2015/06/18

「スタッキング可能」感想



  会社に勤めたことないけれど、オフィスって思っていたより楽しそうだなと思った。「スタッキング可能」の登場人物たちが度々思い至るように、そこは学校をそのまま上の階層に(それこそ積み上げられている上の方に)押し上げたような側面があるのかもしれない。各々もちろん責任を持って仕事をしているのだけれど、閉鎖的な空間に人間関係があって、仲良い人、良くない人、しゃべったことない人がいて・・・。
 オフィスに勤める人々のそれぞれの思惑や考えを読んでいるのは楽しいし、全然違ったキャラクターの視点を行ったり来たりするわりには、皆同じことを思っていたりして、なんだほんとは皆わかりあえるんじゃんって安心したりもする。
 色とりどりの付箋、ポストイットのイメージも十人十色な登場人物達のイメージと重なるところがあるかもしれないと感じたので、たくさんのポストイットをくっつけて歩く毛むくじゃらなチームリーダー(もといE木さん)を描いてみた。
 ときどき突如挿入されるシャーロック・ホームズの茶番(行間遊びというのだろうか)も楽しい。

 街頭(実際は公園だが)演説と会話劇で繰り広げられる「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」は声に出して、役になりきって読んでみたくなるリズム感があって、とても好きです。

2015/06/17

「停電の夜に」感想


 別に移民の問題を訴えているような本でもないし、アメリカで暮らすことを悲劇的に描いているわけでもない。登場人物たちはそれぞれの事情で故郷をあとにし、あるいはその両親のもとに生まれ、アメリカで暮らしている。その中で起きる様々なエピソードが淡々と描かれているわけで、それはとても個人的な物語となっている。二つの異なった世界に挟まれた個人的な物語。同時に外から見た、客観的に描かれたアメリカでもあり、インドの姿にもなっている。
 見知らぬ世界で暮らすのは移民の人に限らない。たとえば地方から都会に出てきた人にだって、その喪失感や、馴染みのないところで今までと全然違った生活をしなければならないことがある。なにからなにまで違うから、戸惑いながらもどこかに新鮮さを見出して暮らしていく。
 ぼくは「セン夫人の家」がお気に入り。エリオット少年があずけられたのはインド人夫婦の家で、セン氏は大学教師。夫人は夫のいないひとりの時間にエリオットをあずかることになる。このエリオットというのが母親と二人暮らしで、仕事から帰った母がワインとチーズで夕食にする傍らで宅配ピザを食べるという生活をおくっている現代アメリカっ子なのだが、対してセン夫人はナイーブなインド女性で、いつも故郷に思いを馳せたりアメリカ生活の勝手の違いにひどく戸惑っている人。この二人の交流がなかなかおもしろい。
 セン夫人が勇気を振り絞ってアメリカ生活に慣れようと奮闘するのを、エリオット少年がじっと観察しているふうに描かれている短篇だ。夫人の奮闘がやがて寂しい展開をもたらすのだけれど・・・。
 ところどころに登場するインド料理も字で読んでいてとても美味しそう。
 このあとラヒリが書いた長編「その名にちなんで」は、この短篇集「停電の夜に」に出てきていた要素を全て結集してつくったような傑作なので、また追々感想を書きます。

2015/06/13

「マーベル・シネマティック・ユニバース」/「アベンジャーズ」への繋がり


 今回はイラスト記事での一作ごとの感想は割愛。一本ずつ書いていたら新作「アヴェンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開してしまうどころか、年が暮れてしまう。マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)は一作ごともおもしろいのだが、なにより全体としての繋がりや体系がおもしろいので、その系譜を簡単にまとめてみた。2008年の「アイアンマン」から始まり、ハルク、ソー、キャプテン・アメリカのエピソードが語られた上で、それらは一旦2012年に「アベンジャーズ」へと収束していき、さらにフェーズ2へと展開を続けていく。

 娯楽映画を地で行きながらも、キャラクターの背景をよく描いている。一作ごとがその主役キャラクターのプロフィールとなっており、他のキャラクターの映画とのリンクも随所に盛り込まれている。同じ役者が演じる同じキャラクターが繋ぎ役としてこっちの映画からあっちの映画へと駆け回り、別々の映画でありながら同じ世界を描いていることが伝わってくる。別々の監督が別々に撮った映画たちなのによくこれだけ整合性というか、調和を取れたものだと思う。特にそれまでソロで主演を張っていたヒーロ―達が一同に集う「アベンジャーズ」では、一体どうやって収拾をつけるのかと思ったが、これが綺麗にまとめられている。しっかりひとりひとりに見せ場が用意され(ヒーロー達だけではなく、今まで各映画に繋ぎ役として顔を出していた脇役にさえもだ)、映画観ている間はまるでカラフルなコミックのページをめくっている気分だった。
 もちろん全ての作品に原作者スタン・リーがカメオ出演している(マーベル映画のお決まり。あのじいさん、ヒッチコック気分かよ!)。

 「アイアンマン」は、特に日本の男子達を夢中にさせたのではないだろうか。天才技術者にして大企業の社長トニー・スタークは負傷した自身の身体を支えるためにハイテクなパワード・スーツを制作して着用する。この「自分で作って着る」というところに男子は夢中だ。日本の特撮ヒーローの「変身シーン」に通じるアイアンマンのスーツ装着シーンや、試行錯誤を繰り返してひとり工作に励むトニーの姿はまさに少年そのもの。続く「アイアンマン2」でも自分で黙々とスーツ制作を続けるトニーだが、アイアンマンの物語では「作る」という行為が重要な軸になっているのかもしれない。いずれにせよメカを作るという行為は大変魅力的だ。もちろん戦うシーンも爽快。ロバート・ダウニー・Jrにトニー・スタークというキャラクターが憑衣というか、ものすごくはまってるところも人気の理由。

 「インクレディブル・ハルク」ではすでに科学者ブルースが実験事故で怒ると緑色の巨人ハルクに変身してしまう身体になったその後から物語が始まるところが新鮮。怒りを沈める修行に取り組むブルースだが、どうしても緑色の巨人に変身してしまうという宿命と向き合う。スターク社がちらっと出てきたり、ブルースをハルクにしてしまう実験の元が、第二次大戦中にキャプテン・アメリカを生み出した研究と同一であるところなど、世界観の広がりを感じさせる。小柄なティム・ロスが悪者ハルク化するところも良い。本作でブルース/ハルク役はエドワード・ノートンなのだが、大人の事情で以降の作品では降板。ノートンのハルクは、変身前と後でのギャップが大きいところがよかった。「アベンジャーズ」ではマーク・ラファロが演じるが、この人はすでにごつくてハルクっぽい顔をしている。どちらのハルクも好き。

 「マイティ・ソー」のソーとは北欧神話の雷神トールに基づくキャラクター。ヒーローというかもう神様である。マーベルの設定では北欧神話の神様は別の星から地球に来て巨人と戦った宇宙人ということになっている。身勝手な行動で王国の平和を乱した罪で王である父親に地球へと追放されてしまったソーが、地球で出会った天文物理学者ジェーンたちとともに危機を乗りこえるお話。ジェーン演じるナタリー・ポートマンも、その助手ダーシー役のカット・デニングスもかわいいし、研究仲間セルヴィグ博士役のステラン・スカルスガルドは最近のぼくの推しおじさん。
 神様たちの住む宇宙側の話が壮大なのに対し、地球サイドの物語はとてもスケールが小さい。これまでのMCU映画とは違い、同じ地域から全然離れない。宇宙側のスケールとのバランスのためだろうと思うけど、これがまた良いのだ。宇宙側で大変なことになっているときに地球サイドはものすごくのほほんとしている印象。北欧神話であるためか、監督はケネス・ブラナー。ハリウッドのヨーロッパ人頼み。

 ぼくがMCUで一番好きなのは「キャプテン・アメリカ」。監督は「スタ―・ウォーズ」のスタッフとしてもお馴染みのジョー・ジョンストンで、彼は「ロケッティア」にて第二次大戦中のヒーローというレトロ・フューチャーな冒険活劇をみごと描いてみせたので、同じくナチと戦うキャプテン・アメリカにはもってこい。
 ときは戦時中、身体が弱いがひと一倍優しく愛国心を持つスティーブは徴兵検査におちてばっかりだったが、その精神を買われてスーパー・ソルジャー計画に被験者として参加、超人血清を打たれてひょろひょろだったのが瞬時にめちゃくちゃなマッチョになり(バックグラウンドがちょっと三島由紀夫っぽい)、星条旗に文字通り身を包んでナチスの科学部門ヒドラとそのリーダー、レッド・スカルと戦う。
 キャプテン・アメリカに技術提供をするのがトニー・スタークの父親ハワード・スタークだったりするところに世界観リンクがあっておもしろい。
 最終的に戦いに勝利するも、ヒドラの飛行機で北極に墜落してしまったキャプテン・アメリカは生きたまま氷漬けになってしまい、70年後の現代になって発見されて目を覚まし、アベンジャーズに加わる。ものすごい展開だが時代まで越えてリンクしてしまうのがMCUなのだ。

