2015/03/18

ぼくがもしも女の子だったら・・・


 ことあるごとに自分が女に生まれていたら、きっとこんな感じだろうなあと考えることがあるので、図にまとめてみた。異性化というよりはただの女装のような感じになってしまった。けれど、そんなにぼくとまるっきり同じということもなく、むしろ実際に他人としてぼくの目の前に現れたら衝突することがあると思う。多分瑞子ちゃんはぼくみたいな男は好きじゃないだろうなあ、なんとなく。同族嫌悪というやつか。
 背が高いせいで、周囲から「将来はモデルさんかしらね〜」などという無神経なことを言われて育ち、成長するにつれて鬱屈していく。果たして彼女は絵筆とペンのどちらを握るのか。何故そのニ択なのか(腐女子、からの創作への道はごく自然である)。リズム感が無いので音楽はダメ。そのくせ椎名林檎を真に理解するのは自分だと言って譲らない。なんとなく彼女は「スター・ウォーズ」より「スタ―・トレック」派だと思う。
 胸は小さく足はデカいと思う。
 

2015/03/17

「アメリカン・スナイパー」感想


 ぼくがこの映画を観る前の週あたりに、当のクリス・カイルを殺害したエディー・レイ・ルースの終身刑が決まったということを、後で知る。タイムリーすぎてものすごく不思議な感覚である。実話を基にしているから当然なのだが、映画と現実が密接に結びつくことで、まだ映画の続きを観ているかのような感じ。
 見終わる頃には銃声が恐くなった。もちろん銃声とは恐ろしい音である。映画では銃声がよく鳴るものだし、聞き慣れているつもりだったものの、この映画の銃声は本当に人間一人を死なせるのに十分な音のように感じられる。ズドン、ズドン。お腹に響く音だ。シルベスター・スタローンが鳴らす音とは明らかに感じが違う。映画とはこれくらいのエネルギーを放てるものなのだなと思えた。
 ところで、エンドクレジットでキャスト名が表示されるまでクリス・カイル役がブラッドリー・クーパーだとわからなかった。なんと18キロ以上の増量である。全くの別人に見える。というか本物のクリス・カイルそっくり。

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」感想


 ひと通りの映画が作られてしまった時代に生まれて大変不幸だと思っていた。画期的な映画、というのがいま一つどんなものかわからないし、なにより「スター・ウォーズ」一作目が初めて公開されたときの興奮も知らない。「猿の惑星」を一切の予備知識無しで観ることも不可能。CG技術がこれでもかこれでもかと進歩していく一方で、映画を観る上で不幸な時代なのでは?と思うこともしばしば。
 けれどそんな心配はナンセンスだということがすぐにわかる。常に新しい映画が作られていて、ぼくなんかの想像の範疇などあっさり越えてしまうからだ。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は「すごーい」と口をぽかんと開けてしまうような、魅力的な宇宙を見せてくれた。普通宇宙といえばだいたい真っ黒で白い点々が描かれているだけの背景である。ところがこの映画の宇宙空間は色とりどりで本当にどこまでも続いているような奥行きを感じさせる。行ってみたい、と思える宇宙である。それ故世界観に奥行きがあり、今後の展開がものすごく楽しみ。

「レゴ・ムービー」感想


 大人になってレゴをやろうとすると、どうしても説明書通りに組み立てて飾っておく、みたいなおとなしい遊び方になってしまうというか、かつてのように自由な(あるいはカオスな)遊び方がなかなかできずにいた。子供の頃は同じ色のブロックをまとまった数持っていなかったので、綺麗に一色だけを使った建造物や宇宙船などが作ることができず、仕方なく灰色や白などの色の中に、ところどころ青や黄色、赤等の色を唐突に組み込んだりした。そういったツギハギ部分は頭の中で「これは全体灰色の宇宙船なのだ」と補完して遊んでいたりしたものだ。頭の中で補完する、これは貧困的なようでいて実はもっとも美しい遊び方なのではなかったろうか。
 ところが大人になるとブロック不足を金で解決しようなどと考えるようになってしまった。あるいは、自分で考えたモデルよりも、製品版の完成度に魅せられてそれをお金で買い、大して自分なりの改造を加えることもなく説明書通り組み立てて悦に浸る。間違っちゃいないが、どこか歪なのは何故だろう。
 「レゴ・ムービー」はそんな硬くなったぼくの頭をもみしだいて風を吹き入れてくれた。ずっと前からわかりきっていたことなのに、「そうか!こうやって遊ぶのか!」と改めて教えてくれた。だけではなく、説明書の重要さもまた思い知らされた。説明書があるからこそ、そこから独自の考えを膨らませられるのだ。説明書があるからこそ、それをどう壊してやろう、どうかけ離れたものを作ってやろうと思えるのだ。基本があるからこそ独創性が生まれるとかなんとか、そんなことまで考えさせられてしまったのだから、良い映画だと思う。
 それにしても空間を漂う塵などの粒子、ミニフィグやブロックの表面に出来た傷、プリントの剥げ具合など、遊び込まれたおもちゃの質感の表現が見事で、何度見ても本物のレゴで撮影したとしか思えない。ボロボロになったミニフィグでも気にせず遊び続けていいんだ、ということが宇宙飛行士ベニーを見ていて思った。ヘルメットの顎が割れてるところなんてレゴあるあるすぎてグッと来る。

2015/03/15

視界のミニチュア化

 子供の頃から不思議で不思議で仕方が無かった感覚の謎が解明された。いや、謎が解明されたというより、この感覚について文章による説明がなされていたこと、他にも同じ感覚に陥っていたことのある人が大勢いることを知って少しほっとしたのだ。
 なにかに集中しすぎたり疲れたりすると視界がミニチュアになることがある。いきなりこんなことを言ってはなんだそりゃと思われるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、たとえば本をずっと読んでいたとき、だんだんと持っている本のページがずうっと遠くに行ってしまうような感覚に陥ることがある。ページが小さくなり、文字も小さくなっていく。けれど文字が読めなくなるわけではない。実際の距離は変わっていないのだから、いくらでも文章を読むことが出来る。けれどとにかく視界が遠く、小さく見えるのだ。というわけで、自分のいる部屋がミニチュアに見える。自分が小さくなった感覚は無いのだけれど。(図a参照)


