2017/03/23
営業報告
「SPUR」5月号ではロジャー・ロス・ウィリアムズ監督作『ぼくと魔法の言葉たち』を紹介させていただきました。自閉症により2歳で言葉を失った少年が、大好きなディズニー映画の台詞を通じて再び他者とコミュニケーションを取れるようになったという奇跡を追ったドキュメンタリー作品。
彼、オーウェン・サスカインドがぼくと同い年であり、ぼくらの幼少時代はちょうどディズニー・ネオ・ルネサンス最盛期だったというところが今回のポイント。ぼく自身のノスタルジーやオーウェンを支えた魅力的なディズニー・キャラクターもまじえて思ったところをまとめています。
連載での紹介のほかにも、公式広報に応援イラストも描かせていただきました。
https://twitter.com/bokutomahou/status/844355143692943360
4月8日公開。ディズニー・ファンはもちろんのこと、ネオ・ルネサンス世代のひとはぜひ。
2017/03/21
ドン・ルイージのゲーム代行
どうして今Wii Uかというと、義兄が任天堂の新型機スイッチを購入したので、Wii Uを貸してもらったというわけ。実は「スーパーマリオ」でちゃんと遊んだのはこれが初めてである。任天堂の横スクロールは「ワリオランド2」しかやったことなかったので、敵に触れたら即終わるマリオのシステムはとても難しく感じる(「ワリオランド2」以降ワリオは基本的に敵に接触しても死なず、マリオのように残機やゲームオーバーの概念がない)。
中間ボスを倒してひと区切りつくまでセーブができないので、どこか途中でゲームオーバーになるとその面をまた最初からやらねばならず、行き詰まって途方に暮れていると「おてほんプレイ」の存在に気づいた。同じステージで8回死ぬとこの機能が現れるらしい。全自動でルイージがステージをいちばん効率的と思しきやり方で進めてくれる上、それを自分で改めてプレイするか、それでクリアしたことにしてそのまま次の面に進むかを選ばせてくれるという親切な機能である。もちろん次に進むに決まっている。しかしながら、経験や実力が伴わないままより難易度の高いレベルへ進んでいくのでその先でほとんど毎回ドン・ルイージの力を頼らなければならなくなり、ことあるごとにドンに頼み事をしにいくリトル・イタリーの葬儀屋やレストラン店主にでもなった気分である。
それにしても初心者や、このゲームでの遊び方をその歴史の長さゆえに忘れかけているひとのために、このような機能をつけたというのは素晴らしい考えだなと思う。ゲームが得意でないひとでもストーリーの行方を追ってエンディングを見届けたいはずだ。ぼくもそう。下手くそなくせにビデオゲームが好きなやつもいるのだ。
ちなみにこの「おてほんプレイ」は、ルイージによる全自動代行の最中で手動のプレイに切り替えることもできるらしい。キャラクターはルイージのままになってしまうが、このおかげで自分が苦戦していた難所をルイージに乗り越えてもらって、そこから先を自分で進めるという理想的な、まさに横にいる友達にちょっとだけ代わってもらうというような遊び方が実現するのだ。なにを今更言ってるんだって?いいじゃないか、ぼくは昨日知ったのだ。
2017/03/16
『お嬢さん』(2016)感想
原作はウェールズの作家によるヴィクトリア朝イギリスが舞台の物語なのだそう。莫大な遺産を相続する令嬢を結婚詐欺にかけるという詐欺師仲間の計画に乗ったスーザンは、侍女を装ってその屋敷に潜り込むが、騙すはずのお嬢様にだんだん情が移り……という筋書きはそのままに、舞台を日本統治時代の朝鮮半島に置き換えている。スーザンはスッキという少女に、令嬢は華族の秀子、彼女の後見人である叔父は朝鮮人でありながら日本人の貴族になろうとする書物蒐集家、という具合。
原作の様子を知ってからだと、そのアレンジのおもしろさが際立ってくる。特に和洋折衷の屋敷の存在感はかなり印象的だし、支配者とその文化に憧れるあまり日本人そのものになろうとする叔父・上月の設定も興味深い。パク・チャヌク監督によれば、上月のような上流階級や知識層の一部が支配側に対して抱いていた憧れや信奉が、終戦によって今度はアメリカへと移っていったというような「人間の内面における植民地支配という課題」も重要なテーマであり、上月の建てた和洋折衷の屋敷はそれを象徴しているのだとか。令嬢と侍女の物語という原作と同じ主軸なのに、そういう別の世界観で肉付けすることで、独自の作品になっているところが良い。脚色やアレンジの可能性は底知れないなあ。
もちろんそこにはヴィジュアル・センスも欠かせないと思う。ベタな仰々しさすらかっこいい。病院とガスマスクという組み合わせをこんなに自然にセンス良く描けるなんて。ああいうのは展開上自然に、わざとらしくしないところが大事なのかもしれない。
ともあれ原作の「荊の城」、一度読んでみたいな。それからBBCのドラマ版も観ておきたい。スッキに当たる主人公スーザン役がサリー・ホーキンスというのだから気になる。
よく言われている劇中の日本語について擁護しておくと、確かに学芸会っぽくて、ところどころ聞き取りづらいというか、明らかに書き言葉でしかない台詞が語られたりするので字面がまったく思い浮かべられなかったりするのだけれど(ぼくの頭の問題か)、人物たちの設定を考えれば、かえってたどたどしいながらも一生懸命日本語を話している、という様子が相応しいのではないだろうか。同じ国の人同士なのに外国語で会話しているという様もまた、チャヌク監督が言う「内面における植民地支配」を象徴していると思う。ヴィジュアルも相まって独特な持ち味になっていていいんじゃないかなあ。
いずれにせよ外から描かれる「日本」はやっぱりぼくには魅力的だ。日本人には決して描くことのできない日本像がそこにはあるし、外国のひとの目を通して見ることに意義があるんじゃないかなとすら思う。
2017/03/14
asta 2017年4月号
ポプラ社「asta」4月号では長谷川町蔵さんの初の小説集「あたしたちの未来はきっと」(タバブックス・ウィッチンケア文庫)を紹介しております。
東京町田を舞台にした「東京のローカル物語」ということで、先月号で紹介した山内マリコさんの「あのこは貴族」(集英社)とも通じるものがあります。先月末にはちょうど、下北沢の書店「B&B」にてこの2冊をテーマに山内さんと長谷川さんのトークショーもありましたので、連続で紹介できてよかったです。
そして、2年以上やらせていただきました「秘密図書館 in asta*」は今号で最終回となります。いろいろな読書体験をさせてもらいましたが、「あのこは貴族」、「あたしたちの未来はきっと」という流れで締めくくることができてよかったです。外側からの目、あるいは内側からの目を通して描かれる都市圏の飽くことのない魅力や、生まれ育った街を振り返る重要さを改めて知ることができたと思います。ぼくもいつかひとりの上京者として、部外者から見た街、あるいは離れてから見えてきた地元の姿をスケッチできればいいなと思います。
2017/03/08
『ラ・ラ・ランド』(2016) 感想
映画館の暗い中でスクリーンを見ている間は非現実的だ。外が夜なのか昼なのかも忘れてしまう。映画が終わって外に出ると、案外とても明るくて不思議な気分になる。一気に現実にひき戻されるけれど、嫌な気はしない。寂しいけれど、映画は終わる。でも、自分の中ではなにかがふつふつと湧き上がっている気がする。ふわふわした夢から覚めるのとも似ているかもしれない。
それこそ『ラ・ラ・ランド』の物語なんじゃないかな。夢のような時間とその終わり。映画は終わる。夢も覚める。恋も、もしかしたら終わってしまうことも。最終的に夢を叶えたはずのエマ・ストーンが、本当はこうだったかもしれない、本当はこうあってほしかったという夢を見て束の間現実から浮かび上がっていくとき、その様子が映画のセットやフィルムによって表現されているのも、映画館での体験の非現実性があってのこと。映画の都ハリウッドとそれを取り巻くロサンゼルス(LA)という街と、映画館での現実から浮遊するような時間、やがて帰っていかなければならない現実。"LA LA LAND"、なんてぴったりなタイトルでしょう。
そしてやっぱりミュージカルは楽しい。音楽に乗って物語が進んでいくだけで楽しく、難しいことはなにひとつない。それに本作はミュージカルに馴染みの無いひとでも楽しめるんじゃないかという気がする。古典的な要素を取り入れながら決して古さや仰々しさを感じさせず、新しいものに、自然なものに更新されていてとてもポップだ。ハリウッドそのものへの敬意や映画への愛、それを次へ伝えようという意欲。こうして遺伝子は受け継がれていくんだな。ぼくも敬意を形にして作品を作っていきたい。「好き」を形にすることは素晴らしいと思う。
ただひたすらに楽しく美しいものを人々は観たいのかもしれない。ぼくだって観たい。生きていると驚くほど嫌なことが多い。うまくいかないことの多いこと。できればずっと夢に浸っていたい。けれどこの映画は現実の苦さも忘れさせない。だから心を打たれるのだと思う。
日記の反省
正直に言おう。結局のところ数日分をまとめていく日記のスタイルは行き詰まってしまった。この方法なら週に一度思い返すことで1日も欠かさずに記録をつけられるかと思ったけれど、どうしたって多忙な週というのがあってついつい振り返って書くことを忘れてしまうことがあり、また特筆することがないために何があったかほとんど思い出せない日なんかがあって、要するにぐだぐだになった。
そもそもね、公開ブログに書けることってかなり制限があるんだよ。生活のあれこれを切り売りできるタイプのひとなら工夫次第でいくらでも赤裸々に書けそうだけれど、まずぼくは切り売りできるだけのおもしろい生活をおくっていないし、他人のことうまくぼかしながら書く工夫をするような余裕もなければ、仕事についても書けることが少ないのだ。今どこから依頼されたどんな絵を描いているかなんてのはもちろん書けない。映画の試写については何を観て、内容に触れることのない簡単な所感を書き留めたりもしていたが、それも連日となると試写日記になってしまう。今更読む人がおもしろいかどうかなんて気にしていないけれど(基本的に今時ブログの閲覧者はほとんどいないと自分では思うようにしている)、自分で書いていておもしろいかどうかは気にしている。ああ、まだ先週分もまとめていなければ先々週分もまとめられていない、などとだんだん日記を書けていないということがストレスになり、書かなければという謎のプレッシャーもやってきて、とてもじゃないが日記を書くことで考えや気持ちを整理して心の平穏を保つなんてことできる状態じゃなくなってしまった。
日々のことを細かく書くのは、やはり自分自身のために書くプライベートなノートでなければいけないと思った。そこでなら誰と会ってどんな話をしたか、誰が憎たらしいとか、仕事で味わった嫌なことだとか、約束をすっぽかしてなにをしていたとか、そういうことが遠慮なく書けるわけだ。日記は愚痴を書くことでストレスが解消される面もあるけれど、それを公開ブログでやるととんでもないことになってしまう。読む人がおもしろいかどうかは気にしないけれど、不快にはなってもらいたくない。すっかりSNSの時代になってしまったが、ぼくはブログを書くということを大事にしたいし、紙のノートに万年筆で誰に見せることのない記録を書くという習慣も大切にしていきたいと思っている。
そういうわけで、また以前のような不定期の日記に戻します。それにしても去年の11月上旬からおよそ4ヶ月くらいずっと記録をつけたことは褒めてあげたい。あれの続きは誰にも遠慮する必要のない自分のためのノートで。家族も読むことのないところで思い切り書くことにしよう。
そもそもね、公開ブログに書けることってかなり制限があるんだよ。生活のあれこれを切り売りできるタイプのひとなら工夫次第でいくらでも赤裸々に書けそうだけれど、まずぼくは切り売りできるだけのおもしろい生活をおくっていないし、他人のことうまくぼかしながら書く工夫をするような余裕もなければ、仕事についても書けることが少ないのだ。今どこから依頼されたどんな絵を描いているかなんてのはもちろん書けない。映画の試写については何を観て、内容に触れることのない簡単な所感を書き留めたりもしていたが、それも連日となると試写日記になってしまう。今更読む人がおもしろいかどうかなんて気にしていないけれど(基本的に今時ブログの閲覧者はほとんどいないと自分では思うようにしている)、自分で書いていておもしろいかどうかは気にしている。ああ、まだ先週分もまとめていなければ先々週分もまとめられていない、などとだんだん日記を書けていないということがストレスになり、書かなければという謎のプレッシャーもやってきて、とてもじゃないが日記を書くことで考えや気持ちを整理して心の平穏を保つなんてことできる状態じゃなくなってしまった。
日々のことを細かく書くのは、やはり自分自身のために書くプライベートなノートでなければいけないと思った。そこでなら誰と会ってどんな話をしたか、誰が憎たらしいとか、仕事で味わった嫌なことだとか、約束をすっぽかしてなにをしていたとか、そういうことが遠慮なく書けるわけだ。日記は愚痴を書くことでストレスが解消される面もあるけれど、それを公開ブログでやるととんでもないことになってしまう。読む人がおもしろいかどうかは気にしないけれど、不快にはなってもらいたくない。すっかりSNSの時代になってしまったが、ぼくはブログを書くということを大事にしたいし、紙のノートに万年筆で誰に見せることのない記録を書くという習慣も大切にしていきたいと思っている。
そういうわけで、また以前のような不定期の日記に戻します。それにしても去年の11月上旬からおよそ4ヶ月くらいずっと記録をつけたことは褒めてあげたい。あれの続きは誰にも遠慮する必要のない自分のためのノートで。家族も読むことのないところで思い切り書くことにしよう。
「集めたくなる栞」最終回
1年間毎月配布されていたブックユニオン店頭購入特典「集めたくなる栞」が今月で最終回です。本のジャンルを表す絵柄のシリーズで展開してきましたが、最終回は「POETRY」ということで「詩」です。ぼくのイメージする詩人っぽいひとを描いています。
そんなわけで初回の「MYSTERY」から「POETRY」まで全12種類が揃いました。色とりどりになったかと思います。1年間ありがとうございました。
コレクションが前提のカード的なものをちゃんと作ったのは初めてだったけれど、自分のためにそういうのを作ってもいいかもね。対戦カードよりは、絵柄ありきの収集カードのほうが好きかな。子供の頃から対戦ものはルールが覚えられなかった。2017/03/06
日記:2017/02/16 - 25
2017/02/16 木 〜 21 火
とりあえず忙しい時期だった、とひとくくりにしておく。忙しい忙しいの一点張りじゃ日記としてもつまらないと思うが。
気分転換に上映が終わろうとしていた『ローグ・ワン』の見納めをしたのだけれど、やはり回数を重ねるごとに前半のくだりは非常に冗長に感じられてくる。回数といってもぼくはこのときを含めて4回なのだけれど、とてもツイッターで見かけるような10回以上の鑑賞はする気になれないし、そんなことなんの自慢にもならないと思っている。
また別の機会にじっくり書きたいけれど、あの映画のテンポはどこか本を読んでいるときに似ている。というか、往年のSW小説によくある感じのテンポだと思う。前半から中盤までダルいが、終盤で一気に盛り上げていく感じ。
電話を受けることが多くなった。電話が多いと、仕事をしているなという気分になるものだけれど、どうも近所の基地局かなにかの移転がされたらしく、部屋の電波が非常に悪い。まだ電波塔が裏の山に建つ前の実家並みに電波が悪く、通話中もわりと先方の声が途切れて困る。固定電話を引いた方がいいんじゃないか。ヴィンテージ玩具店で見かけるようなディズニーの古い電話とか置きたい。コードの繋がった大きな受話器を持って仕事の連絡を交わすという絵図に憧れもある。ドラマの「マッドメン」かなにかの影響だろうな。
2017/02/22 水
ビデオ・ゲームがもとの映画を試写で観た。モーション・キャプチャーを多用して実際の俳優そのままのモデルにその本人が声を当てているというような「プレイする映画」とも言うべきゲームがたくさん出ている中、果たしてゲームを実写映画化する意味があるのかと疑問を思ったりもしていたが、ゲームにはプレイすることが前提に書かれた物語があり、そういったゲームでしか生まれ得ないタイプのストーリーを映画のネタに持ってくることでおもしろい化学反応が見られることもあるんだなあということがわかった。ゲームと映画は互いに刺激し合って進化していけるものなのかもしれない。
2017/02/24 金
久しぶりによそのおうちに犬を連れていくことに。少し長い道のりだったが到着したときの犬のはしゃぎようは見ているこちらもうれしいくらい。おうちは素晴らしいところだった。何度も「素敵」を連発した。ひとの家に行くとあちこち真似したくなってしまうのは昔から変わらないが、うまく参考にできたためしはない。それでもやっぱりいろいろなところを見せてもらって、帰ったらぼくも自分の部屋をああしてこうしてと想像を膨らませた。とても楽しい時間だった。犬も楽しかったろうと思う。
ちなみにこの日は結婚記念日で映画『ラ・ラ・ランド』の公開日だった。
2017/02/25 土
沈むように寝ていた。夕方妻が仕事をあがるのに合わせて出かけて行き、一緒にビックカメラを覗いた。レゴ・ブロックでも買わせてくれるのかと思ってうきうきしていたが、帰り道のぼくが提げる紙袋にはフィリップス電動シェーバーがあった。生まれて初めて使ったのだけれど、綺麗に剃れる。T字では限界があった。ぼくはヒゲが濃いのだ。でも脱毛しようだなんて思わないな。年取ったらオビ=ワン・ケノービみたいに生やしたくなるかもしれない。シェーバーでヒゲを剃るのは楽しい。
とりあえず忙しい時期だった、とひとくくりにしておく。忙しい忙しいの一点張りじゃ日記としてもつまらないと思うが。
気分転換に上映が終わろうとしていた『ローグ・ワン』の見納めをしたのだけれど、やはり回数を重ねるごとに前半のくだりは非常に冗長に感じられてくる。回数といってもぼくはこのときを含めて4回なのだけれど、とてもツイッターで見かけるような10回以上の鑑賞はする気になれないし、そんなことなんの自慢にもならないと思っている。
また別の機会にじっくり書きたいけれど、あの映画のテンポはどこか本を読んでいるときに似ている。というか、往年のSW小説によくある感じのテンポだと思う。前半から中盤までダルいが、終盤で一気に盛り上げていく感じ。
電話を受けることが多くなった。電話が多いと、仕事をしているなという気分になるものだけれど、どうも近所の基地局かなにかの移転がされたらしく、部屋の電波が非常に悪い。まだ電波塔が裏の山に建つ前の実家並みに電波が悪く、通話中もわりと先方の声が途切れて困る。固定電話を引いた方がいいんじゃないか。ヴィンテージ玩具店で見かけるようなディズニーの古い電話とか置きたい。コードの繋がった大きな受話器を持って仕事の連絡を交わすという絵図に憧れもある。ドラマの「マッドメン」かなにかの影響だろうな。
2017/02/22 水
ビデオ・ゲームがもとの映画を試写で観た。モーション・キャプチャーを多用して実際の俳優そのままのモデルにその本人が声を当てているというような「プレイする映画」とも言うべきゲームがたくさん出ている中、果たしてゲームを実写映画化する意味があるのかと疑問を思ったりもしていたが、ゲームにはプレイすることが前提に書かれた物語があり、そういったゲームでしか生まれ得ないタイプのストーリーを映画のネタに持ってくることでおもしろい化学反応が見られることもあるんだなあということがわかった。ゲームと映画は互いに刺激し合って進化していけるものなのかもしれない。
2017/02/24 金
久しぶりによそのおうちに犬を連れていくことに。少し長い道のりだったが到着したときの犬のはしゃぎようは見ているこちらもうれしいくらい。おうちは素晴らしいところだった。何度も「素敵」を連発した。ひとの家に行くとあちこち真似したくなってしまうのは昔から変わらないが、うまく参考にできたためしはない。それでもやっぱりいろいろなところを見せてもらって、帰ったらぼくも自分の部屋をああしてこうしてと想像を膨らませた。とても楽しい時間だった。犬も楽しかったろうと思う。
