2019/07/22

月面着陸50周年


  7月20日はアポロ11号の月面着陸の日だった。7月20日なんて今までは旧海の日か、夏休みが始まる時期くらいとしか覚えていなかったけれど、50周年ということで去年あたりから話題だったので、初めて月面着陸の日として意識した。10年前はそこまで話題になっていなかったような気がするけれど、そこはやはり今年は半世紀という節目だからかな。10年前と言えばぼくは初めて「エヴァンゲリオン」を観て、そのエンディング・テーマである「Fly Me to the Moon」を気に入った頃だったので、そこからアポロ計画へ関心が向かってもよさそうだったけれど(同年に出たビデオ・ゲーム「ベヨネッタ」でもこの曲がテーマソングで、こちらのアレンジも好きだった)、ぼくが現実の宇宙開発にあまり関心がなかったというのもある。今更という感じだけれど、最近は俄然興味が出てきた。こういうものに遅いということはないだろう。新しい発見についての話も楽しいし、スペース・レース時代も当然おもしろい。昔の宇宙開発のディテールは、そのまま当時のSF観に繋がっている感じがまたいい。ロケットや金魚鉢型のヘルメット、レトロ・フューチャーである。宇宙船ではなくロケットというのがいい。

 上の絵をTumblrにアップしたところ、ひとつコメントが来ていた。そのひとは子どもだった当時、月面着陸の様子を流すテレビの前で月面地図を広げ、アームストロングやオルドリンが降り立った地点を鉛筆で書き込んだりして彼らの動きを必死に追いかけていたという。その紙の上に、そのひとは一体どんな世界を見ただろうか。月から送られてきたあの有名な映像と同じ灰色の世界か、あるいはどこかに怪物がひそんでいそうなミステリアスな黄金の砂漠か。現在の月と地球との通信速度は、詳しいことはわからないので置いておくとして(昔より速いに決まっているが)、少なくとも地球上では場所を越えた同時性というのは行くところまで行っており、どこにいようとなんでもすぐに伝わってくる。そのせいで実際に見てもいないことを体験したかのような錯覚さえ覚えてしまうこともあるのだが、とにかくあらゆる情報が素早く送られてくる。一方、さっきのコメントをしてくれたそのひとは50年前、テレビの前で地図を広げて鉛筆で印をつけることで月との同時性をつかもうとした。地図と鉛筆、それからおそらくは想像力。そのひとは当時のことを今でも鮮明に覚えているらしいが、テレビの前で地図を広げ、ブラウン管と紙との間で両眼をせわしなく行き来させる子どもの姿が、ぼくの目の前にも思い浮かぶようだ。あれくらいの年代のアメリカを舞台にした映画でよく見るような居間の風景。ごついテレビが床からほんの少しの高さのところにあって、子どもたちはうつ伏せになるやら、あぐらをかくやらしてその前に集まり、大人たちはそれを一歩後ろから、ソファか、あるいは食事を載せるためのボードがついた椅子(家族全員がテレビに向いて食事をするという発想がまずすごい)に着いて、子どもたちほど手放しではないにせよ、やはりある程度興奮しながら見ている。情報はのろく限られている。映像もお世辞には綺麗とは言えない。でも、その子には地図と鉛筆があれば十分だった。本当にそれだけで満足だったかはわからないが、満ち足りた時間だったはずだ。

 それから半世紀後、そのひとはインターネット(これもまたソ連との宇宙競争から生じた産物のひとつである)で見ず知らずの日本人が描いた月面着陸のイラストを見る。そいつは人類が初めて月面を歩く瞬間を見た世界人口20パーセントにも入っていないし、アメリカ人でもなければ、1969年に生きてさえいない。一切同時性から外れている、にも関わらずそいつは「偉大なる一歩」の様子を知っており、絵に描ける程度には視覚イメージを持っている。これから50年後にもまた、同じように当時となんの繋がりも持たない人間が同じことをするし、できるはずだ。記録がそれを可能にする。そこに生の記憶や体験はないかもしれないが、それを追おうとすることはできる。月で起きていることと自分を同期するために、地図に鉛筆で印を書き込んだ行為がそうだし、自分が知ることのなかった半世紀前のことを、写真と想像で絵にする行為も同じことだと思う。少なくともその行為自体は生の体験となる。月に行っていない、テレビの前で地図を広げていただけの子どもの体験を、ぼくはものすごくかけがえのないものだと感じたのだから。そうして、60歳くらいになったそのひとはぼくの絵を見て、そのときのことを書いてくれた。この事実だけでぼくには十分である。ぼくにも月面着陸にまつわる思い出がひとつ出来たわけだ。

2019/07/18

ボー・ピープはいつか


 陶器の身体でありながら外の世界に飛び出した彼女が、いつか絶対に確実に必ず割れるだろうということは明白だ。すでに両腕がテープで補修されていることから、その危険とは常に隣合わせであることは明らかで、次も助かるという保証はない。それを踏まえると、彼女が自ら外に出ることを選んだという意味の大きさになにも思わないわけにはいかない。ほかのどのおもちゃたちよりも壊れやすいからこそ、彼女の外の世界への憧れは一層強かったのだろう。少なくとも好き勝手に外で活動できて、多少危ない目に合ってもへっちゃらなウッディやバズとは違う(ウッディなんて所詮身体がぬいぐるみなので、どこかにぶつかってもまず壊れない)。大きなリスクは願望をより強くし、彼女を安全なランプの台座から、危険だが本物の人生へと駆り立て、ほかのどのおもちゃよりもタフにした。弱さをバネに強さを得たのだ。

 ウッディがボーに惹かれたのは、もちろんもともと恋仲だったというのもあるだろうけれど、そんな彼女が外で生きているという事実そのものに、強い衝撃を受けたのではないかと、ぼくなどは思う。テープでとめられているだけで、すでにぽきりと割れてしまっている彼女の腕を目の当たりにした彼は、彼女が常に危険を伴った生き方をしていることを知る。自分がそばで助けなければと思ったか?いやいや、今更彼女には助けなど必要あるまい。多少冒険したことはあっても、所詮ウッディは子供部屋暮らししか知らないし、今までそれがおもちゃにとっての幸福だと信じてきた。外の世界では新参者だ。そうではなく、彼は彼女がいつかなにかの拍子にパリーンといってしまったときに、そばで見届けなければいけないと感じたのではないだろうか。もちろんぼくの妄想だし、場合によってはウッディには陶器の恋人を助けることができる。しかし、繰り返すようだが、いつかは取り返しのつかないことになるかもしれない。そのときに誰もそばにいなければ、ボーはただのゴミとして最期を迎えることになる。

 ゴミ。幼児の工作から生み出されたフォーキーは自分をゴミだと思い込んでいたが、物語を通じておもちゃとしての自覚、あるいは人格を得る。ゴミ同然の素材で作られたおもちゃと、持ち主不在で外で生きるおもちゃは、どちらも一歩間違えればゴミになってしまうという危うさを抱えている。道端に落ちている小さなぬいぐるみのキーホルダーを見かけたことはないだろうか?ぼくはよく見かける。俯いて歩いているから落ちているものをよく目にするのだ。しっかりした既製品で、置いてある場所が少しでも違うなら、ちゃんとおもちゃに見えるだろう。しかし、道端に落ちているというだけで、そいつはゴミ同然の状態になる。ボー・ピープたちはその道を選んだのだ。自由の代償として、おもちゃとゴミの中間的な危うい存在になった。そしてボーは、屋外で暮らす陶器の人形という、割れ物のゴミとして一番わかりやすい。フォーキーとボーはそういうふうに対比できる。

 ボーが本当に割れ物になってしまうのは本編が終わった直後かもしれないし、また20年くらい先かもしれない。いずれにしてもいつかその日はやってくる。とにかくウッディよりも先に彼女が壊れてしまう可能性のほうが高い。一体ふたりはどんな冒険を繰り広げていくのだろう。エンドクレジット中にあったおまけとして、テキ屋の景品のおもちゃをどんどん子どものもとへ送り出していくなんてのは序の口、まだまだいろいろなことがふたりを待ち構えているに違いない。

 ボーとウッディそれぞれ性別から、抑圧と束縛を知っていたからこそ自由を手にできた女性が、不自由を感じていなかったからこそかえって従来の価値観の中で苦悩するに至った男性に手を差し伸べ、ふたりで未来を切り拓く、といった構図を見ることもできる。よく出来た物語だと思う。そうして、その寓意にとらわれることのない普遍性も兼ね備えている。もっと広い意味で、『トイ・ストーリー4』はひとが自分自身の人生を歩む物語であって、そのタイトルに反して人間の物語なのだと思う。

2019/07/12

『トイ・ストーリー4』(2019)


 書き終えてみてかなり、というか完全に踏み込んで書いてしまったことに気付いたので、鑑賞後にお読みください。読んでいるひとがいればの話だけれど。

 もはや「トイズ・ライフ」と呼んだほうがいいくらいだった。シリーズを振り返ってみても、おもちゃの物語から、おもちゃの人生の物語へと展開していったように思う。そうして『トイ・ストーリー4』はウッディ自身の物語にも決着をつけた。残念ながらウッディやボー・ピープ、新しいおもちゃたち以外のお馴染みの仲間たちは、バズ・ライトイヤーも含めて完全に脇役で、ほとんど見せ場らしいものはないのだけれど、それを犠牲にしてでもウッディとボー・ピープの「生き方」に焦点を当てたことに価値と意義があったと思う。

