2019/03/06

なんちゃって自動筆記


 仕事でちゃんとしたものばかり描いているので、たまには頭や手をリラックスさせて、特に意味のないものを描いてみたくなる。いわゆるオートマティスム(自動筆記)みたいな感じで(厳密に言うとオートマティスムというのはトランス状態や憑依といったものが絡んでくるやばめのものらしいが)、特になにも考えずにすらすらペンを走らせて適当な形にしてみる。なにも考えずにやるのが重要なんだろうけれど、見ての通りどこかに顔をつけているので、ちゃんとした自動筆記では全然ないですね。というか、本当に意味のないものとか、嘲笑混じりで言われる「アート性」みたいなのがとても嫌なので、そういう照れ隠しみたいな感じで顔を書き加えているのだと思う。色つけは線のときより考えている。配色の練習にもなればいいかな。




 意味のない形を目指したつもりが、だんだん生き物らしくなった。やっぱり動物やクリーチャーが好きなのかな。本当に意味のないものっていうのもなかなか難しい。とりあえず描いているぶんには、線を引いている以上の意味がないので、とても楽しい。特になにも描く気がしなくても、いつでも線は描きたいのだ。はっきりした具体的なものばかり描いてきたものだから、こういうリフレッシュの仕方を知らなかった。ぼくにはこういう柔らかさが必要だと思う。

 なにが正しいかは人によるだろうけれど、ぼくはあんまり描いたり作ったりするものにコンセプトといったような計画性を持たない方がうまくやれるタイプなのかもしれないと、最近思う。もちろん基本的にはコンセプトは重要とされるのだが、しかしなんにでもそんな立派な着想がなければいけないということはなくて、なんか思いつきでちゃちゃっと描いたものでもかわいいものはかわいい。意味のあるものばかりでもくたびれる。肩幅が画面いっぱいの水平線に広がっているだけでめちゃくちゃおもしろいわけで。小賢しいことばかり考えなくてもいいのだ。学生時代はとにかくなんでもコンセプトが求められた。自分で描いたもの作ったものをちゃんと説明できないでどうする、とよく言われたものだけれど、しかしぼくなんて基本的に「犬を描きたいから描いた」程度の説明しかできないし、する必要をあまり感じない。仕事だったら多分「頼まれたから描いた」とかになるだろう。もちろんその企画としてのコンセプトや目的、意図はあるだろうけれど、それは往々にしてこちらが考えることじゃないしなあ。もちろん、自分でなにか伝えたいことがあってそれを描くこともあるだろうけれど、それは自然に、半ば衝動的に「伝えたい」と思うから筆を取ることだろうし、結局それも「描きたいから描いた」というところに行き着くと思う。学校でうるさく言われたようなコンセプトっていうのは、どうも頭でっかちだったような気がする。おそらく「描きたいから描いた」なら、「どうして描きたいと思ったのか」っていうところを突っ込んでくると思う。どうやらそれを説明できないといけないらしいのだ。もしかするとそれは、上の方で書いたような、「頭や手をリラックスさせて気分転換のために特に意味のない形のものを描いてみたかった」みたいなことでも十分よかったのかもしれないし、「それでなにを表現して伝えたいのか」みたいなことまで聞かれるかもしれない。いずれにせよぼくは、あんまり深く考えて描かないほうがいいタイプなんだろうなあ。うまいことをやろうと思うとだいたい失敗するし、身構えれば身構えるほどおもしろくないものになる。学校で言われたことなんて、話半分で聞いておけばいいって最初からわかってたけど、それでもやっぱり、頭のどっかに残っちゃってるんだなあ。