2017/09/30

営業報告

 いつもの連載に加えていくつかあるので、まとめて紹介。



 「SPUR」11月号(集英社)「銀幕リポート」第20回では、セオドア・メルフィ監督、タラジ・P・ヘンソン、ジャネール・モネイ、オクタヴィア・スペンサー主演『ドリーム』を紹介しています。
 『ビッグ・バン・セオリー』が大好きなぼくとしてはジム・パーソンズ扮する嫌味なキャラクターに注目。女性で有色人種である主人公を二重に見下すとともに、自らの頭脳を過信する自信満々なNASAスタッフ(学者なのかな?)なんだけど、なんとなく『ビッグ・バン〜』のシェルドンから愛嬌を奪い去ってもっと嫌なやつにしたような感じ(宇宙工学はハワードの専門だが)。シェルドンもわりと差別意識を隠さないところがあるし。でもこの人、顔がかわいらしくてマイルドなので、冷たさや乾いた感じはするものの、どれだけ意地悪な役でもいまひとつ憎めない。
 逆に主人公たちを同性の立場から抑圧するキルスティン・ダンストの役は心底憎たらしい。顔もなんだか怖い。でもキルスティン・ダンストを嫌いにならないでね(ぼくが言うまでもないが……)。
 同性だけど異色という隔たり、あるいは同色だけど異性という隔たり(本作の主人公たちは夫や恋人からの理解を得られるのでこの点はそこまで強調されてはいないものの)、二重差別はそんな厄介なねじれも生んでいることを思い知らされた。




 「婦人公論」2017/10/1号(中央公論社)ではジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第20回の挿絵を描いています。夏休みのラジオ体操のスタンプを引き合いに、習慣の継続と連続の違いに触れてらっしゃいます。連続でなくとも積み重ねが大事ということでブロック風。



 映画『ムーンライト』のソフト特典エッセイのひとつにイラストを。エッセイスト3名、イラストレーター3名で3組ずつなのですが、どなたの文章との組み合わせかは購入されてからのお楽しみだそうです。





 「HOUYHNHNM Unplugged」第6号(講談社)のゾンビ映画特集にカット数点。ゾンビなロメロとアルジェント、マイケル・ジャクソンを描いたりしてます。ゾンビ映画といえば今月公開した『新感染 ファイナル・エクスプレス』がおもしろかったですね。あれもそのうちイラストを描こう。




 オダギリ・ジョーが日系ボリビア人ゲリラを演じる映画『エルネスト』オフィシャル・ブックにレビューを描いています。アクション・フィギュアのブリスター・パッケージ風。これ他の映画のことを描くときもやってみようかな。




 「UOMO」11月号(集英社)にもカットを多数描いてます。なんか、ちゃんと人間が描けるようになったなあ。



 「損害保険を見直すならこの1冊 第3版」(自由国民社)の表紙にワンカット描いています。

 というところです。

2017/09/22

画材について


 最近また画材を調整しているので、ここで一度振り返ってみる。
 色の塗るのは専らフォトショップでの作業になってしまったが、今もまだ線画は紙にペンで描いている。線を引くことが好きだ。ペインティングよりもドローイング派だろうと思う。
 
(よく見るとペンのお尻にたくさん噛んだ跡が……)

 ステッドラーのピグメント・ライナーと出会ったのは美術学校に入ったときだった。最初に一括で購入した画材の中にあったのがこのペンのセットだった。0.05、0.1、0.5、1.0ミリの4本セットだったと思う。このペンを使うのはもちろんドローイングの授業で、この授業には製図作業も含まれていたが、好きな授業だった。描く楽しさや大変さ、物の形の捉え方を覚えられた。授業としてはデッサンよりも自分に合っていた気がする。もちろんデッサンは軽視していないが、デッサンがどうも苦手というひとは、ペンによるドローイングという形で物や人体を描くのがいいかも。
 エドワード・ゴーリーの作風が好きだったので、0.05や0.1をよく使って描いていた。ゴーリー的な線の引き方にはぴったりだ。細かい作業も好きだし、なんといっても描き味が好きだった。滑らかで、加減次第ではかすれた線も出る。扱いやすかった。当然入学時に買ったものはすぐインクが切れたので、画材店で買い足し、他の太さも試してみた。結局いちばん多く使ったのは0.5だと思う。ちなみに学生時代によく使った画材店は神保町にある文房堂である。学校は曙橋だったので、千葉方面から通っていたぼくは新宿の世界堂まで行くよりも、都営新宿線の神保町の方が定期内だったので行きやすかった。そのおかげで神保町界隈を散策を楽しめたし、秋葉原にもよく行けた。あのあたりは今でも好きだ。ちなみに文房堂は母もよく使っていたらしい。
 
 学校を出たあとも変わらずこのステッドラーを使い続けた。しかし、だんだんと線に物足りなさを感じるにようなった。扱いやすく、思った通りの線が引けるものの、そのぶん強弱がなく偶発的な変化も出づらい。画家になる前の、商業イラストレーター時代のウォーホルの線に憧れてもいたので、ああいう途中で太さが変わったりにじんだりする線はなにを使えばいいのかなあといろいろ調べた。
 その頃は水彩絵の具で色をつけていたので、線のインクは耐水性である必要があった。それでとりあえずGペンというのを使うことにした。ゼブラだ。カートリッジ式ではなく、瓶のインクにつけて描くというところがかっこいいじゃないか。それになんだか漫画家みたい。


 これに慣れるのにはペンタブレットに慣れるのと同じくらい時間がかかった。全然思ったように引けない。意図しないところでぶちゅっと、インクが多く出てしまったりする。細かいところを描いているときにそうなったら悲惨である。それで、あまりインクをつけすぎないようにする。ペン先につけるインクが少ないとそのぶん頻繁に瓶につけなければいけなくなるけれど、変ににじむよりはいい。にじみを求めて使い始めたのに結局にじみを避けるようになってしまった。そうやって何枚もケント紙で練習するうちにいくらかはマシになり、仕事の絵もこれで描くようになった。ちなみに週刊文春での「お伊勢丹より愛をこめて」の最初のほうはステッドラーだったけれど、途中からGペン。翌年の「ヤング・アダルトU.S.A」の挿絵も全てこれで描いた。つまりこれまでの仕事のほとんどはこのペンで描かれているのだ。中には時間的問題で線画もデジタルで描いたりしているが。
 

 インクはこんなかんじ。開明のドローイングゾルーT、フィルム製図液墨。耐水性かつ遮光率が高いということで手を伸ばした。ステッドラーの製図ペンは日に当たったりすると薄くなってしまったりする。しかし、随分液体が濃いので描画面がもこもこしてしまったりする。普通のコミック用としてニッカーのコミック・インクも使った。
 それでかれこれ3年ほどGペンとインクで続けて来たが、未だに線をコントロールし切れない。似顔は必ずといっていいほどスキャン後にフォトショップのブラシで描き直すし、細かい描画もだいたい描き直す。インク量もコントロールできないのでなかなか綺麗な原画を作れない。汚くにじんだものばかり。するとだんだん原画に重きを置く感覚も薄くなってくる。紙に描くのはあくまで素体、本番はスキャンしたあとのデジタル作業というようになった。前述したようにいちからデジタルで描いたものも多い。Gペンが使いこなせないおかげで、デジタルでの描画が上達したとも言えるから、それは全然悪いことではなかった。デジタルを覚えたことで本当にいろいろと幅が広がったと思う。イラストの仕事は全てデータ納品なので、デジタル上で仕上げて完成させてもなにも問題はない。まあ、そんなわけで原画での完成度がどんどん下がっていったわけ。

 いくらでも修正、改変ができるデジタル作業に慣れきったため、アナログ作業での緊張感も薄れてしまった。どうせ後で直せるからまあいっか、みたいな感じ。
 プロのイラストレーターや漫画家の多くがGペンを使いこなしている。ぼくも使いこなせないといけないんじゃないかとずっと思って苦手ながらに使い続けて来たが、だんだんなんのためにこれを使っているのかわからなくなってきた。Gペンでへなへなに描いたものをコンピューターに取り込んでフォトショップで描き直す。この工程に意味があるのか。全くないとは思わないが、なんだかなあ。
 で、なにが問題かというと、なんと言ってもGペンがうまく使えないということにある。上達させればいいだけの話だが、これがなかなかうまくいかない。描きたいものが描きたいように描けないというのはなかなかのストレスだ。楽しくないことをあえてする必要があるだろうか。ステッドラーの製図ペンを使いさえすれば、思い通りに描けて楽しい。そりゃ確かに強弱はつけづらいが、その分いろいろな太さが用意されている。太い線が引きたければマーカーを使えばいいのではないか。
 というわけでつい最近はまた製図ペンを使い始めた。しばらくはイラスト記事中の文章部分にしか使ってなかったが、久しぶりに絵を描くのに使ってみたら、やっぱり非常に描きやすく、線の動きも読み取れて最高である。なにより手が疲れないし痛くならない。Gペンは変に力が入ってしまい手や腕が非常に疲れる。作業するにあたり手に負担をかけないのも重要だ。あえて辛い思いをしてまで描きたくない。製図ペンは非常に心地良い。今のところは自分にあった道具なのかもしれない。
 Gペンはすっかり諦めたわけではないけれど(使っていないインクもまだ随分残っている)、とりあえずメインで使うのは製図ペンがいいかもなあ。ロットリング・イソグラフというのにも興味があるので近々使ってみたい。


 おまけ。無印良品のこすって消せるボールペン。ゲルボールペンの書き味でありながらキャップ先端についているラバー部分でこすると鉛筆のように消せる優れもの。近頃の書き物は全部これ。漢字を間違えても綺麗に書き直せるので、日記のページもずいぶん見やすくなった。書き直しもできるので紙の上での創作もやりやすい。まあボールペンなので書いた跡が深いし、こすって消すたびに紙もよれよれになってしまうので、無限に書き直せるわけではない。
 画材、文具事情はこんな感じである。

