2015/10/06

【営業報告】SPUR11月号他


・すっかりお知らせするのが遅くなりましたが、「SPUR」11月号にて挿絵を担当した「ヤング・アダルトU.S.A.」の特集ページで、イラストカットを描かせていただきました。フルカラーです。
http://hpplus.jp/spur/magazine/new

・ポプラ社の文芸PR誌「asta*」11月号の読書レビュー連載「秘密図書館 in asta*」では山内マリコさんの「東京23区」を取り上げさせていただいております。
http://www.webasta.jp/asta/

・ぼくのウェブサイトの作品集はTumblrブログを使っているのですが、このTumblrページをTumblr公式の注目イラストレーター枠に加えていただいております。
https://www.tumblr.com/spotlight/illustrators

・さらに同じページを注目の映画系ブログ枠にも入れてもらっています。ひとつのTumblrでふたつのジャンルに加えていただき大変うれしいです。映画イラストを描く人間として認識してもらえるのも大変光栄です。もちろん他にもいろいろ描いていくつもりです。
https://www.tumblr.com/spotlight/film

2015/09/23

台湾というところ


 9月13日から16日までのあいだ台湾旅行に行っていた。生まれて初めて自分の国の外(大した距離ではないのだけれど)に出たわけだけれど、思えば列島本州からも出たことがなかったのに、九州や沖縄をすっ飛ばしていきなり台湾までひとっ飛びとは、自分の中ではすごいことである。
         
(九份のお茶屋)

 まず台湾はとても暑いところだった。日が出ている間はとても活動的になれない蒸し暑さである。ぼくは日本も相当蒸し暑いところだと思っていたのだけれど、そんなことはなかった。台湾からやってきた人が、東京は乾燥していると言っていたので首をかしげたものだけれど、なるほど台北はもっともっと蒸している。それに日差しは東京のそれとは比べ物にならない。日中が暑いせいか、お店は大抵夜遅くまで営業しているらしかった。そして地下鉄の始発は朝6時と少し気持ち遅めだ。そういう他の国の事情というものに直接触れるのも初めてだったので、やけに興奮した。気温だけでなく、匂いや味も新鮮だった。どこもかしこも馴染みの無い匂いでいっぱいだ。食べ物は知らない味がする。今や東京ではいろいろな国の食べ物が口にできるというけれど、やはり現地で食べるのは違う。そこの空気の中で食べるその味は全く馴染みのない、知らないものだった。自分の舌に合うのかどうかもよくわからない未知の感じだった。

(茶館の南街得意)
 
 金銭感覚の鈍りには困ったものだった。海外にきている興奮もあってやたらと使ってしまったように思うが、そんなことは気にするべきではないだろう。それでも物価の感覚が微妙によくわかっておらず、あとでよくよく考えてみるとずいぶん高いところで飲み食いしたものだと思った。我ながらビンボーくさい。しかし、「200元」といった値段を見て頭の中で約4倍して日本円をつけるというような作業もぼくには大変新鮮だった。外国に来ているという感じ。セブンイレブンやファミリーマートといった馴染みのあるコンビニでも、なかなか勝手の違うところがあるのはおもしろい。犬の散歩をしていた人が犬を連れたまま入店しているのもちょっと衝撃的だった。


犬といえば、台湾ではひと昔前の日本のように繋がれていない犬がうろついている。ガイドブックでは確かに紐に繋がずに散歩をすると書いてあったが、これはもう散歩どころの話ではない。要するに以前の日本と同じ感覚で、犬が猫と同じように自由に歩き回っているということ。多少危険もありそうだけれど、これはこれで開放的な画に見えた。この写真の子、野犬同然にうろうろしているくせに尻尾をお洒落にライオン風にカットしてもらってるのがかわいい。
 好きに歩き回る犬を見てわかるように、人々や街そのものもどこか開放的に思えた。マナーはうるさく啓発されておらず、大抵のことはその人自身の自己責任となっているような感じ。だからみんな自由に過ごしているように見えた。もちろん、住んでみたら違うのかもしれないけれどね。東京に比べたらだいぶあけっぴろげに見えたってわけ。


 一番印象に残っているのはスクーターの多さ。自転車に乗っている人を見つけるのが大変なくらいみんな原付に乗っている。ボロボロのものからピカピカなものまで、老若男女問わず、子供や愛犬まで乗せて様々なスクーターが(大型のバイクはあまり見なかった)道路を大挙して走っている。信号を待つ際には車よりも前にあるバイクの停車スペースにみんな集まる。だから信号が変わった途端ものすごい数のバイクがいっぺんにぞろぞろと道路を走り出すわけだ。結構迫力があるし、それらの流れを見ているだけでも楽しかった。
 異様な蒸し暑さと強い日差し、開放的で独特の雰囲気、初めて嗅ぐ匂い、古い建物と新しい建物、綺麗な建物とちょっと汚い建物が同じところに詰まっていて、一言には言い表せない魅力でいっぱいところだった。初めての海外旅行、しっかりイラストで旅行記にしたいと思う。そこにいろいろ詳しく描きたいと思っているので、ここでは詳しい日程や観光したスポットなどは省略しておきます。

2015/09/01

ぼくが初めての海外旅行の行き先に選んだのは


 じゃーん、日本国旅券。
 これがあれば国交が正常な国なら世界中どこでも行けるのさ。9月は人生で初めての海外旅行に行く予定である。
 未だ見ぬ外の世界への憧れと同時にやってくる苛立ちについては以前「私が宇宙旅行について思うこと」という散文に織り交ぜて書いた。舞台は近未来、宇宙旅行が誰でも行ける当たり前のものになった世の中で、友人たちが頻繁にそして気軽に宇宙旅行に出かけて行くのを横目に主人公は憧れと苛立ちの入り交じった気持ちでもやもやするという内容。この文章を書いたとき、すでにぼくは人生初となる海外旅行の計画を妻に持ち込み、彼女の賛同を得たところだった。宇宙旅行に想いを馳せる主人公同様、いてもたってもいられなくなったのだ。
 行き先はと言うと、台湾である。かねてから憧れの人達が台北市内を満喫しているのをSNSで見て興味があったし、それほど金額もかからない。とっても近い外国ではあるが、初めての海外旅行には丁度良いと思う。今後少しずつ距離を伸ばしてもっと遠い国にでも行けばいいのだ。最初の一歩には最適な場所だと思うわけ。
 東京で感じている閉塞感を破るきっかけにもなるだろう。最初の一歩が踏み出せればあとはどこにだって行けそうな気がするし、本当に見知らぬ土地で新鮮な気分に浸ってみたい。そうして帰ってきたときに自分の住む場所の良さが改めてわかれば良いと思う。外から見ないと自分がどういうところで暮らしているのかわからないというものだ。

2015/08/31

チューバッカを恐いと感じたとき


 モフモフで頼れる巨漢のチューバッカだが、とんでもない怪力の持ち主で怒らせるとめちゃくちゃ恐いということを改めて思い知るのは「帝国の逆襲」のクライマックスにさしかかるシーン。旧友としてハン・ソロとその一行を迎えて厚遇したランド・カルリジアンは彼らを裏切ってその身柄をダース・ヴェイダーに渡してしまう。結果としてハンは生きたまま冷凍されて連れ去られてしまうが、ランドはランドでヴェイダーの態度や当初の約束と違う展開に不満を露にして反撃を試みる。もちろんチューバッカとレイア姫はカンカンになって彼を責め立てる。その際チューバッカは手錠を外された途端ランドの首につかみかかり唸りながら絞め上げる。初めてこのシーンを観たのは小学五年生だったが、計り知れないチューバッカの力と恐ろしさを単純に恐いと思った。絞められているランドがまたものすごく苦しそうにするのがそれをより際立たせる。チューイが本気になったら人間の首なんてぺしゃんこにねじれちゃうんだろうなあと想像を巡らせたのをよく覚えてる。
 今でも時折巨大な大型犬が散歩しているのを見かけると、あれがその気になったら人間なんてひとたまりもないんだろうなとうっすらと恐くなることがあるが、このシーンのチューバッカを観たときの気持ちと似ている。

