2017年1月23日

日記:2017/01/15 - 22

2017/01/15 日

 「ハリー・ポッター」原作シリーズの最新作「ハリー・ポッターと呪いの子」をやっと読み始めた。舞台用につくられた物語なので、本も小説ではなくスクリプト形式。読むのに時間がかからない上、テンポも良いので楽しい。
 それにしても相変わらずハリーはクソ野郎である。シリーズも世界観も大好きだがハリー本人はどうしても好きになれない。彼はあれだけ虐げられてきた経験があるのに、あまり弱い人に優しくないんだよね。もちろんそういう不完全さが現代的な英雄としての魅力になっているのかもしれないけれど。とりあえず彼にはイライラする。というか、息子に尊敬するひとの名前つけるのもうやめようぜ。ダンブルドアとかオビ=ワンの名前つけられたらそりゃ辛くてグレるよ。「アルバス・セブルス・ポッター」って、重圧しか感じられない名前でやばい。尊敬する恩師の名前だからって、このふたりの名前はちょっと意味を持ち過ぎちゃってるだろうに。第7巻の最終章にも大人になり子供ができたハリーの様子は描かれるのだけれど、そのときにこの名前見たときもなんて安直なんだと思った。きっとこの子は辛い思いするぞと思ったものだけれど、案の定この「呪いの子」でアルバスはそうとう苦しむらしい。

2017/01/16 月

 映画『沈黙 ーサイレンスー』のマーティン・スコセッシ監督来日会見に行った。監督のみの登壇ということあって質問もそれに対する返答も濃厚な内容で非常に圧倒された。聴いていて勉強になった。ぼくがぼんやり考えていた質問はだいぶスケールが小さかったなあ。

2017/01/17 火

 ラッセル・クロウとライアン・ゴズリング主演『ナイス・ガイズ!』の試写へ。今期のゴズリングは『ラ・ラ・ランド』だけではない。70年代を舞台にへっぽこ探偵が陰謀に巻き込まれるのだけれど、アメ車やポルノに彩られたサイケな色彩が楽しかった。
 書店で「沈黙」を買った。

2017/01/18 水

 「Firewatch」という山火事監視員が主人公のヴィデオ・ゲームの存在を知る。コロラドの山でひと夏のあいだ監視員の仕事についた男が、無線を通じて声しかわからない同僚とコミュニケーションを取りながら、山のあちこちに現れる謎を追うというストーリー。著名なイラストレーターがデザインしたというアメリカの大自然の色彩がとても良い。主人公の声はドラマ「マッドメン」のハリー役のひとらしい。テレビ広報屋の眼鏡の太った蝶ネクタイのあいつね。PCとPS4でできるゲームらしいのだけれど、iMacでも最近できるようになったらしい。やってみようかな。全編英語だけど。

2017/01/19 木

 もう木曜日だ。早いなあ。ぼくはどうも大人になりきれないせいか、体感時間の早さにショックを受けている。子供の頃はあれだけ長かった1週間、1日がこんなに短くなってしまうとは。この変化にまだ気持ちがついていけない。学生でなくなり、バイトもしなくなったので決まった場所に決まった時間に行くということがなく、それがより時間の早さに拍車をかけていると思う。
 
2017/01/20 金

 妻が友達と夕食に行くので夜はひとりだった。久しぶりに友達とオンライン・ゲームで遊ぶ。もちろんへたくそである。ぼくはヴィデオ・ゲームもアナログ・ゲームも得意ではなく、苦手なものには進んで手を出さないタイプだけれど、珍しくゲームに関してはへたくそながらも楽しめる。
 仕事に追われているとこういうこと考える暇がないから、かえって楽なのだけれど、落ち着いた時間が続くとだんだん自分の創作の悩みが頭をもたげてくる。映画のワンシーンを切り取って絵にしたり、既存のものをアレンジして描くのは楽しいし、テーマにも困らないのだけれど、やはり自分自身の創作もしたい。けれどそれを意識すればするほどなにも思いつかないし、なにを描いていいのかわからない。好きな映画や作品に対して自分なりのアプローチはできているとは思うけれど、今のままでは正直ただのファンと変わらないような気もする。ぼくは作る側の人間なのだろうか?評論や批評自体を作品に仕上げられるひとはいる。素晴らしいことだ。発表された作品については誰もが感想を述べる権利があり、その感想自体も新しい作品になれるのだ。ぼくもイラストを描くことで感想を発表してきた。けれど、どうせなら感想ではない作品もつくりたい。ひとの作品に触発されたものも描けば、依頼されたものも描き、自分で考えた世界も、まんべんなく描いていきたい。こんなことわざわざ言葉にするものでもないかもしれない。思うままに描いていけばいいってことはわかっているんだけどねえ。