2017/09/20

スコッチエッグ

 インターネットの楽しいところはなんといっても外国のひととやり取りできるところだ。と言っても今までそんなに何人もやり取りしたわけではないけれど、スコットランドのイラストレーターの女の人とは高校以来ちょくちょくやり取りをしている。高校時代に閲覧範囲がぐっと広がったときに彼女のブログを見つけて、ミリペンによる繊細なタッチと、しっかりした画力に裏付けられた絵が素晴らしかったので、つたない英語で感想を書いてメールしたのが最初だったと思う。以来インターネットの過剰な情報量に圧倒されてたびたび興味の対象を変えながらも、それでもなんとなく安定して使用できるSNSの登場で彼女とのやり取りを続けられている。インスタグラムではスコットランドの織部色の山々の写真を観ることができて、あちこち岩が散在している霧のかかった草原は、まさにホグワーツ城を目指したホグワーツ特急が煙を吐きながら通っていたような景色で、同時にシャーロック・ホームズが魔犬との闘いを繰り広げていそうな景色でもあった。あの環境があのかっこいい絵のタッチを生むんだろうか。繊細さと硬さが同居して、ドライで古風、けれどそこまで無愛想でもないあのタッチ。
 先日、珍しくフェイスブックのメッセンジャーに彼女からメッセージが届いた。たまごっちが欲しいが手に入らないのでそっちで売っていないかなという内容。もちろん売っているので、アマゾンのリンクを貼って返信した。オリジナルが欲しいということだったけど、ガチの96年製よりも最近出た復刻版の方が安いし新しいよ。復刻版を探してたから全然オーケー。
 さて購入方法である。日本のアマゾンにあったわけだが、これは外国のひとも購入できるんだろうか。こっちのひとでもアメリカのアマゾンを利用している人はいるけれど、アカウントを別に作ったりしているんだっけ。なんだかよくわからない。そんなことも知らないのかと言われそうだが、ぼくはなんだかんだネットに疎く、外国のものを買うのはもちろん、通販だって実のところよくわかっていないところが多い(我が家が使うアマゾンのアカウントは専ら妻のもの)。方法はいくらでもあるんだろうけれど、それを英語で説明するのも面倒くさいし、ある程度は向こうだって調べていることだろう。代理購入してペイパルかなにかでお金のやり取りしたっていいけれど、それも面倒くさい。ていうか、そんなに高いものじゃないし、プレゼントしちゃえばいいじゃん。それに彼女、最近入院して脚の手術をしていたから、一応お見舞いになる。
 というわけで、よかったら買って贈りますよと言ったら、大変喜んでいた。それならこちらからもなにか贈るよ、UKのものでなにか欲しいものある?
 UKで欲しいもの。なんだろう。すぐに思いつかず妻に聞いてみると、例によってロンドン土産のコーギーのぬいぐるみとか言う。スコットランドに住んでるひとにロンドン土産を頼むのはどうなのか。と言ってぼくがぼんやり思いついたシャーロック・ホームズのグッズとかも同じことであった。じゃあハリー・ポッターの何かとか、ドクター・フーの何かとか?何かとはなんだろう。そしてぼくはドクター・フーを一度もちゃんと観たことがない……って結局オタクなグッズしか思い浮かばないので、なにかUKっぽいものを!とお任せでお願いした。と、さっきからスムーズに英語のやり取りができているように見えるが、実際は返信するたびにネット検索と翻訳アプリを使いまくって一文ずつひいひい言いながら書いていた。言いたいことを言いたいニュアンスのまま伝えようとするのが、一言で済むものでも大変。
 アマゾンからたまごっちが届いたが、小さな物なので箱の中にずいぶんなスペースが余っている。そこで妻のアイデアでスーパーでうまい棒をたくさん買ってきてスペースに詰めた。こうやってプレゼント贈るひとがネットにいたらしい。さらに原宿のキディランドに行ってピカチュウとかハローキティの食玩を物色する。スコットランドの彼女はこのあたりの日本製キャラクターものも好きなようだったから、気に入らないということはないだろう。でもあまり日本感出すのは趣味じゃないしダサいのでそのあたりにしておく。
 かくして箱の中はほどよくぎゅうぎゅうになった。手紙を書いて箱をテープで頑丈に封印する。この手紙ももちろんコンピューターに助けられながら書いた。文法的に正しいのか、体裁が整っているかは二の次で、とりあえず伝えたいことを、悪い意味に取られることのないように書いた、つもり。ぼくの場合はひとまずそれで十分だと思っている。それでもこれまで特に誤解や問題なくやり取りができているのだから、まあまあ伝わるだろうと思う。
 郵便局に行って、EMS(海外スピード郵便)の伝票を書く。自分で外国に手紙も出したことがないし、荷物も初めてだ。個数とかそれぞれの重さとか値段とかの記入欄があって少し焦ったが、ひとつずつ計算して書いていく。
「『Toys』って、具体的になんですか?」 
 郵便局のひとに聞かれたので、
「えーと、プラスチックでー」
 我ながらひどい答えだった。だいたいのおもちゃはプラスチックだ。積み木とかじゃない限り。
「なんか電池入れて動くとか?」
「動くといえば動きます」
「どんな電池?ものによっては送れないかもしれないんですよ」
「えーと、ボタン電池でー」
「ボタン電池、それなら大丈夫かな。それでどういうふうに遊ぶものですか?このあたり詳しく聞いといたほうがいいんで」
 ええい、言ってしまえ。
「ていうか、たまごっちなんですよ」
「ああ、たまごっちねえ。たまごっちって英語でなんて言うのかしらね」
 と同僚の女性に聞く。
「さあ、『タマゴッチ』じゃないの?」
「そう書いとくしかないのかなあ」
「エレクトロニクス・ゲームとかですかね」
 とぼく。適当である。
「じゃあ、ここんとこにそう書いといてもらえます?」
 iPhoneでエレクトロニクスのスペルを調べるぼく。すると背後で自動ドアがスライドして、歩み寄ってくる気配。妻だった。仕事の帰りとちょうどタイミングが合ったので郵便局にいると伝えていたのだった。
「書けた?」
 伝票を覗き込む妻。
 現状を説明するのが面倒くさいので適当に「うん」と言っておく。
「電池が何個入ってるかわかります?」
 と郵便屋さん。
「一個くらいかと……」
「じゃあボタン電池が入ってるよってことも小さく書いといてください」
 んー、ボタン電池って英語でなんて言うのかな。すかさず手のひらの中にあるグーグルに「ボタン電池 英語」と打つと「Button battery」と出たのでそのまま書こうとする。すると妻が、
「ちょっとちょっと、Coin Batteryだよ。ボタンって打ったらそりゃButtonって出るでしょ」
 ええい、うるさーい!
 そんなことはわかってる!わかっているが焦っているのだ。
 郵便局員ふたりと妻が見守る中こうしてぼくは初めて海外宛ての伝票を書き上げた。
 ああ、これでぼくはこの郵便局では「たまごっちのひと」となってしまうんだろうなあ。仕事の請求書を出しに頻繁に使うところなのに。今後は「来たわよたまごっちのひと」とか言われるんだろうか。
 本当にあれで問題なく届くのかな。少し不安だがもう出してしまったものは出してしまった。あとは祈るほかない。途端、ぼくの頭には税関でぼくの出したダンボールがとめられる光景が浮かんでくる。赤毛でひょろっとした制服のおじさんが麻薬犬のブルドッグとともに箱を調べ、ボタン電池について調べようとして開封し、開けた途端いっぱいに詰め込まれているうまい棒を見て、そういえばランチがまだだったな、昨日カミさんと喧嘩したから今朝はニシンの燻製を食べ損ねていたんだった。こいつは日本のお菓子かな?なんだかうまそうだ。よう、ジャック、おまえも食うか?とブルドッグに尋ねるとブルドッグはうれしそうに短いしっぽを振り、そうこうするうちに他の職員も群がってきて珍しい日本のスナック菓子を奪い合い、うまい棒の、チートス並みにやみつきになる味に夢中になり、ボタン電池のことも忘れて仕事そっちのけで皆で指先をオレンジ色にしながらうまい棒を食べるという光景が浮かんだ。もちろんぼくの空想で、連合王国の税関がそんなんなわけがない。
 無事に届きますようにと思うばかりだ。

図書館と猫

 図書館に本を返しに行った。本来なら期限は前日までだったが、うっかり忘れてしまった。なにかと心を持ってかれがちになっていて細々した予定を忘れてしまう。
 前にも一度図書館の本を返すのが一日だけ遅れてしまったことがあったので、そこまで怒られたりはしないことはわかっていたけれど、それでもやっぱり気分はよくない。そういえば子供の頃、市の図書館から本を返してくれという葉書が延々と届き続けたことがあった。言われていた本は隔週で学校の校庭にやってくる移動図書館のバスで借りたものだったけれど、とっくに返していた。図書室や図書館の本を借りたままにして本棚に並べているほかのクソガキ達と違いぼくは律儀な良い子だったのだ。結局その騒動は図書館の確認漏れだったことがわかってごめんなさいという葉書が一通届いて終結した。あらぬ疑いをかけてきた上に菓子折りも寄越さない図書館に対して素直で良い子なぼくは全然腹を立てたりしなかった。腹を立てたりしなかった。
 そんなわけでとぼとぼと図書館の近くまで歩いてくると、一匹の猫が垣根の中からがさごそと現れた。そういえば子供の頃に飼っていたインチキロシアンブルーのデイジーも、図書館の垣根からぼくの日常に現れたのだった。母が早々に女の子だと判断してデイジーと名付けたものの、呼び名が定着したあとにそうじゃないことがわかって、それ以降見るからにふとましい顔つきで体もがっちりしたオス猫なのにデイジーと呼ばれ続けた。母は図書館でよく絵本「ねこのオーランドー」を借りていて、確かデイジーを拾ったときも借りていたんじゃないかと思う。デイジーはオーランドーに似ていたな。
 垣根から現れたその猫はピンクの首輪をしていて、顔は丸くて耳の毛が薄かった。柄は腹や足の白いサバトラ。このあたりは愛想のない外猫が多いけれど、首輪をしていて外を出歩いているのは珍しい。ぼくが立ち止まると、「うぇー」とブサイクな声で鳴いた。そのままこちらにやってきて足元にすり寄ってきたので、頭を撫でて顎の下をかくと、そこそこと言わんばかりに後ろ足をぱたぱたやって自分でもかこうとする。そんなに綺麗な猫じゃなさそうなのでそのへんにしておいて、図書館に向かう。すでに手がかゆい。
「あのう、一日遅れてしまったんですが」
 言いながらペンギン・ブックスのトートバッグから借りていた二冊を取り出す。
「いーえー」
 と受付の女性が軽く言った。
 その「いーえー」がさきほどの猫の「うぇー」となんとなく響きが似ている気がした。
 返却手続きはすぐ済んで、ぼくは空っぽになったオレンジ色のトートを肩にかけなおして湾曲した自動ドアをくぐって外に出た。さきほどのところにまだ猫はいた。道の脇の砂地に寝転んでいる。
 近寄るとまたぼくの方に寄ってきたので、同じようにして顎の下の柔らかいところをかいてあげたら、またしても「うぇー」と鳴いた。
 手が非常にかゆくなったので家に帰って入念に手を洗って、今度はうちの犬を触った。 
 

