2019/09/24

「TRANSIT」第45号




 ロンドン特集の「TRANSIT」第45号、「ジェントリフィケーションと変化するロンドンの街」ページにイラスト描いています。ロンドンのジェントリフィケーションを促進させている人々について。これでイラストで関わった「TRANSIT」は4冊目となりますが、今回も読み応えのある内容。旅行もしたくなります。イギリス関連でもちろん王室の解説もあり、日本の皇室も含めた「世界の王室大全」もおもしろいです。イギリス的なアイテムの絵も、自分でもう少し描こう。

 どうも旅行に対しても一歩踏み出しづらい性分だけれど、これからはもう少し挑戦してみたい。ロンドンも特に関心の強いところなので行ってみたい。専門学校時代、研修旅行でヨーロッパに行っていた一団が羨ましかったものだ。いずれ自分で行こうと思っていた。でも、どこかに行ってみたいと思っていると、大抵なんの目的で行きたいの?とか言われて出鼻をくじかれることも多い。そんなことで出鼻をくじかれるぼくも弱すぎると思うけれど、しかし、なんの目的かって言われたら、言葉に詰まってしまう。特にないけどなんとなく行きたい、みたいなことを返せば、そんなノリで行ったって意味ないよみたいなことを言われもし、鼻どころか心が折れてしまいがちだった。でも、今にして思えば目的なんてなくていいに決まっている。むしろ目的のない旅行に行きたい。特別見たくてしょうがないものがなくても、行ってみないことには始まらないと思う。

「エドウィン・マルハウス」を読み返す

 この夏はまたスティーブン・ミルハウザーの「エドウィン・マルハウス」を読み返していた。読み進めていないものも結構あるのだが、これもたまに読み返したくなるので。特に子どもたちがトレーシングペーパーで漫画本を写したり落書きをしたり、エドウィンが漫画や文章を書いたりという描写が好きで、なんとなく自分の創作意欲も刺激されるような気がして読み返したくなる。なによりこの本はボリュームがあるのでなにかひたすら読みたいというときにもいい。最初に読んだときの感想はここでもイラスト入りで載せたけれど、何回か読んだあとだとまた印象も違う。最初はエドウィンが精神的に参ってしまう過程や、ジェフリーがだんだん親友の伝記を書くことに取り憑かれていく様子がおもしろかったが、今回前よりおもしろく感じたのは、ジェフリーがエドウィンに対してこいつ本当はバカなんじゃないかと薄々感づき始めるところ。というかこういう印象は最初に読んだときにはなかったのだが、全体像がわかると細部からそういうのが感じられる。ジェフリーがそれらしく大げさに脚色しているとは言え、やっぱりエドウィン自身にもなにか非凡なものがあるのではないかという期待が、最初に読んだときにはあったのだが、読めば読むほどエドウィンは平凡で、書かれている短い人生は誰の子ども時代とも通じるありふれたものである。

 そもそも本当にエドウィンが天才肌だったらその子ども世界にはこんなに移入できないだろう。ジェフリーが伝記作家らしく脚色している部分を丁寧にはがしたり、あるいは隙間から少しずつ漏れ出てくるエドウィンのフツーさを拾っていくのが、このお話のおもしろいところである。それで、ジェフリーはエドウィンが本当はおバカなんじゃないかと気づきそうになるのだが、そのたびにいやいやまさか、エドウィン・マルハウスは天才だぞと自分に言い聞かせるかのように観察を軌道修正するのも可笑しい。エドウィンのおバカな行為にはなにか意味があるに違いない、と。本当の天才はこの伝記を書いたジェフリー君の方でした、みたいな見方は簡単なのだが、ジェフリーはどちらかというと狂人のレベルである。ジェフリーは天才に憧れるからこそ、ほかの誰かを天才に仕立て上げてその伝記を書き、天才に対して即席の優越感に浸るのだ。
 
 あと、どうもエドウィンの母、マルハウス夫人への観察がやけに細かい気がする。エドウィンの伝記を書いているのでその家族もよく見ているのはわかるのだが、どうも妹のカレンとか父親のマルハウス教授なんかに比べてマルハウス夫人の描写が細かい。登場するたびに今日はどんな髪型でどんなエプロンかとか、みんなで海水浴に行ったときは水着がどうだとか、いちいち細かいのだ。ぼくの印象ではエドウィンの服装だってそこまでちゃんと書いてないと思うのだが。ジェフリー自身のお母さんも出てくることは出てくるが、マルハウス夫人ほどの描写はなく全然造形が浮かんでこない。幼い頃友達と遊ぶと、自然そのお母さんがいつもそばにいる、だからそれも含めて観察している、というのはまあわかるのだがそれにしても……。さあ、どういうことだろうなこれは。

2019/09/10

TABFに行った話


 7月のことになるけれど、TABFことTOKYO ART BOOK FAIRに行ったことを書くのを忘れていた。その名の通りアートブックのフェアなのだが、画集や写真だけでなく、個人制作のZINEが見どころ。ちょうど直前にその存在を知り、見てみたらおもしろいかもとひとから勧められてもいたので、足を運んだ。ZINEを作りたいと思っていたので参考にもしたかった。

 改めて、ZINEというのは基本的には個人が趣味で作るちょっとした冊子(冊子にも満たない場合もしばしば)のことで、呼び方はMagazineやFanzineの短縮から来ているらしい。言ってみれば同人誌みたいなものだ。個人だけでなくグループで発行することもあるし、当然販売もされる。安価な用紙にモノクロで刷ってホチキスで留めただけのものから、紙質や印刷、塗料にこだわって綺麗に製本したものまで多種多様なものがある。大判の新聞のような紙を折りたたんで作るパンフレットのようなものもあるし、手のひらを握って隠せるくらいの豆本サイズのものなど、その形式もいろいろ。内容も画集や写真集、漫画、詩、文章などなんでもあり。そのひとが発信したいことを印刷して束ねる、それがZINEである。