 今回のお気に入りは、ウッディたちの敵役でもあるおままごと人形のギャビー・ギャビー。黄色いワンピースに黄色いリボン、黄色い靴が洒落たヴィンテージの人形だ。メイン機能である発声器が不良品なので背中の紐をひっぱってもしゃべることができず(人間が遊ぶ上でしゃべれないだけで、自由意志でしゃべることはできる)、おままごと人形の本領を発揮できずにアンティーク店の中で長いことくすぶっている。いつか店主の孫の女の子に遊んでもらう日を夢見て、ひとりで取り扱い説明書を見ながらお茶会の練習などをするなど健気さを見せるが、年代が近く発声器の作りも同じであるウッディと出会い、彼の発声器を奪おうと企む。全ては子どもに遊んでもらうため……。声を演じるのはドラマ「マッドメン」でお馴染みクリスティーナ・ヘンドリックス。ギャビー・ギャビー自体60年代製ということで「マッドメン」時代のもの。同じくヴィンテージの腹話術人形ベンソンたち(何体もいる) を従えているのだが、ベンソンの見た目も手伝ってなんとなくマッドメンたちを従えているようにも見える。こいつらがウッディを追いかけるシーンはとても怖い。不気味なおもちゃが登場するのも『トイ・ストーリー』の魅力。

 フォーキーも忘れられない。ウッディたちの新しい持ち主である女の子ボニーが、幼稚園の1日体験で作った工作人形。先割れスプーンとモールで出来た、まさに幼稚園の工作といった感じの見た目で、その成り立ちのせいか目覚めた瞬間から自分のことをゴミだと思い込んでいる。ちょっと目を離すと自分からゴミ箱に飛び込むので、今のボニーにはフォーキーがなによりも大切だとわかっているウッディは、彼がゴミ箱に入らないよう寝ずに見張るほど。このゴミとおもちゃの線引きの微妙さや危うさは、子どもの頃はもちろん今でも工作が好きなぼくもよく考えることだ。自分で作ったものには愛着がある。しかしそれは既製品ではなく、非常に脆い。一歩間違えると、ぼくの気分次第でゴミ同然となる。ボール紙で作ったボバ・フェットのヘルメットにしても、なにかの拍子にぼくの目にはゴミとして映ってしまうかもしれない。作ったものにはそういう危うさがあると思う。描いた絵にしてもそうだ。

 しかし、それは自作のものに限らない。前作の悪役、クマのぬいぐるみロッツォは、用済みになったおもちゃはゴミ同然だと豪語し、ウッディたちは焼却炉を目前に死さえ覚悟した。もう要らない、となってしまえば、どんなに出来がよく、値の張ったものでも、ゴミとなってしまう。いたずらな断捨離の犠牲になったものを思い出すといい。ついさっきまで必要に感じられ、価値のあったものが、ちょっとしたことでゴミ袋行き。全ては人間の気分、意識、見方次第である。こんなに気まぐれで恐ろしいものはないだろう。そこまでいくと、おもちゃの役割どころの話ではなく、物の価値とはという話になってくる。『トイ・ストーリー』シリーズはそこまで行ってしまったのだと思う。特に今作はほとんど付喪神的なものさえ連想する。遊ばれることなく長年放置されたギャビー・ギャビーの怨念じみた強迫観念もそうなら、子どもに遊ばれる以外の道を自分自身で選び取ったタフなボー・ピープもそう。少なくともぼくはもうおもちゃを処分できそうにない。おもちゃ以外の物さえも捨てるのが恐ろしい。もちろん、そういうわけにはいかないので、だからこそ手にするものを厳選するべきなのだろうと思う。

 そんなふうに、ときに大切にしてくれ、ときに身勝手な人間だが、それは必ずしもおもちゃが生きていくのに不可欠というわけではない。その可能性を、ウッディは再会したボー・ピープから教えられる。この陶器の羊飼い人形は、かつて3作目よりも以前、2作目よりも後の時点でバザーに出されるためにウッディたちの前から立ち去らなければならなかったのだが、その後も人間の都合で転々とし、最終的に彼女は自分が自分の持ち主になることを選ぶ。新しい持ち主のボニーがまともに遊んでくれなくなり、アンディとの楽しかった日々を思い出してばかりのウッディに、ボーはそれ以外の生き方を提示するのだった。

 ウッディが仲間のおもちゃたちとはぐれて冒険を繰り広げるというのは、一作目からのお約束の展開ではあるのだけれど、今回はそこに単なる話運び以上の大きな意味があり、とうとうウッディは自分の居場所を自分自身で決める。冒険を終え、バズやジェシー、ポテトヘッドやレックスたちと再会したウッディは、ボーに再び別れを告げ、仲間たちのもとに戻ろうとする。フォーキーとともにボニーのもとに戻り、また楽しい日々が始まるだろう。自分にそこまで出番はないかもしれないが、フォーキーを支え、ボニーの幸せを見守らなければならない。しかし、ウッディは立ち止まる。立ち止まって振り返る。振り返るとボーと目が合う。ボーが、はっと息を呑み、胸を高鳴らせるのが画面から伝わる。これが本当に陶器の人形だろうか、というほどの人間的な表情。大きく見開かれた目に紅潮した頰。ボーは本当にウッディのことが好きだったんだ、と心から思える。ウッディは最後の一瞬で、選ぶ。

 おもちゃを大事にしましょう、物を大切にしましょうというところに留まらず、迷える者が自分の人生を切り拓く様さえも描いて見せた『トイ・ストーリー4』は、まさにバグズ・ライフならぬトイズ・ライフだった。

2019/07/07

「TRANSIT」44号




 「TRANSIT」44号(講談社)の砂漠特集に挿絵を描いています。砂漠に住む人々が水や食料にどう向き合って対処しているかという内容。スイカを食べたり、ラクダからミルクを得たり、デーツを育てたり。なんとなく砂漠の背景に現地の人を描くと、エルジェっぽくていい。

 「砂漠の惑星」という響きがいい。砂漠そのものについての解説や、砂漠を旅する際のハンドブックも入っているので、実際に旅行する際はもちろん、「デューン/砂の惑星」のような物語、あるいは惑星タトゥーインを舞台にしたSWの二次創作を作るときにも役立ちそう。

2019/07/06

セサミがまだまだ教えてくれること


 娘は「セサミ・ストリート」に夢中である。YouTubeの公式チャンネルを延々と流しているわけだけれど、最近のものから昔のものまで結構ランダムに見られるので、時折ぼくが子どもの頃観た記憶のあるものとかもあって、なかなかいい。そういえばNHKでやっていた頃はよく観ていたし、原風景の一部と言える。ちょうど今年で50周年なのだが、たくさん新しいキャラクターが登場しているとはいえ、基本的なやつらはずっといて、娘が観ているキャラクターをぼくもよく知っているし、なんならぼくの母も知っているというのは改めて思うとすごいことだ。

 たくさんの歌が流れる中でわかったのは、とにかくそこには子どもたちに自分を好きでいてほしいというメッセージがあること。自分の髪や肌の色に誇りを持とうといったものはもちろんだが、さらに印象的だったのは自分の名前を好きでいようというものだ。僕の、私の名前はこれこれで、全然変えようとは思わない、といった歌。なるほど、いろいろなルーツを持った人々が暮らす国では、外見の特徴だけではなく名前もまたいろいろなタイプがある。そうでなくとも、周囲になかなかいない珍しい名前の人間はいるもので、ぼくもそうだ。もちろんぼくは自分の名前が好きだ。印象が強くて覚えてもらえるし(たまに水原とか端丸とか書かれることもあるが、そんなのは放っておこう)、教室に同じ名前のやつはまずいないからよそよそしく苗字で呼ばれたり、混乱を招くこともない。なによりペンネームを考える手間がかからなかった。だから、大前提として自分の名前は好きなのだが、それでもどこかで気後れみたいなものはある。両親に対して恥ずかしい限りだけれど、今でも名乗りづらくなることがある。電話口なんかは特にそうだ。電話の相手が一回でこの名前を聞き取ることが少ないからかもしれないが、理由はそれだけだろうか。病院の待合室でフルネームを呼ばれるときの気持ちはなんだろうか。あんまり聞かれたくないとか、どこかで思っているのかもしれない。ただの自意識過剰かもしれないが、子どもの頃に一切名前のことをとやかく言われたことがないと言えば嘘になる。今なら物珍しさからだとわかるが、そのときは悔しくて嫌だったものだ。とは言え、それでこんな名前は嫌だなあなんて思ったことはなくて、ますます自分で好きでいなければと思ったものだった。セサミの歌はそのあたりを改めて確信させてくれる。ぼくはもっとはっきりとした声で名乗るべきだ。

 思うに、セサミが励ますのはアメリカの子ども、移民の子どもだけではないのだと思う。アルファベットはこれでもかと刷り込んでくるが、アメリカで暮らしてもいなければ、子どもですらないぼくがこうして励まされている。髪質や肌の色だって、人種問わず悩んでいるひとがいるだろう。ぼくだって癖っ毛で浅黒い方だ。もちろん、ぼくなんか呑気なほうで、本当にそのことで苦しめられている人々と比べることなんてできないけれど、誰もが自分の外見や特徴について考えるはずだ。だから、マペットたちが歌う内容には広い普遍性があるのだと思う。それは場所や時代をも越える。いつの時代もそのメッセージが響くのはいつまで経っても解消されないものがあるからだという見方もできるだろうけれど、だからこそセサミがそれを発し続けていることには価値がある。子どもの頃観ているときはこんなこと考えもしなかった。ただ単に楽しい人形劇、吸血鬼みたいなやつが数字を数えては大喜びしているのがおもしろかった。もちろんそれも魅力だが、自分に子どもが生まれて、これから先なにをどう教えていいかわからなくて不安という身になってみて、セサミが教えてくれることはどんどん増えるようだ。

