「白湯」
カフェインを控えようということで1日中白湯ばかり飲んでいる。白湯自体はここ数年で結構好きになっていた。が、コーヒーやお茶を控えた今や身体に取り入れる白湯の量が半端ではなくなった。だからさあ、なんでそうやってなんでも大量摂取するかね。
人間はつねに水分が足りていない状態なので、本当はもっとたくさん水を飲むべきなのだそうだ。ものの本、というか、もののブログに書いてあった(正しくはひとのブログだろう)。しかし冷たい水はもちろん飲みすぎてもよくない。味のついた飲料や、コーヒーやお茶なども消化するのに力が要るらしく、曰くコスパがよくないらしい。
ということで、体温に近い白湯のほうが吸収されやすいのだとか。もちろん白湯もたくさん飲むと問題が起きる。毒素がよく流れるのと同時に、大事なものも流れ出てしまうらしい。大事なものがなんなのかはよくわからないけれど、とにかくどんどん流れるというのは実感としてわかる。というのも、非常にトイレが近くなった。年寄りのようにしょっちゅうトイレに行っている。
とは言えどうせ飲みすぎるのなら白湯のほうがいいのだろうと思う。
「冷静な俺」
ひとと言い合いになったときに、意識してか無意識なのか、とにかく相手の神経を逆撫するようにして煽り、相対的に自分の冷静さとか大人感を演出して優位に立とうとする、立ったつもりになる、そしてその上で論点を自分の都合の良い方向にズラし続け、相手を苛立たせ続けてどんどん口がうまくまわらないように仕向け、そんな相手をただのヒステリーであるかのようにやはり演出し、冷静な俺とヒスってるこいつ、みたいな構図を作り上げてその場を制することに長けているひとが、世の中にはたくさんいるのだろうなあ、と思う週末であった。
いや、例え話なのだけれどね。
「ブログは生物」
ちょっと書き留めておきたいなという気持ちを起こさせてくれるような引用の多いブログがあって、そのとき抱えていた悩みとか不安とかとちょうど合致したのか、ためになるなあ、などと月並みな感想を抱きつつノートにメモしたりしていたほどだったのだが、久しぶりに覗いて見たらなんだがとても質が落ちていた。ひとのブログをつかまえて質が落ちていたというのも、同じブログを書いている人間としてあんまりではないかとも思うのだけれど、そこはまあ、ご自身でなにか書いているのではなく、ただひたすら引用という体で転載をしているだけのブログなので、どうしてもその引用されているものの質は気になるわけだ。
なんというか、以前は知っているひとでないとなかなか知らなさそうな難しそうな本(なんと子供っぽい表現だろう)の文章だとか、わりと新鮮味のあるエッセイであるとか、まあとにかく引用しているもののセンスが良く感じられたのだけれど、しばらく見ないうちにすっかり様変わりしていて、いわゆる「ネットで話題の」という言葉が似合いそうな、普通にインターネットを使っていたらよく目にするタイプの安っぽい美談とか、そんな当たり前のことを言われてもと言いたくなるような自己啓発的ツイート、絵の良し悪しよりもネット受けしそうな内容だから拡散されていそうなイラスト・エッセイとか、そういうのばかりで埋められていた。まあ、一時的にそうなっちゃった、ってだけなのかもしれないので(引用や転載だけのブログとは言え引用や転載をする人間にも感情の起伏がある)、またしばらくして覗いたら違うのかもしれないけれど、なんというか、わっ、良いなと思ったブログがしばらくすると全然良くなくなっているというのは結構ある。ぼくが短期間に変わってしまったとう可能性は大いにあるにはあるだろうなあ。なんせ根が飽き性だ。どのブログもぼくが興味が持ってブックマークしてから変化しているように感じられるのも気になる。それはきっとブックマークするまでは、広大かつカオスな海で偶然見つけた、新鮮な魅力を持った未知のブログだったのが、ブックマークをして日常的に、短期間に繰り返し覗くようになった結果輝きが失われて飽きてしまうとかそういうやつ。いや、しかしそれを差し引いたとしても明らかにリブログされているものの種類が変わっているような気がするんだよなあ。あ、リブログと言ってしまったからTumblrのブログだということがバレてしまった。まあ、引用と転載と言えばね。
お気に入りのブログを探す旅はまだ続く。
「軽薄な輸入」
この3年くらいで「ブラックフライデー」のセールが目につくようになった。ブラックフライデーがなんなのかは各自調べるように。もう面倒くさい。いずれにせよクリスマスやハロウィンのように季節を楽しむものとかではなく、ただ単に商戦のために輸入した風習である。その前日にあたるイベントが本来はメインなのだが、要はクリスマス翌日のケーキのセールの部分だけわけもわからず「ケーキを売る日」として輸入したようなものだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。なにより嫌なのはこの軽薄な輸入のせいでクリスマスやハロウィンという愛すべきイベントまで一緒くたに批判に晒されてしまうことだ。商戦に利用されているという点ではどれも変わらないが、いやしかし、それでもクリスマスやハロウィンはちゃんとそれ自体に愛着があってのことだよ。そもそもこのふたつはそのイベントそのものを楽しもうとするからこそ買い物とかをするわけで。黒字金曜のセールは売り物がなんにも関係ない。
外国の文化から商戦に使えるものだけ上辺だけ取り入れるくせに、もっと見習うべきところは、うちの国のやり方には合わないだの伝統に反するだの言って都合よく無視し続けてどんどん時代に遅れていって、もう一体なんなのだろう。
なんだかまともなことを書いてしまった。まともだと思われてしまう。
「お世話になっております」
メールの書き出しで「お世話になっております」という挨拶が必ずと言っていいほど使われている。使っている。確かに本題に入る前にワンクッション入れるにはちょうどいい言葉だなとは思うのだけれど、しかしどのメールにも必ず入っているともうなにも考えなしに書いている感がすごい。なにをどうお世話になっているのか。もちろんそういう実際的な意味ではないということはわかるが、あまりにも便利に使いすぎると言葉は多分刃こぼれする。それにどうもやり取りとして逆に丁寧さに欠けるような気がするんだよね。
なので、最近できるだけそれに変わる言葉をなにか入れるようにしている。なにも思いつかなければ変わらず「お世話になっております」と書く程度の、ゆるいスタンスではあるのだけれど、少しでも違う言い回しを使う方が頭を使っていいかなと。いや、そんなだから一通メールを返すのに小一時間かかっちゃうんじゃないの。メールを打ってる間にしびれを切らした相手が電話をかけてきちゃうんじゃないの。まあしょうがない。
具体的にどういう言葉に置き換えているかというと、「お返事ありがとうございます」とか「ご確認ありがとうございます」とかそういうの。返信が前提である。ここから少しずつレパートリーを増やしたいなと思っている。
案件によっては結構な量のやり取りをするじゃない。ほとんどインスタント・メッセージというか、ちょっとしたチャットと言ってもいいくらいに何通もやり取りをする場合にさえ、その全ての頭のところに「お世話になっております」がついているというのは、ちょっとどうなんだろうと。もうその言葉には多分中身がない。中身のない言葉を意味もなく書き続けたくない。意味のないことは別に否定しようと思わないし、むしろ好きな方だけれど、意味がない上に楽しさとか美しさがまったくもたらされない謎の習慣はとっとと葬り去りたい。