 また、子供の頃から熱を出した最初の夜に必ずと言っていい頻度で見る夢がある。要するに悪夢なのだけれど、とてつもなく小さいものととてつもなく大きいものの対比、そのギャップにうなされる夢。具体的には蟻のように小さいぼくを、ヘヴィ・ダンプのような馬鹿デカいタイヤが押し潰すというもので、興味深いのはダンプを運転しているのもまたぼく自身だということ。そして、大きいものと小さいものの間にそのギャップから生まれるものなのか、果てしない後悔の念のようなものがやってくる。(図b参照)


 視界がミニチュアになるのと、発熱のときにタイヤに潰される夢を見るのは、「不思議の国のアリス症候群」という症状(?、これがまたよくわからない)で結びつけられるそうだ。ルイス・キャロルの児童文学作品において、「イート・ミー」だの「ドリンク・ミー」だののラベルのついた薬を飲んだアリスちゃんが、大きくなったり小さくなったりを繰り返すことから、50年代にジョン・トッド先生が名付けた症候群だそうである。これまた中ニ病的な、というか中ニの喜びそうなやつなのだが、恥ずかしい名前である。「アリス症候群」の主な症状(?)が、これまでぼくがずっと疑問に思っていた感覚を「そうそうそれそれ!」と言いたくなるくらい正確に文章で説明していることから、恐らくぼくはそうなのだろうと思うのだけれど、なんとも恥ずかしい名前の症候群である。仕方あるまい、トッド先生が名付けちゃったんだから・・・。

 視界のミニチュア化は、「遠近感が曖昧になる」ということで「アリス症候群」の主要なイメージの一つとして挙げられている。また、「針とタイヤ」というイメージもあるそうで、これはぼくの発熱時の悪夢と関係がありそう。というわけで長年疑問に思っていた不思議な感覚・イメージは大方この症候群のせいだろうということがわかった。誰に相談していいかもわからず、別にこの感覚に苦しんでいたわけではないので困ったりもしなかったのだが、とにかく気になっていたのでわかって良かった。とは言えこの症候群はまだまだ謎が多く、検査方法も無ければ診断は患者が訴えるしかない。ゴスロリのポエムみたいな名前だからちゃんと研究しようという人がいないのではないか?と思ったりもするのだが、実際どうなんでしょうか。

 インターネットを通して同じ感覚を抱いてきた人が大勢いることを知って安心したのだが、いろいろな人の書き込みを読んでいると、さらにぼくの長年の疑問と同じような記述があった。なんでも自分が三人称視点で見えるそうだ。この言い方に始めはピンとこなかったが、思えばぼくにはふとした瞬間に「あれ?ぼくってずっとぼくだったっけ。ぼくはこのままぼくをやっていくんだっけ」という感覚に陥ってしまうことがある(図c参照)。これが三人称と呼ぶかどうかは少し怪しいけれど(だいたい自分の姿を外から見てるわけじゃないし)、関係があるのだろうか。
 

 視界のミニチュア化、タイヤの悪夢、そして「ぼくってぼくだっけ」感覚は、今まで周囲の誰に聞いても共感を得られなかった。そもそもあまり人に話したことがなく、親にすらおっかなくて言えなくて、自分の中で「こういうものなんだろう」と無理くり納得してそっとしまっておいたんだけれど、この度大勢の人が同じことを感じていたのだということを知りほっとした次第である。わざわざこんなことを書いたのは、同じ感覚を知っている人がいないかなあと思ったからである。もしいたら、ぼくもそうだから安心してください。

2015/03/06

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」4〜5.コンセプトアート編


 新作のコンセプトアートは現在インターネット上に多数で回っているが、特に印象的なのはやはりダース・ヴェイダーのヘルメットの残骸を手にする謎の人物の絵だろう。「ジェダイの帰還」のラストでヴェイダーの亡骸は息子ルーク・スカイウォーカーによって焼かれている。観るたびにちゃんと燃えるのかなあと思っていたが、案の定ちゃんと燃えていなかったようだ。この人物は30年放置されていた火葬の焼け跡から変わり果てたヴェイダー・ヘルメットを掘り出したのだろう。
 エンドアが登場するということは愛らしいイウォーク族も登場するだろうか?この不吉なキャラクターがエンドアの原住民を皆殺しにしたりしなければいいのだけれど・・・。
 出回っているコンセプト・アートはタトゥーインの砂漠の景色を描いたものが多い。スカイウォーカー生誕地であるタトゥーインが新作でもまた重要な舞台として描かれるのだろう。これらの絵ではTIEファイターやAT-AT、中には巨大なスタ―・デストロイヤーまで、帝国軍を象徴するようなメカが砂に埋もれて風化している様子が描かれており、ぼくは中でも脚を投げ出してくたぁっと地面に倒れて埋もれているAT-ATがお気に入り。こういった景色からぼくたちのよく知る帝国軍が、「ジェダイの帰還」の後で衰退の一途を辿ったのだろうということがわかる。 
 

 かと思えば、新しいストームトルーパーのデザインもリークされている。砂漠に埋もれた旧兵器とは裏腹に、新しいデザインでピカピカの兵士達が供給されているとはどういうことか。新作では帝国の復興が描かれるのだろうか。新しいトルーパーの”顔つき”は今までのストームトルーパーの不吉そうなしかめっ面とは違い、どこか満足げに(でもどこか意地悪そうに)口の両端をつり上げているように見える。そもそも、これが「ストームトルーパー」と呼ばれるかどうかもわからなければ、帝国軍(悪役)の兵士ですらないかもしれない。象徴的なキャラクターであることは確かだろう。
 同じようなデザインで、クロムメッキのトルーパーの姿も見られる。甲冑のように見えるこのデザインはスペースオペラになんとも言えない古めかしさを与えてくれそう。
 つづく。