2019/07/02

あらかじめ設定する必要はない

 そう、映画感想の描き方を模索中である。しばらく安定しないと思う。いや、永久に安定しないかもしれない。仕事でイラストと書き文字による記事を作っていると、どうしても個人的にそういう凝ったものを作る余力がない。観た映画も読んだ本もしっかり感想をまとめないとなあと思っているうちにどんどん摂取した作品が積まれていく。積ん読はしていないが積み感想をしてしまっている。別に仕事ではないし誰かに言われているわけでもないのだが、どこか自分が続けるべきもののようにとらえているので、しばらくなにも書いていないと常にさぼっているという気分になって落ち着かない。かといってどの映画についても同じテンションで描けるわけではないし、無理に描いても楽しくない。仕事じゃないのに楽しくないというのは、もはややる意味がない。もっと気軽に手軽に描ける形式にシフトしたほうが、たくさん描けるのではないか。不安や不満があるのはとにかく描けていないからなので、とりあえず描ける形で描けばいい。簡単なものが基本としてあれば、普通のテンションのものは簡単に描き、ちょっと熱の入るものについてはちょっと手を加えて描くという形にできる。変にシリーズ見出しをつけるとラインが固定されてしまってやはりだんだん続けづらくなるので、それも取っ払う。シリーズ見出しについては、最初の頃はあって、途中から去年まで無くしていたのだが、今年に入ってからはまた入れるようにしていた。途中で無くしたのは、見出しが入るという前提が全体のスペースを窮屈にしているように感じたこと、分類してしまうと融通がきかなくなるといった理由からだったが、今年に入ってまたカチンコ型のマークを入れるようにしたのは、逆になにも形式や縛りがないとレイアウトがつけづらいと思ったから。必ず右上にマークが入ることで、全体の配置もある程度つけやすくなる。ほどほどに制限があったほうが、ぼくの場合はやりやすいのではないかと思う。しかし、結局はそういう決まった形式は自然と身構えてしまうものだし(原稿用紙に作文を書く際に、タイトルを書いて氏名を書いてから、一行空けてから本文を書き出すよりは、なにも前置きなしに書き出したほうが気楽で、かえってすらすらいけるみたいな感じと言おうか)、手軽ではなくなり、重荷になってしまうという結論に至った。

 いや、形式がある上に凝ろうとするせいだろうか?枠があっても中身は手軽な感じだったら続けられたのだろうか。むしろ規格化された形式が中身の手軽さをある程度締める、みたいなことにもなっただろうか。傍目には好きにしろという感じだろうが、ぼくにとっては重要なことだ。いや、本当にそうだろうか?重要だと思い込んでいるだけで、本当に好きにしたら、もしかしたらふっきれるのだろうか。しかし、好きにしようと思った結果がこういう悩みに繋がっているようにも感じる。ほどよく制限がないと、ぼくは自由を前に途方もない気持ちになったりする。どこからどう手をつけていいかわからなくなる。しかしこれを克服するためにも、一度抵抗を感じながらも思い切って通してみたら、その先に行けるのだろうか。そもそも作るものをそこまで整然とさせる必要はない。いっそなにがしたいのかよくわからないくらいの、ぐちゃぐちゃ感があったほうが楽しい。そのほうがアイデアや思考が湧き出ている感じがする。勢いがある。綺麗に見せようとしすぎたのかもなあ。絵は綺麗にしたいが、その並びなど、一貫性とか、連続性とか、そういうものは全然綺麗じゃなくていいのだろうな。それを意識しなくなったらもう少し変わるかもしれない。並びってなんのことかと言えば、ウェブサイトのギャラリーで一望したときの体裁のことなのだが、そういうアーカイブ感を意識しながら作るのがもう間違っている。自分がどういう世界を作っているのか、作れているのかを確認しているつもりだったけれど、そんなの普通に昨日描いたものが今日の自分を縛り付けてしまっている原因だよな。少しは意識していいのかもしれないが、とりあえずサイトに並んだサムネイルの体裁とか、そんなこと考えるのはやめよう(そんなこと考えていたのかと思われそうだが)。体裁だなんて、もっとも取るに足らんものだろう。適当にやっていけば、自然とスタイルは身に付くのだから、あらかじめなにか設定する必要は本当にないのだろうな。自分が毎回違う形で描いているつもりでも、結局全部自分が描いたものとして一貫したものはあるだろうし。たくさん描いたあとでまとめればいいわけであって、ひとつひとつを描いている段階からまとめようとしなくていいのだ。

2019/07/01

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)


 2014年の『GODZILLA ゴジラ』の続編であり、『キングコング: 髑髏島の巨神』を含めた「モンスターバース」シリーズとしては3作目。サンフランシスコの戦いの後、ゴジラが姿を消してから5年。世界各地で怪獣を研究する秘密機関モナークだったが、テロリストの襲撃により南極で管理していた氷塊が崩壊、そこに眠っていたモンスター・ゼロことキングギドラが覚醒する。それを待ち受けていたかのように姿を現わすゴジラ。かつて太古の地球で王座を争ったゴジラとギドラの宿命の対決に呼応するように、モスラやラドンをはじめ世界中で怪獣たち(タイタン)が目覚め、まさに怪獣大戦争の様相を呈す……。

 着ぐるみでないデジタルで描かれた怪獣たちは、作り物としての怪獣というよりは生き物というニュアンスが強い。なので、なんとなく「大きな動物」を見ているような気分だった。前作もそうだったけれど、ゴジラの妙に人間臭い表情がおもしろいし、今回はギドラの3つの頭がちょっとしたトリオ漫才みたいなやりとりをするのがよかった。真ん中がリーダー格(長男?)なのだろうとは思っていたが、それぞれに性格が出ているのも、細かい描写ができるからこそ。もちろんそれゆえに恐ろしさや残忍さみたいなものもよく出ていた。残忍さと言えば、大好きなサリー・ホーキンス扮するグレアム博士が、ギドラに食べられてしまうのはショックすぎた。ゴジラを応援する気持ちに熱が入るというものだ。

 怪獣としてはモスラが一番のお気に入り。日本のオリジナル版を子どもの頃観たときは、ゴジラ以上にインパクトが強く(色のせいだろうか)、東京タワーに繭を張るシーンも絵としてパワーを感じた。例の歌を歌うとモスラが来てしまうので、以後親が脅しで歌うのを怖がった。その歌も今回はかっこよくアレンジされて壮大なテーマとして流れる。テーマと言えば伊福部昭によるゴジラのテーマも真正面からしっかり使われていて胸が高鳴った。多少のアレンジはあるが、それもハリウッド式の盛り上がりがあってよかった。どれだけギドラがパワフルであろうと、この曲をバックにゴジラが大地を踏んで雄叫びを上げれば、誰が本当の王かは一目瞭然である。

 人間たちが皆どこかぶっ壊れているのも、よかった。怪獣プロレスのインパクトが強すぎて人間たちの行動や物語は荒唐無稽に見える?いやいや、そもそもあの世界はぶっ壊れているのでそれでいいのだ。怪獣の存在を平気で受け入れ、畏敬の念を込めてタイタンとか呼んじゃったりして、次から次へと降りかかる災難に対処して適応していく神経の図太さ。あれくらい狂った世界では全くおかしくない。むしろぶっ壊れていなきゃおかしい。そもそもそのぶっ壊れたひとたちのキャラがまたいい。芹沢博士とマディソンちゃん、あなたたち本当に怪獣が好きですね。「全ての生き物に敬意を払っている」という芹沢のセリフもよかったな。やっぱり怪獣は生き物なんだ。

 ところで、次回はついにゴジラとコングの対決が予定されているわけだけれど、宇宙から来た雷を吐くドラゴンでさえ敵わなかったゴジラ。体内に原子炉があって、熱核反応さえ起こしてしまうモンスター・キングに、一見大きいだけのゴリラがどう挑むのだろうか。それだけで気になってしまう。コングも40年間でなにか特殊な変貌を遂げているのだろうか。電気を帯びてパワーアップとか?しかし、バカにはできない。コングはただのコングではないのだ。彼もまた王、キングコングなのである。

2019/06/30

「SPUR」8月号



 「SPUR」8月号の映画レビュー連載では、「COLD WAR あの歌、2つの心」を紹介しています。戦後間も無いポーランドで音楽家ヴィクトルと歌手志望のズーラが出会い恋に落ちるが、やがてヴィクトルは西側への亡命を決意。当時まだ壁が建設されていないベルリンを経由してふたりで脱出するはずだったが、直前にズーラが断念。ヴィクトルは独りでパリへ渡り、ズーラは国に残る。ふたりはそこから15年もの間、鉄のカーテン越しに再会と別れを繰り返すことになるのだった……。タイトルはずばり「冷戦」だけれど、よくイメージされる冷戦の物語ではない。東西の指導者やスパイといった人たちの駆け引きなどはないし、もちろん戦乱も描かれない。ただ隔たれた恋人たちがいるだけ。そんな小さな視点の物語だけれど、めちゃくちゃパワーがあって、そんなラブストーリーを「冷戦」と名付けるところがいい。ポーランドの民族舞踏なども出てきて音楽もインパクト大。大局的なお話だけでなく、個人的な物語もまた時代と世界を持っているんだなあ。

「婦人公論」7/9号



「婦人公論」7/9号、ジェーン・スーさん連載の挿絵。ビヨンセやマドンナなど、一見遠い存在でもつねに自分に寄り添い励ましてくれるポップスターたちについて語られています。


2019/06/25

SWタイトル問題


 『エピソード5/帝国の逆襲』より。ダース・ヴェイダーが通信中にオゼル提督を見えない手で処刑し、傍らのピエット艦長をその場で昇進させる場面。息を詰まらせたオゼルが苦痛にあえいでいる間も、表情ひとつ変えずに(それでいて内心怯え上がっているはずなのが伝わってくる)ヴェイダーからの指令を聞くピエット艦長がまたいい感じである。後任者はつねに前任者の無残な最期を脳裏に浮かべながら、恐怖を原動力に仕事に取り組むのである。嫌な職場だなあ。

 と、そんな誰でも知っている名場面の説明はいいとして、今回どうしてもいい加減最終的な決定を下したかったのが、作品のタイトルについて。ご存知のように『スター・ウォーズ』シリーズは副題が面倒である。一作目が後付けで『エピソード4』とつけられたり、かと思えば『エピソード7』にあたる『フォースの覚醒』から、そのようなナンバリングがつかなくなったしまった。オリジナル三部作時代のシンプルな副題を意識してのことだろう。確かにすっきりしていてかっこいいが、9部作並べた際に締まりがない。前の6本については全て話数がついているからである。意図的に話数を抜きにして呼称しているケースやひともいるのだが、それも含めて非常に気持ちが悪いのだ。ましてや9部作でひとくくりにするのなら、やはり全てに数字がついていたほうがいい。数字は、しっかり並ばなくてはならない。なんだか数字に病的なこだわりを持つ吸血鬼のキャラクターのようだが、そしてぼくは決して算数が得意なほうではなかったが、しかし数字は並ばなくてはならない。なにより順番がわかる。ただでさえ順番がわかりづらいSWシリーズ、それはとても重要なことだ。そして、こういう文章で言及するときにも数字で呼んだほうが早い。

