。言うまでもなくSWも新作やってるし、ハリポタも同じ世界観の『ファンタスティック・ビースト』が展開されている。なかなか卒業させてくれないと思ったりもするが、する必要もないし、ぼくの精神衛生を保たせるために見えない力が働いてくれているのだろうと思うことにしよう。新作やるっていうのはやっぱりいいことだよ。

2018/11/18

ヴェイダーの高い城

 『ローグ・ワン』に出てくるダース・ヴェイダーの城を見たとき、自分の中にある要塞に似ていて驚いた。自分の中にある要塞ってなんだよとお思いだろう。孤独を感じたときに心理的にとじこもる心の要塞のことである。おさびし山の上に建っている。おさびし山は話すと長くなるから置いておいて、とりあえずぼくが思い描いている心の要塞というのは、ちょうどああいう、オベリスクのような無骨な塔だった。ヴェイダーが余計な装飾を好まないだろうというのは想像できるけれど、なるほど、寂しいやつっていうのはもしかすると暮石のような建物にこもりたくなるのかもしれない。別に格好つけようというわけでもないが、誰にも会わずああいうところに閉じこもってみたくなるときがあるんだよ。あんな火山の中に建ってるとあったかそうだし(ヴェイダーの登場シーンはお風呂上がりだった)。

 寂しさっていうのにもいろいろ種類がある。まず本当に独りで暮らしているときの寂しさ。すぐ思いついたときに話しかける相手のいない寂しさ。でも、家族や友達が身近にいても感じる寂しさというものも、もちろんあるんだよ。どれだけ周りにひとがいたって、思っていること感じていること考えていることをちっとも共有できなきゃ、とても寂しい。そういうのも孤独だと思う。自分の感じていることをうまく説明できるほどの言葉を、ぼくはまだ持っていない。わかってくれないなら、こっちにも考えがある。というわけで、要塞にこもりたくなるわけだ。ずっとじゃない。実際にこもるわけではないから、ちょくちょく中断しなきゃいけないし。わかってもらえないという苦痛が続くようなら、ちょっとの間引っ込んでひたすら内省の時間を生きる方がいい。そうすると少しは回復する。そうでなきゃ回復できない。こうしてブログを書いているあいだは全く他人と関係なく書いているから、良い。誰に向けるでもない書き物は瞑想のようである。呼吸が浅くなるのが考えものだ。

2018/11/17

たぶん目が肥えた

 どうも格好の良いものが見当たらないなあと思ったときは、よそのセンスの無さをどうこう言うよりは、自分の目がある程度肥えてきたのだと思うようにする。自分の描いたものにどうも満足できなくなったときも同じで、それはやっぱり自身の目が腕よりも磨かれちゃったということ。腕が目に追いつくようにまた描き続けるのみ。時間が経てばまた目と腕の水準が同じくらいになるし、過食気味になった目線もだんだん「これもありかも」と思えるようになる。外がダサいのではなく、自分が振り切り気味と捉える。というかそうじゃないとちょっと憂鬱になる。いずれにせよ吸収したものをうまく発散できていないような気がする。どうしたものかな。

2018/11/08

意味のないものを描きたい

 特に絵が浮かばないときは取り留めもなく文章を書くに限る。線を引いたり文を書いたりしていればなんとか平穏でいられるから安いものだ。それで、思ったんだけど、どうも意味のあるものを描きすぎているような気がする。意味があるというか、ちゃんとしすぎているというか。そりゃ、ちゃんと描いているからこそ仕事ができているのだろうけれど、なんだろう、真面目すぎるというか、なんだろうなあ。深刻に考えすぎている気がしなくもない。もっと簡単に言えば、もっとふざけていいような気がしてきた。少なくとも依頼の関係ない自分で描くものに関しては。自分で描くものによって仕事の種類も広がるので、全く無関係とは言えないけれど。魚ばかり描いているときに犬の絵の依頼は来ないというか。とは言え、よし、ふざけよう!と思ってもふざけられるものではない。ぼくみたいにとっても真面目でやんごとない紳士が急にオゲレツなことなどできない。ふざける=オゲレツという連想がすでにダメだ。妻にもよく言われるけれど、予めそうしようと狙ってなにかすると、大抵ろくなことにならないのが、ぼくである。なので、無理にふざけようとするのはやめましょう。変にシュールを気取っても多分変なことになる。変なことになったって別にいいのかもしれないけれど、イマイチなことをやっても多分あまり楽しくない。楽しくなければ意味がない。とにかく力を抜いて、自分では少し雑に思えるものでも描いてみよう。実はひとから見たら全然雑じゃない場合があったりする。つまり普段から筆圧があまりにも高く、ごりごりと力が入りすぎているということだ。手がダメになるのは困る。

