だから、学校の裏の茂みで怪我をしたナフシが見つかったと聞いたとき、ジムは正直あまり近づきたくなかった。ジムの父親は農家ではなかったが、入植者として害獣の危険性を知っていたから、常に息子に対して無闇に野生の動物に近寄らないように言いつけていた。ジムはその年頃の子どもたちの例に漏れず、なにをするにもまず親から言われていることを判断の材料にしていた。
それでも子どもには好奇心というものがあったので、ジムはクラスメイトたちと一緒に茂みを見に行った。すでに最初の発見者たるグループはナフシに飽きて立ち去ったあとだったが、後から来た子どもたちが発見時の興奮をそのまま引き継いでいた。彼らはまるで自分たちが最初に発見したかのような態度で見物に来た連中にあれこれ指図をしていて、最初にナフシを見つけたときどんな様子だったかを説明していた。
ジムは他の子達の肩越しにその動物を見た。紫色の茂みの中で、濃い緑色の毛皮の塊が丸まっていた。身体に対して頭は小さく、とがった耳と鼻面が突き出していた。目を閉じているのか開けているのかはっきりしない。怪我をしていると聞いていたが、具体的にどこがどう悪いのかよくわからなかった。ただ、ぐったりしているのはわかるし、子どもたちがこれだけ集まって騒がしくしているのに、まるで逃げる様子がなく、その気力も湧かない様子だった。ジムはかつて家の庭先に連れてこられた、罠にかかったナフシを思い出した。ちょうどあれと同じような感じだ。
その場を仕切っていた子たちが、自分たちでこのナフシの世話をしてやろうと言い出した。明日からここに給食の残りなどをここに持ってきてやろう。ナフシは雑食だから、特別に加工しているものでなければ大抵のものは食べるだろう、ということだった。彼らは獣医ではないので、ナフシの具合がどんなふうに悪いかわからなかったが、動物なんてものは食べれば回復するだろうと考えたのだった。
成り行きで、その場にいる全員がこの動物の世話をするメンバーに数えられた。ジムは他の皆が非常に乗り気で、張り切っているのを見て、少し戸惑い、本音を言わないことにした。なんだか面倒なことに巻き込まれてしまったなと思ったが、なんとなく放課後にそういう一部の輪の中に加えられたことが少しうれしくもあった。しかし、やはり得体の知れない、あまり綺麗とは言えない野生の動物に関わりたくなかった。
その場の盛り上がった雰囲気にひと通り合わせてから、ジムは帰路についた。別になにか役割を当てられたわけではないのでひと安心だった。家から毛布を持って来いみたいなことは言われなかった。子どもたちの思いつきで、計画性は一切ない。明日適当に給食の残りを集めて持って行こうくらいのことしか考えていない。どこかの獣医に様子を見せようとか、話の通じそうな先生を選んでことを知らせようとか、そういうことは誰も考えていないだろう。
ろくな計画もないのに盛り上がっていた皆の熱を思うと、ジムの気持ちはかえって冷めた。冷たいものが広がっていくような感じがして、そういう自分は非常に嫌な子どもなのではないかという気さえしてきた。皆が怪我をしたかわいそうな動物の面倒を見ようと言っているそばで、病気を持ってそうな動物に触りたくないなあなんて考えているなんて、優しくないのではないかと思った。
「なんか、気持ち悪かったね」
肩のあたりに声がしてそちらを向くと、同じクラスのモンザだった。そういえば先ほどの一団の中に顔を見た気がする。あまり話したことはないが、特に距離がある相手というわけでもなかった。共通の友達がいるので、同じ場に居合わせることも多かった。ジムはあまり女の子と話すのが得意でないから(男の子も別に得意ではないが)、なにか話しかけられるとどう返事しようかなと一旦間を置いてしまうのだが、このときはまさにそのとき考えていたことを言い当てられたような気がしたので、反射的に、そうだね、と答えていた。しかし、答えたあとで一体なにが気持ち悪かったのだろうかと思い返した。
「ナフシが?」
一応そう聞いたら、モンザは目を細めて口の片端だけが上がった微妙な笑みを浮かべ、首を横に振った。
「怪我した動物を気持ち悪いだなんて、思ってないよ」
モンザの言葉に、ジムはしまったと思った。これではとても薄情なやつだと思われてしまう。普段言葉を交わす間柄ではないにせよ、この子からそう思われるのはなんだか嫌だった。