 そして上記5作で活躍したヒーロー達、そしてちらほらと登場していた脇役達が一同に終結するのが「アベンジャーズ」。果たして戦時中の軍人(超感覚が古くてカタい)、雷の神様(もう人間の存在を超越している)、金持ち社長(プレイボーイで自惚れ屋)、超危険な緑のクリーチャー(怒ったらもう抑止がきかない)といった面々がチームなど組めるのかと誰もが心配。しかも超人たちに加えてスカーレット・ヨハンソン演じる元ロシアの女スパイ・ブラック・ウィドウ(年齢設定がおかしいんだが・・・)や、サミュエル・L・ジャクソン演じる司令官フューリー(実際リーダーシップがあんまりない)、ジェレミー・レナー扮する弓矢の名人ホークアイ(地味)など、「普通の」人間も同じチームなのだからすごい。実際、戦闘シーンになると超人たちがド派手なアクションを繰り返す中、ブラック・ウィドウはハンドガンをドンパチ撃ち続けているし、ホークアイはひたすら弓を引いている。でも適材適所というか、それぞれが全然違う特色を持って互いに補い合うところがアベンジャーズの肝。大変楽しい映画となっている。

 以上。まずは「アベンジャーズ」までのフェーズ1のおさらいでした。「アベンジャーズ」以降、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」に向かって展開していくフェーズ2に続く・・・。

2015/06/10

「アデル、ブルーは熱い色」感想


 この映画に関しては単に「レズビアンを描いた映画」とするには抵抗があるし、あまりそのテーマを念頭に置いて考えたくない。わざわざ同性同士の恋愛というラベルをつける必要がないからだ。この映画で描かれていることは異性同士の恋愛でも普通に起こり得ることなのだし。それでも、終いまで観ると、やはりアデルが根っからのレズではないことも、エマとの間に生じるズレ要因のひとつとなったのだと思う。同性愛かどうかはさほど重要ではなく、彼女はただ、エマという人、鮮やかなブルーの光線を放つエマその人が好きになっただけだったのだろうと思う。

 たとえば、労働デモのシーンとプライド・パレードのシーンの対比。
 前半でアデルの高校生としての暮らしぶりが描かれるわけだけれど、その中に労働デモに参加するシーンがある。仲間と騒ぎたいだけの興味本位で参加しているのか、本当に政治的関心が強いのかは少し計りかねるけれど、見たところ前者としての印象が強い。もちろん、アデルとエマの属する世界や階級(この言葉を使って人間やその家庭をカテゴライズするにはやはり抵抗があるのだけれど)の違いを描いてもいるのだろう。だが、その後になってエマとともにプライド・パレードに参加するシーンではずいぶん違った印象を受ける。アデルは労働デモのシーンほど熱狂している様子がない。イベントの性質が違うので、怒鳴り声を上げることもないのだが、それでもどこか心ここにあらずといった様子でぼうっとしている印象を受けるのだ。ノリきれていないんだよね。
 アデルとエマの違いは徹底的に描かれる。たとえば家庭や進路がそうだし、ボロネーゼとオイスターはその違いのアイコン。フランスでの現実的な格差のことはよくわからないけれど、違いのポイントを探していくのも映画を観る上で楽しいと思う。

 最終的にずっと囚われていたものからふっきれて、前に進もうとするアデルからは力強さと成長のようなものを感じる。十代の終わりから二十代前半というかなり重要な時期を捧げてしまったものから脱却するなんて簡単なことではないのだけれど、誰もが経験することなのかもしれない。アデルの場合、それがエマだったということ。アデル自身がブルーになっていたのが印象的だ。それも、劇中登場したどの時期のエマよりもずっと濃い青をまとっていた。時間の経過とともに、どんどん青くなくなっていったエマとは対照的な姿だが、それはエマとの関係が終わり彼女の影響下から脱しても、自分にとって大切なものは変わらず抱き続けているのだということを表していたのかもしれない。最後はアデル自身がブルーになったのだ。

 ところで、アデルの父親が芸術家志望のエマに「芸術で食べていくのは大変だ」とかなんとか講釈を垂れるのだけれど、美術の道を志す人が、ろくに知りもしない外野から「食べていくのが大変だ」などと無責任な忠告をされてどんなに苛立ちを覚えるか、ぼくは知っている。だからあのシーンでのエマの絶妙な表情には感動した。絶対苛立ってるだろうな、将来が不安定でよく見えないことは本人が一番よく知っているのだから(それでいて相手はあくまで自分の身を案じて言っているのだから、苛立ちをどこへ向ければいいのかわからない)。
 それでもアデルの両親の「レベル」に合わせて、相手にとって都合の良い返事をしてなにごともなく会話を進めるエマを「大人だなあ!」と思った。いやあぼくだってああいう状況でああいったことを言われても憤慨したりはしないけれど。

 未だに判明しないが、アデルのクラスメイトのものすごいつり目の人が気になっている。エマとともに遊びにいったアデルがクラスメイト達からやいのやいのと言われたあとで、アデルを擁護しようとする彼女。この女優の名前がわからないのだ。キャスト名を片端から画像検索にかけてもわからない。ノンクレジットだろうか。わかる人がいたら教えていただきたいです(資料が乏しいので似顔絵がいまひとつですが・・・)。その後アデルの誕生パーティにも来て、リッキ・リーの「I Follow Rivers」に合わせて踊る姿が大変綺麗で愛らしいのです。

 ウーン、生牡蠣が食べたい。ボロネーゼは映画を観た翌日に食べた。
 

2015/06/02

HEROES & VILLAINS FROM THE PHANTOM MENACE


 コアなファンな間では賛否ある曰く付きのエピソードだが、ぼくは好きだ。結局最初に触れたSWムーブメントというのが、1997年の特別篇公開と、それに続く1999年のこの「ファントム・メナス」公開の時期だから、子供時代の思い出と直結しているわけだ。特にすでに小学二年生になっていた1999年の記憶ははっきりとしていて、「ファントム・メナス」はぼくにとって夏休みを連想させる。ムーブメントの時期そのものもそうだが、夏の青い空に似た爽快感がこの作品にはあると思うから。昔からSWを見てきた上の世代がなんと言おうと、この映画はぼく(と同世代人)にとって最初のSWでなかろうか。年長者の口ぶりを真似て玄人ファンぶる気にはなれない(玄人ファンて何だ・・・)。
 突っ込みどころはたくさんあれど、それもまた「ファントム・メナス」の個性と言えるのではないか。いずれにせよSWファンは賛否に関係なく、「ファントム・メナス」について語ることをやめないのだ。その意味でもこの作品はシリーズ中において特別な位置づけにあると言える。

2015/06/01

「シンデレラ」感想


 やっぱり皆が観たいのは後日譚前日譚とかよりも、その物語自体の実写版だと思う。よく知る物語だからこそ新たにアレンジするのだろうけれど、よく知る物語を本物の俳優や映像で観たいのだ。もちろんこの「シンデレラ」に一切新要素がないわけではない。けれど、その唯一挿入されたアレンジ要素が、今までほとんど語られなかったシンデレラの実母との思い出という、ごく自然ですんなり入って来る、本当に丁度良いアレンジなのだ。それ以上変なアレンジを加えていないので、ストーリーの進行も自然で、突っ込みたくなるところもほとんど無い。
 ケイト・ブランシェットの継母も、とても嫌なやつだったが女性としてちゃんと立体化されているようにも思えた。その嫌な性格にも少し含みがありそうだったけれど、それを決して全部語ろうとしないところが良い。あれくらいで丁度良いと思う。継母なりに思うところもあったらしいが、とりあえず悪い奴は悪い奴だから悲惨な最期を迎えなければならない、と「綺麗に」収まっている。
 アニメ版では戯画化されて邪気の無かった宮殿側の人物達も、良い具合に権威や階級に毒されていて、ステラン・スカルスガルドの大公はアニメ版のような道化ではなく、狡猾な野心家として描かれている。こういったところにこそ実写化する意味があるのではないだろうか。本物の生きた人間が演じるのは、元のストーリーをそのままトレースしたり、派手なアクションシーンを取り入れたりするためだけではないはず。生きた人間としてのキャラクターが物語に深みと奥行きを与えてこそ、実写化する意味があると思う。
 特にCG製の妙なクリーチャーが出て来ることもなく(むしろ最新の映像技術で表現されたカボチャや動物が馬車や従者に変身していくシークエンスは素晴らしい)、徹頭徹尾「シンデレラ」を実写化することに努めていて大変好感が持てた。昨年の「マレフィセント」で消火不良を感じた人は満足できるのではないだろうか(そもそも映画のタイプが全然違うが)。
 そういえば、継母の飼う凶悪な黒猫ルシファーも実写で登場したのは個人的に大変うれしかった。