ちなみにこの日は結婚記念日で映画『ラ・ラ・ランド』の公開日だった。
2017/02/25 土
沈むように寝ていた。夕方妻が仕事をあがるのに合わせて出かけて行き、一緒にビックカメラを覗いた。レゴ・ブロックでも買わせてくれるのかと思ってうきうきしていたが、帰り道のぼくが提げる紙袋にはフィリップス電動シェーバーがあった。生まれて初めて使ったのだけれど、綺麗に剃れる。T字では限界があった。ぼくはヒゲが濃いのだ。でも脱毛しようだなんて思わないな。年取ったらオビ=ワン・ケノービみたいに生やしたくなるかもしれない。シェーバーでヒゲを剃るのは楽しい。
2017/02/28
日記:2017/02/08 - 15
2017/02/08 水
下手に忙しいなどと口走ると、そんなの忙しい内に入らないだとか、どんなに忙しくってもメールの返事くらい打てるだとか、忙しいなんて言うのは100年早いだとか、まあそんなことを言ってくる大人は多いのだけれど、忙しいもんは忙しいのだから仕方ない。忙しさや疲労に基準はない。ぼくが忙しいと感じていればそれはぼくにとって忙しいということなのである。あと、メールの返事くらい打てるというのに対して言わせてもらえれば、たとえメールを打つくらいの時間的余裕があったとしても、メール一通打つだけの心の余裕がない場合もある。電車に乗ったとき、トイレに入ったときに携帯電話からでも返事が打てるはずだ、と言うひともいるかもしれないが、ぼくはそんな、全ての時間なにかしてなくてはいけないと強迫されながら生きるのはご免である。というわけで今とても忙しい。
2017/02/09 木
この日は昼と夕方に試写を観ることにした。前日の項で忙しい忙しい言ってるのだけれど、この日に観ておいたほうがスケジュール上都合がいいからである。『レゴバットマン ザ・ムービー』と『ムーンライト』の二本。昼間に前者、夕方から後者だった。極限までデフォルメされたレゴという様式は、実はモチーフのキャラクターについて説明や批評をするのにすごく効果的ということがわかっておもしろかった。『ムーンライト』はアカデミー賞でも『ラ・ラ・ランド』の対抗馬といわれているくらいの作品だけあって、とても味わい深い。簡単に触れるのがためらわれるのでまた別の機会で。
二つの試写の間の空いた時間は、雪がぱらぱらと降る中ひとり秋葉原を散策した。久しぶりにひとりでやってきた。ひとりということは時間が許す限り好きにまわれて、存分に迷いながら買い物もできるわけ。中古で老オビ=ワン・ケノービの12インチ・フィギュアがあって、1800円だったし、最近はオビ=ワンに気持ちが寄っているので欲しかったのだけれど、結局やめてしまった。非常にみみっちい話なのだが、現金が少し足りなかった。こんなことでやたらとカードを使うのもよくないような気がした。きりがなくなってしまう。かわりに1000円以下で転がっていたカイロ・レンのお面(ボイスチェンジャー機能付き)を買った。最近になってようやくジェダイに惹かれ始めたものの、やっぱりカイロ・レンは放っておけないのである。
映画を見終えて家に帰ってから、妻にこうこうこういうふうにひとりで迷っていたのだという話をしたら、あっさりと「それくらいカード切ればいいのに」と言われた。なあんだ。ぼくはちょっとした金額でうじうじ悩みすぎなのかもなあ。
ところで外に出ているときに空いた時間をチェーンのカフェなんかで過ごせるようにとオートチャージ式のICカードを持たされているのだけれど、結局電子マネーが使えるカフェを探して歩き回っているうちに時間が潰れてしまう。この日もそうだった。以前パスモやスイカが使える店舗に入ったことがあったとしても、どの店舗もそうというわけではないので、お店に入る前にiPhoneでわざわざ目の前に構えているお店でICカードを使えるのかどうかをネット検索して調べるようにしている。そうじゃないと怖くて入れない。そして、だいたいそんなことは検索したところで載ってない。ぼくも一応なんとか考えることはできるので、駅前の店舗であれば交通系ICカードが使えるのではないか、前に使えたお店も確か駅のそばだったはずだ、と思い至って意を決して駅前のスターバックスに入るのだけれど、結局そこも使えなくて、うちでは使えません、と優しく言われたにも関わらずひどくショックを受けて落ち込んでしまう。ショックくらいならいいが、ぼくはたまにそれをものすごく拒絶されたように感じてしまってパニックになりかけてしまうことがある。
スターバックスは好きで、俗に言われているような注文システムの難しさなんでちっとも感じたことはないのだけれど、電子マネーが使えるかどうかを心配すると、どこのコーヒー店だろうと、とっても敷居が高いものに思えてくる。コーヒー店どころではない、お金には変わりないものの、使えるかどうかわからないものを頼りに街を行くのは、とても途方に暮れる感じがする。
2017/02/10 金
妻もああ言ってくれたので、用事のあとで昨日の秋葉原のお店に行ってみた。オビ=ワン・ケノービに夢中になったのは、多分オビ=ワンとレイの共通点をたくさん見出してその関係性を考えているうちに、オビ=ワンがシリーズの中心人物としての側面のあるということに気づいてからだと思う。いろいろと考えているうちにこの人物の魅力がわかってきた。今まで被り物をしたキャラクターにしか興味がなく、生身の人間キャラは主人公含め基本的に造形がつまらないものと決めつけていたのだが、年を取って初めてわかる魅力が出て来たりして、本当に飽きの来ない作品だなあ。
ところがである。たった1日で老ケノービの90年代ハズブロ製12インチは姿を消していた。どこを探しても無い。ああなんということだ。昨日買えばよかったのだ。やはり見つけたときに買わないとだめなんだなあ。これでは気がすまないので、同じシリーズのボバ・フェットと、『ファントム・メナス』のときのクワイ=ガン・ジン仕様のライトセイバーを買った。
こういうふうに買い物するのは楽しいけれど、なんの意味もない玩具を買い続けることに疑問を抱いている自分が背後にいたりもする。中古で、大した額にはなっていないのだけれど、それでも自分はこんなことをいつまで続けるんだろうとも思うのである。もちろん楽しい。ストレスも和らぐ。ただ、ぼくの中にある大人になりかかったもの、死に向かい始めている心、あるいはこんなことではだめだ、もっと高みへ行こうという気持ちが、冷めた視線を投げかけてくるのである。知識や客観性が素直さを殺し始めているのか。玩具を欲しがり続けるのと同じ貪欲さが、現状に甘んじてはいけないと警告してきているのか。なにを大切にすればいいのかわからなくなっている。自分がなにを大事にしたいのかがよくわからなくなっている。絵を描くこと、文章を書くこと、好きな映画やキャラクターを愛すること、品物を、造形を、形のあるものに愛着を持つこと。たぶんどれもぼくには重要なのだけれど、時折そのバランスが崩れてしまいそうで怖いのだ。自分で表現することができずに、買い物だけでしか愛情表現ができなくなるのではないか。物に依存しすぎているのではないかと。
部屋にある物から圧迫感を覚えることは今もある。しかし、集めて来たものを、ほんの少し部屋を広く感じようとするために衝動的に手放す、なんていうことは、もうしないと思うし、したくもない。それはやっぱり、自分のいろいろなものを否定してしまうような気がする。ミニマリストには憧れる。彼らの生活はいかにすっきりしているだろうか。部屋は汎用的で均整が取れていて、無駄がない中にほんの少しの遊び心を残して趣味の良さを表現する。なんていう、それっぽいインテリアの本に載っているそれっぽい部屋の写真を思い浮かべる。でもさ、ぼくってそんながらんとした部屋に果たして住みたいだろうか?本当は本や品物で溢れかえった小さな図書室、私設博物館のような部屋で過ごしたいのでは?そこに集められているコレクションは、ぼくの気持ちを圧迫するものではなく、ぼくの知識や価値観の記録や記念と言えるんじゃないか。頭の中におさまりきらない、溢れんばかりのイメージや想いを、目に見えて手で触れられる形のあるものに託したからこそのコレクションなんじゃないか。なにより、ぼく自身も本来人間が生きていく上でそこまで重要じゃないものを作って暮らしているじゃないか。ぼくの仕事は装飾的だし、ぼくの作ったものもまた誰かのコレクションになり得る。そんなぼくが、ひとつひとつの物に価値を見出せないでどうする。一気に袋に詰めて捨てれば、そりゃあそのときはすっきりするだろうよ。でもね、あとできっと虚しい気持ちになるんじゃないかな。やっぱり、その必要がない限り、むやみに大事にしてたものを手放すべきではないんだな。持っていられる限り、物は持っていていいし、欲しいと思ったものは、素直に買ってもいいんだよ。忘れてはならないのは、このやや供給過多の世の中で、本当に自分が欲しいものを見極めることかもしれない。
ボバ・フェットはこの時期のフィギュアにしてはわりとよく出来ているし、少し粗く見えるところは、レトロ・トイの魅力として見ることもできる。そしてクワイ=ガンのライトセイバー!緑色が綺麗で、サウンドや光も楽しい。持ってるだけでSWという感じがする。赤いライトセイバーよりも。そうそう、どうしてぼくが急に王道的なジェダイの騎士に意識が向き始めたか。それはまた改めて書くことにしよう。
2017/02/11 土
土曜日でもしっかり朝起きられた。このところ熱心なのは部屋の整理で、前日に物を買う自分を肯定しはしたが、部屋がごちゃごちゃ散らかるのはよくないので、なにをしまい、なにを飾るか、そのバランスを見極めたり、本棚の中を調整しているのだけれど、これはわりと楽しい。特に本棚の整理は、これだと思う形が見え始めるととても気持ちが良い。
2017/02/12 日
月曜までと言われている仕事を昼間に仕上げたので、わりとのんびり過ごした。日曜はなにもせずに完全に休むぞと新年から意気込んでいたのだが、どうも世の中の方がそれを許してくれないというか、逆に金曜までに全て済ませなければならない、というほうが自分を圧迫することがわかり、結局そのあたり適当になってしまった。ぼくは自分で設定したルールに縛られて思い悩んでしまうタイプなのだけれど、まずはそれをどうにかしたい。いろいろな意味でぼくは時間を好きに使える環境下にあるのだから、自由にやればいいんだよね。もちろん、ある程度決めることでメリハリはつくんだろうけれど。乗れないときは本当に乗れないし、やれそうなときはやれるもので。とりあえず締め切りさえ守っていれば大丈夫だろう多分。
2017/02/13 月
特に書けることはなし。ひたすら描いている。今週はなかなか大変そうだ。
2017/02/14 火
妻から『スター・ウォーズ』のチョコレートをもらう。棒にカイロ・レンやR2-D2、BB-8の形のチョコレートがついている。お腹も減っていたのでぺろっと三本ともたいらげたら、妻が驚き、一本くらい食べたかったと言った。
2017/02/15 水
思ったのだが、これ毎日メモしておく必要ある?ないよね。また自分で作ったルールに縛られていたわけだ。一年365日分記録をつけてみよう、とは思ったが、なんにもない日はなんにもないし、事細かに書いていく気力もこう忙しいとねえ。その日の寝る前に書ければいいのだけれど、なかなかその習慣もつかないし、この形式の利点が損なわれる。
というようなその日の出来事となんの関係もないメモばかり増えている気がする。
下手に忙しいなどと口走ると、そんなの忙しい内に入らないだとか、どんなに忙しくってもメールの返事くらい打てるだとか、忙しいなんて言うのは100年早いだとか、まあそんなことを言ってくる大人は多いのだけれど、忙しいもんは忙しいのだから仕方ない。忙しさや疲労に基準はない。ぼくが忙しいと感じていればそれはぼくにとって忙しいということなのである。あと、メールの返事くらい打てるというのに対して言わせてもらえれば、たとえメールを打つくらいの時間的余裕があったとしても、メール一通打つだけの心の余裕がない場合もある。電車に乗ったとき、トイレに入ったときに携帯電話からでも返事が打てるはずだ、と言うひともいるかもしれないが、ぼくはそんな、全ての時間なにかしてなくてはいけないと強迫されながら生きるのはご免である。というわけで今とても忙しい。
2017/02/09 木
この日は昼と夕方に試写を観ることにした。前日の項で忙しい忙しい言ってるのだけれど、この日に観ておいたほうがスケジュール上都合がいいからである。『レゴバットマン ザ・ムービー』と『ムーンライト』の二本。昼間に前者、夕方から後者だった。極限までデフォルメされたレゴという様式は、実はモチーフのキャラクターについて説明や批評をするのにすごく効果的ということがわかっておもしろかった。『ムーンライト』はアカデミー賞でも『ラ・ラ・ランド』の対抗馬といわれているくらいの作品だけあって、とても味わい深い。簡単に触れるのがためらわれるのでまた別の機会で。
二つの試写の間の空いた時間は、雪がぱらぱらと降る中ひとり秋葉原を散策した。久しぶりにひとりでやってきた。ひとりということは時間が許す限り好きにまわれて、存分に迷いながら買い物もできるわけ。中古で老オビ=ワン・ケノービの12インチ・フィギュアがあって、1800円だったし、最近はオビ=ワンに気持ちが寄っているので欲しかったのだけれど、結局やめてしまった。非常にみみっちい話なのだが、現金が少し足りなかった。こんなことでやたらとカードを使うのもよくないような気がした。きりがなくなってしまう。かわりに1000円以下で転がっていたカイロ・レンのお面(ボイスチェンジャー機能付き)を買った。最近になってようやくジェダイに惹かれ始めたものの、やっぱりカイロ・レンは放っておけないのである。
映画を見終えて家に帰ってから、妻にこうこうこういうふうにひとりで迷っていたのだという話をしたら、あっさりと「それくらいカード切ればいいのに」と言われた。なあんだ。ぼくはちょっとした金額でうじうじ悩みすぎなのかもなあ。
ところで外に出ているときに空いた時間をチェーンのカフェなんかで過ごせるようにとオートチャージ式のICカードを持たされているのだけれど、結局電子マネーが使えるカフェを探して歩き回っているうちに時間が潰れてしまう。この日もそうだった。以前パスモやスイカが使える店舗に入ったことがあったとしても、どの店舗もそうというわけではないので、お店に入る前にiPhoneでわざわざ目の前に構えているお店でICカードを使えるのかどうかをネット検索して調べるようにしている。そうじゃないと怖くて入れない。そして、だいたいそんなことは検索したところで載ってない。ぼくも一応なんとか考えることはできるので、駅前の店舗であれば交通系ICカードが使えるのではないか、前に使えたお店も確か駅のそばだったはずだ、と思い至って意を決して駅前のスターバックスに入るのだけれど、結局そこも使えなくて、うちでは使えません、と優しく言われたにも関わらずひどくショックを受けて落ち込んでしまう。ショックくらいならいいが、ぼくはたまにそれをものすごく拒絶されたように感じてしまってパニックになりかけてしまうことがある。
スターバックスは好きで、俗に言われているような注文システムの難しさなんでちっとも感じたことはないのだけれど、電子マネーが使えるかどうかを心配すると、どこのコーヒー店だろうと、とっても敷居が高いものに思えてくる。コーヒー店どころではない、お金には変わりないものの、使えるかどうかわからないものを頼りに街を行くのは、とても途方に暮れる感じがする。
2017/02/10 金
妻もああ言ってくれたので、用事のあとで昨日の秋葉原のお店に行ってみた。オビ=ワン・ケノービに夢中になったのは、多分オビ=ワンとレイの共通点をたくさん見出してその関係性を考えているうちに、オビ=ワンがシリーズの中心人物としての側面のあるということに気づいてからだと思う。いろいろと考えているうちにこの人物の魅力がわかってきた。今まで被り物をしたキャラクターにしか興味がなく、生身の人間キャラは主人公含め基本的に造形がつまらないものと決めつけていたのだが、年を取って初めてわかる魅力が出て来たりして、本当に飽きの来ない作品だなあ。
ところがである。たった1日で老ケノービの90年代ハズブロ製12インチは姿を消していた。どこを探しても無い。ああなんということだ。昨日買えばよかったのだ。やはり見つけたときに買わないとだめなんだなあ。これでは気がすまないので、同じシリーズのボバ・フェットと、『ファントム・メナス』のときのクワイ=ガン・ジン仕様のライトセイバーを買った。
こういうふうに買い物するのは楽しいけれど、なんの意味もない玩具を買い続けることに疑問を抱いている自分が背後にいたりもする。中古で、大した額にはなっていないのだけれど、それでも自分はこんなことをいつまで続けるんだろうとも思うのである。もちろん楽しい。ストレスも和らぐ。ただ、ぼくの中にある大人になりかかったもの、死に向かい始めている心、あるいはこんなことではだめだ、もっと高みへ行こうという気持ちが、冷めた視線を投げかけてくるのである。知識や客観性が素直さを殺し始めているのか。玩具を欲しがり続けるのと同じ貪欲さが、現状に甘んじてはいけないと警告してきているのか。なにを大切にすればいいのかわからなくなっている。自分がなにを大事にしたいのかがよくわからなくなっている。絵を描くこと、文章を書くこと、好きな映画やキャラクターを愛すること、品物を、造形を、形のあるものに愛着を持つこと。たぶんどれもぼくには重要なのだけれど、時折そのバランスが崩れてしまいそうで怖いのだ。自分で表現することができずに、買い物だけでしか愛情表現ができなくなるのではないか。物に依存しすぎているのではないかと。
部屋にある物から圧迫感を覚えることは今もある。しかし、集めて来たものを、ほんの少し部屋を広く感じようとするために衝動的に手放す、なんていうことは、もうしないと思うし、したくもない。それはやっぱり、自分のいろいろなものを否定してしまうような気がする。ミニマリストには憧れる。彼らの生活はいかにすっきりしているだろうか。部屋は汎用的で均整が取れていて、無駄がない中にほんの少しの遊び心を残して趣味の良さを表現する。なんていう、それっぽいインテリアの本に載っているそれっぽい部屋の写真を思い浮かべる。でもさ、ぼくってそんながらんとした部屋に果たして住みたいだろうか?本当は本や品物で溢れかえった小さな図書室、私設博物館のような部屋で過ごしたいのでは?そこに集められているコレクションは、ぼくの気持ちを圧迫するものではなく、ぼくの知識や価値観の記録や記念と言えるんじゃないか。頭の中におさまりきらない、溢れんばかりのイメージや想いを、目に見えて手で触れられる形のあるものに託したからこそのコレクションなんじゃないか。なにより、ぼく自身も本来人間が生きていく上でそこまで重要じゃないものを作って暮らしているじゃないか。ぼくの仕事は装飾的だし、ぼくの作ったものもまた誰かのコレクションになり得る。そんなぼくが、ひとつひとつの物に価値を見出せないでどうする。一気に袋に詰めて捨てれば、そりゃあそのときはすっきりするだろうよ。でもね、あとできっと虚しい気持ちになるんじゃないかな。やっぱり、その必要がない限り、むやみに大事にしてたものを手放すべきではないんだな。持っていられる限り、物は持っていていいし、欲しいと思ったものは、素直に買ってもいいんだよ。忘れてはならないのは、このやや供給過多の世の中で、本当に自分が欲しいものを見極めることかもしれない。
ボバ・フェットはこの時期のフィギュアにしてはわりとよく出来ているし、少し粗く見えるところは、レトロ・トイの魅力として見ることもできる。そしてクワイ=ガンのライトセイバー!緑色が綺麗で、サウンドや光も楽しい。持ってるだけでSWという感じがする。赤いライトセイバーよりも。そうそう、どうしてぼくが急に王道的なジェダイの騎士に意識が向き始めたか。それはまた改めて書くことにしよう。
2017/02/11 土
土曜日でもしっかり朝起きられた。このところ熱心なのは部屋の整理で、前日に物を買う自分を肯定しはしたが、部屋がごちゃごちゃ散らかるのはよくないので、なにをしまい、なにを飾るか、そのバランスを見極めたり、本棚の中を調整しているのだけれど、これはわりと楽しい。特に本棚の整理は、これだと思う形が見え始めるととても気持ちが良い。
2017/02/12 日