2017/09/09

『ダンケルク』(2017)


 1940年、ドイツ軍の侵攻によりフランス本土最北端のダンケルクに追い詰められたイギリス海外派遣軍。ドーバー海峡のすぐ向こうは祖国イギリスだが、ドイツ軍はすでに彼らを包囲していた。貨物船や漁船、遊覧船、救命艇、タグボート、水に浮くあらゆる船舶が緊急徴用されて兵士たちの救出へ向かったというこのダンケルク大撤退を、なんとか船に乗り込んで国に帰ろうとする若い兵士や、地上の部隊に襲いかかるドイツ軍爆撃機と戦う空軍パイロット、自らの意志でダンケルクに向かおうとする民間遊覧船の船長など、陸、海、空に視点を分けて、それぞれで戦いと脱出に挑む人々を描いた群像劇。
 イギリス軍のお鍋型のヘルメット、ブロディ・ヘルメットはいっぱいいるとより良いな。現実の戦闘機にそれほど興味はなかったのだけれど、本作を観ればイギリス空軍のスピットファイアが好きになること間違いなし。劇中のマーク・ライランスでなくともべた褒めしたくなるロールスロイス社製のエンジン(エンジンが停まっても飛び続けられるなんて知らなかったよ)、手に汗握る正真正銘のドッグファイト。空だけでなく、海も陸も、全てにおいて細かい描写があって、全部に焦点が合ってるかのようなノーラン作品の鮮明さが「イギリスの物」特有の独特のディティールと合わさって、まあ、とにかく没入しちゃう。没入するということは、それだけ悲惨なシーンに胸が痛くなるのだけれど、民間の小さな船が大挙して押し寄せて、イギリス軍が撤退に成功し、兵士たちが本国で予想外の熱い歓迎を受けるところでは劇中と同じ喜びを感じることもできる。チャーチルの有名な演説もやっぱり良い。帰還した兵士たちにトーストや紅茶が振舞われるところも、ぼくの好きなイギリス的温かさ。おうち感とでもいうのかな。ノーランは戦争映画も上品。

2017/09/06

ポーグ、BB-9E、スノーク


 ナイニーの声がはやく聞きたいな。BB-8のようなかわいらしい声ではなく、もっと邪悪な電子音になるのだろうけれど、原型の声は誰かがやるんだろうか。BB-8はビル・へダーがやっているわけだが。
 黒いアストロメク・ドロイドは旧作に登場しているし、なんなら黒い球体ドロイドなら、EP4の尋問ドロイドというのがいるし(黒い球体のあちこちから注射針やら電極やら拷問のツールが突き出しているやつ)、黒くてちょこちょこと動き回る小さいやつならデス・スターやスター・デストロイヤーでダース・ヴェイダーの足元を動き回るメッセンジャー、マウス・ドロイドというのもいる。わりとみんな不気味さとかわいさを両立させているので、ナイニーも難なく仲間入りできるだろう。どういう役割を果たすのかな?


 やはりSWのクリーチャー&エイリアンは黒目がちなものほどかわいらしいし魅力的。普通のキャラクターにしたってかわいいキャラはみんな黒目がちだ。ピカチュウとか。なんか、ポーグのグッズを買ったせいかフォルムがちゃんとしてきたような。やはり立体物が手元にあると形がちゃんとわかる。


 先日初めて『グーニーズ』を観て、アイコニックだがよくは知らなかったキャラクターであるスロースが、幼少時からの母親の虐待でああいう顔になったと知った。こいつは何者なんだろうとずっと思っていたので謎が解けた。
 最初は左目のズレ具合とか、名前の響きが似てるってだけでこのひとたちを並べたんだけれど、よく見ると鼻筋のズレ方とか耳の下がり方も似てるんだよね。まあ絵なので意識して似せてしまったところもあるけれど。もしかしたらスノークもすごく悲しい過去を背負っているのかもしれない。

プレス

 こんなことを書いてまた悲劇的な主人公を気取っているように思われるかもしれないけれど、自分としてはかなり衝撃的かつ新鮮さすら感じたことがあった。
 
 8月が終わろうとしていた昼下がり、横になっていたら妻がふざけてどーん、とのしかかってきた。この様子だけならたわいのない、微笑ましい若い夫婦の日常なのだが、その瞬間、妻の全体重がなんの前触れもなくぼくの胸から腹にかけてかけられた途端に、あるイメージが記憶の奥底から一気に浮かび上がって来た。重しに繋いで沈めていたものが、なにかの拍子で紐(鎖か)が切れて、しゅるしゅるしゅるっと一気に水面まで上昇して来た感じだ。まあ、その記憶自体はそこまで軽々しいものではないが。
 
 21世紀初頭でありながら『マッドマックス』風に荒れ果てた中学校に通っていたぼくは、言うまでもなく身を守り切れずにいた。いや、完璧に安全を確保できていた人間なんてほとんどいなかったんじゃないだろうか。学校を『マッドマックス』風たらしめている当の連中は別として。たとえウォーボーイズ(昔のやつはあんま観てないんだよねえ)の仲間であってもちょっとしたことで失脚して粛清(要するにスクール・カーストの下層レベルに追放されるということ)される恐れがあっただろうから、油断ならなかっただろう。
 
 理不尽な暴力の数々はほとんど前述のように重しに繋いで沈めてしまったのでだんだん細部を忘れ始めているのだけれど、妻に体重をかけられた瞬間に思い出したのは「プレス」という拷問(立場次第では「遊び」)である。同じようなものはよくいじめのニュースで聞いたりするから、知っている人もいるだろう(知ってること自体不幸な気もする)。ひとりが床に横になる。もうひとりがそれにのしかかる。さらにもうひとりのしかかる。さらにもうひとり。という具合にどんどんかわいそうな男子たちを積み上げていって、一番上に当のプレイヤーは腰掛けたり乗っかったり、あるいはクラスで一番重量のあるやつをけしかけたりして、そいつ以外の全員が苦痛にもだえる様子を観て楽しむというわけ。非常にシンプルかつ野蛮で馬鹿で危険なものだ。『20センチュリー・ウーマン』に主人公が友達と失神ゲーム(胸部をぎゅっと抱きしめて一時的に失神させるらしい)をやるシーンがあるんだけど、ああいうのに近いかな。あれは身体の仕組みを利用したものだけれど、プレスはそんな知識とは無縁。もっとタチが悪いのは、仕掛けるやつが一切自分を危険に晒さないところ。そして、ブロックとして使われるやつらは無理やりやらされるというところ。一番上になるやつ以外、全員苦痛を味わうことになるからね。
 
 言うまでもないが、大抵ぼくが一番下、床に寝かされる役だった。毎回必ずではなかったと思う。時折一番下でないことがわかるとほっと安堵したものだ。そのときの最下部の子には悪かったけれど。辛いのは皆が皆保身のためにやりながらも、互いに悪いと思っていただろうということだ。その気のない者に暴力を強制するというのは数々の残虐行為の中でもいちばんタチが悪い部類に入るのではないだろうか。そういったことが、言葉は知らなかったものの感覚的に察していたものだから、プレスのあいだ誰に怒りをぶつけていいかもはっきりわからなかったくらいだ。すぐ上に乗っかってるやつか?その上か?一番上に乗っかった100キロくらいありそうな彼か?けれどその彼でさえも辛そうな顔をしているのはわかった。何度意識が遠くなったか、何度腹や胸が裂けそうな気分になったかわからないけれど、常に感じていたのはなんでこんなことしてんの?という馬鹿らしさである。
 
 そういった苦痛の記憶が、標準に比べればほっそりしたタイプである妻がのしかかっただけのその瞬間に一気に溢れ出して来て、まるで一瞬であの生臭い教室に戻ったかのような気分になって、苦痛も如実に蘇ってきたかのようで吐き気がした。誇張ではなく本当に拒絶反応を示して妻が驚いたくらいだ。12年も経つのに、こんななんでもないことであんなにはっきりと思い出すとは自分でも驚いた。
 
 ぼくは昔あった嫌なことをいつまでも覚えすぎかもしれない。いじめにしたって、いじめらたやつはいつまでも覚えているが、いじめっ子はなんも覚えちゃいないものだ。シャーリーズ・セロンの『ヤング≒アダルト』でもドラマの『ビッグバン・セオリー』でもやっていたが、相手はなんにも覚えちゃいないのだ。その証拠に、世の中いじめられたという経験を語るひとは大勢いるが、いじめたという経験を語るやつは少ない。というかぼくは見かけたことがない。いっぱいいるはずなのにな。
 