2015/05/21

「インヒアレント・ヴァイス」感想


 劇場パンフレットのデザインがとにかくカッコイイ。パルプ小説のような装丁を意識したようなデザインになっているのだけれど、確かに「インヒアレント・ヴァイス」はパルプ小説的だと思う(パルプ小説を読んだことはないがイメージとして)。やや思い込みが激しくラリラリな探偵ドックは“抜群の”推理力でもって陰謀のコアへと向かっていくが、陰謀に向かっていけばいくほど「それあんたの思い込みじゃ?」とドックに言いたくなるようなところも。本人は一生懸命推理をして点と点を繋ごうとするのだが、どうしても傍目には陰謀説を唱える思い込みの激しい人という感じが否めない(まさにヒッピー)。そのため一体どこからどこまでがドックの推理通りで、どこからが彼の妄想なのかがだんだんわらなくなってくるのだが、そこがまたおもしろい。安っぽい陰謀説に振り回される物語というところがパルプ的なのだと思う。
 ところでぼくの大好きなビデオ・ゲーム「グランド・セフト・オート」シリーズは、そもそもこういう世界を描きたかったんじゃなかろうか(「ヴァイス」という言葉から、ぼくのようなガキはどうしたってGTAシリーズの名タイトル「ヴァイス・シティ」を連想してしまうのだ)。独特の色彩を放つ街や不動産王、凶暴な警官にジャンキー達・・・一癖も二癖もあるどころではない漫画的な奇人達のオンパレードは、このギャング・ゲームでも最も魅力的なポイントとなっている。ロックスター・ゲームスのクリエイター達はピンチョンの小説を読んでいるのだろうか?それとも、こうしたキャラクターの組み合わせはパルプの定番なのだろうか。アメリカの暗黒街を描くにあたって使い古されたアイコン達なのか。
 画面を通して1970年代(のロサンゼルス)を旅行しているような気分にもなる。実際の空気感なんてものはぼくにはわからないが、それでもぼくのイメージ上の、半ばファンタジー的でもある70年代世界がこれでもかと描かれていて、上の世代の人達が頷いているのであればこの映画の世界は70年代の、少なくともその一面を再現しているのだろう。色彩はもちろん、なんだか匂いも漂って来そうで、全編に渡って画面がなんだか煙いというか、観てる途中でフワフワした気分になってくるのは、この映画そのものが危険な中毒性を帯びている証拠なのだろうか。そしてそれはピンチョン文学に通じる危険な魅力なのかも。
 

2015/05/13

TVステーション「バナナマンのバナナイスデー」カットイラスト



 昨年末からカットを描かせていただいている「TVステーション」(ダイヤモンド社)内の「バナナイスデー」はバナナマンのお二人が対談形式でいろいろな話題を取り上げる連載です。活字を読んでいながらお二人のトークする声が聞こえて来るようで楽しいです。結構枚数が溜まったので何枚かピックアップしました。
 誌面全体がビビットな黄色を使ったレイアウトなので、イラストもパキッとした色合いにするべくデジタルで作っています。デジタルは色が綺麗に出てとても良い。

2015/05/11

富山・高岡ドラえもんツアー


 聖地巡礼っていうやつ、初めてかも。ドラえもニストな妻から聞かされるまで藤子不二雄が富山出身だなんてまったく知らなかったけれど、行ってみてわかったのは、ちっとも外に向かってそのことを大々的にアピールしていないということ。空港の名前に使ったりなになにロード、みたいにスポットを作って宣伝もしていない。ほとんど全てを他県にあるミュージアムに譲ってしまっていると言っていい。富山の人の控えめなことと言ったら!その控えめさがとても好きになった。そして、ほんの少しだけあるドラえもんスポットがとても素朴で可愛らしく、どこか洗練さすら感じられて見てまわっていてとても楽しかった。路面電車が走っているだけでなんだかハイカラだが、ドラえもん仕様(しかもなかなかかっこいいデザイン)のやつが走っているなんて近未来感を感じないではいられない。新幹線の紺色と同様、ドラえもんトラムの青と赤のカラーもまた北陸の静かな街にアクセントな差し色を与えていた。
 地図を描いていて気付いたけれど、小学校と古城公園の位置が近い。もしかしてお馴染みの「学校の裏山」というのはこの古城公園のことだろうか。小学校の裏側かどうかはわからないが。藤子不二雄自伝「まんが道」ではF氏とA氏がこの古城公園でああでもねえこうでもねえと悩みながら散歩する(「まんが道」はA氏視点で描かれているので主にうじうじ悩んでいたのはA氏だが)。確かにああいうところなら歩き回っていろいろなアイデアが浮かぶことだろう。思春期のもやもやはなんとなく和らぎそうだし、なにより夜中に宇宙人が上陸したり、内緒で未知の生物を飼ったり、その他友達となにか企むにはもってこいのスポットに思えた。古城公園だけではなく、そこかしこにFワールドの片鱗を感じることができる。もちろんそういうことを意識するからなのだろうけれど。そうやって考えながら歩き回るのは非常に楽しかった。
 ぼくは今ドラえもんの舞台といわれる練馬近辺に住んでいるのだけれど、そういえば住宅地を歩いていると、まさにのび太の家の近所みたいな風景を見かけることがある。都会に出て来るまでアニメに出て来る住宅地や街というのはファンタジーの世界に思えたけれど、今にもあそこの二階の窓から冴えない小学生が顔を出し、外から声をかけてくる友達に渋々返事をしそうだ。普段からドラえもん妄想をしながら歩いたら楽しいかもしれない。面倒な犬の散歩も楽しくなるというものである。
 ところで藤子不二雄のお二人は新人の頃に正月休みでこの高岡に帰ってきて、ほっとするあまりのんびりし過ぎて、抱えていた原稿を全ておとしてしまったというエピソードがあるらしい。それだけ二人が安心してしまうのもわかるような気がする。地方出身者にとって地元というものは総じてそういうものかもしれないが、それでも高岡はやはりのんびりのんびりと時間が流れていてすっかり原稿を落としてしまってもおかしくない安堵感を感じられたような気がする多分(それでも普通落とさないと思うが・・・)。二人がのんびりしてしまうのも無理はないな思ったわけさ。
 ドラえもんとは関係ないが、ほたるいかの味を覚えた。沖漬けやら塩辛やら。そもそもぼくはイカの塩辛が好きなので、沖漬けも黒作りも非常に美味しかった。イカえもんがいればいいのに。
 

2015/05/07

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」感想


 正直1989年の「バットマン」の頃よりマイケル・キートンの表情がとても良いと思う。リーガンと違ってキートンは自分が演じたキャラクターに呪われてなんかいないっていうこと。もともと額が広かったけれど、すっかり禿げ上がった頭が良い味を出している。ブリーフ一枚の姿も何故かかっこいい。
 エドワード・ノートンが演じる役はさながらキートンが演じてきたバットマン映画の悪役に相当するとでも言ったところだろうか。派手でテンションのおかしい悪役の方が注目されてしまうというバットマン俳優の悲しい宿命を感じさせる。バットマン役を二作で降りたキートン同様、ノートンもまた「インクレディブル・ハルク」で演じた緑色の超人役をそれっきりで降りてしまった。「アヴェンジャーズ」をはじめ一連のマーヴェル映画における主要ヒーロー俳優として名を連ねるはずだったが、大量生産されるヒーロー映画に出続けたいとは思わなかったことが理由の一つらしい。この辺はキートン演じるリーガンの方にむしろ近いのかもしれない。こうしてかつてヒーローを演じたものの、現在のムーブメントからは外れた二人が、舞台裏でへなちょこな殴り合いをするシーンはまるで老いた退役ヒーローの切ない決闘に見えたり見えなかったり。
 別にヒーロー映画についてどうのこうのがメインテーマではないので、あまりヒーローヒーロー言いたくないのだけれど、それもまた入り口の一つということで。音楽やカメラワークのことについて専門的なことはわからないけれど、一切途切れることのない長回し風カメラワークは快感すら覚えるし(多少目が回るけれど)、ダダダダンシャアアン、ドドン、ダン、と叩かれるドラム・スコアがかっこいい。映画の中で舞台を観ているような感覚を体験できるのも魅力の一つだと思う。ぼくは舞台というのをこれっぽっちも観たことがないので(パイプ椅子でお尻を痛くしながら観た学生の芝居は別として)少しは舞台を観たいなあと思った。
 エマ・ストーン演じるリーガンの娘のサムの台詞、「ツイッターもフェイスブックもやっていなければ存在しないのと同じ」という言葉もぼくには深く突き刺さった。いつの間にか当たり前のようにインターネットを使っていた自分だけれど、もしもSNSの類や、そもそもホームページすらも持たずに暮らしていたら今頃どんなだっただろう。SNSを使っていると、まるで自分はちゃんと世界から存在を認可されていると錯覚してしまう上、使っていない人をはじめから存在していない人のように扱ってしまう。絵に限らず創作を仕事にしていてもウェブサイトひとつ持っていなければ何も発表していないのと同じ。日々を暮らして生きているということだけで存在していることの証明になっているのに、そもそもそんな証明や承認なんて要らないのに、いつの間にか人に見られていなければ、人に承認されなければいけないと思うようになってしまった。
 けれどリーガンはSNSをやっていなくても、異常な承認欲求に駆り立てられ「役者として認められなければ」と取り憑かれたように評価を気にして、もがき苦しみながら前に進もうとする。リーガンの場合は極端だけれど(とは言え誰でも抱えている欲求なのではないだろうか)承認欲求とは人を動かすために多少は必要なのかもしれない。ほどほどに。

2015/04/28

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」7.ティーザー予告編(2)




