2018/02/05

『アドベンチャー・タイム』について思うこと


 カートゥーン ネットワークのアニメーション作品『アドベンチャー・タイム』を観ていていろいろ思うこと気づいたことがあるのでメモ。初期から視聴していたひとや、最新シーズン含めて全部追っているひとに比べればまだまだ浅いぼくだけれど、一応自分なりの考察を記しておく。
 ああいったデフォルメの度合いや自由度が高い作品についてあんまり考察するのもナンセンスかもしれないけれど、とにかく言葉にしておきたいくらい熱がたまっているので。語り合える相手がいたらいいんだけど、それが身近にいないのでこうして書くしかない。


どういう作品でどこがおもしろいのか
 
 不思議なウー大陸で人間の少年フィンと犬のジェイクの二人組が冒険をしたり、遊んだりするお話。基本的には剣と魔法の世界で、悪党や怪物と戦ってお姫様を助けるというRPG風。なんだけど、ただ単に剣と魔法の世界というだけではなく、ほとんどあらゆるものが擬人化されていたり、ロボットやコンピューターといったハイテクが登場したりして、ほとんどなんでもありの世界観である。もちろん一見かわいらしい絵柄の中で見せられる毒も魅力のひとつだ。

 だいたいその舞台からして実は核戦争で荒廃して1000年が経った地球なのである。あんなかわいらしい世界観の設定としてはかなりインパクトがある。ちょくちょく登場する現代文明の名残とも言うべき道具や、背景で地面に埋もれている戦闘機や自動車といった要素が、カラフルなファンタジーにスパイスを効かせているのだ。

 そういう、なんでもありのようでいてちゃんと設定がある、というのがポイントだろうと思う。ただ単にカオスというわけではない。ただ単にかわいらしいだけで、全くストーリーが進行しない1話完結ものというわけではない。確実に一本の軸があり、確実に主人公は成長していて、確実にその世界にはなにか謎がある。子供のような素敵で自由な発想が溢れる世界観と、そういった一筋の旅路のような面がバランスを取っているからこそ、ここまでおもしろいのだと思う。

 それからなんといっても絵柄がおもしろい。ここ最近のCNの作品は、『スティーブン・ユニバーズ』や『ぼくらベアベアーズ』などもそうなんだけど、それまでのアメリカのいわゆるカートゥーンっぽさとは一線を画しはじめている気がする。『パワーパフガールズ』や『デクスターラボ』といった、ハンナ・バーベラの雰囲気がまだ強く残っていた初期の作品(CNはもともと『原始家族フリントストーン』や『宇宙家族ジェットソン』などのハンナ・バーベラの子会社として設立され、その流れを継いでいる)に比べると、だいぶCNとしての独自性が確立されてきたというか。それで、その中でも『アドベンチャー・タイム』のタッチはおもしろい。美しいとさえ言える。

 デフォルメされているからこその線の自由さや、綺麗な色使い。絵を描く人間、それもデフォルメが好きな人間としては注視せずにはいられないセンスである。そしてそんなふうにじっくり見ていると、背景の描き込み具合も際立ってくる。隅から隅まで楽しい絵でいっぱいだ。


懐かしさと親しみやすさ

 最初に観たときからどこか懐かしい感じがした。絵柄はかなり新鮮なものなのに、そこかしこに懐かしさがあった。
 作者のペンデルトン・ウォードによればRPGゲーム、特にその元祖である『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の影響が強いらしく、だからこそゲームの郷愁みたいなものがあるのだと思う。それはずっと後続であるゲームボーイ世代のぼくですら感じられるもので(ゲームボーイの影響もかなり強いと思う)、限られた空間に没入して遊ぶ楽しさや、部屋で友達たちと寝転がって遊ぶ楽しさみたいなものが、作品のあちこちに込められているのだろう。

