2018/08/31
「CINEMORE」連載第8回
映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第8回が更新されました。
今回はちょっと前にニール・ブロムカンプが『ロボコップ』新作の準備に入ったというようなニュースをうけて、ブロムカンプの代表作『第9地区』と『チャッピー』の中にある『ロボコップ』リスペクトについて紐解きます。
https://cinemore.jp/jp/news-feature/398/article_p1.html
2018/08/30
瑞丸、免許を取る
また間が空いてしまった。8月もやっぱり慌ただしかった。近頃は案件ごとの点数が多くて、わりとかかりきりである。点数が多いのは描きがいもあるし、金額もまとまっているからうれしいんだけど、たとえば同じ人物がずっと登場する場合、同じ人に見えるよう描き続けるのがなかなか大変。漫画を描くとコマごとに同じ人なのに顔が変わってしまう感じなので。
去年教習所に通い出してからずっとスケジュール帳を圧迫していた懸念事項が無くなってすっきりした。もっと言えば、高校を卒業するタイミングで取りそびれて以降、専門学校に通っている間もなんとなく頭の隅で重みを持っていた問題だった。なんだか会う人会う人に取ったほうがいいよ、なんで取らないんだ、バカじゃないの?と言われて来たような気がする(最後のはさすがにない)。とかく男というのは自動車免許の話となるとすごくうるさくいろいろ言ってくるものだ。無事取ったあとでも、ぼくはそこまでこれを万人にとって重要なものとは思っていない。ぼくは取りたいから取っただけだ。興味がない、価値を見出せないひとに無理強いする理由は一切ないだろう。
そうそう、ようやく免許を取った。
去年末に教習所を卒業してからずっと試験を放置してたんだけど、いくら期限が一年間あるといっても半年切ったらさすがに焦りはじめ、無理にでも行く日を決めた。試験場は全く馴染みのない駅から20分ほどバスで揺られた先にある広大な墓地のそば(あとで知ったがここはぼくの家のお墓があるところだった)にあって、勝手がわからずひどく緊張したけれど、すんなり試験は合格して、免許をもらった。
去年教習所に通い出してからずっとスケジュール帳を圧迫していた懸念事項が無くなってすっきりした。もっと言えば、高校を卒業するタイミングで取りそびれて以降、専門学校に通っている間もなんとなく頭の隅で重みを持っていた問題だった。なんだか会う人会う人に取ったほうがいいよ、なんで取らないんだ、バカじゃないの?と言われて来たような気がする(最後のはさすがにない)。とかく男というのは自動車免許の話となるとすごくうるさくいろいろ言ってくるものだ。無事取ったあとでも、ぼくはそこまでこれを万人にとって重要なものとは思っていない。ぼくは取りたいから取っただけだ。興味がない、価値を見出せないひとに無理強いする理由は一切ないだろう。
まあなんでもいい。とにかくぼくは取ったのだ。素直にうれしい。強力なパワーとスピードを扱う資格と、移動の自由というやつにはそれなりの責任がともなうが、資格は得たのだ。
あれから一週間が経つが、道を歩いているときに財布の中に免許があるのを思い出すと、道ゆく人にそれを言いたくなる。
2018/08/05
日影丈吉「真赤な子犬」装画
日影丈吉の代表長編ミステリー「真赤な子犬」新装版(徳間書店)の装画を担当しました。初のミステリー装画、それも往年の作家の代表作というのも大変うれしいです。
大きめの帯にはイラストによるあらすじも描いています。次から次へと連鎖する謎、間の抜けた死、その中心に姿を現す真赤な犬……ユーモラスと怪奇が織り混ぜられた快作です。
2018/08/03
もうここらでいいんじゃないか
画像系のSNSはまだ感覚的に楽しめるところがあるが、テキスト系はもはや読んでいられなくなった。どうしてかはうまく説明できないが、なんとなく他人の思考が垂れ流しになっている様を見続けるのはぼくのような人間にとって楽しいものではない。
自分はそういったことは書かない、なんて言えば嘘になるが少なくともぼくは自分が楽しいと思えることしか書かないようにしているし、たまに苛立ちに任せて書き散らしたことがあってもわりとすぐに消してしまう。書き込みを削除することが無責任と思われることもあるらしいが、ぼくはSNSを管理されたブログと同様に見ているところがあり、だからこそついつい体裁を整えようとしてしまう。本来はもっと感覚的なツールなのだろう。SNSは深く考えたらだめだ、というのはうちの妻の言。確かにそうだ。ホームページやブログのように作品的な性質はそこにはないのかもしれない。しかし、あまりにも考えなしに使うひとが多いからこそ、「こんなこと」になってしまったのではないか。「こんなこと」がどんなことかはあえて言うまい。
端的に言えば、他人の不平不満を読むことに疲れた。世の中の理不尽さに対する不満や問題提起は、なるほどその通りだと思えることは多いが(そもそも大抵のことは同意見の人間しかフォローしていないのだから当たり前だ。そうやって考えを精鋭化してしまうのもSNSの特徴だろう)、同意できるというだけで胸の中には嫌なざわめきが起こるし、残る。なによりまずいのは、こちらがそういう気分でない、そういったものを読む準備ができていないときにも、それは次から次へとこちらに流れ込んでくることだ。受話器を取らなくとも問答無用で不特定多数の不満の声が、こちらの都合などお構い無しに聞こえてくる電話を想像してみるといい。気が狂いそうだ。
もちろん目を向けなければならないことは山ほどある。人間として無視できないことも多い。しかし、あらゆる不満や問題が可視化された世界にやって来てわかるのは、それらはいち個人が漏れなく関心を持つにはあまりにも膨大すぎるということだ。そこに一貫した考えを持つよう言われても到底無理な話である。
情報過多で疲れ切ってなにも読みたくなくなっている人間を、まさか無関心だと非難はできないだろう。いや、できてしまうのか。
とりあえず自分自身の日々を楽しむことに専念したい。
自分はそういったことは書かない、なんて言えば嘘になるが少なくともぼくは自分が楽しいと思えることしか書かないようにしているし、たまに苛立ちに任せて書き散らしたことがあってもわりとすぐに消してしまう。書き込みを削除することが無責任と思われることもあるらしいが、ぼくはSNSを管理されたブログと同様に見ているところがあり、だからこそついつい体裁を整えようとしてしまう。本来はもっと感覚的なツールなのだろう。SNSは深く考えたらだめだ、というのはうちの妻の言。確かにそうだ。ホームページやブログのように作品的な性質はそこにはないのかもしれない。しかし、あまりにも考えなしに使うひとが多いからこそ、「こんなこと」になってしまったのではないか。「こんなこと」がどんなことかはあえて言うまい。
端的に言えば、他人の不平不満を読むことに疲れた。世の中の理不尽さに対する不満や問題提起は、なるほどその通りだと思えることは多いが(そもそも大抵のことは同意見の人間しかフォローしていないのだから当たり前だ。そうやって考えを精鋭化してしまうのもSNSの特徴だろう)、同意できるというだけで胸の中には嫌なざわめきが起こるし、残る。なによりまずいのは、こちらがそういう気分でない、そういったものを読む準備ができていないときにも、それは次から次へとこちらに流れ込んでくることだ。受話器を取らなくとも問答無用で不特定多数の不満の声が、こちらの都合などお構い無しに聞こえてくる電話を想像してみるといい。気が狂いそうだ。
もちろん目を向けなければならないことは山ほどある。人間として無視できないことも多い。しかし、あらゆる不満や問題が可視化された世界にやって来てわかるのは、それらはいち個人が漏れなく関心を持つにはあまりにも膨大すぎるということだ。そこに一貫した考えを持つよう言われても到底無理な話である。
情報過多で疲れ切ってなにも読みたくなくなっている人間を、まさか無関心だと非難はできないだろう。いや、できてしまうのか。
とりあえず自分自身の日々を楽しむことに専念したい。
それができないから困っている
新しい住まいにもひどい暑さにも子どもの泣き声にもなんとなく慣れ始めたような気はする。ほとんど毎日なにかしらの締め切りというような日々は相変わらずだが、その合間に残っていた親不知を抜いてとうとう治療が終わり、仕事で名古屋に行く用事があったのでついでにレゴランドに立ち寄ったり、取材の依頼で『スター・ウォーズ』のコンサートに行ったりしていた。
親不知を抜いた直後に久しぶりに高熱にうなされ、悪寒と震えが止まらなかった。さては寝不足に麻酔がいけなかったのではないかと翌日消毒しに再び病院に行った際、お医者に尋ねたのだけれど、親不知を抜くような手術で熱が出るなんてことはないとあっさり言われる。疲れが溜まっていて、処置の負担が身体にこたえたのだろうということだった。できるだけ睡眠を取って休んでください。そう言われたが、それができないから困っているのだ。ストレスを溜めず、睡眠を取って休みましょう。インターネットにも嫌というほど書いてある決まり文句だ。なんの足しにもならない。お金がなくて困っているひとに、お金を稼ぎましょうと言っているようなものだ。まあ、それが一番ストレートな回答であるのかもしれないが。
親不知を抜いた直後に久しぶりに高熱にうなされ、悪寒と震えが止まらなかった。さては寝不足に麻酔がいけなかったのではないかと翌日消毒しに再び病院に行った際、お医者に尋ねたのだけれど、親不知を抜くような手術で熱が出るなんてことはないとあっさり言われる。疲れが溜まっていて、処置の負担が身体にこたえたのだろうということだった。できるだけ睡眠を取って休んでください。そう言われたが、それができないから困っているのだ。ストレスを溜めず、睡眠を取って休みましょう。インターネットにも嫌というほど書いてある決まり文句だ。なんの足しにもならない。お金がなくて困っているひとに、お金を稼ぎましょうと言っているようなものだ。まあ、それが一番ストレートな回答であるのかもしれないが。
2018/08/02
「CINEMORE」連載第6回「スター・ウォーズ in コンサート」レポート
映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第6回が更新されました。
https://cinemore.jp/jp/news-feature/372/article_p1.html
今回は特別篇として、7月29日に東京オペラシティにて開催された「スター・ウォーズ in コンサート Japan Tour 2018」のレポートです。オリジナル三部作をオーケストラの生演奏に合わせて一挙上映するとても豪華なシネマ・コンサートで、三部作それぞれをポスターアート風にまとめました。スクリーンで観なければわからない、生演奏で聞かなければわからないことがたくさんあり、改めてそのディティールの虜になりました。テキストによる詳しいレポートはリンク先よりご覧ください。
『スター・ウォーズ』について正式に記事を作れたことも、こんな豪華なイベントに関係者席で参加できたこともとてもうれしいです。今後の仕事もフォースとともにありますように。
金曜ロードSHOW!『オデッセイ』
日テレ系「金曜ロードSHOW!」番組ウェブサイトにて、8月3日に放映される映画『オデッセイ』のイラストレビューが掲載されています。
『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』での好演が記憶に新しいドナルド・グローヴァーはじめ、SF映画やマーベル映画でおなじみの面々が結構集まっている本作。出演者について細かく書き込んでいます。マッケンジー・デイヴィスが出ていたのはこのたび改めて気づきました。
2018/07/29
