2012/08/30

Black Cat



猫は狭いところが好きだ。

2012/08/28

ノーテンワレ・ガール




頭蓋骨露出のノーテンワレ・ガール。

2012/08/25

Burton's Birthday

 ティム・バートンさま

 お誕生日おめでとうございます。まるで自分のことのようにうれしいです。
 初めてあなたの映画を観たとき、初めて観た気がしませんでした。まるで昔から知っていたかのような気分で、「ああ、そうだ、これだ」という感覚でハロウィン・タウンのパレードに見入っていました。ずっと前から、もとから自分の中にそれがあったかのような気分。初めて観たはずなのに何故か感じるノスタルジィはその後、14年間ぼくの中で育ち続けました。これからも大きくなることでしょう。あなたが、ヴィンセント・プライスやクリストファー・リーのホラー映画から感じ取っていたものを、ぼくもまたあなたの映画から感じていると思います。そうしてまた、ぼくの絵を見た人にも、それを感じてもらえればいいなと思っています。そういうふうにして「そういうもの」が生き続ければいいと思います。
 

2012/08/21

アイアンマン



キュイーン!
金とテクノロジーの力!

ハルク




超人ハルク興味がなかったのに好きになった。
綺麗な緑色だった。
変身前とのギャップも好き。


キャプテン・アメリカ



もっとごついキャラだと思っていたら映画ではわりとスリム。
一番年寄りのはずなのに一番かわいい顔してるという。


2012/08/11

STARWARS In Concert



 スター・ウォーズのファンでよかったと思える夜だった。
 コンサート自体初めてで、ぼくの席は真ん中の一番後ろ、一番上。そこから見えるステージは随分下で、遠く感じたけれど、照明が落ちてステージだけが照らし出されれば全然気にならなかった。おなじみの20世紀フォックスのファンファーレから始まると皆が歓声を上げた。さらにそのあと、黒地に青い文字でいつもの冒頭文が現れるとさらに大きな歓声。

「A long time ago in a galaxy far far away....」

 メイン・テーマが終わると、ホストを務めるアンソニー・ダニエルズが登場(C-3POの中の人)。真っ黒なスーツで現れて日本語で挨拶すると、綺麗なイギリス英語で解説を始める。その声はよく聞き慣れたプロトコル・ドロイドそのもの!
 
 前半は銀河共和国の栄光の時代が次第に黄昏を迎える様子とアナキン・スカイウォーカーの生い立ちをテーマに曲と映像が進行し、全ての曲の合間にダニエルズが語りを入れてくれる。まさにサーガの語り手。とにかく声が良く通り、発音が綺麗で、表情豊か。ユーモアもたっぷり。突然、黒いジャケットの前を開けると、なんと下には金色のベスト。その瞬間にC-3POのキャラクターに切り替わり、おなじみのモーションと劇中の台詞を披露。まさかあんなすげえものが観られるとは思わなかった。とっても素敵な人だった。ぼくはC-3POもアンソニー・ダニエルズも大好きだ。

 このコンサートはオーケストラが演奏するとともに、そのバックのスクリーンに特別に編集した映像が流れ、ステージのライトがさらに演出を手伝うという、かなり派手なもの。日本でこんなに派手なSWイベントを観られることがもうすごくうれしい。

 アナキンの奴隷時代からポッドレースでの勝利、共和国に忍び寄る影、アナキンの成長、パドメ・アミダラとの再会と恋、道を誤るアナキン、そうしてダース・ヴェイダーと帝国の誕生(インペリアル・マーチ!)という具合で前半が終わる。何度も見返している映像のはずなのに、改めてこうして生演奏と一緒にまとめてダイジェストで見せられるとやっぱり感極まる。だから、曲のたびにうるうる泣いた。アナキンの人生は結局一度だって自由だったときがないんだな・・・。

 後半は旧三部作に移って、アナキンとパドメの子供達、レイアとルークの物語に焦点が当てられる。レイアとルークそれぞれのテーマやモス・アイズリーのカンティーナ・バンド、小惑星帯での追跡劇、ヨーダのテーマ、デス・スターをめぐる宇宙戦、エンドアの森・・・。映像は新三部作の共通したシーンなども織り込まれて大変な盛り上がりを見せる。どの曲も素敵だ。普段から気に入って聴いている曲ばかりなのに、そんな曲をこんな演出で聴かせられたらうるうるするに決まってる。大好きな映画と大好きな音楽で涙を流すのは気持ち良い。この素晴らしい映画音楽を作曲したジョン・ウィリアムズは今年で80歳になるらしい。本当に天才。