月曜までと言われている仕事を昼間に仕上げたので、わりとのんびり過ごした。日曜はなにもせずに完全に休むぞと新年から意気込んでいたのだが、どうも世の中の方がそれを許してくれないというか、逆に金曜までに全て済ませなければならない、というほうが自分を圧迫することがわかり、結局そのあたり適当になってしまった。ぼくは自分で設定したルールに縛られて思い悩んでしまうタイプなのだけれど、まずはそれをどうにかしたい。いろいろな意味でぼくは時間を好きに使える環境下にあるのだから、自由にやればいいんだよね。もちろん、ある程度決めることでメリハリはつくんだろうけれど。乗れないときは本当に乗れないし、やれそうなときはやれるもので。とりあえず締め切りさえ守っていれば大丈夫だろう多分。
2017/02/13 月
特に書けることはなし。ひたすら描いている。今週はなかなか大変そうだ。
2017/02/14 火
妻から『スター・ウォーズ』のチョコレートをもらう。棒にカイロ・レンやR2-D2、BB-8の形のチョコレートがついている。お腹も減っていたのでぺろっと三本ともたいらげたら、妻が驚き、一本くらい食べたかったと言った。
2017/02/15 水
思ったのだが、これ毎日メモしておく必要ある?ないよね。また自分で作ったルールに縛られていたわけだ。一年365日分記録をつけてみよう、とは思ったが、なんにもない日はなんにもないし、事細かに書いていく気力もこう忙しいとねえ。その日の寝る前に書ければいいのだけれど、なかなかその習慣もつかないし、この形式の利点が損なわれる。
というようなその日の出来事となんの関係もないメモばかり増えている気がする。
営業報告
「SPUR」4月号ではジャン=マルク・ヴァレ監督、ジェイク・ギレンホール主演『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』を紹介しています。西川美和監督作『永い言い訳』とあわせて観たくなる、妻の突然の事故死をきっかけに人生を見直す男の物語です。公開中。
山内マリコさんの新刊「皿洗いするの、どっち? 目指せ、家庭内男女平等」(マガジンハウス)にて装画と挿絵を描いております。
「anan」で連載されている同棲・結婚生活エッセイをまとめた単行本となります。発売中です。https://www.amazon.co.jp/dp/483872909X
こちらは3月2日発売の「今すぐ! 集中力をつくる技術――いつでもサクッと成果が出る50の行動」(祥伝社)という本。表紙に一点カットのみとなります。中の挿絵は違う方です。
2017/02/15
日記:2017/02/01 - 07
2017/02/01 水
前日の緊張がまだ続いているかのようで1日中落ち着かなかった。未だティム・バートン監督を目の前にしたという事実に実感がなく、短い時間だったがなにか失礼があったのではないかと急に思えてきて不安に襲われる。何度も何度も自分が質問をしたときのことを思い出して、自分がどんなふうにしゃべり、どんなふうにどぎまぎしたかを頭の中で再現して反芻しては、ああ、やっぱりよくなかったのではと、恥ずかしさとも情けなさともつかない、なんとも言えない気分になるのであった。
それと、やはり会場で怒鳴り声を上げていたテレビ・マンがおっかなく、別にぼく自身はなにもされちゃいないのだが、なにかいけないものを見聞きしてしまった気がし、とにかく随分と自分が傷ついていたことがわかった。
2017/02/02 木
スーパーでスターバックスのコーヒー豆を買えたので、久しぶりに朝コーヒーを淹れた。思えばスターバックスでは大抵お菓子のような限定ものか、お気に入りのホワイトモカばかり頼んでいて、普通のコーヒーを飲むことはないので、そこまで味はわからず、言われなければわからん。
ようやく緊張が解け始め、かわりに「うわー、とうとう本物のティム・バートンを見ちゃったなあ」とじわじわ感動がやってきた。ぼくのこの時間差でやってくるリアクションはなんなのだろう。
2017/02/03 金
特に節分らしいこともせず。あの太くて具のたくさん入った海苔巻きあまり好きじゃないしね。それにあれが節分の食べ物だっていう感覚まだ馴染まないな。やっぱり豆まきでしょう。それもしなかったが。
試写を一本観た。ダウン症の少年がディズニー映画のセリフを通じて言葉を取り戻し、周囲とコミュニケーションを取って成長するドキュメンタリー。非常に良かった。ぼくと同い年ってところも来るものがある。
2017/02/04 土
だいぶ日が経ってから書いているのでなにがあったか思い出せない。土曜日だった。このあたりからようやく午前中に起きられるようになった気がする。少し前にあった緊張のおかげか、何日か続けて日中に用事があったからか。最初に目が覚めたあたりですぐカーテンを開けると、新しい日差しが入ってきてどこか覚醒した気分になる。そうそう、この前の日寝るのが早かったんだよね。22時くらい。そしたらこの日は6時に目が覚めた。
2017/02/05 日
寝るのが遅くても早めに目が覚めるようになった。これはいいのかよくないのか。専門学校に入りたての頃、課題をたくさん出すことで有名らしい古株の講師が「睡眠時間はたとえ2時間でも1時間でも、それが慣れればそれで平気になるから大丈夫」などというとんでもない持論を展開して、睡眠時間を削ってまで仕事をするべきだという世の中に蔓延するどうしようもない思想を、早くも若者たちに植え付けようとしていたのを思い出す。教えるべきはそういうことではなく、いかに睡眠時間が大切か、それをできるだけ多く確保するにはどういう風に作業をしていったらいいかというようなことだろうに。自分が経験した辛いことを後続のひとたちにもそのまま同じように経験させようとする必要なんかないのに。あいつ、まだ教えてるのかな。いや、そんなことはどうでもいい。その、睡眠時間が短いことに慣れてしまう、というのはわりと危険なことに思えてくるので、そうならないようにしたいところだ。とは言え、やはり決まった時間帯に目が覚める日が続くと、どこか身体の調子も良いような気がする。あとは寝る時間をできるだけ早く、毎日同じくらいにしていくことだなあ。
ああいう、睡眠を軽んじる大人がひとりでも減りますように。
2017/02/06 月
妻の誕生日である。何日か前に郵便局限定のドラえもん食器を誕生日に買っていいかと言うので、承諾して、それで一応誕生日プレゼントは済んでしまい、妻も別にこれ以上ケーキやなんやは面倒だろうから要らないと言って、出勤していってしまった。しかしさすがになにもしないわけにもいかないよなあ。どうしようかなあと思いながら、ぼくも打ち合わせのため都心に出て行った。
帰りにケーキやちょっとしたお菓子を買って行って、帰ってから多少なにか飾りでも作ろうか、と考えていたら、妻から体調が悪いから早退するというメッセージが。ああ、前にもこういうことがあった気がする。あれは確か、そう、同棲を始めた年のクリスマスだった。妻が仕事から帰ってくるまでにチキンを用意して飾り付けをして、くたびれて帰ってきたところを出迎えようと、きゅうに張り切って準備をしていたら、突然昼間に帰ってきたのだ。そのときは帰ってくるなりすぐ布団に入って寝てしまったから、その間に大急ぎでいろいろやったのだが、まあ、帰宅したら部屋が暗くて……みたいなサプライズはできなかったよね。どうもぼくが張り切ってそういうことを計画すると彼女は早退してくるようになっているらしい。案の定この日もケーキやお菓子を選んでぐずぐずやっている間に妻のほうが先に帰宅してしまった。
ケーキを抱えて帰ってくると、妻はやはり寝ていた。寝床から玄関や台所まわりが見えるようになっているので、ぼくが帰るとふと目を開けた妻が当然ケーキの箱を見ることになった。でも無反応。彼女はどうも寝ている間に突然目を開けて、一瞬目覚めたかのようになるもまた目を閉じて眠る、ということをよくする。目が開いても頭が起きていないのだろうけれど(眠る時に目が閉じ切らず、薄く白目が覗いてしまう体質と関係あるのだろうか)、そのときもそんな感じ。しめた、これは気づいていないかもしれないぞ。ケーキを冷蔵庫に詰めて(こんなの開けたら一発でバレる)、さあ、飾り付けや手紙でも書くのかと思いきや、ぼくもくたびれたので買ってきたパンを食べてだらだら過ごした。
起きてきた妻が、不思議そうにして、「もしかしてケーキ買ってこなかった?」と聞くので、「いや?だって要らないと言っていたじゃん」とわざとできるだけ素っ気なく答えると、「なんか大きな袋を持ってるのを見た気がしたんだけどなあ」とどうやら寝ぼけ眼で見たものをなんとなく覚えていたらしいので、「買ってきてないよ。夢でも見ていたんじゃ?」と冷たく言ったら、「そうか」ととても寂しそうな顔をする。要らないと言っていたくせに。これでぼくが本当に買ってきてなかったら、どうせ気が利かないやつだと思われるのだろうなあ。でも、気は利くのである。買ってきてあるのだから。
「冷蔵庫を見てみな!」
ぼくはあまりずっと隠しておくことができないたちなので、言った。妻は顔を輝かせて黒いモノリスのような冷蔵庫を開けて中を覗き、おほうむふふと笑うのだった。
2017/02/07 火
この日も早起きできたのでふたりでランチを食べに行くことにした。最初は朝食を外で食べようと話していたのだが、話しているうちに昼間になった。途中で古本を漁った。すると、なんと『スター・ウォーズ』第1作の小説版、それも日本公開年の1978年、昭和53年初版の角川文庫版が出てきた。カバーは一作目のポスター、タイトルはまだシリーズ化する前なのでただの「スター・ウォーズ」(ただし、「ルーク・スカイウォーカーの冒険より」という記述がある)、カバーの袖にはスチール写真によるキャラクター紹介、そしてページ内にはモノクロの劇中写真が挿絵として入っている豪華さ。こんな文庫が当時は380円だったとはなあ。
著者はジョージ・ルーカスとあるが、これはぼくの記憶と通説が正しければ、アラン・ディーン・フォスターというSF作家がゴーストで書いていたはず。フォスターはシリーズ初のスピンオフ小説である「侵略の惑星」の著者で、EP7『フォースの覚醒』のノベライズも彼が書いていた。
第一作目のノベライズというだけあって、後年のノベライズやスピンオフ小説のように固有名詞がばんばん飛び交うということはなく、初めて銀河世界に触れる観客・読者を前提にしているので言葉や説明が丁寧である。なにより印象的なのは、「ストームトルーパー」や「サンドクローラー」というような用語をカタカナに変換するだけでなく、それぞれ「機動歩兵」「砂上車」というように日本語にあてて訳しているところ。これだけで今読むととても丁寧に思える。機動歩兵の装甲兜。巡航宇宙艦。このほうがどこか古めかしさがあってSWっぽいくらいだ。もちろんなんでもかんでも漢字をあてられているわけではないけれど、ところどころこういう言葉があるのを見ると、とても新鮮。
物語上も、一作目の当初の世界観、シリーズ化される前でまだ広さや奥行きが描かれず、それゆえに想像力をかき立てられる、ある意味無垢な雰囲気があって楽しい。初めてこの世界に触れたひとの気持ちを追体験できるようだ。まだこの時点では帝国とそれに抵抗する共和主義者の戦争、くらいの世界観でしかないのだ。映画版のEP4そのものにおいてよりも、「共和国」の存在に焦点が当てられていたり、早くも「シスの暗黒卿」や「スカヴェンジャー(掃除屋)」といった言葉が出てくるあたり、一番最初のこの物語に、後のシリーズに登場する要素がたくさん詰まっているかのようだ。一作目にしてシリーズを包括しているとすら言える。そうして、よく知っている物語のはずなのに、細部が少しずつ違うこの小説を読むことで、ちょっと違うSWが見えてくるようで楽しい。お馴染みの映画とどこが異なるか、わずかな設定や用語、訳の違いなどメモにまとめたい。
前日の緊張がまだ続いているかのようで1日中落ち着かなかった。未だティム・バートン監督を目の前にしたという事実に実感がなく、短い時間だったがなにか失礼があったのではないかと急に思えてきて不安に襲われる。何度も何度も自分が質問をしたときのことを思い出して、自分がどんなふうにしゃべり、どんなふうにどぎまぎしたかを頭の中で再現して反芻しては、ああ、やっぱりよくなかったのではと、恥ずかしさとも情けなさともつかない、なんとも言えない気分になるのであった。
それと、やはり会場で怒鳴り声を上げていたテレビ・マンがおっかなく、別にぼく自身はなにもされちゃいないのだが、なにかいけないものを見聞きしてしまった気がし、とにかく随分と自分が傷ついていたことがわかった。
2017/02/02 木
スーパーでスターバックスのコーヒー豆を買えたので、久しぶりに朝コーヒーを淹れた。思えばスターバックスでは大抵お菓子のような限定ものか、お気に入りのホワイトモカばかり頼んでいて、普通のコーヒーを飲むことはないので、そこまで味はわからず、言われなければわからん。
ようやく緊張が解け始め、かわりに「うわー、とうとう本物のティム・バートンを見ちゃったなあ」とじわじわ感動がやってきた。ぼくのこの時間差でやってくるリアクションはなんなのだろう。
2017/02/03 金
特に節分らしいこともせず。あの太くて具のたくさん入った海苔巻きあまり好きじゃないしね。それにあれが節分の食べ物だっていう感覚まだ馴染まないな。やっぱり豆まきでしょう。それもしなかったが。
試写を一本観た。ダウン症の少年がディズニー映画のセリフを通じて言葉を取り戻し、周囲とコミュニケーションを取って成長するドキュメンタリー。非常に良かった。ぼくと同い年ってところも来るものがある。
2017/02/04 土
だいぶ日が経ってから書いているのでなにがあったか思い出せない。土曜日だった。このあたりからようやく午前中に起きられるようになった気がする。少し前にあった緊張のおかげか、何日か続けて日中に用事があったからか。最初に目が覚めたあたりですぐカーテンを開けると、新しい日差しが入ってきてどこか覚醒した気分になる。そうそう、この前の日寝るのが早かったんだよね。22時くらい。そしたらこの日は6時に目が覚めた。
2017/02/05 日
寝るのが遅くても早めに目が覚めるようになった。これはいいのかよくないのか。専門学校に入りたての頃、課題をたくさん出すことで有名らしい古株の講師が「睡眠時間はたとえ2時間でも1時間でも、それが慣れればそれで平気になるから大丈夫」などというとんでもない持論を展開して、睡眠時間を削ってまで仕事をするべきだという世の中に蔓延するどうしようもない思想を、早くも若者たちに植え付けようとしていたのを思い出す。教えるべきはそういうことではなく、いかに睡眠時間が大切か、それをできるだけ多く確保するにはどういう風に作業をしていったらいいかというようなことだろうに。自分が経験した辛いことを後続のひとたちにもそのまま同じように経験させようとする必要なんかないのに。あいつ、まだ教えてるのかな。いや、そんなことはどうでもいい。その、睡眠時間が短いことに慣れてしまう、というのはわりと危険なことに思えてくるので、そうならないようにしたいところだ。とは言え、やはり決まった時間帯に目が覚める日が続くと、どこか身体の調子も良いような気がする。あとは寝る時間をできるだけ早く、毎日同じくらいにしていくことだなあ。
ああいう、睡眠を軽んじる大人がひとりでも減りますように。
2017/02/06 月
妻の誕生日である。何日か前に郵便局限定のドラえもん食器を誕生日に買っていいかと言うので、承諾して、それで一応誕生日プレゼントは済んでしまい、妻も別にこれ以上ケーキやなんやは面倒だろうから要らないと言って、出勤していってしまった。しかしさすがになにもしないわけにもいかないよなあ。どうしようかなあと思いながら、ぼくも打ち合わせのため都心に出て行った。
帰りにケーキやちょっとしたお菓子を買って行って、帰ってから多少なにか飾りでも作ろうか、と考えていたら、妻から体調が悪いから早退するというメッセージが。ああ、前にもこういうことがあった気がする。あれは確か、そう、同棲を始めた年のクリスマスだった。妻が仕事から帰ってくるまでにチキンを用意して飾り付けをして、くたびれて帰ってきたところを出迎えようと、きゅうに張り切って準備をしていたら、突然昼間に帰ってきたのだ。そのときは帰ってくるなりすぐ布団に入って寝てしまったから、その間に大急ぎでいろいろやったのだが、まあ、帰宅したら部屋が暗くて……みたいなサプライズはできなかったよね。どうもぼくが張り切ってそういうことを計画すると彼女は早退してくるようになっているらしい。案の定この日もケーキやお菓子を選んでぐずぐずやっている間に妻のほうが先に帰宅してしまった。
ケーキを抱えて帰ってくると、妻はやはり寝ていた。寝床から玄関や台所まわりが見えるようになっているので、ぼくが帰るとふと目を開けた妻が当然ケーキの箱を見ることになった。でも無反応。彼女はどうも寝ている間に突然目を開けて、一瞬目覚めたかのようになるもまた目を閉じて眠る、ということをよくする。目が開いても頭が起きていないのだろうけれど(眠る時に目が閉じ切らず、薄く白目が覗いてしまう体質と関係あるのだろうか)、そのときもそんな感じ。しめた、これは気づいていないかもしれないぞ。ケーキを冷蔵庫に詰めて(こんなの開けたら一発でバレる)、さあ、飾り付けや手紙でも書くのかと思いきや、ぼくもくたびれたので買ってきたパンを食べてだらだら過ごした。
起きてきた妻が、不思議そうにして、「もしかしてケーキ買ってこなかった?」と聞くので、「いや?だって要らないと言っていたじゃん」とわざとできるだけ素っ気なく答えると、「なんか大きな袋を持ってるのを見た気がしたんだけどなあ」とどうやら寝ぼけ眼で見たものをなんとなく覚えていたらしいので、「買ってきてないよ。夢でも見ていたんじゃ?」と冷たく言ったら、「そうか」ととても寂しそうな顔をする。要らないと言っていたくせに。これでぼくが本当に買ってきてなかったら、どうせ気が利かないやつだと思われるのだろうなあ。でも、気は利くのである。買ってきてあるのだから。
「冷蔵庫を見てみな!」
ぼくはあまりずっと隠しておくことができないたちなので、言った。妻は顔を輝かせて黒いモノリスのような冷蔵庫を開けて中を覗き、おほうむふふと笑うのだった。
2017/02/07 火
この日も早起きできたのでふたりでランチを食べに行くことにした。最初は朝食を外で食べようと話していたのだが、話しているうちに昼間になった。途中で古本を漁った。すると、なんと『スター・ウォーズ』第1作の小説版、それも日本公開年の1978年、昭和53年初版の角川文庫版が出てきた。カバーは一作目のポスター、タイトルはまだシリーズ化する前なのでただの「スター・ウォーズ」(ただし、「ルーク・スカイウォーカーの冒険より」という記述がある)、カバーの袖にはスチール写真によるキャラクター紹介、そしてページ内にはモノクロの劇中写真が挿絵として入っている豪華さ。こんな文庫が当時は380円だったとはなあ。
著者はジョージ・ルーカスとあるが、これはぼくの記憶と通説が正しければ、アラン・ディーン・フォスターというSF作家がゴーストで書いていたはず。フォスターはシリーズ初のスピンオフ小説である「侵略の惑星」の著者で、EP7『フォースの覚醒』のノベライズも彼が書いていた。
第一作目のノベライズというだけあって、後年のノベライズやスピンオフ小説のように固有名詞がばんばん飛び交うということはなく、初めて銀河世界に触れる観客・読者を前提にしているので言葉や説明が丁寧である。なにより印象的なのは、「ストームトルーパー」や「サンドクローラー」というような用語をカタカナに変換するだけでなく、それぞれ「機動歩兵」「砂上車」というように日本語にあてて訳しているところ。これだけで今読むととても丁寧に思える。機動歩兵の装甲兜。巡航宇宙艦。このほうがどこか古めかしさがあってSWっぽいくらいだ。もちろんなんでもかんでも漢字をあてられているわけではないけれど、ところどころこういう言葉があるのを見ると、とても新鮮。
