「気持ち悪い文章」
教習所、いよいよ残すところ1コマとなり、そのあとは検定と試験となる。実技への苦手意識が強くそのことばかり気にしがちになっていたけれど、別に学科のほうが得意というわけでもない。要するに両方とも不安というダメダメな状態である。読み書きして覚えることは嫌いではないのだが、どうにも問題の文章というのは気持ちが悪い。読み手にその文章で述べられていることが正しいのか間違っているのかを問うだけという、そう言えばシンプルなのだけれど、だからこそ文章のどこに重点が置かれているのか、なにを強調しているのかがわからないので、内容が頭に入ってくるまでに時間がかかる。あと表現が一定でないところも気持ちが悪い。気持ちの悪い文章を読み解くのもなかなかきついものである。
「自転車乗りの罵声」
黄昏時を歩いていると、向こうからおじさんが自転車に乗ってやってきた。すれ違いざまにおじさんがこちらを憎たらしそうに睨みつけて、「このキ○ガイィィ」とダミ声で言ってきた。背筋がひやあっとした。
ば、バレたか。なぜわかった。
突然知らないおじさんに罵倒されて恐怖を抱いたというよりは、なにかを見抜かれた気がしておっかなくなってしまった。
こっちの台詞だ、と言い返す神経の太さや余裕はなく、怪しげな自転車乗りは走り去って行ってしまった。
「部分的共鳴」
作品集に使っているTumblrで、ちょっと嫌だなあと思うブログから描いた絵がリブログされた。リブログされた先をあまり覗きに行かないほうがいいという教訓にもなったのだけれど、もう少し気づいたことがあった。
ぼくが嫌だなあと思った数々のポストの中に自分の描いたものが混じっているということがなにを示すのか。
そんなやつに気に入られたくなどない、と言ってしまえばそれまでだけれど(世の中に対して描いたものを貼り出している身としてそれは随分勝手だろう)、相手にリブログされているということは、その一点においては共感が生じているということではないか。絶対仲良くなれなさそうな相手でありながら、共感が生じている。うっかり見落としてしまいそうになるけれど、これは結構重大なことなのではないだろうかと思った。
それはきっと、ぼくが相手に抱くほどには、相手がぼくに予断を持たなかったからではないだろうか。それはぼくが相手と相容れないであろうことがよくわかるような要素を、絵や文章に盛り込んでいないからではないだろうか。余計な情報を盛り込んでいないからではないだろうか。だからこそ、相手は予断を持たずにフラットな感じで、ぼくの描いたものに対して共感を抱いた。抱いてもらえた。
作品に個人的な部分を盛り込むのは大切なことだと思う。主義主張を盛り込むひともいるだろう。けれど、たぶんぼくはこのままでいいのだろうなと思った。絵にしても、本や映画のグラフィック・エッセイにしても、趣味や好み、思ったことや性格は出ていても、際立った主義主張など別になくていいのだなと。まあ、そんな立派に確立した思想など持っていやしないのだけれど。
「ホームページ改良の構想」
しばらくホームページの改良に取り組んでいたのだけれど、いろいろ考えて試したものの結局現状のままとなった。作品集ページをTumblrでなく自分で打ち込んで作ろうとしたのだけれど、結局ひと昔前のイラスト・サイトみたいなことにしかならず、そしてそれは今日あまり見やすい方とは言えず、さらに更新の手間が馬鹿にならないので諦めた。小さなサムネイルをだあっと並べてライトボックスで拡大されたり、あるいはたた単純に下から上へ縦向きに絵を並べて行くというものも考えたのだけれど、その手間とそれがもたらす外観などを天秤にかけた際、結局今のままでもいいじゃないかと。
なによりTumblrページをここまで数年に渡って更新し続けて、作品が蓄積され閲覧者もそれなりに得られているという、積み重ねみたいなものがなんだか愛おしくなってしまって、このまま使い続けようと思ってしまった。別に新たに作品集のページを作ったところでTumblrも続けはするのだが、そうすると更新するものがまたひとつ増えるというだけだし、今のままでもそれなりに依頼をもらえたりして、見るひとは見ているということを思うと、とりあえず現状のまま、中身となる作品をどんどん作るほうに時間をかけようよと思ったわけだ。
柄にもなく世のポートフォリオ・サイトなどをいろいろ見てまわって参考になりそうなものを探したりもしたのだけれど、正直言って全然なかった。少なくともぼくが望むようなスタイルのものは。ぼくと同じくらいの年齢、キャリア歴で、ぼくと同じくらいの仕事量、作品数で、商売の規模も同じくらい、というひとがいたら理想的なのだが、いるわけがない。これは別に自惚れでもなんでもなく、そんなになにからなにまで他人と条件が合うわけがないということ。
「おすすめのポートフォリオ・サイト」とか、「参考にしたいポートフォリオ・サイト」などという触れ込みで紹介されていたサイトをひと通り見て思ったのだけれど、なんというか、デザインやインターフェイスが凝った作りのひとほど、そこに並んでいる作品とか仕事は少ないというか、そんなに大したことのないひとが多かった。やっぱりね。逆にそんなに綺麗にまとめられていないひとのほうが、もうそんなのやっている暇がないんだよというような感じで仕事をしまくっている印象を受けた。仕事が仕事を呼ぶという状態に達していれば、ホームページなんて必要最低限のものがあれば十分という感じ。たぶん突き詰めれば近況や仕事の記録、連作先を載せただけのページ一枚で済むことだろう。僕の場合はそれだとちょっと物足りないというか、もう少しウェブ・サイトで表現したいことがあるので手狭だけれど、けれどもう少しシンプルさを突き詰めてもいいかもなあ。
トップページを開いた時点でどういうのを描いているのか、どういうことをしているのかが伝わるような形にしたいなあとも思うのだけれど、なかなか一枚のページにいろいろ詰め込むのには工夫が要る。表紙は表紙としてあったほうがいいのかもしれない。というかクリックして開くくらいは見るひとに任せればいいのだが。それでももう少し直感的に伝わる形は模索する必要がありそうだ。
その一方で、作品集以外にもいろいろページというか、小部屋的なものがあるのも憧れるんだよね。秘密基地的なホームページというか。全然サブのコンテンツを作る余裕がないのだけれど、いろいろ見るところ読むところがあるサイトにしたいなあと思っている。