 第7回です。今回は3枚に渡ってのレポートとなってしまいました。とても一枚におさまりきる情報量ではなかったのです。
 4月16日の発表会は、できればアナハイムまで行ってセレブレーションに参加して見聞きしたかったところではあるけれど、それでもライブ中継のおかげでその場にいる人達とほとんど同じ興奮を味わうことができた。こういうときインターネットがあって良かったと思う。
 トークショーでは監督や社長、出演者があれやこれや話していたのですが何ぶんそこまでの英語リスニングのスキルがないので、その内容は英語に強い人が翻訳して書き起こしてくれることだろう。とりあえずトークの内容で判明したのは、これまでタトゥーインだと思われていた砂漠が、実は新たに登場するジャクーという星だったということ。前回紹介したティーザー予告第一弾や、それよりも前に触れたアブダビの砂漠での撮影ロケ風景など、誰もが「砂漠」と聞いてお馴染みのタトゥーインを連想したはず。それでも、中には玄人ファンが「砂の色や地形がタトゥーインらしくない!」と論じてはいた。さすがに勘ぐり過ぎだろうとぼくも思っていたけれど、案の定タトゥーインではなかったわけで、そういう細かいところに気付く人達はすごいなあと思う限りだ。
 中継画面をワクワクしながら見続けていると、ようやく予告編第二弾が解禁された。こういう半ばお祭り騒ぎ的なムードの中で、リアルタイムで最新情報に触れるという体験はこれまであまり無かったので、それだけでもぼくにとって良い夜だった。
 まずは新たに惑星ジャクーのものであると判明した砂漠が映り、遠景には墜落したスタ―・デストロイヤーが山のような風景を生み出している。第一作目の冒頭で見られたような、お姫様の乗った船を追いかけてく巨大で強い戦艦、というイメージへのアンチテーゼのようにも思える。「ジェダイの帰還」でのルーク・スカイウォーカー(マーク・ハミル)の「僕の家系はフォースが強い。父も持っている。僕もだ。そして僕の妹も。君も持っている」という台詞が流れていく。本来この台詞はルークがレイアに向かって言ったものだが、編集によりもう一人の、新しくスカイウォーカーの血を受け継いだ人物の存在を示唆しており、「帝国の逆襲」でのルークとヴェイダーの決闘で失われたはずの「アナキン・スカイウォーカーのライトセイバー」がその人物に手渡されるシーンも見られる。空中都市の奈落の底から回収されたのか、それとも形を似せて作られたのだろうか・・・。
 コンセプトアートにもあったダース・ヴェイダーのヘルメットの残骸は、とうとう実物がお披露目されたといった具合。冒頭のスタ―・デストロイヤーの残骸と続けて見ると、銀河帝国がとことん衰退したことを象徴しているかのようだ。
 ポー・ダメロン(オスカー・アイザック)がXウィングで飛び回るシーン、悪役カイロ・レンの姿もちらりと見え、レイ(デイジー・リドリー)とフィン(ジョン・ボイエガ)がともに危機を乗り越えていくというシナリオも予感させる。
 新しくデザインされたストームトルーパー達も、今まで以上に鮮明な姿を見せた。赤い大きな旗の前に集結したトルーパー達は真っ白で無駄な装飾がなく、ツルツルでシンプルである。イラストに描いていて改めて感じたけれど、このフォルムは大変美しい。絵に描いていてストレスが無いというか、むしろ快感を覚えるくらいだ(その美しさが再現できているかどうかはわからないけれど・・・)。けれど、彼らは帝国に見えて帝国ではない。この予告編全体が、「スタ―・ウォーズ」なのだけれど、どこか違う、別の「スター・ウォーズ」に見えるように。一体「ファースト・オーダー」とは何なのだろう。
 ラスト近く、砂漠に埋もれた巨大な宇宙船の、トンネルのようなエンジン・ノズルの中に、ミレニアム・ファルコンとそれを追うTIEファイターが入っていく。最初はこの大きくていくつもあるエンジンを見てなんの船だかわからなかったが、ぼくの友人が気付いたところによれば、これは「帝国の逆襲」に登場したスーパー・スター・デストロイヤーではないかということだ。確かに言われてみればこの巨大感はそうかもしれない。旧作に登場したスーパー級は「ジェダイの帰還」における決戦で撃沈されてデス・スターと激突し大きな火柱となったので、これは同型の別の船だろう。「ジェダイの帰還」から30年の間に一体どんな戦いがあったのか非常に気になる。スーパー・スタ―・デストロイヤーが撃沈されるくらいだから、このジャクーで行われた戦いは、帝国と反乱軍の戦いの行方を、帝国の敗退を決定づける重要なものだったのかもしれない。
 ラストに登場するスマグラー・コンビについてはなにも言い添える必要はないだろう。実際に予告編が公開された会場では大歓声が起こっていたらしい。ハリソン・フォードは飛行機墜落事故での負傷のためか会場に訪れなかったが、その場にいないことがより彼に伝説的な雰囲気を持たせて、この予告編を素晴らしいものにしている。なんでこんなインディ・ジョーンズと見まがうような革ジャンを着せたのかどうかはわからん。

2015/04/23

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」6.ティーザー予告編



 だらだらしていたら先日カルフォルニアはアナハイムでのイベント「スタ―・ウォーズ・セレブレーション」にてティーザー予告第二弾が発表されてしまったので、とても今更感があるが、ひとまずティーザー第一弾のおさらい。長年7番目のエピソードを待ちこがれていたファン達にとってファースト・インパクトとなったこの映像は、すぐに様々な予想、憶測の材料となった。
 そこでぼくの受けた印象を書くとするなら、それは「良い意味でのどこか違う世界」を感じさせた。まず最初に皆の意表を突く形で黒人青年が白い装甲を着て登場する。画面の中の彼自身、自分が置かれた状況に戸惑っている様子だ。この場面で「ファンフィルムではないか?」とうっすら感じたのはぼくだけではないと思う。「スタ―・ウォーズ」はファン・フィルムが数多く制作されている作品でもあるので、この場面はそういったファン制作のコスプレものに対する一種のパロディ(本物が逆パロディしているところがミソ)としても受け取れる。ついでに劇中においては、新しいストームトルーパー達はクローンではなく、様々な人種の人間で構成されているということが読み取れもする。
 そしてさらに追い打ちをかけるようにぼくらを釘付けにするのは、ボール型のドロイド、BB-8である。ユニークな形だが馬鹿には出来ない隙の無さを感じる。とにかく「なんだこれ!」と言って驚くことしかできない。このドロイドもどこかにぼくがよく知っているSW世界とは「どこか違う世界」を感じさせる。そのあとに登場する新しいXウィング・スターファイターも、出撃準備をするトルーパーも、十字型のライトセイバーも、まるで「スタ―・ウォーズ」が大好きな少年が「ぼくのかんがえたスタ―・ウォーズ」と題してクレヨンで描いて創作したかのような、従来の型にとらわれない、自由なアレンジが感じられるのだ。そして、この映画作りに携わっている多くの人が「スタ―・ウォーズ」のファンだった人達だとするなら、あながちその印象は間違っていないと思う。文字通り「ぼくたちのかんがえたスタ―・ウォーズ」なのだろう。
 最後に登場するミレニアム・ファルコンがテンションをマックスにしてくれる。このファルコンもまた、従来よりもやたらと平べったく見えたり、ところどころに改造が施されているように見える。同じ世界観でありながら、しっかり30年分の更新がなされた世界の中で”新しい”ミレニアム・ファルコンが伸び伸びと飛び回って予告編は終わる。これから一体どんな映画を見せてもらえるのか。ぼくはこれを目撃することができて大変幸福である。

2015/04/12

「サリンジャーと過ごした日々」感想


 最近ようやく本を読むペースがあがってきた。別に速ければいいということもないだろうけれど、とにかく今は読みたい本がたくさんあって困っているくらい。たくさん読んでたくさん感想を書きたい。
 村上春樹の新訳で「フラニー・ズーイ」を読んだすぐ後だったので、「サリンジャーと過ごした日々」に手が伸びるのはごく自然なこと。とは言えそこまでサリンジャー世界に入り込めていないし、熱にかかっていないので、どちらかと言えばサリンジャーを未読なまま出版エージェンシーで働き始めたジョアンナと同じような目線に立って読むことができたのではないかと思う。ジョアンナはサリンジャー宛のファン・レターを、やや他人事に、けれど書き手の熱意に圧倒され、だんだんとサリンジャーとその作品に惹かれ始める。大量のファン・レターによってサリンジャーの魅力的な輪郭が浮かんでくるかのようで、「そんなに良いものなのか!もっと読もう」とこちらも思ってしまう。
 ニューヨークで働く女の子が主人公ということで、「プラダを着た悪魔」に通じるようなところもある。「101匹わんちゃん」の悪女クルエラさながらに、歩いたあとに紫煙を漂わせて行く”ボス”は、ミランダほどおっかなくないのだけれど、ジョアンナの奮闘していく姿はアンドレアのそれと重なるはず。
 鉄道マニアだから鉄道会社の仕事ができる、文学好きだから書店員が務まるとは必ずしも言えない。ジョアンナはもとからサリンジャーの熱心な読者ではなかったおかげで、良い仕事ができたんじゃないかなと思ったりもする。熱心な読者ではなかったからこそ、いつの間にかサリンジャーにとても近いところにいることになったり。もちろん熱心なことがいけないわけじゃないけれど、そのおかげで彼女が自分の仕事に集中できたことは確かだと思う。
 「サリンジャーと過ごした日々」は働く女の子のダイアリーであり、ジョアンナの自伝であり、サリンジャーに関するレポートであり、そうしてまた一つの時代の終わりも描いているように思う。ジョアンナが務めた、そして彼女とサリンジャーを結びつけた老舗出版エージェンシーは、21世紀を目前にした90年代末、最後までコンピューター化に抵抗してタイプライターとディクタフォン、紙によるメモといったスタイルを貫いていた。なんでも電子化された今の時代から見ると、そのレトロさ(と言ってしまうのもなんだか安直だけれど)に少々惹かれてしまう。けれどそのスタイルもだんだん続けられなくなってしまうんだろうな。