 これはかのミランダ・ジュライが書いたもので、サンフランシスコ発の雑誌「The Thing Quarterly」の「第1号」らしい。特定の紙媒体に縛られず、オブジェクトを出版するというコンセプトのもとに、10年間いろいろなひとといろいろな形の「雑誌」を送り出したらしい。まさに形に捕らわれないZINEの究極的なレベルである。ZINEは紙であることに最も大きな意味があるんだけど、これはさらに物であることに重きを置いているというわけか。

 


 紙に捕らわれないのももちろんかっこいいけれど、やっぱりぼくがZINEと聞いて思い浮かべるのはこういうやつらだ。コピー用紙にレーザープリンターでばばばーっと刷った感じ(「プリント」じゃなくて「刷る」が似合う)。画質など気にせず見えりゃいいというレベルの写真と、読めりゃいいというレベルの掠れたタイプ文字の列。ZINEの歴史にはバンドが自分たちのフライヤーを冊子状にした流れも入っていて、そういう雑だけど勢いのある雰囲気は純粋にかっこいい。


 結構長い時間見て回って、買って帰ったのはこれくらい。左上の「ピーナッツ」の漫画本はZINEでもなんでもない普通の漫画本だが、一目惚れして買った。ピンバッジは有名なZINEレーベルのマーク。残る二冊は非常にZINEらしいZINEで、イラスト・漫画主体なので参考になりそう。内容はもちろんなんだけど、ZINEというのはやはりそのフォーマットが重要で、そこをおもしろがるものでもあるなと思った。いろいろな作品を紙として、物として持っておくことの意義を、手軽に感じることのできる媒体。正直言って一回ぱらぱらめくったらもう二度と見返さなそうなものや、ちょっとアバンギャルドすぎてついていけないものもあったけれど、そういったものもオブジェクトとして持つ意味がある。飾っておいてもいいし、コレクションしてもいいのだ。じっくり読むものもあれば、何回もぱらぱらめくりたくなるものもあり、それ自体がアートとして完成しているものもある。ZINEはそういう雑多な自由を持っていると思う。
 そういうわけで、これらを参考に作ったぼくのZINEプロトタイプは、ひとつ前の記事の通り。

2019/08/31

ZINEを作る


 なんとか8月が終わるまでにZINEらしきものを作ることができた。前からなにか作りたいと思っていて、今年の目標のひとつにもなっていたけれど、なかなか取り組まないので見かねた妻に背を押される形で夏の工作課題ということになっていた。なんとなくハードル高く感じていたけれど、とりあえずと思って作ってみると、普段画面の中で完結してしまいがちなデジタル描画のイラストでさえ、紙に印刷されることで一気にモノとしての存在感を帯びてとても新鮮な感じ。大したものでなくとも物体にしておくこと自体が大切らしい。








 最近ものから以前のものまで、ファンアート含めてお気に入りを脈絡なく貼り付けてイラスト集的にまとめた。よく考えたら両面印刷用紙がなかったので普通のコピー用紙に両面印刷したのだが、裏移りしてよれよれになった感じがかえってラフなZINEの雰囲気を出している、かも。とりあえずこれはプロトタイプということで、用紙ともう少し大きめのホチキスで作り直すつもり。

 漫画はやっぱりこうして形にすると本当に漫画らしく見えてくる。いずれは漫画だけで一冊作りたいし、ファンアートはファンアートだけでまとめて、SWのZINEなんかを別で作ってもいいだろう。オリジナル、あるいはあまり版権に触れない内容であれば販売してもいいと思うけれど、まずは作って見せるものとしてやっていきたい。慣れたら記事とかコーナーみたいなものを設けて、少しずつ内容を詰めていきたいけど、あまり形式ばるとZINE特有の手軽さがなくなってしまいそうなので、まあそこまで凝らずにやっていこう。

2019/08/29

「SPUR」10月号



 「SPUR」10月号の映画レビュー連載では、明日(30日)公開の映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を紹介しています。クエンティン・タランティーノ監督、レオナルド・ディカプリオ&ブラッド・ピット主演で描くハリウッドの黄金時代。贅沢な2時間40分、作り込まれた背景に様々な実在の人物、つねに流れているカーラジオ、何度も見直したくなるボリュームです。いずれは部屋で流しっぱなしにしたくなる作品になるはず。全ての物語が運命の1969年8月9日(シャロン・テート殺害事件)に向かっていくわけだけれど、事件について知っている気で観たら……。詳しいことはまた公開後に感想を書くとして、まるでカーラジオをそのまま録音して突っ込んだかのようなサントラがとてもよさそうで、欲しい。

「婦人公論」9/10号



 「婦人公論」9/10号でのジェーン・スーさん連載挿絵。「ムズムズまでの距離」ということで、どういうポイントで「そういう気分」になれるのかというお話。イラストは途中で登場する「消防士カレンダー」の消防士。海の向こうでは半裸でムキムキの消防士のカレンダーが人気らしく、男同士で体に泥を塗りあったり、動物と戯れていたり(山火事から助け出したていらしい)するのだが、決しておもしろというわけではなく大真面目なセクシー系のカレンダーである。