ウェス・アンダーソンと犬


 初めて観たウェス・アンダーソン映画は「ムーンライズ・キングダム」(2012年)。雨の日に観たものだから以来雨の日にぴったりの映画に自分の中ではなっている。ボーイ・スカウトがこんなに素敵なものだとは思わなかった。ぼくもボーイ・スカウトに入ってみたかったな(多分現実は違うと思うが)。ボーイ・スカウトの子供たちを使ってミリタリー的な雰囲気を表現するのも上手いと思った。健気だがどこか物騒なんだよね。でも可愛い範囲にうまあくとどまってる。
 犬があっさり、そして無惨に死んじゃうのはどきっとしたな。でもその後で「ザ・ロイヤル・テネンバウムス」(2001年)を観たらやっぱり犬があっけなく死んじゃうシーンがあって、さらに去年「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014年)では猫が馬鹿みたいな死に方をしていた。猫はともかくとして、犬があまり好きじゃないのかなと最初は思ってたんだけど、あの扱いはむしろ好きなんじゃないかなとも思う。それに生きてる間の犬はとても可愛らしく撮られているし。犬好き監督として映画に犬をこれでもかと出しまくるティム・バートンとは愛情表現が違うんだな。いずれにせよ犬の死を経験するのは結構きつく、繰り返し映画の中で描きたくなるほどのインパクトが心に刻み込まれるのかもしれない(ほんとのところはわからないですよ。もしかしたらアンダーソンさん、ほんとに犬嫌いかもしれないし。ウェス・アンダーソンについての書物をまだ全然読んでなくてあの人のパーソナルなところをよく知らないから、いろいろ読みたいんだけれどね)。

2015/08/30

スター・ウォーズ新作メモ 8-9


 しばらくさぼっていたのでまたまとめていきたいと思う。
 少しずつ明らかになっていく情報をメモして想像を膨らませようというつもりで始めた記事シリーズだけれど、ここへきていよいよ新作の内容があまりベールに包まれている状態で無くなったというか、情報の流れが早過ぎて自分の中に落とし込む暇もなければ大して想像を巡らす余地もなくなってきたように思う。当然ながら公開日が近づけば近づくだけ「予想」が意味のないものになるだろう。それでもその日まで考察はやめないつもりだけれど。
表紙を飾った新旧の主人公達の関係は当然気になるところだ。今のところデイジー・リドリー演じるレイという女性が主人公であり、彼女はハン・ソロとレイアの娘なのではないかという情報が一応有力となっている(レイの苗字はまだ明かされていない)。ジョン・ボイエガ扮するフィンはそのサイドキック的なキャラだと推測できるがこれがまたどこの誰なんだかわからない。まあ旧作の身内とは関係の無い人なのだろう。
 マスクを被っているときよりもアダム・ドライバーの素顔が露になっているほうがかっこよく見える悪役カイロ・レンも謎でしかない人物だけれど、ぼんやりした噂だとレイとは兄妹なんじゃないかという説も。これはぼくも結構気に入っている予想で、そのほうが話の展開が燃えるというか、カインとアベル的な構図にもなって良いのではないかなと思う。ダークサイドとライトサイドにきっぱり別れてしまった双子(ハンとレイアの子供が双子となれば、古くからのファンにはうれしいんじゃないかな)の対決。もしかすると一方の能力を両親が高く評価したためにもう一方が嫉妬して暗黒面に走ったのかもしれない(あくまで予想)。
 血縁関係にある人物が悪役というのも実にSWらしい。ダース・ヴェイダーはもちろん言うまでもなく、プリクエル(EP1-3)三部作の方でもドゥークー伯爵は主人公の師匠の師匠の師匠だったわけでこれも擬似的な近親者と言えるのではないか。というか、黒幕であるダース・シディアスの正体は主人公たちに近しい人物だったので、身内が悪役という法則はなんとなく一貫していると言える。ということは新作でもそれが生かされる可能性は十分あるってわけ。
 イラストの方にも書いたけれど、新スノートルーパーは本当にラルフ・マクォーリーのコンセプト・アートの影響が強い。新型Xウィングの姿もまた旧作のコンセプトアートを見慣れているファンにとっては見慣れた形だ。だが残念なことにそのコンセプトアートを半端に真似した感が強い。ボツデザインの流用である上その「真似」なので始末が悪い。良いところもあるのだけれど、ぼく個人としては不満が残る。もちろん実際に飛び回って活躍するところを見るまでは断言できない(映画館を出た後のぼくがこのXウィング大好きになってるなんてことも容易に想像できる)。新作は旧作へのリスペクトが高くそれを尊重するあまりかえって斬新さから遠のいてしまったのではないかという不安もあるが、杞憂に終わると良いな。このあたりの旧作コンセプトアートと新作の比較も記事にしてみたいと思います。

 

 ああだこうだ言いつつもやはり新着映像があるととにかく興奮してしまう。今回は予告編ではなかったけれど、十分新作の内容について想像させてくれる映像だったし、憎い演出やBGMで泣かされそうになった。
 ティーザー第二弾で登場した「現在」のハン・ソロに続いて今回は最新のレイア・オーガナの姿が見られた。もはや小顔で細身(あと巨乳)だったお姫様ではなく、かなり貫禄のある女大将といった雰囲気がある。一説によると今は「姫」ではなく「将軍」の地位にいるそうなのだが、実際はどうだろうか。いくつになってもお姫様でもそれはそれで良いと思うんだけどな。ちなみにぼくはレイア姫すごく可愛いと思っています。
 またかねてからカメオ出演の噂があったサイモン・ペッグが登場し、なんらかの役を演じているのがわかった。「スター・トレック」と「スター・ウォーズ」両方に出られるなんて幸せ者め!カメオとは言えどんな役なのか気になるところ(台詞の無い通りすがりの可能性も十分あるけれど)
 エイリアンのマスク制作の様子が映ることで、今回は着ぐるみエイリアンがたくさん出て来ることがわかる。フルCGのキャラクターが多く登場した前回の三部作へのカウンターだろうか。旧三部作の延長線にある世界を意識しているのかもしれない。そして当然ながら着ぐるみの技術が進歩しているので、目を見張るリアルさがある。質感だけでなく仕掛けの方も精巧になっているので着ぐるみなのにぐにゃぐにゃと表情が動いたりと、よりパワーアップしたエイリアン&クリーチャーを見せてもらえそうだ。
 この映像が憎いなあと思うのは、こうした新型エイリアン制作や表情操作のシーンを見せながら旧作の著名なエイリアンであるアクバー提督とニエン・ナンの登場を示唆するところ。この最新の着ぐるみ技術でアクバーが帰って来てくれるのはとてもうれしい。皮膚の質感もものすごく精巧そうに見えた。モン・カラマリの提督がどういう活躍をするのか気になって仕方が無い。


2015/08/23

【営業報告】キネマ旬報9月上旬号他


 ・「キネマ旬報」9月上旬号にて、9月5日公開の映画「天使が消えた街」(マイケル・ウィンターボトム監督、ダニエル・ブリュール主演)のイラスト感想記事を描かせていただいています。キネ旬ムック・フィルムメーカーズのティム・バートン号を読んで育ったと言っても過言ではないので、憧れの雑誌に載せていただけて感無量です。
テーマとなった映画もとてもおもしろく、記事作りも楽しくできました。普段描いている「秘密映画館」シリーズ同様のスタイルで文章込みのものなので、自分でレイアウトするところなども楽しいです。自分の記事で映画を観たくなる気持ちになっていただければ大変うれしいです。

 ・「CDジャーナル」9月号では、今月6日に発売されたばかりの「ヤング・アダルトU.S.A.」の特集記事にて著者の長谷川町蔵先生と山崎まどか先生の似顔絵を使っていただいております。以前、ノートの片隅におふたりの似顔絵を描く動画をインスタグラムにアップしたのですが、その際に描き上がったものをそのまま採用していただきました。大変ラフなものですが、かっこよくレイアウトされていてうれしいです。

