なにかに取り組まなければと思いながらも、気付けばインターネットを巡回して時間が経ってしまっているというのは誰にでもあるんだなあと、安心してはいられない。勇気ある著者のように、自分なりの打開策を、対処法を考えなければならない。
黄昏を迎えつつある広告冊子を通して、彼女が出会う人々のキャラクターの濃さは、現実の濃密さそのもの。寂しげなひと、ちょっとヤバいひと、孤独なひと、やっぱりヤバいひと。みんなどこかかわいらしい。その濃厚さが行き詰まった創作に刺激を与え、突破口のようなものを開いていく様子がすごく熱い。
ウシガエルのオタマジャクシを育てる高校生(当時)はぼくと年が変わらないので、特に共感を覚えた。彼だけでなく、ここに登場した人々は今はどうしているのだろうと、想像が膨らむ。
家で仕事をしていると、今日はなにも成果が出なかった、という悲観的な感想とともに深夜を迎えることは多く、時間に追い詰められている気さえしてくる。時間がない、時間がない、時間がない。もちろんそんな、ただ単に有意義を求めるだけのぼくの強迫観念と、ジュライの時間に対する切実さは比べ物にならないかもしれないけれど、それについて考え、なんとかしようとする彼女の姿には励まされる。
時間さえあればもっとできたかもしれないのにとか、本当はもっとできるはずなのにとか思わなくていいのだとわかったとき、少し楽になれた。いや、本当に洗われる気分だった。
写真もとても綺麗。出会った人々やその自宅、アイテムの数々が、飾らないそのままの生活感とともに切り取られている。それでいて色合いがとても良い。インターネットを使わない人々の、決してひとに見せるようには整えていないであろうその暮らしぶりが、そのままで画になる。もちろん撮ったひとのセンスと技量あってこそだと思うけれど、現実そのもののかっこよさみたいなものが感じられる。