 そんな音楽と映像、語りの様子はまるで映画というよりは神話とか、おとぎ話のように見えた。まさに「遠い昔」という冒頭文がぴったり。ダニエルズのあの語りは、よく知っている映画をちょっと違う物語のように感じさせてくれて、でも映像も音楽もお馴染みのものばかりで、それは少し不思議な感覚だった。
 最後は勝利を祝うテーマからのエンディング。デス・スターや皇帝が滅び、闇の殻を破ったアナキン・スカイウォーカーは帰還を果たす。レイア姫はルークとハン・ソロにメダルを授与してにっこりと微笑み、銀河中が平和と勝利に歓声を上げた。
 まるで6部作を通しで観たような気分。すごく充ち足りた時間だった。


ロビーにはお馴染みのコスプレ集団がいて記念撮影合戦だった。
ストームトルーパーとか撮りたかったけれどとても割って入れないので、
その辺をうろちょろしていた砂漠のガラクタ商人、ジャワを。


2012/08/04

「館長庵野秀明 特撮博物館」




 「館長庵野秀明  特撮博物館」行ってきました。
 ゴジラやウルトラマンなどの特撮作品の着ぐるみやプロップに資料など、
とても見応えのある展示でした。
 ショートフィルム「巨神兵東京に現る」もかっこよかった。
写真はそのガチャポンです。3種類で、お一人様5回までだそうです。


 そうしてミニチュアが大好きなぼくはこういうのを見せられておおはしゃぎ。


 ウルトラマンとかの戦いの最中にちらっと映るその足元の小さい道路や車、標識とかに目がいっていた子供時代。
 これが本物・・・・・・!



なんだろう、このノスタルジィな気分。
こんな景色、実際に見てしまったら絶望するに決まっているのに。
模型やフィクションだと、こんなにも興奮してしまう。
それは実際の災害とは、全く違うものだから。
むしろこれは人を喜ばせるための、”作られた破壊”だから。
ましてや危険な破壊願望、とかではない。
画面の中の大怪獣や火星人による破壊は夢そのものなんだと思う。
見慣れた風景を良い意味でぶち壊す夢なんだと思う。

2012/08/01

モーム「月と六ペンス」

 人に勧められて読んだサマセット・モームの「月と六ペンス」。




 ロンドンの至って平凡な会社員であるチャールズ・ストリックランドはある日突然妻子を家に残したまま姿を消してしまう。語り手である作家の主人公は友人であるストリックランドの奥さんにお願いされて彼を追ってパリに向かうが、主人公に妻子を捨てて出て行った理由を尋ねられたストリックランドはただ「絵を描きたかったから」とだけ答えた。それまで無趣味でなんの変哲もない、退屈なサラリーマンだった男が、芸術の呪いにかかってしまったのだ。ストリックランドというキャラクターはまるまるポール・ゴーギャンをモデルにしており、この物語はゴーギャンの伝記をもとにしている。

 ただひたすらストリックランドは嫌なやつで、とにかくストイックな生き方をしている。絵を描くこと以外には興味がなく、家族を失おうが友人を失おうが一向に構わないといった具合だ。主人公は途中で悲惨な事件が起きるまではストリックランドの近くで暮らすが、そのうち彼を見失う。作家として成功していた主人公はやがて、ストリックランドが移り住んだといわれるタヒチ島を訪れる。しかしストリックランドはすでに死んだ後で、島の住人達の語りで少しずつストリックランドの最期が浮かび上がって来る。
島の女と結婚したストリックランドはやがて島の人々とも交流しなくなり、山奥の家にこもって作品作りに没頭する。妻のアタは夫の世話をしたり町に降りて来て画材を買ったりと夫に協力する。その壮大な壁画が完成する頃には、すでにストリックランドの眼は見えなくなっているが、彼はその命と引き換えに作品を仕上げる。その最期の傑作を見たのは、アタと、それからストリックランドの様子を見に来た島の医師だけ。アタはストリックランドから完成した壁画は焼くようにと言われており、医師の制止もむなしく遺言通りに火は放たれる。

 生前はまるで誰の相手にもされなかった画家ストリックランドだが、死後になって絶大な人気を得ることになる。今まで彼を馬鹿にしていた人までもがころりと態度を変えるし、彼に捨てられ彼を蔑んでいたはずの元ストリックランド夫人すら偉大な画家の元妻であることを誇りに思い、出版社の取材に対して”夫”のことを得意げに語るのだ(「チャーリーのことを世間に伝えてやるのが、私の義務だというふうに思いますの」)。ストリックランドの作品を壁に飾った彼女は久しぶりに訪ねて来た主人公に対して「まあ、私のあの絵をごらんになってらっしゃるの?」なんて言う。もちろん彼女は”チャーリー”のこと、彼の生き様や最期なんてこれっぽっちも知らない。
 