2015/02/24

婚姻届

 手続きが好きなときと嫌いなときがある。学生でなくなって以来やたらと役所に行って手続きをするようになったが、未だに行くまでが辛い。まだ済ませていない手続きは嫌いなのだ。そして役所に行って取りかかった際に、すんなり済まない手続きはさらにストレスを覚える。役所の人は悪くないが八つ当たりしたくなることすらある。
 好きな手続きとは言うまでもなく、すんなり済んだ手続きである。良い具合に進められている最中の手続きが好きだ。用紙への記入、署名、捺印が次々になされるリズムが好きだ。ウェス・アンダーソン映画に見られるような文具好きの心を刺激する手続きシーンなどたまらない。役所の手続きはもちろん、図書館の本の貸し出し、郵便局での事務、軍隊の命令書など、几帳面に進められる手続きは、紙の上で物事を整理して動かして行く様が、まるで机の上にお城でも建てているかのような感じで愛らしくすら感じる。もちろん、事務職がやりたいとはこれっぽっちも思わないけれど。実際の事務仕事にはぼくが見ている以上に膨大な情報が行き交い、ぼくのメンタルでは到底無理だろう。
 今日は好きな方の手続きが済ませられた。例によって役所に行くまでは少し憂鬱だった。書類に不備はないはずだが(その準備もだいぶ骨が折れたが)、ぼくは本人確認で出鼻をくじかれることが多い。運転免許がないから本人であることを証明できないのだ。要は写真付きの身分証がないとことでスムーズに進められないということなのだが、なにか釈然としない。とは言え相手も鬼ではないのでぼくが無免許でもちゃんと善良な市民であることをわかってくれる。それに変に身構えて行くと思っていたよりずっとすんなり済むこともある。今日は驚くほどすんなり済んでしまった。無事ぼくが川原瑞丸本人だと確認されたのだ。
 というわけでこのたび彼女と入籍した。とうとう好きな女の人がぼくの苗字になってしまったのだ!恐ろしい!でも氏名を書くのが少し簡単になるだろうと思う。
 