 とは言え、副題で呼びたくなるテンションもわかる。数字は便利である反面表情がつきづらく、かえって数字で言われてもどの作品かぴんとこないひともいる。まあそんなひとのことまで配慮してSWに関するテキストを書き連ねる気などないのだが、それでもできるだけわかりやすさは考えたい。たとえばEP5はEP5と呼ぶよりは、『帝国の逆襲』と呼んだほうがわかる。『帝国の逆襲』は『帝国の逆襲』過ぎる。なにを言っているんだと思うかもしれないが、ほかに呼びようがない。単に第5話と呼ぶのは軽過ぎる。5という数字の中に『帝国の逆襲』というワードの強烈さやニュアンスがどうしても含まれない。というのは、まあ、気分的な問題であって好みの話なのかもしれないが、たとえば普通の会話の中で「エピソード5」と言っても恐らく(相手にもよるのだが)「それってどれだっけ」みたいに返ってくるので、副題で呼ぶほうがいい場合もある。逆に副題で呼んだ際に「それって何番目だっけ」と返される場合もあるので頭が痛くなってくるのだが。

 冒頭にもあるように、このブログではとりあえず最初に登場する際に話数と副題をフルで並べた正式なタイトルを書いてから、そのあとは全部数字で略すみたいなことにしているが、テキストはそれでいいとして、イラスト内におけるタイトルがずっと悩みの種だった。

 一体なんでそんなことに延々こだわって悩んでいるのかと思われるかもしれないが、ぼくには重要なのだ。「もうこれで決めよう」とケリがついてすっきりしない限り気持ちが悪くてしょうがないのだ。なにが悩みどころかと言えば、一言で言って絵の締まり方である。テキストでは気にならないことも、絵に書き添えられた書き文字となると、事情が変わってくる。つまり、「エピソード5」まで入れると非常に長ったらしく見えるのだ。さらに言うと、話数を含めることでタイトルに「一本の映画感」がなくなってくるように思える。いや、一本の映画なのには違いないのだが、なんと言えばいいだろうか、第5話、みたいなのがつくことでなんとなく締まりが悪いのだ。ぼくはSWについて書いたり描いたり考えたりすることをそのままライフワークにしているような頭のおかしい人間だが、あくまでSWを映画として取り扱いたい頭もあったりする。だからこそわざわざ公開年を表記している。決してインユニバースに入りすぎない、あくまで一本ごとの映画としての感覚。年号と一緒に監督の名前とか書いてあればよりその雰囲気は出ると思う(さらに締まりが悪くなさそうなのでそれはやらないのだが)。単体として映画ごとの存在感を考えるとき、話数をつけることに抵抗が生まれてくる。もはやそれぞれの作品に話数がついていなかった期間のほうがずっと短くなっているのだが、どこかで副題だけで書いたほうがかっこいい、みたいな気持ちもある。同時に、長々と書いてきているように話数にこだわりたいという気持ちも小さくない。

 前の6部作については、話数込みが正式なタイトルなのだから、そのままそう書けばいい話である。そう、厄介なのは7本目から話数がつかない形が一応の正式タイトルになってしまったことなのだ。一応、と言ったのは、媒体によってはシリーズ全体の整合性を考えて話数をつけて書いている場合があったり、そもそも本編冒頭の宇宙空間を流れる黄色い文字の中にはちゃんと話数がつけられていたりするからだ。

 つまるところ、要点としてはシークエル三部作表記に合わせるのか、6部作のルールにシークエルを合わせるのかというところになる。数字による連続性や順列と、すっきりした副題のどちらを優先するべきか。前者を優先した場合には、シークエルの正式なタイトルを都合よく変えてしまっているという後ろめたさが、後者を優先した場合には、プリクエル三部作世代で話数つきで統一された6部作に慣れ親しんでおきながら、そういうところで気取っちゃうんだ、ははーん、というような声が自分の中で聞こえてくる。そこまで考えたところで思考がもう身動きできない。
 
 しかし、そうやって並べて比べてみたところでどちらのほうがより自分がこだわる要素が多いのかが見えてくる。話数つきには数字による一貫性とともに、やはり自分のこれまでのSWへの親しみ方が含まれている。話数付きこそ、自分が慣れ親しんだSWではなかったか。自分が観ていた頃のSWには、話数がついているのが当たり前だった。数字によって作品同士の関係性が際立ち、意識が時系列の上を移動する。そうだ、SWというのはエピソード群なのだ。結局のところ、副題のみの表記というのは、どこかで気取りがある。話数がついていないほうがスマートだが、それはスマートに見せたいという意識がどこかにあるからなのだ。ではシークエル三部作の正式なタイトルは尊重しないのかと言えばそんなことはなく、あくまでその場合は副題に便宜上話数を付け加えるだけである。そもそもぼくが個人的に描いているものはそこまで正式である必要がない。ぼくの文脈で統一して問題がない。というわけでぼくの中ではSWシリーズは話数をつける形を基本とする。すっきりである。

 ただ、EP9で「スカイウォーカー・サーガ」なるものが完結したあとにくる次のサーガ群が、どういうふうに整列していくのかを考えると、またしても頭が重くなってくる。

2019/06/17

怪我をした動物

 怪我をしたナフシが茂みの中で見つかったのは放課後のことで、最初に見つけたのはどこかのクラスの女の子たちだった。彼女たちは必要以上に騒ぎ立てずに仲間内だけで手負いの動物をなんとかしようとした。ナフシは火星の農村では非常にありきたりな動物で、農作物を狙う害獣とされており、どこかの農場でナフシが罠にかかると、そこの主人が小さなトラックに乗せて近所に見せて回っていたものだ。ジムの家にも一度火星人の農場主がレーザー檻の中で丸まったナフシを見せに来たことがあって、幼いジムはその酷い悪臭に思わず鼻をつまんだものだった。それが生きた獣の匂いだった。日曜の朝にやっている動物アニメに登場するナフシのキャラクターからは全く想像できない匂いだった。実物のナフシは全く可愛らしくもなければ愉快でもなかった。
 だから、学校の裏の茂みで怪我をしたナフシが見つかったと聞いたとき、ジムは正直あまり近づきたくなかった。ジムの父親は農家ではなかったが、入植者として害獣の危険性を知っていたから、常に息子に対して無闇に野生の動物に近寄らないように言いつけていた。ジムはその年頃の子どもたちの例に漏れず、なにをするにもまず親から言われていることを判断の材料にしていた。
 それでも子どもには好奇心というものがあったので、ジムはクラスメイトたちと一緒に茂みを見に行った。すでに最初の発見者たるグループはナフシに飽きて立ち去ったあとだったが、後から来た子どもたちが発見時の興奮をそのまま引き継いでいた。彼らはまるで自分たちが最初に発見したかのような態度で見物に来た連中にあれこれ指図をしていて、最初にナフシを見つけたときどんな様子だったかを説明していた。
 ジムは他の子達の肩越しにその動物を見た。紫色の茂みの中で、濃い緑色の毛皮の塊が丸まっていた。身体に対して頭は小さく、とがった耳と鼻面が突き出していた。目を閉じているのか開けているのかはっきりしない。怪我をしていると聞いていたが、具体的にどこがどう悪いのかよくわからなかった。ただ、ぐったりしているのはわかるし、子どもたちがこれだけ集まって騒がしくしているのに、まるで逃げる様子がなく、その気力も湧かない様子だった。ジムはかつて家の庭先に連れてこられた、罠にかかったナフシを思い出した。ちょうどあれと同じような感じだ。
 その場を仕切っていた子たちが、自分たちでこのナフシの世話をしてやろうと言い出した。明日からここに給食の残りなどをここに持ってきてやろう。ナフシは雑食だから、特別に加工しているものでなければ大抵のものは食べるだろう、ということだった。彼らは獣医ではないので、ナフシの具合がどんなふうに悪いかわからなかったが、動物なんてものは食べれば回復するだろうと考えたのだった。
 成り行きで、その場にいる全員がこの動物の世話をするメンバーに数えられた。ジムは他の皆が非常に乗り気で、張り切っているのを見て、少し戸惑い、本音を言わないことにした。なんだか面倒なことに巻き込まれてしまったなと思ったが、なんとなく放課後にそういう一部の輪の中に加えられたことが少しうれしくもあった。しかし、やはり得体の知れない、あまり綺麗とは言えない野生の動物に関わりたくなかった。