 どうぞよろしくお願いします。

2015/08/22

「日本のいちばん長い日」感想


 クーデターを目論む陸軍将校たちの怒鳴り合いよりも、黙っているだけの役所広司と山崎努の表情の方がずっと迫力がある、くらいにこの二人の重厚さというか渋さというか、かっこいいというような簡単な言葉で表現したくないのだけれど、良い。本木雅弘の昭和天皇もしゃべり方や間の取り方はもちろん物憂げな表情がとても良くて、ラストの玉音放送も再現度が高かったと思う。
 松坂桃李が陸軍部の血気盛んな青年将校役だったが、若干血管がぶち切れないか心配になるほどの怪演だった。降伏に不満を持ち、玉音放送を阻止して戦争継続内閣を樹立させようとクーデターを企むわけだけれど、最初のうちは表情があったのが、事態が深刻化して後戻りできなくなるにつれて無表情となり、「戦争継続」ただそれだけを念頭に完全に作業の目になってしまっているのが恐ろしかった。
 国民全員を特攻させれば勝てるとか、最後のひとりになるまで徹底抗戦するとか、そんなことになったらそもそもの国が滅びるのはわかりきったことなのに、もはや誰もがなんのためにそんなことしているのかわからなくなり思考停止しているような様子が、あの怪演とも言うべき演技から伝わってくるようだった。それだけの狂気を感じさせることができるのはすごいことだと思う。
 特別出演で戸田恵梨香が出ていて、NHK放送局員としてちらっと活躍する。レトロな髪型が似合っていてとても可愛い。他にも松山ケンイチがカメオで出ていた。
 ところで皇居の侍従のひとたちの描き方はあんなんで良いのだろうかと思ってしまったり。けれど深刻な空気の中でのコミック・リリーフ的な役割だと思うし、コチコチになってしまっている軍部強硬派との対比とも言えるんじゃないかな。いずれにせよ玉音盤を一晩守り抜いたのはあのひとたちなので、彼らもまた重要な人々と言える。
 1967年の岡本喜八版も観たくなった。旧作の英語タイトルが直訳で「JAPAN'S LONGEST DAY」であるのに対し今作は「THE EMPEROR IN AUGUST」と、昭和天皇に重点が置かれているところも興味深い。原田監督のインタビューで旧作での天皇の扱いに不満だったことも言及されているので、旧作とは違うところに焦点を置いた作品となっているのだろう。旧作を観て比較してみたいと思う。

「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」感想


 新しい特撮映画として話題だった実写版「進撃の巨人」(前編)。確かに防壁からぬうっと顔を覗かせる巨人の画(原作でも象徴的な構図)は、昭和29年の第一作「ゴジラ」でゴジラが山の向こうから頭を覗かせたときの印象的なシーンに通じるものがある。「ちらっとだけ見えた恐さ」とでも言おうか。結局この大型巨人は全身が映ることがないので、得体の知れなさはゴジラ以上に際立つ。というか出て来る巨人は全部得体が知れないのだが。
 コミックの実写映画化として新たな手本を提示できた作品ではないかとも思う。再現が難しそうなキャラクターを映画独自のものに置き換えたり、舞台設定を原作からかけ離れない程度に、けれどより現実的で実感のある雰囲気にしたりと、いろいろな工夫が随所に見られる(現代兵器が放置されて風化している様子から未来の世界だということがわかるけれど、ああいう仕掛けが個人的にとても好き)。原作への脚色と省略のバランスがうまく取れてこそ、良い映画化作品だとも思う。
 ぼくは原作の調査兵団の制服が体型を選びそうなぴたっとした線で好きじゃなかったのだけれど、実写化するにあたって普通のサイズ感の服になったので良かったなと思った。原作のままだと体型と年齢によって全然似合わないと思うし(日本のコミックやアニメにはありがちなことで個人的にはどうにかして欲しい)。ブーツが魚屋さんみたいなのは変わらないけれど。そして長谷川さんはなんでも似合う。画になる。でかい。かっこいい。
 後編が大変楽しみ。一体どんなふうに終わるのか。件の大型巨人が戦うところがはやく観たい。

2015/08/21

「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」感想


 MCUフェーズ2の総決算「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」。前作「アベンジャーズ」後を描くフェーズ2作品である「アイアンマン3」や「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」などの影響が強く生きているので、この2作を観た上で本作を観るとより楽しめると思う。「アイアンマン3」ではトニー・スタークが宇宙人や超人といった未知の異能者たちへのコンプレックスから、パワードスーツを作り続けるという科学技術による抵抗を試みるが、そんなトニーの心配性が本作のタイトルロールにして悪役である人工知能ウルトロンを生み出すことに繋がる。また、秘密結社ヒドラが世界各地で暗躍し、アベンジャーズの本部である国際機関シールドの崩壊といった舞台設定は「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から引き継がれている。
 本作はフランケンシュタイン的な作品だと思う。ウルトロンは強い創造主コンプレックスを持っているし、終盤にかけて活躍するもうひとりの「人造人間」であるヴィジョンはソーの雷パワーでエネルギーを得て誕生するなどものすごくフランケンじみている(額の盛り上がりなどもちょっとボリス・カーロフっぽいのでは?)。ウルトロンは人類こそが取り除かれなければならない地球の脅威だとしてその滅亡を目論むが、生命を肯定するヴィジョンはウルトロンを食い止めて人類を救おうとする。これは現代版フランケンシュタインの怪物と言えるのではないだろうか。
 ところでダニー・エルフマンの音楽が素晴らしい。少し大袈裟すぎるくらいのテーマ曲や物悲しいトーンの曲など、彼の音楽とアメコミ映画は非常に相性が良いと思う。ティム・バートン版「バットマン」やサム・ライミ版「スパイダーマン」ですでにDCとマーベル両方のヒーロー映画に名曲をもたらしている彼が、さらに伝説を上書きしたと言える。特に「アベンジャーズ」みたいな作品には大袈裟で壮大な曲が似合う。
 ああ「アントマン」楽しみ。


2015/08/14

デスク周り


 机に一段高い棚板がついているのだけれど、多少の画材が置かれているのを除けば完全に趣味空間になってしまっている。本来こういうスペースは書籍や道具を置いておくためのものではないだろうか、オモチャ類は「多少」飾ってあるのが洒落ているのではないかなど気になるところはあるけれど、思うままに突き動かされて飾ってそれで楽しければ良しとしましょう。ちなみにこの景色を正面に仕事をし、背後には本棚がある。この本棚も半分以上はもちろん本がおさまっているが3分の1くらいはトイが占領している。これでいいのだろうか。けれどそれじゃあどこに飾るんだと言われれば、やはりこれらのコレクションのためにある程度のスペースを割くしかないのだろう。ぼくは好きなものに囲まれて暮らすのが好きなのだ。
小学生の頃、映画における特殊効果(もはやこの言葉が古く感じる)で有名なILM(インダストリアル・ライト&マジック。ルーカスフィルムのいち部門)のメイキング・ドキュメンタリーを観ていたら、そこで働くクリエイターたちが各々のデスクに好きなキャラクターのフィギュアやステッカー、ポスターなどをいやというほど飾っている様子を映し出されていて、それに大変憧れた。クリエイティブな仕事をするからにはデスクをフィギュアで飾り立てないといけないのだなと子供心に思ったものだ。けれどあれはごく自然なことなんだよね。エイリアンやモンスターのデザインをしている人達が壁にそれらのイラストや参考資料を貼付けるのは普通のことだろうし。
 当時はパソコンのモニターがブラウン管で立方体だったから、分厚い枠や側面にステッカーやメモを貼り放題だったらしいが、パソコンは薄いのが当たり前の今日では画面の枠にポストイットやステッカーを貼ることができないのが少し寂しい。もちろんあんな馬鹿でかいパソコンなどご免だけれど、ノートパソコンの蓋表面にステッカーをべたべた貼るのとは少し違う。ある程度面積のある画面の枠にいろいろ貼っているのが魅力的なのだ。
ともかく、あまり見苦しくならない程度にいろいろ飾り続けたいと思う。

2015/08/13

行く手に猫の集会あり


 うちの犬は野良猫に襲われた経験がある。それなのに、未だに懲りていないのか道で野良猫と遭遇すると威勢良く吠えてからもうとする。猫の方は突然吠えられたことに驚きと怒りで背中をアーチ状に盛り上がらせて目を見開く。大抵の場合は犬の方を引っ張って猫がぶち切れて飛びついてこないうちに退散するのだけれど、行く手に猫の集会などあったときにはとてもじゃないが犬だけで通過はさせられないので、図のように抱きかかえて通るわけさ。そういうとき猫はなんだかとても妙なものを見る目で追ってくる。

EWOK KEEPING


 「ジュラシック・ワールド」早く観たい。主人公の恐竜飼育員が、手なずけて調教した恐竜を手で制して言うこと聞かせるシーンのパロディが各国の動物園飼育員のあいだで流行ってる(#prattkeepingでツイッター検索!)ようなので便乗。クリス・プラットは現代におけるハン・ソロ的な雰囲気があると思う。「レゴ・ムービー」や「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」で男の子の心を掴んだと思ったら今度は恐竜ランドのヒーローに。あっという間に少年たちのヒーローになちゃったな。