2019/08/21

必要に応じて

 絵のタッチは急に作れるものではない。仕事をやっていく過程で、必要に迫られて形成されていくものだと思う。自然に出来上がっていくものだとも言えるが、やはり必要に応じて、というほうが的確だと感じる。ストレスなく進められる方法、時間内にできるやり方、あとで修正しやすい作り方など、そういうものは作業手順だけではなく描く内容にもそのまま活きてくる。ぼくはひとの影響を受けやすいので、ちょっとしたことで新しいやり方に憧れたりするのだが、これまでの積み重ねの上に絵柄が出来上がるのだとすれば、急に流れをぶった切ってしまうのは好ましくないかもしれない。新しいことを始めるのはいいけれど、急には形にならないので、やはりやってきたことを活かしながらの方がよさそうだ。つまり、昨日までのやり方をとりあえずそのまま続けるしかない。それが今のところの自分のタッチだから。変な意識はせず、自然に描けばなんでも自分の絵になるはず。どんなものでも描けば自分のもの、というのはひとから言われた言葉で、ひとの言うことをとにかく聞かないぼくにしては珍しく(それにしてはひとの言われたことを気にするのだが)覚えている言葉である。誰に言われたかは忘れた。

『フォースの覚醒』ボトルキャップ


 なにかが足りないと思えば、おそらくはこれだと思う。スター・ウォーズと言えば夏で、ペプシだった。冬興行はクリスマスと合わさるから、それもいいけれど、やはり夏のほうが楽しいと思う。惑星タトゥイーンの灼熱の二重太陽が夏の日差しと結びつき、銀河の映像はコーラの味を思い出させる。そういうわけで、架空のSWペプシキャンペーンを想いながら夏を過ごしている。一度のキャンペーンにしてはキャラが少なすぎるので(恐らく60種以上あったはずだ)もう少し描いてもいいし、『ローグ・ワン』やEP8の分も作りたいな。無いなら作るか描くかすればいい。青いキャップの上にちょこんとキャラクターを載せただけで、あの夏の雰囲気が出るのだからおもしろい。

 当時のラインナップを見返して思ったけれど、とにかく細かいキャラまでカバーしている。あまりにも端役すぎるものはいないが、お馴染みのキャラクターばかりというわけでもない。脇役のジェダイ、議長の補佐官、主人公を乗せただけのリキショー・ドロイド……。でもどれも画面の中で印象的だしなんらかの役割がある。良いラインナップだ。まだ描けていないものを加えて、当時のキャンペーンポスター風のものにしてみてもいいかも。

2019/08/13

映画『永遠に僕のもの』コメント


 8月16日公開の映画『永遠に僕のもの』にコメントを寄稿しています。1970年代に実在したアルゼンチンの連続殺人犯のカルロス・ロブレド・プッチの凶行を描いた作品で、その美しい造形から逮捕後に「死の天使」だ「黒い天使」だと世間を騒がせた青年がいかにダークサイドに堕ちていったのかが掘り下げられています。終身刑で本人は存命中なので、現在どんなふうなのかは検索するとすぐ出てきます。本人がこの映画をどう受け取ったかという記事なども出てきますが、それはともかく。

 逮捕後に人々が驚いたのはその美貌だけでなく、彼に一切罪悪感がなかったことでもあるらしく、劇中でもとんでもないことをし続けながらも澄ました顔。作品全体にもその雰囲気があって、恐ろしいはずなのだが何故か笑えてきたりもする。その欲望の暴走はひとから物をくすねたり借りパクしたりするところから始まるのだけれど、そのせいかレコードにしろ拳銃にしろ、物の雰囲気や存在感がよかった。画面から物欲が伝わってくるような感じ。

「ヘアモード」9月号



 「ヘアモード」9月号のTシャツコーナー、今月のテーマは「80-90年代ロック」で、シチュエーションはフェス会場。思えばフェスらしいものは一度しか行ったことがなく、なかなか嫌な思いをした一回きりなので、またどこかで挑戦はしてみたいんだけど、毎年にこの時期になると雑誌上に現れるかわいらしいキャンプギアを見ているのが楽しいな。というのは毎年書いてる気がする。

2019/08/12

尋ね人





 漫画を描きたいと思っていて、描かなければ始まらないので細かい話など考えていない。墜落したロケットを背景にとぼとぼ歩いている絵と、宇宙人酒場のカウンターでバーテンに聞き込みをしている絵だけが最初にイメージとしてあって、間を埋めて繋げただけ。モス・アイズリーのカンティーナみたいなのを描きたかっただけでもある。そんなテンションだったけれど、しかし描いてみると自分でも続きを見たくなってきた。火星の魔法学校をやめてどこかへ消えたひとを探しにきたのだから、ここはたぶん火星ではないのだろう。

気づけば10年

 この8月でツイッターを始めて10年になるらしい。もう具体的な状況は覚えていないけれど、ツイッターのプロフィール欄に2009年8月から利用していると表示されているのでそうなのだろう。確かフィギュアの情報を追いたくてメーカーのアカウントを見るために始めたのだと思う。それが、今ではどちらかといえば自分から見せるために使っている(フィギュアの情報も見てるが)。簡易的な発表の場として十分に機能しているし、いろいろなひととも知り合えたが、じっくりなにかを書くというのは、やはりブログにしておきたいと思う。なにか書きたいことがあったとき、140字の制限に合わせてコンパクトに圧縮して書いてしまうのはもったいない気がするし、見ているとどうもそうした短文ゆえの誤解とズレから言い争うひとも多い。というか、そんな字数制限の中に言いたいことを思ったように伝わるように書くのはかなり難しい(いくつも書き足していったとしてもひとつひとつの幅に限りがある)。書きたいことは書きたい量書いたほうがいいのだ。自分も気をつけなければいけないが、短文を書き続けていると思考まで短文に合わせたものになってしまうような気がして恐ろしい。これは個人的な体感だけれど、携帯デバイスから書くというのも、それに拍車をかけているように感じる。出先で思いつきを書き留める、その手軽さが安易さに繋がって、不用意な言葉になることもあるだろう。まあなんでもいいが、言葉は丁寧にしたい。