 その場の盛り上がった雰囲気にひと通り合わせてから、ジムは帰路についた。別になにか役割を当てられたわけではないのでひと安心だった。家から毛布を持って来いみたいなことは言われなかった。子どもたちの思いつきで、計画性は一切ない。明日適当に給食の残りを集めて持って行こうくらいのことしか考えていない。どこかの獣医に様子を見せようとか、話の通じそうな先生を選んでことを知らせようとか、そういうことは誰も考えていないだろう。
 ろくな計画もないのに盛り上がっていた皆の熱を思うと、ジムの気持ちはかえって冷めた。冷たいものが広がっていくような感じがして、そういう自分は非常に嫌な子どもなのではないかという気さえしてきた。皆が怪我をしたかわいそうな動物の面倒を見ようと言っているそばで、病気を持ってそうな動物に触りたくないなあなんて考えているなんて、優しくないのではないかと思った。
「なんか、気持ち悪かったね」
 肩のあたりに声がしてそちらを向くと、同じクラスのモンザだった。そういえば先ほどの一団の中に顔を見た気がする。あまり話したことはないが、特に距離がある相手というわけでもなかった。共通の友達がいるので、同じ場に居合わせることも多かった。ジムはあまり女の子と話すのが得意でないから(男の子も別に得意ではないが)、なにか話しかけられるとどう返事しようかなと一旦間を置いてしまうのだが、このときはまさにそのとき考えていたことを言い当てられたような気がしたので、反射的に、そうだね、と答えていた。しかし、答えたあとで一体なにが気持ち悪かったのだろうかと思い返した。
「ナフシが?」
 一応そう聞いたら、モンザは目を細めて口の片端だけが上がった微妙な笑みを浮かべ、首を横に振った。
「怪我した動物を気持ち悪いだなんて、思ってないよ」
 モンザの言葉に、ジムはしまったと思った。これではとても薄情なやつだと思われてしまう。普段言葉を交わす間柄ではないにせよ、この子からそう思われるのはなんだか嫌だった。
「いや、一応聞いただけさ。どっちかと言えば、気持ち悪かったのはあすこにいた皆だね」
 そんなふうに無様に取り繕ったところで、モンザは笑ってくれた。
「そうだね。私が言いたかったのは、あの場がってことなんだ」
「なるほど、あの場か」
 確かに妙な居心地の悪さがあって、あの場から立ち去りたかった。面倒なことに巻き込まれてしまった、なにか役割を押し付けられたらどうしようといった不安。正直に思ったことが言えなさそうな雰囲気。それに、今にして思えば手負いの動物を前にそういう自分の心配ばかりしていたのも、なんだか自分で腹立たしかった。
「でも、かわいそうはかわいそうだ」
 並んで道を歩きだしてから、少ししてからようやくジムは言った。なんとか形になって口から出てきたその言葉にに、モンザは、ふうんと軽く頷いた。
「かわいそうっていうのはでも、共感とは違うよね」
「え?」
「かわいそうっていうのは、なんていうのかな、少し偉そうな感じ」
「えっとお」
 ジムが必死に相手の言わんとしている意味を考えようとしていると、モンザが顔にかかった髪を手ではねのけて、ジムを見据えた。
「たとえばね、先週までクー・アムドが足にギプスしてたでしょ。皆大丈夫かって聞いていたけど、誰もかわいそうとかは言わないし、思わなかったわけ。君、思った?」
「思わなかった」
 本当はそれどころかあまりクー・アムドに興味がなかった。彼が足にギプスをしていたことも、今モンザに言われて思い出したくらいだ。
「たぶんかわいそうなんて言ったら、あの子は怒ったと思うよ。ひとはひとからかわいそうと言われてときに初めて、かわいそうなひとになるんだよ」
「そんなの考えてもみなかったなあ」
「そりゃ、どう考えても不幸なひとというのはいるし、自分を不幸だと思ってるひともいるんだけど、でも、そういうひとをかわいそうと言ったら、それはやっぱり失礼な話だと思うな」
「かわいそうは失礼」
 ジムは繰り返した。とりあえず繰り返すしかなかった。
「そう。ちゃんと助けてあげられないんなら、かわいそうなんて言っちゃだめだよ」
 モンザはそれ以上は言わなかった。だったら、あのナフシはどう表現するべきなのか。彼女自身そこから先を論じられなかったのかもしれないが、少なくともこの時点でのジムにはそこまでで十分だった。今まで考えもしなかったものの見方を知ったような気さえしたのだった。
「本当に明日から皆で世話をすると思う?」
 ジムが尋ねると、モンザはまたしてもゆるやかに首を振った。
「給食の残飯を持ってくだけでは世話とは言えないよ。うちには犬がいるんだけどね、具合が悪くなったとき、それはもう大変だったよ。それに、どうせ最初の1日、2日で皆飽きるよ。皆が飽きるのが先か、あのナフシが死んじゃうのが先かって感じだろうと思う」
「そりゃ随分な言い方だ。でも、多分そうなんだろうなあ」
 それよりジムはモンザの犬が気になった。「犬ってどんな犬?」
「大きいよ。お父さんが地球から連れてきたばかりのときはちょっと元気がなかったんだけど、今はすごく元気で、一緒に遊んでると私のほうが先にくたびれるんだ。犬、見たことある?」
 犬について話すモンザは、先ほどの冷めた感じとは打って変わって目が輝いていた。それを見たジムは、モンザを少しかわいいと思った。でも、僕が怪我をした臭いナフシみたいになったら、さっきみたいに細めた目に半笑いで見てくるんだろうなあ、とも思った。
「図鑑でなら見たことあるよ。いろんな形のがいるよね。その犬、さっきのナフシより大きいの?」
「大きいよ。うちの庭に来るナフシをよく怖がらせて追い返してる」
 それを聞いてジムもなんだか怖くなった。ジムが図鑑で見て気に入っている犬と言えば小さなビーグル犬だった。モンザの家にいるのはきっとシャーロック・ホームズと対決したような大きな犬なのかもしれない。
「今度うちに見にくる?」
 モンザにそう言われて、女の子から招待を受けたのはうれしかったが、内心すっかり怖くなっていた。
「うん、見たいな」
 と言ったものの、明日明後日と日が経つうちにこの話が適当に流れていくといいなあと、少し思うジムだった。
 ふたりの歩いている長い道路が、もうすぐ二手に別れるところだった。ジムの記憶が正しければモンザは彼とは反対の方向へ帰っていくはずだった。この密かな会話はもうすぐ終わってしまう。明日の朝教室で顔を合わせたときに、同じように会話ができるとは限らない。ジムは茂みでうずくまった動物を目にしてからというもの、ずっと胸につかえていた不安を吐き出すことにした。
「ナフシのこと、先生に言ったほうがいいかな」
 それは質問と表明のちょうど中間くらいの言い方で、本当に恐る恐る口に出した感じだった。ジムはその年頃の気の小さい少年の例に漏れず、なにか問題が起こると大人を頼り、大人に確認を取り、大人に承認を得たほうがいいのではないかと考えるタイプだった。その性質によって、彼は同級生たちと多少無茶をする遊びというのができないでいた。彼にとって大人に内緒で怪我をした動物を世話をするというのは、どこかの農場のフェンスをよじ登って向こう側へ渡ったり、建物の屋根に登ったり、自分たちがまだ対象年齢に達していないビデオ・ゲームで遊ぶのと同じくらい危険なことだった。
 なにより、父親から聞かされていたナフシの不潔さや時折見せる凶暴さが怖かった。
「別に言わなくてもばれると思うよ」
 モンザはあっさり言った。「給食の残りをこっそり黙って持っていくなんてこと、あの子たちにはできないよ。どうせ変に騒がしくするだろうし、先生だって馬鹿じゃないからね、いつもと違う皆の様子に気付くと思うよ」
 モンザの冷静な推測や、その観察眼のようなものに、ジムはすっかり驚いていた。この子はこんなふうに教室を見ていたんだ。ジムも級友たちのことを一歩引いたくらいのところで見ることが多いけれど、それでもやっぱり一緒になって遊ぶので(危険のない範囲でだが)、モンザのように考えることはなかった。同時に驚くのは、モンザはそんなふうに周囲を見ていながら、普段から孤立することはなく、少なくともジムの目には皆とうまくやっているように見えることだった。
 ジムは、モンザを大人びていると思った。その大人びたモンザは、このやりとりの中でジムと他のクラスメイトたちとを明確に分けて話していた。もちろん、ひとは誰かと話すとき相手のことだけは他の連中のことと別にして話すものだと、ジムはこのあと知っていくことになるが、それでも、この場では彼は彼女の側の人間であり、彼女が自分の考えを話してもいいと認めた相手だった。もしかすると明日には知らん顔されてしまうかもしれないけれど、今この時間だけ、ジムはモンザと秘密を共有している。それは怪我をした動物を自分たちだけで世話しようという取り決めなんかよりも、はるかに魅力的な秘密だった。
「じゃあ、また明日」
 分かれ道のところで、モンザから切り出した。「ナフシのことはまあ、適当にやり過ごそう。明日も皆に合わせてればいいよ。私もそうするから」
「わかった」
 ジムは言った。「じゃあ、また」
 家に帰ってから、ジムは両親にナフシのことを話さないでおいた。モンザの物言いからは、なんとなく大人には黙っておいたほうがいいというようなことが読み取れたからだ。帰り道に彼女が言っていたのは、つまりは放っておけということなのだと。積極的に関わろうとする必要もなければ、事態を収束させるために大人を関わらせる必要もないということ。ジムでもそれくらいはわかった。あんなふうでいながら、普段から教室でうまいこと振舞っているモンザの言うことは、信頼できる気がしたのだった。