 荒野を支配するファシストたちにも怒りは覚えるが、より苛立ちを覚えるのは教師たちだった。ぼくが限界になるそのときまでなにもしないで、それどころか何事もないように振舞っていた公僕たちのことを思い出すと未だにムカつく。俺は注意したからなと言わんばかりの申し訳程度の「おいやめときなさいよお」は何度も聞いた。どうせぼくの性格にも問題があるとかなんとかそんなことを考えていたのだろう。センスのないジャージ姿でだらしない腹を突き出した彼らはいつでも俺だって辛いみたいな顔をしていたっけ。苦しいのはぼくだけでなく、理不尽な暴力は学校中に振りかざされているとかなんとか。皆が我慢しているから我慢しろみたいな感じすらした。ぼくはぼくで我慢ならないことがあると本当に我慢ならないタイプの人間で、他の子たちのように従順さにも欠けたから、半端に抵抗もするし、反乱同盟軍的な精神も当時から少しずつ(その後帝国軍に魅了されちゃうんだけれど)育っていたから、そういう態度でもって余計にやられちゃったんだけれど、ある教師が言うには変に反抗しないほうがいいのだそうだ。自分が職務を全うしていないことは棚に上げて、ぼくの性格をまず直せとよ。今思えば笑ってしまう。
 彼はぼくが「スター・ウォーズ全史」を読んでいたことも馬鹿にしていたな。国語の教師だったからなおさら、ぼくの読解力の問題はこういう本ばかり読んでいるところにあるとかなんとか。そんなぼくが読書レビューでお金をもらえるようになるとは思ってもいなかったろう。
 こういうのを読んでさ、自分だったらここでこういう命令を出したいとか、宇宙船をこう動かしたいとかそういうことばっかり考えてるわけだろ?それじゃだめなんだよなあ。こんなんだからやられっちゃうんだよ。
 これはその教師に限った話ではないけれど、どうも教室の大多数からのウケを狙ってそのクラスで一番立場の弱い、馬鹿にされがちなやつを教師も一緒になって笑うみたいな傾向もあったな。ぼくのクラスで言えばぼくになるんだけれど。あんなんで信頼なんて得られるわけないのにな。 

 田舎でヤンキー・ファシズムが蔓延しやすいのは、ああいう大人のせいでもあるんじゃないかなあ。不良を「やんちゃ」とかいって甘やかす傾向にあるというか。やんちゃなくらいでないとだめだみたいな風潮もあるし。で、ヤンキーはどうせ地元でずっと暮らしていくので、そいつもまたそういう大人になり、同じような子供たちを育て、非常にヒルビリー的な村を維持していくんだろうなあ。
 なんだか結局ぶうぶうと不満と悪口を並べてしまったけれど、かわいい奥さんにのしかかられて暗黒時代を思い出してしまったのでした。

2017/09/03

営業報告



 遅くなりましたが、SPUR最新号ではジム・ジャームッシュ監督の新作の『パターソン』を紹介しています。主演は我らがアダム・ドライバー!『スター・ウォーズ』の悪役とは大違いのとても穏やかな役。詩人の日記を覗いたような、いつまで観ていたくなる作品。



 婦人公論9月1日号のジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第19回の挿絵。今回はアメリカのプラスサイズ・モデル、アシュリー・グラハムが登場します。モデルの体型が多様化すると、誰でもモデルと同じ体型になれるという未来の予感。


 映画『ムーンライト』DVD&ブルーレイの早期購入特典にイラストを描いております。3枚のアナザージャケット(本来のジャケットとは別にケースに付け替えができるシート)が付属していて、それぞれイラストと映画に関するコラムが刷られているものですが、そのうちの一枚でイラストを担当しました。豪華な面々が参加しておりますが、どなたのコラムとの組み合わせかはお楽しみです。

・ブルーレイ:コレクターズ・エディション

・ブルーレイ:スタンダード・エディション

・DVD:スタンダード・エディション


 これに関連して、ソフトの発売元であるTCエンタテインメントのウェブでインタビューを受けています。映画のイラスト・レビューについてや、『ムーンライト』について話しました。『ムーンライト』についてはもちろん、映画のイラスト・レビューを描くことについても話しました。
https://tce-interviews.com/2017/09/01/%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E7%91%9E%E4%B8%B8/

2017/09/02

落書きとiPad

 お盆の次の週に遅めの帰省をした。感覚的にだんだんよその家と化し始めている実家で、それでもぼくはわりと他人の家(たとえば妻の実家とか)で気にせずぐうすか寝られるタイプなので普通にくつろいでいたら、ふとテーブルの上にメモ用紙があり、そこに鉛筆でひとの顔が描いてあるのを見つけた。そこいらのひとの描いた落書きとはもはや次元が違う絶妙な筆致は、明らかに母のものだ。簡単な絵だったけれど、実際にいそうな、妙に生々しい顔からして誰かの似顔だろう。

 母に聞けば、父とテレビを観ていた際にタレントだか芸人だかを説明するために描いた似顔だという。「あれだよ、あのひと、顔を見ればわかるはず」というような言い方はタレントを話題にした日常会話でよく出るものだけれど、そこで実際に似顔を描いて説明してしまうのが母だ。実際にその絵を見て父がそれを誰だか思い至ったかどうかはちょっとわからないけれど。というかぼくはそもそもそのタレントを知らないので(いやもう本当に最近は誰がなんなのかさっぱり)誰だかわからなかった。

 子供の頃、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は観ていてもまだティム・バートンのひととなりを知らなかった頃に、母が深夜の映画紹介番組でその姿を観て、こんな感じだったと言いながら似顔絵を描いて教えてくれたことがあったっけ。ヒゲモジャで眼鏡をかけた天パのおじさんで、バートン監督との最初の出会いは母の似顔絵を通してとなった。

 もう少し年月が経った後、今度はぼくが1000円カットの理髪店で散髪してもらう際に、母は理髪師に一枚の紙切れを見せた。チップの類ではなく息子の似顔絵で、彼女がイメージする髪型に描かれていた。帰りの車の中、ぼくは母の思う通りの髪型になっている。母は「あのおねえさん、最初は絵なんか見せられても困るみたいなこと言ってたけど、見たらすぐ理解してんの。全く、誰が描いたと思ってんだか」みたいなことを言っていた。ぼくが絵心と一緒に性格の悪さも受け継いでいるのは言うまでもない。

 アップル社のiPadは、確か元々はテレビを観ながらでも手軽にインターネットを見られるようにというのがコンセプトだったという話を聞いたことがある。今観ているドラマの出演者について調べたり、放映されている映画について調べたり、クイズ番組の問題を先回りして知ったり(それは楽しくないと思うが)。日常会話でなにかを説明する際に、iPhoneで画像検索して相手に見せるというのはもはや普通に見かける光景だが、そういうのはまさに母が日頃から落書きでもってやっていたことそのもの。

 実家のテーブルに似顔が描かれた紙切れがあるのを見つけたとき、まだこの世界にこんなアナログなやり方が残っていたかとちょっと感動すら覚えた。母にとってはなんてことないことであり、ぼくにとっても本来なんてことないことなのだけれど、そのアナログさにかえって新しさを感じて、ぼくも描けるからにはこういう習慣を取り戻したいなと思った。絵が描けるというのはこういうことができるということなんだし。
 そんなわけであまりデジタルに毒されていない実家だが、それでも両親はネットを観るのをわりと楽しんでいる方で(このブログの感想をメールしてくるのは勘弁して欲しいが)、パソコンが不具合を起こすのは困りものらしい。ぼくも別にパソコンに詳しい方じゃないので(むしろなにか不具合が起きたときにはすぐヒスる)、結局そのレノボのThinkPadを直すことはできず、パソコンひとつ直してあげられない不甲斐なさと、どうしてこうもこの家にやって来るパソコンはすぐ壊れるのかという苛立ちと、思えばパソコンに詳しくないことでパソコンができる男ども(ぼくの世代は男子はパソコンできて当たり前みたいな向きがあるんです)からやたら馬鹿にされたなあという怒りの勢いで、持ってきていたiPadを両親にあげてしまった。初代で、裏側が凹んでいて、速度も遅いしもうOSの更新ができないから新しいアプリもおとせないんだけど、ネットサーフィンするだけならこれで十分だ。パソコンのようにしょっちゅう壊れないし、複雑な操作もいらないから両親のようなひとにはぴったり。
 ThinkPadがiPadになったわけだけれど、今後も母は父にタレントを説明するために似顔絵を描いていくことだろう。
 

2017/08/11

教習所で感じる劣等感

 自動車教習所に通い始めてからというもの、改めて自分がひとより劣っていることを思い知らされた。
 近頃はそれなりに仕事ができるようになって、いろいろなところに名前が載るようになって、見知らぬひとがぼくの描いたものを気に入っているというような状況に浸っていたものだからついつい忘れかけていたのだが、ぼくは本来ひとが当たり前にできることをなかなかできない人間なのだ。

 たとえば走ること。どんなに真剣に走っていてもおかしな長さの手足のせいなのか、見たひとは一様にふざけていると思うらしい。もちろん速度は遅い。

 たとえば考えること。ひとが1分で理解することをおそらく10分かけて理解しているような感じ。プロセスが10倍ということだ。単純な暗算も結構考えてしまうし、分数の足し算引き算は意味がわからなくてワークブックを手伝っていた母親をよく困らせたものだ。最近はそういう、「1+1が2になること」をなかなか理解できなかったというひとの体験談や、それは気に病むことではないというような話もインターネット上でよく見かけて少し安心したりもするのだが、でも考えるのに時間がかかるのはとても辛い。ひとが言った冗談に、だいぶ時間差をもって笑い出すのは自分でも結構異様。

 たとえば読むこと。考えるのに時間がかかるのと同様読むことにも時間がかかる。本を読むのはもちろん好きだけれど、ひと月の間に読める本はせいぜい2冊くらい。世の中には一晩で読み終えるひともいるらしいが(うちの妻は大抵のペーパーバックをそれくらいで読み終える。最初は冗談かと思った)さぞたくさん読めるだろうから羨ましい。一冊を長時間読み続ける集中力がまず保てない。