 そのほかにもウォードはインスピレーション元として、ポール・ルーベンス扮するキャラクター「ピーウィー・ハーマン」による子供番組『ピーウィーのプレイハウス』を挙げているのだが、そこもぼくが懐かしく感じるところだろう。アメリカ人でもなければ全然世代でもないのに、ぼくは子供の頃あれのVHSを死ぬほど見返していた。あのカオスで毒々しい、子供らしい暴走感や狂気は確かにATに通じるものがある。絵柄こそ従来のカートゥーンものとは違うが、しっかりアメリカ的な毒と明るさのカラーを受け継いでいるのである。思えばピーウィーのあの番組も、家具でもなんでもあらゆるものに目と口がついているもんなあ。冷蔵庫の中の食品まで擬人化されている発想には子供ながらに感動した。その冷蔵庫をはじめ、ストップモーション・アニメがふだんに盛り込まれているのがまたいいのだ。

 世代は限定されるものの、アメリカの子供たちがどういう世界を見ているのかというのを、あの番組を通して感じ取っていた気がする。実際はもっといろいろな側面があるのだろうけれど、紛れもなく『ピーウィーのプレイハウス』はぼくにとって合衆国を覗くひとつの窓だった(ちなみにプレイハウスでは窓枠もしゃべっていた)。『セサミ・ストリート』も好きだったが、かわいらしく綺麗に整えられたセサミの世界よりもピーウィーの素直な狂気の方が親しみを持てたものだ。少なくともピーウィーは子供たちにABCを教えたりはしない。

 あとは、ジャパ二メーション的演出が目立つ。これはもう製作側のコメンタリーを参照しなくとも、見ているだけでわかる。異様にキラキラ輝く瞳やレーザー光線が通り過ぎたあとに遅れて起こる爆発(マップ兵器)などは、国産アニメにあまり通じてないぼくでもわかりやすい。有名作品のわかりやすいパロディもあるけれど、きっと目の肥えたひとならもっとその特徴を見つけることができるだろう。日本アニメに限らず、他にもあらゆる作品のパロディやリスペクトが見られるわけだけれど、そういう作り手の好きなものの要素を遠慮なくどんどん取り入れている姿勢が、親しみやすさを生んでいるのだと思う。いろいろなカルチャーがごちゃごちゃになっているところもまたアメリカ的なんだよね。どこの国の影響が強いとかそういうことではなく、とにかくいろいろなもの、楽しいもの、好きなものが詰め込まれた世界観が作品を豊かにしているのだ。


ちょうどいい設定

 支離滅裂なようでいて、ちゃんと設定がある。それもかなり細かいというか、よく出来ている。同時に適度にゆるいのもすごい。創作とはかくありたいと思う。

 1話完結もののように見えてちゃんとストーリーを前回から引き継いでいる(主人公フィンがちゃんと年を取る)。それでいながら1話だけ見ても楽しめるように出来ているのがすごい(人物の相関図はある程度知っておく必要があるかもしれないけど、それも見ていればなんとなくわかるし、以前のエピソードと関連があるときはちゃんと登場人物が以前起きたことに言及してくれるからわかりやすい)。
 そもそもシーズン1の第1話からしていきなり途中から始まるからね。途中というか、とにかくなんの説明もなしに始まる。しかも、その世界独自の日常が描かれるならまだしも、ゾンビが大量発生してしまったという、まだデフォルトの日常を描いてもいないのにそれが壊される話で、とんでもない初回だったりする。
 それが前編で、後編では犬のジェイクがコブコブ星人のランピーに足を噛まれて(?)、コブコブ星人化してしまうというお話。コブコブってなんだよ。そもそもまだジェイクの紹介さえきちんとできていないのにそいつがいきなり異星人化してしまう話って。
 しかし、それがまさにあの世界独自の、普段の日常なのだ。なにも起こらない日常などウー大陸にはない。これがウー大陸のデフォルトなのだと有無を言わさずにどんどん展開していくので、こちらもそういう世界なのだとすんなり受け入れてしまう。
 『スター・ウォーズ』だっていきなり途中から始まって、有無を言わさず固有の世界が展開して、途中で終わるけど、見知らぬ世界の一部を切り取って見せられている感じが楽しいのだ。