ひとの宇宙船の悪口を言わなければ自分も楽になる

 あくまでぼくは批評ではなくて感想とかレビューとして映画のことを書いているのだけれど、しかしなんとなく批評脳的なものが半端に伸び始めているのは確か。映画をよく読めるようにはなったかもしれないけれど、それによってかえって集中できなくなっているところ、素直に楽しめなくなったところはある。あまりにもひとの作品の分析をしすぎると自分自身の創作がしづらくなるともいう。それもかなり一理あって、たとえば「あの宇宙船のデザインはいまいち」とか言ってしまうと、いざ自分で宇宙船を考えるときに身動きが取れなくなる。人様の宇宙船に対してケチをつけたからにはもっとおもしろいものになるんだろうな?と後ろで別の自分が言う。肩より少し上のあたりに顔を出して。これは困った。それでなんでも難しく考え込むようになってしまい、どんどん沼にはまっていく。気づけば別の自分が顔を出すその肩のあたりまで泥の水面が上がってきている。どうしたらいいか。簡単な話だ。難しく考えるのをやめる。そもそも、人様の作品に余計なことを言わない。ひとの考えた宇宙船に余計なことを言わなければ、自分で作るときなんの気兼ねもなく発想できる。責任が持てなくなるようなことは最初から言わなければいいのだ。守れない約束はしないのだ。でかい口を叩かない。これに尽きる。思うところがあって、それをそのままネガティブな言葉を並べて語ることはそんなに難しいことではない。ところが、思っていることを、誰も傷つけないように、ポジティブに語ることのほうには技量がいる。そしてそっちのほうが意義がある。批評をひとつの作品として仕上げられるひとを尊敬する。そういう評論はむやみに作品をけなさない。意地悪な読み方もしない。その作品の良さをより際立たせ、新しい良さを見出し、さらには本編を観たときには感じなかった気持ちさえ呼び起こす素晴らしいものだ。ひとの書いたSW評で、ぼくは涙することもできる(反対に憤ったりもするけれど)。ひとの作ったものをそういうふうに見たい。粗探しをしてそれを言葉にするのではなく。そんなことをしてもなにも生まれない。

2018/11/06

『ハン・ソロ』ブルーレイ観てエンフィス・ネストをかなり気に入る


 『ハン・ソロ』のブルーレイを購入。思えば『フォースの覚醒』も『ローグ・ワン』も『最後のジェダイ』もソフトを揃えていないので、かなり本作を気に入っているのかもしれない。出産の時期だったので妻が未見のままだったというのもある。早速観てみたらこれが非常におもしろい。オズワルド・シアターというその名の通り幸せな試写室で観たときも相当楽しかったけれど、家のテレビで観るのもかなり良い。テレビ映えする作品なのかもしれない。確かに映画自体はほかの壮大なSWに比べるとかなりコンパクトだ。それが駆け出しのハン・ソロの物語としてとても合っている。あくまでハンがどうやってハン・ソロになったかという物語であって、銀河内乱やフォースの対立、立派な血統やお姫様は関係ない、とても個人的な物語だ。密輸業者の知られざるバックグラウンドを覗き見るというところに、家のリビングで観るという形式がとても合致している。ブラウン管の小さめのテレビだったらさらに最高だったろうなと思う。VHSで観たい。夜中にテレビデオで観たい。そういう映画だ。

 列車強盗という西部劇お決まりの舞台で襲いかかってくるエンフィス・ネストは、どことなく先住民風の衣装に身を包み、骨のような質感のヘルメット(実際になにかの頭骨かもしれない)をかぶった戦士。最初は盗賊と呼ばれ、風貌も手伝って恐ろしげではあるが、あとで義賊だとわかる。それどころか、どうも反乱軍の初期の資源を確保する役割を果たしたようだ(『ローグ・ワン』に登場したパルチザンと同じ風貌のメンバーがネストの傍にいた)。主人公と対立させながらも悪人にはしない。往年の西部劇の様式を取りながらも、そこでの先住民描写への反省・カバーを入れ、新しいSWキャラクターが誕生したわけだ。規格的でない装備や民族衣装的なヴィジュアルは、ボバ・フェットとはまた違った具合でおもしろい。テクノロジーと毛皮や骨の組み合わせ。思えばボバもああいう機械的な鎧の中に、編んだ毛皮がぶら下がっていたり、動物の頭蓋骨の絵が肩に描いてあったり、革のポーチが腰に並んでいたり、マントがかかっていたり、そういう組み合わせが特徴でもある。装備や衣装にメリハリがあると、キャラクターの造形は魅力的になるのかもしれない。キャプテン・ファズマ同様、エンフィス・ネストもまたボバ・フェット的なキャラクターと見ていいだろう。ひどい目に合わないけどね。のちのシリーズに登場しない以上ネストはどこかで命を落とすのだろうか?