2015/04/06

「イミテーション・ゲーム」感想


 「世界は天才に厳しい」と西尾維新の本に書いてあったような。そんな言葉がぴったりの「イミテーション・ゲーム」だった。コンピューターという概念すらない時代にコンピューターの基礎――「考える機械」を造るという、素人には気の遠くなるような途方も無い話だけれど、それだけチューリングの偉大さが伝わって来る。しかしその偉大な功績に反して、描かれるイギリスの暗部・・・。そう言えば「裏切りのサーカス」に出ていたマーク・ストロングがまた諜報機関の人をやっていた(MI6のスチュワート・メンジス少将)。カンバーバッチとの組み合わせも既視感というか、似合うよね。今まであまりキーラ・ナイトレイに注目したことはなかったんだけれど、本作でその魅力にやられた。もっと主演作を観よう。マシュー・グッド演じるヒュー・アレグザンダーの好敵手さもとても良かった。少年漫画のライバルのようである。そこだけ切り取ると友情と努力がもたらす勝利を描いた物語のようでもあるけれど、それだけでは終わらない。
 天才キャラのカンバーバッチにはたまにはアホな役をやってほしい。

2015/04/05

財布とiPhone



 このひと月のあいだに買った物と言えば、新しい財布とiPhone。ツモリ・チサトの財布はぼくの人生で初めての長財布となった。金色の華奢な留め金やがま口が、ぼくにはもったいない。ぼくの新しいグリンゴッツとして活躍してくれることを願う。
 高校時代から7年間使ってきた旧式折りたたみ携帯電話から、最新式のiPhoneへの切り替えはぼくにとって産業革命のようなものである。とは言えiPod touchやiPadといった機器は使っていたから、そこまで新鮮さはない。しかし、出先で全てのメッセージを確認できることは大きいし、今更ながらインスタグラムの「自分の生活を自分が望んだように切り取る」機能にやられてしまった。iOS版のゲーム「グランド・セフト・オート」にも夢中である。ただ、あまりにもいろいろな機能があってこれが電話という実感が未だに沸かない。これを買った翌日も、果たして前日まで使っていた古い携帯電話を持って外出しないで大丈夫だろうか、と少し不安になった。iPhoneは事務的な電話機というイメージとはほど遠く、むしろ仕事に使うには不謹慎に感じるくらいである。世の中はだんだんオモチャ化しているのだろうか。
 iPhoneと言えば、度々ボディや画面に亀裂の入った物を使っている人を見かける。一体どういう扱い方をしたらあんなふうになるのか疑問だけれど、どうやらiPhoneはカバーやケースを装着するのが一般的らしい。裸で持つのが一番かっこいいと思うのだが、やはりそれは恐いのでカバーを着けることに。アップルの頭の良い人達が一生懸命考えたデザインもすっかり台無しである。
 「スター・ウォーズ」のiPhoneケースを探したがどれもイマイチなものばかり。単純に映画劇中の写真かなんかをプラスチック面にプリントしてくれればいいのに、やれ和風のアレンジだの、妙なイラストにアレンジしたものだの、これを「スタ―・ウォーズ」が好きな人が着けるのだろうかと首をひねりたくなるものばかり。その中でもシンプルにロゴだけあしらったものが一番まともで無難なので、探したところ、なんとロゴがプリントされているというよりはロゴそのものがカバーになっているのを見つけた。前からぼくはシリコンで出来た、iPhone本体に対してやたらとデカく変わった形をしたカバーに憧れを抱いていて、敬意を込めて「頭の悪そうなiPhone」と呼んでいた。ぼくも頭の悪そうなiPhoneを持ちたい。ということで「スタ―・ウォーズ」の特大ロゴ型カバーを候補に入れた。また、これは大分趣向が変わるが、マーク・バイ・マーク・ジェイコブスのピカピカのiPhoneケースも少し欲しかった。どっちにしようかなあと迷っていたが、二日後くらいに家に帰ると机の上に件の「スタ―・ウォーズ」のカバーが置かれていた。妻が買っておいてくれたらしい。それならもうこれに決めるしかなかろう。大きくて持ちにくそうで、これでぼくのiPhoneも頭の悪そうなポップさを持てるというものだ。一方、ぼくと一緒にiPhone6に切り替えた妻も自分用の新しいケースを買ったらしく、なにを買ったのかと尋ねると、これがマーク・ジェイコブスのピカピカケースだった。うーん。まあいいか。


2015/04/03

ALIENS FROM STARWARS


 「スター・ウォーズ」は様々な異星人が登場するから素敵だ。左上から、イソーリアンの追放者モモー・ネイドン、ローディアンの賞金稼ぎグリード、ビスのミュージシャン、中段の左からイウォーク族のウィケット、ハット族の犯罪王ジャバ・ザ・ハット、ジェダイの長老ヨーダ(ヨーダの種族名は未だ不明)、左下からジャバの執事ビブ・フォチューナ、モン・カラマリのアクバー提督、ガモーリアンの衛兵。SWのオリジンを感じさせるエイリアン達でした。

ANIMALS FROM STARWARS


 動物と言ってしまっていいものかどうかわからないが、ともかく「スター・ウォーズ」世界に登場する生き物達、の一部。旧三部作の印象的なやつらを並べてみた。
 (a)草食動物のバンサ。砂漠の惑星タトゥーインで盗賊タスケン・レイダー達が騎乗用に使っていたのが印象的。肉は食用、毛皮は服は装飾品になる。実際には生きた象に角や着ぐるみをつけて撮影された。
 (b)は大型爬虫類デューバック。バンサ同様、一作目のタトゥーインのシーンで帝国軍の兵士達が騎乗用として使っている。劇場公開当初では動かないはりぼてだったが97年の特別編以降CGでヌルヌル動くように。
 (c)第二作目「帝国の逆襲」の序盤に登場する、氷の惑星ホスの洞窟に住むワンパ。「美女と野獣」の野獣と雪男イエティを合わせたようなやつ。ルーク・スカイウォーカーはこのワンパの片腕をライトセイバーで斬り落とし、命からがら氷の洞窟から逃げ出す。
 当初は反乱軍が秘密基地の中にワンパを捕らえ、幽閉するくだりがあった。帝国軍との戦いの際にC-3POがワンパを閉じ込めている部屋の警告ステッカーを剥がすことで、帝国兵がワンパに襲われるというユーモラスなシーンもあったが、カットされた。
 (d)この絵ではわからないが、実際はこの中で最も巨大な生物、スペーススラッグ(宇宙ナメクジ)。ハン・ソロとレイア姫達の乗ったミレニアム・ファルコン号は、帝国軍の追跡から逃れて小惑星の中の洞窟に隠れる。しかし、この洞窟は実はスペーススラッグの腹の中だった!というシンドバットがクジラの背中を島と勘違いして上陸する話を彷佛とさせるオチ。ちなみに「レゴ・ムービー」にはこのシーンのパロディがある。
 (e)ぼくがクリーチャーの中でも一番好きなトーントーン。ワンパと同様ホス星に住む雪トカゲで、ルークやハン達が騎乗用に使う。鳴き声が可愛い。ハン・ソロは吹雪の中で衰弱したルークを救うため、凍死したトーントーンの腹の中に友人を突っ込んで簡易的なシェルターにする。
 (f)ワンパも恐いがこいつも恐い。もう動物というより怪獣である。ジャバ・ザ・ハットが床下で飼っており、彼の怒りを買った哀れな人々が主な餌。「キングコング」や「ゴジラ」といったモンスター映画、あるいはレイ・ハリーハウゼン作品へのリスペクトが詰まったクリーチャーである。

2015/03/18

ぼくがもしも女の子だったら・・・


 ことあるごとに自分が女に生まれていたら、きっとこんな感じだろうなあと考えることがあるので、図にまとめてみた。異性化というよりはただの女装のような感じになってしまった。けれど、そんなにぼくとまるっきり同じということもなく、むしろ実際に他人としてぼくの目の前に現れたら衝突することがあると思う。多分瑞子ちゃんはぼくみたいな男は好きじゃないだろうなあ、なんとなく。同族嫌悪というやつか。
 背が高いせいで、周囲から「将来はモデルさんかしらね〜」などという無神経なことを言われて育ち、成長するにつれて鬱屈していく。果たして彼女は絵筆とペンのどちらを握るのか。何故そのニ択なのか(腐女子、からの創作への道はごく自然である)。リズム感が無いので音楽はダメ。そのくせ椎名林檎を真に理解するのは自分だと言って譲らない。なんとなく彼女は「スター・ウォーズ」より「スタ―・トレック」派だと思う。
 胸は小さく足はデカいと思う。
 

2015/03/17

「アメリカン・スナイパー」感想


 ぼくがこの映画を観る前の週あたりに、当のクリス・カイルを殺害したエディー・レイ・ルースの終身刑が決まったということを、後で知る。タイムリーすぎてものすごく不思議な感覚である。実話を基にしているから当然なのだが、映画と現実が密接に結びつくことで、まだ映画の続きを観ているかのような感じ。
 見終わる頃には銃声が恐くなった。もちろん銃声とは恐ろしい音である。映画では銃声がよく鳴るものだし、聞き慣れているつもりだったものの、この映画の銃声は本当に人間一人を死なせるのに十分な音のように感じられる。ズドン、ズドン。お腹に響く音だ。シルベスター・スタローンが鳴らす音とは明らかに感じが違う。映画とはこれくらいのエネルギーを放てるものなのだなと思えた。
 ところで、エンドクレジットでキャスト名が表示されるまでクリス・カイル役がブラッドリー・クーパーだとわからなかった。なんと18キロ以上の増量である。全くの別人に見える。というか本物のクリス・カイルそっくり。