KEYPERSONS IN WW2


 終戦記念日も近いので、WW2のキーパーソンたち。
 何故か歴史上のこういった人物たちは映画のキャラクターよりある意味描きがいがあるのだけれど、何故だろう。皆特徴的な顔をしていて描き易い。映画や本を通して知る人物も多いせいか、ぼくの中ではキャラ的なのだ。
描くことで勉強にもなった。モントゴメリーさん(一番左下のパットンの上)とかよく知らなかったし。ラストエンペラー愛新覚羅溥儀をプーイーということも知らなかった。描くことで新しいことを覚える感覚はとても心地良い。
 何人描こうかとかはあまり考えていなくて、適当に描いてあとで配置しなおしてまとめようと思っていたのだけれど、描くだけ描いてまとめてみたらちょうど25人で、4人×5列に綺麗におさまってうれしい。
 個人的にはルーズベルトが一番うまく描けたと思う。いろいろ仕事を通して人の顔を描くことに慣れてきたかもしれない。コツがつかめたというか、目描いて鼻描いて。。。
 特にオジサンはうまく描けるのだけれど、若い男性がまだね。。。

HEROES FROM AVENGERS

 
本編の感想よりも先にキャラ絵を描きたくなったので。
 「マッドマックス」の感想のときにわかったけれど、キャラクターをちゃんとその色で塗る必要はないんだな。場合によるけれど、一色で塗るとパリッと鮮やかになってなかなか良い。多用すると飽きそうだけれど、手法としてモノにしたい。
 今作で一番気に入ったキャラクターは新たに登場するヴィジョン(中央)。マントに全身タイツ、おまけにおでこからレーザー出すあたりレトロな感じでとても良い。

2015/08/03

「ヤング・アダルトU.S.A.」(長谷川町蔵・山崎まどか共著/DU BOOKS)にイラストを描かせていただきました




 8月6日木曜日にDU BOOKSより発売となる、長谷川町蔵先生と山崎まどか先生の共著「ヤング・アダルトUSA」にイラストを描かせていただきました。表紙にも使われています。多屋澄礼さんも挿絵を描かれています。
 ブルーとイエローが印象的な本ですが、ぼくが今とても好きな二色なのでうれしいです。ブックデザイナー藤田康平さんの手によって挿絵も元の絵よりずっとかっこよくなっていると思います。感謝しきれません。

 映画、ドラマ、小説など、ポップカルチャーからアメリカのティーンエイジャー文化を紐解き、「アメリカの思春期」について著者のおふたりが語るという内容になっています。
写真左下のブルーの栞がディスクユニオン、その上の「ブレックファスト・クラブ」の絵柄の栞がタワーレコード購入特典、缶バッジはSHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS限定販売です。
 8月7日金曜日には、ブックファースト新宿店にてイベントが開催されます。
 http://www.book1st.net/event_fair/event/page1.html



***

 美術学校に通って二年目くらいの頃に渋谷パルコの地下の書店で、「ハイスクールU.S.A.」という本を見かけた。すでに著者である山崎まどか先生と長谷川町蔵先生の存在を知っていたので、著者名から注意を引かれて手に取ったのだけれど、その内容はぼくの憧れていた世界に関しての細かな解説だった。
 ぼく自身が中高生だった頃、とにかく海の向こうの同年代たちに憧れたものだ。それは恐らく、純粋な興味からというよりは、自分が置かれていた閉塞的かつ退屈な環境への反動のためだったと思う。ティム・バートンなどの映画を通して、どうやら向こうの学校生活には黒ずくめの悪趣味な除け者がいるということを知り、そいつらはもしかすると自分と同族なのかもしれない、と心の拠り所にし始めたのがきっかけだと思う。その反面、ディズニー・チャンネルで見るような原色と解放的な雰囲気に彩られた活発な同年代たちにもどこか魅了された。クラスメイトたちが夢中になっていたJポップに全く共感できなかったがためにアヴリル・ラヴィーンを手始めに洋楽に亡命したのも、ある意味ではありきたりな通過儀礼のひとつだったと思う。
 黒ずくめの連中、いわゆるゴス。これはぼくに「ぼくみたいなのはひとりじゃないんだな」という安心をもたらしてくれたのだけれど、やがてジョックスとかブレインとかギークとかナードとかいう用語も知った(今思えばこれらの用語を日本に紹介したのも長谷川先生と山崎先生なので、すでに最初からぼくはふたりの影響下にあったということ)。同じような立ち位置のやつらは日本の中学高校にもいたけれど、はっきりとクラスメイトたちにラベルが貼ってあるのが新鮮だった(もちろんあんな日本よりもきつそうな階級制度のある教室で生き延びる自信なんて無いのだけれど)。そして、「ハイスクールU.S.A.」にはその分類がイラスト付きで詳しく解説してあって驚いた。なんとなく言葉を聞いたことがあったけれど、イラストがついているだけで俄然イメージが具体的になり、ひと目でアメリカの学園生活がわかるような気さえした。
 いつかこういう本にこういう絵を描かせてもらえたらいいなあ、とイラストレーターとしての仕事についてぼんやりとしかイメージしていなかった専門学校生は思ったのだった。
 けれどまさか4年後にそれが実現するとは思わなかった。同じふたりの著者と、さらに前の本よりも一歩先を行ったテーマ。この感動と喜びを言葉にするのは容易ではなく、むしろどんな言葉にもしたくないという気持ちがあるけれど、ただただうれしい。点と点が結ばれていって今に至っているという感覚もとても感慨深い。

 この夏の読書にお手に取っていただければと思います。

2015/07/16

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」感想


 全編カーチェイスのディストピア冒険物語とでも言いましょうか。スピード感が爽快であるとともに、余計な説明が無いというか、すんなりその世界観に引き込まれる。キャラクター造形も重厚でありながらわかりやすい。それでいていろいろと分析の余地がある楽しい映画です。3DIMAXという環境にぴったりの映画でした。またああいう設備で映画を観ると、映画がただ観るものから体験するものに変わりつつあることがわかる。映画体験とはよく言ったもので、この「マッドマックス」も、車と車のぶつかり合いによってはじけ飛ぶ火花や金属の破片みたいなものを無意識に頭を振ってよけたくなる迫力があった。顔をしかめて避けたくなったそのとき、いつの間にか自分が映画の中に入っちゃってることに気付く。
 ディストピアの未来世界というと、ぼくは強くなりすぎた政府が徹底的な管理体制を敷いてる世界を連想するのだけれど、政府なんてものが無くなっちゃって、秩序がすっかり崩壊しちゃった世界もまたディストピアなのだなあと思った。自由すぎる世界もまた危ないんだな。
 キャラももちろんだけれど、いろいろな改造車が出て来るのも楽しい。これまた子供の妄想みたいな車が出てきてヴィジュアルがすごすぎて笑ってしまうくらい。これは確かにレゴ・ブロックで再現してみたくなる。

2015/07/09

「おはなしして子ちゃん」感想


 たとえば「アダムス・ファミリー2」における、キャンプ場でのネイティブ・アメリカンと白人様のお食事会(の劇)をウェンズデーがぶち壊しにした後、ブロンド白人ギャルをこらしめるとどめの一発にマッチを擦って火をつけた瞬間、高らかにアダムスのテーマが流れる。あのときの邪悪な高揚感に似たようなものを、この本を読みながら感じた。ブロンドギャルをこらしめるお話ではないけれど、「善良な人々」を戸惑わせ恐怖させる才能を持った人物が登場したり、今までそれほど注目されたこともなかったような「物」程度の存在だったものが突如怪物に変貌して逆襲してくるところなど、ウェンズデー・アダムスの邪悪な笑みが浮かんで来るようでとても楽しかった。
 ホルマリン漬けの動物はぼくもずいぶん恐いもの見たさで観察したことがある。個人的に動物の姿をしているものよりも、「眼球(牛)」というラベルが貼られたガラス円柱の中で異様に大きくてうつろな灰色の球体が浮かんでいるのが恐かった。あの誰も意識を向けず、誰からも手入れはおろか触れられることすらなく忘れ去られた容器の中に、ぼくがよく知っている世界のものとは別のものが潜んでいるのではないかと不気味に思ったものだ。
 同様の理由で藻に覆われてなにを飼っていたかわからなくなった古い水槽なども恐い。田舎の民家の庭にはだいたいあるもので、中を確認することすらなんだか気味が悪くて放置されがちな古い水槽。けれどときどき分厚い藻のベールの中で金魚なのかなんなのか、なにかがぬうっと動くのが見えるのだ。

