2019/07/02

あらかじめ設定する必要はない

 そう、映画感想の描き方を模索中である。しばらく安定しないと思う。いや、永久に安定しないかもしれない。仕事でイラストと書き文字による記事を作っていると、どうしても個人的にそういう凝ったものを作る余力がない。観た映画も読んだ本もしっかり感想をまとめないとなあと思っているうちにどんどん摂取した作品が積まれていく。積ん読はしていないが積み感想をしてしまっている。別に仕事ではないし誰かに言われているわけでもないのだが、どこか自分が続けるべきもののようにとらえているので、しばらくなにも書いていないと常にさぼっているという気分になって落ち着かない。かといってどの映画についても同じテンションで描けるわけではないし、無理に描いても楽しくない。仕事じゃないのに楽しくないというのは、もはややる意味がない。もっと気軽に手軽に描ける形式にシフトしたほうが、たくさん描けるのではないか。不安や不満があるのはとにかく描けていないからなので、とりあえず描ける形で描けばいい。簡単なものが基本としてあれば、普通のテンションのものは簡単に描き、ちょっと熱の入るものについてはちょっと手を加えて描くという形にできる。変にシリーズ見出しをつけるとラインが固定されてしまってやはりだんだん続けづらくなるので、それも取っ払う。シリーズ見出しについては、最初の頃はあって、途中から去年まで無くしていたのだが、今年に入ってからはまた入れるようにしていた。途中で無くしたのは、見出しが入るという前提が全体のスペースを窮屈にしているように感じたこと、分類してしまうと融通がきかなくなるといった理由からだったが、今年に入ってまたカチンコ型のマークを入れるようにしたのは、逆になにも形式や縛りがないとレイアウトがつけづらいと思ったから。必ず右上にマークが入ることで、全体の配置もある程度つけやすくなる。ほどほどに制限があったほうが、ぼくの場合はやりやすいのではないかと思う。しかし、結局はそういう決まった形式は自然と身構えてしまうものだし(原稿用紙に作文を書く際に、タイトルを書いて氏名を書いてから、一行空けてから本文を書き出すよりは、なにも前置きなしに書き出したほうが気楽で、かえってすらすらいけるみたいな感じと言おうか)、手軽ではなくなり、重荷になってしまうという結論に至った。

 いや、形式がある上に凝ろうとするせいだろうか?枠があっても中身は手軽な感じだったら続けられたのだろうか。むしろ規格化された形式が中身の手軽さをある程度締める、みたいなことにもなっただろうか。傍目には好きにしろという感じだろうが、ぼくにとっては重要なことだ。いや、本当にそうだろうか?重要だと思い込んでいるだけで、本当に好きにしたら、もしかしたらふっきれるのだろうか。しかし、好きにしようと思った結果がこういう悩みに繋がっているようにも感じる。ほどよく制限がないと、ぼくは自由を前に途方もない気持ちになったりする。どこからどう手をつけていいかわからなくなる。しかしこれを克服するためにも、一度抵抗を感じながらも思い切って通してみたら、その先に行けるのだろうか。そもそも作るものをそこまで整然とさせる必要はない。いっそなにがしたいのかよくわからないくらいの、ぐちゃぐちゃ感があったほうが楽しい。そのほうがアイデアや思考が湧き出ている感じがする。勢いがある。綺麗に見せようとしすぎたのかもなあ。絵は綺麗にしたいが、その並びなど、一貫性とか、連続性とか、そういうものは全然綺麗じゃなくていいのだろうな。それを意識しなくなったらもう少し変わるかもしれない。並びってなんのことかと言えば、ウェブサイトのギャラリーで一望したときの体裁のことなのだが、そういうアーカイブ感を意識しながら作るのがもう間違っている。自分がどういう世界を作っているのか、作れているのかを確認しているつもりだったけれど、そんなの普通に昨日描いたものが今日の自分を縛り付けてしまっている原因だよな。少しは意識していいのかもしれないが、とりあえずサイトに並んだサムネイルの体裁とか、そんなこと考えるのはやめよう(そんなこと考えていたのかと思われそうだが)。体裁だなんて、もっとも取るに足らんものだろう。適当にやっていけば、自然とスタイルは身に付くのだから、あらかじめなにか設定する必要は本当にないのだろうな。自分が毎回違う形で描いているつもりでも、結局全部自分が描いたものとして一貫したものはあるだろうし。たくさん描いたあとでまとめればいいわけであって、ひとつひとつを描いている段階からまとめようとしなくていいのだ。