2018/11/04

そんなことは知らないという体でいく

 嫌なことはいっぱいあるんだけれど、それをいちいち表明していてはこちらの身が持たない。表明することでそのときだけは少しすっきりするだろうけれど、言葉にすることで苛立ちの元が明確になったりして、あとで増幅するのでストレス解消にはならない。そういうわけで知らんぷりというのはどうだろうか。たとえば大好きなハロウィンが一部で暴動化している上にハロウィン自体に関心のない人々からは厄介なイベントというふうに扱われていることに対して、嫌だなあ、というのを書いた時点で、暴動化するハロウィンを認識していて、そこに視点を置いてしまったということになる。そういう現状を認めた時点でなんだか取り込まれてしまったような気になるので、そんなことは自分とは関係のない世界で起きていることとして放っておこう。現実逃避のように見えるかもしれないが、世の中には世間とはズレた人間というのが確かにいて、彼らはもとより世間に関心が薄いので自分の身に実害やはっきりした影響がない限りは、皆がなにで騒ごうが揉めようが知らないし、どうでもいいのである。かく言うぼくもタレントやアイドル、スポーツといった話題には大変疎い。疎いどころかひとの顔と名前はろくに覚えられないし、ほとんどのスポーツはルールがわからない。だからスキャンダルが起きようが全然興味がない。お相撲さんや野球選手がなにかやらかしても、特に思うところはない。興味がなければ心をかき乱されることはない。無関心というのも防御のひとつかもしれない。かと言って何に対しても興味を持たなくていい、というのは違う。興味は持つけれど、知らない人間のことで頭を悩ませるのはナンセンス。だいたい子どもの頃は好きなこと以外なんにも興味なかったじゃん。戻ることはできないが、なんとかしてそういう感覚を取り戻すことはできる。なんにも知らなかった頃はそりゃ楽だった。もちろん他に苛立つことはあっただろうけれど。というわけで、誰がどんなふうにハロウィンを過ごそうと、ぼくには関係がない。『スター・ウォーズ』の新作に誰がなにを言おうとぼくの感動や感想には全然関係がない。ぼくの世界、ぼくの空間、ぼくの時間は確かにここにあって、外界は意外と簡単に遮断できる。心の要塞でも、おさびし山でもなんでもいいが、そういうのを瞬く間に建造してこもることはいくらでもできる。少し話が逸れたけれど、とにかく嫌なことがあったら、そんなことは知らないという体でいく。知らないひとの言動、世の中のどこかで起こったなにか、そういうのが目につきやすい環境になってしまったが、いくらでも遮断はできる。普通に暮らしていたら接点がなさそうなひとの不平不満などは本来読まなくていい。なんでも調べられる、なんでも見られるのがインターネットだが、余計なものは見ないというのも使い方のひとつだ。そこまで駆使しなくていい。というか、どれだけやったところで人間ひとりに使いこなせるものではないし。要塞じゃないけれど、出入り口を減らしたり塞いだりするのはかなり有効。なんでもかんでも受信していればトレイはめちゃくちゃになって大事なメールも見つからなくなる。外界のことは放っておいて、目の前の仕事や自分の世界に没頭しよう。と、ずらずら書いてしまっているからには、しばらくは「知らない振り」にしかならないけれど、いずれ本当につまらないことには興味を持たなくなるだろう。