2019/10/26

The Mandalorian


 本国ではいよいよ11月からディズニープラスで配信開始のドラマ「ザ・マンダロリアン」より、ザ・マンダロリアン。アクション・フィギュアの予約に出遅れてしまったのでとりあえず全身描く。描くとそれだけでシェイプが手に伝わってくるような気がするので、欲しいフィギュアがあったらまず描くのがいいと思う。結局こいつの名前は出てなくて、フィギュアなどでもそのままザ・マンダロリアンという名称になっていることから、クリント・イーストウッド扮するバウンティ・ハンターと同じように名無しで通すキャラクターになるらしい。もちろん全然いい。初登場時のボバ・フェットよりも謎に包まれているわけだが、そうなるとやはり素性というか正体が気になってしまう。名前さえ出さないのにはなにか理由があるのではないか。こいつの正体自体が物語の重要なキーなのではないか。いっそカークーンの大穴を生き延びたボバ・フェットなのではないかという見方さえある。言われてみれば演じるペドロ・パスカルが本編中で素顔を見せるとは限らないわけで、普通にボバ・フェットである可能性もなくはない。結局ボバ・フェットかよと思ったりもするが。それにもしボバが正体を隠して活動するのなら、彼の代名詞であるところのマンダロリアンのヘルメットなどかぶったりはしないのではないか、とも思う。

 ところで絵に描いてみるとその装備は結構ごちゃ混ぜに見える。特に初めてヴィジュアルが公開されたときから言われているように、右の肩当ては『ローグ・ワン』に登場したショア・トルーパーのものに非常に近いし、左の方はまた別のものだ。腿のパーツも左右バラバラで、ジャンゴ・フェットやボバ・フェットに比べて規格の揃った装備ではない。ジャンゴの鎧が綺麗に揃っていたこともあって、ボバの装備はだいぶカスタマイズされているように見えたものだが、そのボバよりもさらにジャンクな印象。不揃いで左右非対称な感じが、とてもベテランっぽい。さらにヘルメットはクロムメッキでいよいよごちゃ混ぜなのだが、色彩によって整えられているところもあり、ヘルメットがいい具合に際立っていて、他のキャラクターにはない雰囲気がよく出ている。


 おまけで「ホリデー・スペシャル」カラー。先が二股になった槍状の武器は「ホリデー・スペシャル」でボバ・フェットが持っていたものとしてお馴染みだ。鎧にクリーム色が盛り込んであるところもホリスペのボバを意識してそうだけど、どうだろう。そこでショア・トルーパーのパーツが役立ったというのも、どちらも好きな身としてはうれしい。

ブログのテンプレートがおかしくなったので

 モバイルで閲覧する場合はデザインが決まっているので関係ないけど、PCでのブログのテンプレートがなんだおかしくなった。カスタマイズしたものでどこをどう直すかもよくわからなかったのでとりあえず既存のスタンダードなテンプレートに切り替えました。

 具体的に言うと部分ごとでフォントが違ってしまったんだけど、テンプレートの編集は全然触ってないのでなにがきっかけでそうなったのか見当もつかない。なんとなくページ自体というよりブラウザの問題じゃないかとも思ったけど、実は使い勝手もあまりよくなかったのでいい機会と思い前の形に戻した次第。インデックスで記事冒頭の見出しが並ぶ感じが見やすいとも思っていたけれど、記事によっては抜粋分だけで終わってしまうボリュームのものもあったので逆に煩わしいところも(ちょっとした短文も書きづらい)。知識があれば記事の字数に応じて冒頭を抜粋するようにもできたのかもしれないけれど、あまりそこまで凝る気にもなれない。ぼくは基本的に用意されているフォーマットを使うことに徹するタイプなのだ。

 記事本文の冒頭部分だけが並んでいる感じは一見シンプルでよかったけど、そもそもその形式にしようとしたのは、記事が丸ごと上から下に並んでいる形だと、ひとつの記事が変に長くなったり載せる画像が多くなったりすると見辛いのではないかと思ったからで、それも記事ごとの区切り(投稿ごとのヘッダーとフッター)を強調すればわりと解決するし、最近は仕事の紹介を一件ずつ書くようになって、あまりひとつの記事でごちゃごちゃしなくなったので、前の形であまり懸念がなくなった。なんだかんだ昔ながらのブログの形式が好きというのもある。ずらっと文章が並んでいるところがいい感じだ。見栄えに関してはきりがないし、あまりガワのことを気にせず単純なフォーマットの中で書いていきましょう。

