2019/05/03

時間はあまりに茫漠なので

 改元が決まった頃にも書いたけれど、これでとうとう生まれ育った年代が終わったわけである。もうとっくに平成生まれということで珍しがられることもなくなったけれど(90年代生まれも同様)、これからは、かつて自分が子どもの頃大人たちに抱いていたような遠さみたいなものを、自分の中にも持っていくことになるんだろうな。もちろんこれは、元号の関係ない文化圏でも同じことで、だいたい10年ごとに区切られた年代の中でひとは大人になったり年寄りになったり、お子様扱いされたり、懐かしんだりする。なんにしても、こういうタイミングで子どもが生まれて親になったというのは、ある種の巡り合わせだろうと思う。娘自身にしたって、旧時代の超末期に生まれて、これから先元号と同じ調子で年を重ねていくことになる。もしかすると、後々になって父親と同じ元号なんて嫌がるかもしれないけれど。でも、元年に1歳は覚えやすいよ。

 時間そのものが人工的なものかどうかはさておき(このあたりのことは詳しくない。惑星や恒星の動きが時間をもたらしているのであれば、宇宙自体が時間を生んでいると言えるだろうし)、しかしこうして時間というものを、キリストが生まれてから100年ごと、その内の10年ごと、あるいは君主在位期間で区切って時代を定義しようというのは、意味のないことではないと思う。いろいろな区分があってややこしいこともあるけれど、しかしそれだけ時間の流れには視点やバリエーションがあるということで、たとえばアベンジャーズの新作を観ている3時間ならあっという間だが、田舎でバスを待っている1時間は半日くらいに思えたり、いやそれはちょっと違うが、まあとにかく自分の中でも人生がいろいろな時期に分けられるのである。そうでなければ時間とはあまりにも茫漠で捉えどころがなく、いつなにが起こったか思い出すこともできないだろう。ちなみにぼくは現代史を考えるときにやっぱりスター・ウォーズ1作目公開の1977年を起点にしがちである。1977年よりあとか前かで頭に印象付けているところがある。つまりはそういうことだ。