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」感想


 ひと通りの映画が作られてしまった時代に生まれて大変不幸だと思っていた。画期的な映画、というのがいま一つどんなものかわからないし、なにより「スター・ウォーズ」一作目が初めて公開されたときの興奮も知らない。「猿の惑星」を一切の予備知識無しで観ることも不可能。CG技術がこれでもかこれでもかと進歩していく一方で、映画を観る上で不幸な時代なのでは?と思うこともしばしば。
 けれどそんな心配はナンセンスだということがすぐにわかる。常に新しい映画が作られていて、ぼくなんかの想像の範疇などあっさり越えてしまうからだ。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は「すごーい」と口をぽかんと開けてしまうような、魅力的な宇宙を見せてくれた。普通宇宙といえばだいたい真っ黒で白い点々が描かれているだけの背景である。ところがこの映画の宇宙空間は色とりどりで本当にどこまでも続いているような奥行きを感じさせる。行ってみたい、と思える宇宙である。それ故世界観に奥行きがあり、今後の展開がものすごく楽しみ。

「レゴ・ムービー」感想


 大人になってレゴをやろうとすると、どうしても説明書通りに組み立てて飾っておく、みたいなおとなしい遊び方になってしまうというか、かつてのように自由な(あるいはカオスな)遊び方がなかなかできずにいた。子供の頃は同じ色のブロックをまとまった数持っていなかったので、綺麗に一色だけを使った建造物や宇宙船などが作ることができず、仕方なく灰色や白などの色の中に、ところどころ青や黄色、赤等の色を唐突に組み込んだりした。そういったツギハギ部分は頭の中で「これは全体灰色の宇宙船なのだ」と補完して遊んでいたりしたものだ。頭の中で補完する、これは貧困的なようでいて実はもっとも美しい遊び方なのではなかったろうか。
 ところが大人になるとブロック不足を金で解決しようなどと考えるようになってしまった。あるいは、自分で考えたモデルよりも、製品版の完成度に魅せられてそれをお金で買い、大して自分なりの改造を加えることもなく説明書通り組み立てて悦に浸る。間違っちゃいないが、どこか歪なのは何故だろう。
 「レゴ・ムービー」はそんな硬くなったぼくの頭をもみしだいて風を吹き入れてくれた。ずっと前からわかりきっていたことなのに、「そうか!こうやって遊ぶのか!」と改めて教えてくれた。だけではなく、説明書の重要さもまた思い知らされた。説明書があるからこそ、そこから独自の考えを膨らませられるのだ。説明書があるからこそ、それをどう壊してやろう、どうかけ離れたものを作ってやろうと思えるのだ。基本があるからこそ独創性が生まれるとかなんとか、そんなことまで考えさせられてしまったのだから、良い映画だと思う。
 それにしても空間を漂う塵などの粒子、ミニフィグやブロックの表面に出来た傷、プリントの剥げ具合など、遊び込まれたおもちゃの質感の表現が見事で、何度見ても本物のレゴで撮影したとしか思えない。ボロボロになったミニフィグでも気にせず遊び続けていいんだ、ということが宇宙飛行士ベニーを見ていて思った。ヘルメットの顎が割れてるところなんてレゴあるあるすぎてグッと来る。

2015/03/15

視界のミニチュア化

 子供の頃から不思議で不思議で仕方が無かった感覚の謎が解明された。いや、謎が解明されたというより、この感覚について文章による説明がなされていたこと、他にも同じ感覚に陥っていたことのある人が大勢いることを知って少しほっとしたのだ。
 なにかに集中しすぎたり疲れたりすると視界がミニチュアになることがある。いきなりこんなことを言ってはなんだそりゃと思われるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、たとえば本をずっと読んでいたとき、だんだんと持っている本のページがずうっと遠くに行ってしまうような感覚に陥ることがある。ページが小さくなり、文字も小さくなっていく。けれど文字が読めなくなるわけではない。実際の距離は変わっていないのだから、いくらでも文章を読むことが出来る。けれどとにかく視界が遠く、小さく見えるのだ。というわけで、自分のいる部屋がミニチュアに見える。自分が小さくなった感覚は無いのだけれど。(図a参照)


 また、子供の頃から熱を出した最初の夜に必ずと言っていい頻度で見る夢がある。要するに悪夢なのだけれど、とてつもなく小さいものととてつもなく大きいものの対比、そのギャップにうなされる夢。具体的には蟻のように小さいぼくを、ヘヴィ・ダンプのような馬鹿デカいタイヤが押し潰すというもので、興味深いのはダンプを運転しているのもまたぼく自身だということ。そして、大きいものと小さいものの間にそのギャップから生まれるものなのか、果てしない後悔の念のようなものがやってくる。(図b参照)


 視界がミニチュアになるのと、発熱のときにタイヤに潰される夢を見るのは、「不思議の国のアリス症候群」という症状(?、これがまたよくわからない)で結びつけられるそうだ。ルイス・キャロルの児童文学作品において、「イート・ミー」だの「ドリンク・ミー」だののラベルのついた薬を飲んだアリスちゃんが、大きくなったり小さくなったりを繰り返すことから、50年代にジョン・トッド先生が名付けた症候群だそうである。これまた中ニ病的な、というか中ニの喜びそうなやつなのだが、恥ずかしい名前である。「アリス症候群」の主な症状(?)が、これまでぼくがずっと疑問に思っていた感覚を「そうそうそれそれ!」と言いたくなるくらい正確に文章で説明していることから、恐らくぼくはそうなのだろうと思うのだけれど、なんとも恥ずかしい名前の症候群である。仕方あるまい、トッド先生が名付けちゃったんだから・・・。

 視界のミニチュア化は、「遠近感が曖昧になる」ということで「アリス症候群」の主要なイメージの一つとして挙げられている。また、「針とタイヤ」というイメージもあるそうで、これはぼくの発熱時の悪夢と関係がありそう。というわけで長年疑問に思っていた不思議な感覚・イメージは大方この症候群のせいだろうということがわかった。誰に相談していいかもわからず、別にこの感覚に苦しんでいたわけではないので困ったりもしなかったのだが、とにかく気になっていたのでわかって良かった。とは言えこの症候群はまだまだ謎が多く、検査方法も無ければ診断は患者が訴えるしかない。ゴスロリのポエムみたいな名前だからちゃんと研究しようという人がいないのではないか?と思ったりもするのだが、実際どうなんでしょうか。

 インターネットを通して同じ感覚を抱いてきた人が大勢いることを知って安心したのだが、いろいろな人の書き込みを読んでいると、さらにぼくの長年の疑問と同じような記述があった。なんでも自分が三人称視点で見えるそうだ。この言い方に始めはピンとこなかったが、思えばぼくにはふとした瞬間に「あれ?ぼくってずっとぼくだったっけ。ぼくはこのままぼくをやっていくんだっけ」という感覚に陥ってしまうことがある(図c参照)。これが三人称と呼ぶかどうかは少し怪しいけれど(だいたい自分の姿を外から見てるわけじゃないし)、関係があるのだろうか。
 

 視界のミニチュア化、タイヤの悪夢、そして「ぼくってぼくだっけ」感覚は、今まで周囲の誰に聞いても共感を得られなかった。そもそもあまり人に話したことがなく、親にすらおっかなくて言えなくて、自分の中で「こういうものなんだろう」と無理くり納得してそっとしまっておいたんだけれど、この度大勢の人が同じことを感じていたのだということを知りほっとした次第である。わざわざこんなことを書いたのは、同じ感覚を知っている人がいないかなあと思ったからである。もしいたら、ぼくもそうだから安心してください。

2015/03/06

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」4〜5.コンセプトアート編


 新作のコンセプトアートは現在インターネット上に多数で回っているが、特に印象的なのはやはりダース・ヴェイダーのヘルメットの残骸を手にする謎の人物の絵だろう。「ジェダイの帰還」のラストでヴェイダーの亡骸は息子ルーク・スカイウォーカーによって焼かれている。観るたびにちゃんと燃えるのかなあと思っていたが、案の定ちゃんと燃えていなかったようだ。この人物は30年放置されていた火葬の焼け跡から変わり果てたヴェイダー・ヘルメットを掘り出したのだろう。
 エンドアが登場するということは愛らしいイウォーク族も登場するだろうか?この不吉なキャラクターがエンドアの原住民を皆殺しにしたりしなければいいのだけれど・・・。
 出回っているコンセプト・アートはタトゥーインの砂漠の景色を描いたものが多い。スカイウォーカー生誕地であるタトゥーインが新作でもまた重要な舞台として描かれるのだろう。これらの絵ではTIEファイターやAT-AT、中には巨大なスタ―・デストロイヤーまで、帝国軍を象徴するようなメカが砂に埋もれて風化している様子が描かれており、ぼくは中でも脚を投げ出してくたぁっと地面に倒れて埋もれているAT-ATがお気に入り。こういった景色からぼくたちのよく知る帝国軍が、「ジェダイの帰還」の後で衰退の一途を辿ったのだろうということがわかる。 
 