「SPUR」12月号



 マヤ・ホークがカバーを飾る「SPUR」12月号の映画レビュー連載では、リメイク版の第二章『IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。』を紹介しています。前作での子どもたちの戦いから27年、大人になってそれぞれの人生を歩む仲間たちが故郷に戻って再び恐怖と対峙する。個性的な子どもたちをそれぞれまたクセのある大人俳優が引き継いでいるのも楽しいけれど、大人になってようやくトラウマと向き合えるという、時間の積み重ねが画面から感じられるのも良さ。CG時代のスティーブン・キングものはイメージが留まるとこを知らない……。いっそマヤ・ホークも出てきそうな雰囲気だけど、思えばオリジナル版を真似た「ストレンジャー・シングス」と、とても「ストレンジャー・シングス」っぽく見えるこのリメイク版、不思議な環ができている。こういう相互の影響がいいものを作っていくんだなあ。

「婦人公論」11/12号



「婦人公論」11/12号でのジェーン・スーさん連載挿絵。今回は話法のアップデートについて。今日日前線で情報に触れて思考していれば自然と身につくであろう考え方や言葉の選び方、慎重さなどが全然見られない相手は現役としては扱えない、アップデートを欠かしてはならないというお話。とっくに合理的で筋の通った形に更新されてしまったことがらについて、いつまでもひと昔前の非合理なスタンスでいるということは、前線で新しい情報に触れていないということ。もちろん常に風通しをよくしていてもそれぞれ少しずつ違う考え方をするのだろうけれど、しかし現役であれば考え続ける姿勢自体は誰しも変わらない。現役と退役ということで鳥と恐竜を添えて少しポップに。

2019/10/14

大人の相槌

 何人かで集まっているときなんかに、興味のなさそうな、あるいは知らなそうな話題に自然に相槌を打てるひとは本当に大人だと思う。興味がなさそうで知らなそうというのも決めつけかもしれないが、しかし話の文脈上そのひとが知り得ないであろうことにうなずいていることが多いので、まあそう見て問題ないだろう。ポイントは自然であること。知らないのになにうなずいてるの、などという意地悪な指摘をさせることのない自然さである。その自然なうなずきは、話者をリラックスさせその舌をより滑らかにする。場が盛り上がる。だから大人として身に付ける技能なのだろう。もちろんぼくも立派な大人なので、何度かこれを試したことがあるのだが、ぼくがやるとどうも不自然さが際立つのか、「うんうん言ってるけど興味ないでしょ?」とはっきり言われてしまう。はっきり言うことないじゃないか、がんばってるのに。しかし、がんばらなければできないようならまだまだだ。大人の相槌はそいつがうなずくことに違和感を覚えさせない自然さあってこそである。わざとらしくうなずくよりは黙ってたほうがいいかと、よくわからない話題の際には静かにしていると、それもやっぱり「興味なさそうだねえ」などと言われてしまう。どうしろというのだ。興味がないことが多すぎる。というか、そういう場合は大抵興味とか以前に、ぼくが知らないひとや出来事の話題だったりするので、興味の持ちようがない。そこで自然な相槌、あるいは「へえ、そんなことがあるんですねえ」などと今初めて聞かされる立場をうまいこと使ったようなことを言えるといいのだが、まあそれができたら今頃社交界のスターだよな。

2019/10/05

「婦人公論」10/8号



 「婦人公論」9/10号でのジェーン・スーさん連載挿絵。サーカスを観に行かれたというお話。

「SPUR」11月号



 「SPUR」11月号の映画レビュー連載では、『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』を紹介しています。エイス・グレードとは8年生のことで、高校にあがるひとつ前の学年で、日本で言うところの中学最終学年。高校進学を目前にした冴えない主人公が、高校デビューに向けて一生懸命変わろうとするのだが、例によって自分らしくない無理をしてしまうというお話。それ自体は繰り返し描かれてきたような気がするけれど、インスタグラムでのコミュニケーションや主人公がYouTubeで動画を作っていたりとイマドキなティーンの生活が描かれているのが魅力。大人になって子どもができてもまだぼくにはティーン的な悩みが残ってるんだなと観ていて思ったけれど、案外誰でもそうかもしれない。