「いや、一応聞いただけさ。どっちかと言えば、気持ち悪かったのはあすこにいた皆だね」
そんなふうに無様に取り繕ったところで、モンザは笑ってくれた。
「そうだね。私が言いたかったのは、あの場がってことなんだ」
「なるほど、あの場か」
確かに妙な居心地の悪さがあって、あの場から立ち去りたかった。面倒なことに巻き込まれてしまった、なにか役割を押し付けられたらどうしようといった不安。正直に思ったことが言えなさそうな雰囲気。それに、今にして思えば手負いの動物を前にそういう自分の心配ばかりしていたのも、なんだか自分で腹立たしかった。
「でも、かわいそうはかわいそうだ」
並んで道を歩きだしてから、少ししてからようやくジムは言った。なんとか形になって口から出てきたその言葉にに、モンザは、ふうんと軽く頷いた。
「かわいそうっていうのはでも、共感とは違うよね」
「え?」
「かわいそうっていうのは、なんていうのかな、少し偉そうな感じ」
「えっとお」
ジムが必死に相手の言わんとしている意味を考えようとしていると、モンザが顔にかかった髪を手ではねのけて、ジムを見据えた。
「たとえばね、先週までクー・アムドが足にギプスしてたでしょ。皆大丈夫かって聞いていたけど、誰もかわいそうとかは言わないし、思わなかったわけ。君、思った?」
「思わなかった」
本当はそれどころかあまりクー・アムドに興味がなかった。彼が足にギプスをしていたことも、今モンザに言われて思い出したくらいだ。
「たぶんかわいそうなんて言ったら、あの子は怒ったと思うよ。ひとはひとからかわいそうと言われてときに初めて、かわいそうなひとになるんだよ」
「そんなの考えてもみなかったなあ」
「そりゃ、どう考えても不幸なひとというのはいるし、自分を不幸だと思ってるひともいるんだけど、でも、そういうひとをかわいそうと言ったら、それはやっぱり失礼な話だと思うな」
「かわいそうは失礼」
ジムは繰り返した。とりあえず繰り返すしかなかった。
「そう。ちゃんと助けてあげられないんなら、かわいそうなんて言っちゃだめだよ」
モンザはそれ以上は言わなかった。だったら、あのナフシはどう表現するべきなのか。彼女自身そこから先を論じられなかったのかもしれないが、少なくともこの時点でのジムにはそこまでで十分だった。今まで考えもしなかったものの見方を知ったような気さえしたのだった。
「本当に明日から皆で世話をすると思う?」
ジムが尋ねると、モンザはまたしてもゆるやかに首を振った。
「給食の残飯を持ってくだけでは世話とは言えないよ。うちには犬がいるんだけどね、具合が悪くなったとき、それはもう大変だったよ。それに、どうせ最初の1日、2日で皆飽きるよ。皆が飽きるのが先か、あのナフシが死んじゃうのが先かって感じだろうと思う」
「そりゃ随分な言い方だ。でも、多分そうなんだろうなあ」
それよりジムはモンザの犬が気になった。「犬ってどんな犬?」
「大きいよ。お父さんが地球から連れてきたばかりのときはちょっと元気がなかったんだけど、今はすごく元気で、一緒に遊んでると私のほうが先にくたびれるんだ。犬、見たことある?」
犬について話すモンザは、先ほどの冷めた感じとは打って変わって目が輝いていた。それを見たジムは、モンザを少しかわいいと思った。でも、僕が怪我をした臭いナフシみたいになったら、さっきみたいに細めた目に半笑いで見てくるんだろうなあ、とも思った。
「図鑑でなら見たことあるよ。いろんな形のがいるよね。その犬、さっきのナフシより大きいの?」
「大きいよ。うちの庭に来るナフシをよく怖がらせて追い返してる」
それを聞いてジムもなんだか怖くなった。ジムが図鑑で見て気に入っている犬と言えば小さなビーグル犬だった。モンザの家にいるのはきっとシャーロック・ホームズと対決したような大きな犬なのかもしれない。
「今度うちに見にくる?」
モンザにそう言われて、女の子から招待を受けたのはうれしかったが、内心すっかり怖くなっていた。
「うん、見たいな」
と言ったものの、明日明後日と日が経つうちにこの話が適当に流れていくといいなあと、少し思うジムだった。