映画サイト「CINEMORE」連載第6回
映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第6回が更新されました。
今回は映画に登場するクルマで特に好きなものを3台紹介。主役級のクルマ、ちらりと登場するクルマ、なんとなく登場人物たちに運転されるクルマなど、映画には必ずと言っていいほどクルマが出てくるけれど、その車種であることに意味や物語があるところがおもしろい。
ギズモビーズよりiPhoneケース発売
2018/07/27
営業報告
■ 「SPUR」2018年9月号(集英社)
今月号のSPUR映画レビュー連載では8月10日公開、ゲイリー・ロス監督、サンドラ・ブロック、ケイト・ブランシェット、アン・ハサウェイほか出演『オーシャンズ8』を紹介しています。ご存知『オーシャンズ11』の主人公、の妹がクセのある女たちを集めてダイヤモンドを狙う新生オーシャンと仲間たち。
ダニー・オーシャンの妹が主人公ということなので、同じメインキャストを女性に置き換えた16年の『ゴーストバスターズ』とは違って別にリブートというわけではない。挙動不審なヘレナ・ボナム=カーターもおもしろいけど、オークワフィナが良い。
■ 「婦人公論」2018/8/10号(中央公論社)
ジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第29回挿絵。女子アナブームのお話。
■ 「みついショッピングパーク キッズクラブ」
三井ショッピングパーク会員クラブ「キッズクラブ」の施設向けリーフレット、ポスター、Webポータルサイト等のイラストレーションを担当しました。サイトに行くと犬のしっぽが動いたりして楽しいです。
保護者の方が『三井ショッピングパークカード』、『ラゾーナ川崎プラザカード』、『ステラモールポイントカード』会員で、小学生以下、あるいはお腹の中にいるお子さんが対象の、いろいろな特典のあるクラブだそうです。詳しくは以下にて。
2018/07/12
映画サイト「CINEMORE」連載第5回
映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第5回が更新されました。
今回は『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』のお話。ラストシーンで恐竜王国と化した島で、あれだけ大暴れしたティラノサウルスは背景扱いになりながら、プテラノドンが最後の最後に見せ場を持っていくのはなぜなのか。アーサー・コナン・ドイル著「失われた世界」から 『ジュラシック・パーク』シリーズに到るまで、特撮と恐竜の系譜を紐解きます。
2018/07/03
オーラ・シングとは誰か
なにがいいって、やっぱり『ファントム・メナス』全肯定な感じがよかった。ハン・ソロのお話なのに『ファントム・メナス』の世界観が繋がってくるところがおもしろい。
オーラ・シングは本当に一瞬映るキャラクターでありながら、その独特の風貌が印象的だった。SWは重要でないキャラクターや乗り物のデザインが必要以上に凝っているところが大きな魅力で(個人的にはシークエル以降そのあたりが今ひとつ足りない気がするんだけど)、だからこそ世界観に奥行きが与えられる。ボバ・フェットもその意味では本来雑魚キャラに含まれるのだが、あの通り非常にかっこいい見た目をしている。
改めてオーラ・シングを見てみると、真っ白の肌に赤いコスチューム、赤い髪というのが切れ味のいい色使いですごい。装備もいかにも賞金稼ぎといった具合。身体のラインが強調されるボディスーツに革のホルスターを二つ提げてブーツを履いたヴィジュアルはまさに宇宙西部劇だ。
セリフでほんの少し言及される言葉や名前も「何かがあったらしい」といった背景が感じられて楽しい。今回はそんな思わせぶりなセリフの中でオーラ・シングの死が語られ、『ファントム・メナス』が好きなぼくとしてはショックでもありうれしくもあった。
もしかして、ボバ・フェットがハン・ソロを追いかけてたのって、賞金云々以前にソロが姉御殺しベケットの弟子だったからなのかな?なあんて想像が膨らみ、自分でいろいろと解釈を広げるのも楽しみ方のひとつだろう。
2018/06/29
『ハン・ソロ:スター・ウォーズ・ストーリー』(2018)
■ 重厚で殺伐とした世界を生きたハン・ソロ
ポスターのイメージとは裏腹に、重厚なクライム調で驚いた。常にどこか薄暗く、モス・アイズリーの酒場以上に得体の知れない連中がうごめいている中で、ひとりの若者がどうやって自由を手に入れて生き延びてきたかが語られていた。
ハンの故郷コレリアからしてとても暗い。ミレニアム・ファルコンや反乱軍のブラッケードランナーの故郷でもあるこの造船惑星は、もっとハイテクで進んだ未来都市のイメージだったんだけど、曇り空に悪魔的な工業地帯といった感じ。ハンはそこでたくさんの孤児とともにギャングに飼われているわけだけど、そこにはスカイウォーカー親子やレイといったSWの主人公たちが経験してきた「自分はここで一生を終えるのか」という不安や絶望感みたいなものがあって、やっぱり閉ざされた世界からの脱出はSW全編に渡るテーマだなと思った。閉塞感や絶望感は、ひとを冒険に駆り立て、危険だが自由な世界への原動力となる。ハン・ソロも最初は農夫や奴隷だった少年たちと同様、何者でもなかったのだ。
何者でもないし、独り。まさか「ソロ」という名前が本当にそこから来ているとは思わなかったが、わかりやすくて気に入った。伝説的な名前(のちにスカイウォーカーの末裔となる男にも受け継がれる苗字だ)を名付けたのが、志願兵を受け付ける小役人だったというのも、そっけなくていい。まさに文字通り取るに足らない名前だったのだ。
ハンが一度は帝国軍に入隊していたという設定は、昔からあった。そのバージョンでのハンは帝国アカデミーで優秀な成績をおさめ、エリートコースを約束されていたが、ウーキーの奴隷が虐待されているのを目の当たりにしてそれを助けてしまう。エイリアンの奴隷は帝国において合法だったので、自身の良心に従ったはずのハンは罰せられ、軍から追い出されてしまい、最後には命の恩人である彼に忠誠を誓ったひとりのウーキーが残っただけだった、という話だった。
ハンが帝国軍に入っていたこと、その中で生涯の友となるチューバッカと出会ったことは旧設定も今回の映画も共通しているが、おもしろいのはそれを少しずつズラしているところだ。ハンはエリート士官なんかではなく、泥沼化(まさに泥沼だ)した前線に送られるヒラ兵士である。そこで彼は泥まみれになって死と隣り合わせの塹壕で戦うことになる。この泥だらけの塹壕戦、ミンバンの戦いはシリーズでもっとも「戦争」という感じのするシーンだった。『ローグ・ワン』はその意味ではまだまだいつものSWだったのだ。
ストームトルーパーはいつもの白ではなく、泥で汚れてくたびれきっていて、ハンはじめ一般兵の装備もごちゃごちゃ泥々としていて超汚い。なによりもSWの戦場でありながら「敵」の姿が見えない。これがすごい。そこらじゅうレーザーや爆発による煙で視界が悪く、光弾は飛んでくるがどんなやつが撃ってきているのかは全然見えない。一体誰となんのためにやっている戦いなのかは全然説明されない。そこがすごくリアルな気がした。ハンもつい上官にこう漏らしてしまう。「ここじゃ俺たちが“敵”ですよ」
■ キャラクターたちとミレニアム・ファルコン号
そんな感じで重々しい調子だんだけど、だからこそハンの軽快さ、チューバッカの動物的魅力、ランド・カルリジアンの小狡さなんかが際立つ。キャラクターが少ないからこそ、それぞれの持ち味がよく表現されているし、話も入り組まずにわかりやすい。重要でないキャラクターはわりとあっけなく死んだりするところも、前述のミンバンの戦いのように、いつ死んでもおかしくない緊張感、みたいなものが漂っていていいな。ハン、チューイ、ランド以外は誰が死んでもおかしくないのだし。
ミレニアム・ファルコン号との出会いの物語でもあるが、やはりキャラクター、人物の関係へのフォーカスが大きい。ハンがファルコンに乗り込んだだけではまだ画は完成しない。伝説のケッセル・ランを飛んでいく中、EP5『帝国の逆襲』の名曲である「The Asteroid Field」のアレンジが流れながら、ついに副操縦席にチューバッカが腰掛けた瞬間、全てがあるべきところにおさまって、ばっちり出来上がったような感動がある。ファルコンそのもののディティールがそこまで映し出されないから存在感が薄いように感じるひともいるかもしれない。しかし、ハンはまだあの船と出会ったばかりでそのディティールをよく知らないのだから、あれくらいで正しいのだと思う。ぼくたちの知るお馴染みの船は彼らの冒険や築き上げた友情によって出来上がっていったからで、あの時点ではまだ全てが白紙だ。それを象徴するかのように、ファルコンの外装も最初は白い。
ファルコンと言えば、船の秘密も明かされた。ランドの相棒ドロイド、L3-37のプログラムが船には組み込まれていたのだ。L3はシリーズにおいては初めてドロイドとしての権利を主張するキャラクターだが、そのプログラム上の性別が女性であることも興味深い。寓意性を持った彼女は、権利意識を持つ人々を戯画化しているように見えてしまいそうなところもあるが、それも含めて挑戦的なキャラクターだと思う。
ファルコンが「彼女」と呼ばれていたのは単に船舶が女性名詞だからというだけではなかったわけだ。EP5でC-3POが「この船のコンピューターはひどい訛りがある」と指摘していたが、あれはL3のことだったのかな。
■ スピンオフっぽさと「映画」とのバランス
シンプルでテンポよく進んでいく物語でいながら、スピンオフなのでオタクへの目配せも忘れていない。カリダ、ミンバン、オーラ・シング、モー星団、テラス・カシ……。スピンオフっぽい用語が随所に散りばめられていて、このほかにもぼくの知らない言葉も出てきたかもしれない。ほら、ぼくそんなに詳しくないし。でも、テラス・カシはわかる。テラス・カシ知ってますか?初代プレイステーションのSW格闘ゲームで「マスター オブ テラス・カシ」というやつがあったんだけど、テラス・カシというのはSWで格闘ゲームがやりたいがために作り出されたあの世界の武術なのだ。
とは言えルークはライトセイバー振り回すし、キャラはそれぞれの武器を使うのでどのあたりがテラス・カシなのかはよくわからないんだけど、一見どうしようもないゲームに見えて、実は結構おもしろいらしい。
ちなみに物語においてはもともとはジェダイに対抗するため、ジェダイを牽制するために編み出された武術だそうで、映画ではダース・モールが使っていたとされている。そう、実はちょっとした伏線だったのだ。
ハンが恋した彼女は、シスの暗黒卿から落伍しながらもクローン大戦を生き延び、暗黒街でひそかに勢力を伸ばしていたモールの配下だったわけだが、最後に黒幕としてこういうキャラクターを投げ込んでくるあたりも、実にSWスピンオフらしい。飛び交う用語、情報の密度が作り出す世界観の奥行き、そして意外なキャラクターの登場。こういった盛りだくさんなところ、雑多なところにSWスピンオフの魅力があると思う。それでいて本作は一本の宇宙犯罪ものとして(西部劇でもギャング映画でもいい)、一本の映画としてもおもしろいというバランスの良さ。
■ ソロという名前
彼はいかにして「ハン・ソロ」となったのか。その物語を知った上だと、EP7『フォースの覚醒』でのレイに対する老ハンの態度への印象も変わってくる。レイになにかを見出したハンは彼女の師となるが、それは孤独に生き抜いてきたレイにかつての自分の姿を見たからではないか。若きハン同様、レイもまた初めて乗ったファルコンで、初めて握った操縦桿で神がかりなテクニックを見せる。ソロという名前は、家族は誰もいないという理由でつけられたものだが、それならレイもまたレイ・ソロになり得るのではないか?
