この映画に関しては単に「レズビアンを描いた映画」とするには抵抗があるし、あまりそのテーマを念頭に置いて考えたくない。わざわざ同性同士の恋愛というラベルをつける必要がないからだ。この映画で描かれていることは異性同士の恋愛でも普通に起こり得ることなのだし。それでも、終いまで観ると、やはりアデルが根っからのレズではないことも、エマとの間に生じるズレ要因のひとつとなったのだと思う。同性愛かどうかはさほど重要ではなく、彼女はただ、エマという人、鮮やかなブルーの光線を放つエマその人が好きになっただけだったのだろうと思う。
たとえば、労働デモのシーンとプライド・パレードのシーンの対比。
前半でアデルの高校生としての暮らしぶりが描かれるわけだけれど、その中に労働デモに参加するシーンがある。仲間と騒ぎたいだけの興味本位で参加しているのか、本当に政治的関心が強いのかは少し計りかねるけれど、見たところ前者としての印象が強い。もちろん、アデルとエマの属する世界や階級(この言葉を使って人間やその家庭をカテゴライズするにはやはり抵抗があるのだけれど)の違いを描いてもいるのだろう。だが、その後になってエマとともにプライド・パレードに参加するシーンではずいぶん違った印象を受ける。アデルは労働デモのシーンほど熱狂している様子がない。イベントの性質が違うので、怒鳴り声を上げることもないのだが、それでもどこか心ここにあらずといった様子でぼうっとしている印象を受けるのだ。ノリきれていないんだよね。
アデルとエマの違いは徹底的に描かれる。たとえば家庭や進路がそうだし、ボロネーゼとオイスターはその違いのアイコン。フランスでの現実的な格差のことはよくわからないけれど、違いのポイントを探していくのも映画を観る上で楽しいと思う。
最終的にずっと囚われていたものからふっきれて、前に進もうとするアデルからは力強さと成長のようなものを感じる。十代の終わりから二十代前半というかなり重要な時期を捧げてしまったものから脱却するなんて簡単なことではないのだけれど、誰もが経験することなのかもしれない。アデルの場合、それがエマだったということ。アデル自身がブルーになっていたのが印象的だ。それも、劇中登場したどの時期のエマよりもずっと濃い青をまとっていた。時間の経過とともに、どんどん青くなくなっていったエマとは対照的な姿だが、それはエマとの関係が終わり彼女の影響下から脱しても、自分にとって大切なものは変わらず抱き続けているのだということを表していたのかもしれない。最後はアデル自身がブルーになったのだ。
ところで、アデルの父親が芸術家志望のエマに「芸術で食べていくのは大変だ」とかなんとか講釈を垂れるのだけれど、美術の道を志す人が、ろくに知りもしない外野から「食べていくのが大変だ」などと無責任な忠告をされてどんなに苛立ちを覚えるか、ぼくは知っている。だからあのシーンでのエマの絶妙な表情には感動した。絶対苛立ってるだろうな、将来が不安定でよく見えないことは本人が一番よく知っているのだから(それでいて相手はあくまで自分の身を案じて言っているのだから、苛立ちをどこへ向ければいいのかわからない)。
それでもアデルの両親の「レベル」に合わせて、相手にとって都合の良い返事をしてなにごともなく会話を進めるエマを「大人だなあ!」と思った。いやあぼくだってああいう状況でああいったことを言われても憤慨したりはしないけれど。
未だに判明しないが、アデルのクラスメイトのものすごいつり目の人が気になっている。エマとともに遊びにいったアデルがクラスメイト達からやいのやいのと言われたあとで、アデルを擁護しようとする彼女。この女優の名前がわからないのだ。キャスト名を片端から画像検索にかけてもわからない。ノンクレジットだろうか。わかる人がいたら教えていただきたいです(資料が乏しいので似顔絵がいまひとつですが・・・)。その後アデルの誕生パーティにも来て、リッキ・リーの「I Follow Rivers」に合わせて踊る姿が大変綺麗で愛らしいのです。
ウーン、生牡蠣が食べたい。ボロネーゼは映画を観た翌日に食べた。