ふたりの歩いている長い道路が、もうすぐ二手に別れるところだった。ジムの記憶が正しければモンザは彼とは反対の方向へ帰っていくはずだった。この密かな会話はもうすぐ終わってしまう。明日の朝教室で顔を合わせたときに、同じように会話ができるとは限らない。ジムは茂みでうずくまった動物を目にしてからというもの、ずっと胸につかえていた不安を吐き出すことにした。
「ナフシのこと、先生に言ったほうがいいかな」
それは質問と表明のちょうど中間くらいの言い方で、本当に恐る恐る口に出した感じだった。ジムはその年頃の気の小さい少年の例に漏れず、なにか問題が起こると大人を頼り、大人に確認を取り、大人に承認を得たほうがいいのではないかと考えるタイプだった。その性質によって、彼は同級生たちと多少無茶をする遊びというのができないでいた。彼にとって大人に内緒で怪我をした動物を世話をするというのは、どこかの農場のフェンスをよじ登って向こう側へ渡ったり、建物の屋根に登ったり、自分たちがまだ対象年齢に達していないビデオ・ゲームで遊ぶのと同じくらい危険なことだった。
なにより、父親から聞かされていたナフシの不潔さや時折見せる凶暴さが怖かった。
「別に言わなくてもばれると思うよ」
モンザはあっさり言った。「給食の残りをこっそり黙って持っていくなんてこと、あの子たちにはできないよ。どうせ変に騒がしくするだろうし、先生だって馬鹿じゃないからね、いつもと違う皆の様子に気付くと思うよ」
モンザの冷静な推測や、その観察眼のようなものに、ジムはすっかり驚いていた。この子はこんなふうに教室を見ていたんだ。ジムも級友たちのことを一歩引いたくらいのところで見ることが多いけれど、それでもやっぱり一緒になって遊ぶので(危険のない範囲でだが)、モンザのように考えることはなかった。同時に驚くのは、モンザはそんなふうに周囲を見ていながら、普段から孤立することはなく、少なくともジムの目には皆とうまくやっているように見えることだった。
ジムは、モンザを大人びていると思った。その大人びたモンザは、このやりとりの中でジムと他のクラスメイトたちとを明確に分けて話していた。もちろん、ひとは誰かと話すとき相手のことだけは他の連中のことと別にして話すものだと、ジムはこのあと知っていくことになるが、それでも、この場では彼は彼女の側の人間であり、彼女が自分の考えを話してもいいと認めた相手だった。もしかすると明日には知らん顔されてしまうかもしれないけれど、今この時間だけ、ジムはモンザと秘密を共有している。それは怪我をした動物を自分たちだけで世話しようという取り決めなんかよりも、はるかに魅力的な秘密だった。
「じゃあ、また明日」
分かれ道のところで、モンザから切り出した。「ナフシのことはまあ、適当にやり過ごそう。明日も皆に合わせてればいいよ。私もそうするから」
「わかった」
ジムは言った。「じゃあ、また」
家に帰ってから、ジムは両親にナフシのことを話さないでおいた。モンザの物言いからは、なんとなく大人には黙っておいたほうがいいというようなことが読み取れたからだ。帰り道に彼女が言っていたのは、つまりは放っておけということなのだと。積極的に関わろうとする必要もなければ、事態を収束させるために大人を関わらせる必要もないということ。ジムでもそれくらいはわかった。あんなふうでいながら、普段から教室でうまいこと振舞っているモンザの言うことは、信頼できる気がしたのだった。
翌朝、ジムは寝坊したわけでもなく普段通りの時間に学校に着いたのだが、すでに教室が騒がしかった。どうやら何人かは早めに登校してナフシの様子を見に行っていたらしいのだが、ことは思い通りにいかなかった。例の茂みに獣の姿はなく、かわりにスコップを持ったサエキ先生がいたのだ。その場においてスコップを持った先生の姿くらい、状況を的確に説明するものはないだろう。
教室は一階で、窓の外がちょうど例の茂みに続く小道になっているのだが、窓の外にサエキ先生が立っていて、登校してきてだんだん人数が増えてきている生徒たちに向かってことの次第を説明していた。あのナフシはすでに息絶えていたので、皆さんが登校する前に埋めました。