 回を追うごとに付け足されていくバックグラウンドも、作品に厚みを出している。付け足し付け足しの設定なんだけど、それまでのものと矛盾しないよううまく付け足している感じもうまい。
 アイスキングがもともと人間で、吸血鬼マーセリンとともに1000年前の戦争直後の廃墟をサバイバルしていたとか(おじさんと少女の終末世界の旅てのはやっぱりトレンドなんだね)、プリンセス・バブルガムは明らかに見かけ以上に年を取っていて、ウー大陸の起源を知っているらしいとか、主人公フィンの出生の秘密と、彼の家族や他の人間たちがどこにいるのかとか、はちゃめちゃに見えていた世界観が、どうしてあの形になったのかがちゃんと解明していく。

 そういう掘り下げ方をすると、大抵は最初の楽しいイメージよりやや深刻なトーンに変わってしまいがちなのだけれど、ATのいいところはそこまでシリアスになりすぎないところで、秘密が明かされてこういう悲しいことがあったんだということがわかったとしても、それでも前向きさやナンセンスを忘れない。ATらしさをちゃんと保っているのである。
 

音楽

 絵柄やお話だけでなく、音楽もATの重要な要素で、魅力のひとつだと思う。キャラクターたちは本当に歌うことが好きで、ことあるごとに歌い出す。この歌がまた本当に即興っぽくて、それでいてちょっといい感じ。適当なんだけどエモい。アニメーターが作詞作曲していることが多いらしいんだけど、声優のひとも上手に歌おうとしない、即興っぽく自然に歌っていてとてもいい。上手でなくていい、そのときの気分で適当に口ずさんでいいんだ。歌ったり踊ったりすることの本来の楽しさを教えてくれる。
 音楽のくだりはカセットテープやウォークマンといったローテクが登場するのも楽しい。
 どの曲も好きだけれど、ジェイクとマーセリンの曲は特にどれも好きかな。特にジェイクの「ベーコンパンケーキの歌」が好き。ジェイクの歌は本当に思いつきで口ずさんだみたいな感じのものが多いんだけど(「ベーコンパンケーキの歌」なんて、フライパンでベーコン焼きながら一瞬歌うだけ)その短さがちょうどいい。それくらいでいい。
 マーセリンの曲はとにかくどれもエモい。ヴァンパイアというだけあってゴスパンクのスタイルなんだけど、曲は全然暗くてなくて、切なさとパワーを感じさせる。パパが自分のポテトフライを勝手に食べちゃって本当にありえないという歌や、バブルガムへの複雑な感情を歌ったものは特にテーマソングと言える。1000歳のヴァンパイア・クイーンだけど、いつまでも年頃のゴスなのだ。


英雄は右腕を失う

 勇者や英雄の典型がモチーフになっている主人公のフィンだが、基本的に彼は右腕を失う運命にあるらしい。
 並行世界のフィンや、夢の中で年を取ったフィン、さらには前世であるショウコなど、フィンの別パターンに当たるキャラクターは皆右腕が義手である。前世から義手というのはもはや宿命だろう。フィン自身は父親との出会いによって右腕を失うことになる。父親との出会いによってだ。
 ルーク・スカイウォーカーを連想するなという方が難しい。もしかすると古くから英雄の典型像として、隻腕というのがあるかもしれない。それについてはまた調べたいけれど、とにかく間接的にとは言えほとんどお父さんのせいで右腕が取れちゃう(本当に取れちゃう感じ)というのはルーク的である。その後取っ替え引っ替えいろいろな義手を試すものの、うまく日常生活を送れず「パパのせいなんだからなあ!」と怒ったりするのがかわいい。
 ちなみに吹き替え版で声を当てている声優さんと関連して『鋼の錬金術師』の主人公を連想したりもする。あちらも義手でブロンドだ。
 