 まさかこんなふうに喧嘩の道具になるとは思わなかった、と言えば嘘になるが、少なくとも目に余るものがある。見たくもなければ関わりたくもないが、そう書くとまるで高みから見物しているようにも取られそうなので難しいところだ(すでにだいぶ自分のことを棚に上げて書いているが)。知らないふりをするしかない。そもそもが他人の独白を読むものであって、それがだんだんきつくなってくるのであれば、それは向いていないということになるのかもしれないが(しかし他人の愚痴や不平不満を読み続けるのに向いている人間がいるのだろうか)、使い方はそれぞれなので、できるだけきつくならないよう工夫しておけばいいと思う。自分でもどこかでやらなければいいと思うところもあるけれど、きっぱりやめてしまう必要も特にないというか、なんとなく続けてるうちに10年経ったというわけだ。それに、もはややめるとか続けるとかいう話でもないと思う。ほかに取って代わるものが現れない限りは残しておきたい。

2019/08/01

「ペンギンの憂鬱」感想


 そのタイトルと装画から気になっていた本。いざ読んでみたらその可愛らしいイラストからは想像できない展開に冷や汗が出るほどだった。売れない作家と憂鬱症のペンギンによるちょっと不思議な生活、程度では全然ない。不思議というより不穏で、得体の知れない危うさが徐々に迫ってくる感じがとても怖い。
 
 舞台は1990年代、連邦の崩壊による混乱と不安定が続くウクライナの首都キエフ。芽の出ない作家ヴィクトルは旧知の編集長から新聞の死亡記事執筆を依頼されるが、それはまだ存命中の人物の死亡記事を、いざというときのために準備しておくというものだった。短編以上を書いたことのないヴィクトルには、これがなかなか調子よく書ける。調子よくなってきたヴィクトルの傍らには、経営難の動物園からもらってきた皇帝ペンギンがいる。最初のうちはこのペンギンに大した意味はないのだが、だんだんどこか張り詰めた雰囲気の中、数少ない息抜きをもたらすモチーフとなっていく。

 ついにストックしてあった追悼文が必要となったとき、ヴィクトルの物語は動き出す。気のいいお巡りさんと仲良くなったかと思えば、怪しげな男から幼い娘を預かることになるし、その子を見てもらうためにシッターとして雇ったお巡りさんの姪と関係を持つことに。編集長は誰の追悼文を書くのかをどんどん指示してくるものの、状況を説明してくれはしない。ヴィクトルはどんどん書き、人がどんどん死ぬ。死亡記事と人々の死との関係について、嫌な予感がしてくる。

 それはともかく、コーヒーを淹れてひたすら原稿を書き続ける様子は、読んでいて楽しい。こんなふうに仕事ができたらいいなという感じがする。いつか長編を書きたいという夢を持ちながらも、匿名で追悼文を書くという仕事にプロとして取り組む。将来への不安に対し、自分は今回り道をしているのだと言い聞かせたりする。短い追悼文の中に、書かなければならない情報と、文芸性みたいなものを両立させるコツを掴みはするが、恐らくそれほど才能のある人物ではない。そういう地味な造形が好感を抱かせる。

 死亡記事作家は自分の人生が自分の知らないところで動かされ、なにかに利用されていることに苛立ち、不安を覚えるが、目の前にある風変わりだが温かみもある生活と、とりあえずは向き合っていくことになる。どう見てもなんらかの陰謀に巻き込まれているけれど、預かった娘ソーニャと憂鬱なペンギンとの日々のディテールみたいなものが楽しくもある。というか、それがなかったらきっとひたすら怖いだけだし、それがあるから怖さが際立つとも言える。この生活が壊れたらどうしよう、ソーニャに危険が及んだらどうしようという不安がつきまとうようになるのだ。本当に怖いのは、得体の知れないもの、そして抗うことの難しい強い力によって日々を牛耳られることだと思う。ヴィクトルの日常にはその両方が潜み、彼からその全容が見えることはない。そんな不穏さの中、ペンギンというモチーフが効いてくる。やっぱりペンギンが好きだなぼくは。

2019/07/31

「婦人公論」8/9号



「婦人公論」8/9号でのジェーン・スーさん連載挿絵。知らぬ間に出来ていた肌の染みからお母さんのことを思い出すお話。

2019/07/30

「SPUR」9月号



 「SPUR」9月号の映画レビュー連載では、ロバート・ゼメキス監督、スティーブ・カレル主演の『マーウェン』を紹介しています。

 集団暴行によって負傷し記憶の一部も失った男性が、G.Iジョーのフィギュアやバービー人形を使って庭に作った架空の世界を作り、そのフィギュア世界の写真が反響を読んだという実話、をもとに作られたお話で、男性をカレルが演じる。現実の実写パートと、主人公の妄想としてのフィギュア世界を描いたCGアニメーションパートの2つの世界によって構成されているのが特徴。フィギュア世界の主役はもちろん主人公をモデルにしたフィギュア(実際のカレルより若くてたくましい)で、彼とともに戦う美女フィギュアは、それぞれ現実パートでの女優たちに対応する。中でもロシア人という設定のグウェンドリン・クリスティーがとてもよく、フィギュアが欲しくなる。実際はG.Iジョーやバービーによって作られたと言われているが、映画の中では全く別の、リアルな作りのアクション・フィギュアとなっている。またG.Iジョーはハズブロ社、バービーはマテル社と、ライバル社の二大フィギュア(それぞれ男児向けと女児向けを代表している)なので、もし映画の関連グッズとしてフィギュアが出るなら、全然関係ない会社が全く別枠のシリーズで出すことになりそう。