生徒たちのほとんどは憤っていた。特に張り切っていた中心人物たちは涙を流しながらなにやらわめいていた。どうしてそんなふうに涙を流すのだろうとジムには不思議でならなかった。ナフシは昨日怪我をした状態で見つかっていて、一緒に遊ぶ時間も親密になる時間もなかった。そもそもナフシはそのへんの道でしょっちゅうひかれている。あの子たちはそれを見るたびにあんなふうに泣くのだろうか。もちろん、あのひとたちはなんで泣いているのと、近くにいるクラスメイトに聞くことはできない。それは恐ろしくてできなかった。
サエキ先生はいつでも冷静でゆったりと話すので、自然と話している相手の気持ちも落ち着いてしまうのだが、今朝もやはり生徒たちは次第に落ち着いていった。落ち着いてくると、生徒の中からいろいろと質問が出てきた。ナフシはどんなふうに死んでいたのか、あの子はどこをどんなふうに怪我をしていたのか、そもそも怪我だったのか、など。
「先生が見たところ、怪我をしていたようです。最初はそのへんで車にぶつかったのかなと思いましたが、よく見ると首のあたりに深い傷がありました。なので、皆さんがどうにかできる怪我ではなかった。少なくとも給食の残りをあげる程度のことではね」
先生が看病の計画を具体的に言い当てたので、皆は驚いたようだった。モンザの言う通り先生は鋭い。
「でも先生、傷ってどんな傷ですか?首にあったってことは誰かが……」
再び飛び出してきた質問に、先生はさわやかに笑いながら首を振った。
「あはは、人間の仕業ではないですよ。もちろん、このあたりの農場にはナフシに対する罠をしかけているところが多いですけどね。でも、そういうので出来る傷ではなかったです」
サエキ先生はそこで少し迷った。「……まあ、皆さんをあまり怖がらせてはいけないとは思いますが……そうですね、なにかもっと大きい動物に噛まれたような跡でした」
例えば大きい犬みたいな、と先生は付け加えた。
途端にジムの背筋にぞくっとした感覚が走った。恐怖ではない。恐怖ではないが、あることに気付いてしまったという、一種のショックのようなもの。そして、それに気付いた自分をどこかで得意にさえ思った。
イヌってなあに先生、と尋ねる声。すぐに先生が、それは地球にいる動物で、人間のパートナーのような存在だと答える。
「きっとあのナフシは、どこかの農場に忍び込んだときにそこの番犬に噛まれたのかもしれませんが、しかし先生の知る限り、このあたりで犬を飼っているようなおうちは思いつきませんねえ。もしかすると、山にマーシャン・ウルフがいるのかもしれません。皆さんも子どもだけで山や森に入ったり、暗くなってから農場のまわりをうろつくなんてことはしないようにね」
ショックから覚めたジムは、自分が教室の床の上に立っているということを思い出し、その感覚を取り戻した。それから少し遅れて、周囲を見回す。もちろんこっそりと。よく知った顔がいくつも並んでサエキ先生の話に聞き入っている。しかし、その隅の方に、あまり興味のなさそうな顔で立っている女の子を見つけた。
モンザもこちらを向いた。
その場を仕切っていた子たちが、自分たちでこのナフシの世話をしてやろうと言い出した。明日からここに給食の残りなどをここに持ってきてやろう。ナフシは雑食だから、特別に加工しているものでなければ大抵のものは食べるだろう、ということだった。彼らは獣医ではないので、ナフシの具合がどんなふうに悪いかわからなかったが、動物なんてものは食べれば回復するだろうと考えたのだった。
成り行きで、その場にいる全員がこの動物の世話をするメンバーに数えられた。ジムは他の皆が非常に乗り気で、張り切っているのを見て、少し戸惑い、本音を言わないことにした。なんだか面倒なことに巻き込まれてしまったなと思ったが、なんとなく放課後にそういう一部の輪の中に加えられたことが少しうれしくもあった。しかし、やはり得体の知れない、あまり綺麗とは言えない野生の動物に関わりたくなかった。
その場の盛り上がった雰囲気にひと通り合わせてから、ジムは帰路についた。別になにか役割を当てられたわけではないのでひと安心だった。家から毛布を持って来いみたいなことは言われなかった。子どもたちの思いつきで、計画性は一切ない。明日適当に給食の残りを集めて持って行こうくらいのことしか考えていない。どこかの獣医に様子を見せようとか、話の通じそうな先生を選んでことを知らせようとか、そういうことは誰も考えていないだろう。