2018/11/05

アトラクションの設定とかは気にしない


 「もう引き返せませんぞ」みたいなこと言われるだけで、なにか取り返しのつかないことになってしまった感じがして子ども心にはとても恐い。「タワー・オブ・テラー」にも確かウェイティング列の途中に離脱口があって、やめるなら今、みたいな感じがおっかなさを倍増させる。アトラクションの特性上、実際的に必要なものだろうけれど、離脱口があるだけでひとつの演出になっていて、普通に乗る気でいるひとの気持ちは盛り上がるわけだ。こういう考察をするのはなんだか野暮な気もするが、あそこは何度行ってもまだまだ知らないことだらけで、行くたびに様子も変わっているので、永久に知り尽くすことができない。

 で、「ホーンテッド・マンション」の話。どうもぼくが長らくアトラクションのバックストーリーだと思っていた設定みたいなものは、有志のキャストが独自に考えたものだったらしい。道理で取ってつけたような話が多いわけだ。この伸びる肖像画にしても、強盗に脅されてダイナマイトの上に立たされたとか、騙されて流砂に沈む使用人とか、婦人が特技である綱渡り(?)を披露していたところを呪いで綱が切れるとか、どれも魔女のマダム・レオタ(水晶球に頭が入っているあのひと)が絡んだ事件とされていたが、これからしてどうも後付け臭かった。この絵はただ単に不吉な予感をさせる絵、という感じで、あまり物語を意識して描かれたものには見えなかったのだ。屋敷の周りに流砂や湖があるというのも違和感があったし。女主人の特技が綱渡りってなんだ。元サーカスメンバーとか、バレエダンサーみたいな話だったような気もするが。いずれにせよマダム・レオタが企んだ陰謀ともたらした呪いが屋敷全体をあのような状態にしている、というのが通説だったが、これらは全てキャストとして働いていたひとたちの二次創作。とは言えそれなりに考え抜かれてひとつの物語として成立させていたので、公式と混同されるくらいの出来ではあったわけだ。なるほど、確かにダンス・ホールで踊ってる男女のゴーストたちはマダムの呪いによって永久に踊り続けている、みたいなところはそこで働いているひとが考えそうなことだ。永久にくるくる踊ってるというのはアトラクションとして見たときの話で、ゲストであるぼくたちにはあくまでそのときだけ踊っている様子に過ぎない。

 舞台裏の事情が設定に絡んでいるところといえば、アトラクションの最後に登場するリトル・レオタ。頭上のところにいて、「ホ〜リ〜・バ〜ア〜ック」と言ってるあのひと。あれはマダム・レオタが川に落ちて縮んだ姿、ということでリトル・レオタと呼ばれていたが、正しくは全く別のキャラクター。なんで同じレオタとされていたかというと、水晶球の方でレオタを演じたレオタ・トゥームスが、最後の女のひとのほうも演じていたから。言動が全然違うもんね。あのひとは本当はゴースト・ホステスという名前がついているらしく、そこからもわかるように全体でナレーションをしているゴースト・ホストと対の存在。そもそも小さい小さいっていうけど、あれは遠近感を演出しているために人形サイズで頭上に置かれている。つまり屋敷の高いところにいるわけ。塔の周囲にぼんやり浮かぶ幽霊、みたいな典型的なイメージだね。それを額面通り人形サイズの女のひと、というふうに呼んでいるあたり非常に後付けっぽいし、野暮な感じがする。そういうわけで、水晶球の魔女はただ単にあそこで降霊術をやっているだけで別に黒幕的キャラクターというわけでは全然ない。黒幕もなにも明確な物語はあそこにはないのだ。なにかとストーリーや意味、設定が求められているような気がするが、「なんとなくそういうところ」程度のものでもなにも問題はない。
 