物語上も、一作目の当初の世界観、シリーズ化される前でまだ広さや奥行きが描かれず、それゆえに想像力をかき立てられる、ある意味無垢な雰囲気があって楽しい。初めてこの世界に触れたひとの気持ちを追体験できるようだ。まだこの時点では帝国とそれに抵抗する共和主義者の戦争、くらいの世界観でしかないのだ。映画版のEP4そのものにおいてよりも、「共和国」の存在に焦点が当てられていたり、早くも「シスの暗黒卿」や「スカヴェンジャー(掃除屋)」といった言葉が出てくるあたり、一番最初のこの物語に、後のシリーズに登場する要素がたくさん詰まっているかのようだ。一作目にしてシリーズを包括しているとすら言える。そうして、よく知っている物語のはずなのに、細部が少しずつ違うこの小説を読むことで、ちょっと違うSWが見えてくるようで楽しい。お馴染みの映画とどこが異なるか、わずかな設定や用語、訳の違いなどメモにまとめたい。
2017/02/12
映画『ナイスガイズ!』PRイラスト
ラッセル・クロウ&ライアン・ゴズリング主演、シェーン・ブラック監督作『ナイスガイズ!』に応援イラストを寄せています。
https://twitter.com/niceguys_movie/status/829265379100864514
ネオン、アメ車、ポルノに彩られた70年代を舞台に、いまひとつ冴えない探偵コンビが陰謀に巻き込まれるドタバタバディものです。
2月18日土曜日公開。
公式サイト
https://twitter.com/niceguys_movie/status/829265379100864514
ネオン、アメ車、ポルノに彩られた70年代を舞台に、いまひとつ冴えない探偵コンビが陰謀に巻き込まれるドタバタバディものです。
2月18日土曜日公開。
公式サイト
asta 2017年3月号
ポプラ社「asta」最新号では山内マリコさんの「あのこは貴族」(集英社)を紹介しています。ローカル少女の物語を書かれてきた山内さんの新作は、東京出身女子が主人公。帝都の上流階級に属し何不自由なく生きてきた彼女が出会ったのは、地方生まれの「都会の女」だった……。東京が地元ってどういうことなのか、都会と地方の境界が曖昧になり、その本質が姿を現します。普段疑問に思ってもなかなか言語化できずもやもやすることに、明快な言葉で答えをくれるのが山内作品の魅力のひとつ。装丁の影響でソフィア・コッポラのあの映画が観たくなる……。
2017/02/05
「通訳者・翻訳者になる本 2018」表紙イラスト
ここのところ、映画の来日記者会見に行くことが多いですが、そういう場に欠かせないのが通訳のひと。日本人記者の日本語の質問を即座に英語に変えてゲストの耳に届けるすごいひとたちですが、そんな通訳者や翻訳者を目指す人のための本、その名も「通訳者・翻訳者になる本 2018」(イカロス出版)の表紙イラストを担当しています。「2018」ということで一年間通して書店に置かれる本なので、機会があったらご覧ください。
洋画を観て、翻訳本を読むぼくにとって、トランスレーターの業界に少しでも貢献できるのは光栄なことです。
日記:2017/01/23 - 31
2017/01/23 月
『ブレード・ランナー』の続編監督の最新作『メッセージ』の試写。おせんべいみたいなシルエットの宇宙船が世界各地に出現して地道に外宇宙の言語を翻訳する物語。とても良かったので原作の短編小説が読みたい。普段『スター・ウォーズ』ばかり吸って生きているぼく、SFというジャンルは本当にいろいろな形が、ほぼ無限の可能性があるんだなあと思い知った。
2017/01/24 火
日付の上ではクリスマス・イブから一ヶ月しか経ってないのだが、年をまたいでいるせいか遠い昔に感じる。というか、一月がとても長く感じる。ようやく下旬に差し掛かったか。
もっと文章や創作力を磨きたいということで連日小説っぽいものを書き散らしている。どうも肩に力が入ってしまい、少しは創作をブログやサイトに載せたいのでそれ前提で書こうとすると全くうまくいかない。絵と同じでたくさん落書きをしなきゃだめだよなと思いつく。思えば中学高校の頃は絵の落書きと同様に文章の落書きもしてたよなと。書けた先から当時よくインスタント・メッセンジャーでやり取りをしていた小説家志望の友達に見せたりしてたのだけれど、ああいう、書いた先から見せられる相手がいるっていうのはかなり良い環境だったんだなあ。ふたりともいきなり長編を書き始めようとするので、お互いに長編(になる予定のもの)の冒頭部分ばかり送り合っていた。だから互いの受信フォルダには「プロローグ」とか「第一章」と名付けられたテキスト・ファイルばかり山ほど溜まっていただろうと思う。
この日記も文章を書く習慣を失わないためにやっているのだけれど、なんでもない話をどんどん書いて練習したい。
ところで新年に設定した理想の生活、「深夜まで起きない」は全然実現できない。こんなこったろうと思ったよ。いいのいいの、抱負や目標じゃなくて、理想だもん。まあ、だからこそ実現できないのだろうけれど。
2017/01/25 水
特筆することなし。犬の顔がまた歪んでるように見える。今度は前とは反対側が麻痺しているのかもしれず、耳に力が入っておらず、まぶたの反応がにぶい。だからってまた同じ検査はできないし、たぶんする必要もないだろう。
2017/01/26 木
ツイッターのトレンドの内容など覗くべきじゃなかったんだ。読みたくもない見知らぬ大勢の便所の落書きみたいなものを読んでいる場合じゃないんだ。まったく、本来自分とは絶対に仲良くならなそうなひとの書いたもの読むなんて、この世で最も不毛なことじゃないか。道徳や倫理より株価を大事にするひととか、病的な韓国アレルギーを発症して自家中毒に陥ってひたすら憎悪を増幅しているひととか(前者のほうがマシ)。インターネットは大好きなのだけれど、こういうところには気が滅入る。まあ、車を運転していて事故に遭うようなものだ。
2017/01/27 金
『ラ・ラ・ランド』の記者会見だったので、見聞きしたものをイラスト・レポートにまとめていたが、ライアン・ゴズリングの表情は難しい。まゆげの雰囲気を描くのに何時間もかかって夜中の更新となった。でも、悩みながら時間をかけただけあって、顔の特徴をとらえられている、まゆげが特にいいというようなお褒めの言葉をもらった。伝わってよかった。
2017/01/28 土
犬の体力が有り余っているらしいので、電車でふた駅くらいにある大きい公園に出かける。しかし犬を疲れさせるつもりが帰りにはぼくがへとへとになっていた。
公園のそばには大きな団地群があったが、八百屋や雑貨店、保育園も揃っているところだった。昔の団地はこれ以上になんでも揃う環境で、完結したところだったと聞いたことがあるけれど、こういうことか。こりゃ外に出る必要がなさそうだ。ぼくの好みではないが。
そういえばうちのばあばも団地っぽいところに住んでたことがあったな。例の金属の扉はばあばの家って感じ。
2017/01/29 日
なにがあったか全然覚えてない。サザエさんの内容も覚えてない。
2017/01/30 月
重要なイベントが翌日に控えていて神経がまいっていた。お腹が痛い。どうしよう。
2017/01/31 火
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』のティム・バートン監督来日記者会見だった日。この日に備えて原作も読んでいた(まだ上巻の途中だけれど)。
子供の頃からの憧れの人物を直に見られたのはうれしかったけれど、この日の会場はずいぶんぴりぴりとしていた。不機嫌なおじさんたちがわざと聞こえるように不平不満を漏らしているかと思ったら怒鳴り声まで上げているおじさんもいた。どうやらテレビ等の映像を撮影するひとたちらしいのだが、撮影は陣取る場所が重要なので、そのことでもめているようだ。主催側の段取りが悪いだの、列に並ばせている意味がないだの、待ち時間が長いだの、席数が足りないだろ馬鹿野郎だのという言葉が、質問内容をまとめているぼくの頭上を飛び越えていく。この時点で緊張と不安でいっぱいだったのでもはやぼくは泣きそうである。どうしてこうも柄が悪いのか。態度が大きいのか。自分たちが撮ってテレビで流さなくてはこういった会見も意味がないと言わんばかりである。バートン監督が来てるんだぜ?頼むからやめてくれよ。
こんなに緊張したのは去年の結婚式以来だった。もう、本当にあがり症が改善されなくて困る。自分が指されるまでの時間ずっと張り詰めているので、ほかの質問に対するコメントを聞き取るのも難しいくらい。そうして自分の番が来ると、今度は自分がなにをしゃべっているのかだんだんわからなくなってしまう始末。だいたい途中で言うべきことを最初に言ってしまうなど、話す順番が狂ったりして大変いびつな質問になった。よく考えればぼくの日本語は通訳のひとによって翻訳されるので、どれだけつっかえつっかえ、下手くそに話しても監督自身にはそこは伝わらないんだよな。そこまで焦らなくてもよかったのだが、そんなことを考える余裕もなかったってこと、ぼくを知っているひとならわかるよね?「ティム・バートンに向かって質問している」という状況にパンクしちゃってたんだから。
でもちゃんと丁寧に話してくれてよかったなあ。恐らくは他の個別インタビューで何度も繰り返してきた同じコメントなのだろうけれど、ぼくの質問に答えてくれたことには変わりない。なによりティム・バートンという存在が、ぼくの中でちゃんと生きて実体を持つ人間になったことが大きい。映画のオープニングで流れるテロップの名前や、一生接することのない神様のような存在ではなく、ちゃんとそこにいる人間になったと思う。
生きていれば、またどこかで同じような機会、あるいはたくさんいる記者のひとりではなく1対1で対面する機会が、あるかもしれない。思い上がっている?でもそう思いながら生きていったほうが楽しいよ。
『ブレード・ランナー』の続編監督の最新作『メッセージ』の試写。おせんべいみたいなシルエットの宇宙船が世界各地に出現して地道に外宇宙の言語を翻訳する物語。とても良かったので原作の短編小説が読みたい。普段『スター・ウォーズ』ばかり吸って生きているぼく、SFというジャンルは本当にいろいろな形が、ほぼ無限の可能性があるんだなあと思い知った。
2017/01/24 火
日付の上ではクリスマス・イブから一ヶ月しか経ってないのだが、年をまたいでいるせいか遠い昔に感じる。というか、一月がとても長く感じる。ようやく下旬に差し掛かったか。
もっと文章や創作力を磨きたいということで連日小説っぽいものを書き散らしている。どうも肩に力が入ってしまい、少しは創作をブログやサイトに載せたいのでそれ前提で書こうとすると全くうまくいかない。絵と同じでたくさん落書きをしなきゃだめだよなと思いつく。思えば中学高校の頃は絵の落書きと同様に文章の落書きもしてたよなと。書けた先から当時よくインスタント・メッセンジャーでやり取りをしていた小説家志望の友達に見せたりしてたのだけれど、ああいう、書いた先から見せられる相手がいるっていうのはかなり良い環境だったんだなあ。ふたりともいきなり長編を書き始めようとするので、お互いに長編(になる予定のもの)の冒頭部分ばかり送り合っていた。だから互いの受信フォルダには「プロローグ」とか「第一章」と名付けられたテキスト・ファイルばかり山ほど溜まっていただろうと思う。
この日記も文章を書く習慣を失わないためにやっているのだけれど、なんでもない話をどんどん書いて練習したい。
ところで新年に設定した理想の生活、「深夜まで起きない」は全然実現できない。こんなこったろうと思ったよ。いいのいいの、抱負や目標じゃなくて、理想だもん。まあ、だからこそ実現できないのだろうけれど。
2017/01/25 水
特筆することなし。犬の顔がまた歪んでるように見える。今度は前とは反対側が麻痺しているのかもしれず、耳に力が入っておらず、まぶたの反応がにぶい。だからってまた同じ検査はできないし、たぶんする必要もないだろう。
2017/01/26 木
ツイッターのトレンドの内容など覗くべきじゃなかったんだ。読みたくもない見知らぬ大勢の便所の落書きみたいなものを読んでいる場合じゃないんだ。まったく、本来自分とは絶対に仲良くならなそうなひとの書いたもの読むなんて、この世で最も不毛なことじゃないか。道徳や倫理より株価を大事にするひととか、病的な韓国アレルギーを発症して自家中毒に陥ってひたすら憎悪を増幅しているひととか(前者のほうがマシ)。インターネットは大好きなのだけれど、こういうところには気が滅入る。まあ、車を運転していて事故に遭うようなものだ。
2017/01/27 金
『ラ・ラ・ランド』の記者会見だったので、見聞きしたものをイラスト・レポートにまとめていたが、ライアン・ゴズリングの表情は難しい。まゆげの雰囲気を描くのに何時間もかかって夜中の更新となった。でも、悩みながら時間をかけただけあって、顔の特徴をとらえられている、まゆげが特にいいというようなお褒めの言葉をもらった。伝わってよかった。
2017/01/28 土
犬の体力が有り余っているらしいので、電車でふた駅くらいにある大きい公園に出かける。しかし犬を疲れさせるつもりが帰りにはぼくがへとへとになっていた。
公園のそばには大きな団地群があったが、八百屋や雑貨店、保育園も揃っているところだった。昔の団地はこれ以上になんでも揃う環境で、完結したところだったと聞いたことがあるけれど、こういうことか。こりゃ外に出る必要がなさそうだ。ぼくの好みではないが。
そういえばうちのばあばも団地っぽいところに住んでたことがあったな。例の金属の扉はばあばの家って感じ。
2017/01/29 日
なにがあったか全然覚えてない。サザエさんの内容も覚えてない。
2017/01/30 月
重要なイベントが翌日に控えていて神経がまいっていた。お腹が痛い。どうしよう。
2017/01/31 火
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』のティム・バートン監督来日記者会見だった日。この日に備えて原作も読んでいた(まだ上巻の途中だけれど)。
子供の頃からの憧れの人物を直に見られたのはうれしかったけれど、この日の会場はずいぶんぴりぴりとしていた。不機嫌なおじさんたちがわざと聞こえるように不平不満を漏らしているかと思ったら怒鳴り声まで上げているおじさんもいた。どうやらテレビ等の映像を撮影するひとたちらしいのだが、撮影は陣取る場所が重要なので、そのことでもめているようだ。主催側の段取りが悪いだの、列に並ばせている意味がないだの、待ち時間が長いだの、席数が足りないだろ馬鹿野郎だのという言葉が、質問内容をまとめているぼくの頭上を飛び越えていく。この時点で緊張と不安でいっぱいだったのでもはやぼくは泣きそうである。どうしてこうも柄が悪いのか。態度が大きいのか。自分たちが撮ってテレビで流さなくてはこういった会見も意味がないと言わんばかりである。バートン監督が来てるんだぜ?頼むからやめてくれよ。
こんなに緊張したのは去年の結婚式以来だった。もう、本当にあがり症が改善されなくて困る。自分が指されるまでの時間ずっと張り詰めているので、ほかの質問に対するコメントを聞き取るのも難しいくらい。そうして自分の番が来ると、今度は自分がなにをしゃべっているのかだんだんわからなくなってしまう始末。だいたい途中で言うべきことを最初に言ってしまうなど、話す順番が狂ったりして大変いびつな質問になった。よく考えればぼくの日本語は通訳のひとによって翻訳されるので、どれだけつっかえつっかえ、下手くそに話しても監督自身にはそこは伝わらないんだよな。そこまで焦らなくてもよかったのだが、そんなことを考える余裕もなかったってこと、ぼくを知っているひとならわかるよね?「ティム・バートンに向かって質問している」という状況にパンクしちゃってたんだから。
でもちゃんと丁寧に話してくれてよかったなあ。恐らくは他の個別インタビューで何度も繰り返してきた同じコメントなのだろうけれど、ぼくの質問に答えてくれたことには変わりない。なによりティム・バートンという存在が、ぼくの中でちゃんと生きて実体を持つ人間になったことが大きい。映画のオープニングで流れるテロップの名前や、一生接することのない神様のような存在ではなく、ちゃんとそこにいる人間になったと思う。
生きていれば、またどこかで同じような機会、あるいはたくさんいる記者のひとりではなく1対1で対面する機会が、あるかもしれない。思い上がっている?でもそう思いながら生きていったほうが楽しいよ。
2017/02/01
『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』ティム・バートン監督来日会見
ひとと違う、ひとよりも少し弱い、そういう立場のキャラクターたちにスポットをあてて、誰でも受け入れる懐の深さを見せてくれるのがバートン監督作品。『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』の物語はまさにそこに通じるし、子供が題材になった古いトリック写真から着想を得たという世界観そのものも、監督の世界観にぴったりで、相性が抜群だからこそ魔法のような映画が出来上がったと思う。
原作には実在する古い写真が挿絵のように載っていて、著者ランサム・リグスがいかに写真から想像を膨らませてキャラクターをつくったかが伺えて、映画のキャラクターもその雰囲気をよく再現している。監督によれば、写真という静止画が持つ独特の雰囲気を映像の中で再現するのは簡単なことではなかったそう。それでも、原作者の協力もあって映像による映像なりのアプローチが実現できたそう。映画で大きく変更が加えられたところは多い。たとえば、いちばんはやはりヒロインの設定。映画ではエイサ・バターフィールドが宙に浮くエラ・パーネルをロープでおさえている絶妙なバランスのヴィジュアル(この構図はバートンの絵本『オイスター・ボーイの憂鬱な死』にある「いかりの赤ん坊」の挿絵に似ている。海底に沈んだいかりの赤ちゃんから鎖のへその緒が伸びていて、先に繋がっている母親がぷかぷか上に浮いている絵)が印象的だけれど、原作のヒロインは宙に浮かぶ女の子ではなく、手から火が出る女の子。そう、映画ではローレン・マクロスティが演じている発火少女と立ち位置が入れ替わっているのだ。前述したような女の子が宙に浮かんでいる絵のほうが、詩的なヴィジュアルをつくれると監督は思ったのだそう。その工夫は成功していると思う。あの図はすごく良いし、あれだけで物語の「奇妙さ」がよく伝わってくる。
座っていて膝が震えるほど緊張した。ほんの4メートルにも満たない距離に彼が座っているから。虫が一度足を踏み入れたら出てこれなさそうな、鳥の巣のような、ゴッホの描く雲みたいな髪の毛の一本一本が見えるようだ。しゃべるたびに落ち着かなげに動き続ける手と、靴とズボンの裾の間に見える白と黒の縞模様。信じられない。目の前にこのひとが座っている。緊張のあまり質問は大変おぼつかなくて、途中で自分でもなにを言っているかわからなくなってしまうほどだったけれど、彼はちゃんとぼくの方を見てくれた。たぶんね。
「奇妙なことは良いことだ」
ほかにも聞きたいことはウーギー・ブギーの袋の蛆虫の数くらいあったけれど、彼の口からこの言葉を聞けただけで十分。それもぼくからの質問によって!もっとうまく言葉を組み立てて、綺麗に質問をすることができたら、すらすらと話すことができたら、ってすごく思い悩みながら家に帰ったけれど、ぼくはまずそんな自分を肯定することから始めたほうがいいのかもしれない。またこういう機会があったら、伝えたいことを伝えられるように。『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』は2月3日金曜日より公開。SPUR最新号ではイラストレビューも描いています。
2017/01/27
『ラ・ラ・ランド』デミアン・チャゼル監督&ライアン・ゴズリング会見
全体的にミュージカルの古典をリスペクトしつつも、カジュアルさや新鮮さがあったのには、共感と共有を重点に置いた配慮があってこそなんだなあと。ライアンは「映画は映画館で観るもので、大勢が同じ体験を共有できるよね。この作品でそれが実現できてうれしいよ」と言っていたけれど、作る側と観客とでの共有だけでなく、観客同士も共有できるということを改めてこの作品が証明したように思える。映画館で観るのは大きなスクリーンのためだけじゃない。大勢と一緒に観て時間すら共有できることこそ素晴らしいことなのかもしれない。ミュージカルという、音楽や歌、ダンスによって語られるところの多い作品なら尚更。
書き出したら止まらなそうだけれど、詳しい感想は公開後に。ぼくは妻に一緒に観に行こうと一生懸命誘っているところ。
『ラ・ラ・ランド』は2月24日公開!