 たとえば右と左。ぼくは幼少時に右と左を家の前の道で覚えた。ばあばを迎えに行く駅やジャスコの方に向かうのが右、海に向かうのが左。両親は茶碗と箸を持つ手で左右を教えたりはしなかったと思う。母は左利きだったからそういう右利き中心的な考えに抵抗があったのかもしれない。あてにならないよね、あれ。しかし、もしかすると自分の手で覚えたほうが後々のためにはよかったかもしれない。なんと26歳になろうとしている今でも、右と左を判断する際に一度家の前の風景を頭の中で経由しているのだ。歳を重ねるにつれて経由する速度は上がったかもしれないが、いずれにせよいつも一瞬家の前の道を思い浮かべている。そのせいか、左右の区別はどうもいまひとつ身体に染み付いていないような気がする。わかることはわかるんだけれど。

 それからひとと話すこと。一時期少しは改善されていたような気がするが、ここへ来てなんだか思春期の頃よりひどくなっているように感じられる。まず言葉がつっかえる。ティーンの頃は少なくとも不愛想なだけでつっかえたりはしなかった。頭の中で言葉がまだ選ばれていないのに口を開けてしまったかのようなつっかえ方をするようになった。妻は言葉が出てくるまで待ってくれるが、おそらく世の中のひとはそうもいくまい。5年前に初めて学生という身分でなくなってからというもの、ひとと直に気軽に会話するという機会が恐ろしく減った。年長のひととばかり親しくなっているせいなのか、同年代の友達との会話が異様なほど不器用になっている。その機会自体が減っているし。

 さて、これらの「ひとに比べてできないこと」の多くは自動車教習所で際立ってくる。運動神経の悪さは両足での車の操作に影響しているし、間違ってはいないが時間のかかる思考力は瞬時に判断を下さなければならない車の運転において忌々しいことこの上ない。必ず一度実家の前の道を思い浮かべなければ左右が判断できないのも問題だ。次の交差点を左折、と指示されているのに右にウィンカーを点滅させたりしていることもある。というか、ウセツ、サセツという言葉がいまひとつミギとヒダリに結びつかないでいる。思想上の左右はその中身で区別がつくのだけれど。こんなことを書いてはまるで運転に向いていない、教習を受ける資格に満たないように見えるが、一応適性試験は通っているので許容範囲かと思う。読む速度が遅いのは学科試験でだいぶ辛かったし、独特の解釈をしてしまいがちなので簡単な問題もよく間違える。おそらくあれに出題される文章は真剣に読んではだめなんだろうな。文体の特徴は毎回変わるし、主語があったりなかったりで非常にイライラするが。会話能力の低下は運転技術に直接影響しないが、狭い密室で小一時間他人と一緒にいる際に辛い。というか、たぶん余計な会話は一切しないでいいんだろうけれど、どうも沈黙が重苦しい。かといって変に運転操作の所感から広げて話題を振ろうとすると、ひとによっては薄い反応しか得られずより一層微妙な空気になる。先日は初めての路上教習だったわけだが、もう垂れ込めている空気が辛すぎて(もちろんその微妙ガスはぼくの不器用さのせいで車内に充満してしまったもの)、「あ、この通りはこういう名前なんですね」「この道は車が多いですねえ」などと要らぬことを言っては、「いいからやれよ」というような響きを含んだ「そうですね」を返されてばかりだった。ぼくの個人的な感想なんか求められていないことは重々承知している。わかっているんだ。でも、なんだかもう空気に耐えられなくなったんだ。「なんでこんなこともできないの」というような空気。

 そう、通い始めてから4ヶ月の間、とにかくこの「なんでこんなこともできないの」というような空気に気圧されている。久しぶりの感覚。美術の学校に通っていた間は多少感じなくなっていたので(これでも一応絵描くの得意だからさ……)、体育の授業があった高校以来かな。いや、美術学校でもなぜか球技大会だか体育祭だかがあってそこでも結構バカにされていたので、まあとにかく学生時代以来だ。人間というのは自分が当たり前にできることができない他人をバカにするようにできている。かく言うぼくも絵心のなさすぎるひとを見て愕然とすることがあるので、とやかく言える資格はないのだけれど、そのさ、出来ないから習いに来ているわけだからさ、安くないお金も払って習いに来ているわけだからさ、もうちょっと圧力を弱めてほしいわけよ。
 愛犬を助手席に座らせて冒険に繰り出せる日はまだ遠い。

 それからおまけにもうひとつ、なんでそんなこともできないんだという話を。
 教習所には家の近所から送迎バスに乗って通っている。近所といっても結構歩いた先にある地点だ。ぼくのような田舎者にとっては本来歩く距離として大したものではないけれど、都会生活の観点からはちょっとした距離だ。どのくらいの距離かといえば、短めコースの犬の散歩で折り返しになるくらいだろうか。実際そうしている。
 行きは所定の位置からしかバスに乗れないが、帰りは結構皆好きなところで「運転手さん、ここでいいですよ」なんて言ってさらっと降りていく。それで、ぼくが乗り降りしている地点は微妙に家から離れていて、そもそもバスはそこに行き着くまでに一度ぼくの家の前を通るんだよね。だからそこで言って降りようかと毎回思うのだけれど、運転手さんがぼくを降ろす地点を通るためにわざわざそのコースを設定して走っているとして、ぼくが急にここで降りたいと言ったらかえって迷惑というか、なんだよ、せっかくあそこを通るためのコースを走っているのに、ここで降りたいんなら最初からそう言え馬鹿野郎、とか思われても嫌だなと思って、いつも家の前を通り過ぎてだいぶ離れたところで降りて、バスが来た道をもう一度引き返している。この前の雨がしとしと降る寒い日なんかは早く家に帰りたいと思って、よし、今日こそはここで降りたいと言おうとちょっとその気になっていたが、結局言えなかった。ぼくの家、微妙な位置にあるから急に言ったら迷惑かなと思って。多分これからも言い出せないんだろうなあ。 
 どっちがいいと思う?個人的な時間を優先してわがまま(?)を言うのと、運転手さんの考えているであろう道順に水をささないでそのままでいるのと。わからない。もうよくわからないので、黙って所定の位置で降りている。

2017/08/02

スノークとカイロ・レン


 またちょくちょくエピソード8のことなど描いていこうかと。
 スノークは新しく公開された画像から、眼が青いことがわかった。うっすら眉も生えており、傷こそグロテスクなものの、元は普通の人間なのだということが伺える。それはこれまで登場した誰かなのか、と考えたくなるが、なんかもう、スノークはスノークなんじゃないかなと思えてきた。だって、アンディ・サーキスが演じている時点で新キャラでは。もちろん、映画に直接登場せず言及された人物である可能性はまだある。皇帝の師匠、ダース・プレイガスとかね。でも、それもなさそうな気がするなあ。ぼく個人はプレイガス説はちょっとベタすぎると思っているし。

 せっかく怪物王アンディ・サーキスが演じているのだから思い切りモンスター、クリーチャー感のあるキャラクターでもよかったと思う。今のところスノークは大怪我をしたおじいさん程度でしかない。顔の崩れ方はすごいから、モーションキャプチャーでやることの意味はあると思うけれど。
 大怪我といえば、これほどの負傷はどんなことを経験したら出来るものだろうと考えたとき、爆発するデス・スターから逃れたとかいうのがそれっぽいと思うんだよね。なので当初から言っているターキン説をまた引っ張り出したいところ(ピーター・カッシングも眼は青)なのだけれど、スノークは一応ダークサイドに通じているひとだし、声はアンディ・サーキスだしということで、その説ももういいや。
 これまでのSWサーガは一貫して皇帝パルパティーンの野望が銀河を襲う物語でもあるので、スノークは皇帝の流れを汲んでいる関係者か、皇帝本人の精神が宿っているなどといった設定の方が、シリーズ全体に一本の線が出来ていいと思う。
 ということでスノークの正体はスノーク。
 金色の長衣に禿頭なせいで、なんとなくお坊さんに見えるね。

 ヴォルデモートとスネイプにヴィジュアルが似ているということで思いついたが、カイロ・レンことベン・ソロはスネイプ同様、実は大きな目的のために汚れ役を買っているのではないかなどと考えてみたり。皇帝の意志を継いだスノークを滅ぼすため、ルーク・スカイウォーカーによってその懐に送り込まれたとか。彼が皆殺しにしたというジェダイ候補生たちも実はルークを倒すために送り込まれた皇帝の刺客で、EP7でルークの居場所を突き止めようとしていたのは師を殺すためではなく守ろうとするためだとか。ハン・ソロはハリポタで言えばダンブルドアみたいなもので、息子の任務のため殺されることをよしとした、とか……(EP7を見る限り全くそんなふうには見えない、しかし、そんなふうに見えては任務は台無しだ)。
 なかなかいいんじゃないかな?ただ英雄が悪を倒すだけではもうおもしろくない。SWにはEP6でのダース・ヴェイダーの改心という熱い展開がすでにあるし、その出自を思えばいずれにせよカイロ・レンがただの悪者で終わることはないだろうと思う。そこで、ヴェイダーの改心とは違い、最初から善側だったという展開ですよ。
 うん、もうそうすると完全にヴォルデモートとスネイプだ。

LINEスタンプリリースのお知らせ



 自主制作でオリジナルのLINEスタンプを作りました。絵柄40個になります。自分で使いたくて作ったような感じなので、内容に偏りがありますが、ぜひお役立てください。40個も描いたらコツもつかめてきたのと、描くだけ描いて漏れてしまったものや、こういうのもあったらよかったな、という改善点などあるのでまた作ろうかな。
 価格は120円。
 

2017/08/01

『ネオン・デーモン』(2016)