2019/07/23

「買い物とわたし」中国語版






 週刊文春での連載時から挿絵を担当していた山内マリコさんのショッピング・エッセイ集「買い物とわたし 〜お伊勢丹より愛をこめて〜」の中国語簡体字版をいただきました。漢字とはいえ外国語と自分の絵が一緒になっているとやはり上がります。言葉だけでなく、装丁も独自バージョンで、本文中の挿絵を集めたコラージュになっています。単純に組み合わせたのではなく、丁寧に切り取った上でバランスよく合体させひとつの装画のように仕上がっているのがすごい。バラバラに描いていたものなのでこういう形になると新鮮で、イラストは使い方も大切だなと改めて思います。本文の方でもあちこちの挿絵から持ってきたちょっとした要素をワンポイントで使われたりしていて、自分が描いたものを違った角度から見られます。ましてや描いてからだいぶ時間が経ったものばかりなので、ほとんど初めて見るような感覚。オリジナル版の装画は折り込みページに入っています。

 全ては山内さんから文春での連載のためにイラストをオファーされたのが始まり。毎週お気に入りのものや新たに購入された物の写真をもらい、それを参考に描いていた。テキストで書かれているストーリーと、品物の絵をどういうふうにまとめあげるか考えるのは大変でもあったけれど、楽しさもあり、挿絵を描く基礎みたいなものが作られたと思う(今もまだ作っている最中だとは思うけれど)。それに多くの読者の方同様、山内さんの買うものについて知る楽しみもあった。

 アナログで毎週よく描いていたなあ。そして今回そのアナログ画が、まるでレイヤー分けされていたかのように綺麗に切り取られているのにも感激した。一切アナログで描かないというわけではないけれど、仕事はすっかりデジタルで描いている今、なかなか前のやり方は出来ないけれど、同じようになにか品物の絵を描くことはできるので、自分の持ち物や好きな物をもっといろいろ描いてみようかな。

2019/07/22

「山と渓谷」8月号




 「山と渓谷」8月号(山と渓谷社)にて、「南アルプス ユネスコエコパーク」のイラストマップを描いています。かなり情報が多いですが、なんとか見づらくならないようにまとめられたはず。マップの仕事も少しずつ入るようになったけれど、自分自身が方向音痴で地図を理解するのが難しいタイプなので、まだまだ毎回ひいひい言っている。地点同士の位置は微妙にずれてしまうし、あっちの道とこっちの道の長さ、交わり方なんかも描いているうちにずれてしまう。でも、基本的には対象を見ながら絵を描くということと変わらないので、少しずつできるようにはなっていると思う。そうして、実際に道を歩いているときにも感覚が鋭くなっていけばいいけど。

「SALUS」8月号




 東急沿線フリーマガジン「SALUS」(東急電鉄)8月号で、オリーブオイル特集ページにイラストを描いています。少し緑の具合を変えていろいろなオリーブオイルのボトル描くのがおもしろかった。夏のパスタ料理の紹介ページも楽しい。

 主要なカットのほかにも余白に小さなものをあちこち描き込んでいて、やり方としては事前に送ってもらった誌面のレイアウトデータに、そのまま下書きを描き込むことで位置や大きさの具合を調整できる(もちろん別レイヤー)。一点ずつバラバラに描くこともできるけれど大きさや縦横の比率を決めたり、ほかのカットと線の具合に統一感を出したりするのが少し面倒。なので、ひとつの画面の中でいっぺんに描いてしまう。下書きにオーケーをもらったら、そのまま新しいレイヤーをかぶせて清書の線でいわゆるペン入れをし、色をつける。各要素は別レイヤー、別グループにして、先方が多少動かせるようにしておく。作業ベースになる誌面レイアウトのデータは必ず原寸サイズであること。そんな感じでやっている。

月面着陸50周年


  7月20日はアポロ11号の月面着陸の日だった。7月20日なんて今までは旧海の日か、夏休みが始まる時期くらいとしか覚えていなかったけれど、50周年ということで去年あたりから話題だったので、初めて月面着陸の日として意識した。10年前はそこまで話題になっていなかったような気がするけれど、そこはやはり今年は半世紀という節目だからかな。10年前と言えばぼくは初めて「エヴァンゲリオン」を観て、そのエンディング・テーマである「Fly Me to the Moon」を気に入った頃だったので、そこからアポロ計画へ関心が向かってもよさそうだったけれど(同年に出たビデオ・ゲーム「ベヨネッタ」でもこの曲がテーマソングで、こちらのアレンジも好きだった)、ぼくが現実の宇宙開発にあまり関心がなかったというのもある。今更という感じだけれど、最近は俄然興味が出てきた。こういうものに遅いということはないだろう。新しい発見についての話も楽しいし、スペース・レース時代も当然おもしろい。昔の宇宙開発のディテールは、そのまま当時のSF観に繋がっている感じがまたいい。ロケットや金魚鉢型のヘルメット、レトロ・フューチャーである。宇宙船ではなくロケットというのがいい。