2017/01/25
SPUR 2017年3月号
今月号SPURでは2月3日公開のティム・バートン監督、エヴァ・グリーン主演『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』を紹介しております。超かわいく描けたのでぜひ誌面にてご覧ください。何人もの「奇妙なこどもたち」が登場しますが、中でもぼくが誰推しか一目でわかる形になっております。みなさんもぜひお気に入りの子を見つけてください。
ちなみにバートン映画について仕事で描いたのは初めてなので感慨深いです。寂しい気持ちに寄り添ってくれるところが、やっぱりいいなあ。ティム・バートンの新作と、『スター・ウォーズ』の新作が観られるのだから、まだこの世界は素晴らしいし、ぼくはいつまでもぼく。
2017/01/23
日記:2017/01/15 - 22
2017/01/15 日
「ハリー・ポッター」原作シリーズの最新作「ハリー・ポッターと呪いの子」をやっと読み始めた。舞台用につくられた物語なので、本も小説ではなくスクリプト形式。読むのに時間がかからない上、テンポも良いので楽しい。
それにしても相変わらずハリーはクソ野郎である。シリーズも世界観も大好きだがハリー本人はどうしても好きになれない。彼はあれだけ虐げられてきた経験があるのに、あまり弱い人に優しくないんだよね。もちろんそういう不完全さが現代的な英雄としての魅力になっているのかもしれないけれど。とりあえず彼にはイライラする。というか、息子に尊敬するひとの名前つけるのもうやめようぜ。ダンブルドアとかオビ=ワンの名前つけられたらそりゃ辛くてグレるよ。「アルバス・セブルス・ポッター」って、重圧しか感じられない名前でやばい。尊敬する恩師の名前だからって、このふたりの名前はちょっと意味を持ち過ぎちゃってるだろうに。第7巻の最終章にも大人になり子供ができたハリーの様子は描かれるのだけれど、そのときにこの名前見たときもなんて安直なんだと思った。きっとこの子は辛い思いするぞと思ったものだけれど、案の定この「呪いの子」でアルバスはそうとう苦しむらしい。
2017/01/16 月
映画『沈黙 ーサイレンスー』のマーティン・スコセッシ監督来日会見に行った。監督のみの登壇ということあって質問もそれに対する返答も濃厚な内容で非常に圧倒された。聴いていて勉強になった。ぼくがぼんやり考えていた質問はだいぶスケールが小さかったなあ。
2017/01/17 火
ラッセル・クロウとライアン・ゴズリング主演『ナイス・ガイズ!』の試写へ。今期のゴズリングは『ラ・ラ・ランド』だけではない。70年代を舞台にへっぽこ探偵が陰謀に巻き込まれるのだけれど、アメ車やポルノに彩られたサイケな色彩が楽しかった。
書店で「沈黙」を買った。
2017/01/18 水
「Firewatch」という山火事監視員が主人公のヴィデオ・ゲームの存在を知る。コロラドの山でひと夏のあいだ監視員の仕事についた男が、無線を通じて声しかわからない同僚とコミュニケーションを取りながら、山のあちこちに現れる謎を追うというストーリー。著名なイラストレーターがデザインしたというアメリカの大自然の色彩がとても良い。主人公の声はドラマ「マッドメン」のハリー役のひとらしい。テレビ広報屋の眼鏡の太った蝶ネクタイのあいつね。PCとPS4でできるゲームらしいのだけれど、iMacでも最近できるようになったらしい。やってみようかな。全編英語だけど。
2017/01/19 木
もう木曜日だ。早いなあ。ぼくはどうも大人になりきれないせいか、体感時間の早さにショックを受けている。子供の頃はあれだけ長かった1週間、1日がこんなに短くなってしまうとは。この変化にまだ気持ちがついていけない。学生でなくなり、バイトもしなくなったので決まった場所に決まった時間に行くということがなく、それがより時間の早さに拍車をかけていると思う。
2017/01/20 金
妻が友達と夕食に行くので夜はひとりだった。久しぶりに友達とオンライン・ゲームで遊ぶ。もちろんへたくそである。ぼくはヴィデオ・ゲームもアナログ・ゲームも得意ではなく、苦手なものには進んで手を出さないタイプだけれど、珍しくゲームに関してはへたくそながらも楽しめる。
仕事に追われているとこういうこと考える暇がないから、かえって楽なのだけれど、落ち着いた時間が続くとだんだん自分の創作の悩みが頭をもたげてくる。映画のワンシーンを切り取って絵にしたり、既存のものをアレンジして描くのは楽しいし、テーマにも困らないのだけれど、やはり自分自身の創作もしたい。けれどそれを意識すればするほどなにも思いつかないし、なにを描いていいのかわからない。好きな映画や作品に対して自分なりのアプローチはできているとは思うけれど、今のままでは正直ただのファンと変わらないような気もする。ぼくは作る側の人間なのだろうか?評論や批評自体を作品に仕上げられるひとはいる。素晴らしいことだ。発表された作品については誰もが感想を述べる権利があり、その感想自体も新しい作品になれるのだ。ぼくもイラストを描くことで感想を発表してきた。けれど、どうせなら感想ではない作品もつくりたい。ひとの作品に触発されたものも描けば、依頼されたものも描き、自分で考えた世界も、まんべんなく描いていきたい。こんなことわざわざ言葉にするものでもないかもしれない。思うままに描いていけばいいってことはわかっているんだけどねえ。
2017/01/21 土
海の向こうで金髪の皇帝が誕生したわけだけれど、最近ぼくがちょっとなって思うのは彼自身よりも彼にメロメロになっちゃってるひとなんだよね。こういうこと、もしかするとあと何年かすると非常に言いづらく書きづらくなってしまいそうなので(今日この国でも時の政府にケチつけることが全然流行ってなくて、水を差すようなことだと思われがちなように)こっそりさりげなくメモしておこう。
生活の苦しいひとほど理想主義なひとよりも乱暴なひとを支持するってのは、最初はすごく不思議だったのだけれど、だいたいわかってきた気がする。それはもしかすると金銭的に貧しいのとともに心もなんとなく貧しくなっているせいじゃないかとね。「心が貧しい」ってのは別にそのひとのこと卑下してるわけじゃない。いろいろ辛いことがあるからこそ気持ち的に疲れてしまっている、という意味。そういうふうにダメージを負ってしまって余裕のないひとなら、美しい言葉で理想を掲げるひとよりも、多少暴力的だがパワーがありそうなひとのほうが、今の状態を変えられるんじゃないかと期待してしまうものなのかもしれない。ぼくだって、どうにか理想に思いを寄せられる暮らしをしているけれど、状況が違えばどんな考えを支持しているかわからない。もし出会う人、影響を受ける相手が少しでも違っていたら、何でもひねくれた見方をして、外国人嫌いで、男性優位を信じてやまず、客観的かつ包括的な世界史における日本史を自虐的だなんて言って、ホロコーストは無かったなんて言い出して、やられる方も悪いみたいなことが平気で言えちゃって、その卑屈さゆえに電車の中でベビーカーに嫌悪感を示すどうしようもない男になっていたかもしれない。ゾッとするね。まあ、ぼくの性格上いくつかは絶対無さそうだが。
男って言えば、今回のこのことについて身近な男性、あるいは目が届く範囲で世間の男性たちを見渡してみると(ぼくの偏った感想であって統計を取ってるわけじゃないよ)、ああやっぱり男って基本的に綺麗なものより暴力的なもののほうが好きなのかもなあと思った。例のあのひと(この呼び方とてもしっくりする)の演説に勇気付けられたとか、前のひとより良いなんて意見が目について信じられなかったけれど、これがやっぱり男性性とかいうものなのかもしれない。もしそうなら、そんなものからは抜け出したい。男だって本当はもっと思慮深くいられるはずなんだ。硬い棒で相手を殴ったり、ただ精子を放出する以外にもできることはあるんだよ。
ぼくの考えもぼくの考えで偏っているというのは十分わかっている。でも、こんなことをうーんうーんと唸りながらちょっと足りないところのある頭でなんとか考えているぼくみたいなのがいるってこと、ちょっと知って欲しかった。誰かに。
2017/01/22 日
雲ひとつないすっきりした天気だった。ドッグ・フードを変えてからポコの体型がずんぐりしてきている。くびれが無くなって寸胴、普通のコーギーの体型。彼は元来コーギーにしては小さめで線が細かったのだけれど、シニア用の餌は異様に栄養価が高いらしい。動物でも人間でも痩せているより太ってる方が健康そう、なんてのはひと昔前の感覚だから、やたらと太っているのは犬のためにもよくないのだけれど、表情は前より満足げなんだよなあ。
「ハリー・ポッター」原作シリーズの最新作「ハリー・ポッターと呪いの子」をやっと読み始めた。舞台用につくられた物語なので、本も小説ではなくスクリプト形式。読むのに時間がかからない上、テンポも良いので楽しい。
それにしても相変わらずハリーはクソ野郎である。シリーズも世界観も大好きだがハリー本人はどうしても好きになれない。彼はあれだけ虐げられてきた経験があるのに、あまり弱い人に優しくないんだよね。もちろんそういう不完全さが現代的な英雄としての魅力になっているのかもしれないけれど。とりあえず彼にはイライラする。というか、息子に尊敬するひとの名前つけるのもうやめようぜ。ダンブルドアとかオビ=ワンの名前つけられたらそりゃ辛くてグレるよ。「アルバス・セブルス・ポッター」って、重圧しか感じられない名前でやばい。尊敬する恩師の名前だからって、このふたりの名前はちょっと意味を持ち過ぎちゃってるだろうに。第7巻の最終章にも大人になり子供ができたハリーの様子は描かれるのだけれど、そのときにこの名前見たときもなんて安直なんだと思った。きっとこの子は辛い思いするぞと思ったものだけれど、案の定この「呪いの子」でアルバスはそうとう苦しむらしい。
2017/01/16 月
映画『沈黙 ーサイレンスー』のマーティン・スコセッシ監督来日会見に行った。監督のみの登壇ということあって質問もそれに対する返答も濃厚な内容で非常に圧倒された。聴いていて勉強になった。ぼくがぼんやり考えていた質問はだいぶスケールが小さかったなあ。
2017/01/17 火
ラッセル・クロウとライアン・ゴズリング主演『ナイス・ガイズ!』の試写へ。今期のゴズリングは『ラ・ラ・ランド』だけではない。70年代を舞台にへっぽこ探偵が陰謀に巻き込まれるのだけれど、アメ車やポルノに彩られたサイケな色彩が楽しかった。
書店で「沈黙」を買った。
2017/01/18 水
「Firewatch」という山火事監視員が主人公のヴィデオ・ゲームの存在を知る。コロラドの山でひと夏のあいだ監視員の仕事についた男が、無線を通じて声しかわからない同僚とコミュニケーションを取りながら、山のあちこちに現れる謎を追うというストーリー。著名なイラストレーターがデザインしたというアメリカの大自然の色彩がとても良い。主人公の声はドラマ「マッドメン」のハリー役のひとらしい。テレビ広報屋の眼鏡の太った蝶ネクタイのあいつね。PCとPS4でできるゲームらしいのだけれど、iMacでも最近できるようになったらしい。やってみようかな。全編英語だけど。
2017/01/19 木
もう木曜日だ。早いなあ。ぼくはどうも大人になりきれないせいか、体感時間の早さにショックを受けている。子供の頃はあれだけ長かった1週間、1日がこんなに短くなってしまうとは。この変化にまだ気持ちがついていけない。学生でなくなり、バイトもしなくなったので決まった場所に決まった時間に行くということがなく、それがより時間の早さに拍車をかけていると思う。
2017/01/20 金
妻が友達と夕食に行くので夜はひとりだった。久しぶりに友達とオンライン・ゲームで遊ぶ。もちろんへたくそである。ぼくはヴィデオ・ゲームもアナログ・ゲームも得意ではなく、苦手なものには進んで手を出さないタイプだけれど、珍しくゲームに関してはへたくそながらも楽しめる。
仕事に追われているとこういうこと考える暇がないから、かえって楽なのだけれど、落ち着いた時間が続くとだんだん自分の創作の悩みが頭をもたげてくる。映画のワンシーンを切り取って絵にしたり、既存のものをアレンジして描くのは楽しいし、テーマにも困らないのだけれど、やはり自分自身の創作もしたい。けれどそれを意識すればするほどなにも思いつかないし、なにを描いていいのかわからない。好きな映画や作品に対して自分なりのアプローチはできているとは思うけれど、今のままでは正直ただのファンと変わらないような気もする。ぼくは作る側の人間なのだろうか?評論や批評自体を作品に仕上げられるひとはいる。素晴らしいことだ。発表された作品については誰もが感想を述べる権利があり、その感想自体も新しい作品になれるのだ。ぼくもイラストを描くことで感想を発表してきた。けれど、どうせなら感想ではない作品もつくりたい。ひとの作品に触発されたものも描けば、依頼されたものも描き、自分で考えた世界も、まんべんなく描いていきたい。こんなことわざわざ言葉にするものでもないかもしれない。思うままに描いていけばいいってことはわかっているんだけどねえ。
2017/01/21 土
海の向こうで金髪の皇帝が誕生したわけだけれど、最近ぼくがちょっとなって思うのは彼自身よりも彼にメロメロになっちゃってるひとなんだよね。こういうこと、もしかするとあと何年かすると非常に言いづらく書きづらくなってしまいそうなので(今日この国でも時の政府にケチつけることが全然流行ってなくて、水を差すようなことだと思われがちなように)こっそりさりげなくメモしておこう。
生活の苦しいひとほど理想主義なひとよりも乱暴なひとを支持するってのは、最初はすごく不思議だったのだけれど、だいたいわかってきた気がする。それはもしかすると金銭的に貧しいのとともに心もなんとなく貧しくなっているせいじゃないかとね。「心が貧しい」ってのは別にそのひとのこと卑下してるわけじゃない。いろいろ辛いことがあるからこそ気持ち的に疲れてしまっている、という意味。そういうふうにダメージを負ってしまって余裕のないひとなら、美しい言葉で理想を掲げるひとよりも、多少暴力的だがパワーがありそうなひとのほうが、今の状態を変えられるんじゃないかと期待してしまうものなのかもしれない。ぼくだって、どうにか理想に思いを寄せられる暮らしをしているけれど、状況が違えばどんな考えを支持しているかわからない。もし出会う人、影響を受ける相手が少しでも違っていたら、何でもひねくれた見方をして、外国人嫌いで、男性優位を信じてやまず、客観的かつ包括的な世界史における日本史を自虐的だなんて言って、ホロコーストは無かったなんて言い出して、やられる方も悪いみたいなことが平気で言えちゃって、その卑屈さゆえに電車の中でベビーカーに嫌悪感を示すどうしようもない男になっていたかもしれない。ゾッとするね。まあ、ぼくの性格上いくつかは絶対無さそうだが。
男って言えば、今回のこのことについて身近な男性、あるいは目が届く範囲で世間の男性たちを見渡してみると(ぼくの偏った感想であって統計を取ってるわけじゃないよ)、ああやっぱり男って基本的に綺麗なものより暴力的なもののほうが好きなのかもなあと思った。例のあのひと(この呼び方とてもしっくりする)の演説に勇気付けられたとか、前のひとより良いなんて意見が目について信じられなかったけれど、これがやっぱり男性性とかいうものなのかもしれない。もしそうなら、そんなものからは抜け出したい。男だって本当はもっと思慮深くいられるはずなんだ。硬い棒で相手を殴ったり、ただ精子を放出する以外にもできることはあるんだよ。
ぼくの考えもぼくの考えで偏っているというのは十分わかっている。でも、こんなことをうーんうーんと唸りながらちょっと足りないところのある頭でなんとか考えているぼくみたいなのがいるってこと、ちょっと知って欲しかった。誰かに。
2017/01/22 日
雲ひとつないすっきりした天気だった。ドッグ・フードを変えてからポコの体型がずんぐりしてきている。くびれが無くなって寸胴、普通のコーギーの体型。彼は元来コーギーにしては小さめで線が細かったのだけれど、シニア用の餌は異様に栄養価が高いらしい。動物でも人間でも痩せているより太ってる方が健康そう、なんてのはひと昔前の感覚だから、やたらと太っているのは犬のためにもよくないのだけれど、表情は前より満足げなんだよなあ。
2017/01/18
マーティン・スコセッシ監督来日会見
監督のコメントが濃厚すぎて圧倒されたので、さっそく原作を読み始めた。監督すら最初に読んだときに、どう解釈していいか戸惑ったというのだから、そりゃぼくがすぐにこの作品について思うところをまとめられるわけがないよなあ。けれど、だからこそ映画と原作をこれからじっくり咀嚼していけると思うと楽しい。監督は自身の信仰に疑問を抱き迷っている時期に「沈黙」を読み、より深く掘り下げて答えを見つけなければならないと思ったのだそう。
幕府の役人が宣教師たちにしたことは言うまでもなく暴力なのだけれど、宣教師も日本に自分たちの宗教を唯一の真理として外部から持ち込んだのであって、これもまた一種の暴力である、というコメントが印象的だった。ふたつの暴力のあいだで、セバスチャン・ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)はそれまで持っていた宗教観を崩され、一度空っぽになったところで真の信仰に目覚める。その姿が美しい。「沈黙」は信じることも疑うことも含めた非常に包括的で、相手を否定するのではなく受け入れる、弱きを抱擁する作品なのだと語っていたところも印象に残った。みんなが強くある必要はなくって、まずは除け者にされているひとをひととして知ろうとすることが重要なのだそう。
作品をつくり、それと付き合っていく過程、まだ続いているその関係全体を「学びの旅」って呼ぶの、とても素敵だと思う。とても創作意欲が刺激された。
『沈黙 ーサイレンスー』は21日土曜公開。
「エドウィン・マルハウス」感想
去年の夏に読んだのだけれど、ひと夏の読書にぴったりだった。克明に書かれた他愛もない少年少女の世界に浸っていると、どうしたって自分の中でも子供の頃の感覚が蘇ってくる。エドウィン・マルハウス伝記は子供の頃よく経験するありがちなことに彩られているわけだけれど、興味深かったのはどこの国でも子供って同じなんだなということ。興味は次から次へと移ろっていき、恋の熱に浮かされて、午後の授業中に雷が鳴り出すと妙にわくわくしてしまう。ましてやぼくは落書きをたくさんする子供だったから、エドウィンの漫画熱にも非常に親近感が湧いたし、エドワード・ペンのような子と出会ったらぼくも夢中になり、また嫉妬しただろうと思う。というか、実際自分より絵がうまかったり、自分では思いつかない、新鮮な遊びに熱中している子にはよく関心を持ったのをよく覚えている。時代や環境、国も違うぼくがこれほど共感できるのだから、エドウィンの11年の短い人生は、わりと誰にでも経験があり、誰にでも当てはまる普遍的な少年時代なのではないだろうか。そうして、そんなありふれた短い人生を、ドラマチックな伝記に仕上げているのは(文字通りその人生までも”仕上げる”ことになる)狂気の伝記作家である語り手ジェフリーなのだと思う。
生まれて間もない赤ん坊のときから隣人エドウィンの観察者となったジェフリー。彼がエドウィンを”失う”まで、彼の人生は常にエドウィンのことばかり考える日々。最初は仲良しなのねと思うも、これがだんだん気持ち悪くなってくる。エドウィンのことが大好きとかそんなレベルではない。執着や呪いの類だ。やがてジェフリーはエドウィンの人生を記録することこそ自分に与えられた使命だと思うようになる。
とは言えやっぱりジェフリーも子供なので、エドウィン同様の稚拙さはそこかしこに漂っている。エドウィンをまるで偉大な作家であるかのように書き綴る様子は微笑ましいくらいだ。彼がいかに非凡かがややオーバーな言葉で語られているのは可笑しくもあるけれど、書いているジェフリーはいたって真剣だということは伝わってくるから、そこに引き込まれていく。たとえば、生後6ヶ月のエドウィンがあーうーと奇声をあげたことについて、「賢明な読者ならこれが彼の最初の詩だとわかるはずだ」なんて真剣に書いているところには、この伝記の特徴的な雰囲気がよく表れている。エドウィンが生後6ヶ月ならジェフリーもそのはずだ。どうしてそんな時期のことを克明に書けるのだろうか?そこで、ジェフリー自身も物心がついていない幼少期のエドウィンについては、創作である可能性も出てくる。ここだけ創作なのか?ほかにも創作しているところがあるのではないか、と考えていくと、この伝記自体どこまで事実が書かれているのか怪しくなってくる。ジェフリーはエドウィンを、伝記を通して大天才として脚色したのではないか。エドウィンは子供らしい過剰な自意識の持ち主だったから、ジェフリーの伝記計画に乗り気になったけれど、伝記の材料になれば誰でもよかったのかもしれない。彼は誰かちょうどいいひとを題材に伝記を創作したかったのではないか。実際、ジェフリーはエドウィンを天才少年として「完結」(あるいは「保存」かな)させたあと、また新しい題材を見つけて狙いを定めている。おっかない。けれどやっぱりどこか微笑ましくもある。
特別な子供の話としてとらえることはできる。けれど、ぼくはどちらかというと、作家の方も伝記作家の方も、普遍的な少年たちだと思いたい。奇妙なところ、そら恐ろしいところ、狂気じみたところ、いろいろ変わったところはあれど、やっぱりそれは子供なら誰しも持ち得る熱量ゆえのところだと思う。どこにでもいる普通の少年たちの物語だと思ったほうが、より恐ろしいしね。
ところで、去年の夏はこの本を読んでいて改めてルート・ビアなる飲み物に興味がわいたのだけれど、ちょうど近所のカフェのメニューにあるのを見つけて、暑さも手伝って思い切って注文してみた。子供の頃脱臼癖のために通っていた接骨院の香りがして、おもしろい味だった。というわけで、ぼくにとってこの本はルート・ビアの味と結びついている。
2017/01/16
日記:2017/01/07 - 14
2017/01/07 土
たくさん寝た。新年に願った通りにたくさん寝れているのだけれど、どうも夢を三種類くらい見ていてあまり休めた気がしない。
犬のおしっこ漏らしは、ひたすらかわいがって寝るときもがっちり抱きしめて前足などを揉んであげるようにしたら、おさまった。やっぱり拗ねていただけか。
2017/01/08 日
模様替えでよくなった点はぼくの仕事部屋がテレビを置いているところから遠く奥まったので仕事中に気が散らないことと、逆に寝床からテレビが見えるようになったので(いまいち部屋の構造が全然伝わらないと思うがあえて伝えたいとも思わないので、書いてある通り、字面通りの配置だととりあえず思ってもらえれば)寝ながらテレビが観られること。就寝する際に観るのもいいのだけれど、朝起きたときにそのまま朝の番組を観られるのもいい。子供の頃はそうして寝床から日曜朝の子供番組をひたすら観ていた。寝床から観られる環境でなければとても朝の戦隊ものなど観られなかったろうと思う。それで、久しぶりにそういう見方もできるかなと思ってここのところ日曜の朝を楽しみにしているのだが、まあそんな早い時間に起きられるわけもなく、この日も太陽が高く上がってから起きた(太陽が出てたかどうかもよく覚えてない)。
2017/01/09 月