2015/02/22

いけてないやつの虚勢

 これはぼくと彼女が地下鉄に乗って家に帰る途中で目撃したことだが、とても印象的というか、コミカルなことだったので書き留めておこうと思う。以下登場する人名は仮名である。
 下校する小学生が乗り込んで来る時刻で、ぼくらの向かいの席には制服を着た小さくて可愛らしい男の子が二人腰掛けており、午前9時から午後15時くらいまでのたかだか6時間くらいの学校に疲れて気だるそうにしていながらも、帰宅後の楽しみへの期待もあってか、少し浮ついた雰囲気で仲良くおしゃべりしていた。二人とも幼い顔に似合わない大きな眼鏡をかけており、片方は痩せていてもう片方は小太りだった。けれど二人とも声が甲高いのは同じだった。二人とも教室の中心に立つ子のようには見えなかったが、それでもこの二人の間にも一応の格差があるようで、太っている子のほうが痩せている子より態度も大きく、痩せている子はそれに比べてずっとおとなしく、太っている子の言うことを聞いているようだった。
「田中と違ってオレ、クラスに子分いるからさ〜。クラスにっていうか、クラス全員子分なんだよねえ〜」
 太っている子がそんなことを言い出したのが始まりだった。
 痩せている子ーー田中君はそれを聞いてただでさえ眼鏡で大きくなっている目をさらに大きくして驚いた。友達に子分がいるだけでなく、その子分がクラスメイト全員だというのだからそりゃあ驚くだろう。クラス全員に田中君が含まれていないことから、田中君が太っている子とは別のクラスだということがわかる。
 向かいで聞いているぼくは驚かない。一体どんな教室がこんなころころした坊やに頭を垂れると言うのだ。いけてないやつが自分よりいけてないやつに見栄を張っているだけであるのは明らかだった。
「えっ、コブン? 森川君、子分がいるの? 子分ってどうやってつくるの?」
 甲高い声で尋ねる田中君は純粋だった。恐らく森川君の言うことを普段から疑ったことがないのだろう。他にもなにを吹き込まれているかわからない。
「ああ、金で雇ってんだよ」
 森川君がそっけなく言った。向かいでそれを聞いていたぼくは俄然興味が沸いてきた。お金でクラスメイトを雇っているガキ大将だなんて聞いただけでかわいそうではないか。
「えっ、お金?お金をあげてるの?」
 田中君はすっかり仰天してしまった。森川君に子分がいる上に、なんとそれが金で雇われた傭兵達だったのだから無理も無い。田中君はきっと森川君との間に今までに感じたこともないような距離を感じたことだろう。「お金って、一体いくらあげてるの?」
「あ?1人100円」
「えっ!1人100円もあげてるの?森川君、大丈夫なの?」
「平気さ、オレ、小遣い月に5,000円もらってるから」
「えっ!5,000円ももらってるの!?」
 これにはぼくも田中君と同じくらい驚いた。月に5,000円!!ぼくは高校のときですら月2,000円だったのに。ぼくは金を持っているガキが憎たらしくて仕方が無いのだ。
 田中君はもうなにがなんだかわからなくて戸惑っている。森川君は月に5,000円ものお小遣いをもらっていて、クラスメイト全員を金で雇って子分にしているのだ!それでも必死に考えを巡らせて森川君ワールドについていこうとしている。
「で、でも、クラスがだいたい40人で1人100円だから・・・4,000円も使っちゃってるよ!森川君、大丈夫?」
 田中君はとても優しい子だった。こんな憎たらしいクソガキ森川君のほら吹き話を素直に聞いているだけでなく、森川君の心配までしている。田中君、ぼくが君に100円をあげよう!
「おう、オレ、お年玉もいっぱいあるからさ。それに子分がいればいろんな情報が手に入るんだぜ。あ、良い働きをしたやつにはさらに10円あげたりしてんだあ」
 森川君の言葉を受けて田中君が頭の中のそろばんを弾いた。
「でも、そんなことしたら森川君のお小遣い990円になっちゃうよ・・・」
 まだ森川君の懐具合を心配している田中君は美しい心の持ち主だった。”良い働き”をした子が1人とは限らないので、月によっては森川君のお小遣いは950円くらいになってしまうこともあるだろう。そもそも森川君のもとに集まって来る情報とやらは一体どんなものだろうか?ぼくの代わりに田中君が森川君にそのことを尋ねると、
「そりゃあ、村岡がテストで55点取ったとかあ、山木が火曜の掃除をさぼったとかあ・・・」
 超くだらねえ情報だったが、小学生中学年の間では重要な情報かもしれない。だが金を出してまで欲しい情報とは思えない。誰が誰のことを好きだとか、色恋沙汰が混じってないあたりがそのくらいの小学生らしい。
 もうその頃になると田中君の興味の持続性が失われつつあった。森川君の誇大妄想に対して先ほどまで可愛らしく驚きを示していた彼だが、もはや「ふうん」程度のリアクションになってしまっていた。むしろ田中君は森川君がクラスの皆に利用されているのではないかと心配しているようにも見えた。そんな田中君の態度の変化などに気付くこともなく、森川君は自分のスパイ網の働きについて得意げに話し続けている。
 そこで森川君の世界を一瞬でぶち壊す出来事が起こった。ぼくと彼女が森川君と田中君のやり取りに笑いをこらえていると、別の車両から森川君達と同じ制服を着た女の子がやってきたのだ。女の子が森川君達の前を通りかかると、すかさず森川君が、
「あ、小野だー」
 と言った。「よう、小野ぉ」と声をかけないところが森川君の身の丈を表していた。声をかけるわけでもなく、どちらかと言えば田中君に向かって小野さんがいるということを知らせているかのようだった。
 しかし小野さんはシートに座っている森川君を一瞥することもなく、そのまま通り過ぎてまた奥の車両に移って行ってしまった。無視である。
「あれ?」
 田中君が小野さんを目で追う。「小野さんって同じクラスだよね?子分じゃないの?」
 子分もなにも完全に視界に入っていないようだったが。ぼくの見ている目の前で森川君はスパイの元締めではなくなってしまった。ただの森川君に戻ってしまったのだった。一体彼がどんな言い訳をするのだろうかと見守っていると、
「え、ああ、小野は、もにょもにょ・・・」
 どんどん声が小さくなってなにを言っているのかわからなくなってしまった。
 そうこうしている内に電車はぼくの家の駅に到着してしまった。愛らしい彼らのやり取りをもっと聞いていたかったが、仕方が無い。ぼくらがホームに降りてエスカレーターに向かって行くと、森川君もホームに降りているのが見えた。このタイミングで電車を降りられたことを有り難く思ったに違いなかった。
 森川君よ、田中君はとても良い奴なのだから、そんな虚勢を張らなくとも仲良くしてくれるから大丈夫だよ。
 けれどひとつ気になるのは、森川君の言っていたことがどこまで本当でどこまで嘘かということだ。全部嘘だったらそれでいいのだけれど、もし実際にクラスメイトにお金を払っていることが本当だとしたら?それで森川君が都合良く「自分には金で雇った子分がいる」と解釈していてそれを田中君に話していたのだとしたら、森川君は決して嘘をついたことにはならない。クラスメイト達が裕福で扱い易い森川君からお金を巻き上げているのかもしれない。クラス全員が子分、というのは話を盛っているとしても、何人かにお金を・・・。そうなると森川君は少しかわいそうな子に思えて来る。
 いや大丈夫、田中君が良い子だから支えてくれることだろう。


2015/02/18

「美女と野獣」感想


 ディズニーが一連の王道おとぎ話の実写化で「美女と野獣」をやる前に、フランス製実写映画を作れたということが大きいと思う。ディズニーが取り組んでいるようなおとぎ話の現代化というか、セルフ・パロディとも言えるアレンジなどは一切見せず、「美女と野獣」そのものを忠実に映画化していると思う。
 ヴァンサン・カッセルが呪いを解かれた後もどこか野獣っぽいところが良い。ぼくはずっとディズニー版でお馴染みの「呪いを解かれたらどこにも野獣要素のないハンサムになってしまう」というオチが釈然としなかった。呪いで変わり果てた姿にされていたのだから当然なのだが、それでもベルが心を寄せた野獣の姿がすっかり消えてしまうのにも関わらず、ベルがハンサムな王子と喜んで結ばれるというのはどこか腑に落ちない。コクトー版の「容姿が入れ替わるオチ」もとても不条理なのだけれど。
 だから野獣のときも人間の面影があり、人間になっても野獣の面影が残る今作の王子はとても好ましく、これなら諸手をあげてめでたしめでたしと言える。

「エクスペンダブルズ3」感想


 友達と映画に行くと普段自分1人では観ようと思わない映画を観られるから楽しい。筋肉モリモリのマッチョマン映画なら尚更である。
 これだけ強烈な人達が大勢一度に登場しているにも関わらず、バランスが非常によく取れているのがすごい。そしてその中でもハリソン・フォードがめちゃくちゃかっこよかった。若い頃よりかっこいいのではないだろうか。正式なエクスベンダブルズ・メンバーではないものの、頼もしい助っ人として登場するのも魅力的。普段はスーツを着た管理職で傭兵達とは遠いところにいるが、いざとなると「ええい!俺が行こう」と言わんばかりにパイロットのつなぎに着替えてヘリコプターで駆けつけてくれるというのがたまらない。
 新スタ―・ウォーズでの老ハン・ソロが楽しみである。

2015/02/01

「ゴーン・ガール」感想


 上映期間終了間際の滑り込みで観てきた。このテーマは来月正式に入籍する前に絶対に観るべきだと思った。観て良かったと思う。夫婦という関係について見方が変わったというか、当たり前と言えば当たり前のことを改めて思い知ったのである。