2015/07/06

「マーベル・シネマティック・ユニバース」/「アベンジャーズ」以降 - 再集結


 先週末から日本でも公開が始まった「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」。ぼくはまだ観ていないので、とりあえず前回の「アベンジャーズ」以降、「エイジ・オブ・ウルトロン」に続いていく「フェーズ2」シリーズ群のまとめです。
 
「アイアンマン3」は「アベンジャーズ」後のトニー・スタークの苦悩を描き、彼自身のキャラクターを掘り下げている。「アベンジャーズ」で数々の異形や、科学では太刀打ちできない未知の脅威を知ってしまった彼は、アイアンマン・スーツに頼るしかない自分の無力さに苦しみ、取り憑かれたかのようにスーツ作りに励む。「アイアンマン」シリーズのテーマのひとつ「作る」がここに極まる感じ。トニーの精神的な面に焦点を当てているためか悪役や戦いはいまひとつ(一作目のジェフ・ブリッジス同様、ベン・キングスレーという名優の雑な扱い)。まあ、一作目も二作目も個人的にはいまいちだったけれど。アイアンマンがアイアンマンたる所以のようなものを今一度確認できる作品になっている。

「アベンジャーズ」のあとでソーとロキ(特にロキ)がどうなったかを描く「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」。地球から故郷に戻ったソーは王位継承者としての仕事に励み、前作の傲慢なドラ息子から優れた次期指導者に大きく成長し、ロキは地下牢で服役中。しかし、宇宙征服を目論むダーク・エルフの出現をうけてふたりは一時共闘することに。同じ頃地球でも宇宙で起こっていることの影響を受けて異変が起き、ジェーン、ダーシー、セルヴィグ博士も奮闘する。前作同様、宇宙サイドの戦いのスケールとのバランスか、地球側のキャラクターがちょっとお間抜けな感じでてんてこまいになる様子が笑える。

「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」は前作「ファースト・アベンジャー」とは打って変わった雰囲気。「アベンジャーズ」後、国のために数々の任務を遂行していたキャプテン・アメリカだったが、アメリカは彼が知っていた戦前戦中のアメリカではなくなっていた。持ち前の愛国心が組織を疑うという発想を彼に抱かせてこなかったが、とうとうキャップは疑問を持ち始める。敵は味方の中にいたのだ・・・。
 「ファースト・アベンジャーズ」では第二次世界大戦を通して無条件でアメリカの戦いを賛美して描いていたけれど、「ウィンター・ソルジャー」では反対にその幻想が通用しない現代のアメリカの暗部を彷佛とさせる。その中で変化になかなか適応できずに苦しむキャプテン・アメリカを描き、彼により強大で複雑な敵を用意している。キャプテン・アメリカの個人的な物語であるとともに、アメリカそのものの変化を描いていると思う。
 
 「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」に関しては個別に感想記事を書いたのでざっくりと。MCUにおいては今のところ「アベンジャーズ」のメンバーと関わりがないけれど、同じ世界観を共有している作品(「アベンジャ―ズ」に少しだけ登場したサノスが登場)。とは言え遠い銀河系の物語なのでなかなかその実感はないけれど。宇宙繋がりで「マイティ・ソー」の世界とリンクがあり、「ダーク・ワールド」のエンドクレジット後には、「ガーディアンズ〜」に登場する宇宙の蒐集家コレクターがソーの手を焼かせたアイテム「エーテル」を預かるシーンがある。MCUシリーズは「インフィニティ・ストーン」という複数のアイテムを巡った戦いが一本の筋になっており、フェーズ1には「コズミック・キューブ」(四次元キューブとも)を巡ってアベンジャーズが戦ったが、この「エーテル」もインフィニティ・ストーンのひとつ。「ガーディアンズ〜」には「オーブ」というインフィニティ・ストーンが登場し、これの争奪戦というのが本筋となる。アイテムによって別々の映画が繋がっていくのもMCUの特徴。

 さて、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開された今、フェーズ2も残すところあと一本となった。これが「アントマン」というまたユニークなキャラクターの映画であり、アリのサイズに縮小して戦うもっとも小さなヒーローの物語となる。
 大変楽しみだが、どうしてフェーズ2はアベンジャーズで終わらずに、このアントマンの映画で締めくくられるのだろうか。そこにはなにか、アントマンの大きさからは想像できないような大きな展開があるはず!

2015/07/01

「トゥモローランド」感想


 確か「イミテーション・ゲーム」の感想で西尾維新先生の「世界は天才に厳しい」という言葉を引用したと思うのだけれど、この映画もまたそれがあてはまると思う。直接的ではないにせよ。ディストピア未来が主流の近頃だけれど、この映画ではこれでもかと華麗な映像美やデザイン性とともに夢のような未来世界を見せてくれる上、ディズニー的ジョークも連発され大変楽しい。
 しかし驚いたことになにかの才能に秀でた者を選んでトゥモローランドに招待し、大多数の一般人にはその存在を隠したままというのは、選民思想ではないかという否定的感想を持った人が多いらしい。まあ他人の感想にはあまり興味がないのだけれど、頷けるところもある。だが、それも踏まえて思ったのは、トゥモローランドは天才が自分の分野に没頭できて、現実世界をより良くするための技術革新をする場所というだけでなく、天才と呼ばれる人々のためのユートピアとしても考えられるのではないかということだ。実際にトゥモローランド建設に関わった歴史上人物たちは皆天才で、テスラ、エジソン、ヴェルヌ、ディズニー、アインシュタイン・・・明言はされていないがロケット的ガジェットが登場したり、ディズニーランド内のトゥモローランドにも関与しているためヴェルナー・フォン・ブラウン博士などもそこに加わっているはずで、史上に登場する天才的人物はだいたい関わっているのではないか。そしてその目的は、明日を創るための技術を研究するところであるのと同時に、「才能」を現実世界の抑圧から守るためなのではないか。
 そりゃ、才能のある人のための場所だから選民思想的なのは当たり前である。けれど、それを完全に悪いことだとはぼくには思えないのである。その才能故に孤独に生きるしかなく、時代や世界のせいで不遇な運命を辿った人がいるのは、「イミテーション・ゲーム」のアラン・チューリングを見てもわかるはずだ。そう考えれば、大多数の「普通の人々」のほうがずっと選民的と言えないだろうか。才能はときに嫉妬されるし、恐怖すらされるものなのだ。

2015/06/18

「スタッキング可能」感想



  会社に勤めたことないけれど、オフィスって思っていたより楽しそうだなと思った。「スタッキング可能」の登場人物たちが度々思い至るように、そこは学校をそのまま上の階層に(それこそ積み上げられている上の方に)押し上げたような側面があるのかもしれない。各々もちろん責任を持って仕事をしているのだけれど、閉鎖的な空間に人間関係があって、仲良い人、良くない人、しゃべったことない人がいて・・・。
 オフィスに勤める人々のそれぞれの思惑や考えを読んでいるのは楽しいし、全然違ったキャラクターの視点を行ったり来たりするわりには、皆同じことを思っていたりして、なんだほんとは皆わかりあえるんじゃんって安心したりもする。
 色とりどりの付箋、ポストイットのイメージも十人十色な登場人物達のイメージと重なるところがあるかもしれないと感じたので、たくさんのポストイットをくっつけて歩く毛むくじゃらなチームリーダー(もといE木さん)を描いてみた。
 ときどき突如挿入されるシャーロック・ホームズの茶番(行間遊びというのだろうか)も楽しい。

 街頭(実際は公園だが)演説と会話劇で繰り広げられる「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」は声に出して、役になりきって読んでみたくなるリズム感があって、とても好きです。