 「スター・ツアーズ」にしても、設定が気になってしょうがないSWファンは、登場するキャラクターや時代設定の矛盾を指摘し続けているが、あんなものは「『スター・ウォーズ』の世界観を体験する旅行会社」程度の認識でいい。確かにあの旅行会社そのものがSW銀河にある、という体ではあるが、一貫したストーリーや時系列とはまた別のものと捉えたほうが素直に楽しい。そもそもアトラクションであって映画ではない。様々な世界観がひとつの領土にごちゃまぜにおさまったディズニーランドそのものがそうであるように。

2018/11/04

そんなことは知らないという体でいく

 嫌なことはいっぱいあるんだけれど、それをいちいち表明していてはこちらの身が持たない。表明することでそのときだけは少しすっきりするだろうけれど、言葉にすることで苛立ちの元が明確になったりして、あとで増幅するのでストレス解消にはならない。そういうわけで知らんぷりというのはどうだろうか。たとえば大好きなハロウィンが一部で暴動化している上にハロウィン自体に関心のない人々からは厄介なイベントというふうに扱われていることに対して、嫌だなあ、というのを書いた時点で、暴動化するハロウィンを認識していて、そこに視点を置いてしまったということになる。そういう現状を認めた時点でなんだか取り込まれてしまったような気になるので、そんなことは自分とは関係のない世界で起きていることとして放っておこう。現実逃避のように見えるかもしれないが、世の中には世間とはズレた人間というのが確かにいて、彼らはもとより世間に関心が薄いので自分の身に実害やはっきりした影響がない限りは、皆がなにで騒ごうが揉めようが知らないし、どうでもいいのである。かく言うぼくもタレントやアイドル、スポーツといった話題には大変疎い。疎いどころかひとの顔と名前はろくに覚えられないし、ほとんどのスポーツはルールがわからない。だからスキャンダルが起きようが全然興味がない。お相撲さんや野球選手がなにかやらかしても、特に思うところはない。興味がなければ心をかき乱されることはない。無関心というのも防御のひとつかもしれない。かと言って何に対しても興味を持たなくていい、というのは違う。興味は持つけれど、知らない人間のことで頭を悩ませるのはナンセンス。だいたい子どもの頃は好きなこと以外なんにも興味なかったじゃん。戻ることはできないが、なんとかしてそういう感覚を取り戻すことはできる。なんにも知らなかった頃はそりゃ楽だった。もちろん他に苛立つことはあっただろうけれど。というわけで、誰がどんなふうにハロウィンを過ごそうと、ぼくには関係がない。『スター・ウォーズ』の新作に誰がなにを言おうとぼくの感動や感想には全然関係がない。ぼくの世界、ぼくの空間、ぼくの時間は確かにここにあって、外界は意外と簡単に遮断できる。心の要塞でも、おさびし山でもなんでもいいが、そういうのを瞬く間に建造してこもることはいくらでもできる。少し話が逸れたけれど、とにかく嫌なことがあったら、そんなことは知らないという体でいく。知らないひとの言動、世の中のどこかで起こったなにか、そういうのが目につきやすい環境になってしまったが、いくらでも遮断はできる。普通に暮らしていたら接点がなさそうなひとの不平不満などは本来読まなくていい。なんでも調べられる、なんでも見られるのがインターネットだが、余計なものは見ないというのも使い方のひとつだ。そこまで駆使しなくていい。というか、どれだけやったところで人間ひとりに使いこなせるものではないし。要塞じゃないけれど、出入り口を減らしたり塞いだりするのはかなり有効。なんでもかんでも受信していればトレイはめちゃくちゃになって大事なメールも見つからなくなる。外界のことは放っておいて、目の前の仕事や自分の世界に没頭しよう。と、ずらずら書いてしまっているからには、しばらくは「知らない振り」にしかならないけれど、いずれ本当につまらないことには興味を持たなくなるだろう。

2018/11/03

営業報告

  


 少し遅くなりましたが、仕事の報告。SPUR 12月号ではセドリック・クラピッシュ監督作『おかえり、ブルゴーニュへ』を紹介しています。フランスのワイン農園の景色が綺麗だがそこで繰り広げられるドラマはとても人間臭く、かなり笑えるところも。




 「婦人公論」11/13号のジェーン・スーさん連載挿絵。コンビニのアイス売り場でお小遣いと相談していながら迷ってる子どもに対し、お金と相談する必要はないが胃袋と相談しなければならないの図。ぼくはどちらともあまり相談しないけれど、それでも冷凍庫の前で少し悩んじゃう。