 記事中にも書いた通り、前半はとにかく気味が悪く落ち着かない雰囲気が続く。どのシーンも、なにも不思議なことはない普通の日常風景なのに、どこかわざとらしく作られた雰囲気がそこかしこに漂っている(このわざとらしさの一部が後で伏線にも繋がるのだけれど)。解決編に入るまで登場人物は全員が怪しげでどこか気味が悪いのだが、特にぼくは捜査に取り組む刑事やエイミーの両親に不安を感じた。
 刑事は初登場シーンからものすごい不自然さを見せる。妻がいなくなったというニックの通報を受けてかけつけたのにも関わらず、現場である家の中を見てまわる間ずっと手にコーヒーの紙コップを持ち続けている。それも大きめのサイズで、どこか浮いて見えるのだ。変わったアイテムではないのに、何故かおかしな感じなのである。ただのコーヒーなのに、まるでジョークグッズを手に持って現れたようなおかしさなのだ。
 エイミーの両親には刑事に対するそれよりももっと強い不気味さを感じた。これはただ単にぼくの人の好みなのかもしれないが、この夫妻は一見上品で温厚そうなのに、冷たいものを感じるのだ。その印象もまた、後半の展開の伏線になっているように思う。
 というわけでそういうキャラクターやシークエンスが盛りだくさんで、言ってしまえば全部主人公の敵に見えるのだ。そしてそのニックもなんだかなにを考えているかわからないのだから観ている側としては気持ち悪いことこの上ない。
 要するにおもしろいのである。
 もう一人、嫌悪感というか恐怖を感じたキャラクターがいる。ニックと一緒に記念写真を撮る野次馬の女である。妻が失踪したばかりで憔悴気味のニックがその写真はどこにもアップせずに消して欲しいと頼むのだが、野次馬女は「私の撮った写真をどうしようと自由でしょ」などと吐き捨てて立ち去るのだ。上で書いたような怪しげな人物達の誰よりも、このSNS脳の彼女を恐ろしく思う。正直この台詞が劇中一番恐かったと言っても良い。

 肝心のエイミーは一言に言ってとてもかっこいいと思った。全く関係ないけれど、彼女が口にするキットカットやコーラがとても美味しそうに見える。それまで見せられてきた、ただひたすら気持ちが不安定になっていく展開を突如ぶった切ってくれるシーンでもあるから、とても美味しそうに見えるのだ。誰にも遠慮せず暴飲暴食をしている様もスカッとする。キットカットとコーラが欲しくなった。

 原作小説も読みたくなってきたので、読んだらそれも読書感想を書きたい。

2015/01/29

ペンギン・グッズ


 ほとんど買ってもらってばかりだが、着々とペンギン・グッズが増えている。Suicaペンギンのぬいぐるみは最近のお気に入り。手前のものは通常版で、奥のものがEDWINとのコラボらしくデニム生地で出来ている。坂崎千春先生のイラスト同様の白黒配色ならまだしも、デニム生地となるともはや元の絵からだいぶ離れた印象である。ペンギン・マトリョーシカは安西水丸先生のイラストでもお馴染みだし雑貨店でよく見かけるが、あまりしっかり蓋がしまらない。個体差があるのだろうか、そもそもマトリョーシカというのはそんなにきっちり閉まらないものなのだろうか。一番大きな(一番外側の)ペンギンの頭がパカパカどころか乗っかってるだけである。一番小さいペンギンが卵の殻をかぶってるのが可愛い。そしてこの中で唯一の実用品、ポットは最近よくお湯を飲むので頻繁に使っている。ペンギンは実用品のデザインによく合うので、ほかにもいろいろ使ってみたい。
 可愛いポットも手伝ってお湯が美味しい。とにかく美味しい。なにより暖かいので安心する。お湯の飲み過ぎで味のついている飲み物が重く感じるくらいである(それでも時折コカ・コーラを口にすると美味しい)。ただあまり飲み過ぎると身体に必要なものも流れ出てしまうので注意が要るらしい・・・。

2015/01/22

瑞丸、マリコ先生に会う

「日記を書くと自分の世界が持てる」とはコラムニストの山崎まどか先生の言葉である。そのことからもブログでの日記を続けたいと思うし、ノートに書く極めて個人的な日記もできれば続けたい。たとえ間が何日、何週間空いてしまおうと・・・。
 この日は下北沢の書店「B&B」で開かれた山崎まどか先生と山内マリコ先生のトークイベントに行った。意外にもマリコ先生にお目にかかるのは初めてである。普段からメディアでその可愛らしい容貌は存じ上げていたけれど(週刊文春の連載においても先生の似顔絵を描くこともしばしば)目の前でしゃべっている姿を見てやっぱり可愛い人なのだなと思った。マリコ先生と言えば顔文字である。メールはおろか年賀状にすら顔文字が書き込まれているのを見て、普段からあまり顔文字を使うことが出来ないぼくは(どういうタイミングでどういう表情のものを使えばいいのだろうか)、こんなに顔文字を使いこなす人がいるのかと驚いたものである。マリコ先生はその適度なきゃぴきゃぴ感がとても良いのです。
 トーク終了後に著書へのサイン会が開かれ、ぼくは一緒に行った彼女と並んでサインをお願いしたのだけれど、彼女から先生に本を渡して挨拶したものだから、彼女がファンでぼくは無理くり連れてこられた彼氏だと思われたらしい。けれどすぐにメモしたこちらの氏名を二度見して驚き、隣で別のお客さんと話しているまどか先生の小脇をちょんちょん突っついて知らせようとするマリコ先生。こうして初対面を果たしたのである。
 サインに添えられたメッセージにも、やはり顔文字が書き込まれていた。
 この日はトーク中に朗読会も開かれた。アメリカの書店ではよく行われる朗読会。お二人がご自分の著作の朗読をするのを聴いて、やはりぼくはもっと朗読会に参加してみたいなと思った。小学生の頃から本の読み聴かせが大好きなのだ。作家先生の朗読会を本の読み聴かせと並べてしまっては失礼かもしれないけれど、朗読を聴いているときの「お楽しみな」感覚は小学生のときのあの感覚に似ていると思う。


↑かなりうろ覚えです。。。

2015/01/10

【営業報告】月刊連載のお知らせ


 あけましておめでとうございます。早速ですが新年最初の営業報告です。
 とうとう単独連載をいただきました。普段描いている読書感想「秘密図書館」シリーズと同じスタイルで誌面に載せていただきます。手書き文字の記事が誌面に載るのは少し緊張します。絵だけでなく、文章もちゃんと書けるようにしていきたいです。
 第一回は小手鞠るいさんの「アップル・ソング」をテーマに描かせていただきました。是非ご覧いただければと思います。来月以降もお楽しみに!