 翌朝、ジムは寝坊したわけでもなく普段通りの時間に学校に着いたのだが、すでに教室が騒がしかった。どうやら何人かは早めに登校してナフシの様子を見に行っていたらしいのだが、ことは思い通りにいかなかった。例の茂みに獣の姿はなく、かわりにスコップを持ったサエキ先生がいたのだ。その場においてスコップを持った先生の姿くらい、状況を的確に説明するものはないだろう。
 教室は一階で、窓の外がちょうど例の茂みに続く小道になっているのだが、窓の外にサエキ先生が立っていて、登校してきてだんだん人数が増えてきている生徒たちに向かってことの次第を説明していた。あのナフシはすでに息絶えていたので、皆さんが登校する前に埋めました。
 生徒たちのほとんどは憤っていた。特に張り切っていた中心人物たちは涙を流しながらなにやらわめいていた。どうしてそんなふうに涙を流すのだろうとジムには不思議でならなかった。ナフシは昨日怪我をした状態で見つかっていて、一緒に遊ぶ時間も親密になる時間もなかった。そもそもナフシはそのへんの道でしょっちゅうひかれている。あの子たちはそれを見るたびにあんなふうに泣くのだろうか。もちろん、あのひとたちはなんで泣いているのと、近くにいるクラスメイトに聞くことはできない。それは恐ろしくてできなかった。
 サエキ先生はいつでも冷静でゆったりと話すので、自然と話している相手の気持ちも落ち着いてしまうのだが、今朝もやはり生徒たちは次第に落ち着いていった。落ち着いてくると、生徒の中からいろいろと質問が出てきた。ナフシはどんなふうに死んでいたのか、あの子はどこをどんなふうに怪我をしていたのか、そもそも怪我だったのか、など。
「先生が見たところ、怪我をしていたようです。最初はそのへんで車にぶつかったのかなと思いましたが、よく見ると首のあたりに深い傷がありました。なので、皆さんがどうにかできる怪我ではなかった。少なくとも給食の残りをあげる程度のことではね」
 先生が看病の計画を具体的に言い当てたので、皆は驚いたようだった。モンザの言う通り先生は鋭い。
「でも先生、傷ってどんな傷ですか?首にあったってことは誰かが……」
 再び飛び出してきた質問に、先生はさわやかに笑いながら首を振った。
「あはは、人間の仕業ではないですよ。もちろん、このあたりの農場にはナフシに対する罠をしかけているところが多いですけどね。でも、そういうので出来る傷ではなかったです」
 サエキ先生はそこで少し迷った。「……まあ、皆さんをあまり怖がらせてはいけないとは思いますが……そうですね、なにかもっと大きい動物に噛まれたような跡でした」
 例えば大きい犬みたいな、と先生は付け加えた。
 途端にジムの背筋にぞくっとした感覚が走った。恐怖ではない。恐怖ではないが、あることに気付いてしまったという、一種のショックのようなもの。そして、それに気付いた自分をどこかで得意にさえ思った。
 イヌってなあに先生、と尋ねる声。すぐに先生が、それは地球にいる動物で、人間のパートナーのような存在だと答える。
「きっとあのナフシは、どこかの農場に忍び込んだときにそこの番犬に噛まれたのかもしれませんが、しかし先生の知る限り、このあたりで犬を飼っているようなおうちは思いつきませんねえ。もしかすると、山にマーシャン・ウルフがいるのかもしれません。皆さんも子どもだけで山や森に入ったり、暗くなってから農場のまわりをうろつくなんてことはしないようにね」
 ショックから覚めたジムは、自分が教室の床の上に立っているということを思い出し、その感覚を取り戻した。それから少し遅れて、周囲を見回す。もちろんこっそりと。よく知った顔がいくつも並んでサエキ先生の話に聞き入っている。しかし、その隅の方に、あまり興味のなさそうな顔で立っている女の子を見つけた。
 モンザもこちらを向いた。

2019/06/14

「UOMO」7月号



 「UOMO」7月号(集英社)では、マーケットプレイスサイトの「FARFETCH」について漫画仕立てで解説しています。「集英社の雑誌に漫画を描いた」というのは、文芸やイラストレーションに関心の薄い友達にも自慢ができますね。嘘ではない。

「CREA」6月号




 「CREA」6月号(文藝春秋)はパン特集でした。ぼくは「手みやげにしたいサプライズなパン」という見開きページにイラストを描いています。カラフルなマーブル色のベーグルや、上下で挟んでいるパンが違うサンド、出汁巻卵のホットドッグ、巨大なメロンパン、ミントクリームのたっぷりかかったチョコミントクロワッサンなど、見た目にもインパクトのある変わったパンが大集合しています。もちろんぼくもパンが好きです。美味しいパンはなにもつけなくても平気です。

2019/06/10

1日はそんなに長くない

当たり前のことだけど、最近ようやく気づいた。学校行ったりバイトしてたりするときの感覚を引きずっているせいかどうも、1日は長くていろんなことができると思い込んでいて、その長さに見合った成果を出せないとなんだか駄目な1日だったような気がして気が滅入るが、そもそも1日の長さなどたかが知れている。なにかひとつ済ませられば十分で、もっと言えばなにも進展がなくても別にいいくらいなのだ。1日にいろいろなことをやろうとするからくたびれてしまうのだ。当たり前のことだが、こうして書いておくことで自分で納得できてその気になれるというわけだ。

2019/06/07

渋谷の民泊手引書


 渋谷の新しい観光を考える会より発行、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)編集、Airbnb協力の配布冊子、民泊手引書のイラストを担当しました。民泊のホストになる人向けの「ホストになりたい人のための手引書」(グリーン)と、民泊をやっている住宅の近所に住む人向けの「隣で暮らす人のための手引書」(レッド)の二種類の冊子と、奥渋谷のローカルマップがセットになっています。


 「ホストになりたい人のための手引書」では「民泊をはじめよう」と題して、届出や諸々の対策、メリットなどが説明されています。


 「隣で暮らす人のための手引書」では「民泊、どう付き合う?」と題して、民泊とはなんなのか、渋谷にどれくらいあるのか、騒音やゴミなどの心配はどうか、困ったらどうすればいいのかといった疑問や不安に丁寧に答えてくれるとともに、民泊があることで地域にはどんなメリットがあるかなどが説明されています。

 付属の奥渋谷ローカルマップも非常に見応えがあり、民泊ホストや利用者でなくとも役立つ情報満載です。SPBSで配布されるので見かけたらぜひ。

「anan」No. 2153



 「anan」No. 2153、「チャージ&デトックス情報局」 のスーパーフード特集に挿絵を多数描いています。アメリカのスーパー、ホールフーズが毎年発表する食のトレンドに基づいて、流行が予感される注目のスーパーフード等について、そのパッケージなどをイラストにしています。バーガーキングがヴィーガン向けに作ったワッパーが気になる。

「SPUR」7月号



 「SPUR」7月号の映画レビュー連載では、ハビエル・バルデム&ペネロペ・クルス夫妻主演『誰もがそれを知っている』を紹介しています。夫妻が扮するのは、今は別々の道を歩む元恋仲の幼馴染で、親戚の結婚式で再会するのだが、そこでペネロペの娘が誘拐されてしまう。犯人は式に参列した親戚や友人の中にいるのではないかと疑われ、脅迫により通報ができないのでハビエルが独自に動く。あんまりがんばるので奥さんからはなんであんたがそんなに一生懸命になる必要があるのとか言われるのだが、それでもがんばる。幼馴染のことがまだ好きだからという単純な理由を見出すこともできるのだが、どこか他人事として済ませられないものを感じているのだろうということがわかる。やがて、ハビエルの知らない秘密が明らかになっていくのだが、映画のタイトルの通り、「誰もがそれを知ってい」た……。小さい街では秘密は秘密ではなくなるのだ。当事者が知らなくとも。というお話。

 ハビエル&ペネロペが夫妻だったこと自体、誰もが知っていることなのだろうけれど、ぼくは今回初めて知った。そういえばふたりとも『パイレーツ・オブ・カリビアン』に出ている。ハビエル・バルデムといえば『ノー・カントリー』のただならぬ雰囲気の殺し屋とか、『007 スカイホール』の悪役が印象的だが、本作では普通のひと。愛すべき平凡な男という感じだが、でもどこかに影があるのがやっぱりらしい。

「婦人公論」6/11号



 「婦人公論」6/11号、ジェーン・スーさん連載の挿絵。お父様が文鳥を飼い始めたというお話。文鳥というとグレーと黒の模様が印象的だけれど、小さい頃はもっとぼんやりした茶色らしい。よくよく思えば雛というのは成体とは全然違うのでそりゃそうか。特に鳥類は鶏のひよこ、ペンギンの雛などを見ても全然違う。

 鳥の飼育といえばぼくの実家では鳩や鶏を飼っていたことがあって、特に鶏がいる頃は結構楽しかった記憶がある。鳩は怪我をして迷い込んだレース鳩で、足缶を取らせてくれるようになるまでうちで世話をしていた。主に父が。足缶を取ればすぐに連絡先がわかるはずだったのだが、鳥好きの父はまだ怪我をしているからとか、慣れていないからとか言い訳をして足缶を調べるのを遅らせていた。飼い主に連絡がついたらあとはあっという間に迎えがきて、随分お礼をされたようにも覚えている。大切なレース鳩だったのだ。鳩のために父が作った小屋(巣箱どころではない、学校のうさぎ小屋ほどの大きさ)は空っぽになったが、間も無く鶏の一団がやってきた。真っ白な羽毛に真っ赤なとさかのオスが一羽と、オレンジ色のような茶色のメスが三羽。小屋は拡張されてかなりの大きさになり、大人ひとりがかがんで入れる広さになった。鳩は見てても大しておもしろくなかったけれど、鶏は歩き回るし、鳴き声はおもしろいし(本当に毎朝例の鳴き声を放つので驚いた)、なにより大きな卵を毎朝産んだのでそれを取りに行くのが楽しかった。朝行って覗くと藁の上に三つほど茶色い卵がかたまって置いてあって、手に取ると温かいのである。まるで農場の生活だ。学校で嫌な行事(陸上大会だの体操大会だの)があると、前の日に鶏を見ながら、ああ、次に鶏を見るときには嫌なことは全部終わっているんだろうなあ、ぼくが嫌な思いしている間もこの鳥たちはここでずっとコッココッコと過ごしているんだろうなあ、いいなあ、などと思っていた。

 鶏のいる日々はわりとあっけなく終わる。狸かなにか、獣の類が網を破って四羽全部食い荒らしてしまったのだ。狸に食べられるくらいならぼくが食べたのになあと今でも思う(具体的になんという種類の鶏だったのかはわからないが)。鳥を飼うのは確かに楽しい。

2019/05/30

ワープ

 出来事を書き出そうと思ったが実際に起こったイベントはどうしても個人的事情が関わるし、ディティールをどこまで書き出すかを考えている時間が惜しいので、まあ書けそうになったときにしよう。時系列は気にしなくていいはずだ。それでも主な出来事を書き留めるのであれば、子どもを連れて初めて帰省をしたのだった。高速バスに乗っているときの体感時間はどんどん短くなってしまい、今度のが一番短かった。大都会の真ん中からトンネルに潜り、途中何回か外に出るものの、あっというまに景色は緑の中になってしまう。高速道路に乗るにしても、もっとこう街並みを間近で見ながら、少しずつ建物の種類が変わっていき、臨海地域に移り、建物の数が減っていき、みたいな移り変わりをぼんやり眺めたいのだが、感覚ではほとんどトンネルだった。さらにぼくはその小旅行のために徹夜で仕事を片付けていたので、バスが動き出して少ししたら寝てしまった。最初のトンネルに入ったあたりで寝ている。すると次に目を開けたら山の中である。これではワープのようなものだ。早いのはいいけど。