孤独なレイの擬似的な父親になるハンだが、しかし彼には本当の息子がいる。家族が増えることで、ソロは適当な名前からちゃんとした苗字となったはずだが、孤独の名を受け継いだ息子はやがて家族のもとを去りその名を捨ててしまう。さらには最初のソロである父親も殺してしまう。
ソロという名を与えられることで「自分」を手に入れたハン。そのハンに認められることで冒険へと旅立ったレイ。そしてソロの名を捨てながらも、孤独に転落してしまうベン。果たしてソロは呪われた名なのか?それともアイデンティティや自由への切符なのか?レイとベンがハン・ソロの存在によって結び付けられた擬似的な兄妹であることは確かだ。かつてジェイナとジェイセン・ソロという別バージョンのソロ兄妹がいたように。
別のエピソードへの理解を深める手助けをしてくれるところも、スピンオフのいいところだ。全体でひとつの歴史を作るのがスピンオフであり、ユニバースなのだ。
2018/06/28
どうして懲りずにまたボバ・フェットを作っているのか
前買って作ったやつは塗装してぐちゃぐちゃになったからです。どうして塗装したくなってしまうかというと、プラモやレゴというのは作っているときが楽しいのであって、出来上がったあともなにか手を加えたくなってしまうからだ。レゴの場合は何度でも組み立てたりバラしたり、同じ部品で違うものが作れるだろうけれど、プラモの場合はそうはいかないし、プラモでぼくができる改造といえば色を塗るくらいしかないので、塗っちゃうんだなあ。
そして、その色塗りもあまり上手じゃないんだよ。正直言うとこれは立体物だから勝手が違うというわけではなく、平面においても実は絵の具類の塗りは下手。もうずっとデジタル彩色で絵描いてることからもおわかりいただけるでしょう。
そういうわけでボバも、C-3POとR2-D2(結婚式のときケーキトップに使ったやつだったんだけど)も下手くそな色塗りでどろどろのぐちゃぐちゃになってしまったとさ。なので、ひとつずつ作り直してまたやり直そうかなと思ったわけ。ああ、K-2SOもダメになっちゃったね。ドロイドなんてボバに比べたら塗る必要ないんだけど、コンビは砂の中歩いてるイメージ強いし、K2も結構傷だらけだから、筆を取ってしまったんだなあ。
プラモ作り直し第一号となったボバ・フェット。同じキットを二回作るなんてことは初めてだったけど(途中ですごく馬鹿々しい気分にもなったけど)、二回作るとより良さがわかりますね。キットの良さも、ボバ・フェットそのものの良さもわかる。いやあ、貴重な体験だった。
これ、すごくびっくりしたんだけど、実は緑色が二種類使われている。すごく細かい。ストームトルーパーを作ったときも、ヘルメットのバイザーが黒ではなく、プロップ通りに緑色のクリアパーツになってることに感動したなあ。ボバもこういうふうにヘルメットの後頭部が、他の部分とは違う種類の緑色なのだ。
全体のパーツでは、ヘルメットのてっぺんと顔面、背中に背負うジェットパック、両腕のガントレットが同じ緑色。ヘルメットの後頭部、背中と胸側のプレート、股間のプレートが同じ緑色となっている。二色つかないので、全ての色分けが実物と同じかどうかはわからないけれど、ヘルメットにおいてはこのように後頭部だけが若干違う色となっている。
完成。うん、塗装なんてしなくてもこの成型色のままでも全然かっこいいし、十分である。ボバだから汚れてなければならない、などとこだわる必要はなかったのだ。おでこの凹みや胸の傷など、特徴的な部分は立体的に表現されているので、それでもういいんじゃないかな。
申し分ない立ち姿だ。キットを組み立てて作ったのに、ちゃんと人間がこういう衣装を着ている、という感じに見える。かなり広い可動範囲でいろいろポーズがつけられるのに、関節によってプロポーションが損なわれているということはない。
ボバっぽい体型かと言うとそうでもない。個人的な感覚だけれど、こんなにがっしりとした肩幅ではないし、がたいが良すぎる。立ち姿はリアルかもしれないけれど、姿勢が良すぎる。これはプラモというか、フィギュアの永遠の課題なんだけど。
ボバってくたびれてるんだよね。装備もボロボロだし、部分ごとに色も違っててすごくホームメイドな雰囲気が漂う。そこが魅力だ。恐らくその装備の重さもある程度姿勢に影響してるだろう。そんなくったびれた感じで、登場シーンといえばほとんど黙って突っ立ってるだけなんだけど、なぜかものすごい存在感を放っている。ただ突っ立ってるだけだからこそ、こいつ何者なんだ、というただならぬ雰囲気があるのだろう。ましてやあのダース・ヴェイダーに向かってタメ口をきくようなやつである。
ヴェイダーやストームトルーパーのようにヘルメットに表情がないのも大きい。そして、あれだけ色彩によって善悪がはっきり塗り分けられている世界で、緑色や黄色、しかも傷だらけで剥げまくっているごちゃごちゃの装備という出で立ちが異質さを出してもいる。同じような色彩の賞金稼ぎグリードが前作でハン・ソロに撃ち殺されているところも興味深い。
ヘルメットの表情といえば、恐ろしく視界の悪そうなバイザー。もしかするとあのゆったりとした動きや歩き方は、視界の悪さから慎重に動いていたからではないかとも思うが、演じていたジェレミー・ブロックが参考にしたのは、「ドル箱三部作」でクリント・イーストウッドが演じたキャラクターだそうだ。言われてみればプリプロ版ボバは体の前面をポンチョらしき布で覆っていたりして、イーストウッド扮するキャラクターと重なるところがある。そしてあちらも賞金稼ぎ、バウンティ・ハンターだ。
さて、これが前回作って色を塗ったやつ。なんでこんな色にしたんだと思われるかもしれないけれど、これにはちゃんとモデルがあるのであって、ぼくがまたトチ狂った色彩感覚で塗ったわけではない。このバージョンの配色について説明するために、時計を1978年に戻そう。
もともとボバ・フェットはストームトルーパーの上級版、スーパー・ストームトルーパー(スーパー・トルーパーとも)として生み出されたという。ストームトルーパーの指揮官なので、プロトタイプでは全身が真っ白だった。
上級トルーパーという最初の設定は、後のストームトルーパーの前身となるクローン・トルーパーが、ボバ・フェットと同じ遺伝子を元に作られたという設定にほんの少し生かされている。シークエル三部作におけるストームトルーパーの指揮官、キャプテン・ファズマもボバ・フェットの影響下にあるキャラクターだろう。
真っ白だったボバはこのあと何度も改良され、色も塗られていく。1978年9月、カリフォルニアはサン・アンセルモでの興行パレードに、その途上にあるボバの姿がお披露目された。ダース・ヴェイダーの横を歩くプリプロ版のボバは、現在知られているのとは少し違う配色で、おでこに目(耳とも言われている)が描かれていたりする(この目の模様はアニメ『クローン・ウォーズ』の主要キャラ、クローン兵キャプテン・レックスのヘルメットに描かれることになる)。
最初に書いたような、アーマーの部分ごとに緑色の種類が違うというのは、たぶんいろいろなバージョンが作られていく中でひとつ前の色が部分的に残されたりとか、そういう過程で出来た色の違いなんじゃないかなと思う。
その後、同年11月に放送された『ホリデー・スペシャル』におけるアニメ・パートに、これまた違う色彩のボバ・フェットが登場。映像作品としてはこれが最初で、映画よりも先にアニメでの初登場となる。この『ホリデー・スペシャル』版のボバの魅力については前にも書いたね(→該当記事)。アニメではヘルメットが水色、胸部プレートが薄黄色といった配色だが、アニメのデフォルメに加え、前述したようなプリプロ版で色が未決定だったからではないか。
そして1979年。おなじみケナー社がボバのフィギュアを出すが、これがプリプロ版の配色をもとにしている(というかまだプリプロ版しかなかったのだろう)。基本的に全身水色で、胸部プレートは緑色、右手のガントレットは赤、左手は黄色。このガントレットが左右で赤と黄色というところがプリプロ版の最大の特徴だろう。79年に発売されたフィギュアはこのボバのみ。→参考画像(Rebelscum.com)
というわけで、ぼくがどろどろに塗った色はこの「プリプロ版を参考にしたケナーのフィギュア」の配色に従っているのだ。長かった。
これはこれで気に入っちゃいたんだがね。でも基本の水色があんまりうまくいかなかったし、プリプロとケナー、と二重に映画とは違うバージョンの配色なので、なんだかしっくりこなかった。これならプリプロ版をそのまま再現すればよかったんだろうけれど、ケナーの玩具の再現というところにこだわりすぎた。あれはケナーのレトロな人形だから合う色なのかも。
このボバを最後にプラモデルやフィギュアを塗っていない。またどっかでやっちゃうのかもしれないが、ぼくは多分買った状態でのおもちゃが好きなんだろうな。製品としてのプレーンな状態がいちばん魅力的なのかもしれない。自分で手を加えた瞬間、よくも悪くも自分のものになってしまうというか。
長々と書いてきたように、ボバ・フェットというキャラクターはカスタムによって成り立っている。制作過程もそうだし、設定中でもそう。ましてや、プリプロだけでなく、映画に登場してからもEP5『帝国の逆襲』とEP6『ジェダイの帰還』とで色や細部が変わっているのだ。つねに姿を変え続けている、様々な色を持ったキャラクターでもある。だからこそ汚したくなるし、塗りたくなるし、いじりたくなる。
絵が描けるからなのか、どこかに工作願望やアレンジ願望みたいなものがあるし、最初にも書いたようにプラモはいつまで作る作業を続けたくなってしまうから、手を加えたくなる。でも、ぼくがおもちゃを集めるのは、おもちゃが他人の作品だからなんだよね。ひとが作ったものだからお金を払って買いたくなる。そこに自分で手を加えてより良くなる場合も多少はあるかもしれないけれど(ちょっとした修理とか)、基本的にはそのままにしておくほうが、ぼく個人にとってはいいのかもしれない。
2018/06/26
営業報告
今月の仕事。まずは「SPUR」最新号の映画レビュー連載では、デイヴ・マッカリー監督、カイル・ムーニー、マーク・ハミル出演の『ブリグスビー・ベア』を紹介しています。
ようやく、ようやくマーク・ハミルが独特の貫禄と、やはり独特なジョーカー式のしゃがれ声とともにいろいろな作品に出始めました。遠回りしたからこそ、スカイウォーカーの呪いとジョーカーへの変身を経たからこそ得られた存在感があると思います。と、それらしいことを書いておきましょう。
*
「婦人公論」でのジェーン・スーさんの連載挿絵。サムイ島に行かれたらしいです。
*
「グリーン・ゴーラ」vol.10(幻冬舎)には本文カット複数。
*
フォレスト出版、小川正人さん著「[新版]アメリカの高校生が読んでいる経済の教科書」の装画。
*
「映画ナタリー」の『ワンダー 君は太陽』特集ページにイラストレビューが掲載。
スティーヴン・チョボスキー監督、ジェイコブ・トレンブレイ主演作。『ルーム』ではまだ小さかったジェイコブも、あっというまに5年生。今回演じるのは30回近く顔を手術した少年。それまで家庭学習だったのを、両親の思い切りと本人の勇気で普通の学校に通うようになるが……。
主人公は『スター・ウォーズ』が大好きという設定でもう掴まれます。しかもパダワン(ジェダイ見習い)の三つ編みを真似して、いちばん好きなキャラはボバ・フェットという趣味のよさ。さらにマインクラフトで遊ぶ(劇中では「家作りゲーム」というふうに訳されていた。まあ間違っちゃいないが)。
記事のほうでは固有名詞や既存キャラを出さず、こういうふうに間接的な描き方をしたけれど(察してください)、むしろそのままチューバッカとボバ・フェットを描くよりおもしろみがあるかも。いくらでも描きようや伝えようはあるので、こういう工夫はどんどんしていくことにしよう。
今週は『ハン・ソロ』がようやく日本で公開するけど、この『ワンダー』とさっきの『ブリグスビー・ベア』もSWファンにはおすすめの作品。ファン心理みたいなものに訴えるものがある。ファンであることさえ物語として成立し、広がっていくところに文化を感じます。二次創作や、サンプリング、好きな作品への想いを表現することをやめてはならないのだ。
2018/06/24
『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017)
でっかい魔法使いのおじさんの頭の形のお店とか、オレンジ果実型のお店とか(オーランドもアナハイムもオレンジ群だから?)、とにかくそういう、ディズニーの世界観を禍々しく解釈した建物(ディズニーランドってこういう感じだろ?みたいな適当な真似)が並ぶ光景はなかなか悪夢的。アナハイムでの失敗から、オーランドでの開発はなにもかもコントロール下で行われたとばかり思っていたが、それは単に内側から「忌々しい外の世界」をうんと遠ざけただけなのかもしれない。もちろんそれだけでも「フロリダ計画」は成功したと言えるのだろう。