やっと月曜が来たから、世の中が動き出したのに合わせてぼくも活動的になれるぞと思ったが、祝日らしいので休みモードが抜けなかった。年末年始はもっとアマゾン・プライムやレンタル映画など心置きなく観たかったなあと思いつつも、いざそういう時間ができてもなにか観たいものが浮かばないし、もともとあまりテレビの前に座って続けざまに何本も映画観るみたいなことができないので(『スター・ウォーズ』六部作一気見とかも何度か挑戦したが、SWですら集中力がもたなかった。EP1のレースのシーンを観ながら、このあとに控えてる5本のことを考えて気が重くなった)そんなに観れなかったなあ。楽しみにしていたドラマの『高い城の男』も全然前半しか観れてないし、借りて来た映画も『フルメタル・ジャケット』というど定番一本だけ。友達から絶対瑞丸は観たほうがいいと毎回推されている『未来世紀ブラジル』もようやく借りて来たが結局観そびれたまま返してしまった。そうなのだ、ぼくは意外と定番の作品や名作を観ていないのだ。勉強中ということで今後にご期待ください。でもさ、映画って新作も過去作も多すぎるよね。供給過多。
2017/01/10 火
今週は結構試写を入れている。今日は遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督作『沈黙 ーサイレンスー』。江戸時代の百姓たちが英語を話すっていうだけで本来なら日本の観客がリアリティを感じられなくなってしまいそうだけれど、そのたどたどしさや日本訛りがリアルで全然気にならなかった。言語についてどういう配慮をしていったのかが気になる。時間をかけて咀嚼したい作品。長い映画だったけれど、ぼくは全然長く感じなかったなあ。イッセー尾形はやっぱりすごい。
このところインターネットで見つけたペーパークラフトを作っている。無料公開されているテンプレートで、『スター・ウォーズ』の主要なヘルメットがだいたい作れるのがとてもうれしい。ヴェイダー、カイロ・レン、キャプテン・ファズマ、ストームトルーパー、クローン・トルーパー、ファースト・オーダー版ストームトルーパー。これくらいなら全部作りたいな。とりあえず順番にトルーパーを作って飾りたいのでクローン・トルーパーを作っているんだけれど、手先が不器用だからまた苦戦している。一度コピー用紙でテストしたんだけれど、貼り付ける順番を間違えるととても作りづらくなってしまう。テンプレート作成者のひとに言わせると、貼る順番を番号などであえて書いていないのはその順番を自分で考えるのがペーパークラフトにおける醍醐味だからだそう。なるほど。確かに頭を使うし、楽しい。
新年のはじめに設定した目標のひとつ、「深夜まで起きない」はなかなか実践するのが難しい。だって気づくと深夜になっているんだもの。
2017/01/11水
エイミー・シューマー主演、ジャド・アパトー監督作『エイミー、エイミー、エイミー!』の試写へ。原題は『TRAINERECK』で鉄道の脱線事故とかそんな意味。ちなみに邦題の方は『こじらせシングルライフの抜け出し方』というサブタイトルがついている。ぼくは個人的に最近よく見聞きするこの「こじらせ」という言葉、実際なんなのかよくわからない。大人になりきれないとか、成長できないで停滞しているとかそんな意味なのかな。ビル・ヘイダーは見ているだけでおもしろいなあ。彼が声を当てたって思えばBB-8もだいぶ好きになれる。たくさんの犬の散歩をするダニエル・ラドクリフの正体もわかって楽しかった。ぼくもマリサ・トメイの犬の散歩したい。
2017/01/12 木
この日の試写はグザビエ・ドラン監督作の『たかが世界の終わり』。レア・セドゥが両腕にちょっとダサめのバラのタトゥー入れて「恋のマイアヒ」に合わせて踊る。ヴァンサン・カッセルと兄妹って設定なんだけれど、ずっと観てるとちょっと顔が似てるように思えて来た。目の感じとかちょっと似てるような気がする。そういえば『美女と野獣』では美女と野獣だったふたり。
夜はSPURの編集の方と、連載でも試写でもお世話になっているライターの萩原さんと新年会の食事をした。とても冷える日が続くのでスパイシーなネパール鍋。試写で観た映画や雑誌のこととか、『ローグ・ワン』の話をした。映画を観るプロとSWの話するのはすごく楽しいし、楽しい会話は自分の考えもまとまっていく。とても温まった。
2017/01/13 金
この日は少し休んだ。犬の餌が切れたのでデパートの最上階にあるペットショップまで買いにいく。どうも減りが早いと思ったが、少し痩せ気味なのを気にしてぼくが少し多めにあげていたんだった。ペットショップにいくと、ガラス張りの遊びスペースで子犬がじゃれあっているのをいつも眺めるんだけれど、決まって気持ち悪い笑みが顔に張り付いたひと(だいたいおばさん)が突っ立って見入っている。子猫が放たれているときは猫好きだろうし、子犬が放たれている日そこにいるのは犬好きだろうと思うんだけれど、どちらも共通しているのは不自然な笑みとほかになにも見えていなさそうな目つき。前に来たときは遊んでいた猫の一匹がおしっこをその辺にしたとき、おばさんが大声で店員を呼びつけて大変よ大変よあなたあの子おしっこしちゃったみたいなんですよおと騒いでいた。別に大騒ぎすることでもないのに。掃除の時間は決まっているだろうし。この日はやはり子犬が途中でうんちをしてしまって、案の定見入っていたおばさんが他の仕事で忙しそうな店員を呼んで大騒ぎしていた。よかったら私が掃除や世話をしてあげたいくらいなんですが、みたいなことを口走っていてやべえなと思った。いずれにせよああいうひとは自分の家では飼えないからこういうところに来て恋しさを紛らわせているのだろうけれど、都合のいい世話焼きだよね。看板猫や看板犬のいる店なんかでもよく見かける。よそのペットだから都合のいい可愛がり方だけする。野良猫に無責任なやり方で起き餌をするおばさんおじさんと一緒。
それにしてもペットショップの犬は本当に自分でしたうんちをそのまま食べちゃうんだな。あの子たちに罪はないが、やはりペットショップを通して犬を迎えようとは思わない。ペットショップは餌と用品だけ売ってくれればそれでいいと思う。
デパートで義母と合流して三人で帰宅するとポコが大喜び。寝転がって久しぶりにドラえもんを観た。義母の前で。今年で26歳になるけれどドラえもんを観て大笑いした。狭い路地をがんばって通り抜けた後のドラえもんがものすごい細長くなってておもしろかった。ドラえもんが細長くなる回は結構あって、シリーズにおける鉄板ギャグのひとつなのだけれど、いつ見てもあの姿はおもしろい。ぼくは小五からなにも変わってない。
2017/01/14 土
試写通いや原稿作りも始まったのに予定がない日はどうも気だるい。休み気分が抜けていない。もう1月も折り返しになるというのに身体が痛くなるほどの寒さでまだ休んでいていいのではないかと思ってしまう。ペーパークラフトがだいたい出来上がった。
たくさん寝た。新年に願った通りにたくさん寝れているのだけれど、どうも夢を三種類くらい見ていてあまり休めた気がしない。
犬のおしっこ漏らしは、ひたすらかわいがって寝るときもがっちり抱きしめて前足などを揉んであげるようにしたら、おさまった。やっぱり拗ねていただけか。
2017/01/08 日
模様替えでよくなった点はぼくの仕事部屋がテレビを置いているところから遠く奥まったので仕事中に気が散らないことと、逆に寝床からテレビが見えるようになったので(いまいち部屋の構造が全然伝わらないと思うがあえて伝えたいとも思わないので、書いてある通り、字面通りの配置だととりあえず思ってもらえれば)寝ながらテレビが観られること。就寝する際に観るのもいいのだけれど、朝起きたときにそのまま朝の番組を観られるのもいい。子供の頃はそうして寝床から日曜朝の子供番組をひたすら観ていた。寝床から観られる環境でなければとても朝の戦隊ものなど観られなかったろうと思う。それで、久しぶりにそういう見方もできるかなと思ってここのところ日曜の朝を楽しみにしているのだが、まあそんな早い時間に起きられるわけもなく、この日も太陽が高く上がってから起きた(太陽が出てたかどうかもよく覚えてない)。
2017/01/09 月
やっと月曜が来たから、世の中が動き出したのに合わせてぼくも活動的になれるぞと思ったが、祝日らしいので休みモードが抜けなかった。年末年始はもっとアマゾン・プライムやレンタル映画など心置きなく観たかったなあと思いつつも、いざそういう時間ができてもなにか観たいものが浮かばないし、もともとあまりテレビの前に座って続けざまに何本も映画観るみたいなことができないので(『スター・ウォーズ』六部作一気見とかも何度か挑戦したが、SWですら集中力がもたなかった。EP1のレースのシーンを観ながら、このあとに控えてる5本のことを考えて気が重くなった)そんなに観れなかったなあ。楽しみにしていたドラマの『高い城の男』も全然前半しか観れてないし、借りて来た映画も『フルメタル・ジャケット』というど定番一本だけ。友達から絶対瑞丸は観たほうがいいと毎回推されている『未来世紀ブラジル』もようやく借りて来たが結局観そびれたまま返してしまった。そうなのだ、ぼくは意外と定番の作品や名作を観ていないのだ。勉強中ということで今後にご期待ください。でもさ、映画って新作も過去作も多すぎるよね。供給過多。
2017/01/10 火
今週は結構試写を入れている。今日は遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督作『沈黙 ーサイレンスー』。江戸時代の百姓たちが英語を話すっていうだけで本来なら日本の観客がリアリティを感じられなくなってしまいそうだけれど、そのたどたどしさや日本訛りがリアルで全然気にならなかった。言語についてどういう配慮をしていったのかが気になる。時間をかけて咀嚼したい作品。長い映画だったけれど、ぼくは全然長く感じなかったなあ。イッセー尾形はやっぱりすごい。
このところインターネットで見つけたペーパークラフトを作っている。無料公開されているテンプレートで、『スター・ウォーズ』の主要なヘルメットがだいたい作れるのがとてもうれしい。ヴェイダー、カイロ・レン、キャプテン・ファズマ、ストームトルーパー、クローン・トルーパー、ファースト・オーダー版ストームトルーパー。これくらいなら全部作りたいな。とりあえず順番にトルーパーを作って飾りたいのでクローン・トルーパーを作っているんだけれど、手先が不器用だからまた苦戦している。一度コピー用紙でテストしたんだけれど、貼り付ける順番を間違えるととても作りづらくなってしまう。テンプレート作成者のひとに言わせると、貼る順番を番号などであえて書いていないのはその順番を自分で考えるのがペーパークラフトにおける醍醐味だからだそう。なるほど。確かに頭を使うし、楽しい。
新年のはじめに設定した目標のひとつ、「深夜まで起きない」はなかなか実践するのが難しい。だって気づくと深夜になっているんだもの。
2017/01/11水
エイミー・シューマー主演、ジャド・アパトー監督作『エイミー、エイミー、エイミー!』の試写へ。原題は『TRAINERECK』で鉄道の脱線事故とかそんな意味。ちなみに邦題の方は『こじらせシングルライフの抜け出し方』というサブタイトルがついている。ぼくは個人的に最近よく見聞きするこの「こじらせ」という言葉、実際なんなのかよくわからない。大人になりきれないとか、成長できないで停滞しているとかそんな意味なのかな。ビル・ヘイダーは見ているだけでおもしろいなあ。彼が声を当てたって思えばBB-8もだいぶ好きになれる。たくさんの犬の散歩をするダニエル・ラドクリフの正体もわかって楽しかった。ぼくもマリサ・トメイの犬の散歩したい。
2017/01/12 木
この日の試写はグザビエ・ドラン監督作の『たかが世界の終わり』。レア・セドゥが両腕にちょっとダサめのバラのタトゥー入れて「恋のマイアヒ」に合わせて踊る。ヴァンサン・カッセルと兄妹って設定なんだけれど、ずっと観てるとちょっと顔が似てるように思えて来た。目の感じとかちょっと似てるような気がする。そういえば『美女と野獣』では美女と野獣だったふたり。
夜はSPURの編集の方と、連載でも試写でもお世話になっているライターの萩原さんと新年会の食事をした。とても冷える日が続くのでスパイシーなネパール鍋。試写で観た映画や雑誌のこととか、『ローグ・ワン』の話をした。映画を観るプロとSWの話するのはすごく楽しいし、楽しい会話は自分の考えもまとまっていく。とても温まった。
2017/01/13 金
この日は少し休んだ。犬の餌が切れたのでデパートの最上階にあるペットショップまで買いにいく。どうも減りが早いと思ったが、少し痩せ気味なのを気にしてぼくが少し多めにあげていたんだった。ペットショップにいくと、ガラス張りの遊びスペースで子犬がじゃれあっているのをいつも眺めるんだけれど、決まって気持ち悪い笑みが顔に張り付いたひと(だいたいおばさん)が突っ立って見入っている。子猫が放たれているときは猫好きだろうし、子犬が放たれている日そこにいるのは犬好きだろうと思うんだけれど、どちらも共通しているのは不自然な笑みとほかになにも見えていなさそうな目つき。前に来たときは遊んでいた猫の一匹がおしっこをその辺にしたとき、おばさんが大声で店員を呼びつけて大変よ大変よあなたあの子おしっこしちゃったみたいなんですよおと騒いでいた。別に大騒ぎすることでもないのに。掃除の時間は決まっているだろうし。この日はやはり子犬が途中でうんちをしてしまって、案の定見入っていたおばさんが他の仕事で忙しそうな店員を呼んで大騒ぎしていた。よかったら私が掃除や世話をしてあげたいくらいなんですが、みたいなことを口走っていてやべえなと思った。いずれにせよああいうひとは自分の家では飼えないからこういうところに来て恋しさを紛らわせているのだろうけれど、都合のいい世話焼きだよね。看板猫や看板犬のいる店なんかでもよく見かける。よそのペットだから都合のいい可愛がり方だけする。野良猫に無責任なやり方で起き餌をするおばさんおじさんと一緒。
それにしてもペットショップの犬は本当に自分でしたうんちをそのまま食べちゃうんだな。あの子たちに罪はないが、やはりペットショップを通して犬を迎えようとは思わない。ペットショップは餌と用品だけ売ってくれればそれでいいと思う。
デパートで義母と合流して三人で帰宅するとポコが大喜び。寝転がって久しぶりにドラえもんを観た。義母の前で。今年で26歳になるけれどドラえもんを観て大笑いした。狭い路地をがんばって通り抜けた後のドラえもんがものすごい細長くなってておもしろかった。ドラえもんが細長くなる回は結構あって、シリーズにおける鉄板ギャグのひとつなのだけれど、いつ見てもあの姿はおもしろい。ぼくは小五からなにも変わってない。
2017/01/14 土
試写通いや原稿作りも始まったのに予定がない日はどうも気だるい。休み気分が抜けていない。もう1月も折り返しになるというのに身体が痛くなるほどの寒さでまだ休んでいていいのではないかと思ってしまう。ペーパークラフトがだいたい出来上がった。
2017/01/09
2017/01/08
レイの正体 - オビ=ワンとの共通点
レイがオビ=ワンの子孫である、と断定しようというのではない。ただ、こうして共通点を挙げていくと、その行為はとてもオビ=ワン的であり、スカイウォーカーの血を引く人間であるとは思えなくなってくる。
1.砂漠で独りぼっち
EP3からEP4までのオビ=ワンの隠遁生活は過酷で孤独なものだったろうと思う。年月もちょうどレイの年齢と同じくらい。
ブリティッシュ・アクセントに関しては、レイの親分であるアンカー・プラット(演:サイモン・ペグ)がそうだから、という見方もできるけれど、必要以上に強調されているように感じる。
2.マインド・トリック
フォースの技としては定番かつ象徴的なので、今まではあえてオビ=ワンと結びつけようとは思わなかったけれど、よく考えて見ればこの技はオビ=ワンの得意技と言える。映画でこの技を一度も失敗しないのは六部作通して彼だけなのだ。EP1では師のクワイ=ガンが、EP6では弟子のルークが使うが、ふたりとも二回のうち一回は失敗してしまう。彼らの場合は使う相手が悪かったのだが、それも含めてこの技を使える状況に恵まれていない。クワイ=ガンはオビ=ワンの師だから、ルークはオビ=ワンの弟子だからこの技を使ったということでしかなく、第1作目で最初にこの技を通してフォースの力を観客に見せたオビ=ワンがこの技のオリジンと言えるだろう。
そもそもレイが相手取ったのがストームトルーパーという時点で、このシーンは同じくトルーパーを相手にしたオビ=ワンのシーンに対応していると思う。
3.ライトセイバーをルークに渡す
思えばルークに対してだけでなく、オビ=ワンはアナキンにもライトセイバーを渡すシーンがある。つまりスカイウォーカーに剣を渡す役割なのだ。レイもその役割を受け継いでいるとしたら、ケノービと関係のある人物ということではないだろうか。
4.棒を使う
棒を使いこなすふたりだが、ブラスターに関してはふたりとも同様に不慣れだったりする。不慣れながら仕方なくこのレーザー銃を使って危機を逃れる描写も重なる。
レイがハン・ソロからブラスターを渡されるのも意味深、というか皮肉だ。ハンはかつてオビ=ワンに向かってフォースやライトセイバーよりもブラスターの方が優位であると断言していたけれど、結局レイのブラスターがカイロ・レンに対してなんの役にも立たなかったことは、ハンよりもオビ=ワンの正しさを強調するかのようである。レイの放つレーザーを難なく弾き返すカイロ・レンの本名が「ベン」であることも忘れてはならない。
5.ハン・ソロとのフォースをめぐる会話
EP7の予告編で観て以来「ハン・ソロがフォースを説く側になった!」ということにびっくりしてしまいこの会話シーンの本質的なところに気づけずにいたが、レイをオビ=ワンに対応させるとEP4とEP7の会話はそっくりひっくり返ったものになる。ハンの台詞も本当に真反対になっているのがおもしろい。
6.最初から決闘
三部作の最初から決闘するのはスカイウォーカーの役割ではない。アナキンもルークも1話目ではまだ自ら剣を抜かないのだ。最初から決闘するのはケノービの役割と言える。
オビ=ワンと大きな共通点を持つキャラクターはレイだけではない。カイロ・レンの本名はベン・ソロ。ベンはオビ=ワンが隠遁中に使っていた名前で、ルークとハンにとってはこちらのほうが馴染み深い名前だ。ハンはEP4で最後までオビ=ワンとわかり合うことができなかった(「化石みてえなじいさんだぜ」)が、後にその偉大さを改めて知り、悔恨や親しみの意味をこめて息子をベンと名付けたのではないか。その息子はその名前をつけられたことに重圧を感じ、名前の由来となったジェダイ・マスターよりも、最強のジェダイにしてシス卿だった祖父の方に憧れるようになったのではいか。彼はダース・ヴェイダーとベン・ケノービ、アナキンとオビ=ワンという究極的な二大人物の間で苦しんでいたのだ。
そう思うと、EP7『フォースの覚醒』の鍵はオビ=ワンにあるような気がする。同時に、オビ=ワンがシリーズ全体の中心にいるように思えてくる。ダース・ヴェイダーのヘルメットの残骸は、暗黒卿の影響が死してなお後世に遺り続けていることを象徴するようなアイテムだったが、死してなお影響を遺したのは彼だけではないかもしれない。かつてヴェイダーに殺される間際に「死してなお私は強くなる」と言い遺したオビ=ワン。EP7でフォースを覚醒させたレイはライトセイバーを初めて握ったにも関わらず、相当の訓練を積んでいたはずのカイロ・レンを圧倒する。あの強さはどこから来ているのか?ぼくにはオビ=ワンの最後の言葉がヒントのような気がしてならない。
レイがアナキンのライトセイバーに初めて触れたときに見るフォース・ヴィジョンの中で、フォースと一体となったオビ=ワンがレイの名を呼んで語りかけるという大きな接点も重要だ。フォースがオビ=ワンやヨーダの声を借りてレイに語りかけたのか、オビ=ワンの意志がフォースの中からレイに語りかけたのか。一体化によってオビ=ワンの精神とフォースが同義であること、かつてフォースの意志によって生み出されたアナキンのようなジェダイがいたことを考えれば、レイの出生の秘密に一歩近づけるかもしれない。
新しい三部作の主人公がケノービ側の人物で、今度はルークがそれを訓練する立場であるなら、バトンは受け継がれ、サイクルが出来上がる。サーガ全体がスカイウォーカーだけの物語ではなく、スカイウォーカーとケノービの物語であるという見方ができるようになるのだ。
2017/01/03
日記:2016/12/31〜2017/01/06
2016/12/31 土
大晦日は大学生の弟を家に呼んでテレビを観て過ごした。まだ年末年始休みの間にやりたことはあまりやれていない。というか多すぎてどれから手をつけようか考えているうちに仕事が本格化してしまいそうな気がする。
いつもはどういう一年だったか、一年間の仕事はどうだったかとかを改まってまとめたりするのだけれど、今回はどうも気乗りしなかった。とりあえず事務的な作業を避けてさっさと休みたかったのと、キャリー・フィッシャーの訃報にだいぶ打ちひしがれていたせいだろう。とりあえず2016年は11月の結婚式と、アパレルブランドとのコラボに関連した原画展が重力の中心になっていたように思う。いずれにせよひたすらアナログな制作をしていた。11月が過ぎてからはなんだか気が抜けてしまいがちで、仕事以外でなにかやりたいと思っていたのだけれど、そうこうしているうちに年が暮れたという感じ。
別に工作していたからといって手先が器用になったわけでもなく、上達したようにはとても思えなかったけれど、少なくともどういうものが作れてどういうものが作れないか、どういうものは描けてどういうものは描けないか、向き不向きを含めた自分の限界はなんとなく察したように思う。
また、映画レビューの連載開始に伴って本格的に試写会に通うようになったので、スケジュールのやりくりもなんとなく身についたかな。手帳に書くことが多くなった。
年越しプラモを組み立てるもテレビを観たり途中でそばを食べたりとあまり集中できなかったのでK-2SOの頭と胴体が出来たところで年が明けてしまった。ちなみにこれまで組み立てたキャラクター・キットで一番部品が少なく作りやすい気がした。身体が細いので部品が幅を取らないだけかな?とはいえ別にそこまで難易度を感じずに組み終えた。いつもながら良い出来。
2017/01/01 日
実は木曜に弟への成人祝いとクリスマスとお年玉を兼ねてポール・スミスの財布なんかを買っていたから、年が明けてからあげた。向こう五年間はなにもあげなくていいくらいの大サービスである。弟が欲しがっていたのはオーソドックスなカラフルストライプだが、いかにもなのでもっとシックなものにした。いいなあ。ぼくが使いたいくらいだ。こんな高価な、中に入れるものが無くなってしまいそうな財布は妻にも買ったことがない。
妻がはりきって用意してくれたおせち料理とお雑煮で朝からお腹いっぱい。大変久しぶりにお正月という感じ。ここ数年は夕方頃まで寝て風物詩的なものはほとんど無視していた(初詣は行っていたが)ので楽しい。午後から神田明神に出かけた。もう3回目である。古いお札を返して新しいお札をお金と引き換えにどうにか施していただく(買うって言っちゃいけないんだっけ?いやしかし買う以外のなにものでもないだろう。だいたい境内を見渡してみても、場所柄秋葉原方面に媚びたコラボ商品ばかり並んで大変な商売っ気を感じるが)。しかし初詣に行くたびになんだかんだこの国の人々も信心深いなあと思う。げんを担いだり縁起の良し悪しを気にしたり、十分信仰と呼べるのではないだろうか。かく言うぼくもここへのお参りとお札を置くようになってから仕事が増えたように感じるので、毎年詣でているわけだ。途中でやめたらどうなるか知れない。というわけで神田明神さま、どうか今年もひとつ。萌えキャラグッズ売ってても全然いいと思いますよ!