2014/12/31

2014年まとめ

 今年は特に重要な年になったと思います。なんといってもたくさんのお仕事をいただくことができ、少し自信がついた年になりました。年明け早々新たな住まいに引っ越し新生活を始めるとともに、春に週刊文春の連載挿絵のお話をいただき、その後もさらに新しい連載の準備やTV番組のお手伝いをして充実した日々をおくることができました。特に冬になってからはなんと、大好きな「スター・ウォーズ」の解説番組に関わらせていただき感無量でした。幸運なことに、そんな2014年は大好きなバナナマンのお二人の連載に挿絵を描かせていただくというお仕事で締めくくりとなりました。大変うれしいです。
 年明けにも早速新しい営業報告ができるかと思いますのでそちらもお楽しみに。
 仕事以外の私生活では秋頃に婚約して婚約指輪を買いました。仕事が増えると同時に買うものの値段も少々上がってしまいましたが、とても楽しいです。来年入籍する予定です。
 来年も何卒よろしくお願い致します。

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」3.撮影現場編


 「古くて、新しい」や「使い古された未来」というようなコンセプトは「スター・ウォーズ」において重要なものとなっています。決してなにもかもがハイテクでピカピカの未来としての宇宙ではなく、「遠い昔、遥か彼方の銀河系」という、とても未来的な雰囲気を持つ世界であるにも関わらず昔話としての性質を持っているところがこの作品の魅力だと思います。
 新作でもその精神は健在で、砂漠に打ち捨てられた数々のオブジェクトはどれもSW的な”汚れ方”をしています。そして、よく目を凝らして写真を観ると、なにか見覚えのある部品が無造作に置かれていたり・・・。
 「スタ―・ウォーズ」シリーズを象徴するようなロケーションである惑星タトゥーインの、新たな面が観られるのが楽しみです。

2014/12/30

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」2.新キャスト編


 マーク・ハミル(ルーク・スカイウォーカー)、ハリソン・フォード(ハン・ソロ)、キャリー・フィッシャー(レイア姫)、ピーター・メイヒュー(チューバッカ)、アンソニー・ダニエルズ(C−3PO)ら旧作キャストも出演すると発表されています(R2-D2役のケニー・ベイカーについては曖昧。R2の登場はもちろん確定していますが。。。)。個人的にはイウォーク族のウィケット役ワーウィック・デイヴィスにも出て欲しいところではありますが、どうでしょうか。
新キャストは若手率が高いですね。その中でクリーチャーを演じたら右に出るものはいないアンディ・サーキスや、スウェーデン出身のベテラン俳優マックス・フォン・シドーが際立ちます。「フラッシュ・ゴードン」の映画化権を得られなかったジョージ・ルーカスが代わりに「スタ―・ウォーズ」を構想したという経緯を考えると、1980年の映画版「フラッシュ・ゴードン」にてミン皇帝を演じたフォン・シドーがSWの新作に出演するというのは、巡り合わせを感じずにいられません。他にも「それでも夜は明ける」のルピタ・ニョングや、ドラマ「GIRLS」のアダム・ドライバーなど若手注目株からも目が離せません。
 そしてなによりメイン・キャラを演じると思われる新人女優デイジー・リドリーが、調べてもほとんどなにも情報が出てこないという本当に文字通り新人さんというところも驚きです。
 新キャストの出演作を全てチェックしたいくらいですね。

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」1.基本編


 「スタ―・ウォーズ」の新作公開まで1年をきりましたね。またリアルタイムでSWを楽しめると思うと(しかも今度は全くの新作だから展開も読めない!)うれしくて仕方ありません。わくわくしておさまらないこの気持ちを、こうして記事にすることで紛らわせたいと思います。新たな情報が入り次第まとめますので、あまり情報が追えていないという方の参考になればと思います。

「オリーブ少女ライフ」感想


 雑誌の号とともに自分の人生を振り返るができるなんて、とても羨ましいです。
 ぼくも雑誌を買うことはあったし、高校生の一時期何ヶ月か続けて買って読んでいたこともあるのですが、学生ならではの金銭的な事情やそのうち興味の無い特集(これもその年頃特有の好きなこと以外への無関心さのせい)があったりして、そのうちに買わなくなってしまい、これはという表紙や特集の際にたまに手を伸ばす程度になっていました。
 山崎さんのツイート等を追っているとたびたび「オリーブ」という雑誌が登場します。一体どんな雑誌なのだろうと気になっていました。復刊したのさえ00年代の前半ですから、当時小学生中学年だったぼくがどうしたって読み得ないもので、そう考えるとぼくにとってとても遠い雑誌でした。年代と性別、二重に遠く感じたからこそ、なんだか羨ましくなってしまいました。
 ある年末に実家に帰った際、母親から「オリーブ」の切抜きを何枚かもらいました。雑誌そのものは母も持っていなくて、その切抜きだけが「オリーブ」の手がかりでした。けれどすぐに、なんとなく母が好きそうなものが詰まった雑誌らしいということがわかりました。それなら当然ぼくも好きになれるものであることは間違いない、と思うものの、もうリアルタイムでは読めない雑誌なんだなと思うと残念でした。
 「オリーブ少女ライフ」を読んだ後、神保町の古本屋で「オリーブ」を漁りました。作中に登場する号はなかなか年代が合わず見つけられなかったけれど、山崎さんがコラムを連載していた復刊版「オリーブ」は比較的新しいためか豊富に揃っていて、その第一号を買って帰りました。
 読者だった山崎さん自身が後に復刊した「オリーブ」に連載を持つという、憧れに近づいていく印象的なエピソードは作中でも山場として語られ、いかに喜ばしいことだったかも文章からわかります。けれど、先日青山ブックセンターで開かれたトークショーにおいて山崎さんは、大好きなオリーブに連載を持てて幸せ、良かった、というような話で終わらせるつもりはなく、そのあとに「オリーブを卒業する」という章で締めくくったと話していました。
 ぼくもここで語られている「オリーブ」のような雑誌に出会えたらいいなと思います。イラストレーターとしてはやはりもっと雑誌の誌面で仕事がしたいですし、来年はなにか雑誌を毎月買ってみようかなとも思います。