 上の絵をTumblrにアップしたところ、ひとつコメントが来ていた。そのひとは子どもだった当時、月面着陸の様子を流すテレビの前で月面地図を広げ、アームストロングやオルドリンが降り立った地点を鉛筆で書き込んだりして彼らの動きを必死に追いかけていたという。その紙の上に、そのひとは一体どんな世界を見ただろうか。月から送られてきたあの有名な映像と同じ灰色の世界か、あるいはどこかに怪物がひそんでいそうなミステリアスな黄金の砂漠か。現在の月と地球との通信速度は、詳しいことはわからないので置いておくとして(昔より速いに決まっているが)、少なくとも地球上では場所を越えた同時性というのは行くところまで行っており、どこにいようとなんでもすぐに伝わってくる。そのせいで実際に見てもいないことを体験したかのような錯覚さえ覚えてしまうこともあるのだが、とにかくあらゆる情報が素早く送られてくる。一方、さっきのコメントをしてくれたそのひとは50年前、テレビの前で地図を広げて鉛筆で印をつけることで月との同時性をつかもうとした。地図と鉛筆、それからおそらくは想像力。そのひとは当時のことを今でも鮮明に覚えているらしいが、テレビの前で地図を広げ、ブラウン管と紙との間で両眼をせわしなく行き来させる子どもの姿が、ぼくの目の前にも思い浮かぶようだ。あれくらいの年代のアメリカを舞台にした映画でよく見るような居間の風景。ごついテレビが床からほんの少しの高さのところにあって、子どもたちはうつ伏せになるやら、あぐらをかくやらしてその前に集まり、大人たちはそれを一歩後ろから、ソファか、あるいは食事を載せるためのボードがついた椅子(家族全員がテレビに向いて食事をするという発想がまずすごい)に着いて、子どもたちほど手放しではないにせよ、やはりある程度興奮しながら見ている。情報はのろく限られている。映像もお世辞には綺麗とは言えない。でも、その子には地図と鉛筆があれば十分だった。本当にそれだけで満足だったかはわからないが、満ち足りた時間だったはずだ。

 それから半世紀後、そのひとはインターネット(これもまたソ連との宇宙競争から生じた産物のひとつである)で見ず知らずの日本人が描いた月面着陸のイラストを見る。そいつは人類が初めて月面を歩く瞬間を見た世界人口20パーセントにも入っていないし、アメリカ人でもなければ、1969年に生きてさえいない。一切同時性から外れている、にも関わらずそいつは「偉大なる一歩」の様子を知っており、絵に描ける程度には視覚イメージを持っている。これから50年後にもまた、同じように当時となんの繋がりも持たない人間が同じことをするし、できるはずだ。記録がそれを可能にする。そこに生の記憶や体験はないかもしれないが、それを追おうとすることはできる。月で起きていることと自分を同期するために、地図に鉛筆で印を書き込んだ行為がそうだし、自分が知ることのなかった半世紀前のことを、写真と想像で絵にする行為も同じことだと思う。少なくともその行為自体は生の体験となる。月に行っていない、テレビの前で地図を広げていただけの子どもの体験を、ぼくはものすごくかけがえのないものだと感じたのだから。そうして、60歳くらいになったそのひとはぼくの絵を見て、そのときのことを書いてくれた。この事実だけでぼくには十分である。ぼくにも月面着陸にまつわる思い出がひとつ出来たわけだ。

2019/07/18

ボー・ピープはいつか


 陶器の身体でありながら外の世界に飛び出した彼女が、いつか絶対に確実に必ず割れるだろうということは明白だ。すでに両腕がテープで補修されていることから、その危険とは常に隣合わせであることは明らかで、次も助かるという保証はない。それを踏まえると、彼女が自ら外に出ることを選んだという意味の大きさになにも思わないわけにはいかない。ほかのどのおもちゃたちよりも壊れやすいからこそ、彼女の外の世界への憧れは一層強かったのだろう。少なくとも好き勝手に外で活動できて、多少危ない目に合ってもへっちゃらなウッディやバズとは違う(ウッディなんて所詮身体がぬいぐるみなので、どこかにぶつかってもまず壊れない)。大きなリスクは願望をより強くし、彼女を安全なランプの台座から、危険だが本物の人生へと駆り立て、ほかのどのおもちゃよりもタフにした。弱さをバネに強さを得たのだ。

 ウッディがボーに惹かれたのは、もちろんもともと恋仲だったというのもあるだろうけれど、そんな彼女が外で生きているという事実そのものに、強い衝撃を受けたのではないかと、ぼくなどは思う。テープでとめられているだけで、すでにぽきりと割れてしまっている彼女の腕を目の当たりにした彼は、彼女が常に危険を伴った生き方をしていることを知る。自分がそばで助けなければと思ったか?いやいや、今更彼女には助けなど必要あるまい。多少冒険したことはあっても、所詮ウッディは子供部屋暮らししか知らないし、今までそれがおもちゃにとっての幸福だと信じてきた。外の世界では新参者だ。そうではなく、彼は彼女がいつかなにかの拍子にパリーンといってしまったときに、そばで見届けなければいけないと感じたのではないだろうか。もちろんぼくの妄想だし、場合によってはウッディには陶器の恋人を助けることができる。しかし、繰り返すようだが、いつかは取り返しのつかないことになるかもしれない。そのときに誰もそばにいなければ、ボーはただのゴミとして最期を迎えることになる。

 ゴミ。幼児の工作から生み出されたフォーキーは自分をゴミだと思い込んでいたが、物語を通じておもちゃとしての自覚、あるいは人格を得る。ゴミ同然の素材で作られたおもちゃと、持ち主不在で外で生きるおもちゃは、どちらも一歩間違えればゴミになってしまうという危うさを抱えている。道端に落ちている小さなぬいぐるみのキーホルダーを見かけたことはないだろうか?ぼくはよく見かける。俯いて歩いているから落ちているものをよく目にするのだ。しっかりした既製品で、置いてある場所が少しでも違うなら、ちゃんとおもちゃに見えるだろう。しかし、道端に落ちているというだけで、そいつはゴミ同然の状態になる。ボー・ピープたちはその道を選んだのだ。自由の代償として、おもちゃとゴミの中間的な危うい存在になった。そしてボーは、屋外で暮らす陶器の人形という、割れ物のゴミとして一番わかりやすい。フォーキーとボーはそういうふうに対比できる。

 ボーが本当に割れ物になってしまうのは本編が終わった直後かもしれないし、また20年くらい先かもしれない。いずれにしてもいつかその日はやってくる。とにかくウッディよりも先に彼女が壊れてしまう可能性のほうが高い。一体ふたりはどんな冒険を繰り広げていくのだろう。エンドクレジット中にあったおまけとして、テキ屋の景品のおもちゃをどんどん子どものもとへ送り出していくなんてのは序の口、まだまだいろいろなことがふたりを待ち構えているに違いない。

