スクリーンの上ではどんな生き物でも生み出せる時代になって久しいので、今更摩訶不思議な幻獣(ファンタスティック・ビースト)たちの姿に新鮮さはあまりないのだけれど、そのぶん人物のディティールや人間模様が魅力的だったと思う。狂騒の20年代と魔法ワールドの融合も、『ハリー・ポッター』シリーズと言えばイギリス、というイメージが良い意味で壊されて視野やイメージがぐんと広がった。
これまでの映画シリーズは原作の少なくない場面や人物が省略されてしまっているので、映画だけでハリポタ世界を観てきた人にとって世界観を理解するのがやや難しいのではないかという懸念がある。でも本作はそんなひとにも超おすすめ。むしろこちらのほうが魔法界のルールを理解する上で入門向けではないかとさえ思う。ストーリーに原作が無く、脚本を原作者J・K・ローリング女史が書いていることを考えれば、これはシリーズで初の映画が原典である作品と言える。
とにかくユニバースの広がりを感じられたのがうれしいのでストーリーよりもその方面について書くと、イギリス魔法界とアメリカ魔法界の違いがおもしろかった。まず断っておくと、「魔法界」と言っても別次元の世界があるわけではない。魔法を使う魔法族が、そうではないぼくらのような普通の人間から隠れて社会を築いているというのが、このシリーズの世界の基盤となる。だから全ては現実世界のことであり、魔法族と普通の人間が、後者が前者の存在を知らないとは言え、一応は同じこの現実世界で共存していると言える。この、決して現実逃避的な別世界を舞台にしているわけではないところが、ハリポタ世界のいちばんの魅力だとぼくは思っている。ぼくらの世界ではイギリスは階級社会とされていて、アメリカ社会はそれに比べればずっと開放的というのが一般的なイメージだけれど、おもしろいのは、魔法社会側ではこれが逆転していること。アメリカ魔法社会はイギリスのそれに比べてはるかに遅れていて、排他的であることが劇中でも語られる。魔法の中心地がイギリスであることを考えれば自然かもしれない。ハリポタで描かれたイギリス魔法界では魔法族とマグルが結婚してその子供が魔法学校に通ったり、魔法大臣がマグルの英国首相とコンタクトを取っていたりと(まあ首相をやめる際にその人の記憶は消されちゃうみたいだが)干渉を避けながらもある程度マグルとの距離は近かったのだけれど、アメリカではずいぶん勝手が違うらしい。イギリスで非魔法族に対して使われていたマグルという呼び名に対し、アメリカではそれを「ノー・マジ」とかなり否定を含んだ調子で呼んでいて、イギリスのように両者の結婚などはもちろん接触も許されていないようだ。そんなアメリカ式の魔法界に、イギリスから来た魔法使いニュートと、ハリポタを通してイギリス魔法界しか知らなかった観客が同じ目線で驚くという構図。
途中で同じ連盟に加盟している魔法文明の代表者たちが世界中から集まるシーンがあるのだけれど、お馴染みのイギリスはもちろん、アジア方面の魔法界代表者たちがいるのも印象的。今後、中国や日本の魔法界が断片的にも描かれることがあるだろうか、と考えるととても楽しみ。ちなみに日本の魔法学校は硫黄島にあるらしい(戦時中も通常授業だろうか)。
魔法社会が世界中の国や地域に存在するという世界観の広がりを考えたとき、やはりこのシリーズにおける魔法界はマグルの世界に含まれたいち要素のように感じられる(場合によっては両者は表裏一体のようにも捉えられるけれど)。イギリスやアメリカ、日本といった国やその名前はマグル由来だし、他にもマグル側の世界からの影響はいろいろなところにある。上で書いたことに戻るけれど、魔法の世界がある、というよりは魔法が使える一部の人たちが集まって、独自の社会を形成しているというニュアンスのほうが近いような気がする。だからぼくはマグル側の世界を単に「人間界」と呼称するのは適切じゃないと思っている。もちろんわかりやすさを優先すればそうなるんだけれどね。
で、なにに思い至ったかというと、子供の頃は思いもしなかったことだけれど、魔法社会側とマグル世界における史実上の関わりだね。魔女狩りの時代にマグルによって火あぶりにされた魔女がいたりと(本作ではマグル側で起こった反魔法族の運動が鍵のひとつとなっている。初期のダーズリー一家から愛嬌を取り去ってより暴力的にした感じかな)一応はマグル側の歴史に魔法界側の片鱗が見られることもあるのだけれど、ではマグル側の歴史的なイベントが魔法界に影響したことはあったのだろうか?たとえば、そう、二回あった世界大戦とか。世界中の国が巻き込まれてどちらかの陣営に加わって戦っていた時代、ではそれぞれの国の魔法社会はどうなっていたのか。20年代という時代設定上、本作では最初の世界大戦のことが話題にあがる。マグル(ノー・マジ)として初めて主人公のひとりとなったジェイコブ・コワルフスキー(ダン・フォグラー)は第一次世界大戦帰りという設定だが、彼の「戦争には行ったか?」という問いにニュートは「東欧でドラゴンと戦った」と答える。これは単にマグルの戦争とは関係なく、ニュートが個人的にその頃ドラゴンと戦っていたということだと捉えることもできるけれど、もし、イギリスの敵国の魔法使いがそのドラゴンを放っていたとしたら?魔法社会がマグル社会に呼応して戦争をするとはちょっと考えづらいところがあるけれど、マグル側の世界が時代の流れや文化的な面等で少なからず魔法界に影響を与えることを思うと、魔法界側でも外国の魔法社会と揉めて、やはり裏側で魔法文明による世界大戦をやっていたのではないか、という解釈もできる。世界観の可能性の広がりはぼくような設定マニア(当のJ・K・ローリングも設定好きだと思う)にとんでもない餌を与えてしまった。まさかハリポタ・ワールドがここまで広がるとはね。SWも目じゃないくらいの拡張世界が期待できるし、なにより自分でこうして考察できることがうれしい。