 かと思えば、新しいストームトルーパーのデザインもリークされている。砂漠に埋もれた旧兵器とは裏腹に、新しいデザインでピカピカの兵士達が供給されているとはどういうことか。新作では帝国の復興が描かれるのだろうか。新しいトルーパーの”顔つき”は今までのストームトルーパーの不吉そうなしかめっ面とは違い、どこか満足げに(でもどこか意地悪そうに)口の両端をつり上げているように見える。そもそも、これが「ストームトルーパー」と呼ばれるかどうかもわからなければ、帝国軍(悪役)の兵士ですらないかもしれない。象徴的なキャラクターであることは確かだろう。
 同じようなデザインで、クロムメッキのトルーパーの姿も見られる。甲冑のように見えるこのデザインはスペースオペラになんとも言えない古めかしさを与えてくれそう。
 つづく。

2015/02/24

婚姻届

 手続きが好きなときと嫌いなときがある。学生でなくなって以来やたらと役所に行って手続きをするようになったが、未だに行くまでが辛い。まだ済ませていない手続きは嫌いなのだ。そして役所に行って取りかかった際に、すんなり済まない手続きはさらにストレスを覚える。役所の人は悪くないが八つ当たりしたくなることすらある。
 好きな手続きとは言うまでもなく、すんなり済んだ手続きである。良い具合に進められている最中の手続きが好きだ。用紙への記入、署名、捺印が次々になされるリズムが好きだ。ウェス・アンダーソン映画に見られるような文具好きの心を刺激する手続きシーンなどたまらない。役所の手続きはもちろん、図書館の本の貸し出し、郵便局での事務、軍隊の命令書など、几帳面に進められる手続きは、紙の上で物事を整理して動かして行く様が、まるで机の上にお城でも建てているかのような感じで愛らしくすら感じる。もちろん、事務職がやりたいとはこれっぽっちも思わないけれど。実際の事務仕事にはぼくが見ている以上に膨大な情報が行き交い、ぼくのメンタルでは到底無理だろう。
 今日は好きな方の手続きが済ませられた。例によって役所に行くまでは少し憂鬱だった。書類に不備はないはずだが(その準備もだいぶ骨が折れたが)、ぼくは本人確認で出鼻をくじかれることが多い。運転免許がないから本人であることを証明できないのだ。要は写真付きの身分証がないとことでスムーズに進められないということなのだが、なにか釈然としない。とは言え相手も鬼ではないのでぼくが無免許でもちゃんと善良な市民であることをわかってくれる。それに変に身構えて行くと思っていたよりずっとすんなり済むこともある。今日は驚くほどすんなり済んでしまった。無事ぼくが川原瑞丸本人だと確認されたのだ。
 というわけでこのたび彼女と入籍した。とうとう好きな女の人がぼくの苗字になってしまったのだ!恐ろしい!でも氏名を書くのが少し簡単になるだろうと思う。
 

2015/02/22

いけてないやつの虚勢

 これはぼくと彼女が地下鉄に乗って家に帰る途中で目撃したことだが、とても印象的というか、コミカルなことだったので書き留めておこうと思う。以下登場する人名は仮名である。
 下校する小学生が乗り込んで来る時刻で、ぼくらの向かいの席には制服を着た小さくて可愛らしい男の子が二人腰掛けており、午前9時から午後15時くらいまでのたかだか6時間くらいの学校に疲れて気だるそうにしていながらも、帰宅後の楽しみへの期待もあってか、少し浮ついた雰囲気で仲良くおしゃべりしていた。二人とも幼い顔に似合わない大きな眼鏡をかけており、片方は痩せていてもう片方は小太りだった。けれど二人とも声が甲高いのは同じだった。二人とも教室の中心に立つ子のようには見えなかったが、それでもこの二人の間にも一応の格差があるようで、太っている子のほうが痩せている子より態度も大きく、痩せている子はそれに比べてずっとおとなしく、太っている子の言うことを聞いているようだった。
「田中と違ってオレ、クラスに子分いるからさ〜。クラスにっていうか、クラス全員子分なんだよねえ〜」
 太っている子がそんなことを言い出したのが始まりだった。
 痩せている子ーー田中君はそれを聞いてただでさえ眼鏡で大きくなっている目をさらに大きくして驚いた。友達に子分がいるだけでなく、その子分がクラスメイト全員だというのだからそりゃあ驚くだろう。クラス全員に田中君が含まれていないことから、田中君が太っている子とは別のクラスだということがわかる。
 向かいで聞いているぼくは驚かない。一体どんな教室がこんなころころした坊やに頭を垂れると言うのだ。いけてないやつが自分よりいけてないやつに見栄を張っているだけであるのは明らかだった。
「えっ、コブン? 森川君、子分がいるの? 子分ってどうやってつくるの?」
 甲高い声で尋ねる田中君は純粋だった。恐らく森川君の言うことを普段から疑ったことがないのだろう。他にもなにを吹き込まれているかわからない。
「ああ、金で雇ってんだよ」
 森川君がそっけなく言った。向かいでそれを聞いていたぼくは俄然興味が沸いてきた。お金でクラスメイトを雇っているガキ大将だなんて聞いただけでかわいそうではないか。
「えっ、お金?お金をあげてるの?」
 田中君はすっかり仰天してしまった。森川君に子分がいる上に、なんとそれが金で雇われた傭兵達だったのだから無理も無い。田中君はきっと森川君との間に今までに感じたこともないような距離を感じたことだろう。「お金って、一体いくらあげてるの?」
「あ?1人100円」
「えっ!1人100円もあげてるの?森川君、大丈夫なの?」
「平気さ、オレ、小遣い月に5,000円もらってるから」
「えっ!5,000円ももらってるの!?」
 これにはぼくも田中君と同じくらい驚いた。月に5,000円!!ぼくは高校のときですら月2,000円だったのに。ぼくは金を持っているガキが憎たらしくて仕方が無いのだ。
 田中君はもうなにがなんだかわからなくて戸惑っている。森川君は月に5,000円ものお小遣いをもらっていて、クラスメイト全員を金で雇って子分にしているのだ!それでも必死に考えを巡らせて森川君ワールドについていこうとしている。
「で、でも、クラスがだいたい40人で1人100円だから・・・4,000円も使っちゃってるよ!森川君、大丈夫?」
 田中君はとても優しい子だった。こんな憎たらしいクソガキ森川君のほら吹き話を素直に聞いているだけでなく、森川君の心配までしている。田中君、ぼくが君に100円をあげよう!
「おう、オレ、お年玉もいっぱいあるからさ。それに子分がいればいろんな情報が手に入るんだぜ。あ、良い働きをしたやつにはさらに10円あげたりしてんだあ」
 森川君の言葉を受けて田中君が頭の中のそろばんを弾いた。
「でも、そんなことしたら森川君のお小遣い990円になっちゃうよ・・・」
 まだ森川君の懐具合を心配している田中君は美しい心の持ち主だった。”良い働き”をした子が1人とは限らないので、月によっては森川君のお小遣いは950円くらいになってしまうこともあるだろう。そもそも森川君のもとに集まって来る情報とやらは一体どんなものだろうか?ぼくの代わりに田中君が森川君にそのことを尋ねると、
「そりゃあ、村岡がテストで55点取ったとかあ、山木が火曜の掃除をさぼったとかあ・・・」
 超くだらねえ情報だったが、小学生中学年の間では重要な情報かもしれない。だが金を出してまで欲しい情報とは思えない。誰が誰のことを好きだとか、色恋沙汰が混じってないあたりがそのくらいの小学生らしい。
 もうその頃になると田中君の興味の持続性が失われつつあった。森川君の誇大妄想に対して先ほどまで可愛らしく驚きを示していた彼だが、もはや「ふうん」程度のリアクションになってしまっていた。むしろ田中君は森川君がクラスの皆に利用されているのではないかと心配しているようにも見えた。そんな田中君の態度の変化などに気付くこともなく、森川君は自分のスパイ網の働きについて得意げに話し続けている。
 そこで森川君の世界を一瞬でぶち壊す出来事が起こった。ぼくと彼女が森川君と田中君のやり取りに笑いをこらえていると、別の車両から森川君達と同じ制服を着た女の子がやってきたのだ。女の子が森川君達の前を通りかかると、すかさず森川君が、
「あ、小野だー」
 と言った。「よう、小野ぉ」と声をかけないところが森川君の身の丈を表していた。声をかけるわけでもなく、どちらかと言えば田中君に向かって小野さんがいるということを知らせているかのようだった。
 しかし小野さんはシートに座っている森川君を一瞥することもなく、そのまま通り過ぎてまた奥の車両に移って行ってしまった。無視である。
「あれ?」
 田中君が小野さんを目で追う。「小野さんって同じクラスだよね?子分じゃないの?」
 子分もなにも完全に視界に入っていないようだったが。ぼくの見ている目の前で森川君はスパイの元締めではなくなってしまった。ただの森川君に戻ってしまったのだった。一体彼がどんな言い訳をするのだろうかと見守っていると、
「え、ああ、小野は、もにょもにょ・・・」
 どんどん声が小さくなってなにを言っているのかわからなくなってしまった。
 そうこうしている内に電車はぼくの家の駅に到着してしまった。愛らしい彼らのやり取りをもっと聞いていたかったが、仕方が無い。ぼくらがホームに降りてエスカレーターに向かって行くと、森川君もホームに降りているのが見えた。このタイミングで電車を降りられたことを有り難く思ったに違いなかった。
 森川君よ、田中君はとても良い奴なのだから、そんな虚勢を張らなくとも仲良くしてくれるから大丈夫だよ。
 けれどひとつ気になるのは、森川君の言っていたことがどこまで本当でどこまで嘘かということだ。全部嘘だったらそれでいいのだけれど、もし実際にクラスメイトにお金を払っていることが本当だとしたら?それで森川君が都合良く「自分には金で雇った子分がいる」と解釈していてそれを田中君に話していたのだとしたら、森川君は決して嘘をついたことにはならない。クラスメイト達が裕福で扱い易い森川君からお金を巻き上げているのかもしれない。クラス全員が子分、というのは話を盛っているとしても、何人かにお金を・・・。そうなると森川君は少しかわいそうな子に思えて来る。
 いや大丈夫、田中君が良い子だから支えてくれることだろう。