 顔がとんがった怖いモデルばかりのところに、飴細工のような妖精的エル・ファニングが放り込まれ、男たちはメロメロに(このメロメロが非常に嘘くさく感じてしまうのはぼくがあまりエル・ファニングに興味がないせいなのか、とにかくおもしろく見える)、モデルたちからは嫉妬と敵意と羨望の眼差しで舐めまわされる。悪趣味な「不思議の国のアリス」ととれないこともない。キアヌ・リーブスは帽子屋といったところか。あ、「猫」も出てくるしね。
 ベラ・ヒースコートは『ダーク・シャドウ』('12)のときから好きだけれど、やっぱりどこか人形的というか、ティム・バートンが描きそうな顔だね。どことなくエミリー・ブラウニングにも系統が近いと思う。ジェナ・マローンが『エンジェル・ウォーズ』('11)でブラウニングと共演していたけれど、マローンとヒースコートの組み合わせに既視感があるのはそのせいか。
 エル・ファニングの出現によって周りの皆が狂っていくのは、鋭利な顔つきが主流のモデルたちへのカウンターもあるのだろうけれど、ぼくはとんがった顔も好きだよ。ジェナ・マローンなんか、顔に触ったら手が切れそうだ。しかし、あの上半身のタトゥーは怖すぎる。

 「色彩が綺麗」とか「色彩が独特」という文句もだんだん紋切り型になってきたんじゃないかなと思う。最近では『ラ・ラ・ランド』や『ムーンライト』がいい例だけれど、視覚的な綺麗さばかり誉めそやしていると、観ていないひとからは「それで、お話の方は?」と聞かれてしまいそうだ。あまりにも視覚的な部分に注目が集まると、「見た目だけの映画」なのだという誤解すら招いてしまうかもしれない。
 もちろん映画は視覚的なもので、色彩やヴィジュアルは重要な要素だと思う。ヴィジュアルが綺麗なことは決して悪いことじゃないし、ヴィジュアルありきな映画だから駄目だなんていうことも全くない。
 前述の二本を引き合いに、最近の観客は視覚的快感の大きい映画を求めがちで、頭が悪くなっているなんていう論調も散見されるけれど、全くのナンセンスだ。それこそなにも読み取れていない。なにかを観て綺麗だなあと思うことは知識がなくてもできることだし、それは知能で測れるものではない。むしろ、観客の観たことのないものを見せて、視覚的快感をもたらすのは映画の大きな役割、機能ではないだろうか。
 だからべつに、ヴィジュアルありきでも問題ないのだけれど、映画を紹介する際に「色彩が綺麗」という言葉が最初に出るのは、どうも陳腐な感じがする。


2017/07/26

営業報告


 「SPUR」9月号(集英社)「銀幕リポート」第18回では、ジョン・リー・ハンコック監督、マイケル・キートン主演『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(7月29日公開)を紹介しています。


 トット先生の表紙が眩しい「婦人公論」2017/8/8号(中央公論社)では、ジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第18回の挿絵を描いています。離婚したあとの元夫婦の関係、子育ての行方などについて書かれております。

『ハクソー・リッジ』(2016)


 『沈黙 ーサイレンスー』に続き、祈りながら日本人から逃げるアンドリュー・ガーフィールド。ここでも信仰はテーマだが、キリシタン弾圧と同様戦争も善悪で捉えることはできない。日米戦が舞台なのでそのあたりのことに思考を巡らせたくなりがちなのだが、はっきり言ってどことどこがやった戦争なのかはあまり重要ではないように思う。なによりもまずデズモンド・ドスという人物だ。彼には戦場に行くより前に立ちはだかった障壁があり、本来なら味方である人々から理解を得る戦いに挑み、実際の戦場でも信条を貫き通して信頼を得ていくところにこそ注目したい。

『沈黙 ーサイレンスー』(2016)


 イッセー尾形扮する井上筑後守本人もまた、元キリシタンだったことが興味深い。原作を読んでもあまり詳しく掘り下げられていなかったけれど、信仰を捨てて弾圧する側にまわり、自らもそうだったからこそ知り尽くした信者たちを、狡猾に攻めていくその心理は気になる。
 憎まれ役、であって敵役や悪役という表現は避ける。まあ、主人公との関係上敵役といっても十分正しいと思うし、個人的には悪役と言いたいところなのだが、善悪で片付けられるものではないと思うからね。善いか悪いかではなく、もっとこう、人と人、というような構図としても捉えたい。ということで言葉のことにも注目した。

2017/07/02

営業報告


 ファッション・エッセイがとても楽しい「SPUR」8月号(集英社)では、ジャック・ニコルソンがハリウッド・リメイク予定のマーレン・アデ監督作『ありがとう、トニ・エルドマン』(公開中)を紹介しています。


 「クイック・ジャパン」vol.132(太田出版)、P169(ピンク色のページ)にて有名な人たちの似顔絵を描いています。


 「婦人公論」7月11日号(中央公論新社)のジェーン・スーさん連載の挿絵を描いています。今回のお話はご自分の文章についての考察。自分の作っているものは果たしておもしろいのかどうかという不安には非常に共感します。そして、そんな悩みについてのお話でもやっぱりおもしろいので、スーさんはすごいです。

 ***


 そして今年も「FRAPBOIS」とのコラボレーションをやらせていただきます。まずは今季のブランド全体のテーマ、「シルクロード」に合わせた絵柄。シルクロードぽい動物がばらばらといるTシャツと、


羊と、


ラクダの一点プリントの三種類となっています。


 7月中の発売となっています。

「一九八四年 [新訳版]」感想


 迎えたくない未来を描くディストピアというものに、どうしてこうも人は(というよりぼくは)惹き寄せられてしまうのだろうか。現実が不穏で陰惨としているのには耐えられないのに、フィクションの世界では枢軸国が勝利したりロボットが人間を支配したり、核戦争後の荒廃な世界にわくわくしてしまう。
 
 本書はまずその世界観の設定や、独裁政治機構のディティールがおもしろい。イースタシア、ユーラシア、オセアニアという三つの超大国によって分割統治され、常に戦争が続いている世界。平和省、潤沢省、愛情省、真理省といった皮肉めいたネーミングの機関。いたるところに貼り出された指導者のポスターと、市民を監視する双方向テレビとも言うべき装置テレスクリーン。市民の思考を制限するために必要最低限の言葉しか使わせない新語法ニュースピーク。その思考様式の大前提となっている「二重思考」……。どれもこれも今ではディストピアを表現する上で定番の概念となっている。本当によくできていると思う。

 無表情な新語法であるニュースピークは、極端な略語や単純な言葉が語彙を奪うことで、思考の幅も狭まってしまうということを教えてくれる。ぼくもそれほど語彙が豊かな方ではないが、もっといろいろな言葉や表現を身につけてそれを大切しないといけないなあ。
 言葉を知らなければそれが言い表す意味について思考が及ぶこともない。知らないことは考えようがない。本書でニュースピークについて知るまで、そんなこと考えたこともなかった。当然のように行なっている思考というものが、自分の語彙に基づいているなどと。けれど、知ってからはそれについて考えることができる。素晴らしいことだ。

 主人公ウィンストンの仕事は過去の記録を改竄すること。誰かが粛清されればその人の存在の痕跡を抹消すべく、名前の載っている記録を全て修正する。半永久的な戦争における交戦相手と同盟相手が党の都合で突然入れ替わるが、それに関する記録も全て書き換えなければならない。そうすることで交戦相手と同盟相手は開戦以来ずっと同じままだという「事実」を維持するのだ。党が間違っているという事態を避けるために現実を歪め続けるというわけ。
 過去の記録を完全にコントロールすることは同時に現在と未来をも支配することにもなるのだ。
 ウィンストンは紙の新聞を修正する作業をしていたわけだが、今日ぼくたちの身近にはもっと簡単に編集できる百科事典がある。もちろん好き勝手に歴史を書き換えてそれを読む人に信じ込ませるのは簡単なことではないが、インターネットの宇宙的図書館にはすでに事実かそうでないか判断するのが難しいものがたくさんあり、それを真に受けてしまう人も少なくないということはもうわかっている。真理省の悪魔的な仕事はそう現実離れしたものではないかもしれない。材料はすでに揃っているように思う。

 そういえばアメリカで新しい大統領が生まれてから、この本が非常に売れたらしい。世の中が怪しげな方向に舵を取ったのを機会に、有名だがまだ読んだことがなかったこの名著を手に取ったのだろう。かく言うぼくもその流れでやっと読む機会を得たのだけれどね。
 オセアニアは1940年代末に想像された未来の社会主義国家なので、現実の未来を考える際に条件が全て一致するわけではないが、もっと広い意味で言うところの悪夢的な未来像として、手がかりのようなものは見出せるかもしれない。トマス・ピンチョンによる本書の解説でも、現実世界に息づいているオセアニア的要素について言及されていて興味深い。そう、このピンチョンの解説もとても読み応えがあっておもしろい。
 
 いずれにせよディストピアとは、迎えたくない未来を先取りすることでそれを反面教師にできる、素晴らしいエンターテインメントだと思う。

 さて、ぼくはもっと日記を書こう。

2017/06/06

『メッセージ』(2016)感想


 詩情的な静寂は文学的で、丹念に読み進めているような感覚で観ていられるけれど、それでいて圧倒的な「異物感」を感じさせる画面はやはりSF映画。奥深いジャンルだなあと思った。ベースはあくまで外宇宙とのファーストコンタクトという、これまで何度も映画で描かれてきた直球な王道だからとっつきやすく、だからこそエイリアン言語の翻訳という地道かつ気の遠くなるような作業を通して描かれる闘いが際立つ。ミステリアスなエイリアンの外見が「一見」脚が何本もあるという非常に古典的なものになっているのも、入口がスタンダードになっていていいと思う。独創的かつグロテスクなエイリアンはここでは必要ないのだ。まあ、あの外見にはひとつのギミックが施されてはいるのだけれど。

 とは言え宇宙船ーと呼んでいいか少し迷うーがその巨体をひっそりと草原や都市に、これまた微妙な高さで浮かんでいるヴィジュアルがもたらす異物感はすごい。ずっと見とれてしまいそうな画だ。

 どちらかというとこれは宇宙船というよりはモノリスと言えるんじゃないかな。『2001年宇宙の旅』('68)では四角柱のモノリスが現れてまだ猿同然だった人類にある種の啓示を与えて進化ーー別の個体を撲殺することで成された進化だーーを促したが、『メッセージ』ではこの微妙な曲線をもつ、種のようでも砂浜の丸石のようでもある自然的形状のモノリスが、人類にまた別の啓示ーーメッセージを与える。このメッセージは、かつて類人猿が受け取ったものとは正反対のもの。それがなんなのかは伏せておくけれど、ぼくには本作のモノリスが、『2001年』のモノリスのアフターケアにやってきたかのように思える。