2番目のディズニーパーク建設計画そのものをタイトルとしたこの映画は、ウォルトが図らずもその王国から遠ざけてしまった子どもたちの物語だ。パーク内で遊んでいる人々がおそらくこれっぽっちも考えないであろうすぐ外側での暮らしが生々しく映し出され、王都建設が湿地帯になにをもたらしたのかがだんだん浮かび上がってくる。「7人の小人」の名がついた大きな道路を、目的地に向かって脇目もふらず走り去るたくさんの車、彼らの注意を少しでも引こうと派手に飾り立てる土産店やアイスクリーム店、とにかくお城っぽい見た目の安モーテル、廃墟同然になった空き家群、そしてところどころに残された、開発前の名残である沼地……。そこは夢と現実の狭間として、またひとつの世界観を持つ。
特にムーニーたちが沼地で遊ぶシーン。幽霊のような枝を垂れ下げた大木が生え、見ているだけでジメジメした気分になるが、遊んでいる子どもたちは至って楽しげである。なにより「普通なら」マジック・キングダムで遊んでいるであろう子どもたちが、マジック・キングダムになり損ねた沼で遊んでいるという画が象徴的である。
この湿地帯が選ばれたのは、もちろん値段が安く広大な土地を必要としたディズニーにとって好都合だったからだ。沼で遊ぶ子どもたちさえも、「フロリダ計画」の産物なのだ。
そんなムーニーたちを不幸だとかかわいそうだとかは、こちらは勝手に言うべきではない。確かに彼女を取り巻く世界は限られているかもしれないが、少なくとも彼女自身は常に前向きで、日々を楽しもうという意欲でいっぱいである。もちろんその影で彼女の母親はじめ大人たちの苦悩があるわけだが。
ウォルトがムーニーたちのような子どもたち、あるいは彼女の母親のような人々の生活を知り得たか?ノーだ。実は彼は「フロリダ計画」の最中、1966年12月15日にこの世を去っている。計画の行方も、王国の完成も、その周囲に出来上がった不思議な世界のことも、彼は知らない。
さらに弟の意思を引き継いでディズニー・ワールドを完成させた兄のロイ・ディズニーもまた、開園からたった三ヶ月後に脳梗塞で死去した。孫とともにディズニーランドに行こうとしていたその日に。
ディズニー兄弟は「フロリダ計画」がやがてどんな世界をもたらすのかを知り得なかったし、それは未来都市エプコットとは全然違う世界だが、エプコットを夢見たのと同じような前向きさを持つ、子どもたちの世界なのだと思う。
もしぼくがアナハイムにしろオーランドにしろ、向こうのパークに行くことがあったら、ホテルの予約は本当に気をつけたいところだ。
2018/06/23
「村上春樹の100曲」装画
立東舎から刊行された栗原裕一郎さん編の「村上春樹の100曲」の装画を担当しています。前にも告知しましたが、先日ようやく発売となりました。
自分の装画としては珍しくはっきりした一枚絵となっています。一枚絵の装画に憧れがあったので、形になってうれしいです。今後ももっとこういうワンシーンのようなものが描ければいいなと思っています。
似顔は、結構難しかったけど、まあまあ似たなと思います。
描き込まれているレコードジャケットは、いずれも本の中に登場する100曲からの引用です。わかりやすいものからちょっと地味なものまでいろいろチョイスしました。
村上作品に登場する膨大な音楽について、一曲ずつ解説するという非常に濃厚な内容となっています。ハルキストの方もそうでない方も是非。
引っ越しから一週間
引っ越して一週間、ようやく落ち着いたのでブログを書く。
実家を出たときのことを入れればこれで人生四度目の引っ越しになるのだけれど、さすがに回を重ねるごとに荷物が多くなる。夫婦ふたりで生活していればなおさらである。大切なものを手放すのは、一度失敗したので二度としたくないが、できるだけ無駄なものを減らした生活にしていきたい。と、引っ越しが終わったばかりのときは思ったりするんだよね。どうせ増える。
そういうわけで荷造りがいちばんしんどくて、引っ越し業者がやってきて運び出してくれたときにはほっとしたものだけれど、なんと食器棚の裏側の板に大穴を開けられてしまうというアクシデントが発生。こんなことそうそうないと思うんだが、どうしてこうぼくは間が悪いというか、こういうことばっかり起こるんだろうなあ。あとで修理業者がきて直しますと言われたけれど、分解できるタイプのものではないので無理矢理バラして元に戻すということになりそうだが、綺麗に直るのかねえ。
こういう技術的なことに関しては、専門業者はすごいものを持っているから信頼できる、というような神話がなんとなくあると思うけど、ぼくは今回の引っ越しで別に日本だからって必ずしも優れてるということはないなと実感した。
まずこれまで住んでいた部屋の内装工事が杜撰すぎてひどかった。大急ぎで張り替えたらしい壁はぽろぽろ崩れるし、コンセントの差込口のカバーが壁からズレて浮かんでいる状態。こんな適当な仕事あるのかよと思ったものだ。
それで、新居にきてからもインターネットの配線をいじりにきたひとがどうも間の抜けた感じで頼りなく、おかしいなあおかしいなあとブツブツ言いながら家の中を探し回ったあと、結局最初に調べたプラグのところに目的の配線があった、てな具合で、最終的に出来上がったものはプラグのカバーからびよーんと新しく繋げたコードが伸びているという非常に不安定な絵面になった。
別にもっと完璧にやれというわけでは決してない。大きな荷物を運んでいればどこかにぶつけてしまうのは当たり前だし、初めて訪れた見ず知らずの他人の家の中で目当てのものがなかなか見つけられないのも人間なら当たり前だ。この前役所の窓口はわりと融通が利くということを書いたけれど、ひとはわりと融通が利くし、わりと適当で、わりと頼りないものなのだ。専門の業者だからって大きな期待や勝手なものを押し付けるのはやめましょう。いや壊したものは弁償してもらうけど。
そう考えると自分自身ももっと適当なところがあってもいいのか(いいのか?)。
さて新しい家だけれど、まず明るい。床から天井まで伸びた大きな窓(旧居から持って来たカーテンの丈が全然足りない)からは完全に日が暮れるまで外の光が入り続ける。初めて内見に来た日は曇って雨が降っていたのだけれど、そんな曇天でも照明無しの部屋の中は明るかった。いいことだ。ついでに言えば部屋から月が見える。
旧居はとにかく窓のない部屋で、午前中をある程度まわってしまうともう全然外の光が入ってこなかった。大きな道路に面しておりしょっちゅうトラックが通っては窓が震え、夜中まで変な灯りがついていて騒々しいところだった。ついでに言えば夜中はよくタクシードライバーが目の前の植え込みに用を足していた。デ・ニーロもびっくりのファンキーさである。
そんな都会の暗部みたいなものを集約させたような地域から一転、絵に描いたような「閑静な住宅街」に越して来たわけだ。建物の高さに制限があるから空はとても広い。東京と言えど外れの方なので少し歩けば畑ばかりの懐かしい風景。あはははは、4年間ひどいところで我慢しているとこんなにいいこともあるのか。
そういう「ちゃんとしたところ」ではそれなりに責任が伴うもので、ゴミの分別が非常に厳しいらしい。いや、パンフレットを見た限り普通だったのだけれど、今まで暮らしていたところが緩すぎたのだ。おそらく前のところもそれなりにルールはあったのだけれど、マンションのゴミ捨て場を見る限りほとんどのひとが守っていなかった。ほとんどのひとが守っていないと自分もだらしなくなってしまう弱いぼくである。
今度からはそうはいかない。きっちりした善良な市民ばかり住んでいるところだろうから(周りの家はどれもまるで車のCMで寒い寸劇の舞台になってそうな新築ばかりだ)、ゴミも綺麗に出さなければならない。
さっそくお弁当のトレイやレトルトのビニール袋をちゃんと洗って、ビニールと紙が一体になっているような包装は分解して、役所でもらったパンフレットに書いてある通りの形でゴミを出した。お弁当のトレイを流しで洗っているとき、自分がものすごい丁寧なことをやっているという気がして妙な恍惚感が降りて来たものだ。これがちゃんとした生活か。普通のひとのフリはこうやってするのか。
そうして翌早朝、初めてのゴミを出しに、外にある金属製の大きなゴミ集積ボックスを開けてみると、中には生ゴミとペットボトルがごちゃ混ぜになった袋、毛布を丸めて袋に詰めたもの、はなから袋に入れていないお弁当のトレイ(洗っていない)などが満載だった。
かくして新居での生活は始まった。
実家を出たときのことを入れればこれで人生四度目の引っ越しになるのだけれど、さすがに回を重ねるごとに荷物が多くなる。夫婦ふたりで生活していればなおさらである。大切なものを手放すのは、一度失敗したので二度としたくないが、できるだけ無駄なものを減らした生活にしていきたい。と、引っ越しが終わったばかりのときは思ったりするんだよね。どうせ増える。
そういうわけで荷造りがいちばんしんどくて、引っ越し業者がやってきて運び出してくれたときにはほっとしたものだけれど、なんと食器棚の裏側の板に大穴を開けられてしまうというアクシデントが発生。こんなことそうそうないと思うんだが、どうしてこうぼくは間が悪いというか、こういうことばっかり起こるんだろうなあ。あとで修理業者がきて直しますと言われたけれど、分解できるタイプのものではないので無理矢理バラして元に戻すということになりそうだが、綺麗に直るのかねえ。
こういう技術的なことに関しては、専門業者はすごいものを持っているから信頼できる、というような神話がなんとなくあると思うけど、ぼくは今回の引っ越しで別に日本だからって必ずしも優れてるということはないなと実感した。
まずこれまで住んでいた部屋の内装工事が杜撰すぎてひどかった。大急ぎで張り替えたらしい壁はぽろぽろ崩れるし、コンセントの差込口のカバーが壁からズレて浮かんでいる状態。こんな適当な仕事あるのかよと思ったものだ。
それで、新居にきてからもインターネットの配線をいじりにきたひとがどうも間の抜けた感じで頼りなく、おかしいなあおかしいなあとブツブツ言いながら家の中を探し回ったあと、結局最初に調べたプラグのところに目的の配線があった、てな具合で、最終的に出来上がったものはプラグのカバーからびよーんと新しく繋げたコードが伸びているという非常に不安定な絵面になった。
別にもっと完璧にやれというわけでは決してない。大きな荷物を運んでいればどこかにぶつけてしまうのは当たり前だし、初めて訪れた見ず知らずの他人の家の中で目当てのものがなかなか見つけられないのも人間なら当たり前だ。この前役所の窓口はわりと融通が利くということを書いたけれど、ひとはわりと融通が利くし、わりと適当で、わりと頼りないものなのだ。専門の業者だからって大きな期待や勝手なものを押し付けるのはやめましょう。いや壊したものは弁償してもらうけど。
そう考えると自分自身ももっと適当なところがあってもいいのか(いいのか?)。
さて新しい家だけれど、まず明るい。床から天井まで伸びた大きな窓(旧居から持って来たカーテンの丈が全然足りない)からは完全に日が暮れるまで外の光が入り続ける。初めて内見に来た日は曇って雨が降っていたのだけれど、そんな曇天でも照明無しの部屋の中は明るかった。いいことだ。ついでに言えば部屋から月が見える。
旧居はとにかく窓のない部屋で、午前中をある程度まわってしまうともう全然外の光が入ってこなかった。大きな道路に面しておりしょっちゅうトラックが通っては窓が震え、夜中まで変な灯りがついていて騒々しいところだった。ついでに言えば夜中はよくタクシードライバーが目の前の植え込みに用を足していた。デ・ニーロもびっくりのファンキーさである。
そんな都会の暗部みたいなものを集約させたような地域から一転、絵に描いたような「閑静な住宅街」に越して来たわけだ。建物の高さに制限があるから空はとても広い。東京と言えど外れの方なので少し歩けば畑ばかりの懐かしい風景。あはははは、4年間ひどいところで我慢しているとこんなにいいこともあるのか。
そういう「ちゃんとしたところ」ではそれなりに責任が伴うもので、ゴミの分別が非常に厳しいらしい。いや、パンフレットを見た限り普通だったのだけれど、今まで暮らしていたところが緩すぎたのだ。おそらく前のところもそれなりにルールはあったのだけれど、マンションのゴミ捨て場を見る限りほとんどのひとが守っていなかった。ほとんどのひとが守っていないと自分もだらしなくなってしまう弱いぼくである。
今度からはそうはいかない。きっちりした善良な市民ばかり住んでいるところだろうから(周りの家はどれもまるで車のCMで寒い寸劇の舞台になってそうな新築ばかりだ)、ゴミも綺麗に出さなければならない。
さっそくお弁当のトレイやレトルトのビニール袋をちゃんと洗って、ビニールと紙が一体になっているような包装は分解して、役所でもらったパンフレットに書いてある通りの形でゴミを出した。お弁当のトレイを流しで洗っているとき、自分がものすごい丁寧なことをやっているという気がして妙な恍惚感が降りて来たものだ。これがちゃんとした生活か。普通のひとのフリはこうやってするのか。
そうして翌早朝、初めてのゴミを出しに、外にある金属製の大きなゴミ集積ボックスを開けてみると、中には生ゴミとペットボトルがごちゃ混ぜになった袋、毛布を丸めて袋に詰めたもの、はなから袋に入れていないお弁当のトレイ(洗っていない)などが満載だった。
かくして新居での生活は始まった。