ところで、2017年というのは『スター・ウォーズ』第1作公開から40周年にあたる。キャリー・フィッシャーが40周年目前に逝ってしまったのは非常に残念だが、今年はEP8もあるし、シリーズにとってまたひとつ大きな節目となるんじゃないかな。最近は毎年なにかしらやっている状態なのでそこまで特別感ないけれど、それでもやはり40年という月日がよりあの作品を古典たらしめるだろう。同時に、その月日の重さは今後もまたやってくるであろう誰かのお別れの際に感じることになるだろうなあ。
あと、「2017」はもういい加減眼鏡にするには無理があると思う。17年前にもうやめておくべきだったね。
2017/01/02 月
早くも気だるくなっている。本格的に仕事が始まるまでにライフワークに取り組みたいがもう年が明けて2日経ってしまった。今のところ年越しプラモデルしか作っていない。あとレゴと小説の執筆とウェブサイトの整理と結婚式記録ページの更新などが残っている。なんという忙しさだ。これでは普段と変わらないじゃないか。休みなのだから休もうじゃないか。やりたいことのうち、どれかひとつくらい取りかかりたいな。
2017/01/03 火
三が日が終わりそうなので昨日は休みだから休めばいいとは思ったものの、焦り始めている。もう終わっちゃうのか?なんだか自分ではじっくり内省の時間を持てる休暇のつもりだったのだが、なんだかんだせわしなかったな。。。
でもね、普段通りの生活で、仕事の合間にこそ好きなことにも取り組めるというものでは?だいたい今のこのテンションだととてもなにか作る気になれない。ペンタブを触るとなんとなく仕事の気分になるの、どうにかしたいね。そう、今年はこの「仕事」という言葉や感覚についても解釈を変えたいと思ってる。お金をもらっているから仕事、はいいのだけれど、仕事だから少し気が重いという感覚を直したい。
犬を連れて公園に行ったら、木の枝と電線にひとつずつ凧が引っかかっているという、『ピーナッツ』の漫画の中でしかお目にかかれなさそうな光景を目にした。木の下ではおそらく凧の持ち主であろう子供が父親からひどく怒られて泣いていたが、電線の方は持ち主がとっくに立ち去ったあとらしかった。放置とは信じられない。まあ、こんな古典的な、冬休みのしおりの注意事項に書いてあるようなこと本当にあるのかと、そっちのほうがにわかに信じられないのだけれど。
公園の奥まで行って、また戻ってくるときに見たら、電線の方の凧が無くなっていて、かわりに木の方の凧が放置されていた。先ほどの親子はいない。そっちが放置組だったか。チャーリー・ブラウンだったら諦めないのにな。
2017/01/04 水
友達の『ローグ・ワン』鑑賞。お互いに三度目。ようやく全体を俯瞰して観ることができたし、字幕もちゃんと追えるようになった。スカリフの軌道シールド・ゲートのバルコニーをストームトルーパーが歩いていることとか、ゴールド中隊からイオン魚雷で攻撃されてエンジンが停止してしまったスター・デストロイヤーのブリッジでは修理作業をしているエンジニアがいたりという、細かいところも観ることができた。
キャリー・フィッシャーの死後初めての鑑賞だったけれど、ラストのレイア姫がより一層味わい深かった。結局ターキンもレイアも故人となってしまった。
映画館のそばにあるトイザらスを覗いたら、SW売り場がとてもやる気のないことになっていた。クリアランスで安価なのはいいけれど、欲しいものが全然無い。というか『ローグ・ワン』の商品がほとんどない。『フォースの覚醒』の売れ残りがずらっと並んでいた。
2017/01/05 木
世間はとっくに動き出しているけれど、ぼくの方はまだ最初の締め切りまで余裕があるし、年末で中断した作業についても先方から再開の連絡が来るまで待機なので、まだまだ休める。とは言え当初計画していたような、子供のころのように充実した冬休みはおくれなかったな。読書をしたりレゴをしたりアニメを観たりはできなかった。まあ、いつでもできるのだけれどね。寝てばかりいるけれど、時間を無駄にしたのではなく、ちゃんと休めているのだと思うことにしよう。睡眠を無駄なものと思わないようにしよう。
2017/01/06 金
特に印象がない日。なんとかお昼頃には起きられた。お節の残りを平らげた。どんどん寒くなっている気がする。暖冬など嘘じゃないか。芯まで冷え切って辛い。
お正月から延々と垂れ流されていたお笑い番組とかバラエティ番組をぼうっと観ていて思ったのは、女性コメディアンの扱いの不当さ。ちょうど山内マリコ先生の新刊『あのこは貴族』を年末に読んだばかりだったので、作中に出てきた「女を支配するために女同士を分断する男たち」という構図が、まさに今目の前の画面の中で繰り広げられていてくらっとした。マリコ先生の作品は普段ぼくが疑問に感じたりモヤっとしたりしながらもなかなか説明できる言葉を見つけられずにいることを、わかりやすく書いてくれる。きっと、読む人みんながそう思うんだろうなあ。
なにがひどかったかというと、その番組では女性芸人たちを何人もひっくるめて「醜女」ってラベリングしてたんだよ。一般的に美人とされているらしいタレントたちと並べられててさ。「醜女」と書かれたテロップを見て思わず声を出したね。こんなひどい言葉を公然と女の人に使うってのはどういう神経なんだろう。当人たちもそれで笑いを取るしかないという状況がちょっと危機的に思える。
そのとき横にいた妻が「シコメねえ」と言ったので、そうか、これはそう読むのかと思ったが口に出さないでおいた。まさかぼくが醜女をシュウオンナと読んでいたことなど妻が知ったら、いつぞや美人局をビジンキョクと読んだときのように散々馬鹿にされるに決まっている。
大晦日は大学生の弟を家に呼んでテレビを観て過ごした。まだ年末年始休みの間にやりたことはあまりやれていない。というか多すぎてどれから手をつけようか考えているうちに仕事が本格化してしまいそうな気がする。
いつもはどういう一年だったか、一年間の仕事はどうだったかとかを改まってまとめたりするのだけれど、今回はどうも気乗りしなかった。とりあえず事務的な作業を避けてさっさと休みたかったのと、キャリー・フィッシャーの訃報にだいぶ打ちひしがれていたせいだろう。とりあえず2016年は11月の結婚式と、アパレルブランドとのコラボに関連した原画展が重力の中心になっていたように思う。いずれにせよひたすらアナログな制作をしていた。11月が過ぎてからはなんだか気が抜けてしまいがちで、仕事以外でなにかやりたいと思っていたのだけれど、そうこうしているうちに年が暮れたという感じ。
別に工作していたからといって手先が器用になったわけでもなく、上達したようにはとても思えなかったけれど、少なくともどういうものが作れてどういうものが作れないか、どういうものは描けてどういうものは描けないか、向き不向きを含めた自分の限界はなんとなく察したように思う。
また、映画レビューの連載開始に伴って本格的に試写会に通うようになったので、スケジュールのやりくりもなんとなく身についたかな。手帳に書くことが多くなった。
年越しプラモを組み立てるもテレビを観たり途中でそばを食べたりとあまり集中できなかったのでK-2SOの頭と胴体が出来たところで年が明けてしまった。ちなみにこれまで組み立てたキャラクター・キットで一番部品が少なく作りやすい気がした。身体が細いので部品が幅を取らないだけかな?とはいえ別にそこまで難易度を感じずに組み終えた。いつもながら良い出来。
2017/01/01 日
実は木曜に弟への成人祝いとクリスマスとお年玉を兼ねてポール・スミスの財布なんかを買っていたから、年が明けてからあげた。向こう五年間はなにもあげなくていいくらいの大サービスである。弟が欲しがっていたのはオーソドックスなカラフルストライプだが、いかにもなのでもっとシックなものにした。いいなあ。ぼくが使いたいくらいだ。こんな高価な、中に入れるものが無くなってしまいそうな財布は妻にも買ったことがない。
妻がはりきって用意してくれたおせち料理とお雑煮で朝からお腹いっぱい。大変久しぶりにお正月という感じ。ここ数年は夕方頃まで寝て風物詩的なものはほとんど無視していた(初詣は行っていたが)ので楽しい。午後から神田明神に出かけた。もう3回目である。古いお札を返して新しいお札をお金と引き換えにどうにか施していただく(買うって言っちゃいけないんだっけ?いやしかし買う以外のなにものでもないだろう。だいたい境内を見渡してみても、場所柄秋葉原方面に媚びたコラボ商品ばかり並んで大変な商売っ気を感じるが)。しかし初詣に行くたびになんだかんだこの国の人々も信心深いなあと思う。げんを担いだり縁起の良し悪しを気にしたり、十分信仰と呼べるのではないだろうか。かく言うぼくもここへのお参りとお札を置くようになってから仕事が増えたように感じるので、毎年詣でているわけだ。途中でやめたらどうなるか知れない。というわけで神田明神さま、どうか今年もひとつ。萌えキャラグッズ売ってても全然いいと思いますよ!
ところで、2017年というのは『スター・ウォーズ』第1作公開から40周年にあたる。キャリー・フィッシャーが40周年目前に逝ってしまったのは非常に残念だが、今年はEP8もあるし、シリーズにとってまたひとつ大きな節目となるんじゃないかな。最近は毎年なにかしらやっている状態なのでそこまで特別感ないけれど、それでもやはり40年という月日がよりあの作品を古典たらしめるだろう。同時に、その月日の重さは今後もまたやってくるであろう誰かのお別れの際に感じることになるだろうなあ。
あと、「2017」はもういい加減眼鏡にするには無理があると思う。17年前にもうやめておくべきだったね。
2017/01/02 月
早くも気だるくなっている。本格的に仕事が始まるまでにライフワークに取り組みたいがもう年が明けて2日経ってしまった。今のところ年越しプラモデルしか作っていない。あとレゴと小説の執筆とウェブサイトの整理と結婚式記録ページの更新などが残っている。なんという忙しさだ。これでは普段と変わらないじゃないか。休みなのだから休もうじゃないか。やりたいことのうち、どれかひとつくらい取りかかりたいな。
2017/01/03 火
三が日が終わりそうなので昨日は休みだから休めばいいとは思ったものの、焦り始めている。もう終わっちゃうのか?なんだか自分ではじっくり内省の時間を持てる休暇のつもりだったのだが、なんだかんだせわしなかったな。。。
でもね、普段通りの生活で、仕事の合間にこそ好きなことにも取り組めるというものでは?だいたい今のこのテンションだととてもなにか作る気になれない。ペンタブを触るとなんとなく仕事の気分になるの、どうにかしたいね。そう、今年はこの「仕事」という言葉や感覚についても解釈を変えたいと思ってる。お金をもらっているから仕事、はいいのだけれど、仕事だから少し気が重いという感覚を直したい。
犬を連れて公園に行ったら、木の枝と電線にひとつずつ凧が引っかかっているという、『ピーナッツ』の漫画の中でしかお目にかかれなさそうな光景を目にした。木の下ではおそらく凧の持ち主であろう子供が父親からひどく怒られて泣いていたが、電線の方は持ち主がとっくに立ち去ったあとらしかった。放置とは信じられない。まあ、こんな古典的な、冬休みのしおりの注意事項に書いてあるようなこと本当にあるのかと、そっちのほうがにわかに信じられないのだけれど。
公園の奥まで行って、また戻ってくるときに見たら、電線の方の凧が無くなっていて、かわりに木の方の凧が放置されていた。先ほどの親子はいない。そっちが放置組だったか。チャーリー・ブラウンだったら諦めないのにな。
2017/01/04 水
友達の『ローグ・ワン』鑑賞。お互いに三度目。ようやく全体を俯瞰して観ることができたし、字幕もちゃんと追えるようになった。スカリフの軌道シールド・ゲートのバルコニーをストームトルーパーが歩いていることとか、ゴールド中隊からイオン魚雷で攻撃されてエンジンが停止してしまったスター・デストロイヤーのブリッジでは修理作業をしているエンジニアがいたりという、細かいところも観ることができた。
キャリー・フィッシャーの死後初めての鑑賞だったけれど、ラストのレイア姫がより一層味わい深かった。結局ターキンもレイアも故人となってしまった。
映画館のそばにあるトイザらスを覗いたら、SW売り場がとてもやる気のないことになっていた。クリアランスで安価なのはいいけれど、欲しいものが全然無い。というか『ローグ・ワン』の商品がほとんどない。『フォースの覚醒』の売れ残りがずらっと並んでいた。
2017/01/05 木
世間はとっくに動き出しているけれど、ぼくの方はまだ最初の締め切りまで余裕があるし、年末で中断した作業についても先方から再開の連絡が来るまで待機なので、まだまだ休める。とは言え当初計画していたような、子供のころのように充実した冬休みはおくれなかったな。読書をしたりレゴをしたりアニメを観たりはできなかった。まあ、いつでもできるのだけれどね。寝てばかりいるけれど、時間を無駄にしたのではなく、ちゃんと休めているのだと思うことにしよう。睡眠を無駄なものと思わないようにしよう。
2017/01/06 金
特に印象がない日。なんとかお昼頃には起きられた。お節の残りを平らげた。どんどん寒くなっている気がする。暖冬など嘘じゃないか。芯まで冷え切って辛い。
お正月から延々と垂れ流されていたお笑い番組とかバラエティ番組をぼうっと観ていて思ったのは、女性コメディアンの扱いの不当さ。ちょうど山内マリコ先生の新刊『あのこは貴族』を年末に読んだばかりだったので、作中に出てきた「女を支配するために女同士を分断する男たち」という構図が、まさに今目の前の画面の中で繰り広げられていてくらっとした。マリコ先生の作品は普段ぼくが疑問に感じたりモヤっとしたりしながらもなかなか説明できる言葉を見つけられずにいることを、わかりやすく書いてくれる。きっと、読む人みんながそう思うんだろうなあ。
なにがひどかったかというと、その番組では女性芸人たちを何人もひっくるめて「醜女」ってラベリングしてたんだよ。一般的に美人とされているらしいタレントたちと並べられててさ。「醜女」と書かれたテロップを見て思わず声を出したね。こんなひどい言葉を公然と女の人に使うってのはどういう神経なんだろう。当人たちもそれで笑いを取るしかないという状況がちょっと危機的に思える。
そのとき横にいた妻が「シコメねえ」と言ったので、そうか、これはそう読むのかと思ったが口に出さないでおいた。まさかぼくが醜女をシュウオンナと読んでいたことなど妻が知ったら、いつぞや美人局をビジンキョクと読んだときのように散々馬鹿にされるに決まっている。
今年どういう生活を送りたいかメモ
今年もどうぞよろしくお願いします。
鳥と言われたらやはりペンギンを描きたくなる。左のは一応コーギーのつもり。来年はいよいよ戌年。
今年どういう生活を送りたいかメモは以下の通り。
・深夜まで起きない。遊びも仕事も深夜まで持っていかない)。・SNSに振り回されない。実は半年くらい前からもう携帯電話からツイッターやフェイスブックのアプリは消しているし、数年身を置いていたLINEグループからもやっと撤退できた。一時期に比べればだいぶ情報過多ではなくなったが、それでもまだまだ多い。読むもの、目に入るものは最低限にしたい。自分を守るためにね。
・良い意味で内向的になる。上の項目に関連して、誰かの書き込みに一喜一憂するなんてことはやめて、ひたすら自分を見つめようじゃないかと。見知らぬひとにイラつく代わりに一枚でも多く描いて、一文でも多く書きたい。
・絵はもちろんだけれど、文章を上達させる。やけに長ったらしいのはやめだ。
・自分のスタイルをまずは肯定する。お金をもらっている以上一定の自信はあるけれど、どうしてもここ最近は自己肯定感が薄れている。基本的にぼくは贅沢なんだよね。
・趣味を恐れない。なんとなく物を集めることが急に怖くなったり(増えるんだもん)、このままでいいのかと思ったりしながら去年は過ごしていた。でも、やっぱり集めるのは楽しいし、楽しくないと自分の創作もはかどらないんだよね。恐れずに続けよう。これも自己肯定への第一歩だ。
・筆圧を減らす。手が非常に疲れるし、力みすぎても良いものが描けるとは限らない。
・断ることを覚える。これは本当に。
・よく眠る(これは早速実践している)。
思いついたまま書いているので順番に特に意味はないけれど、とにかく気を楽にしたいってことだね。いや、去年はだいぶくたびれてしまった。この猫とコーギーみたいにごまかしながらでも気を楽に生きていきたい。。。
2016/12/31
日記:12/26 - 30
2016/12/26 月
クリスマスの翌日が月曜日というのも憂鬱な気がするが勤め人じゃないので関係なし。今年最後の試写に出掛けた。グレタ・ガーウィグ、やっぱりかわいい。
ポコがクリスマス・プレゼントの片方をさっそく壊した。短いロープの先にペンギンの顔のぬいぐるみがついていて、そことロープの結び目の間にはテニスボールくらいのボールが通っていて遊べるものだったけれど、ボールが食い破られていた。どんな力でもってこんなことができるんだろう。こいつに本気で噛みつかれたらぼくなんてひとたまりもないだろうな。ボールの破片を食べる勢いだったので取り外して捨てた。結局そのおもちゃはペンギンの顔からロープが伸びてるだけのものになった。
2016/12/27 火
年内の最後の仕事を翌日までに仕上げる必要があるので取り組んでいたが結局28日朝までかかってしまった。来年は日をまたぎながら翌朝まで作業をするということのないようにしっかりやりたい。
で、夜明け頃あるニュースを受け取ることになる。
2016/12/28 水
キャリー・フィッシャーが亡くなった。心臓発作で倒れてからの容態の続報がなかったのでもしやとは思っていた。思っていたけれど、やはり悲しく、自分で驚くほど空虚を感じる。『スター・ウォーズ』の次回作以降の心配をしている輩が多くてうんざりするし、例によって「(『ローグ・ワン』のように)CGで再現すればいい」などという体温を感じられない発言(うまいこと言ったとでも思っているのだろうか?)が目につき絶望する。そんなふうにコメントすることがぼくにはできない。インターネットでは、特にSNSではひとの死すらも消費される情報と化してしまう。誰もがこぞって右クリックで保存しただけのレイア姫の画像を貼り付けてなにかしたつもりになっている。我慢ならない。いや、それはそのひとたちなりのやり方かもしれないから、否定するのはやめよう。彼女の死に際して他人をやり玉にあげるのもよくない。重要なのは自分自身がどうしたいかを問うことである。ぼくはぼくなりの方法でこの説明しようのない空虚な気持ちと、故人への想いを表現したいと思っている。
2016/12/29 木
キャリー・フィッシャーの母、デヴィー・レイノルズが亡くなった。なんということだろう。こんなこともあるのかとショックだった。
1日経って、キャリーの死のショックが思いの外のしかかってきて、異様なほど気だるかった。昨日仕事納めをしたせいもあって疲れがどっと吹き出して、ほとんど一日中寝ていた。驚くほど眠っていた。目が覚める少し前になるといくつか夢を見たような気がする。別に夢はレイア姫とはなんの関係もない、ただの夢っぽい夢だったけれど、日記に夢の内容を書き始めたらおしまいだとどこかで読んだことがあり、確かになと思ったので、書かないでおく。というかどんなだったか忘れた。
夕方から仕事を納めた妻と合流して買い物をする予定だったが、ひどく寝過ごしたので大慌てで出かけた。新しいバスマットを二枚、大晦日に弟が泊まりにくるので寝具を一式、お正月用のかわいらしい割り箸、それから年越しに組み立てるプラモデル(K-2SO。買うと少しは元気が出た)など。
とりあえず年越しまでの間レイア姫の絵を描けるだけ描きたい。仕事が終わったこともあって気だるいのかもしれないが、とにかくなにか描けば気は紛れる。今年は本当にたくさん有名なひとが旅立ったが(SWにおいてはR2-D2役のケニー・ベイカーも亡くなった)、ここまで言い知れぬ喪失感を覚えるとは。ひとの死が情報になってしまうのは寂しいけれど、有名なひとの死なら尚更そうなりやすいものだ。ぼくだって実際自分がよく知らない有名人の訃報を単なる情報として聞き流すことは多い。けれど、そのひとたちひとりひとりの訃報に際して、やはり今のぼくのような気持ちになっているひとは確かにいるはずで、有名であろうと身近なひとであろうと、家族であろうと、それはやはり人の死であり、誰かがこの世界から立ち去ってしまうということなのだなあと実感した。当たり前のことなのだけれどね。
絵を描こうと思ってもどうもぼうっとして時間が過ぎていく。そう簡単にこの空虚は埋まらないかもしれない。
2016/12/30 金
仕事がないので休めるはずが、何故かまた朝までレイア姫の絵を描いていた。これはもう今までも仕事だからと寝ずに朝までやっていたわけではなく、ぼくがただそうしたいからそうしていただけだということだ。それがわかったなら、改善するのもそこまで難しくないのかもしれない。
お雑煮やちょっとしたおせち料理のために妻とともに買い物に。食材と新しく食器も買った。これでもう買い物は全部済んだ。あとは越すだけだけれど、やけに慌ただしくて落ち着いて全然一年を振り返ることができない。今年の成果だけでもまとめてみたいのだけれど、ブログをせっせと書いているうちに年が明けてしまいそうな気がする。
試験的に11月から始めたこの形式の日記は、わりと1日も欠かさずに記録ができるので(後から思い出しながら書くときに何があったか忘れてしまったような日があるにせよ)来年も続けていきたい。まずは来年1年分記録することを目指そう。
クリスマスの翌日が月曜日というのも憂鬱な気がするが勤め人じゃないので関係なし。今年最後の試写に出掛けた。グレタ・ガーウィグ、やっぱりかわいい。
ポコがクリスマス・プレゼントの片方をさっそく壊した。短いロープの先にペンギンの顔のぬいぐるみがついていて、そことロープの結び目の間にはテニスボールくらいのボールが通っていて遊べるものだったけれど、ボールが食い破られていた。どんな力でもってこんなことができるんだろう。こいつに本気で噛みつかれたらぼくなんてひとたまりもないだろうな。ボールの破片を食べる勢いだったので取り外して捨てた。結局そのおもちゃはペンギンの顔からロープが伸びてるだけのものになった。