 この本を読んで思ったのは、絵に対する評価っていうのは結局のところなんなのだろうということ。好みの問題か、それとも誰かが高く評価したから大勢もそれに流されるに過ぎないのか、ほとんどの人は自分なりの評価なんて下したりはしないのか。流行やファッションと同じようなものなのか。どうして生きている間まともに評価されないなんてことがあり得るのだろう。人は生きている人よりすでに死んでいる人間に敬意を払うのだろうか。同じ絵でも、作者が生きているか死んでいるかで違うのだろうか。生死も含めて表現なのか、作品なのだろうか。芸術というものに世間がこうも”冷たい”反応を示すのは何故だろう。ストリックランドの死後の名声によって、彼の元夫人が取るこの態度は本当に愛情だろうか。この女はストリックランドに対する冷たい世間の態度を象徴しているのかもしれない。
 なんにせよ、どうして友人がこの本をぼくに勧めてくれたのかはなんとなくわかった。どうもありがとう。

 絵描きとか、芸術を志す人には是非お勧めしたい本。


カポーティ「遠い声 遠い部屋」

 トルーマン・カポーティの「遠い声 遠い部屋」を読み終えました。
 去年の夏に「ティファニーで朝食を」を読んで以来の人生二冊目のカポーティです。「遠い声 遠い部屋」は彼が23歳(今のぼくと大して変わらない!)のときに書いた初の長編で、この作品により彼は若き天才として脚光を浴びることになります。





 母親の死によって、離婚していた父親の家に住むことになったジョエル・ノックス少年は、独りで父の住む屋敷に向かって旅発つ。アメリカ南部の小さな街”ヌーン・シティ”にたどり着いた彼は、不気味な老人の馬車で父の待つ屋敷に連れられるが、屋敷には奇妙な住人達―父の後妻エイミー、召使いの黒人少女ミズーリ、エイミーのいとこランドルフが暮らしていた。エイミーは南部黄金時代の思い出にだけ生きており、女装癖のある中性的なランドルフは立ち去ってしまった恋人に宛てて届くことのない手紙を書き続けている。召使いミズーリはただひたすら都会―ワシントンに行って雪を見ることだけを夢見ていた。彼らは最初のうちなかなかジョエルを父親に会わせてくれないが、やがて少年は廃人となってベッドの上で動けずにいる父親の姿を見せられることになる・・・。
 少年ジョエルは奇妙な大人達に囲まれながら、やがてやってくる大人の世界に戸惑う。彼らの住む屋敷は、寂しげな西日を浴びているイメージ。これがとっても悲しげではあるけれど綺麗。町に住む双子のかたわれ、黄色いサングラスをかけた少女アイダベルが犬を連れて夏の日差しの中あぜ道を歩いて来る光景も、ノスタルジィな感じで好き。屋敷でのシーンは、住人達は確かに魅力的ではあるけれど、どこか息苦しいところがある。だから双子のアイダベルとフローラベルが登場する屋敷の外のシーンはすごく開放的で、気分転換になる。読んでいるこちらは多分ジョエルと同じ気分。双子と遊ぶジョエルは元気に見える。
 お気に入りのキャラクターはこのアイダベル(フローラベルも可愛いけれど)と、ランドルフ。アイダベルとフローラベルの双子は、前者が乱暴なわんぱく少女であるのに対して後者がお澄ましお嬢様気取りと個性が正反対。アイダベルの服装がなんだか可愛い。とにかく黄色いサングラスが良い。
 ランドルフは中性的で女装癖 と、そのゲイっぽさが素敵。日本の着物を着たりとお洒落なところも可愛い。悲しい過去を持つランドルフ自身も魅力的だけど、彼の部屋にある物というか、コレクションの描写が良い。普段からほとんど意味の無いガラクタやガジェットが好きでもあるのでああいうシーンはすごく良い。ジョエルがランドルフになつくのも無理は無い。

 ぼくも今年で21歳になるし、これから本格的に嫌でも大人の世界に踏み込まなければいけない。最近は純粋にそれに怯えています。大人になりたくないというか、見たくも知りたくもないことがたくさん。”大人”と呼ぶことで自分はまだ違うと必死に区別してはいるけれどだんだんと自分も知らないうちに染まって行くんじゃないかという恐怖。去年20歳の誕生日を迎えたときよりもかなり如実にそれを感じます(あのときはまだ”なんとなくそんな気分”程度だった)。いろいろなものに縛られるし、なんに対しても価値を計ろうとし、やたら見栄を張るようになる。大人なりの自由もあるし未来への展望もあるように思えるけれど、最近では去年の誕生日に古いブログで書いていたような明日へのワクワク感が少し苛立ちに変わっているような気がする。とにかく寂しい思いさえしないで済めばいいのだけれど。この小説に登場する大人達と同様、世間の大人達が奇妙に見える。そうして自分もそうなっていくと思うとやりきれない。「なんらもなあ」という感じ。けれどなにが奇妙でなにが奇妙じゃないかもわからないし。もしかすると他人というものにひたすら違和感を抱きがちなだけかも。
 というような不安を抱いているときに、この本を読めてよかった。いびつな鏡がとても恐かったし、アイダベルに恋したし、ランドルフになついた。向こうで確かに手招きしているのが見えるから、ジョエルのように恐れず踏み込んでいくしかないのかもしれない。そうしてジョエルのようにもう一度後ろを振り返っておこうと思う。