ハリーがホグワーツ校で使っていた教科書というインワールドな設定で出版された『幻の動物とその生息地』という本は子供の頃買ってもらって持っていた。これは魔法動物の図鑑のような本で、ハリポタ本編にも登場する動物をはじめたくさんの生き物について解説しているもの。ハリー、ロン、ハーマイオニーによるメモという設定で手書きのメモがページのあちこちに書き込まれているという芸の細かさには驚いたものだ。隅々まであの世界のアイテムのように感じられて子供の頃はとてもうれしかった。で、その著者が今回の映画の主人公ニュート・スキャマンダー(という設定。書いているのは原作者ローリングである)なのだが、この名前が妙にかっこよく感じられてハリポタのメインキャラクターたちと同じくらい強い印象とともにぼくの頭に残っていたものだ。名前の著作だけで、どんな人物なのかは全然わからないのにね。インターネットに触れる前の子供時代は、だいぶ情報が少なかったから本棚に並ぶ背表紙の中で一際異彩を放つニュートの名前からいろいろなイメージを湧かせていたのを覚えている。そうして、このたびそのニュートの姿をスクリーンで観ることになったから変に感慨深い。そもそもあの教科書とその著者の設定だけで映画を一本作ったということに驚いたけれどね。
エディ・レッドメイン扮するニュート・スキャマンダーは、スマートで洒落っ気があり、あの教科書の堅い文章を書いた人物とは思えないほど少年っぽさがあった。グリフィンドール寮やスリザリン寮に比べたらだいぶ平凡な寮ハッフルパフ(ひどい話だが映画版でしか触れていないうちの妻は寮がグリフィンドールとスリザリンとレイブンクローの三つだと思っていたらしい)出身の人物が主人公であることに加えて、そのサイドキックが魔法使いではない、魔法界の存在すら知らなかった平凡なノー・マジであるジェイコブというのが新しい。しかもとても良いキャラ。ハリポタ本編は魔法学校を舞台にして魔法界側を主に描いてきたが、本作ではニューヨークというノー・マジの都市を舞台に、ノー・マジの相棒を迎えて冒険することで、魔法族とマグルの共存というテーマが強調されているように思う。ハリーの物語が、意地悪な叔母一家に代表されるマグルの世界から逃れて理想的な世界に旅立つ話であったのに対し、ニュートの旅はマグルの世界を含めた文字通りの世界中を巡る話なんだね。これはどこか、ハリポタ世代だった読者や観客の成長に合わせているようにすら感じられる。ぼくは好きな作品とすぐ個人的な結びつきを考えてしまう方だから、余計にそう思う。
ハリポタでは、魔法族のみの家系からなる「純血」と、両親のどちらかがマグルだったり、家系のどこかでマグルと交わっている「マグル生まれ」(蔑称「穢れた血」)なんていう生まれを巡った争いが描かれたりした。魔法省を牛耳った闇の魔法使いヴォルデモートとその配下が職員や市民たちの生まれを調べて純血かマグル生まれかに分類して恐怖政治を敷く様子は、さながら歪んだ優生学に基づいた人種政策を進めるファシストのようだった。
自分とは異なった者を恐れ、憎み、軽蔑するといった人間の暗黒面はハリポタにおいて実は重要なテーマと言える。ハリーは魔法学校に入学するまでマグルの叔母一家から自分たちとは違うという理由でひどい仕打ちを受けてきた。ヴォルデモートもまた同じ憎しみに晒されながら成長し、ついには闇の帝王となってマグルに復讐しようとする。「純血」、「穢れた血」、それから魔法族の血筋でありながら魔力を持たずに生まれた「スクイブ」といった魔法界に横たわる血統問題は物語の重要な要素として繰り返し登場してきた。そしてその血統問題の源流には魔法族とマグルの隔たりがある。新シリーズの第1章となる本作ファンタビは、魔法使いとただの平凡な人間という決定的に違うふたりを引き合わせることで、永久のテーマである魔法族とマグルの関係について、ルーモスの呪文のごとく光で照らし出しているように思った。今後の作品でどれだけこのことが掘り下げられるだろうか、楽しみである。
ところで、やっぱりいちばんの魔法は夕食を準備する魔法だと思う。空中でシュトゥルーデルが作られて食卓に着地するときに焼きあがった状態になり、ロウソクに火が灯って夕食の支度が整った光景はアリソン・スドルのキュートな笑みも手伝って、実に多幸感溢れるシーンだった。思えばホグワーツも料理が並ぶ大広間のシーンは幸せいっぱいだったなあ。これこそ魔法って感じしない?
そうそう、あまり情報を入れずに観たものだから、悪役の正体(正体というより役者)にびっくらこいたんだけれど、あれは知らずに観て正解だった。このご時世どこまで情報を入れずにいるかはむしろ難しいのだけれど、ああいうことで純粋に驚けるのは幸福なことだね。公式側が一切宣伝していないところもおもしろい。この感想文は基本的に核心部分を避けるので、これについてはまた今度書こうかな。それまでは彼のことを「例の俳優」とか「出演していたと言ってはいけないあの人」と呼ぶことにしましょう。