2015/02/18

「美女と野獣」感想


 ディズニーが一連の王道おとぎ話の実写化で「美女と野獣」をやる前に、フランス製実写映画を作れたということが大きいと思う。ディズニーが取り組んでいるようなおとぎ話の現代化というか、セルフ・パロディとも言えるアレンジなどは一切見せず、「美女と野獣」そのものを忠実に映画化していると思う。
 ヴァンサン・カッセルが呪いを解かれた後もどこか野獣っぽいところが良い。ぼくはずっとディズニー版でお馴染みの「呪いを解かれたらどこにも野獣要素のないハンサムになってしまう」というオチが釈然としなかった。呪いで変わり果てた姿にされていたのだから当然なのだが、それでもベルが心を寄せた野獣の姿がすっかり消えてしまうのにも関わらず、ベルがハンサムな王子と喜んで結ばれるというのはどこか腑に落ちない。コクトー版の「容姿が入れ替わるオチ」もとても不条理なのだけれど。
 だから野獣のときも人間の面影があり、人間になっても野獣の面影が残る今作の王子はとても好ましく、これなら諸手をあげてめでたしめでたしと言える。

「エクスペンダブルズ3」感想


 友達と映画に行くと普段自分1人では観ようと思わない映画を観られるから楽しい。筋肉モリモリのマッチョマン映画なら尚更である。
 これだけ強烈な人達が大勢一度に登場しているにも関わらず、バランスが非常によく取れているのがすごい。そしてその中でもハリソン・フォードがめちゃくちゃかっこよかった。若い頃よりかっこいいのではないだろうか。正式なエクスベンダブルズ・メンバーではないものの、頼もしい助っ人として登場するのも魅力的。普段はスーツを着た管理職で傭兵達とは遠いところにいるが、いざとなると「ええい!俺が行こう」と言わんばかりにパイロットのつなぎに着替えてヘリコプターで駆けつけてくれるというのがたまらない。
 新スタ―・ウォーズでの老ハン・ソロが楽しみである。

2015/02/01

「ゴーン・ガール」感想


 上映期間終了間際の滑り込みで観てきた。このテーマは来月正式に入籍する前に絶対に観るべきだと思った。観て良かったと思う。夫婦という関係について見方が変わったというか、当たり前と言えば当たり前のことを改めて思い知ったのである。

 記事中にも書いた通り、前半はとにかく気味が悪く落ち着かない雰囲気が続く。どのシーンも、なにも不思議なことはない普通の日常風景なのに、どこかわざとらしく作られた雰囲気がそこかしこに漂っている(このわざとらしさの一部が後で伏線にも繋がるのだけれど)。解決編に入るまで登場人物は全員が怪しげでどこか気味が悪いのだが、特にぼくは捜査に取り組む刑事やエイミーの両親に不安を感じた。
 刑事は初登場シーンからものすごい不自然さを見せる。妻がいなくなったというニックの通報を受けてかけつけたのにも関わらず、現場である家の中を見てまわる間ずっと手にコーヒーの紙コップを持ち続けている。それも大きめのサイズで、どこか浮いて見えるのだ。変わったアイテムではないのに、何故かおかしな感じなのである。ただのコーヒーなのに、まるでジョークグッズを手に持って現れたようなおかしさなのだ。
 エイミーの両親には刑事に対するそれよりももっと強い不気味さを感じた。これはただ単にぼくの人の好みなのかもしれないが、この夫妻は一見上品で温厚そうなのに、冷たいものを感じるのだ。その印象もまた、後半の展開の伏線になっているように思う。
 というわけでそういうキャラクターやシークエンスが盛りだくさんで、言ってしまえば全部主人公の敵に見えるのだ。そしてそのニックもなんだかなにを考えているかわからないのだから観ている側としては気持ち悪いことこの上ない。
 要するにおもしろいのである。
 もう一人、嫌悪感というか恐怖を感じたキャラクターがいる。ニックと一緒に記念写真を撮る野次馬の女である。妻が失踪したばかりで憔悴気味のニックがその写真はどこにもアップせずに消して欲しいと頼むのだが、野次馬女は「私の撮った写真をどうしようと自由でしょ」などと吐き捨てて立ち去るのだ。上で書いたような怪しげな人物達の誰よりも、このSNS脳の彼女を恐ろしく思う。正直この台詞が劇中一番恐かったと言っても良い。

 肝心のエイミーは一言に言ってとてもかっこいいと思った。全く関係ないけれど、彼女が口にするキットカットやコーラがとても美味しそうに見える。それまで見せられてきた、ただひたすら気持ちが不安定になっていく展開を突如ぶった切ってくれるシーンでもあるから、とても美味しそうに見えるのだ。誰にも遠慮せず暴飲暴食をしている様もスカッとする。キットカットとコーラが欲しくなった。

 原作小説も読みたくなってきたので、読んだらそれも読書感想を書きたい。

2015/01/29

ペンギン・グッズ


 ほとんど買ってもらってばかりだが、着々とペンギン・グッズが増えている。Suicaペンギンのぬいぐるみは最近のお気に入り。手前のものは通常版で、奥のものがEDWINとのコラボらしくデニム生地で出来ている。坂崎千春先生のイラスト同様の白黒配色ならまだしも、デニム生地となるともはや元の絵からだいぶ離れた印象である。ペンギン・マトリョーシカは安西水丸先生のイラストでもお馴染みだし雑貨店でよく見かけるが、あまりしっかり蓋がしまらない。個体差があるのだろうか、そもそもマトリョーシカというのはそんなにきっちり閉まらないものなのだろうか。一番大きな(一番外側の)ペンギンの頭がパカパカどころか乗っかってるだけである。一番小さいペンギンが卵の殻をかぶってるのが可愛い。そしてこの中で唯一の実用品、ポットは最近よくお湯を飲むので頻繁に使っている。ペンギンは実用品のデザインによく合うので、ほかにもいろいろ使ってみたい。
 可愛いポットも手伝ってお湯が美味しい。とにかく美味しい。なにより暖かいので安心する。お湯の飲み過ぎで味のついている飲み物が重く感じるくらいである(それでも時折コカ・コーラを口にすると美味しい)。ただあまり飲み過ぎると身体に必要なものも流れ出てしまうので注意が要るらしい・・・。

2015/01/22

瑞丸、マリコ先生に会う

「日記を書くと自分の世界が持てる」とはコラムニストの山崎まどか先生の言葉である。そのことからもブログでの日記を続けたいと思うし、ノートに書く極めて個人的な日記もできれば続けたい。たとえ間が何日、何週間空いてしまおうと・・・。
 この日は下北沢の書店「B&B」で開かれた山崎まどか先生と山内マリコ先生のトークイベントに行った。意外にもマリコ先生にお目にかかるのは初めてである。普段からメディアでその可愛らしい容貌は存じ上げていたけれど(週刊文春の連載においても先生の似顔絵を描くこともしばしば)目の前でしゃべっている姿を見てやっぱり可愛い人なのだなと思った。マリコ先生と言えば顔文字である。メールはおろか年賀状にすら顔文字が書き込まれているのを見て、普段からあまり顔文字を使うことが出来ないぼくは(どういうタイミングでどういう表情のものを使えばいいのだろうか)、こんなに顔文字を使いこなす人がいるのかと驚いたものである。マリコ先生はその適度なきゃぴきゃぴ感がとても良いのです。
 トーク終了後に著書へのサイン会が開かれ、ぼくは一緒に行った彼女と並んでサインをお願いしたのだけれど、彼女から先生に本を渡して挨拶したものだから、彼女がファンでぼくは無理くり連れてこられた彼氏だと思われたらしい。けれどすぐにメモしたこちらの氏名を二度見して驚き、隣で別のお客さんと話しているまどか先生の小脇をちょんちょん突っついて知らせようとするマリコ先生。こうして初対面を果たしたのである。
 サインに添えられたメッセージにも、やはり顔文字が書き込まれていた。
 この日はトーク中に朗読会も開かれた。アメリカの書店ではよく行われる朗読会。お二人がご自分の著作の朗読をするのを聴いて、やはりぼくはもっと朗読会に参加してみたいなと思った。小学生の頃から本の読み聴かせが大好きなのだ。作家先生の朗読会を本の読み聴かせと並べてしまっては失礼かもしれないけれど、朗読を聴いているときの「お楽しみな」感覚は小学生のときのあの感覚に似ていると思う。


↑かなりうろ覚えです。。。