2018/06/08
役所、黄色いあざ、子どもの名前
子どもの出生届けや引っ越しに関しての手続きで役所に行く。役所に行くときというのはつい身構えてしまうけれど、案外すんなり済むことも多い。出直さなければ駄目かと思って冷や汗をかいたときも、なんだかんだ手を打ってもらえる。役所のひとだって人間なのだ。
単純な手続きを人工知能がやるようになれば、今のような融通はきかなくなるかもしれない。機械のお役人など、考えただけでゾッとするが、管理という仕事にはもってこいだし、ぼくが知らないだけですでに使われているかも。
ぼくたちはディストピア的未来を想像するとき、20世紀的な独裁者が支配する世界を思い浮かべるけれど、実際は誰か個人や特定の組織がその意志を持って支配するというよりは、人工知能が管理するゆえに融通がきかなくなった世界というのが、現実的なところじゃないかな。決して人工知能が意志を持って劇的に変わるとかそういうのではなく、もっと自然に、人工知能を使っていたらいつの間にかそうなった、みたいな未来だ。
なんてことをぼんやり考えていたら、妻がぼくの喉のあたりがやたら黄色いと言った。役所の壁の鏡で見ると確かに喉元から顎の裏あたりまで、戯画化された黄色人種というか、シンプソンズみたいに真っ黄色になっている。これじゃこのブログでも使っているアバターの自画像のようだ。
黄疸というやつらしいが、黄疸で検索するとガン関連の記事が出てきたりして、額のあたりにさくらももこのキャラクターみたいな縦線がつーっと走って白目になりかけたが、ぼくは先週親知らずを抜いたばかりで、まだ腫れが完全に引いていない状態であることを思い出す。かなり深いところから、砕きながら引っこ抜いたわけだけれど、縫合した跡にはまだ糸が通ったままだ。おそらくはそのあたりに通っていた神経に触れたらしく、はぐきのあたりの感覚が鈍くなった。
そういう親知らずの抜歯のあとでは、首のあたりに黄疸が出るものらしい。少し喉に違和感があるが、手術したあとが治っている証拠らしい。病気じゃなくてホッとして、なにもかもうまくいきそうなくらい明るい気分になったが、浮き沈みの激しさに妻が呆れた。
子どもの出生届は受理され、自分で考えた名前の漢字が初めて公的な書類に印字されるのを見て、不思議な気分になった。ジュンパ・ラヒリの小説のように自分の名前が嫌にならなければ、この子は一生をこの名前で過ごすのだ。もちろんゴーゴリのような名前でもなければ、父親のような独特な名前でもないだろうから、別に気にしないと思うが。
単純な手続きを人工知能がやるようになれば、今のような融通はきかなくなるかもしれない。機械のお役人など、考えただけでゾッとするが、管理という仕事にはもってこいだし、ぼくが知らないだけですでに使われているかも。
ぼくたちはディストピア的未来を想像するとき、20世紀的な独裁者が支配する世界を思い浮かべるけれど、実際は誰か個人や特定の組織がその意志を持って支配するというよりは、人工知能が管理するゆえに融通がきかなくなった世界というのが、現実的なところじゃないかな。決して人工知能が意志を持って劇的に変わるとかそういうのではなく、もっと自然に、人工知能を使っていたらいつの間にかそうなった、みたいな未来だ。
なんてことをぼんやり考えていたら、妻がぼくの喉のあたりがやたら黄色いと言った。役所の壁の鏡で見ると確かに喉元から顎の裏あたりまで、戯画化された黄色人種というか、シンプソンズみたいに真っ黄色になっている。これじゃこのブログでも使っているアバターの自画像のようだ。
黄疸というやつらしいが、黄疸で検索するとガン関連の記事が出てきたりして、額のあたりにさくらももこのキャラクターみたいな縦線がつーっと走って白目になりかけたが、ぼくは先週親知らずを抜いたばかりで、まだ腫れが完全に引いていない状態であることを思い出す。かなり深いところから、砕きながら引っこ抜いたわけだけれど、縫合した跡にはまだ糸が通ったままだ。おそらくはそのあたりに通っていた神経に触れたらしく、はぐきのあたりの感覚が鈍くなった。
そういう親知らずの抜歯のあとでは、首のあたりに黄疸が出るものらしい。少し喉に違和感があるが、手術したあとが治っている証拠らしい。病気じゃなくてホッとして、なにもかもうまくいきそうなくらい明るい気分になったが、浮き沈みの激しさに妻が呆れた。
子どもの出生届は受理され、自分で考えた名前の漢字が初めて公的な書類に印字されるのを見て、不思議な気分になった。ジュンパ・ラヒリの小説のように自分の名前が嫌にならなければ、この子は一生をこの名前で過ごすのだ。もちろんゴーゴリのような名前でもなければ、父親のような独特な名前でもないだろうから、別に気にしないと思うが。
『アベンジャーズ:インフィニティ・ウォー』(2018)
白状すると2008年当時は『ダークナイト』に夢中でマーベルのキャラクターなどこれっぽっちも興味がなかったし、バットマン映画のインパクトが大きすぎたので、『アイアンマン』や『インクレディブル・ハルク』もそれに便乗した映画に過ぎないと思っていた(なぜかDVDが出た当時はウィル・スミス主演の『ハンコック』が2本のマーベル映画と抱き合わせになっていたように覚えている。世間としてもそれくらいの認識だったのだろう)。
あれから10年、まさかこんなに巨大なシリーズに、しかもバットマンが代表するDCコミック映画を軽々と凌駕するようになっているなんて。17歳の自分に教えてやりたいよ。
三度目の大集合にしてもはや何人いるのか数える気にもなれないくらいに膨れ上がったヒーロー軍団と対峙してもまったく引けを取らないサノス。銀河皇帝も思いつかないようなとんでもないジェノサイドを企んでいるやつなのに、なぜか途中から負けて欲しくない(勝って欲しい、ではない)と思うようになっている自分がいる。手段を選ばない悪い奴、というのはよく言われるものだけれど、手段を選ばないことがどれだけ大変なことかをサノスは体現した。
ハルクが序盤だけ登場してあとは変身できなくなるところ、ハルクがつねに画面で暴れてたらお話として困るから調整されているのだろうけれど、ブルース・バナーの新たなキャラ性が出ていておもしろい。思春期グルートが不愛想で後ろに隠れちゃってるところなんかも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』の時点で計算してたのかわからないが、そういう作用になっているのかな。うまくできているなあ。
2018/06/05
I am your father !
かくして無事子どもが生まれた。いわゆるベビーシェマの容赦のないパワーを思い知っている。
当然ながら現実の出産は『シスの復讐』とは違う。ますますあのシーンが安っぽく感じられる。そもそもガラスの向こうでおじさんたち(しかもひとりはカエル)が見てるのがありえないし(この場合のありえないとは、現実的でない、というのと同時に神経的にありえない)、なんなら立ち会ってるのも旦那でもなんでもないおじさんである。パドメもそりゃストレスで弱ってしまうわけだ。
子どもが生まれた感想がそれかよと思われてしまうかもしれないが、心境に整理がつかないのだ。これから少しずつ書いていこうと思う。
ただ、永久に続くかのように感じられた長い時間、そしてもっと長い時間を体感したであろう妻の強さ、ついに覆いの向こうからにゅっと現れたその赤紫色の顔を見た途端、あ!と思わず声が出たことは忘れないだろうな。
2018/05/24
金曜ロードSHOW!『ロスト・ワールド』
日テレ系「金曜ロードSHOW!」番組ウェブサイトにて、5月25日に放映される映画『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』のイラストレビューが掲載されています。
結構観ているようでわりと細かいところを忘れている映画。ジュリアン・ムーアが若い。今も変わらず綺麗。
ところで、『最後のジェダイ』にローラ・ダーンが出たじゃないですか。同じジュラシック・ヒロインということで次のエピソード9はジュリアン・ムーアが出るとかどうですかね。なんとか提督で。
2018/05/22
勉強の時間
アニメ「キテレツ大百科」にこんなエピソードがある。
商店街に新しく出来た塾が誰でも受けられる力試しの学力テストを実施するというので、キテレツたちは受けることにするが、ブタゴリラに馬鹿にされてむきになったコロ助まで参加すると言い出す。
コロ助の知能は幼児レベルで、自分の名前を書くのがやっとだ。案の定テストは全く出来ず、名前だけ書いて白紙で提出するが(氏名欄に書き込むフルネームが「木手コロ助」なのが可笑しい。じゃあドラえもんは「野比ドラえもん」なのか)、後日結果発表でなんとコロ助がいちばんの成績となったことが知らされる。
この作品特有の少し不穏(SF)でミステリアスな展開となるわけだが、先に真相を言うと、コロ助の白紙の答案用紙に解答を書き込んだのは、塾が入っているビルの清掃員のおばさんだった。
彼女は子どもの頃病気がちで、大人になるまでにあまり勉強ができなかったので、小学生レベルから自分で勉強し直しているという。
自分の実力を知りたくなり、コロ助が馬鹿にされているのを見て不憫に思ったのもあって、彼の答案用紙を使ったのだ。
アニメの「キテレツ大百科」はこういう、「ドラえもん」には無さそうな社会感みたいなものがある。大人たちに焦点が当てられることが多いのだ。なにか問題を抱えていたり、特殊な状況下にある大人たちと出会うことで、キテレツの発明品が役立ったり、コロ助がひとの心に触れたりする。
キテレツたちの冒険は、のび太たちのそれのようにファンタジックな場合もあるけれど、大人の世界の一端を知る現実的なものであることが多い。
アニメの話はこれくらいに。なんの話かと言うと、ぼくは改めて勉強し直したほうがいいかもしれない。
基礎的な技術がないまま絵を描き続けて壁にぶち当たるのと同じように、基本的な教養がないまま生きているとなにかと辛いことも多い。なにかしっかりしたコアが作れていないような不安な感覚。自己肯定感の不足がそこにあるかどうかはわからないけれど、なにか重要なものが抜け落ちているのではないかという気が、前からあった。
コロ助が出会った掃除のおばさんもきっと、子ども時代の重要な時期が丸々抜け落ちていて、人並みに勉強ができなかったばかりに失ったもの、与えられなかった機会というのがあるのだろう。おそらく40代くらいのひとだったと思うけど、小学校の教科書からやり直すことで彼女なりに自分の境遇を受け入れ、前に進もうとしているのだ。
ぼくは病気で学校を休みがちだったわけではない。ちゃんと通っていたにも関わらず、知らないことや覚えていないことがあまりにも多い。
学校が好きか嫌いで言えば、結局のところ嫌いだ。小学校の6年間は膨大な長さに感じられたし、中学の3年間は普通に体感する6年間くらいに思えた。常にはやく家に帰りたいと思って過ごしていた。
小学校は廃校寸前のようなところで(今もあるので寸前ではなかったわけだが)ぼくの同級生は5人以下、いずれも男子、全校生徒はぼくが通っていた6年間のうち最多で40人前後というところだった。
だんだん薄れ始めている記憶を探ってみると、なんだか幼稚園みたいな小学校だったような気がする。少人数で先生との距離が近すぎるあまりに緊張感が皆無で、逆に勉強に不向きな環境に感じられた。騒々しかった。
普通の教科以外のイベントが多すぎたような気もする。ぼくの世代が特定の呼び方をされることと関係しているかどうかはわからないが、やたら身体を動かす時間があったり、土いじりをするだの、近所の老人や同級生の親が授業の真似事をする時間だの、そういうのが多すぎたと思う。
同じ環境下でしっかり勉強できている子もいたのだから(主に違う学年だが)それは言い訳だ。どの教科も決められた時間だけ授業があったはずだし。自分の無学を世代のせいにするのもよくない。
中学にあがると、環境が大きく変わった。
クラスメイトの人数が一気に40人になり、教師との距離は12パーセクくらいになった。少人数の牧歌的な小学校から、急に普通の学校に放り込まれて困惑するばかりだった。
家から遠いのも不安だった。小学校は親が顔を出す機会が少なくなかったし、単純に家が近いからなんとなく安心感があった。それが小さい学校の欠点でもあったのだろうけれど、中学校での心細さと言ったらなかった。
もちろん授業はついていけなかった。
小学校のときは目の前に先生がいて、わからないことがあったら聞けたし、先生も全員がわかるまでひとりずつに説明してくれた。40人の教室ではそうはいかない。主張の強いやつが教室の空気を操作するし、先生もそういう子しか相手にしない。少なくとも自分から質問する子しか気にかけない。もちろんそうでなければやっていけない仕事だ。
ぼくはまずなにを質問すればいいかさえ見当がつかなかった。自分がなにがわからないのかもわからない。教室が小学校のときとは比べ物にならないほど騒がしかったことを言い訳にしたくもなるが、ぼくはあまりに集中力がなかった。大騒ぎをしている子たちが学校とは別に塾に行っていてちゃんと勉強ができているということを知っても、その理不尽な感じを説明する言葉がぼくにはなかった。