ろくな計画もないのに盛り上がっていた皆の熱を思うと、ジムの気持ちはかえって冷めた。冷たいものが広がっていくような感じがして、そういう自分は非常に嫌な子どもなのではないかという気さえしてきた。皆が怪我をしたかわいそうな動物の面倒を見ようと言っているそばで、病気を持ってそうな動物に触りたくないなあなんて考えているなんて、優しくないのではないかと思った。
「なんか、気持ち悪かったね」
肩のあたりに声がしてそちらを向くと、同じクラスのモンザだった。そういえば先ほどの一団の中に顔を見た気がする。あまり話したことはないが、特に距離がある相手というわけでもなかった。共通の友達がいるので、同じ場に居合わせることも多かった。ジムはあまり女の子と話すのが得意でないから(男の子も別に得意ではないが)、なにか話しかけられるとどう返事しようかなと一旦間を置いてしまうのだが、このときはまさにそのとき考えていたことを言い当てられたような気がしたので、反射的に、そうだね、と答えていた。しかし、答えたあとで一体なにが気持ち悪かったのだろうかと思い返した。
「ナフシが?」
一応そう聞いたら、モンザは目を細めて口の片端だけが上がった微妙な笑みを浮かべ、首を横に振った。
「怪我した動物を気持ち悪いだなんて、思ってないよ」
モンザの言葉に、ジムはしまったと思った。これではとても薄情なやつだと思われてしまう。普段言葉を交わす間柄ではないにせよ、この子からそう思われるのはなんだか嫌だった。
「いや、一応聞いただけさ。どっちかと言えば、気持ち悪かったのはあすこにいた皆だね」
そんなふうに無様に取り繕ったところで、モンザは笑ってくれた。
「そうだね。私が言いたかったのは、あの場がってことなんだ」
「なるほど、あの場か」
確かに妙な居心地の悪さがあって、あの場から立ち去りたかった。面倒なことに巻き込まれてしまった、なにか役割を押し付けられたらどうしようといった不安。正直に思ったことが言えなさそうな雰囲気。それに、今にして思えば手負いの動物を前にそういう自分の心配ばかりしていたのも、なんだか自分で腹立たしかった。
「でも、かわいそうはかわいそうだ」
並んで道を歩きだしてから、少ししてからようやくジムは言った。なんとか形になって口から出てきたその言葉にに、モンザは、ふうんと軽く頷いた。
「かわいそうっていうのはでも、共感とは違うよね」
「え?」
「かわいそうっていうのは、なんていうのかな、少し偉そうな感じ」
「えっとお」
ジムが必死に相手の言わんとしている意味を考えようとしていると、モンザが顔にかかった髪を手ではねのけて、ジムを見据えた。
「たとえばね、先週までクー・アムドが足にギプスしてたでしょ。皆大丈夫かって聞いていたけど、誰もかわいそうとかは言わないし、思わなかったわけ。君、思った?」
「思わなかった」
本当はそれどころかあまりクー・アムドに興味がなかった。彼が足にギプスをしていたことも、今モンザに言われて思い出したくらいだ。
「たぶんかわいそうなんて言ったら、あの子は怒ったと思うよ。ひとはひとからかわいそうと言われてときに初めて、かわいそうなひとになるんだよ」
「そんなの考えてもみなかったなあ」
「そりゃ、どう考えても不幸なひとというのはいるし、自分を不幸だと思ってるひともいるんだけど、でも、そういうひとをかわいそうと言ったら、それはやっぱり失礼な話だと思うな」
「かわいそうは失礼」
ジムは繰り返した。とりあえず繰り返すしかなかった。
「そう。ちゃんと助けてあげられないんなら、かわいそうなんて言っちゃだめだよ」
モンザはそれ以上は言わなかった。だったら、あのナフシはどう表現するべきなのか。彼女自身そこから先を論じられなかったのかもしれないが、少なくともこの時点でのジムにはそこまでで十分だった。今まで考えもしなかったものの見方を知ったような気さえしたのだった。
「本当に明日から皆で世話をすると思う?」
ジムが尋ねると、モンザはまたしてもゆるやかに首を振った。
「給食の残飯を持ってくだけでは世話とは言えないよ。うちには犬がいるんだけどね、具合が悪くなったとき、それはもう大変だったよ。それに、どうせ最初の1日、2日で皆飽きるよ。皆が飽きるのが先か、あのナフシが死んじゃうのが先かって感じだろうと思う」
