と、そんな誰でも知っている名場面の説明はいいとして、今回どうしてもいい加減最終的な決定を下したかったのが、作品のタイトルについて。ご存知のように『スター・ウォーズ』シリーズは副題が面倒である。一作目が後付けで『エピソード4』とつけられたり、かと思えば『エピソード7』にあたる『フォースの覚醒』から、そのようなナンバリングがつかなくなったしまった。オリジナル三部作時代のシンプルな副題を意識してのことだろう。確かにすっきりしていてかっこいいが、9部作並べた際に締まりがない。前の6本については全て話数がついているからである。意図的に話数を抜きにして呼称しているケースやひともいるのだが、それも含めて非常に気持ちが悪いのだ。ましてや9部作でひとくくりにするのなら、やはり全てに数字がついていたほうがいい。数字は、しっかり並ばなくてはならない。なんだか数字に病的なこだわりを持つ吸血鬼のキャラクターのようだが、そしてぼくは決して算数が得意なほうではなかったが、しかし数字は並ばなくてはならない。なにより順番がわかる。ただでさえ順番がわかりづらいSWシリーズ、それはとても重要なことだ。そして、こういう文章で言及するときにも数字で呼んだほうが早い。
とは言え、副題で呼びたくなるテンションもわかる。数字は便利である反面表情がつきづらく、かえって数字で言われてもどの作品かぴんとこないひともいる。まあそんなひとのことまで配慮してSWに関するテキストを書き連ねる気などないのだが、それでもできるだけわかりやすさは考えたい。たとえばEP5はEP5と呼ぶよりは、『帝国の逆襲』と呼んだほうがわかる。『帝国の逆襲』は『帝国の逆襲』過ぎる。なにを言っているんだと思うかもしれないが、ほかに呼びようがない。単に第5話と呼ぶのは軽過ぎる。5という数字の中に『帝国の逆襲』というワードの強烈さやニュアンスがどうしても含まれない。というのは、まあ、気分的な問題であって好みの話なのかもしれないが、たとえば普通の会話の中で「エピソード5」と言っても恐らく(相手にもよるのだが)「それってどれだっけ」みたいに返ってくるので、副題で呼ぶほうがいい場合もある。逆に副題で呼んだ際に「それって何番目だっけ」と返される場合もあるので頭が痛くなってくるのだが。
冒頭にもあるように、このブログではとりあえず最初に登場する際に話数と副題をフルで並べた正式なタイトルを書いてから、そのあとは全部数字で略すみたいなことにしているが、テキストはそれでいいとして、イラスト内におけるタイトルがずっと悩みの種だった。
一体なんでそんなことに延々こだわって悩んでいるのかと思われるかもしれないが、ぼくには重要なのだ。「もうこれで決めよう」とケリがついてすっきりしない限り気持ちが悪くてしょうがないのだ。なにが悩みどころかと言えば、一言で言って絵の締まり方である。テキストでは気にならないことも、絵に書き添えられた書き文字となると、事情が変わってくる。つまり、「エピソード5」まで入れると非常に長ったらしく見えるのだ。さらに言うと、話数を含めることでタイトルに「一本の映画感」がなくなってくるように思える。いや、一本の映画なのには違いないのだが、なんと言えばいいだろうか、第5話、みたいなのがつくことでなんとなく締まりが悪いのだ。ぼくはSWについて書いたり描いたり考えたりすることをそのままライフワークにしているような頭のおかしい人間だが、あくまでSWを映画として取り扱いたい頭もあったりする。だからこそわざわざ公開年を表記している。決してインユニバースに入りすぎない、あくまで一本ごとの映画としての感覚。年号と一緒に監督の名前とか書いてあればよりその雰囲気は出ると思う(さらに締まりが悪くなさそうなのでそれはやらないのだが)。単体として映画ごとの存在感を考えるとき、話数をつけることに抵抗が生まれてくる。もはやそれぞれの作品に話数がついていなかった期間のほうがずっと短くなっているのだが、どこかで副題だけで書いたほうがかっこいい、みたいな気持ちもある。同時に、長々と書いてきているように話数にこだわりたいという気持ちも小さくない。
前の6部作については、話数込みが正式なタイトルなのだから、そのままそう書けばいい話である。そう、厄介なのは7本目から話数がつかない形が一応の正式タイトルになってしまったことなのだ。一応、と言ったのは、媒体によってはシリーズ全体の整合性を考えて話数をつけて書いている場合があったり、そもそも本編冒頭の宇宙空間を流れる黄色い文字の中にはちゃんと話数がつけられていたりするからだ。
つまるところ、要点としてはシークエル三部作表記に合わせるのか、6部作のルールにシークエルを合わせるのかというところになる。数字による連続性や順列と、すっきりした副題のどちらを優先するべきか。前者を優先した場合には、シークエルの正式なタイトルを都合よく変えてしまっているという後ろめたさが、後者を優先した場合には、プリクエル三部作世代で話数つきで統一された6部作に慣れ親しんでおきながら、そういうところで気取っちゃうんだ、ははーん、というような声が自分の中で聞こえてくる。そこまで考えたところで思考がもう身動きできない。
しかし、そうやって並べて比べてみたところでどちらのほうがより自分がこだわる要素が多いのかが見えてくる。話数つきには数字による一貫性とともに、やはり自分のこれまでのSWへの親しみ方が含まれている。話数付きこそ、自分が慣れ親しんだSWではなかったか。自分が観ていた頃のSWには、話数がついているのが当たり前だった。数字によって作品同士の関係性が際立ち、意識が時系列の上を移動する。そうだ、SWというのはエピソード群なのだ。結局のところ、副題のみの表記というのは、どこかで気取りがある。話数がついていないほうがスマートだが、それはスマートに見せたいという意識がどこかにあるからなのだ。ではシークエル三部作の正式なタイトルは尊重しないのかと言えばそんなことはなく、あくまでその場合は副題に便宜上話数を付け加えるだけである。そもそもぼくが個人的に描いているものはそこまで正式である必要がない。ぼくの文脈で統一して問題がない。というわけでぼくの中ではSWシリーズは話数をつける形を基本とする。すっきりである。
ただ、EP9で「スカイウォーカー・サーガ」なるものが完結したあとにくる次のサーガ群が、どういうふうに整列していくのかを考えると、またしても頭が重くなってくる。