 地元のほうは相変わらずで、前よりも田畑を覆い隠すソーラー・パネルが増えたように思えた。両親が宿を取ってくれたので、実家よりもずっと綺麗なところでのんびり過ごす。大雨だったけれど、かえってゆっくりできた。小さい頃から遊びに行っていたレストランホテルだけれど、思えば『トイ・ストーリー』を初めて観たのも、レゴの大きなセットを目の当たりにしたのもその家でだった。いろいろと思い出すことがあった。そうでなくとも、最近思い出すことが多い。夜にチキンを食べ、朝には分厚いトーストにベーコンとスクランブルエッグを食べた。大雨の去った朝はよく晴れていて、親子三人で海辺を歩いた。ばあばにも会えたし、ひ孫の顔を見せることもできた。なにか綿々としたものを感じる。自分に子どもができたとは言え、ぼくも子であり孫のままなのだなあ。老人ホームというものには初めて行った。老人というのもいろいろらしい。

2019/05/29

「山と渓谷」6月号



 「山と渓谷」6月号(山と渓谷社)にて、立山黒部アルペンルートのイラストを見開きで描いています。富山はちょっとしか行ったことがないけれど、ああいう大きな山脈を見ると、太平洋側の呑気な地域で育った自分が見てきた山は、かわいらしい丘みたいなものに思える。本当に大きな山のある地域で夕焼けを見たとき、黒々とした大きな山が壁のように聳えていてどこか恐ろしい感じだったのを覚えている。まだ空は赤いのに、ふもとの道路はもう真っ暗で、車はヘッドライトを照らしていた。結構衝撃的な風景だった。

 大きな山のせいで日の光が半日しか入ってこない村で、みんなで問題の山の土を運び出して低くして、日照時間を伸ばすという絵本があったなあ。子どもの頃はそんな山あるかいなと思ったものだが、ああいう風景を見るとそういう話が切実に思えるし、山の大きなシルエットにただならぬ気配を感じて畏怖を抱くのも不思議なことではない。

2019/05/26

ボバ・フェットのヘルメット完成


 去年の年末から取り組んでいた(というか年末年始で終わらせるつもりだった)手製のボバ・フェットのヘルメットがついに完成。リアルに近い造形をがんばって再現するつもりだったけれど、造形力に限界がありこだわっていたらきりがなく他のことに手がつかず生活に支障をきたすので、ほどよく平面な、イラスト的なもの、あるいは子どもの工作的なものに転換。こっちのほうがぼくには合っていた。


 寸胴というか、円柱状にしたのは作るのが簡単だからだが、着想は『ホリデー・スペシャル』とか『ドロイドの冒険』などのアニメ版のタッチから得た。そちらでは顔や側面のモールドも平らなので真似しやすい。描き込みは最低限にしておいた。


 頭の黄色い模様はキルマークと呼ばれていて、どうやら殺したひとの数らしい。しかし公式の設定かどうかよくわからない。獲物(賞金首)の数かとも思ったが、ボバほどのハンターにしてはちょっと少ない気がするので、その中でも特に殺めた数、みたいなことなのかなあ。なによりこのマークの数が『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』で違っていたりするのがまたややこしい。単純にハン・ソロを捕らえたから増えた、ということならこれはやはりキルじゃなくてハントした数ということにもなる。冷凍ソロ争奪戦でライバルを殺しているとかいう解釈もできるが……。



 前も書いたように頭頂部と後頭部とで色が若干異なる、のを再現してみた。しかしこういう微妙な色分けを再現しようと思ったばっかりに、全体の緑色のテイストで非常に悩んだ。後頭部が頭頂部より濃くなければならないとすると、頭頂部は自然少し明るめの色のほうがいいということになるが、明るすぎるとちょっと雰囲気が違って見える。元来絵の具を調合するのが下手なので、思うような色が作れず困った。映画もシーンごとに若干色味が違って見えるし(照明の問題もあるが、そもそも衣装がいくつかあって、同じ作品内でも別物のときがある)、コスプレ衣装として定番のカラーはあるが、別にそれに忠実にしたいわけでもない。あくまでイラストの色のような雰囲気にしたい。そうなると数多あるボバ・フェット玩具の色味などを参考にするのだが、これが本当に星の数ほどあって、一時頭がおかしくなりそうだった。黄色が強めの緑なのか、青が強めの緑なのか、暗いのか明るいのか。強めのアレンジを加えてもよかったが、元がデフォルメチックなだけに外し過ぎると全然ボバに見えなくなりそうなのが怖かった。ちなみにぼくはオリジナルのマンダロリアン戦士の格好とかは全然興味なくて、したいと思わない。あくまでボバ・フェットがいいのであって、オリジナルの戦士とかになると、たとえ顔だけボバのそれと同じでも、それはもうSWでもなんでもないような気がする。アニメ版の造形を参考にしたのでアニメ版の色彩も合いそうだったけれど、おそらく王道の色のボバを一度作らないと満足できなさそうだったので、変わり種は次の機会ということで。
 

 というわけで完成して満足。ヴェイダーやトルーパーもいいが、やはり一番好きなヘルメットはボバ・フェットである。この新しいUTの絵はアニメ『ドロイドの冒険』のボバ。アニメ配色もいつか試してみたい。首から下も作るかどうかわからないけど、できたらやる。そしてまた、ガントレットを緑にするか赤にするかで悩むんだろうな。工作は楽しい。

2019/05/25

ディズニーウェディングに行く


 これは5月の連休より前、4月末のことだったんだけど、中学時代の同級生の結婚式に行った。ディズニーランドのアンバサダーホテルである。ディズニーウェディングに参列することもそうそうなさそうなので貴重だった。プロフィールビデオで生い立ちが説明される中、中学時代だけすっぽり抜け落ちているのが可笑しかった。これはしょうがない。いやあ、お互いよく生き残った。



 普通にパークに行ったときにはまず見ない光景なんだけど、一度に4体揃うとなかなかの迫力。というか強烈だった。ぼくは着ぐるみのミッキーに(恐怖で)大泣きしたタイプの子どもだったけど、まじまじと見ていてわかったことがひとつ。鼻面が前に勢いよく飛び出しているのが、その独特の迫力の一因ではないかと思う。ましてや先端恐怖症的にはおっかないものがある。ドナルドの方も飛び出してはいるのだが、鼻に比べれば平らで優しい感じ。

2019/05/12

『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)


 真っ先に浮かぶ感想としては、「すごいものを観た」。非常に長尺であるということは事前に聞いていて、ちょっとよくわからない脅し文句が並んでいるのも目にしてはいたが(トイレに立たないため前の晩から食事をとるなとか)、楽しい映画なら3時間などあっという間だった。逆に退屈な映画なら本編90分でも苦痛である。自分でも驚いたが、3時間飲み物もなしによく集中したと思う。自宅にいるときは30分に一度くらいにコーヒーだの白湯だの入れているが、集中していれば必要ないんだな。

 というわけで内容に触れないわけにはいかないので以下スポイラー・アラート。ブログ・トップ画面で表示される冒頭文章に本題が入らないように稼いだのだ。

 前作『インフィニティ・ウォー』で全宇宙の生命の半分を消滅させたサノスの所業をどうやって帳消しにし、消されたひとたちを元に戻すのか、というのが一番注目されていたところだが、その鍵はアントマンと、彼が脱出してきた量子世界にあった。アントマンは『アントマン&ワスプ』のラストで量子世界に閉じ込められてしまうのだが(量子トンネルの外で彼を呼び戻すはずだった仲間がサノスに消されてしまったから)、5年経って偶然にも脱出を果たす。しかし、彼が向こうで体感していた時間は非常に短く、時間の流れ方が外の世界とは異なっていた。量子トンネルを応用すれば時間を遡ることができ、サノスの企みを阻止することもできるのではないか。こうして悲劇から5年、アベンジャーズは再び力を合わせて最後の大勝負に出るわけだ。アントマンが大きな役割を果たしたのがなかなかうれしかった。

 時間を遡ってどうするのかといえば、赤ん坊のサノスを殺すわけではなく(この作戦はぼくも以前思いつき友達に話すも「とてもヒーローのやることではない」と一蹴されたのだが、劇中でウォーマシンことローディが同じことを提案していた可笑しかった)、かつて各地に散らばっていたインフィニティ・ストーン(サノスが使ったパワーの源であり、これまでの作品にキーアイテムとして登場してきた)を、サノスが収集する前の時点から集めて現代に戻り、消えた人々を呼び戻すのだという。そういうわけで、これまで各ストーンが登場した作品の場面へと、ヒーロー達がタイムスリップするのだが、これがちょっとした懐かしの場面集とその裏側といった感じで、2012年に飛ぶと、一作目『アベンジャーズ』での戦いの最中にあるニューヨーク、2013年は『マイティ・ソー:ダークワールド』のアスガルド、2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』における惑星モラグに行くと、ピーター・クイルがヘッドフォンでレッドボーンを聴きながら踊っているのが見える、といった具合。ストーリー上自然に今までの冒険の一部を思い返すことができるくだりで良かったし、単に観たことある場面ではなく、その裏側や、違う視点が描かれるのがおもしろかった。

 すっかり和解したトニー(アイアンマン)とスティーブ(キャプテン・アメリカ)は、さらに1970年に飛び、アメリカ軍基地(シールド施設でもある)に保管されていた四次元キューブを回収しようとするが、トニーはそこで亡き父ハワードと遭遇する。正体を隠して父親と話を合わせるトニーに、ハワードはもうすぐ息子が生まれるが父親になることをどう受け止めていいかわからない旨を告白する。その当の息子であるトニーにも、今や娘がいた。彼はこのアベンジャーズの反撃に加わることを最後まで渋っていたのだが、それは彼がこの5年の間に家庭を築いていたからだった。再び失敗すれば今ある幸福さえも失ってしまうのではないかという恐怖を、彼は娘の寝顔から感じていたのだ。だからアベンジャーズが現代の時点から人々を復活させようとしたのは、5年間に起こったことを変えないためでもあった。全て無かったことにするには、5年間は長すぎた。トニーの娘モーガンのように新たに生まれてきた命はもちろんだが、その間強く生きてきた人々の時間さえも否定してしまうからではないかと、ぼくなどは思う。