2015/06/17

「停電の夜に」感想


 別に移民の問題を訴えているような本でもないし、アメリカで暮らすことを悲劇的に描いているわけでもない。登場人物たちはそれぞれの事情で故郷をあとにし、あるいはその両親のもとに生まれ、アメリカで暮らしている。その中で起きる様々なエピソードが淡々と描かれているわけで、それはとても個人的な物語となっている。二つの異なった世界に挟まれた個人的な物語。同時に外から見た、客観的に描かれたアメリカでもあり、インドの姿にもなっている。
 見知らぬ世界で暮らすのは移民の人に限らない。たとえば地方から都会に出てきた人にだって、その喪失感や、馴染みのないところで今までと全然違った生活をしなければならないことがある。なにからなにまで違うから、戸惑いながらもどこかに新鮮さを見出して暮らしていく。
 ぼくは「セン夫人の家」がお気に入り。エリオット少年があずけられたのはインド人夫婦の家で、セン氏は大学教師。夫人は夫のいないひとりの時間にエリオットをあずかることになる。このエリオットというのが母親と二人暮らしで、仕事から帰った母がワインとチーズで夕食にする傍らで宅配ピザを食べるという生活をおくっている現代アメリカっ子なのだが、対してセン夫人はナイーブなインド女性で、いつも故郷に思いを馳せたりアメリカ生活の勝手の違いにひどく戸惑っている人。この二人の交流がなかなかおもしろい。
 セン夫人が勇気を振り絞ってアメリカ生活に慣れようと奮闘するのを、エリオット少年がじっと観察しているふうに描かれている短篇だ。夫人の奮闘がやがて寂しい展開をもたらすのだけれど・・・。
 ところどころに登場するインド料理も字で読んでいてとても美味しそう。
 このあとラヒリが書いた長編「その名にちなんで」は、この短篇集「停電の夜に」に出てきていた要素を全て結集してつくったような傑作なので、また追々感想を書きます。

2015/06/13

「マーベル・シネマティック・ユニバース」/「アベンジャーズ」への繋がり


 今回はイラスト記事での一作ごとの感想は割愛。一本ずつ書いていたら新作「アヴェンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開してしまうどころか、年が暮れてしまう。マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)は一作ごともおもしろいのだが、なにより全体としての繋がりや体系がおもしろいので、その系譜を簡単にまとめてみた。2008年の「アイアンマン」から始まり、ハルク、ソー、キャプテン・アメリカのエピソードが語られた上で、それらは一旦2012年に「アベンジャーズ」へと収束していき、さらにフェーズ2へと展開を続けていく。

 娯楽映画を地で行きながらも、キャラクターの背景をよく描いている。一作ごとがその主役キャラクターのプロフィールとなっており、他のキャラクターの映画とのリンクも随所に盛り込まれている。同じ役者が演じる同じキャラクターが繋ぎ役としてこっちの映画からあっちの映画へと駆け回り、別々の映画でありながら同じ世界を描いていることが伝わってくる。別々の監督が別々に撮った映画たちなのによくこれだけ整合性というか、調和を取れたものだと思う。特にそれまでソロで主演を張っていたヒーロ―達が一同に集う「アベンジャーズ」では、一体どうやって収拾をつけるのかと思ったが、これが綺麗にまとめられている。しっかりひとりひとりに見せ場が用意され(ヒーロー達だけではなく、今まで各映画に繋ぎ役として顔を出していた脇役にさえもだ)、映画観ている間はまるでカラフルなコミックのページをめくっている気分だった。
 もちろん全ての作品に原作者スタン・リーがカメオ出演している(マーベル映画のお決まり。あのじいさん、ヒッチコック気分かよ!)。

 「アイアンマン」は、特に日本の男子達を夢中にさせたのではないだろうか。天才技術者にして大企業の社長トニー・スタークは負傷した自身の身体を支えるためにハイテクなパワード・スーツを制作して着用する。この「自分で作って着る」というところに男子は夢中だ。日本の特撮ヒーローの「変身シーン」に通じるアイアンマンのスーツ装着シーンや、試行錯誤を繰り返してひとり工作に励むトニーの姿はまさに少年そのもの。続く「アイアンマン2」でも自分で黙々とスーツ制作を続けるトニーだが、アイアンマンの物語では「作る」という行為が重要な軸になっているのかもしれない。いずれにせよメカを作るという行為は大変魅力的だ。もちろん戦うシーンも爽快。ロバート・ダウニー・Jrにトニー・スタークというキャラクターが憑衣というか、ものすごくはまってるところも人気の理由。

 「インクレディブル・ハルク」ではすでに科学者ブルースが実験事故で怒ると緑色の巨人ハルクに変身してしまう身体になったその後から物語が始まるところが新鮮。怒りを沈める修行に取り組むブルースだが、どうしても緑色の巨人に変身してしまうという宿命と向き合う。スターク社がちらっと出てきたり、ブルースをハルクにしてしまう実験の元が、第二次大戦中にキャプテン・アメリカを生み出した研究と同一であるところなど、世界観の広がりを感じさせる。小柄なティム・ロスが悪者ハルク化するところも良い。本作でブルース/ハルク役はエドワード・ノートンなのだが、大人の事情で以降の作品では降板。ノートンのハルクは、変身前と後でのギャップが大きいところがよかった。「アベンジャーズ」ではマーク・ラファロが演じるが、この人はすでにごつくてハルクっぽい顔をしている。どちらのハルクも好き。

 「マイティ・ソー」のソーとは北欧神話の雷神トールに基づくキャラクター。ヒーローというかもう神様である。マーベルの設定では北欧神話の神様は別の星から地球に来て巨人と戦った宇宙人ということになっている。身勝手な行動で王国の平和を乱した罪で王である父親に地球へと追放されてしまったソーが、地球で出会った天文物理学者ジェーンたちとともに危機を乗りこえるお話。ジェーン演じるナタリー・ポートマンも、その助手ダーシー役のカット・デニングスもかわいいし、研究仲間セルヴィグ博士役のステラン・スカルスガルドは最近のぼくの推しおじさん。
 神様たちの住む宇宙側の話が壮大なのに対し、地球サイドの物語はとてもスケールが小さい。これまでのMCU映画とは違い、同じ地域から全然離れない。宇宙側のスケールとのバランスのためだろうと思うけど、これがまた良いのだ。宇宙側で大変なことになっているときに地球サイドはものすごくのほほんとしている印象。北欧神話であるためか、監督はケネス・ブラナー。ハリウッドのヨーロッパ人頼み。

 ぼくがMCUで一番好きなのは「キャプテン・アメリカ」。監督は「スタ―・ウォーズ」のスタッフとしてもお馴染みのジョー・ジョンストンで、彼は「ロケッティア」にて第二次大戦中のヒーローというレトロ・フューチャーな冒険活劇をみごと描いてみせたので、同じくナチと戦うキャプテン・アメリカにはもってこい。
 ときは戦時中、身体が弱いがひと一倍優しく愛国心を持つスティーブは徴兵検査におちてばっかりだったが、その精神を買われてスーパー・ソルジャー計画に被験者として参加、超人血清を打たれてひょろひょろだったのが瞬時にめちゃくちゃなマッチョになり(バックグラウンドがちょっと三島由紀夫っぽい)、星条旗に文字通り身を包んでナチスの科学部門ヒドラとそのリーダー、レッド・スカルと戦う。
 キャプテン・アメリカに技術提供をするのがトニー・スタークの父親ハワード・スタークだったりするところに世界観リンクがあっておもしろい。
 最終的に戦いに勝利するも、ヒドラの飛行機で北極に墜落してしまったキャプテン・アメリカは生きたまま氷漬けになってしまい、70年後の現代になって発見されて目を覚まし、アベンジャーズに加わる。ものすごい展開だが時代まで越えてリンクしてしまうのがMCUなのだ。

 そして上記5作で活躍したヒーロー達、そしてちらほらと登場していた脇役達が一同に終結するのが「アベンジャーズ」。果たして戦時中の軍人(超感覚が古くてカタい)、雷の神様(もう人間の存在を超越している)、金持ち社長(プレイボーイで自惚れ屋)、超危険な緑のクリーチャー(怒ったらもう抑止がきかない)といった面々がチームなど組めるのかと誰もが心配。しかも超人たちに加えてスカーレット・ヨハンソン演じる元ロシアの女スパイ・ブラック・ウィドウ(年齢設定がおかしいんだが・・・)や、サミュエル・L・ジャクソン演じる司令官フューリー(実際リーダーシップがあんまりない)、ジェレミー・レナー扮する弓矢の名人ホークアイ(地味)など、「普通の」人間も同じチームなのだからすごい。実際、戦闘シーンになると超人たちがド派手なアクションを繰り返す中、ブラック・ウィドウはハンドガンをドンパチ撃ち続けているし、ホークアイはひたすら弓を引いている。でも適材適所というか、それぞれが全然違う特色を持って互いに補い合うところがアベンジャーズの肝。大変楽しい映画となっている。

 以上。まずは「アベンジャーズ」までのフェーズ1のおさらいでした。「アベンジャーズ」以降、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」に向かって展開していくフェーズ2に続く・・・。