 ボーとウッディそれぞれ性別から、抑圧と束縛を知っていたからこそ自由を手にできた女性が、不自由を感じていなかったからこそかえって従来の価値観の中で苦悩するに至った男性に手を差し伸べ、ふたりで未来を切り拓く、といった構図を見ることもできる。よく出来た物語だと思う。そうして、その寓意にとらわれることのない普遍性も兼ね備えている。もっと広い意味で、『トイ・ストーリー4』はひとが自分自身の人生を歩む物語であって、そのタイトルに反して人間の物語なのだと思う。

2019/07/12

『トイ・ストーリー4』(2019)


 書き終えてみてかなり、というか完全に踏み込んで書いてしまったことに気付いたので、鑑賞後にお読みください。読んでいるひとがいればの話だけれど。

 もはや「トイズ・ライフ」と呼んだほうがいいくらいだった。シリーズを振り返ってみても、おもちゃの物語から、おもちゃの人生の物語へと展開していったように思う。そうして『トイ・ストーリー4』はウッディ自身の物語にも決着をつけた。残念ながらウッディやボー・ピープ、新しいおもちゃたち以外のお馴染みの仲間たちは、バズ・ライトイヤーも含めて完全に脇役で、ほとんど見せ場らしいものはないのだけれど、それを犠牲にしてでもウッディとボー・ピープの「生き方」に焦点を当てたことに価値と意義があったと思う。

 今回のお気に入りは、ウッディたちの敵役でもあるおままごと人形のギャビー・ギャビー。黄色いワンピースに黄色いリボン、黄色い靴が洒落たヴィンテージの人形だ。メイン機能である発声器が不良品なので背中の紐をひっぱってもしゃべることができず(人間が遊ぶ上でしゃべれないだけで、自由意志でしゃべることはできる)、おままごと人形の本領を発揮できずにアンティーク店の中で長いことくすぶっている。いつか店主の孫の女の子に遊んでもらう日を夢見て、ひとりで取り扱い説明書を見ながらお茶会の練習などをするなど健気さを見せるが、年代が近く発声器の作りも同じであるウッディと出会い、彼の発声器を奪おうと企む。全ては子どもに遊んでもらうため……。声を演じるのはドラマ「マッドメン」でお馴染みクリスティーナ・ヘンドリックス。ギャビー・ギャビー自体60年代製ということで「マッドメン」時代のもの。同じくヴィンテージの腹話術人形ベンソンたち(何体もいる) を従えているのだが、ベンソンの見た目も手伝ってなんとなくマッドメンたちを従えているようにも見える。こいつらがウッディを追いかけるシーンはとても怖い。不気味なおもちゃが登場するのも『トイ・ストーリー』の魅力。

 フォーキーも忘れられない。ウッディたちの新しい持ち主である女の子ボニーが、幼稚園の1日体験で作った工作人形。先割れスプーンとモールで出来た、まさに幼稚園の工作といった感じの見た目で、その成り立ちのせいか目覚めた瞬間から自分のことをゴミだと思い込んでいる。ちょっと目を離すと自分からゴミ箱に飛び込むので、今のボニーにはフォーキーがなによりも大切だとわかっているウッディは、彼がゴミ箱に入らないよう寝ずに見張るほど。このゴミとおもちゃの線引きの微妙さや危うさは、子どもの頃はもちろん今でも工作が好きなぼくもよく考えることだ。自分で作ったものには愛着がある。しかしそれは既製品ではなく、非常に脆い。一歩間違えると、ぼくの気分次第でゴミ同然となる。ボール紙で作ったボバ・フェットのヘルメットにしても、なにかの拍子にぼくの目にはゴミとして映ってしまうかもしれない。作ったものにはそういう危うさがあると思う。描いた絵にしてもそうだ。

 しかし、それは自作のものに限らない。前作の悪役、クマのぬいぐるみロッツォは、用済みになったおもちゃはゴミ同然だと豪語し、ウッディたちは焼却炉を目前に死さえ覚悟した。もう要らない、となってしまえば、どんなに出来がよく、値の張ったものでも、ゴミとなってしまう。いたずらな断捨離の犠牲になったものを思い出すといい。ついさっきまで必要に感じられ、価値のあったものが、ちょっとしたことでゴミ袋行き。全ては人間の気分、意識、見方次第である。こんなに気まぐれで恐ろしいものはないだろう。そこまでいくと、おもちゃの役割どころの話ではなく、物の価値とはという話になってくる。『トイ・ストーリー』シリーズはそこまで行ってしまったのだと思う。特に今作はほとんど付喪神的なものさえ連想する。遊ばれることなく長年放置されたギャビー・ギャビーの怨念じみた強迫観念もそうなら、子どもに遊ばれる以外の道を自分自身で選び取ったタフなボー・ピープもそう。少なくともぼくはもうおもちゃを処分できそうにない。おもちゃ以外の物さえも捨てるのが恐ろしい。もちろん、そういうわけにはいかないので、だからこそ手にするものを厳選するべきなのだろうと思う。

 そんなふうに、ときに大切にしてくれ、ときに身勝手な人間だが、それは必ずしもおもちゃが生きていくのに不可欠というわけではない。その可能性を、ウッディは再会したボー・ピープから教えられる。この陶器の羊飼い人形は、かつて3作目よりも以前、2作目よりも後の時点でバザーに出されるためにウッディたちの前から立ち去らなければならなかったのだが、その後も人間の都合で転々とし、最終的に彼女は自分が自分の持ち主になることを選ぶ。新しい持ち主のボニーがまともに遊んでくれなくなり、アンディとの楽しかった日々を思い出してばかりのウッディに、ボーはそれ以外の生き方を提示するのだった。

