娘は「セサミ・ストリート」に夢中である。YouTubeの公式チャンネルを延々と流しているわけだけれど、最近のものから昔のものまで結構ランダムに見られるので、時折ぼくが子どもの頃観た記憶のあるものとかもあって、なかなかいい。そういえばNHKでやっていた頃はよく観ていたし、原風景の一部と言える。ちょうど今年で50周年なのだが、たくさん新しいキャラクターが登場しているとはいえ、基本的なやつらはずっといて、娘が観ているキャラクターをぼくもよく知っているし、なんならぼくの母も知っているというのは改めて思うとすごいことだ。
たくさんの歌が流れる中でわかったのは、とにかくそこには子どもたちに自分を好きでいてほしいというメッセージがあること。自分の髪や肌の色に誇りを持とうといったものはもちろんだが、さらに印象的だったのは自分の名前を好きでいようというものだ。僕の、私の名前はこれこれで、全然変えようとは思わない、といった歌。なるほど、いろいろなルーツを持った人々が暮らす国では、外見の特徴だけではなく名前もまたいろいろなタイプがある。そうでなくとも、周囲になかなかいない珍しい名前の人間はいるもので、ぼくもそうだ。もちろんぼくは自分の名前が好きだ。印象が強くて覚えてもらえるし(たまに水原とか端丸とか書かれることもあるが、そんなのは放っておこう)、教室に同じ名前のやつはまずいないからよそよそしく苗字で呼ばれたり、混乱を招くこともない。なによりペンネームを考える手間がかからなかった。だから、大前提として自分の名前は好きなのだが、それでもどこかで気後れみたいなものはある。両親に対して恥ずかしい限りだけれど、今でも名乗りづらくなることがある。電話口なんかは特にそうだ。電話の相手が一回でこの名前を聞き取ることが少ないからかもしれないが、理由はそれだけだろうか。病院の待合室でフルネームを呼ばれるときの気持ちはなんだろうか。あんまり聞かれたくないとか、どこかで思っているのかもしれない。ただの自意識過剰かもしれないが、子どもの頃に一切名前のことをとやかく言われたことがないと言えば嘘になる。今なら物珍しさからだとわかるが、そのときは悔しくて嫌だったものだ。とは言え、それでこんな名前は嫌だなあなんて思ったことはなくて、ますます自分で好きでいなければと思ったものだった。セサミの歌はそのあたりを改めて確信させてくれる。ぼくはもっとはっきりとした声で名乗るべきだ。
思うに、セサミが励ますのはアメリカの子ども、移民の子どもだけではないのだと思う。アルファベットはこれでもかと刷り込んでくるが、アメリカで暮らしてもいなければ、子どもですらないぼくがこうして励まされている。髪質や肌の色だって、人種問わず悩んでいるひとがいるだろう。ぼくだって癖っ毛で浅黒い方だ。もちろん、ぼくなんか呑気なほうで、本当にそのことで苦しめられている人々と比べることなんてできないけれど、誰もが自分の外見や特徴について考えるはずだ。だから、マペットたちが歌う内容には広い普遍性があるのだと思う。それは場所や時代をも越える。いつの時代もそのメッセージが響くのはいつまで経っても解消されないものがあるからだという見方もできるだろうけれど、だからこそセサミがそれを発し続けていることには価値がある。子どもの頃観ているときはこんなこと考えもしなかった。ただ単に楽しい人形劇、吸血鬼みたいなやつが数字を数えては大喜びしているのがおもしろかった。もちろんそれも魅力だが、自分に子どもが生まれて、これから先なにをどう教えていいかわからなくて不安という身になってみて、セサミが教えてくれることはどんどん増えるようだ。