 常に良好な関係ではなかったトニーとハワードだが、トニーはようやくハワードと同じく父親になり、同じ感情を共有するに至った。今までぼくはトニー・スターク、アイアンマンにあまり感情移入してこなかったけれど、今やぼくも父親である。そしてトニーと同じく娘がいる。それだけで十分だ。トニーとモーガンの父娘はもちろん、トニーとハワードの会話には熱いものを感じる。最初から親だったひとなどおらず、子どもが生まれてもなかなかその実感や自覚は持てないかもしれない。よい親とはなにか、親らしさとはなにかも、恐らく正解はない。ただ、ふたりのスタークのように探り探りで親に「なろうとし続ける」しかないのだろうと思う。

 思えば最初の『アベンジャーズ』を観た2012年の夏というのは、非常に惨めな時期だった。仕事は無くほとんど無一文で、なけなしのお金で映画を観たのを覚えている。そこまで興味があったわけではないのに、ましてや『アイアンマン』1と2しか観ていないような状態だったのに、なぜか突き動かされるように観に行った覚えがある。大方ネットで話題だったからだろうと思うけれど、話題だからといって無いお金を出してまで観る人間ではないことはわかってもらえるだろう。とにかく余裕のない頃で、その日の食事も取れるかどうか微妙な有様だった。それでも、この映画は観たい、と強く感じたのだろうと思う。それから7年が経とうとしている。とても余裕に満ち溢れているわけではないにせよ、一応人並みに生活をしている。7年前はお金も無い上にとても孤独だったが、今では結婚して子どももいる。雲の上の存在だった人たちが家に遊びに来てくれるようになった。友達もいる。怖がる必要のない本物の友達だ。

 遠くに来たような気もするが、ぼく自身はずっと同じところにいるような気もする。変わらずに夢中になれるものがある一方で、いつまでも思い出しては嫌な気分になることもある。つまりはいろいろあったわけだけれど、その年月で、自分も父親になったということが、繰り返しになるけれどトニー・スタークと重なるようだ。2008年から観てきたわけではないが、途中からでもリアルタイムで体験できて良かった。見届けられたという満足感でいっぱいだ。アイアンマンに始まり、アイアンマンに終わったところも綺麗だと思う。10年よくやってくれた。あなたはアイアンマンだ。そして、親になってから観るアベンジャーズは熱い。ぼくにもハートがある。

 トニー・スタークはともかく、たくさんキャラクターが登場するので、前からのお気に入りキャラクターが顔を出すと、まるで大勢の中に知った顔を見つけたときのようなうれしさを感じる(なんだそこにいたのか!)。お気に入りの作品、お気に入りのキャラクターは人それぞれあるだろうけれど、ぼくの場合それはスター・ロードやアントマンだった。ユーモラスなキャラクターは友達感が強い。今回スター・ロードの出番はあまり多くないけれど、復活して再登場したときはやはりうれしかった。今回はちょっとトホホな役回りだったなあ。前述のようにアントマンのテクノロジーがみんなの役に立つのもうれしかったし、ネビュラのキャラクターが深くなっていくのも良かった。カレン・ギランみたいなひとは好みだな。お気に入りのひとたちを含めて全員集結してアッセンブルするクライマックスは言うことなし。好きなキャラクターはこれからもどんどん描いていきたい。

2019/05/09

スター・ウォーズの日イベント

 まあ思った通り、連休中やろうと思ってたこと全部はできなかったけれど、もともと立てていた予定は楽しく過ごせたし、ゆっくり過ごせたのでよかった。『アベンジャーズ:エンドゲーム』を観たので、ずっとそのことを考えたりした。遠くから来てくれた友達を案内もできた。ちょうど5月4日でスター・ウォーズの日だったので、六本木のJ-WEVE主催イベントを覗いた。夏日のような暑さで混み合っていたけれど、雰囲気だけ楽しんだ。キッズがたくさん来ていたのが印象的。まだまだ子どもは好きらしい。親の影響もありそうだが。


 去年のコミコンのときからコスプレと写真撮る習慣ができた。天気がいいのでキャプテン・ファズマは遠くからでもかなり目立っていたけれど、近くで見るとダクトテープ大活躍のコスチュームで、そういえば自分も『フォースの覚醒』公開時に作ったヘルメットはダクトテープで仕上げたなあなんて思い出した(結局不恰好になったので処分した)。また作るならやっぱりダクトテープだな。ほかのキャラクターにも使えそうだ。アントマンとか。ただ、ダクトテープは表面が柔らかいので、爪を立てたりすると跡がそのまま残る。傷だらけというのもいいかもね。


 去年のコミコンでも撮ってもらったドラマ『マンダロリアン』のガンファイター。あれからいろいろ新情報が出たけれど、それでもその完成度が色褪せることは全然ない。調べればいろいろな資料が手に入る時代だけれど、少ない情報で絵とか衣装を作るのはやはりセンスが試されるのだろうなあ。一作目公開当時のコスプレなんかも、資料が少ないぶん適当なひともいれば、だからこそ気合いの入っているひとが結構いたということが、残ってる写真からもわかる。そういえば、去年このひとを見て自分もボバ・フェットを出来に関わらず一回作ってみようという気になったのだけれど、この連休が始まる頃についにヘルメットが完成した。運ぶ方法がちょっと用意できていなかったので、このイベントでは断念したけれど、持って来れたらよかったろうなあ。いずれ被っていろんなひとと撮りたい。

2019/05/03

時間はあまりに茫漠なので

 改元が決まった頃にも書いたけれど、これでとうとう生まれ育った年代が終わったわけである。もうとっくに平成生まれということで珍しがられることもなくなったけれど(90年代生まれも同様)、これからは、かつて自分が子どもの頃大人たちに抱いていたような遠さみたいなものを、自分の中にも持っていくことになるんだろうな。もちろんこれは、元号の関係ない文化圏でも同じことで、だいたい10年ごとに区切られた年代の中でひとは大人になったり年寄りになったり、お子様扱いされたり、懐かしんだりする。なんにしても、こういうタイミングで子どもが生まれて親になったというのは、ある種の巡り合わせだろうと思う。娘自身にしたって、旧時代の超末期に生まれて、これから先元号と同じ調子で年を重ねていくことになる。もしかすると、後々になって父親と同じ元号なんて嫌がるかもしれないけれど。でも、元年に1歳は覚えやすいよ。

 時間そのものが人工的なものかどうかはさておき(このあたりのことは詳しくない。惑星や恒星の動きが時間をもたらしているのであれば、宇宙自体が時間を生んでいると言えるだろうし)、しかしこうして時間というものを、キリストが生まれてから100年ごと、その内の10年ごと、あるいは君主在位期間で区切って時代を定義しようというのは、意味のないことではないと思う。いろいろな区分があってややこしいこともあるけれど、しかしそれだけ時間の流れには視点やバリエーションがあるということで、たとえばアベンジャーズの新作を観ている3時間ならあっという間だが、田舎でバスを待っている1時間は半日くらいに思えたり、いやそれはちょっと違うが、まあとにかく自分の中でも人生がいろいろな時期に分けられるのである。そうでなければ時間とはあまりにも茫漠で捉えどころがなく、いつなにが起こったか思い出すこともできないだろう。ちなみにぼくは現代史を考えるときにやっぱりスター・ウォーズ1作目公開の1977年を起点にしがちである。1977年よりあとか前かで頭に印象付けているところがある。つまりはそういうことだ。

「世界のへんな肉」(白石あづさ著/新潮文庫)装画


 白石あづささんの「世界のへんな肉」(新潮文庫)の装画を担当しました。世界各地でいろいろな動物(あまりこちらでは食用のイメージがないものが主)を食べてきた記録で、旅行記としても読むことができます。ぼくはジビエとかは好きですね。

「HAIRMODE」6月号



 女性モード社の「HAIRMODE」でのヴィンテージTシャツ紹介コーナーの挿絵。6月号のテーマは「大学」で、カレッジTシャツが紹介されています。キャンパスの芝生に、学生でないカップルが遊びに来ている図。

 


 そういえば5月号を紹介しそびれていた。テーマは「70年代ロック」でした。ライブハウスに来ているカップルの図。ライブハウスというのをよく知らないので結構調べたけれど、雰囲気出ているだろうか。いつか行くこともあるだろうか。

「SPUR」6月号



 「SPUR」6月号の映画レビュー連載では、5月17日公開の『アメリカン・アニマルズ』を紹介しています。00年代に実際に起きた大学生たちによる希少本強奪事件を描く。白昼堂々図書館の展示室に強盗に入るという無謀な犯行もインパクトがあるが、学生たちの稚拙な動機や計画が形作られていくところがメインでもある。途中で事件を起こした本人たちの証言も挟まれ、時折4人それぞれの記憶が食い違ったりもするのもおもしろく、事件がどんどん伝説みたいになってくる。彼らの人生がいっときの出来心(というからには結構用意があったわけだが)でいかに狂ったかも語られる。ぼくはどうも自分が子どもの頃、十分にどう過ごしていたかを思い出せる年代に起こったこと、あるいはその頃を描いた映画とかに弱いんだなあ。

「婦人公論」5/14号



 ぼやっとしていたらあっという間に改元してしまったけれど、とりあえず溜まっている告知から。「婦人公論」5/14号のジェーン・スーさん連載挿絵。ファム・ファタルというのは魔性の女といったような意味で、本人になにか自覚があるわけではないけれど、どうも異性たちが絡んでくるというスーさんのお友達のお話。時折SNS上でコンタクトを取られるもののそれ以上のことはなにもなく、それ以上は踏み込んでこないということで、一方的に額装されて遠巻きに気にされているようなイメージに。