「そりゃ随分な言い方だ。でも、多分そうなんだろうなあ」
それよりジムはモンザの犬が気になった。「犬ってどんな犬?」
「大きいよ。お父さんが地球から連れてきたばかりのときはちょっと元気がなかったんだけど、今はすごく元気で、一緒に遊んでると私のほうが先にくたびれるんだ。犬、見たことある?」
犬について話すモンザは、先ほどの冷めた感じとは打って変わって目が輝いていた。それを見たジムは、モンザを少しかわいいと思った。でも、僕が怪我をした臭いナフシみたいになったら、さっきみたいに細めた目に半笑いで見てくるんだろうなあ、とも思った。
「図鑑でなら見たことあるよ。いろんな形のがいるよね。その犬、さっきのナフシより大きいの?」
「大きいよ。うちの庭に来るナフシをよく怖がらせて追い返してる」
それを聞いてジムもなんだか怖くなった。ジムが図鑑で見て気に入っている犬と言えば小さなビーグル犬だった。モンザの家にいるのはきっとシャーロック・ホームズと対決したような大きな犬なのかもしれない。
「今度うちに見にくる?」
モンザにそう言われて、女の子から招待を受けたのはうれしかったが、内心すっかり怖くなっていた。
「うん、見たいな」
と言ったものの、明日明後日と日が経つうちにこの話が適当に流れていくといいなあと、少し思うジムだった。
ふたりの歩いている長い道路が、もうすぐ二手に別れるところだった。ジムの記憶が正しければモンザは彼とは反対の方向へ帰っていくはずだった。この密かな会話はもうすぐ終わってしまう。明日の朝教室で顔を合わせたときに、同じように会話ができるとは限らない。ジムは茂みでうずくまった動物を目にしてからというもの、ずっと胸につかえていた不安を吐き出すことにした。
「ナフシのこと、先生に言ったほうがいいかな」
それは質問と表明のちょうど中間くらいの言い方で、本当に恐る恐る口に出した感じだった。ジムはその年頃の気の小さい少年の例に漏れず、なにか問題が起こると大人を頼り、大人に確認を取り、大人に承認を得たほうがいいのではないかと考えるタイプだった。その性質によって、彼は同級生たちと多少無茶をする遊びというのができないでいた。彼にとって大人に内緒で怪我をした動物を世話をするというのは、どこかの農場のフェンスをよじ登って向こう側へ渡ったり、建物の屋根に登ったり、自分たちがまだ対象年齢に達していないビデオ・ゲームで遊ぶのと同じくらい危険なことだった。
なにより、父親から聞かされていたナフシの不潔さや時折見せる凶暴さが怖かった。
「別に言わなくてもばれると思うよ」
モンザはあっさり言った。「給食の残りをこっそり黙って持っていくなんてこと、あの子たちにはできないよ。どうせ変に騒がしくするだろうし、先生だって馬鹿じゃないからね、いつもと違う皆の様子に気付くと思うよ」
モンザの冷静な推測や、その観察眼のようなものに、ジムはすっかり驚いていた。この子はこんなふうに教室を見ていたんだ。ジムも級友たちのことを一歩引いたくらいのところで見ることが多いけれど、それでもやっぱり一緒になって遊ぶので(危険のない範囲でだが)、モンザのように考えることはなかった。同時に驚くのは、モンザはそんなふうに周囲を見ていながら、普段から孤立することはなく、少なくともジムの目には皆とうまくやっているように見えることだった。
ジムは、モンザを大人びていると思った。その大人びたモンザは、このやりとりの中でジムと他のクラスメイトたちとを明確に分けて話していた。もちろん、ひとは誰かと話すとき相手のことだけは他の連中のことと別にして話すものだと、ジムはこのあと知っていくことになるが、それでも、この場では彼は彼女の側の人間であり、彼女が自分の考えを話してもいいと認めた相手だった。もしかすると明日には知らん顔されてしまうかもしれないけれど、今この時間だけ、ジムはモンザと秘密を共有している。それは怪我をした動物を自分たちだけで世話しようという取り決めなんかよりも、はるかに魅力的な秘密だった。
「じゃあ、また明日」
分かれ道のところで、モンザから切り出した。「ナフシのことはまあ、適当にやり過ごそう。明日も皆に合わせてればいいよ。私もそうするから」
「わかった」
ジムは言った。「じゃあ、また」