もしこれら諸々の悩みを両親に伝えられたら。伝えたところでなにかが変わったかどうかはわからないけれど、なにかを主張したほうがよかったような気がする。非常に辛く、この現状がとても嫌であることをはっきり、強く訴えるべきだった。
かりに思っていることや感じていることをちゃんと言葉にして伝えることができたとしても、当時のぼくはそれをためらったことだろう。両親はあの中学に行かないほうがいいと、前もって言っていたのだ。
どういうことかというと、ぼくの家は学区のいちばんはずれにあり、隣の街の中学のほうが近かった。だからそっちに行けと。
ぼくにその気があれば両親は学区外に進学できるようになんとかするつもりだった。でも中学校がどんなものかわからず不安でいっぱいの小学生が、知らない子ばかりのところに行きたいと思うだろうか。少なくとも学区内の中学には知っているやつが数人行くのだし、上級生にも知っているひとがいるのだ。
今思えば同じ小学校のやつなんか全然つるまなくなるのだから、両親の言う通りにしておくべきだった。小学校では明らかに浮いていたのだし、いずれここではないところで話の合うひとたちと一緒になれるはずだ、と思っていたじゃないか。
そんなわけで、たかだか数人の「知り合い」のためにビフ・タネンが改変した1985年みたいな中学校に進んだのだった。同じ小学校のやつがいるということが、そのあとでなにかプラスに働いたことなんか一度もない。
こんな学校は嫌だ、どこかよそへ行きたい、と言い出せなかったのはこのためだった。自分でこっちを選んだのだ。
後に弟は両親の言うことをちゃあんと聞いて、平和な隣町の中学に行くのだった。田舎のひとというのは前例ができると行動しやすくなるらしく、弟の進学で使われた方法を真似て、その後どんどん学区外に進学する子が増えるのであった。
やや話がそれたが、ぼくはそういうわけで完全に中学の勉強についていけなくなった。もっと悪いことに、勉強するということに興味が抱けなくなり、家に帰ってもインターネットで『スター・ウォーズ』のことばかり調べる日々になってしまった。
その日々で得られたものもある。それが今の自分の財産になっているのは言うまでもないが、もう少しその時間を自分なりの学習時間にあてられれば、もう少しはましな人間になれたかもしれない。少なくとも奥さんに漢字の読み間違いを呆れられない程度には。
中学3年間を通して、自分は馬鹿で出来が悪いと強く自覚していくことになる。インターネットで話し相手は得られたけれど、みんな頭がよくて、やっぱり劣等感ばかり強くなるのだった。誰からも馬鹿にされていた。
もちろん自分の問題だろうけれど、だからやっぱりその時期の学習というものが抜け落ちているからこそ、なにか自分に芯のようなもの、土台のようなものが見出せないのではないか。なんとなあく絵が描けるというだけでやってきていて、半端で偏った知識でごまかしごまかしやってきているままでは、いずれ行き詰まる。絵の技術を磨けば、それに関しては壁に当たらないで済むかもしれないけれど、基本的な教養が欠けているままでは、人間として行き詰まるのではないかという不安がある。
例の掃除のおばさんが同じような不安を覚えたのかどうかはわからないけれど、ぼくも今からでも全くダメだった時期の勉強をやり直してもいいのではないか。調べれば世の中には大人向けのそういう復習本があるようだ。学校の教科書以外にも勉強を補助する本がたくさんあるということに、中学生のぼくはもっと注目すべきだった。
あるとき妻がこんなことを言った。
「あなたは本当は頭がいいはずで、それなりに勉強すれば大学などいくらでも行けた」
少し無責任な言葉にも聞こえたが、同時にぼくの奥底にあるなにかをかき立てもした。本当は頭がいいと言われて舞い上がったわけでは全然ない。永久に失われたように感じていたものを取り戻せるのだという予感だ。彼女が適当なことを言っていなければ。
そうなると、年を取ってから大学受験するひとの気持ちもわからないでもない。勉強する機会を取り戻したい、そしてその成果を確かめたいのだ。
別にぼくは今更大学に行く気はない。妻が大学と言ったのはあくまで基準としてだ。だから学歴にこだわっているわけではなく、ただひたすら中学3年間を中心とした無力感を埋め合わせたい。覚えられなかったことを覚えることで、果たして自信がつくのかどうかはわからないけれど、なにが欠けていたのかをまず知る必要がある。
そうすることで中学時代の問題と向き合うしかない。不遇を嘆くばかりでなく。
もちろんちゃんとできれば、そのうちに成果を確かめたくなるかもしれない。掃除のおばさんがコロ助の答案用紙を出来心で使ったように。
とりあえずは子供の勉強を手伝えるくらいになればいい。
商店街に新しく出来た塾が誰でも受けられる力試しの学力テストを実施するというので、キテレツたちは受けることにするが、ブタゴリラに馬鹿にされてむきになったコロ助まで参加すると言い出す。
コロ助の知能は幼児レベルで、自分の名前を書くのがやっとだ。案の定テストは全く出来ず、名前だけ書いて白紙で提出するが(氏名欄に書き込むフルネームが「木手コロ助」なのが可笑しい。じゃあドラえもんは「野比ドラえもん」なのか)、後日結果発表でなんとコロ助がいちばんの成績となったことが知らされる。
この作品特有の少し不穏(SF)でミステリアスな展開となるわけだが、先に真相を言うと、コロ助の白紙の答案用紙に解答を書き込んだのは、塾が入っているビルの清掃員のおばさんだった。
彼女は子どもの頃病気がちで、大人になるまでにあまり勉強ができなかったので、小学生レベルから自分で勉強し直しているという。
自分の実力を知りたくなり、コロ助が馬鹿にされているのを見て不憫に思ったのもあって、彼の答案用紙を使ったのだ。
アニメの「キテレツ大百科」はこういう、「ドラえもん」には無さそうな社会感みたいなものがある。大人たちに焦点が当てられることが多いのだ。なにか問題を抱えていたり、特殊な状況下にある大人たちと出会うことで、キテレツの発明品が役立ったり、コロ助がひとの心に触れたりする。
キテレツたちの冒険は、のび太たちのそれのようにファンタジックな場合もあるけれど、大人の世界の一端を知る現実的なものであることが多い。
アニメの話はこれくらいに。なんの話かと言うと、ぼくは改めて勉強し直したほうがいいかもしれない。
基礎的な技術がないまま絵を描き続けて壁にぶち当たるのと同じように、基本的な教養がないまま生きているとなにかと辛いことも多い。なにかしっかりしたコアが作れていないような不安な感覚。自己肯定感の不足がそこにあるかどうかはわからないけれど、なにか重要なものが抜け落ちているのではないかという気が、前からあった。
コロ助が出会った掃除のおばさんもきっと、子ども時代の重要な時期が丸々抜け落ちていて、人並みに勉強ができなかったばかりに失ったもの、与えられなかった機会というのがあるのだろう。おそらく40代くらいのひとだったと思うけど、小学校の教科書からやり直すことで彼女なりに自分の境遇を受け入れ、前に進もうとしているのだ。
ぼくは病気で学校を休みがちだったわけではない。ちゃんと通っていたにも関わらず、知らないことや覚えていないことがあまりにも多い。
学校が好きか嫌いで言えば、結局のところ嫌いだ。小学校の6年間は膨大な長さに感じられたし、中学の3年間は普通に体感する6年間くらいに思えた。常にはやく家に帰りたいと思って過ごしていた。
小学校は廃校寸前のようなところで(今もあるので寸前ではなかったわけだが)ぼくの同級生は5人以下、いずれも男子、全校生徒はぼくが通っていた6年間のうち最多で40人前後というところだった。
だんだん薄れ始めている記憶を探ってみると、なんだか幼稚園みたいな小学校だったような気がする。少人数で先生との距離が近すぎるあまりに緊張感が皆無で、逆に勉強に不向きな環境に感じられた。騒々しかった。
普通の教科以外のイベントが多すぎたような気もする。ぼくの世代が特定の呼び方をされることと関係しているかどうかはわからないが、やたら身体を動かす時間があったり、土いじりをするだの、近所の老人や同級生の親が授業の真似事をする時間だの、そういうのが多すぎたと思う。
同じ環境下でしっかり勉強できている子もいたのだから(主に違う学年だが)それは言い訳だ。どの教科も決められた時間だけ授業があったはずだし。自分の無学を世代のせいにするのもよくない。
中学にあがると、環境が大きく変わった。
クラスメイトの人数が一気に40人になり、教師との距離は12パーセクくらいになった。少人数の牧歌的な小学校から、急に普通の学校に放り込まれて困惑するばかりだった。
家から遠いのも不安だった。小学校は親が顔を出す機会が少なくなかったし、単純に家が近いからなんとなく安心感があった。それが小さい学校の欠点でもあったのだろうけれど、中学校での心細さと言ったらなかった。
もちろん授業はついていけなかった。
小学校のときは目の前に先生がいて、わからないことがあったら聞けたし、先生も全員がわかるまでひとりずつに説明してくれた。40人の教室ではそうはいかない。主張の強いやつが教室の空気を操作するし、先生もそういう子しか相手にしない。少なくとも自分から質問する子しか気にかけない。もちろんそうでなければやっていけない仕事だ。
ぼくはまずなにを質問すればいいかさえ見当がつかなかった。自分がなにがわからないのかもわからない。教室が小学校のときとは比べ物にならないほど騒がしかったことを言い訳にしたくもなるが、ぼくはあまりに集中力がなかった。大騒ぎをしている子たちが学校とは別に塾に行っていてちゃんと勉強ができているということを知っても、その理不尽な感じを説明する言葉がぼくにはなかった。
もしこれら諸々の悩みを両親に伝えられたら。伝えたところでなにかが変わったかどうかはわからないけれど、なにかを主張したほうがよかったような気がする。非常に辛く、この現状がとても嫌であることをはっきり、強く訴えるべきだった。
かりに思っていることや感じていることをちゃんと言葉にして伝えることができたとしても、当時のぼくはそれをためらったことだろう。両親はあの中学に行かないほうがいいと、前もって言っていたのだ。
どういうことかというと、ぼくの家は学区のいちばんはずれにあり、隣の街の中学のほうが近かった。だからそっちに行けと。
ぼくにその気があれば両親は学区外に進学できるようになんとかするつもりだった。でも中学校がどんなものかわからず不安でいっぱいの小学生が、知らない子ばかりのところに行きたいと思うだろうか。少なくとも学区内の中学には知っているやつが数人行くのだし、上級生にも知っているひとがいるのだ。
今思えば同じ小学校のやつなんか全然つるまなくなるのだから、両親の言う通りにしておくべきだった。小学校では明らかに浮いていたのだし、いずれここではないところで話の合うひとたちと一緒になれるはずだ、と思っていたじゃないか。
そんなわけで、たかだか数人の「知り合い」のためにビフ・タネンが改変した1985年みたいな中学校に進んだのだった。同じ小学校のやつがいるということが、そのあとでなにかプラスに働いたことなんか一度もない。
こんな学校は嫌だ、どこかよそへ行きたい、と言い出せなかったのはこのためだった。自分でこっちを選んだのだ。
後に弟は両親の言うことをちゃあんと聞いて、平和な隣町の中学に行くのだった。田舎のひとというのは前例ができると行動しやすくなるらしく、弟の進学で使われた方法を真似て、その後どんどん学区外に進学する子が増えるのであった。
やや話がそれたが、ぼくはそういうわけで完全に中学の勉強についていけなくなった。もっと悪いことに、勉強するということに興味が抱けなくなり、家に帰ってもインターネットで『スター・ウォーズ』のことばかり調べる日々になってしまった。
その日々で得られたものもある。それが今の自分の財産になっているのは言うまでもないが、もう少しその時間を自分なりの学習時間にあてられれば、もう少しはましな人間になれたかもしれない。少なくとも奥さんに漢字の読み間違いを呆れられない程度には。
中学3年間を通して、自分は馬鹿で出来が悪いと強く自覚していくことになる。インターネットで話し相手は得られたけれど、みんな頭がよくて、やっぱり劣等感ばかり強くなるのだった。誰からも馬鹿にされていた。
もちろん自分の問題だろうけれど、だからやっぱりその時期の学習というものが抜け落ちているからこそ、なにか自分に芯のようなもの、土台のようなものが見出せないのではないか。なんとなあく絵が描けるというだけでやってきていて、半端で偏った知識でごまかしごまかしやってきているままでは、いずれ行き詰まる。絵の技術を磨けば、それに関しては壁に当たらないで済むかもしれないけれど、基本的な教養が欠けているままでは、人間として行き詰まるのではないかという不安がある。
例の掃除のおばさんが同じような不安を覚えたのかどうかはわからないけれど、ぼくも今からでも全くダメだった時期の勉強をやり直してもいいのではないか。調べれば世の中には大人向けのそういう復習本があるようだ。学校の教科書以外にも勉強を補助する本がたくさんあるということに、中学生のぼくはもっと注目すべきだった。