2014/12/25

「さみしくなったら名前を呼んで」感想


 「ここは退屈迎えに来て」や「アズミ・ハルコは行方不明」を読んだときにも感じたことですが、とにかく山内さんの描く地方像や別に生まれ育った場所が嫌いなわけじゃないのだけれど、やはりどこか合わない気がして都会へ出て行って自分の可能性を試してみよう、自分の居場所を見つけようとする若者達の物語は、とても他人事とは思えません。生まれ育った地域性やそこで育ったからこそ形成された性格という、大変パーソナルな要素への共感は、真の意味での共感のように思えます。富山(とは明記されていませんが山内さんの出身地であり恐らく作中に登場する地方都市のモチーフ)と千葉の房総では細かいところがいろいろ違うと思いますが(海辺ではありますが港にロシア人が降りてくることはありませんし)、読んでいると「そうなんだよなあ」と思わず口に出して呟きたくなるくらい地方あるあるが盛り込まれています。
 今作では都会への憧れがより浮き彫りにされているように思います。「ケイコは都会の女」や「Mr.and Mrs.Aoki,R.I.P」はものすごく洗練されていて品の良い人達が実は東京生まれというわけではなく、地方の出身だからこそ隙の無い虚飾を身にまとって傍目には優雅に見える生活をしていたという、少し虚しく、なんとなく愛嬌を感じる物語です。実際田舎から出てきた人ほど都会人らしさを意識するというようなことはぼくも身近で目にします。この人、東京の細かい道にやたら詳しいな、いろんなところを歩き回っていろんなお店を知っているな、という人に限って地方出身者です。そもそもぼくも東京生まれの知人が少ないし、東京で生まれ育っている人だって東京の道順に詳しいこともあるでしょう。けれど両者を見比べてみると、前者の方は明らかに必死なのです。まるで東京を吸収しなければ死ぬ!とでも言うかのような必死さで、日々東京の街を勉強しているように見えます。人によっては自分の出身地を小馬鹿にしているなんてことも。これは「人の思い出を盗むな」に登場する語り手の姉ですね。地元を離れた途端故郷を他人事のように嘲笑する。山内さんの書く主人公達は地元地域に対して思うところはあるものの、別に地元が嫌いとか、馬鹿にしているわけではない。だからこそ愛されるキャラクター達なのだと思います。ケイコも川越を誇りに思っています。青木夫妻はどうかわかりませんが、「人の思い出」の姉のような感覚を抱いてはいないでしょう。この二人の場合は地元とも関わらないようにしていたかもしれませんが、同時に孤独故に都会とも対峙していたように思えます。東京を崇拝して田舎を嘲笑するような安易な性格は夫妻を描いた短篇からは読み取れません。
 出身地が謎に包まれ、東京で必要以上に洗練された都会的生活を営むことで逆に地方出身者臭さが出てしまう青木夫妻とは逆に、東京を置いてきて田舎でマイペースな生活をおくる東京出身の人々もわりと多いのではないでしょうか。ぼくの両親もそういうタイプだと思います。都会で生まれ育った人は都会人らしさになどそれほど執着しないのかもしれません。こういった反青木夫妻的な夫妻はぼくの地元にはわりと多かったような気がします。田舎に馴染みながら暮らしながらもあきらかに他の地域住人とは違った趣味の良さを持つ人々。そういった真逆の人々もいることを意識すると、青木夫妻の物語はさらに切なく、二人が愛らしくなります。
 話は戻って、この本の最後に収録されている「遊びの時間はすぐ終わる」もまた共感を呼び起こします。ジャスコに行くことを大冒険のように感じていたぼくにとってここに登場するショッピング・モール「セフレ」にまつわるエピソードは自分の身に起きたことのように思えますし、帰省した際に久しぶりに遊ぶ友達との会話やノリ、温度に明らかな差があり、どこか噛み合ない雰囲気も痛いほどわかります。別に上京して都会人になったつもりもさらさらなく、また上で書いたように「田舎を気に入ってそこで暮らす都会出身の人々」を介して都会を垣間見ていた身としては別に地元を嘲笑したり避けるつもりもないのですが、やはり相手との感覚のズレが大きいことにショックを受けます。18歳まで地元で暮らしてきた中でその感覚のズレはしょっちゅう感じていたのに、一旦上京したことでそれは一層大きくなってしまう。地元の知人の中にはぼくがいずれ戻ってきてこちらで暮らすのだと信じている人もいたりする。もちろん、だからといって「地元うぜえな」という気持ちにはなりません。まとまって休日が出来た際にはまた帰省してタイミングの合う人とは遊ぶでしょう。しかし、もともとの感覚のズレこそが多くの地方出身者を上京させるのです。そして彼らは都会に出ても結局他人とのズレを埋めることができずにやはり孤独になったりします。よく地方から出てきた人が「東京は冷たい」と表現したりするのはそのせいではないでしょうか。それは場所の問題ではなく、自分の性格の問題だったりするのかもしれません。孤独な人が大勢いて皆が曲解した”都会人らしさ”を演じることで、都会は冷たくなるのかもしれません。
 