 ウッディが仲間のおもちゃたちとはぐれて冒険を繰り広げるというのは、一作目からのお約束の展開ではあるのだけれど、今回はそこに単なる話運び以上の大きな意味があり、とうとうウッディは自分の居場所を自分自身で決める。冒険を終え、バズやジェシー、ポテトヘッドやレックスたちと再会したウッディは、ボーに再び別れを告げ、仲間たちのもとに戻ろうとする。フォーキーとともにボニーのもとに戻り、また楽しい日々が始まるだろう。自分にそこまで出番はないかもしれないが、フォーキーを支え、ボニーの幸せを見守らなければならない。しかし、ウッディは立ち止まる。立ち止まって振り返る。振り返るとボーと目が合う。ボーが、はっと息を呑み、胸を高鳴らせるのが画面から伝わる。これが本当に陶器の人形だろうか、というほどの人間的な表情。大きく見開かれた目に紅潮した頰。ボーは本当にウッディのことが好きだったんだ、と心から思える。ウッディは最後の一瞬で、選ぶ。

 おもちゃを大事にしましょう、物を大切にしましょうというところに留まらず、迷える者が自分の人生を切り拓く様さえも描いて見せた『トイ・ストーリー4』は、まさにバグズ・ライフならぬトイズ・ライフだった。

2019/07/07

「TRANSIT」44号




 「TRANSIT」44号(講談社)の砂漠特集に挿絵を描いています。砂漠に住む人々が水や食料にどう向き合って対処しているかという内容。スイカを食べたり、ラクダからミルクを得たり、デーツを育てたり。なんとなく砂漠の背景に現地の人を描くと、エルジェっぽくていい。

 「砂漠の惑星」という響きがいい。砂漠そのものについての解説や、砂漠を旅する際のハンドブックも入っているので、実際に旅行する際はもちろん、「デューン/砂の惑星」のような物語、あるいは惑星タトゥーインを舞台にしたSWの二次創作を作るときにも役立ちそう。

2019/07/06

セサミがまだまだ教えてくれること


 娘は「セサミ・ストリート」に夢中である。YouTubeの公式チャンネルを延々と流しているわけだけれど、最近のものから昔のものまで結構ランダムに見られるので、時折ぼくが子どもの頃観た記憶のあるものとかもあって、なかなかいい。そういえばNHKでやっていた頃はよく観ていたし、原風景の一部と言える。ちょうど今年で50周年なのだが、たくさん新しいキャラクターが登場しているとはいえ、基本的なやつらはずっといて、娘が観ているキャラクターをぼくもよく知っているし、なんならぼくの母も知っているというのは改めて思うとすごいことだ。

 たくさんの歌が流れる中でわかったのは、とにかくそこには子どもたちに自分を好きでいてほしいというメッセージがあること。自分の髪や肌の色に誇りを持とうといったものはもちろんだが、さらに印象的だったのは自分の名前を好きでいようというものだ。僕の、私の名前はこれこれで、全然変えようとは思わない、といった歌。なるほど、いろいろなルーツを持った人々が暮らす国では、外見の特徴だけではなく名前もまたいろいろなタイプがある。そうでなくとも、周囲になかなかいない珍しい名前の人間はいるもので、ぼくもそうだ。もちろんぼくは自分の名前が好きだ。印象が強くて覚えてもらえるし(たまに水原とか端丸とか書かれることもあるが、そんなのは放っておこう)、教室に同じ名前のやつはまずいないからよそよそしく苗字で呼ばれたり、混乱を招くこともない。なによりペンネームを考える手間がかからなかった。だから、大前提として自分の名前は好きなのだが、それでもどこかで気後れみたいなものはある。両親に対して恥ずかしい限りだけれど、今でも名乗りづらくなることがある。電話口なんかは特にそうだ。電話の相手が一回でこの名前を聞き取ることが少ないからかもしれないが、理由はそれだけだろうか。病院の待合室でフルネームを呼ばれるときの気持ちはなんだろうか。あんまり聞かれたくないとか、どこかで思っているのかもしれない。ただの自意識過剰かもしれないが、子どもの頃に一切名前のことをとやかく言われたことがないと言えば嘘になる。今なら物珍しさからだとわかるが、そのときは悔しくて嫌だったものだ。とは言え、それでこんな名前は嫌だなあなんて思ったことはなくて、ますます自分で好きでいなければと思ったものだった。セサミの歌はそのあたりを改めて確信させてくれる。ぼくはもっとはっきりとした声で名乗るべきだ。

 思うに、セサミが励ますのはアメリカの子ども、移民の子どもだけではないのだと思う。アルファベットはこれでもかと刷り込んでくるが、アメリカで暮らしてもいなければ、子どもですらないぼくがこうして励まされている。髪質や肌の色だって、人種問わず悩んでいるひとがいるだろう。ぼくだって癖っ毛で浅黒い方だ。もちろん、ぼくなんか呑気なほうで、本当にそのことで苦しめられている人々と比べることなんてできないけれど、誰もが自分の外見や特徴について考えるはずだ。だから、マペットたちが歌う内容には広い普遍性があるのだと思う。それは場所や時代をも越える。いつの時代もそのメッセージが響くのはいつまで経っても解消されないものがあるからだという見方もできるだろうけれど、だからこそセサミがそれを発し続けていることには価値がある。子どもの頃観ているときはこんなこと考えもしなかった。ただ単に楽しい人形劇、吸血鬼みたいなやつが数字を数えては大喜びしているのがおもしろかった。もちろんそれも魅力だが、自分に子どもが生まれて、これから先なにをどう教えていいかわからなくて不安という身になってみて、セサミが教えてくれることはどんどん増えるようだ。