あるとき妻がこんなことを言った。
「あなたは本当は頭がいいはずで、それなりに勉強すれば大学などいくらでも行けた」
少し無責任な言葉にも聞こえたが、同時にぼくの奥底にあるなにかをかき立てもした。本当は頭がいいと言われて舞い上がったわけでは全然ない。永久に失われたように感じていたものを取り戻せるのだという予感だ。彼女が適当なことを言っていなければ。
そうなると、年を取ってから大学受験するひとの気持ちもわからないでもない。勉強する機会を取り戻したい、そしてその成果を確かめたいのだ。
別にぼくは今更大学に行く気はない。妻が大学と言ったのはあくまで基準としてだ。だから学歴にこだわっているわけではなく、ただひたすら中学3年間を中心とした無力感を埋め合わせたい。覚えられなかったことを覚えることで、果たして自信がつくのかどうかはわからないけれど、なにが欠けていたのかをまず知る必要がある。
そうすることで中学時代の問題と向き合うしかない。不遇を嘆くばかりでなく。
もちろんちゃんとできれば、そのうちに成果を確かめたくなるかもしれない。掃除のおばさんがコロ助の答案用紙を出来心で使ったように。
とりあえずは子供の勉強を手伝えるくらいになればいい。
2018/05/20
映画サイト「CINEMORE」連載第3回
映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第3回が更新されました。
英アードマンとニック・パークの代表作『ウォレスとグルミット』シリーズ、
主にシリーズ第1作『チーズ・ホリデー』について語っています。
https://cinemore.jp/jp/news-feature/286/article_p1.html
「超一流ビジネスマン」
昼寝をしているとセールスの電話がかかってきた。
最近引っ越しを検討していて、不動産屋さんとやりとりしているところだったので、「不動産会社」という言葉に反射的に対応してしまったのが間違いで、話を聞いているとどうやら全然関係がないマンション投資の話で、それどころかぼくの名前も呼ばれていないのでセールスに違いなかった。
セールスの電話で毎回びっくりするのは、よくもまあこんな要領を得ない話し方をするなあというところだが、今回は特にすごくて、相槌を打つ暇もなく延々話し続けるので圧倒された。電話を耳から離して放置してもいいのではないかとさえ思えた。
そうしようかと思ったところで、なにかを問いかけられる。なにを聞かれたのか全然わからないが、辞退するタイミングのようなので、今はちょっと時間が、みたいなことを口走ると、
「ではご都合のよろしい時間帯はいつ頃でしょうか?」
そうか、こういう断り方はこう返されてしまうのでよくないのだった。
ぼくは普段から電話があまり得意でなく、というかむしろ大嫌いだ。
仕事の連絡もできるだけメールでやらせてもらっているし、知らない番号からかかってきた場合にはすぐ取らず、どこの番号か調べてから応答するなり、かけ直すなりしているほどである。
いち社会人としてよくないことはわかっているが、全く心の準備ができていないときに誰かと話さなくてはならないというのが、怖くてしょうがないのだ。
相手の顔が見えなくてうまく話せないというひとも結構いるらしいけれど、ぼくの場合は顔が見えていても難しい。むしろ顔の見える電話のほうがもっと嫌なくらいだ。一時期はなんの断りもなくフェイスタイムで電話をかけてくるひともいて困ったものだった(片付いていない部屋で、だらしのない格好でいることもあるのだからああいうのは本当にやめてほしい。みんながみんな見せられる生活をしているわけではないのだ)。
都合のいい時間はいつかと聞かれて、さあどうしたものか、そのあとなんて言ったのかは忘れたけど、とにかくやんわりやんわりと(はっきり言えないので)話を終わらせる方向に持っていこうとしたと思う。しかし、向こうがなにかと話し続けるのでなかなか出口が見えない。
さすがにぼくも少し語調を強めて、あまり興味がないということを伝えると、
「いえ、興味があるとかないとかではなくてですね、これは非常にお役に立つので云々」
と言われてしまった。
興味があるとかないとかではない。
そんなことを言われてはこちらはなにも言えない。ものすごい言葉だ。興味がないということが辞退する理由にならないとは。
そんな売り込み方が通用するのならぼくだって道行く人々に絵を売りつけ、全く縁のない出版社に「興味があるとかないとかではないのです」と言って頼まれてもいないイラストを押し付けて原稿料をもらっているところである。
もうこの電話をどうやって切ればいいのかわからなくなってしまい泣きたくなった。ぼくはすぐ泣きたくなる。
そもそもどうしてこういう電話がかかってきてしまうのだろう。
一体この番号をどこで知ったんですか?
と聞いてみると、
「あっ、うちはですね、お客様のお電話番号を、しっかりした業者さんから買い取ってご連絡しております。今、個人情報とかうるさいじゃないですか?なので、うちはちゃんとしたところからリストを買っております。このお話は超一流ビジネスマンの方にしかご案内していないんですが、お客様は超一流ビジネスマンのリストに入っているのです」
なんてこった。
言いたいことが山ほど思いつくが、少なくとも「今個人情報とかうるさいじゃないですか?」みたいなことを言う人は個人情報を扱うべきではないと思う。
そして一流ビジネスマン。
自分の電話番号が売り物にされていることなど吹っ飛んでしまうすごい言葉だ。
なんであれ仕事をしているのであればビジネスマンと言えなくはないが、そうか、一流どころか超一流のビジネスマンのリストに入っているのかぼくは。なんということだ。
ちなみに今はビジネスパーソンと言うのだよ。
もう限界だ。頭がくらくらする。
もうこれ、終わらせたいんですが。
と、はっきり(でもないが)伝えると、ようやく相手も引き始めた。
どうせ泣きそうな声だったのだろう。
実際泣きそうだった。ぼくはすぐ泣きたくなる。
相手はまだなにか続けていたが最後まで聞かずに電話を切る。
本当に切りたいときは、興味がないではなく、切りたいと言えばよかったのか。
こんなに電話で話せないやつが超一流ビジネスマンなわけあるか。
最近引っ越しを検討していて、不動産屋さんとやりとりしているところだったので、「不動産会社」という言葉に反射的に対応してしまったのが間違いで、話を聞いているとどうやら全然関係がないマンション投資の話で、それどころかぼくの名前も呼ばれていないのでセールスに違いなかった。
セールスの電話で毎回びっくりするのは、よくもまあこんな要領を得ない話し方をするなあというところだが、今回は特にすごくて、相槌を打つ暇もなく延々話し続けるので圧倒された。電話を耳から離して放置してもいいのではないかとさえ思えた。
そうしようかと思ったところで、なにかを問いかけられる。なにを聞かれたのか全然わからないが、辞退するタイミングのようなので、今はちょっと時間が、みたいなことを口走ると、
「ではご都合のよろしい時間帯はいつ頃でしょうか?」
そうか、こういう断り方はこう返されてしまうのでよくないのだった。
ぼくは普段から電話があまり得意でなく、というかむしろ大嫌いだ。
仕事の連絡もできるだけメールでやらせてもらっているし、知らない番号からかかってきた場合にはすぐ取らず、どこの番号か調べてから応答するなり、かけ直すなりしているほどである。
いち社会人としてよくないことはわかっているが、全く心の準備ができていないときに誰かと話さなくてはならないというのが、怖くてしょうがないのだ。
相手の顔が見えなくてうまく話せないというひとも結構いるらしいけれど、ぼくの場合は顔が見えていても難しい。むしろ顔の見える電話のほうがもっと嫌なくらいだ。一時期はなんの断りもなくフェイスタイムで電話をかけてくるひともいて困ったものだった(片付いていない部屋で、だらしのない格好でいることもあるのだからああいうのは本当にやめてほしい。みんながみんな見せられる生活をしているわけではないのだ)。
都合のいい時間はいつかと聞かれて、さあどうしたものか、そのあとなんて言ったのかは忘れたけど、とにかくやんわりやんわりと(はっきり言えないので)話を終わらせる方向に持っていこうとしたと思う。しかし、向こうがなにかと話し続けるのでなかなか出口が見えない。
さすがにぼくも少し語調を強めて、あまり興味がないということを伝えると、
「いえ、興味があるとかないとかではなくてですね、これは非常にお役に立つので云々」
と言われてしまった。
興味があるとかないとかではない。
そんなことを言われてはこちらはなにも言えない。ものすごい言葉だ。興味がないということが辞退する理由にならないとは。
そんな売り込み方が通用するのならぼくだって道行く人々に絵を売りつけ、全く縁のない出版社に「興味があるとかないとかではないのです」と言って頼まれてもいないイラストを押し付けて原稿料をもらっているところである。
もうこの電話をどうやって切ればいいのかわからなくなってしまい泣きたくなった。ぼくはすぐ泣きたくなる。
そもそもどうしてこういう電話がかかってきてしまうのだろう。
一体この番号をどこで知ったんですか?
と聞いてみると、
「あっ、うちはですね、お客様のお電話番号を、しっかりした業者さんから買い取ってご連絡しております。今、個人情報とかうるさいじゃないですか?なので、うちはちゃんとしたところからリストを買っております。このお話は超一流ビジネスマンの方にしかご案内していないんですが、お客様は超一流ビジネスマンのリストに入っているのです」
なんてこった。
言いたいことが山ほど思いつくが、少なくとも「今個人情報とかうるさいじゃないですか?」みたいなことを言う人は個人情報を扱うべきではないと思う。
そして一流ビジネスマン。
自分の電話番号が売り物にされていることなど吹っ飛んでしまうすごい言葉だ。
なんであれ仕事をしているのであればビジネスマンと言えなくはないが、そうか、一流どころか超一流のビジネスマンのリストに入っているのかぼくは。なんということだ。
ちなみに今はビジネスパーソンと言うのだよ。
もう限界だ。頭がくらくらする。
もうこれ、終わらせたいんですが。
と、はっきり(でもないが)伝えると、ようやく相手も引き始めた。
どうせ泣きそうな声だったのだろう。
実際泣きそうだった。ぼくはすぐ泣きたくなる。
相手はまだなにか続けていたが最後まで聞かずに電話を切る。
本当に切りたいときは、興味がないではなく、切りたいと言えばよかったのか。
こんなに電話で話せないやつが超一流ビジネスマンなわけあるか。
2018/05/12
ジャバ・ザ・ハットのあれこれ
・宇宙ギャングスター
『ジェダイの帰還』は本当にいろいろなエイリアンやクリーチャーが登場する。特に前半で登場するジャバ・ザ・ハットの宮殿のシーンでは独特の造形の連中がうじゃうじゃ出てきて、まさに宇宙のお化け屋敷といった感じ。
後半で活躍するイウォーク族も手伝って、『ジェダイの帰還』は結構着ぐるみ映画だとかパペット映画だとか揶揄されたりもするんだけど、ぼくはむしろそういう「ちょっと気持ち悪いセサミストリート」みたいな感じが好きで、シリーズが好きになったのもこのエピソード6が入り口だった。メカや戦闘もかっこいいし楽しいけれど、やっぱりぼくの入り口はロボットやバケモノとかだったんだろうな。
ジャバ・ザ・ハットは宇宙マフィアの親玉である。その影響力は強く、銀河の暗黒街を牛耳るだけでなく、帝国とも取引しているほどだ。
彼はあらゆる犯罪に手を染めており、そのうちのひとつが密輸である。SWの主人公のひとり、ハン・ソロはもともとジャバの下で働く密輸業者であり、彼がルーク・スカイウォーカーの旅に加わるのも実はこのことが関係する。
ルークと出会う前、つまり第1作『新たなる希望』よりも前の時点で、ハンはとある密輸品を運んでいる最中に帝国軍の検問に遭遇する。
この検問がどういうものだったかは具体的に説明されない。今度のスピンオフ映画『ハン・ソロ』でそこまで描かれるのかはわからないけれど、一応帝国軍の軍艦を前にしたハンが、ミレニアム・ファルコンで運んでいた積荷を宇宙空間に捨てて逃げた、という出来事であるらしい。
ちなみに積荷はケッセル産のスパイス。スパイスというのは幻覚作用のあるドラッグのようなもので、たぶん「デューン/砂の惑星」からの引用。
ハン・ソロみたいなやつが検問に遭ったからって積荷を捨ててしまうだろうかとよく思ったものである。もちろん密輸業者と言えど帝国軍の軍艦を前にすれば当然逃げるしかないのだろうけれど、どうせ逃げるなら積荷を持ったまま逃げ切れたんじゃないかと思ったりする。『新たなる希望』で現に二隻ものスター・デストロイヤーから逃げ切ってるわけだし。
とにかくそういうわけで、ハンは捨てた積荷の分だけジャバに借金をつくってしまう。このお金を返すために怪しげな老人からのチャーター依頼を引き受け、長い冒険に巻き込まれてしまうのだ。
『新たなる希望』ではハンのところにしびれを切らしたジャバが直々にやってくる。
ハンはその直前に、借金を取り立てにきた賞金稼ぎを撃ち殺しており、ジャバは余計におかんむりだ。