 

「ペンギン・ブックス 文庫の帝王 A・レイン」


2014/12/22

【営業報告】バナナマンさんの連載の挿絵を描いています


 「バナナイスデー」は毎回その月にどんな「○○の日」があるかをテーマに対談する、「今日はなんの日?」トーク連載です。今号は「12月25日:スケートの日」と、「12月31日:大みそか」がテーマで、それぞれ一点ずつフルカラーで挿絵を描きました。お二人の似顔絵も込みの挿絵なので、もっとお二人の特徴をつかめていけたらいいなと思います。
 これから毎号描いていくので、何卒よろしくお願いします。

2014/12/06

【営業報告】「スター・ウォーズ」のお手伝いをしました


 十代のほとんど(そして今現在も)を「スタ―・ウォーズ」に捧げてきたと言っても過言ではないので、こんなにうれしいことはありません。どんな形であれ、「スタ―・ウォーズ」に関わることができるなんて夢のような話ですが、やはり絵を描くという仕事の上で関わることができて本当に良かったです。バナナマンのお二人も大好きなので、好きなこと尽くしのお仕事でした。「好き」や「憧れ」が仕事に繋がるのはとても幸福なことです。楽しく取り組ませていただきました。
 これからも「スタ―・ウォーズ」を好きでい続けたいと思います。
 そして、好きなものは素直に好きだとアピールしたいと思います。
 「バナナ・ウォーズ」は、来年1月のアニメ「反乱者たち」放送に向けて12月中に全5回放送されるそうです。
 詳しい放送スケジュールはディズニーXDのページをご覧ください。

2014/11/08

動物


「好きな犬」


「好きな猫」


「好きな鳥」

 動物シリーズ。それぞれに振ってあるアルファベットには特に意味はなく、なんとなく古い図鑑風にしたかっただけです。文字を少し入れるだけで引き締まるのではないかなと思った次第です。もともとなにかを同じ画面の中にいくつも並べるというのが好きなのです。あと子供の頃から図鑑は大好きでした。インターネットが家に開通してからは図鑑で動物を調べることはなくなってしまいましたが、綺麗な絵と写真をふんだんに使った大きな図鑑、ちょっと欲しいです。
 少し前まで猫が一番身近で大好きな動物だったのでもっと可愛く描いていたような気もしますが、最近描く猫は意地悪で狡猾そうな顔をしています。代わりに飼い始めたということもあって犬の絵は描いてるだけで楽しいです。小型犬よりは中型から大型の方が好きです。鳥に関してはどちらかというと魚を餌にする水辺の鳥が好きなようです。あるいはオオハシ(画像では「e」)のようにクチバシが極端に大きいやつとか、フクロウのように不格好というか、独特のフォルムをしているやつとか。ハシビロコウ(c)は巷でも大人気の特徴的な鳥です。要するに「普通の鳥」よりこうした変わった鳥の方が好きというわけです。キウイとか鶏も良いですね。
 絵を描くことで自分の好きなものを掘り下げられるのがとても良いです。

2014/11/07

乗り物


「ペンギン航空」


「コンテナ船」


「高速列車」

 珍しく乗り物シリーズです。普通もっと子供の頃から好きになりそうですが今更になってやってきた少年趣味とでも言いましょうか、改めて乗り物って良いなと思えるようになりました。飛行機、コンテナ船、列車、かねてから描きたいなと思っていたものをひとまず作ってみました。また普段のような絵の具での彩色ではなく、一度ペンで描いたものをスキャンして、コンピューターによる着色で仕上げています。
 3枚目の「高速列車」だけは実在の列車です。フランス国鉄の高速鉄道計画の一環として最初に作られた試験車「TGV-001」は、ガスタービンエンジンを動力としており、1972年に非電化の車両では最高速度の時速318kを記録しました。しかし、オイルショックの影響で燃料が高騰すると、TGV計画はガスタービンエンジンから電気式にシフトされてしまうのでした。
 鉄道の絵を描くからには屋根の上のパンタグラフを描きたいと思っていたのですが、このTGV-001は非電化なので当然電線もなければそこから電力を得るパンタグラフもありません。けれど、列車のフォルムの魅力に気付くことが出来ました。ぼくがこの話を友人にすると、ぼくがこうしたメカニックに興味を持ち始めたこと、ガスタービンエンジンなどという言葉がぼくの口から出たことに驚いていました。

2014/09/24

「休み時間」


 できるだけいろいろな生徒がいる感じにしようと思いました。フィクションにおける美少女美少年しかいない教室というのは個人的にあまり共感できないし、教室というシチュエーションが与えてくれるノスタルジーとは違うように思います。幅を利かせているやつもいれば隅っこに追いやられてるやつもいるし勝手なことしてるやつもいれば楽しく遊んでいるやつもいます。フィクションの教室ほど秩序立ってはいないと思います。ぼくの通っていた中学高校のレベルの問題もあるかもしれませんが、教室とはもっとカオスで全員が全員勝手なことをしている場所だと思います。

「フランシス・ハ」(2013年)感想


 家賃と戦わなくてはいけないのはニューヨークも東京も一緒なんだな、と思いました。大都会で暮らす条件ですね。でも家賃のことばかり気にしていると楽しいことを逃してしまうかも。ニューヨークでの生活は楽しそうですが、ぼくも東京での生活をもっと楽しみたいと思いました。
 「ASK ME!」Tシャツをはじめ関連グッズが代官山蔦屋で販売されていたそうですが昨日行ったら終わってしました・・・。

「タイガーズ・ワイフ」感想


 ナタリアやトラとともに旅をした気分になれます。周辺人物のプロフィールの挿話が唐突に入ってきたかと思えば、少しずつそのバラバラのプロフィールがひとつの結末に収束していくところも良いです。