2015/06/10

「アデル、ブルーは熱い色」感想


 この映画に関しては単に「レズビアンを描いた映画」とするには抵抗があるし、あまりそのテーマを念頭に置いて考えたくない。わざわざ同性同士の恋愛というラベルをつける必要がないからだ。この映画で描かれていることは異性同士の恋愛でも普通に起こり得ることなのだし。それでも、終いまで観ると、やはりアデルが根っからのレズではないことも、エマとの間に生じるズレ要因のひとつとなったのだと思う。同性愛かどうかはさほど重要ではなく、彼女はただ、エマという人、鮮やかなブルーの光線を放つエマその人が好きになっただけだったのだろうと思う。

 たとえば、労働デモのシーンとプライド・パレードのシーンの対比。
 前半でアデルの高校生としての暮らしぶりが描かれるわけだけれど、その中に労働デモに参加するシーンがある。仲間と騒ぎたいだけの興味本位で参加しているのか、本当に政治的関心が強いのかは少し計りかねるけれど、見たところ前者としての印象が強い。もちろん、アデルとエマの属する世界や階級(この言葉を使って人間やその家庭をカテゴライズするにはやはり抵抗があるのだけれど)の違いを描いてもいるのだろう。だが、その後になってエマとともにプライド・パレードに参加するシーンではずいぶん違った印象を受ける。アデルは労働デモのシーンほど熱狂している様子がない。イベントの性質が違うので、怒鳴り声を上げることもないのだが、それでもどこか心ここにあらずといった様子でぼうっとしている印象を受けるのだ。ノリきれていないんだよね。
 アデルとエマの違いは徹底的に描かれる。たとえば家庭や進路がそうだし、ボロネーゼとオイスターはその違いのアイコン。フランスでの現実的な格差のことはよくわからないけれど、違いのポイントを探していくのも映画を観る上で楽しいと思う。

 最終的にずっと囚われていたものからふっきれて、前に進もうとするアデルからは力強さと成長のようなものを感じる。十代の終わりから二十代前半というかなり重要な時期を捧げてしまったものから脱却するなんて簡単なことではないのだけれど、誰もが経験することなのかもしれない。アデルの場合、それがエマだったということ。アデル自身がブルーになっていたのが印象的だ。それも、劇中登場したどの時期のエマよりもずっと濃い青をまとっていた。時間の経過とともに、どんどん青くなくなっていったエマとは対照的な姿だが、それはエマとの関係が終わり彼女の影響下から脱しても、自分にとって大切なものは変わらず抱き続けているのだということを表していたのかもしれない。最後はアデル自身がブルーになったのだ。

 ところで、アデルの父親が芸術家志望のエマに「芸術で食べていくのは大変だ」とかなんとか講釈を垂れるのだけれど、美術の道を志す人が、ろくに知りもしない外野から「食べていくのが大変だ」などと無責任な忠告をされてどんなに苛立ちを覚えるか、ぼくは知っている。だからあのシーンでのエマの絶妙な表情には感動した。絶対苛立ってるだろうな、将来が不安定でよく見えないことは本人が一番よく知っているのだから(それでいて相手はあくまで自分の身を案じて言っているのだから、苛立ちをどこへ向ければいいのかわからない)。
 それでもアデルの両親の「レベル」に合わせて、相手にとって都合の良い返事をしてなにごともなく会話を進めるエマを「大人だなあ!」と思った。いやあぼくだってああいう状況でああいったことを言われても憤慨したりはしないけれど。

 未だに判明しないが、アデルのクラスメイトのものすごいつり目の人が気になっている。エマとともに遊びにいったアデルがクラスメイト達からやいのやいのと言われたあとで、アデルを擁護しようとする彼女。この女優の名前がわからないのだ。キャスト名を片端から画像検索にかけてもわからない。ノンクレジットだろうか。わかる人がいたら教えていただきたいです(資料が乏しいので似顔絵がいまひとつですが・・・)。その後アデルの誕生パーティにも来て、リッキ・リーの「I Follow Rivers」に合わせて踊る姿が大変綺麗で愛らしいのです。

 ウーン、生牡蠣が食べたい。ボロネーゼは映画を観た翌日に食べた。
 

2015/06/02

HEROES & VILLAINS FROM THE PHANTOM MENACE


 コアなファンな間では賛否ある曰く付きのエピソードだが、ぼくは好きだ。結局最初に触れたSWムーブメントというのが、1997年の特別篇公開と、それに続く1999年のこの「ファントム・メナス」公開の時期だから、子供時代の思い出と直結しているわけだ。特にすでに小学二年生になっていた1999年の記憶ははっきりとしていて、「ファントム・メナス」はぼくにとって夏休みを連想させる。ムーブメントの時期そのものもそうだが、夏の青い空に似た爽快感がこの作品にはあると思うから。昔からSWを見てきた上の世代がなんと言おうと、この映画はぼく(と同世代人)にとって最初のSWでなかろうか。年長者の口ぶりを真似て玄人ファンぶる気にはなれない(玄人ファンて何だ・・・)。
 突っ込みどころはたくさんあれど、それもまた「ファントム・メナス」の個性と言えるのではないか。いずれにせよSWファンは賛否に関係なく、「ファントム・メナス」について語ることをやめないのだ。その意味でもこの作品はシリーズ中において特別な位置づけにあると言える。

2015/06/01

「シンデレラ」感想


 やっぱり皆が観たいのは後日譚前日譚とかよりも、その物語自体の実写版だと思う。よく知る物語だからこそ新たにアレンジするのだろうけれど、よく知る物語を本物の俳優や映像で観たいのだ。もちろんこの「シンデレラ」に一切新要素がないわけではない。けれど、その唯一挿入されたアレンジ要素が、今までほとんど語られなかったシンデレラの実母との思い出という、ごく自然ですんなり入って来る、本当に丁度良いアレンジなのだ。それ以上変なアレンジを加えていないので、ストーリーの進行も自然で、突っ込みたくなるところもほとんど無い。
 ケイト・ブランシェットの継母も、とても嫌なやつだったが女性としてちゃんと立体化されているようにも思えた。その嫌な性格にも少し含みがありそうだったけれど、それを決して全部語ろうとしないところが良い。あれくらいで丁度良いと思う。継母なりに思うところもあったらしいが、とりあえず悪い奴は悪い奴だから悲惨な最期を迎えなければならない、と「綺麗に」収まっている。
 アニメ版では戯画化されて邪気の無かった宮殿側の人物達も、良い具合に権威や階級に毒されていて、ステラン・スカルスガルドの大公はアニメ版のような道化ではなく、狡猾な野心家として描かれている。こういったところにこそ実写化する意味があるのではないだろうか。本物の生きた人間が演じるのは、元のストーリーをそのままトレースしたり、派手なアクションシーンを取り入れたりするためだけではないはず。生きた人間としてのキャラクターが物語に深みと奥行きを与えてこそ、実写化する意味があると思う。
 特にCG製の妙なクリーチャーが出て来ることもなく(むしろ最新の映像技術で表現されたカボチャや動物が馬車や従者に変身していくシークエンスは素晴らしい)、徹頭徹尾「シンデレラ」を実写化することに努めていて大変好感が持てた。昨年の「マレフィセント」で消火不良を感じた人は満足できるのではないだろうか(そもそも映画のタイプが全然違うが)。
 そういえば、継母の飼う凶悪な黒猫ルシファーも実写で登場したのは個人的に大変うれしかった。