 ぼくは元来英雄や勇者といったキャラクター像があまり好きじゃないというか、興味ないのだけれど、このフィンに関してはかなり好き。根がゲーム好きの少年みたいな感じで親しみが持てるからかもしれないけど、全然ハンサムじゃなくて、結構コンプレックスがありそうなところもいいのかな。ちょっとおデブなところと、動物の被り物をしているのもいい。
 それでいながら中身は本当に非の打ち所がないほど勇気と正義感でいっぱいである。そして基本的にめちゃくちゃ強い。このあたりはやはり勝ち続けることが前提のビデオゲームの主人公要素が強い気がする。たまに負けたり失敗するんだけど、大した努力もなしにすぐリベンジを果たしてしまう。この無敵感と、たまにうじうじ悩んだりするところのバランスが非常に魅力的な造形になっていると思う。
 フィンのような友達が欲しい。


わけありプリンセス

 プリンセス・バブルガムもまた、一見典型的なお姫様のようでいて、そうではない。前述の初回エピソードの時点からすでに科学者であることが示され、非常にオタク気質である。そのことが関係しているかわからないが、統治者としても管理欲が強く、自分の王国と国民を守るため強硬手段に出ることも多い。というか実質的にほとんど独裁者である。
 というのも、どうも王国の成り立ちからしてバブルガムは本当にひとりで全てを築き上げたらしい。国民であるキャンディ・ピープルたちもバブルガムの手によって生み出された、言わば彼女の子供たちである。それを守りたいという気持ちが強いのも頷けるというものだ。

 物語を追っていればわかる通り、ボニベル・バブルガムは19歳などではなく、実際にはマッシュルーム戦争後のおよそ1000年前(マーセリンと後のアイスキング、サイモンの冒険よりは少し後か)からウー大陸で活動している。最近の、ぼくがまだ見ていないエピソードの断片的な情報によれば、どうやら核戦争後の廃墟の中を『フォースの覚醒』のレイよろしく終末的装備でサバイバルしていたらしく、そこでキャンディ・ピープルを作り出し、王国の原型を築いたと見られる。
 フィンの前世であるショウコの冒険が描かれるエピソードでは、ショウコが王国建設中のバブルガムと出会っている。悪者に雇われていたショウコは不本意にも親しくなったバブルガムのお守りを盗むが、緑色のいかにも有害そうな川に転落して死んでしまう(跡形もなく溶ける)。バブルガムは城を建設しながらもこの、恐らくは核戦争によって出来た川を、ピンク色のキャンディの川へと浄化していた。彼女は荒廃した土地を自らの手でキャンディ王国に作り変えたのだ。
 「わたくしの王国ではもう誰も飢えたりしない」というセリフ(厳密には少し違ったかもしれないけど)も印象的だ。戦争後の廃墟を生き抜いてきた彼女にとってキャンディ王国はようやく手に入れた我が家であり、家族であり、二度と過酷な世界に戻すものかという強い意志があるのだろう。

 
バブルガムとマーセリン

 なんでもカップリングするひとはいるもので、当然ながらこのふたりの組み合わせも「バブリン」などと呼ばれていたりする。
 バブルガムが戦後からずっと生きてきたことがわかると、1000歳であるマーセリンとの関係もぐっと近いものになる。ほとんどふたりは年が変わらなかったのだ。
 ピンクと黒、光と闇というようにまるで対照的なふたりだけれど、バブルガムは一見明るくも実は暗い一面があり、マーセリンも実は見た目とは裏腹の優しさを持っている。とてもいいコンビだと思う。
 マーセリンのあげたバンドTを寝巻きにしているバブルガム、バブルガムのかわいいセーターをいつの間にか着こなしているマーセリンなど、服を交換しているバブリンはめちゃくちゃかわいい。


 とりあえずこんなところかな。なんとこの作品、今年終わってしまうらしい。なんでも続き続ける昨今、潔いにもほどがある。クライマックスを迎えていろいろなことが明らかになるかもしれないが、しかしやはりATらしい雰囲気は健在だろう。プライム・ビデオで見られる範囲しか見てないけど、応援していきたい。