 日本経済新聞出版社より刊行、治部れんげさんの「炎上しない企業情報発信 ジェンダーはビジネスの新教養である」でカバーイラストを描きました。たびたび騒がれる企業CMの女性描写はどうしたらいいか、時代に合わせてイメージを変えてきたディズニー・プリンセスなどを参考に紐解く内容。ピクサー作品『メリダとおそろしの森』のメリダもディズニー・プリンセスに数えられるというのは、初めて知りました。というわけでイラストはたくましいプリンセスと、花を愛でる優しいプリンスのイメージ。イラストにそのニュアンスは入れられなかったけど、単純に入れ替えるのではなく、たくましいとともに優しく、花を愛せるというのが理想。






 告知しそびれていましたが、ペット保険で知られるアニコム損保の冊子「ぱ・ぴ・ぷ」06、08号にてカットを描いていました。いずれも犬の健康についての内容。06号では吐瀉物やうんちの様子、08号では皮膚に出る症状について。犬が耳かいているときって、あのかゆいところになかなか手(足か)が届かない感じなども手伝ってかなりかゆそうに見える。

2018/11/01

それがハロウィン


 毎年のようにハロウィンなにかしようと思うも結局時間と気力が足りず、仮装もしなければなにか力作をアップするようなこともできないで半端なことになっている。今年はなんだか妙にいつもよりなにか作りたいという気持ちが強く、変に焦った。ハロウィンに強迫観念のようなものがある。前よりもいろいろなものが描けるようになったから、自分の原初的イメージであるお化けや骸骨といったモチーフに戻ったらどれくらいおもしろくなるだろうかという気持ちと、世の中の少なくとも一部でハロウィンがひたすら堕落の一途を辿っている中で、自分にとっての、自分の思うハロウィンとはこうだというイメージをしっかり作っておきたいという思いが強いのかもしれない。別にあれは間違っていてこれが正しいみたいなことはない。原理主義を追えば自分の首も締めることになる。本当のハロウィンとはなにか、ライナス・ヴァン・ペルトの言うところの理念を突き詰めれば、『スター・ウォーズ』のキャラクターの仮装も外道ということになるはずだ。だからひとのやっていることは否定しなくていい。その代わりに、自分の思うのはこうだとはっきり表現すればいいのだ。そう思うからこそ、毎年10月に入ってから焦り始めるわけだが、果たして今までの人生で「よくやったハロウィン」を思い返したとき、10月に入ってからの準備で出来上がったものなどあっただろうか?11歳のハロウィンでジャンゴ・フェットの仮装をしたとき、夏休みに『クローンの攻撃』を観てからすぐに衣装作りを始めたはずだ。我ながらまだプールが開いているうちからなにをやっているのだと思ったものだが、出来上がった衣装は傑作だった。あんな、全身を好きなキャラクターの衣装で覆った仮装などそのあと一度もできていない。その10年後、専門学校を出たものの仕事が全然ない時期、ハロウィンくらいはなにかしようと思って作ったウェブお化け屋敷はどうだろうか。あれも膨大な時間を持て余し、しかし遊ぶお金もないので夏のうちから作っていたはずだ。力作をやりたければ時間をかけるしかないのだ。今は仕事をしているから時間が足りないなんて言い訳はできない。なら夏よりもっと前から着手すればいいだけのこと。仕事でもそうだが、どうも期限までが長いとなかなかやる気にならず、目先にある急ぎのものにかかりきりになってしまう。もう少し長いスパンでものを作れるようになった方がいい。興味の持続性をもう少し鍛えたい。また、別に仕事でなければ義務感を持って焦る必要はないということも覚えておきたい。ハロウィンのことで頭を抱えるなんていちばん不幸でナンセンスだ。やる気にならなければ、なにも思いつかなければ、別にやらなくたっていいのだ。幽霊屋敷やお化けの絵なんて年がら年中描けるわけだし。季節に振り回される必要はない。もしなにかやりたいのであれば、気を楽にして、普段からハロウィンのこともなんとなく考えていれば、10月という一年でいちばん体調を崩しやすい季節の変わり目に、急に焦り出すこともなくなるだろう。なにか大掛かりなことをしようというのでもないけれど、来年楽しくやるために、今から少し意識しておこう。『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の町長じゃないが、終わってすぐに来年のことを考えるのもまた愉快なことだ。