2019/12/24

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019)


 
 ついに終わった。14年前の夏にも「完結」を経験したけれど、『シスの復讐』は最終章というよりは最後のピースがぴったりはまって6部作が「完成」するといった意味合いが強かったし、「本当は9部作の構想だった」という話がなんとなく幻想を見させてくれてはいたので、あまり終わってしまったというような印象は薄かった。しかし、もはやその幻だった9部作さえも完全に終わったのだ。

2019/12/19

サイトリニューアル中

 メインサイトをリニューアルしています。URLは変わらないけれど、中身をワードプレスで作り変えてみた。投稿にしろ固定ページにしろ、基本はブログ型になるけれど、カテゴリー別に記事一覧を表示するようにすれば、作品集としても使えるので、Tumblrの作品ページに変わるポートフォリオをようやく作れそう。さらにブログそのものもそちらで書けるので、いろいろと整ったらこちらのブログの更新は停止したいと思います。記事数も多くなってきて、もう少しすると開設から10年になるけれど、そんなもの待ってる必要もないので、あっさり変えてみてもいいと思う。いずれにせよ今すぐではないし、新しいブログを始めるとしてもしばらく同じものを両方に投稿して様子を見るつもり。『スカイウォーカーの夜明け』の感想も当然更新するだろうし。年末のお休みの間にいろいろと手入れができればと思っている。ホームページ作りはやっぱり楽しい。楽しいが、結構大変なこともあって時間が取られてしまうので、ある程度出来上がっているテンプレートを使って、その中で好きなように作るのがいいのかもしれない。なによりレスポンシブなレイアウトというのが、自力で手打ちしてやるにはきついものがある。用意されているデザインならどの端末で見ても文字サイズなど自動で切り替えてくれるから大変助かる。

2019/12/17

SW来日イベント


 ちょうどワールドプレミアをやっていたようだけれど、先週参加させていただいた来日イベントについて。レッドカーペット・イベント自体初めてな上にやってくるのがSWキャストたちとあっては舞い上がらずにはいられない。会場内はもちろん一歩外に出た場外にも見物客がたくさんいて、さすがはSW。最初に入ってきた車から真っ白な衣装に身を包んだデイジー・リドリーが現れたときの興奮と言ったらいちいち説明してなどいられない。だけどあえて書くなら、ああ、やっぱり本当にいたんだなという感じ。いや、いることはわかってる。映画だということは百も承知、キャストにしたって他の出演作を観てはいる。しかし、SWという衣をまとって現れると、途端に現実感が揺らいでしまう。おそらくは今回の『スカイウォーカーの夜明け』での白い衣装をイメージしたようなお召し物だとは思うけれど、ぼくはどこか『新たなる希望』のラスト、英雄たちに金メダルを渡すときのレイア姫を連想した。セレブレートにぴったりな衣装。ただならぬ輝きを放っていた。

 レッドカーペットというのはなんとなく一直線にずっと敷いてあるようなイメージだったけれど(本場ハリウッドでのイベントではそうなのかもしれないが)、今回は会場内でぐるりと回ったコースになっていて、一見大した距離には見えないけれど、それでもメディアのカメラの前に立ち止まっては丁寧にコメントし、一歩歩けばファンの声に応え、また別のメディアにコメントする、というのを繰り返しているとなかなか前には進まず、なるほどレッドカーペットというのは結構時間のかかる道なんだなと知る。アンソニー・ダニエルズ、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック、と次々キャストがやってくると、もうデイジーが今どこを歩いているのかよく見えなくなる。おそらくあの一際人だかりの大きいところがそうだろう、といった感じ。

 そういうわけで最初にデイジー・リドリーがコースの一番最後にあるマスコミブースにたどり着いたのは結構な時間が経ってからだけれど、不思議と長くは感じなかった。待ち遠しかったことは確かだが、待っている間の一瞬一瞬まで楽しい時間だった。それに長い道のりを歩き終えたスターたちの顔に全然疲れた様子がないのがすごい。さらにそのあとステージにあがって全員揃っての挨拶。ひとりずつでもフォースが強かったが全員並ぶと結構な迫力である。なによりこんな豪華な面々が揃ってやってきてくれたことに感激する。映画でもようやくレイ、フィン、ポーの主人公たちが揃って画面に並んでくれるわけだが、それがぼくの目の前でも実現しているのだ。『フォースの覚醒』公開からまだ4年しか経っていないが、この3人はもう立派なSWのヒーローたちである。

 そして初めてレッドカーペットを見物してわかったのは、柵の中でスターたちを待っているファンも相当タフということ。というかぼくも含め会場内ほとんど全員立ちっぱなしである。最初に書いたように場外から熱い視線を送っている大勢も同じで(途中で雨が降り出しても人が減る様子はなかった)、ああいうパワーを目の当たりにすると、こういうイベントはみんなによって出来ているんだなと思う。カーペットの両側で微動だにせず立ち続けていたトルーパーのひとも本当にお疲れさま。


