2019/09/24

「エドウィン・マルハウス」を読み返す

 この夏はまたスティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」を読み返していた。読み進めていないものも結構あるのだが、これもたまに読み返したくなるので。特に子どもたちがトレーシングペーパーで漫画本を写したり落書きをしたり、エドウィンが漫画や文章を書いたりという描写が好きで、なんとなく自分の創作意欲も刺激されるような気がして読み返したくなる。なによりこの本はボリュームがあるのでなにかひたすら読みたいというときにもいい。最初に読んだときの感想はここでもイラスト入りで載せたけれど、何回か読んだあとだとまた印象も違う。最初はエドウィンが精神的に参ってしまう過程や、ジェフリーがだんだん親友の伝記を書くことに取り憑かれていく様子がおもしろかったが、今回前よりおもしろく感じたのは、ジェフリーがエドウィンに対してこいつ本当はバカなんじゃないかと薄々感づき始めるところ。というかこういう印象は最初に読んだときにはなかったのだが、全体像がわかると細部からそういうのが感じられる。ジェフリーがそれらしく大げさに脚色しているとは言え、やっぱりエドウィン自身にもなにか非凡なものがあるのではないかという期待が、最初に読んだときにはあったのだが、読めば読むほどエドウィンは平凡で、書かれている短い人生は誰の子ども時代とも通じるありふれたものである。

 そもそも本当にエドウィンが天才肌だったらその子ども世界にはこんなに移入できないだろう。ジェフリーが伝記作家らしく脚色している部分を丁寧にはがしたり、あるいは隙間から少しずつ漏れ出てくるエドウィンのフツーさを拾っていくのが、このお話のおもしろいところである。それで、ジェフリーはエドウィンが本当はおバカなんじゃないかと気づきそうになるのだが、そのたびにいやいやまさか、エドウィン・マルハウスは天才だぞと自分に言い聞かせるかのように観察を軌道修正するのも可笑しい。エドウィンのおバカな行為にはなにか意味があるに違いない、と。本当の天才はこの伝記を書いたジェフリー君の方でした、みたいな見方は簡単なのだが、ジェフリーはどちらかというと狂人のレベルである。ジェフリーは天才に憧れるからこそ、ほかの誰かを天才に仕立て上げてその伝記を書き、天才に対して即席の優越感に浸るのだ。
 
 あと、どうもエドウィンの母、マルハウス夫人への観察がやけに細かい気がする。エドウィンの伝記を書いているのでその家族もよく見ているのはわかるのだが、どうも妹のカレンとか父親のマルハウス教授なんかに比べてマルハウス夫人の描写が細かい。登場するたびに今日はどんな髪型でどんなエプロンかとか、みんなで海水浴に行ったときは水着がどうだとか、いちいち細かいのだ。ぼくの印象ではエドウィンの服装だってそこまでちゃんと書いてないと思うのだが。ジェフリー自身のお母さんも出てくることは出てくるが、マルハウス夫人ほどの描写はなく全然造形が浮かんでこない。幼い頃友達と遊ぶと、自然そのお母さんがいつもそばにいる、だからそれも含めて観察している、というのはまあわかるのだがそれにしても……。さあ、どういうことだろうなこれは。