「ちょろいチャーターの仕事が入ったから金はすぐに返せる」
ハンはそう言ってハットを説得し、その場をなんとかやり過ごすが、結局この約束が果たせなかったがために賞金稼ぎに追われ、『帝国の逆襲』で冷凍された後、ジャバの宮殿に囚われてしまうことになる。
・おじさんからナメクジに
この第1作のジャバ登場のシーンは、もともと撮影だけされて本編からは削除されていた。
ジャバ役は太った普通のおじさん(デクラン・マルホランドという俳優)で、今のようなキャラクター・デザインは完成していなかった。このおじさんに、あとでアニメーションのクリーチャーを合成する予定だったが、お金や時間の問題で結局お蔵行きになる。
このシーンが陽の目を見たのはそれから20年後、1997年の特別篇でのこと。『ジェダイの帰還』での造形に合わせたジャバをCGで合成させることで晴れて本編に復活を果たすのだった。
ただしこのジャバ、『ジェダイの帰還』の姿に比べるとだいぶ奇妙。
元となるおじさんの大きさや会話の相手であるハリソン・フォードの目線の関係などで、なんだか小さく見えるのだ。
さらに元のおじさんが結構演技をしているためか、CGの方も表情が豊かなのだ。本当にお金返してくれないと困るんだよお、みたいな表情で可笑しい。
そのせいで『ジェダイの帰還』のあまり顔の動かない着ぐるみとはまた違う印象になってしまっている。よく出来ているんだけどね。
ハン・ソロがジャバのしっぽを踏んづける動きなどがおもしろい。もともとハンがおじさんジャバの背後にまわりこむのだが、完成版ジャバのデザイン上しっぽが邪魔になる。そこでハン・ソロの姿が編集されてジャバのしっぽを乗り上げているかのように合成されたのだ。
上下に動くハンの姿が若干切り取られた静止画のように見えたものだけれど、よく出来ている。
その後、1999年の『ファントム・メナス』にフルCGのジャバが登場し、こちらはもう完全に『ジェダイの帰還』のデザインをそのままCGにした形になっている。顔も色もそのままだ。
さらに着ぐるみには出来なかった細かい挙動が、着ぐるみのときの印象を損なわない程度に付け加えられていて、個人的にはこのエピソード1版ジャバが決定版だと思う。
2004年のオリジナル3部作DVD化でさらに編集がなされるわけだけれど、『新たなる希望』のジャバも大幅に手直しされた。
しかし、デザインは申し分なくジャバらしく(つまり『ジェダイの帰還』らしく)なったものの、なぜか色彩の雰囲気が違う。ぼくなどはここで普通に『ファントム・メナス』のときと同じようなものを持ってくればいいと思うのだけれど、エピソード1とも6とも違う独特の雰囲気になっているのだ
もしかすると、ジョージ・ルーカスが本当に思う姿というのが(キャラクターのデザインはもっと大勢が関わっているとは言え)DVD版『新たなる希望』のあのヴィジュアルなのかもしれない。
こちらとしては映画に登場する着ぐるみが完成された姿なのだけれど、ルーカスにとってはそうではないのだ。とりあえずそのときの技術で可能な方法でキャラクターを作っているに過ぎないのだろう。本来の目的は実在しない生き物をスクリーンに生み出すことであって、キャラクターを味のある着ぐるみで表現することではないのだから。
・親方ジャバと犯罪王ジャバの違い
ところでCGを被せられる前の元のおじさん、結構いい演技をしていると思う。
ただ密輸品の弁償代を取り立てにきたのではない。商売仲間として敬意を表しつつ、勘弁してほしい、というような態度が見受けられる。
ハン・ソロが腕のいい密輸屋だということは認めつつも、彼だけ特別扱いはできない。雇っている連中みんなが以後同じ状況下で密輸品を捨ててしまえば商売にならないからだ。
怒っているだけでなく、こっちも困ってるんだよというような感じ。
完成版ジャバとなったあともその名残はある。
おじさんの演技がそのままCGジャバにも生かされているからこそ、後のシリーズで知られるジャバの表情やキャラ性とは、若干違う雰囲気があるのだろう。
まだこのときは『ジェダイの帰還』で見られるような冷酷な犯罪王ではなく、もう少し距離の近い仕事の上司、親方のような感じだ。
そういうわけで『新たなる希望』と『ジェダイの帰還』とではまるっきりキャラが違って見えるわけだが、この違和感を埋めるにはハン・ソロとの関係に注目してはどうだろう。
『新たなる希望』でのハンはジャバにとって貴重な人材であり、それなりに目をかけてやっている。ハンのほうも雇い主からの信頼や評価を自覚していて、なによりああいうやつなので、他の取り巻きとはだいぶ違う距離感でジャバと渡り合えていた。
だからこそ平気でしっぽも踏んづけられる。ジャバはあの暴挙にほとんど怒りを見せない。もしこれが『ジェダイの帰還』に出てくる犯罪王なら処刑ものである。しかし、あそこでのハンはジャバにとってかわいがってる小僧なのだ。
しかし、そんな一見良好な関係も、ハンが約束を守らず借金を返さなかったことで一変する。ジャバはハンに懸賞金をたんまりかけ、最終的に冷凍されたハンを手中におさめる。
レイアの救出により解凍されたハンは、再びジャバをうまく丸め込もうとするが、もうハットは彼の言葉に耳を貸さなくなっていた。そこにいたのは以前のような親方としてのジャバではなく、無慈悲な犯罪王ジャバだった。
必死に弁明しようとするハンに対し、ジャバは言う。
「もう遅い。昔はいい密輸屋だったが、今じゃバンサの餌だ」
ジャバにとってもはやハンは用済みだった。
つまり、自分に役に立つ相手ならジャバはそれなりに敬意を示したり、友好的でいてくれたりするわけだ。
役に立ってくれる密輸屋なら、しっぽを踏んづけられるくらいのじゃれあいもしてくれる。
少々無理やりな辻褄合わせな感が否めないけれど、これはこれでわりとマフィアらしくていいのではないだろうか。
親父的な顔を見せていたかと思えば、冷酷なボスの顔も見せる。
ちなみにジャバが最終的に絞殺されてしまうのは、『ゴッドファーザー』でのルカ粛清のシーンに影響されているらしい(ルカもジャバほどではないが太めのおじさん)。
DVD版以降の『新たなる希望』版ジャバというのは、ルーカスの思う完成されたジャバの姿というよりも、ハンにとっての親方としての姿だったのかもしれない。
逆に、『ファントム・メナス』でレース会場に主賓として現れたジャバは、地元を支配する犯罪王としての姿だから、『ジェダイの帰還』と同じイメージなのだ。
・ジャバの血筋
『ジェダイの帰還』のジャバの姿が完成するまで考案されたデザインは本当にいろいろなものがあるんだけど、その中には巨体を反重力装置で浮遊させて支えているスケッチもある。イメージとしては、完成版と変わらないナメクジ型のジャバのしっぽの部分が、円錐状の装置の中にすっぽりおさまり、巨体が縦に浮いている形である。ちょうどジャバの体がアイスクリームコーンにおさまっているような感じ。
この「とてつもない巨体を機械で浮かせて支えている」というイメージも、「デューン」からの引用だと思う。「デューン」に登場する悪役ハルコンネン男爵もぶくぶくと太った巨漢なのだが、反重力パッドで身体のあちこちを支えて立ち歩くキャラクター。パッドが支えていない部分からは肉が溢れかえっているほどで、人間でありながらその奇怪さはジャバ以上である。
さらにハルコンネンも砂漠でスパイスの採掘を行っており、スパイスの密輸をする犯罪王とも重なる。タトゥーインは砂の惑星というだけあってやはり「デューン」の影響が強いと思う。
逆にジャバの影響が感じられるキャラクターもいる。『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのデイヴィ・ジョーンズなんか、ジャバと銀河皇帝の立ち位置を一緒にしたようなキャラクターだし、最近では『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のヨンドゥなどもジャバ的と言えるだろう。
まあ、ヨンドゥはジャバの仲間にするにはちょっといい男すぎるけど、少なくとも1作目では主人公を追い回す昔の仲間として重なるところがあると思う。
そういえば前にギレルモ・デル・トロがジャバ・ザ・ハットを主役にクリーチャー版『ゴッドファーザー』的なスピンオフを撮れたらなあ、なんて意欲を見せていたが、ぜひとも実現して欲しいところだ。どれだけのひとが観たいかわからないけど(人間のキャラクターを中心に添えないとちょっときつそう)。
ジャバでスピンオフと言えば、『ジェダイの帰還』でのジャバの死を受けて起きたであろう権力闘争なんかを描いた方が、シークエル3部作の世界とも繋げられそうでおもしろい気はする。
もちろんその場合は新しいハットのキャラクターに出てきて欲しいものである。
2018/05/11
金曜ロードSHOW!にて
日テレ系「金曜ロードSHOW!」番組ウェブサイトにて、本日放映される映画『パシフィック・リム』のイラストレビューを掲載していただいております。鑑賞前にぜひご覧ください。
https://kinro.jointv.jp/illust/20180511.html
2018/05/05
そんなシーンは無い
複数のひとが実際の出来事とは違う記憶を共通して持っている現象。
それをマンデラエフェクトと呼ぶらしい。
ネルソン・マンデラが逝去した際に、
もっと前に亡くなってなかったっけ?と首をかしげたひとが続出したとか。
マンデラさんに限らずそういう著名人は結構多いらしい。かなり失礼な話だけど。
『天空の城ラピュタ』のエンディングのバリエーションの話とかもそういうやつだね。
『スター・ウォーズ』における主なマンデラエフェクトと言えば、
『帝国の逆襲』の名セリフ「I am your father.」が、
「No. I am your father.」なのか「Luke, I am your father.」なのかという話。
正解は前者なんだけど、おそらくこのセリフの少し前にダース・ヴェイダーが、
「Luke, you do not yet realize your importance.」と語りかけるので、それと混同したのだろう。
ぼくが観た覚えのあるシーンは、いまのところ同じような記憶を持っているひとが見当たらないので、正確にはマンデラエフェクトとは違う。ぼくひとりのただの記憶違いに過ぎない。
ちなみに友人たちに聞いてみると、
「DVDより前のバージョンのEP6ラストにナブーのシーンがあった」
「EP4でルークとレイアのターザンが一度失敗する」
「EP5のホスの戦いで、AT-ATの上空をミレニアム・ファルコンが飛び去るシーンがあった」
などという話が出た。
どれも「ハン・ソロがイウォークに囲まれて冷凍された」というのに比べれば全然ありそうな記憶違いである。
ナブーはDVDで追加されるので記憶が前後したのだろうし、
ターザンについてはメイキングでかなり大変だったという話が語られている。
ホスでは確かにファルコンが飛び去るシーンがあるし、
同じ雪景色の中をAT-ATが歩いているおなじみのイメージが混同されても無理はない。
いずれにせよSWはカットされたシーンや、
後のバージョンで変更されてしまうシーン、
さらには映画とそんなに変わらない写実性を持ったビデオゲーム独自のシーン、
リアルなタッチのファンアートなど、
とにかくそういう視覚的なバリエーションがたくさんあるので、
こういった記憶違いがあるのも仕方がない。
ぼくの記憶にある「C-3POを撃ってバラバラにするストームトルーパー」も、
調べてみるとぼくのイメージ通りの構図のファンアートがあった。
子供の頃によくわからないままいろいろな画像や映像を目にするうちに、
ごっちゃになって記憶に残ったのかもしれない。
もっといろんな人のSWに関する記憶違いを聞いてみたい。
映画サイト「CINEMORE」連載第二回
映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第二回が更新されました。
今回は『グランド・ブダペスト・ホテル』とその着想元、
シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」についてです。
https://cinemore.jp/jp/news-feature/272/article_p1.html
やっぱり第1作目
1、2、3、ローグ・ワン、4と観て限界がきて終わったんだけど、
この先どんどん一気見ができない数に膨れ上がっていくんだよね。
6作しかない頃が懐かしいよまったく。
オリジナル3部作から観ればよかったけど、
そういう順番で観たものだから『新たなる希望』の良さが際立つ。
プリクエル3部作も好きだけどね。
『新たなる希望』の少し薄暗くてミステリアスな感じや、
クリーチャーの少しゲテモノな感じ。
昔のSF小説のカバーイラストのような雰囲気がとても良い。
お姫さま、魔法使い、ロボット、宇宙船、エイリアン、恐い悪党、機動兵士と、
楽しいものがたくさん詰まっている。
それでいながらひとつの世界にまとまっているところも素晴らしい。
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