 続いて翌日の記者会見。印象的だったのはやはりみんな口を揃えて「終わるのがさみしい」ということ。ぼくだってさみしいよ。しかし作っている側のさみしさというのは単にシリーズが終わるというだけではなく、毎日通っていた現場にもう行けないこと、そこで会っていた人々との仕事が終わってしまうということを意味し、それを聞かされるとSWと言えど仕事なんだなあと思った。それからアンソニー・ダニエルズの「あと数日で映画の内容を秘密にしなくていいと思うとほっとする」という発言も、なるほどと思った。そういうプレッシャーももちろんあるのだろう。そしてそれを聞いて、そうか、あと数日なんだと自分でもわくわくした。2年間、いや、『フォースの覚醒』公開の時点、もしかするとシークエル三部作制作発表の2012年からずっと待っていた結末が、あとほんの少しで明らかになるのだ。

 でもそのあとは?オスカー・アイザックの言うように公開されたら本当に終わりが来てしまうのでは?ドラマや次の三部作の話はあるけれど、このシークエル三部作は確かに終わってしまう。しかし、少なくともぼくは完結しただけでは本当には終わらないと思う。今と当時とでは感覚も状況も違うかもしれないが、2005年の夏、『シスの復讐』を観たあとのほうが熱を強く感じていたような気がする。知りたかった物語の全容がわかった上で想像が膨らむという面があった。映画館で観てきたものを頭の中で反芻し、さらに大きくしていた。子どもの頃のような想像の遊びは今ではしづらいかもしれないけれど、それでも大人になってから追い続けたこの三部作のこともずっと思い返し続けるだろうと思う。ぼくにとってSWのシリーズで断絶のようなものはない。全ては糸で繋がって、この先にも続いている。

 出演者や作っている人たちを間近で見て、当たり前のことだけれど生きた人間を実感した。彼らの姿、話していることを見聞きして、改めて自分はシークエルが好きなんだなとわかった。シークエルはとにかくいろいろなことを言われるが、作っている側も大変だろうということは言うまでもない。ぼくの思い込みかもしれないが、監督や社長の顔にはどこか大変な仕事を経験してきた疲れや、それが終わったことによる安堵のようなものがあったような気がする。楽しいことばかりではないだろう。むしろ大変なことばかりだと思う。ハットのように重い責任がのしかかっていることは当人たちが一番よく知っている。共同脚本のクリス・テリオがふと漏らした「喧嘩をしながら脚本を作った」という一言はずっしりと来た。一体どんな「喧嘩」を経て物語が完成したのだろうか?それを目の当たりにするのも、もう今週中のことである。終わるのはさみしい。しかし、これで9部作のサーガがついに完成し、「宿命の環が閉じる」と思うと、ずっと好きでいてよかったなと思える。














 あとは夜明けを待つばかり。

2019/12/10

「MOE」2020年1月号



 「MOE」2020年1月号にて、現在寺田倉庫で開催中の「スター・ウォーズ アイデンティティーズ:ザ・エキシビジョン」のイラストレポートを描いています。10月に全然仕事と関係なく個人的に見に行きましたが、その後でまさか仕事に繋がるとは。全体の雰囲気を紹介しつつ、好きで見入っていたところなども入れてレポートにしています。


 すでにSNSで撮ってきた写真はアップしているけれど、撮影OKということでとにかくたくさん撮ったので、それも交えてまた別にここで感想など書こうかな。

 この展示はそのタイトルの通りSW作品のアイデンティティー、世界観を支えるキャラクターたちのオリジンがどこにあるかを紐解く内容になっており、衣装や模型などの立体物ももちろん多いんだけど、やはりキャラクターの成り立ちということで設定資料やスケッチ、コンセプトアートなどの平面資料がとにかく多い。絵を描く身としてこれはかなりありがたく、ラルフ・マクォーリーやジョン・モロ、ジョー・ジョンストン、そして大好きなロン・コッブといったデザイナーたちの肉筆を延々凝視していた。そんなボリュームいっぱいの展示を見つつ、要所要所で自分自身の生い立ちや性格、ものの考え方等を入力していくと、展示を見終わる頃には自分のアイデンティティーが反映されたオリジナルのキャラクターが出来上がるという体験型の要素もあり、多くの意味で実際に足を運ばなければわからない楽しさがあった。




 今回の「MOE」誌上のSW特集自体も、デイジー・リドリーやJ・J・エイブラムス監督のコメント、シリーズ年表、SWのインスピレーション元となった作品たちの特集、絵本カルチャー誌ということでSWの絵本紹介など見所読みどころ満載です。絵本雑誌によるSW特集にイラストを描くことができて本当によかったです。