2015/05/21

「インヒアレント・ヴァイス」感想


 劇場パンフレットのデザインがとにかくカッコイイ。パルプ小説のような装丁を意識したようなデザインになっているのだけれど、確かに「インヒアレント・ヴァイス」はパルプ小説的だと思う(パルプ小説を読んだことはないがイメージとして)。やや思い込みが激しくラリラリな探偵ドックは“抜群の”推理力でもって陰謀のコアへと向かっていくが、陰謀に向かっていけばいくほど「それあんたの思い込みじゃ?」とドックに言いたくなるようなところも。本人は一生懸命推理をして点と点を繋ごうとするのだが、どうしても傍目には陰謀説を唱える思い込みの激しい人という感じが否めない(まさにヒッピー)。そのため一体どこからどこまでがドックの推理通りで、どこからが彼の妄想なのかがだんだんわらなくなってくるのだが、そこがまたおもしろい。安っぽい陰謀説に振り回される物語というところがパルプ的なのだと思う。
 ところでぼくの大好きなビデオ・ゲーム「グランド・セフト・オート」シリーズは、そもそもこういう世界を描きたかったんじゃなかろうか(「ヴァイス」という言葉から、ぼくのようなガキはどうしたってGTAシリーズの名タイトル「ヴァイス・シティ」を連想してしまうのだ)。独特の色彩を放つ街や不動産王、凶暴な警官にジャンキー達・・・一癖も二癖もあるどころではない漫画的な奇人達のオンパレードは、このギャング・ゲームでも最も魅力的なポイントとなっている。ロックスター・ゲームスのクリエイター達はピンチョンの小説を読んでいるのだろうか?それとも、こうしたキャラクターの組み合わせはパルプの定番なのだろうか。アメリカの暗黒街を描くにあたって使い古されたアイコン達なのか。
 画面を通して1970年代(のロサンゼルス)を旅行しているような気分にもなる。実際の空気感なんてものはぼくにはわからないが、それでもぼくのイメージ上の、半ばファンタジー的でもある70年代世界がこれでもかと描かれていて、上の世代の人達が頷いているのであればこの映画の世界は70年代の、少なくともその一面を再現しているのだろう。色彩はもちろん、なんだか匂いも漂って来そうで、全編に渡って画面がなんだか煙いというか、観てる途中でフワフワした気分になってくるのは、この映画そのものが危険な中毒性を帯びている証拠なのだろうか。そしてそれはピンチョン文学に通じる危険な魅力なのかも。
 

2015/05/13

TVステーション「バナナマンのバナナイスデー」カットイラスト



 昨年末からカットを描かせていただいている「TVステーション」(ダイヤモンド社)内の「バナナイスデー」はバナナマンのお二人が対談形式でいろいろな話題を取り上げる連載です。活字を読んでいながらお二人のトークする声が聞こえて来るようで楽しいです。結構枚数が溜まったので何枚かピックアップしました。
 誌面全体がビビットな黄色を使ったレイアウトなので、イラストもパキッとした色合いにするべくデジタルで作っています。デジタルは色が綺麗に出てとても良い。

2015/05/11

富山・高岡ドラえもんツアー


 聖地巡礼っていうやつ、初めてかも。ドラえもニストな妻から聞かされるまで藤子不二雄が富山出身だなんてまったく知らなかったけれど、行ってみてわかったのは、ちっとも外に向かってそのことを大々的にアピールしていないということ。空港の名前に使ったりなになにロード、みたいにスポットを作って宣伝もしていない。ほとんど全てを他県にあるミュージアムに譲ってしまっていると言っていい。富山の人の控えめなことと言ったら!その控えめさがとても好きになった。そして、ほんの少しだけあるドラえもんスポットがとても素朴で可愛らしく、どこか洗練さすら感じられて見てまわっていてとても楽しかった。路面電車が走っているだけでなんだかハイカラだが、ドラえもん仕様(しかもなかなかかっこいいデザイン)のやつが走っているなんて近未来感を感じないではいられない。新幹線の紺色と同様、ドラえもんトラムの青と赤のカラーもまた北陸の静かな街にアクセントな差し色を与えていた。
 地図を描いていて気付いたけれど、小学校と古城公園の位置が近い。もしかしてお馴染みの「学校の裏山」というのはこの古城公園のことだろうか。小学校の裏側かどうかはわからないが。藤子不二雄自伝「まんが道」ではF氏とA氏がこの古城公園でああでもねえこうでもねえと悩みながら散歩する(「まんが道」はA氏視点で描かれているので主にうじうじ悩んでいたのはA氏だが)。確かにああいうところなら歩き回っていろいろなアイデアが浮かぶことだろう。思春期のもやもやはなんとなく和らぎそうだし、なにより夜中に宇宙人が上陸したり、内緒で未知の生物を飼ったり、その他友達となにか企むにはもってこいのスポットに思えた。古城公園だけではなく、そこかしこにFワールドの片鱗を感じることができる。もちろんそういうことを意識するからなのだろうけれど。そうやって考えながら歩き回るのは非常に楽しかった。
 ぼくは今ドラえもんの舞台といわれる練馬近辺に住んでいるのだけれど、そういえば住宅地を歩いていると、まさにのび太の家の近所みたいな風景を見かけることがある。都会に出て来るまでアニメに出て来る住宅地や街というのはファンタジーの世界に思えたけれど、今にもあそこの二階の窓から冴えない小学生が顔を出し、外から声をかけてくる友達に渋々返事をしそうだ。普段からドラえもん妄想をしながら歩いたら楽しいかもしれない。面倒な犬の散歩も楽しくなるというものである。
 ところで藤子不二雄のお二人は新人の頃に正月休みでこの高岡に帰ってきて、ほっとするあまりのんびりし過ぎて、抱えていた原稿を全ておとしてしまったというエピソードがあるらしい。それだけ二人が安心してしまうのもわかるような気がする。地方出身者にとって地元というものは総じてそういうものかもしれないが、それでも高岡はやはりのんびりのんびりと時間が流れていてすっかり原稿を落としてしまってもおかしくない安堵感を感じられたような気がする多分(それでも普通落とさないと思うが・・・)。二人がのんびりしてしまうのも無理はないな思ったわけさ。
 ドラえもんとは関係ないが、ほたるいかの味を覚えた。沖漬けやら塩辛やら。そもそもぼくはイカの塩辛が好きなので、沖漬けも黒作りも非常に美味しかった。イカえもんがいればいいのに。
 

2015/05/07

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」感想


 正直1989年の「バットマン」の頃よりマイケル・キートンの表情がとても良いと思う。リーガンと違ってキートンは自分が演じたキャラクターに呪われてなんかいないっていうこと。もともと額が広かったけれど、すっかり禿げ上がった頭が良い味を出している。ブリーフ一枚の姿も何故かかっこいい。
 エドワード・ノートンが演じる役はさながらキートンが演じてきたバットマン映画の悪役に相当するとでも言ったところだろうか。派手でテンションのおかしい悪役の方が注目されてしまうというバットマン俳優の悲しい宿命を感じさせる。バットマン役を二作で降りたキートン同様、ノートンもまた「インクレディブル・ハルク」で演じた緑色の超人役をそれっきりで降りてしまった。「アヴェンジャーズ」をはじめ一連のマーヴェル映画における主要ヒーロー俳優として名を連ねるはずだったが、大量生産されるヒーロー映画に出続けたいとは思わなかったことが理由の一つらしい。この辺はキートン演じるリーガンの方にむしろ近いのかもしれない。こうしてかつてヒーローを演じたものの、現在のムーブメントからは外れた二人が、舞台裏でへなちょこな殴り合いをするシーンはまるで老いた退役ヒーローの切ない決闘に見えたり見えなかったり。
 別にヒーロー映画についてどうのこうのがメインテーマではないので、あまりヒーローヒーロー言いたくないのだけれど、それもまた入り口の一つということで。音楽やカメラワークのことについて専門的なことはわからないけれど、一切途切れることのない長回し風カメラワークは快感すら覚えるし(多少目が回るけれど)、ダダダダンシャアアン、ドドン、ダン、と叩かれるドラム・スコアがかっこいい。映画の中で舞台を観ているような感覚を体験できるのも魅力の一つだと思う。ぼくは舞台というのをこれっぽっちも観たことがないので(パイプ椅子でお尻を痛くしながら観た学生の芝居は別として)少しは舞台を観たいなあと思った。
 エマ・ストーン演じるリーガンの娘のサムの台詞、「ツイッターもフェイスブックもやっていなければ存在しないのと同じ」という言葉もぼくには深く突き刺さった。いつの間にか当たり前のようにインターネットを使っていた自分だけれど、もしもSNSの類や、そもそもホームページすらも持たずに暮らしていたら今頃どんなだっただろう。SNSを使っていると、まるで自分はちゃんと世界から存在を認可されていると錯覚してしまう上、使っていない人をはじめから存在していない人のように扱ってしまう。絵に限らず創作を仕事にしていてもウェブサイトひとつ持っていなければ何も発表していないのと同じ。日々を暮らして生きているということだけで存在していることの証明になっているのに、そもそもそんな証明や承認なんて要らないのに、いつの間にか人に見られていなければ、人に承認されなければいけないと思うようになってしまった。
 けれどリーガンはSNSをやっていなくても、異常な承認欲求に駆り立てられ「役者として認められなければ」と取り憑かれたように評価を気にして、もがき苦しみながら前に進もうとする。リーガンの場合は極端だけれど(とは言え誰でも抱えている欲求なのではないだろうか)承認欲求とは人を動かすために多少は必要なのかもしれない。ほどほどに。