家に帰ってから、ジムは両親にナフシのことを話さないでおいた。モンザの物言いからは、なんとなく大人には黙っておいたほうがいいというようなことが読み取れたからだ。帰り道に彼女が言っていたのは、つまりは放っておけということなのだと。積極的に関わろうとする必要もなければ、事態を収束させるために大人を関わらせる必要もないということ。ジムでもそれくらいはわかった。あんなふうでいながら、普段から教室でうまいこと振舞っているモンザの言うことは、信頼できる気がしたのだった。
翌朝、ジムは寝坊したわけでもなく普段通りの時間に学校に着いたのだが、すでに教室が騒がしかった。どうやら何人かは早めに登校してナフシの様子を見に行っていたらしいのだが、ことは思い通りにいかなかった。例の茂みに獣の姿はなく、かわりにスコップを持ったサエキ先生がいたのだ。その場においてスコップを持った先生の姿くらい、状況を的確に説明するものはないだろう。
教室は一階で、窓の外がちょうど例の茂みに続く小道になっているのだが、窓の外にサエキ先生が立っていて、登校してきてだんだん人数が増えてきている生徒たちに向かってことの次第を説明していた。あのナフシはすでに息絶えていたので、皆さんが登校する前に埋めました。
生徒たちのほとんどは憤っていた。特に張り切っていた中心人物たちは涙を流しながらなにやらわめいていた。どうしてそんなふうに涙を流すのだろうとジムには不思議でならなかった。ナフシは昨日怪我をした状態で見つかっていて、一緒に遊ぶ時間も親密になる時間もなかった。そもそもナフシはそのへんの道でしょっちゅうひかれている。あの子たちはそれを見るたびにあんなふうに泣くのだろうか。もちろん、あのひとたちはなんで泣いているのと、近くにいるクラスメイトに聞くことはできない。それは恐ろしくてできなかった。
サエキ先生はいつでも冷静でゆったりと話すので、自然と話している相手の気持ちも落ち着いてしまうのだが、今朝もやはり生徒たちは次第に落ち着いていった。落ち着いてくると、生徒の中からいろいろと質問が出てきた。ナフシはどんなふうに死んでいたのか、あの子はどこをどんなふうに怪我をしていたのか、そもそも怪我だったのか、など。
「先生が見たところ、怪我をしていたようです。最初はそのへんで車にぶつかったのかなと思いましたが、よく見ると首のあたりに深い傷がありました。なので、皆さんがどうにかできる怪我ではなかった。少なくとも給食の残りをあげる程度のことではね」
先生が看病の計画を具体的に言い当てたので、皆は驚いたようだった。モンザの言う通り先生は鋭い。
「でも先生、傷ってどんな傷ですか?首にあったってことは誰かが……」
再び飛び出してきた質問に、先生はさわやかに笑いながら首を振った。
「あはは、人間の仕業ではないですよ。もちろん、このあたりの農場にはナフシに対する罠をしかけているところが多いですけどね。でも、そういうので出来る傷ではなかったです」
サエキ先生はそこで少し迷った。「……まあ、皆さんをあまり怖がらせてはいけないとは思いますが……そうですね、なにかもっと大きい動物に噛まれたような跡でした」
例えば大きい犬みたいな、と先生は付け加えた。
途端にジムの背筋にぞくっとした感覚が走った。恐怖ではない。恐怖ではないが、あることに気付いてしまったという、一種のショックのようなもの。そして、それに気付いた自分をどこかで得意にさえ思った。
イヌってなあに先生、と尋ねる声。すぐに先生が、それは地球にいる動物で、人間のパートナーのような存在だと答える。
「きっとあのナフシは、どこかの農場に忍び込んだときにそこの番犬に噛まれたのかもしれませんが、しかし先生の知る限り、このあたりで犬を飼っているようなおうちは思いつきませんねえ。もしかすると、山にマーシャン・ウルフがいるのかもしれません。皆さんも子どもだけで山や森に入ったり、暗くなってから農場のまわりをうろつくなんてことはしないようにね」
ショックから覚めたジムは、自分が教室の床の上に立っているということを思い出し、その感覚を取り戻した。それから少し遅れて、周囲を見回す。もちろんこっそりと。よく知った顔がいくつも並んでサエキ先生の話に聞き入っている。しかし、その隅の方に、あまり興味のなさそうな顔で立っている女の子を見つけた。
モンザもこちらを向いた。