 「スター・ウォーズ アイデンティティーズ」は来年1月13日まで開催中。

「SPUR」2020年1月号



 「SPUR」2020年1月号の映画レビュー連載は、『シャイニング』の続編に当たる『ドクター・スリープ』。前号の『IT』に引き続き二回連続スティーブン・キングものです。雪に閉ざされたホテルでジャック・ニコルソン扮する実の父親に殺されそうになるも、母親とともに生き延びたダニー少年の40年後を、我らがユアン・マクレガーが演じる。特別な力「シャイニング」の使い方やホテルでの惨劇以降自分をつけ狙ってくる幽霊たちを退治する方法を身に付けたダニーが、自分と同じ力を持つ少女と出会ったことにより戦いに巻き込まれ、ついには再びあの展望ホテルに足を踏み入れることに……。

 『シャイニング』劇中での光景が回想として入るが、実際の映像と見紛うほどの再現度。それだけでなく、事件直後の後日談として、母とダニーのふたり暮らしの様子なども描かれる。当時のシェリー・デュヴァルやジャック・ニコルソンをCGメイクアップで再現するなどということはせず、全く別の役者がそこまで顔を似せることもなく雰囲気だけで演じているところがなかなかすごい。結構それらしく見える。こういうのを見せられると、このキャラクターはこの俳優でなければだめ、というようながっしりした縛りが緩み、キャラクターそのものの概念というか、象徴的なイメージが強くなるような気がする。バットマンはいろいろな俳優が演じてもいいというのと同じような感じ。

 『レディ・プレイヤー1』でも『シャイニング』のシーンを再現していたのが記憶に新しいので、似たようなパロディに見えないかどうか気になったけれど、丁寧な雰囲気作りでちゃんと『シャイニング』の続編に仕上げていたと思う。スティーブン・キングがスタンリー・キューブリックの映画版をあまり気に入っていなかったのは有名な話だけれど、今作はそんな原作者とキューブリック映画のファン両方に気を遣ったような、ちょうどいいところに落ち着いている印象。と言ってもぼくは『シャイニング』の原作も『ドクター・スリープ』の原作も読んでいないのだが。キューブリックの映画版とは少し違うノリの部分は原作由来だろうなあなどと読んでみた次第。『IT』もそうだけど、キング作品もそのうち読んでみたいなあ。

「婦人公論」12/10号



 気付いたら1ヶ月更新していなかった。反省反省。このままでは去年の記事数はおろか一昨年より少ないまま今年が終わってしまう。というわけで仕事の記録から。「婦人公論」12/10号のジェーン・スーさん連載の挿絵。台風被害が相次いこの秋、避難所生活を余儀なくされた女性たちに想いを馳せる内容。非常時には二の次以下にされてしまいがちな女性の健康上のあれこれ、自分を守るためにはもう少し「個」を保ってもいいのでは、ということでこのような絵。稲妻を白くすると誌面の地と繋がっておもしろいかなと思った次第。

 この場を借りて言えば、例の台風ではぼくの地元も大打撃を受け、何日も実家と連絡が繋がらず状況が全然わからないというような具合だった。電話が繋がらないとこんなに不便かと、普段電話で話すのが大嫌いなぼくが思うのだった。ずっと停電しているらしいのでネット環境ももちろんだめ。とりあえず連絡のついた高校の友達に直に様子を見に行ってもらってようやく無事とわかったのだけれど、こういうときに地元に友達がいるといいですね。仲良い人がほんのちょっとでもいると助かります。結局こちらの心配や流れてくる噂とは裏腹に、うちの実家に関してはそこまで深刻なことはなかった。田舎でひとも少ないから小学校で配る物資もだいぶ余ってしまったらしい。そのあともしばらく電気は戻らず電話も繋がらないので詳しい様子はわからないという状況が続き、まあ件の友達とは連絡がつく以上こちらに知らせる手段が一切ないというわけではないので、なにも言ってこないということは多分なにごともないのだろうくらいに思っていたけれど、それでも不安は不安ということで、弟が運行の再開した高速バスで向かうことになった。しかしうちの実家というのは街の駅からだいぶん離れたところにあり、最低限自転車でもないと移動は難しい。自分で車で行かない限り勝手に帰って勝手に立ち寄るというのがしづらい。こちらから向かうという連絡が入れらない以上迎えも呼べない(曲がりなりにも被災しているところを一方的に訪ねて迎えに来てくれというのも変な話になる)。どうしようかというところで再びさきほどの友達が登場。弟を駅から実家まで車で送ってくれるという。なんていいひとなんでしょうか。もちろん両親は変わらず無事。お父さんはいつも通りソファで寝転がっていた。心配して損した、なんていうことはもちろんないが、しかし自分たちが何事もないことがわかっている方にしてみれば、がんばって方法を見つけてこちらに連絡を入れようというような気が起きづらいのかもしれない。それにしてもどうしてそんないいひとがぼくなどの友達でいてくれるのだろうか。それはたぶんいいひとだからだろう。