2017/01/21 土

 海の向こうで金髪の皇帝が誕生したわけだけれど、最近ぼくがちょっとなって思うのは彼自身よりも彼にメロメロになっちゃってるひとなんだよね。こういうこと、もしかするとあと何年かすると非常に言いづらく書きづらくなってしまいそうなので(今日この国でも時の政府にケチつけることが全然流行ってなくて、水を差すようなことだと思われがちなように)こっそりさりげなくメモしておこう。
 生活の苦しいひとほど理想主義なひとよりも乱暴なひとを支持するってのは、最初はすごく不思議だったのだけれど、だいたいわかってきた気がする。それはもしかすると金銭的に貧しいのとともに心もなんとなく貧しくなっているせいじゃないかとね。「心が貧しい」ってのは別にそのひとのこと卑下してるわけじゃない。いろいろ辛いことがあるからこそ気持ち的に疲れてしまっている、という意味。そういうふうにダメージを負ってしまって余裕のないひとなら、美しい言葉で理想を掲げるひとよりも、多少暴力的だがパワーがありそうなひとのほうが、今の状態を変えられるんじゃないかと期待してしまうものなのかもしれない。ぼくだって、どうにか理想に思いを寄せられる暮らしをしているけれど、状況が違えばどんな考えを支持しているかわからない。もし出会う人、影響を受ける相手が少しでも違っていたら、何でもひねくれた見方をして、外国人嫌いで、男性優位を信じてやまず、客観的かつ包括的な世界史における日本史を自虐的だなんて言って、ホロコーストは無かったなんて言い出して、やられる方も悪いみたいなことが平気で言えちゃって、その卑屈さゆえに電車の中でベビーカーに嫌悪感を示すどうしようもない男になっていたかもしれない。ゾッとするね。まあ、ぼくの性格上いくつかは絶対無さそうだが。
 男って言えば、今回のこのことについて身近な男性、あるいは目が届く範囲で世間の男性たちを見渡してみると(ぼくの偏った感想であって統計を取ってるわけじゃないよ)、ああやっぱり男って基本的に綺麗なものより暴力的なもののほうが好きなのかもなあと思った。例のあのひと(この呼び方とてもしっくりする)の演説に勇気付けられたとか、前のひとより良いなんて意見が目について信じられなかったけれど、これがやっぱり男性性とかいうものなのかもしれない。もしそうなら、そんなものからは抜け出したい。男だって本当はもっと思慮深くいられるはずなんだ。硬い棒で相手を殴ったり、ただ精子を放出する以外にもできることはあるんだよ。
 ぼくの考えもぼくの考えで偏っているというのは十分わかっている。でも、こんなことをうーんうーんと唸りながらちょっと足りないところのある頭でなんとか考えているぼくみたいなのがいるってこと、ちょっと知って欲しかった。誰かに。

2017/01/22 日

 雲ひとつないすっきりした天気だった。ドッグ・フードを変えてからポコの体型がずんぐりしてきている。くびれが無くなって寸胴、普通のコーギーの体型。彼は元来コーギーにしては小さめで線が細かったのだけれど、シニア用の餌は異様に栄養価が高いらしい。動物でも人間でも痩せているより太ってる方が健康そう、なんてのはひと昔前の感覚だから、やたらと太っているのは犬のためにもよくないのだけれど、表情は前より満足げなんだよなあ。