2017/06/03

クレッセント・クルーザー


 クレッセント・クルーザーは三日月船団を象徴する旗艦である。三日月船団は三日月を信仰する平和の民によって構成され、ひとつの場所にとどまらずに銀河中を旅している。クレッセント・クルーザー自体に強力な火器は備えられていないが、強固な外殻とシールドを持ち、つねに流星型戦闘機メテオ・ファイターの護衛に護られている。無数の流れ星を引き連れた三日月の姿はいろいろな惑星の空で見られ、見かけた者はその黄金に輝く船団に魅了された。
 側面から見たときこそ三日月型に見えるよう設計された三日月船だが、正面から見れば非常に細長い楕円形であり、決して現実の三日月のように球体に基づく形状ではない。これは、船団の信仰において満月が不吉の象徴だからである。クレッセント・クルーザーをまだ直に目撃したことがなく、その存在や形について口伝えやごく限られた資料でしか知らない人々のあいだでは、よくこの形状が話題となり、正面から見たら満月なのか否かは賭け事の対象となることが多かった。

2017/05/25

歩行者優先

 教習所に通い出してから新たに知ったことは当然多いけれど、中でも驚いたのは「歩行者の保護・優先」というやつで、ぼくが思っていた以上に歩行者は大事にされていて、そうすることはドライバーの義務らしい。

 当たり前じゃん?なんでそんなことで驚いてるの?とお思いだろう。まあ待ってくれ。わけがあるのだ。一度ぼくが生まれ育った地域に場所を移し、ぼくが小学生だった頃に時間を巻き戻そう。

 ぼくの地元は小さい農村である。山に囲まれた谷のようなところを一本の県道が通っていて、その周りにぽつぽつと家や商店、小学校が点在して集落を形成している。真ん中に通る道路から外れて、それぞれの山の方へ入り組んだ細い道を入って行けば、もっといくつも民家の集まりがあったりするけれど、それ以上先にはなにもない。てっきりぼくが知らないだけでもっと奥の方にも人が住んでいるのかもしれないと思っていたが、今改めてグーグルの航空写真地図を見るとそんなことはなかった。本当に、ぼくが子供の頃見た以上の地域はないらしい。真ん中を突っ切る県道、それに沿って並ぶ家、三軒のみの商店、いくつかの方向に分岐する細い道と細かく区分けされた田畑、そこに点在する家。あとは丘だか山だか緑があるだけ。以上。その他諸々の事業の看板を自宅に掲げている家もあるだろうけれど(かく言うぼくの家もそうだが)、まあとにかくこれがぼくの故郷である。

 なにが言いたいかというと、そういう「通り道にある集落」なものだから、真ん中を突っ切る県道をしょっちゅう車がひっきりなしに行き来しているのだ。街から街へ抜けていくところにちょうど位置していると思ってくれていい。そんなわけで登下校する小学生は車に気をつけるようきつく言いつけられる。とは言えこの地域には信号機がひとつもない。道路が一本しか通っていないのだから当然だ。だから子供たちは信号機無しの横断歩道(辛うじて二つある)を渡るために車が途切れるまで、あるいは親切なドライバーがやってくるまでひとかたまりになって待っていなくてはならない。

 そう。ぼくの記憶が確かなら、ぼくらは登下校の際に車が「停まってくれる」まで横断歩道の前でボケっと鼻垂らして突っ立っているしかなかった。来る日も来る日も車がびゅんびゅん走り去るのを「はやく途切れないかなあ」とか「誰か優しいひとが停まってくれないかなあ」と思って待っていたものだ。小学生にありがちな無茶を覚えるようになると、しびれを切らして適当なところで横断歩道に飛び出していって、無事に渡り終えるというスリルを味わったりもした(ただ横断歩道を渡っただけなのだが)。渡り終えると背後でまた車がびゅんびゅん走り去る。もう少しで轢かれて死んでいたんじゃないかと思うとヒヤッとする。もしかすると今の自分は霊体で、振り返ると横断歩道の真ん中で血を流して倒れている自分がいるんじゃないかなどと妄想にかられたこともある。それくらい車は停まってくれないもので、ましてや横断歩道のないところで渡るなんていうのは危ないことで、万が一のことがあっても渡るやつが悪いのだ、そんなふうに刷り込まれていた気がする。

 連休前などになるとよく帰りがけに教師から、よそから遊びに来る車が増えるので特に気をつけて過ごしましょう、などという注意を受けた。普段通勤にここを通っていく人たちですら横断歩道で立ちすくむ子供達を気にせず通り過ぎていくのだから、よそから来たひとなどきっと隙あらばぼくらを轢き殺そうとするかもしれない(?)などと子供心に恐れたものだ。それくらいよそから来た車とそのドライバーは恐ろしく無慈悲な連中だと叩き込まれていた。教師たちもよそから車で学校に来ているということには子供たちはまだ思い至らない。
 
 このように車通りが多い道路沿いの集落ではとにかくいろいろな意味で車が中心だった。
 移動の中心は車。これはどこの地方も同じだろう。歩道を歩いているのは子供か畑帰りの老婆くらいで、そのどちらにも属さないひとが歩いていたらそれだけでかなり目立つくらいだ。背広など着ていたら押し売りが来たと近所中で噂になるだろう。もちろんセールスマンだって車で移動するのは間違いない。
 路上でも車が中心だ。ここまで書き連ねてきたように、あの道路でいちばん偉いのは車だ。横断歩道を渡ろうとしている子供たちなどもっとも地位が低いはずだ。ほとんど無視される点ではよくはねられて死んでいる狸や猫と変わらない。時折親切なドライバーに当たって横断歩道を渡らせてくれたときの、うれしさと救われた感じといったらない。そういうときは本当に感謝の念が湧いて来るので、自然と渡り終えたあとに最敬礼である。停まってくれた車にはお辞儀しましょうと学校でも教えていた。車は「わざわざ」停まって「くれた」のだから。感謝しなくてはならない。

 さて、時は流れてぼくは都会で暮らし結婚した。妻と連れ立って犬の散歩などしていると、何度も道を渡る場面があるのだが、ぼくは子供の頃の刷り込みでどこでも車が途切れてから渡るという癖がついているのでついつい車をやり過ごすために立ち止まってしまう。渡ろうとしたときにちょうど車がやってきてしまったときにも反射的に立ち止まってしまう。もちろん車も一時停止する。やたら背のでかい男が短足の不恰好な犬を連れて道を渡ろうとしているのが見えたからだ。しかし、なぜか男は立ち止まったまま渡ろうとしない。どうしたんだろう?すると男は一緒にいた女性に促されてやっと道を渡る。ヘンなの。
 道を渡り終えて車が去ったところで、妻がぼくに言う。ああいうときは渡らないと車の方も困るでしょ。なんでいちいち立ち止まるのよ。ぼくは言う。車に譲ろうと思ったんだよ。車を先に行かせたほうがいい。すると妻はますます不審がる。そういうのは車にも迷惑だし、あっちは歩行者を優先しなきゃいけないんだよ。ぼくはこれを聞いて始めは非常に不思議だった。歩行者を優先?車が?そう言ったか?ぼくは子供の頃から車は基本的に停まってくれないもので、かりに車と自分の動きがかち合ったらとにかく車に譲れと教わったんだがなあ、などと漏らすと、あんたんとこはやっぱりおかしいのよ、と妻が言い、そうかなあ、とぼくはまだ納得いかないでいるので、妻も呆れる。
 
 果たして妻が正しかった。教習所の講習で確かにドライバーは歩行者をとにかく優先して保護しなければならないと教えられた。信号機があろうとなかろうと横断歩道を渡ろうとしているひとがいたら、停まってゆずりましょう。これは義務です。横断歩道がなくとも、道を渡ろうとしているひとがいたら停まって渡らせましょう。思いやりです。義務です。このような言葉が繰り返され、もはやぼくが7歳から12歳までの間に叩き込まれた車と歩行者の関係はあっさり崩れた。歩行者の方が偉かったのだ!教習ビデオの中で言うこと聞かなそうなクソガキが母親の手を引いて突然目の前で道に飛び出して渡ろうとした。歩道で反対側に向かって手まねきしてるおばさんがいる。次になにが起こるか予測できますか?とナレーション。反対側から女の子が飛び出してきて道を渡る。
 これら全てに車は停まってあげなきゃいけないのだ!なんだってぼくたちは横断歩道の前でバカみたいに突っ立ってたんだろう。渡っちまえばよかったのだ。横断歩道で失った時間を返して欲しい。あれのせいでどれだけ朝の会に遅れそうになったか。そのたびに担任に嫌味言われてさ。まったく。車中心の車信仰が根付いたとんでもねえカルト村だぜ。停まってくれた優しいドライバーにあんなにお辞儀までして。優しいひとだったろうとは思うが、あれは普通だったのだ。義務なんだから。あーあ。
 車は全然偉くないことを知り、小学生のときに叩き込まれたものに今更疑念を抱いたわけだけれど、ぼくも歩行者を優先する側になろうとしているので、気をつけないとなあと思ったのでした。

2017/05/23

営業報告

 今回はいくつか成果があるのでまとめて紹介したいと思います。


・まず連載から。「SPUR」7月号ではマイク・ミルズ監督最新作『20センチュリー・ウーマン』(6月3日公開)を紹介しています。やっとグレタ・ガーウィグが描けました。映画そのものもひと夏の物語で、初夏に合う色使いの記事になったかと思います。


