確か「イミテーション・ゲーム」の感想で西尾維新先生の「世界は天才に厳しい」という言葉を引用したと思うのだけれど、この映画もまたそれがあてはまると思う。直接的ではないにせよ。ディストピア未来が主流の近頃だけれど、この映画ではこれでもかと華麗な映像美やデザイン性とともに夢のような未来世界を見せてくれる上、ディズニー的ジョークも連発され大変楽しい。
しかし驚いたことになにかの才能に秀でた者を選んでトゥモローランドに招待し、大多数の一般人にはその存在を隠したままというのは、選民思想ではないかという否定的感想を持った人が多いらしい。まあ他人の感想にはあまり興味がないのだけれど、頷けるところもある。だが、それも踏まえて思ったのは、トゥモローランドは天才が自分の分野に没頭できて、現実世界をより良くするための技術革新をする場所というだけでなく、天才と呼ばれる人々のためのユートピアとしても考えられるのではないかということだ。実際にトゥモローランド建設に関わった歴史上人物たちは皆天才で、テスラ、エジソン、ヴェルヌ、ディズニー、アインシュタイン・・・明言はされていないがロケット的ガジェットが登場したり、ディズニーランド内のトゥモローランドにも関与しているためヴェルナー・フォン・ブラウン博士などもそこに加わっているはずで、史上に登場する天才的人物はだいたい関わっているのではないか。そしてその目的は、明日を創るための技術を研究するところであるのと同時に、「才能」を現実世界の抑圧から守るためなのではないか。
そりゃ、才能のある人のための場所だから選民思想的なのは当たり前である。けれど、それを完全に悪いことだとはぼくには思えないのである。その才能故に孤独に生きるしかなく、時代や世界のせいで不遇な運命を辿った人がいるのは、「イミテーション・ゲーム」のアラン・チューリングを見てもわかるはずだ。そう考えれば、大多数の「普通の人々」のほうがずっと選民的と言えないだろうか。才能はときに嫉妬されるし、恐怖すらされるものなのだ。