2018/11/08

ひとの宇宙船の悪口を言わなければ自分も楽になる

 あくまでぼくは批評ではなくて感想とかレビューとして映画のことを書いているのだけれど、しかしなんとなく批評脳的なものが半端に伸び始めているのは確か。映画をよく読めるようにはなったかもしれないけれど、それによってかえって集中できなくなっているところ、素直に楽しめなくなったところはある。あまりにもひとの作品の分析をしすぎると自分自身の創作がしづらくなるともいう。それもかなり一理あって、たとえば「あの宇宙船のデザインはいまいち」とか言ってしまうと、いざ自分で宇宙船を考えるときに身動きが取れなくなる。人様の宇宙船に対してケチをつけたからにはもっとおもしろいものになるんだろうな?と後ろで別の自分が言う。肩より少し上のあたりに顔を出して。これは困った。それでなんでも難しく考え込むようになってしまい、どんどん沼にはまっていく。気づけば別の自分が顔を出すその肩のあたりまで泥の水面が上がってきている。どうしたらいいか。簡単な話だ。難しく考えるのをやめる。そもそも、人様の作品に余計なことを言わない。ひとの考えた宇宙船に余計なことを言わなければ、自分で作るときなんの気兼ねもなく発想できる。責任が持てなくなるようなことは最初から言わなければいいのだ。守れない約束はしないのだ。でかい口を叩かない。これに尽きる。思うところがあって、それをそのままネガティブな言葉を並べて語ることはそんなに難しいことではない。ところが、思っていることを、誰も傷つけないように、ポジティブに語ることのほうには技量がいる。そしてそっちのほうが意義がある。批評をひとつの作品として仕上げられるひとを尊敬する。そういう評論はむやみに作品をけなさない。意地悪な読み方もしない。その作品の良さをより際立たせ、新しい良さを見出し、さらには本編を観たときには感じなかった気持ちさえ呼び起こす素晴らしいものだ。ひとの書いたSW評で、ぼくは涙することもできる(反対に憤ったりもするけれど)。ひとの作ったものをそういうふうに見たい。粗探しをしてそれを言葉にするのではなく。そんなことをしてもなにも生まれない。