・「婦人公論」6/13号のジェーン・スーさん連載も、スーさんの8年ぶりのバカンスについてのお話で、夏らしい挿絵になっています。



・明光義塾の保護者向け会報「Meit」で巻頭扉(写真2枚目)のほか内容に小さなカットを描いています。こちらも夏休みの過ごし方特集なので夏らしい絵です。

2017/05/18

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(2017)感想

 
 キャラクターたちの造形や互いの関係をより深く描き出し、前作の伏線を綺麗に回収していく展開、また新しいキャラクターとの出会いや、かなりスケールアップされた脅威との対峙、より広がりを見せる世界観の構築と、とにかく続編に必要なもの全てが備わっていると思う。前作と同じくらい愛せて、同時にそれを上回る興奮やカタルシスをもたらしてくれる、そんな最高の続編である。

 やはり『スター・ウォーズ』シリーズとは別に夢中になれるスペースオペラが出てきたことがとてもうれしいな。そのヴィジュアル世界がSWのそれとは全く違うタイプのものならなおさら。
 ぼくがSWに対して抱く数少ない不満の中に、「宇宙船に色がない」というものがあったりする。
 だいたいのメカニックは灰色や白で、原色はその船体に一本ラインが入っていたり、マーキングが施されたりする程度である。だからこそ『ファントム・メナス』(EP1,1999)に登場するようなボディが黄色や赤で、フォルムが丸かったり流線型だったりする宇宙船が好きなのだけれど、平和かつ文化的に成熟していた旧共和国最後の時代を描いたEP1以外にはそのような船は登場しない。もちろん最初の三部作を象徴する工業的なデザインの宇宙船も他の追随を許さない魅力があるが、どうしても色の少なさがね。

 カラフルで曲線が使われているのがいいのなら日本のSFアニメもいいのではないかと思われるひともいるだろう。もちろん悪くはないけれど、ぼくは母国製のSFメカがどうしても金属製に見えないのだ。玩具化を前提に考案されているからか(必ずしもそうではないだろうけれど)、どう見てもプラスチックに見えるものが多い。

 そこで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(GOTG)だ。巨匠クリス・フォスによる有機的な曲線フォルムにカラフルな配色。熱帯魚や南国の鳥のような船が、これまたSW等の真っ暗な宇宙とは違い、様々な色に輝く宇宙空間を飛ぶ姿はとても綺麗。宇宙船だけでなく、登場する種族も色とりどりの肌をしていて楽しい。コミックが原作であるからこその色使いだろうか。
 とにかく、SWでしか宇宙世界を見てこなかったぼくのようなやつにとっては、前作が衝撃的で、もっといろいろな銀河系の姿があってもいいんだなと思った。

 ぼくたちが住むのとは別の世界が舞台となっているSWとは異なり、GOTGは地球が存在する銀河のお話。だからこそ、レトロ・フューチャー感や親近感があって、わかりやすい世界になっているのも楽しいところ。
 スペースオペラの主人公がソニーのカセットウォークマンを愛用しているという渋い設定は前作以降知れ渡っていることであえて説明する必要もないけれど、今作『リミックス』では冒頭から古い電子フットボールゲーム機がなぜか敵の接近を示すレーダー機器に改造されていたり、エリザベス・デビッキ演じるアイーシャが率いるソヴリン艦隊が、ゲームセンター的スタイルで遠隔操作されているというとても楽しいアイデアがあったりして最高だった。超ピコピコ言ってた。
 兵器のインターフェイスがだんだんゲーム機じみてきていて、シューティングゲーム感覚で戦争が行われているというような現実への皮肉もあるのかもしれないが、まあ、難しい考察はほどほどに。とにかく古いのに新しい、まさにレトロ・フューチャーだった。
 ソヴリン人は身内に死傷者を出したくないということは劇中でもデビッキの口から語られるが、まさかだからといってゲーセン艦隊とはね。
 そういえばSWにも身内に死者を出したくないからドロイドの軍隊を使う種族がいたな。がちがちの設定で固められたSWにはSWの魅力があるが、GOTGのユーモアセンスというか、緩さのある世界観もたまらない。

 SWとの比較が続いてしまったので、ついでにSWとの関連に触れよう。今作新たに登場したカート・ラッセル扮するエゴ(イーゴと発音されていたような気がする)はピーターの父を自称する謎の男だ。まあ、はっきり言って本当にお父さんなんだけどね。これは別にかの暗黒卿が息子に告げる衝撃の事実とかに比べると別段なんでもないので。劇中でも早々に明かされてしまうし、重大なのはそこではない。
 実はカート・ラッセルはSWの一作目『新たなる希望』(EP4,1977)であのハン・ソロの候補にあがっていて、スクリーンテストまでしているのだが、そんな過去をふまえると、次世代ハン・ソロと呼ばれるピーター(クリス・プラット自身若きハン・ソロ役の候補になっていたっけ)の父親という役は繋がりが見えてくるようでおもしろい。ただ、実際は父親としてはダース・ヴェイダーに匹敵、もしかするとそれ以上のヤバさがあったりするのだが……。あとは本編で。

 そうそう、人に勧めやすいのもいいよね。SWはもはや勧めること自体お勧めできないとしても、GOTGはまだ2作だけで、しかも『アベンジャーズ』シリーズの一部とは言え実は他の作品ほど劇中にクロスオーバー要素が無かったりするので、完全に独立した作品として楽しむことができる。予備知識ももちろん不要。 GOTGからアベンジャーズへの参戦はあっても、その逆はないので安心。クロスオーバーの時代、続編が作られ続けてシリーズ数がどんどん増えていく時代にあって、たった2本だけで楽しめる作品も珍しいのではないだろうか。というわけであなた、まだ観てないなら、SWに乗れないんならGOTGを観ましょう。

 というわけで超楽しかった『リミックス』でした。

 そういえばエンドクレジットで流れるメイン・テーマのディスコ・バージョン(「Guardians Inferno」)は、やっぱりSWのメイン・テーマのディスコ版を思い起こすよね。ああ、どうしても比較せずにはいられない。
 つらいときは思い出せ、ぼくらはグルート。

悪い魔女につかまって労働させられてるコーギー


 この絵の着想を得たのは、ある夜の散歩で通りかかった工事現場。うちの近所ではぼくたちが越してきた頃からずっと地下鉄の拡張工事とかいうのをやっていて、その地上部分も資材や入坑口なんかが並んで車道や歩道が変則的になっている。夜の散歩でその地上部分の現場の横を通った際に、ぽっかり開いた大きな穴を見かけた。地下の現場まで通じているらしく、オレンジ色の灯りが漏れていて、ガリガリとかギンギンとかいう作業音や男たちの声なんかが響いてくる。本当に地下を掘っているんだなあという感じでわくわくした。もっと近寄って覗き込んだら、ずっと下のほうにはつるはしやスコップで作業をする人々、行き来するトロッコなんかが見られたのだろうか(いつの鉱山だよ)。
 そこでぼくの空想がはじまる。奴隷商人に売られたかわいそうなコーギーたちが短い脚でせっせと歩き、石ころや土を積んだ台車をひっぱったり、ヨイトマケなんかに従事させられている光景。現場監督の目線よりもずっと低いところでせっせと働いているものだから、奴隷コーギーたちはこっそりお互いの顔を見合わせて「がんばろうねえ」「うん、がんばろうねえ」などと励まし合う。泥だらけの顔で……。
 かわいそうだが、なんて健気だろう。というわけでちょっとかわいい設定にして絵にしたってわけ。

『ムーンライト』(2016)感想


 『アデル、ブルーは熱い色』(2013)の感想のときにも書いたことだけれど、形が同性同士だというだけで(もちろんゆえに抱える問題もあるのだけれど)、そこで描かれることは誰の身にも起こりうる普遍的なものだと思う。『ムーンライト』はそれに加え、特定の人種とその生活圏、そこから連想されるものや生じてくる問題など、これでもかというくらいの要素がてんこもりである。それらのてんこもりはもちろん欠かせない重要な要素だけれど、先入観に惑わされずに見つめれば、そこには自分と同じように生きる人間がいる。

 三つのチャプターのうちの最終章では、それまで小柄だったりひょろかったりした主人公がめちゃくちゃごつい大人の男に成長している。いかついアメ車を転がしてブリンブリンを身につけた寡黙な売人。おまけに歯にも黄金のグリルズを装着しているくらいなのだが、子供の頃から想い続けてきた相手の前では、その小さな目が落ち着かなげになり大きな肩をすぼめてモジモジし出す。子供の頃からのうつむき癖(この仕草が特に別々の時期のシャロンを演じた三人の俳優たちを本当に同一人物かのように見せてくれる)も手伝って非常にかわいらしく感じる。ギャップ?そう、ギャップなのかもしれない。だがギャップってなんだ?こんなごついやつがモジモジなどするわけがないという前提があったなら、ぼくたちはその時点でなにかを決めつけてしまっていたのかもしれない。そんなことではティーンエイジャーのシャロンを、"逞しくなさ"、"男らしくなさ"といった理由で虐めていた連中と、変わらないのではないか。
 
 そんなにコアが普遍的ってんなら、なんの変哲も無い個人的な物語を観せられているってこと?なんて思うこともあるかもしれない。もちろん、そうではないと思う。他人の物語から感じることや学べることは多いし、自分との共通点を見つけられるからといって、その特別さが薄れるわけではない。そうやって親しみが持てて、美しくて、いろいろなことを考え想いたくなるから特別なのだ。
 特別であり、特殊ではない。特異な物語というわけではない。
 一見特異な予断を持ちやすい骨格は、ぼくたちへの試練でもあるのかもしれないな。

 なんだかどんどん思考が流れ出てきて自分の手には負えないような文章になってしまったけれど、ぼくにとっては、美しくてかわいらしい恋の物語で、そっと打ち明けられた人生のハイライトだ。
 誰かに恋をして、なにかに夢中になった人生の一時期をトリミングした『アデル〜』とは通じるところも多いと思う。とまあ、これも結局は同じ恋の形でカテゴライズしてしまうことになるのかもしれないけれど。でもやはり並べてみたくなる作品だ。
 なんといってもブルーというテーマカラーが共通している。
 色や空気感の美しさもこの映画の魅力のひとつだけれど、色の濃い肌が月光を浴びて青く輝くところなんか、身体の美しさってやつを思い知らされるね。