2016/12/27 火
年内の最後の仕事を翌日までに仕上げる必要があるので取り組んでいたが結局28日朝までかかってしまった。来年は日をまたぎながら翌朝まで作業をするということのないようにしっかりやりたい。
で、夜明け頃あるニュースを受け取ることになる。
2016/12/28 水
キャリー・フィッシャーが亡くなった。心臓発作で倒れてからの容態の続報がなかったのでもしやとは思っていた。思っていたけれど、やはり悲しく、自分で驚くほど空虚を感じる。『スター・ウォーズ』の次回作以降の心配をしている輩が多くてうんざりするし、例によって「(『ローグ・ワン』のように)CGで再現すればいい」などという体温を感じられない発言(うまいこと言ったとでも思っているのだろうか?)が目につき絶望する。そんなふうにコメントすることがぼくにはできない。インターネットでは、特にSNSではひとの死すらも消費される情報と化してしまう。誰もがこぞって右クリックで保存しただけのレイア姫の画像を貼り付けてなにかしたつもりになっている。我慢ならない。いや、それはそのひとたちなりのやり方かもしれないから、否定するのはやめよう。彼女の死に際して他人をやり玉にあげるのもよくない。重要なのは自分自身がどうしたいかを問うことである。ぼくはぼくなりの方法でこの説明しようのない空虚な気持ちと、故人への想いを表現したいと思っている。
2016/12/29 木
キャリー・フィッシャーの母、デヴィー・レイノルズが亡くなった。なんということだろう。こんなこともあるのかとショックだった。
1日経って、キャリーの死のショックが思いの外のしかかってきて、異様なほど気だるかった。昨日仕事納めをしたせいもあって疲れがどっと吹き出して、ほとんど一日中寝ていた。驚くほど眠っていた。目が覚める少し前になるといくつか夢を見たような気がする。別に夢はレイア姫とはなんの関係もない、ただの夢っぽい夢だったけれど、日記に夢の内容を書き始めたらおしまいだとどこかで読んだことがあり、確かになと思ったので、書かないでおく。というかどんなだったか忘れた。
夕方から仕事を納めた妻と合流して買い物をする予定だったが、ひどく寝過ごしたので大慌てで出かけた。新しいバスマットを二枚、大晦日に弟が泊まりにくるので寝具を一式、お正月用のかわいらしい割り箸、それから年越しに組み立てるプラモデル(K-2SO。買うと少しは元気が出た)など。
とりあえず年越しまでの間レイア姫の絵を描けるだけ描きたい。仕事が終わったこともあって気だるいのかもしれないが、とにかくなにか描けば気は紛れる。今年は本当にたくさん有名なひとが旅立ったが(SWにおいてはR2-D2役のケニー・ベイカーも亡くなった)、ここまで言い知れぬ喪失感を覚えるとは。ひとの死が情報になってしまうのは寂しいけれど、有名なひとの死なら尚更そうなりやすいものだ。ぼくだって実際自分がよく知らない有名人の訃報を単なる情報として聞き流すことは多い。けれど、そのひとたちひとりひとりの訃報に際して、やはり今のぼくのような気持ちになっているひとは確かにいるはずで、有名であろうと身近なひとであろうと、家族であろうと、それはやはり人の死であり、誰かがこの世界から立ち去ってしまうということなのだなあと実感した。当たり前のことなのだけれどね。
絵を描こうと思ってもどうもぼうっとして時間が過ぎていく。そう簡単にこの空虚は埋まらないかもしれない。
2016/12/30 金
仕事がないので休めるはずが、何故かまた朝までレイア姫の絵を描いていた。これはもう今までも仕事だからと寝ずに朝までやっていたわけではなく、ぼくがただそうしたいからそうしていただけだということだ。それがわかったなら、改善するのもそこまで難しくないのかもしれない。
お雑煮やちょっとしたおせち料理のために妻とともに買い物に。食材と新しく食器も買った。これでもう買い物は全部済んだ。あとは越すだけだけれど、やけに慌ただしくて落ち着いて全然一年を振り返ることができない。今年の成果だけでもまとめてみたいのだけれど、ブログをせっせと書いているうちに年が明けてしまいそうな気がする。
試験的に11月から始めたこの形式の日記は、わりと1日も欠かさずに記録ができるので(後から思い出しながら書くときに何があったか忘れてしまったような日があるにせよ)来年も続けていきたい。まずは来年1年分記録することを目指そう。
2016/12/30
May The Force Be With Our Princess
ぼくはキャリー・フィッシャーがいない世界をまだ生きたことがない。
強い影響を受けて生きてきたわけではないのだけれど、やっぱりルーク、レイア、ハンを演じたひとたちは同じ世界にいて当たり前だと思っていたので、これから先いくらSWが続いても彼女はいないんだなあと思うと、ちょっと変な気分だ。この先SWがどのような物語になったとしても彼女は銀河系の運命を知り得ない。
ぼくはキャストとのグリーティングの機会になど出かけたことはないし、会ったこともなければサインも持っていない。彼女との接点はなにひとつないし、彼女については知らないことのほうが多いけれど、彼女が去ってしまったという事実は、確かにぼくに言いようのない喪失感と空虚な気分をもたらしたと思う。胸にぽっかりとカークーンの大穴のようなものが開いている気分。そこはなにもない宇宙のように暗く、気をつけないとボバ・フェットのように落っこちてしまうかもしれない。気をつけないと、暗闇にのみこまれてしまいそうだ。
『ローグ・ワン』という映画は、ぼくに希望とはなにかを教えてくれたばかりだった。ほんの少しでも、胸に抱くことができさえすれば、大きな原動力となる計り知れないもの。根拠がなにひとつなくとも、信じて心の支えにすれば強くいられるもの。映画のラスト、レイア・オーガナが一言だけ「希望」と口にして優しげに微笑む。劇中の全ての戦い、全ての犠牲がここに集約され、未来への明るい展望すら感じられるようだ。彼女自身もまた銀河を暗闇から救う「新たなる希望」だということを忘れてはならない。あの映画は第1作目が希望を抱き託す物語だったことを思い出させてくれたと同時に、レイア姫がその中心に立つ人物だったことも思い出させてくれた。
キャリー・フィッシャーという人物の全てを、レイア姫という役に押し込めようというのでは、決してない。しかし、あんなふうに希望に満ちた役を演じた彼女は、やっぱりぼくにとって温かみと優しさと、知性を感じさせる女性なんだ。ぼくは素直に彼女の笑顔がとても好き。
こんなにも寒く、冷たい夜が続く日々。時代が暗い方へ暗い方へと進んでいる中で、希望を象徴するような女性が立ち去ってしまったということが、どうしても重くのしかかってくる。この冬は暖冬になるなんていう話もあったけれど、ぼくにとっては思っていたよりも寒い日々になるかもしれない。それでも普通に年は明けて、キャリー・フィッシャーのいない最初の年をぼくは迎えなければならない。
どうかぼくらの永遠の王女キャリー・フィッシャーとそのお母さんにフォースのご加護があらんことを。平和の惑星オルデラーンのように輝く星になりますように。遺された家族と、キャリーの愛犬ゲイリーが元気でいられますように。
2016/12/26
日記:12/17 - 25
2016/12/17 土
この日はあまり印象にない。モレスキンのスケジュール帳も空欄である。『ローグ・ワン』が公開してからの金土日はどうせそのことしか考えていないから、どうせそのことばかり考えていたのだろう。
さっそく感想をまとめようと試みるも、近頃は「秘密映画館」のシリーズをもう少し違う形に変えていきたいとも思っていて、その不満と『ローグ・ワン』への想いをぶちまけたいという想いとでうんうんと悩んでいた。シリーズのラベルをつけて記事を作っていく形式というか様式がだんだん煩わしくなってきていて、もう少しラフな形にも作れるようにしたい。雑誌上の連載とも違う形にしていきたいし。
とは言え『ローグ・ワン』に対して思ったことがA4サイズに、しかもイラストと折半されたスペースにおさまるわけもなく(イラストと文章をいかに両立させるかもぼくにとっては課題だ。どちらかといえばあくまで絵に比重は置きたいが、それでいてちゃんと言いたいこと伝えたいことを文章にもしたい)、今後もことあるごとに個別に絵と文を書いていきたいと思う。
2016/12/18 日
友達と2度目の『ローグ・ワン』へ。初見が3DIMAXっていうのはどうも情報量が多すぎて全体が俯瞰できないので2Dスクリーンで改めて観るといろいろ細部もわかるかなと思ったがそれでもやっぱりまだ全体を見渡せなかった。SWがそこまで好きじゃなかったら、前半はいまひとつだろうなあ。集中力のないひとなら途中で席を立ってしまうのも無理はないかなと思う。映画館で途中退席したり居眠りしたりってのは個人的には信じられないが。ただ、そんなことにいちいち目くじらを立てるよりは、その程度の気軽さで時間つぶしのために1800円払い、気分が乗らなかったら上映時間の3分の1以下の時間で出ていけるひとがいっぱいいるおかげで劇場が成り立っていると思ったほうが、ましな気分になれるかな。映画オタクだけじゃ世の中持たないもの。それに映画館というのは大勢で同じ作品を一緒に観る場であって、そこには本当にたくさんの種類の人間が集まっているので、自分の気に食わないひとがいて当たり前だ。思い通りにならなくて当たり前なんだ。それでもその見知らぬ人たちと時間と作品を共有するのがシアターであって、それはフェイスブックなんかよりよっぽどソーシャルメディアな場なのだと思う。もちろんだからこそ席を立ったり私語を交わすひとも注意するべきなんだけれど、そのひとたちをわざわざ捕まえてお説教する必要を、ぼくはそこまで感じないってわけ。映画館とはそういう場所であって、無菌状態のホームシアターじゃないのさ。
2016/12/19 月
試写で「ラ・ラ・ランド」を観させていただいた。やっぱりミュージカルは良いなあ、と思えるし、これならミュージカルが苦手なひとも楽しめるのではないだろうか。
とは言えミュージカルが苦手っていうひとの感覚、全然わからないけれどね。突然歌い出すのがダメなのかな?そういう表現形態なのだということから説明しなきゃいけないのだろうか。ゴジラに対して「なんで着ぐるみに皆怯えるのか」とつっこんでいるようなものなんだけれどそれは。
2016/12/20 火
いろいろと締め切りが重なっていたので家にいた。妻が休みで家にいると、どこか安心して過ごせるのだけれど、ぼくまで休日の気分になってしまうのがまずい。
2016/12/21 水
レゴのアドベント・カレンダーも残り少ない。こんなに楽しいなら本当に何年も前から遊べばよかった。24日間で組み立て終えたミニ・モデルをどうするのか、ばらして別のものを作るときの部品に使ってしまうか、完成させたまま並べて飾るか、どちらがいいだろうか。ともかく細かくて小さいものの愛らしさを改めて知った。大は小を兼ねるとも言うけれど、小さいものこそ宇宙があると思う。
2016/12/22 木
最近朝起きると床に黄色い水たまりができていることが多い。りんごジュースを床にこぼしておく趣味はないし、りんごジュースにしては生臭いので、これは犬のおしっこである。何故かおしっこを部屋でするようになってしまった。散歩し足りないのか、なにか不満なのか、病気なのか。7歳にあがってから急におしっこ漏らしになったような気がする。おじいさんなのだろうか。とは言え場所と時間を選んでいるらしいので我慢できず漏らしているというより、している、というように感じる。
2016/12/23 金
冬休みに入ったばかりの独特の多幸感っていうのはもう味わえないのだろうか。結局こんな時期までばたばたと追われている。天皇陛下誕生日になってクリスマス・イブになろうとしているのにまるでそんな時期だという気配がない。部屋で唯一そういう気配をくれるのはちかちか光るクリスマス・ツリーだけ。
模様替えのために発生した大量の粗大ゴミを回収してもらうのがイブの朝なので、せっせと処分の準備をした。木製の大きな家具が減るのでだいぶすっきりすると思うと気持ちが良い。古い犬のバギーも処分。広くなった分犬のケージにトイレスペースを増設して、なんとかここでおしっこしてもらうようにする。
2016/12/24 土
朝からキャリー・フィッシャーが心臓発作で倒れたとのニュース。キャリーにだけは一度サイン会で会ったことがあるという友人がひどく取り乱していた。『ローグ・ワン』で若き日のキャリー・フィッシャーの顔をしたレイア姫が再現されていたことにひっかけて、万が一のことがあってもCGで作れるから大丈夫でしょ、なんていう例の気持ちの悪い優越感に浸るために心ない言葉を口にする連中のために、彼はより一層ショックを受けたし、ぼくもそんなことを言うひとがいるのかとショックだった。同じ映画を好きなはずなのにどうしてこう考えが違ってしまうのか。映画におけるキャラクターしか頭にないから、感情を持って生きている人間がそれを演じているということを忘れて、EP8やEP9の心配ばかりするようなひとは決して少なくないのだ。残念ながら。
彼女の容態については、一度安定したと報じられたけれど、すぐにそれが間違っているとも話題になった。悪い状態が悪いまま続いていることも安定というのだろうか。それ以降なにも知らせがないけれど、どうか持ち直してほしい。そうしてぼくの頭に浮かぶのは、彼女の愛犬のゲイリーだ。あの子、きっと主人の帰りを待っているだろうなあ。
最初に同棲を始めて以来ぼくらはクリスマスにはローストチキンを丸々一羽食べることになっている。とは言えまだ3年目で去年は出遅れてチキンが買えなかったので2度目である。今回はとても大きいのを買った。前回はぼくが焼いたので、今回は妻に調理してもらった。お腹の中にぎっしりとお米が詰まった鶏の丸焼きはとてもふたりで食べきれるものではなく、半分ほど食べて明日に取っておくことに。もしかしたら本場でもクリスマスのご馳走は年末にかけて食べていくものなのかもしれないな。いっそこちらで言うところのお節料理すらも兼ねているのかもしれない。クリスマスの恩恵に預かれる国の人々は日本人なんかよりもずっとゆっくり過ごせるし。この国で「ハッピー・ホリデー」という言葉がなかなか浸透しないのは、そもそも祝日じゃない上全然お休みにならないからだろうな。冬至過ぎても普通に働き続けるってよく考えるとすごいことだ。
夜中にトイレに入っていると、こつんこつんという奇妙な音が聞こえてきたので、出て見てみると、なんとソファに乗った犬がテーブルに前足をかけてチキンの皿に顔を突っ込んでいるではないか。しっかりかけてあったラップまでわざわざ鼻面でめくりあげている。ぼくがあーっと大声を出すと、妻がむっくと布団から飛び起きてきた。妻が激怒したのは言うまでもなく、犬は朝までケージでひとりで寝ることになった。クリスマスの朝に一緒に布団に入れないのは寂しいが、しょうがない。ケージの中でふてくされて寝ている犬を見るに、折檻に効果があるのか、後悔してもらえるのかは謎だけれど、ともかくびっくりした。鶏肉は前にも食卓に残してあったもの(西武の地下で買った美味しいやつ)をぺろっとやられてしまったことがあったので、もっと警戒しておくべきだった。けれどあんな大きなチキンにどこから手をつけていいか彼もよくわからなかったようで、皿の周りに添えてあったジャガイモやニンジンの類が食べられているだけだった。
犬にはクリスマス・プレゼントのおもちゃを二つ買ってあり、イブに最初のひとつをあげてあったのだけれど、すぐに飽きたね。チキンのほうが興味津々だったわけだ。
アドベント・カレンダーは全て開け終えた。終わってしまったがとても楽しかった。クリスマスにこういう楽しみ方があるとはね。
2016/12/25 日
さあチキンの続きだ。妻も仕事帰りにパンとチーズと生ハムとりんごサイダーを買ってきてくれた。青い染みがたくさん浮かんだ美味しいチーズで最高だった。買っておいたソーセージも焼いた。そんなわけでいろいろあったので、またチキンはそこまで食べ進まなかった。また明日食べればいいのだ。
犬には二つ目のプレゼントをあげた。しばらく遊ぶのだがやっぱり飽きて放置。
クリスマスと言えどサザエさんは相変わらずだったな。妻と長女がお節料理を作っている間、波平は婿と「わしらの仕事はもうないな!」「そうですねえお義父さん!」などとのんきにくつろいでいるのがまた相変わらずであった。
月曜までのイラストを仕上げて寝た。終わっちゃったなあクリスマス。
この日はあまり印象にない。モレスキンのスケジュール帳も空欄である。『ローグ・ワン』が公開してからの金土日はどうせそのことしか考えていないから、どうせそのことばかり考えていたのだろう。
さっそく感想をまとめようと試みるも、近頃は「秘密映画館」のシリーズをもう少し違う形に変えていきたいとも思っていて、その不満と『ローグ・ワン』への想いをぶちまけたいという想いとでうんうんと悩んでいた。シリーズのラベルをつけて記事を作っていく形式というか様式がだんだん煩わしくなってきていて、もう少しラフな形にも作れるようにしたい。雑誌上の連載とも違う形にしていきたいし。
とは言え『ローグ・ワン』に対して思ったことがA4サイズに、しかもイラストと折半されたスペースにおさまるわけもなく(イラストと文章をいかに両立させるかもぼくにとっては課題だ。どちらかといえばあくまで絵に比重は置きたいが、それでいてちゃんと言いたいこと伝えたいことを文章にもしたい)、今後もことあるごとに個別に絵と文を書いていきたいと思う。
2016/12/18 日
友達と2度目の『ローグ・ワン』へ。初見が3DIMAXっていうのはどうも情報量が多すぎて全体が俯瞰できないので2Dスクリーンで改めて観るといろいろ細部もわかるかなと思ったがそれでもやっぱりまだ全体を見渡せなかった。SWがそこまで好きじゃなかったら、前半はいまひとつだろうなあ。集中力のないひとなら途中で席を立ってしまうのも無理はないかなと思う。映画館で途中退席したり居眠りしたりってのは個人的には信じられないが。ただ、そんなことにいちいち目くじらを立てるよりは、その程度の気軽さで時間つぶしのために1800円払い、気分が乗らなかったら上映時間の3分の1以下の時間で出ていけるひとがいっぱいいるおかげで劇場が成り立っていると思ったほうが、ましな気分になれるかな。映画オタクだけじゃ世の中持たないもの。それに映画館というのは大勢で同じ作品を一緒に観る場であって、そこには本当にたくさんの種類の人間が集まっているので、自分の気に食わないひとがいて当たり前だ。思い通りにならなくて当たり前なんだ。それでもその見知らぬ人たちと時間と作品を共有するのがシアターであって、それはフェイスブックなんかよりよっぽどソーシャルメディアな場なのだと思う。もちろんだからこそ席を立ったり私語を交わすひとも注意するべきなんだけれど、そのひとたちをわざわざ捕まえてお説教する必要を、ぼくはそこまで感じないってわけ。映画館とはそういう場所であって、無菌状態のホームシアターじゃないのさ。
2016/12/19 月
試写で「ラ・ラ・ランド」を観させていただいた。やっぱりミュージカルは良いなあ、と思えるし、これならミュージカルが苦手なひとも楽しめるのではないだろうか。
とは言えミュージカルが苦手っていうひとの感覚、全然わからないけれどね。突然歌い出すのがダメなのかな?そういう表現形態なのだということから説明しなきゃいけないのだろうか。ゴジラに対して「なんで着ぐるみに皆怯えるのか」とつっこんでいるようなものなんだけれどそれは。
2016/12/20 火
いろいろと締め切りが重なっていたので家にいた。妻が休みで家にいると、どこか安心して過ごせるのだけれど、ぼくまで休日の気分になってしまうのがまずい。
2016/12/21 水
レゴのアドベント・カレンダーも残り少ない。こんなに楽しいなら本当に何年も前から遊べばよかった。24日間で組み立て終えたミニ・モデルをどうするのか、ばらして別のものを作るときの部品に使ってしまうか、完成させたまま並べて飾るか、どちらがいいだろうか。ともかく細かくて小さいものの愛らしさを改めて知った。大は小を兼ねるとも言うけれど、小さいものこそ宇宙があると思う。
2016/12/22 木
最近朝起きると床に黄色い水たまりができていることが多い。りんごジュースを床にこぼしておく趣味はないし、りんごジュースにしては生臭いので、これは犬のおしっこである。何故かおしっこを部屋でするようになってしまった。散歩し足りないのか、なにか不満なのか、病気なのか。7歳にあがってから急におしっこ漏らしになったような気がする。おじいさんなのだろうか。とは言え場所と時間を選んでいるらしいので我慢できず漏らしているというより、している、というように感じる。
2016/12/23 金
冬休みに入ったばかりの独特の多幸感っていうのはもう味わえないのだろうか。結局こんな時期までばたばたと追われている。天皇陛下誕生日になってクリスマス・イブになろうとしているのにまるでそんな時期だという気配がない。部屋で唯一そういう気配をくれるのはちかちか光るクリスマス・ツリーだけ。
模様替えのために発生した大量の粗大ゴミを回収してもらうのがイブの朝なので、せっせと処分の準備をした。木製の大きな家具が減るのでだいぶすっきりすると思うと気持ちが良い。古い犬のバギーも処分。広くなった分犬のケージにトイレスペースを増設して、なんとかここでおしっこしてもらうようにする。
2016/12/24 土
朝からキャリー・フィッシャーが心臓発作で倒れたとのニュース。キャリーにだけは一度サイン会で会ったことがあるという友人がひどく取り乱していた。『ローグ・ワン』で若き日のキャリー・フィッシャーの顔をしたレイア姫が再現されていたことにひっかけて、万が一のことがあってもCGで作れるから大丈夫でしょ、なんていう例の気持ちの悪い優越感に浸るために心ない言葉を口にする連中のために、彼はより一層ショックを受けたし、ぼくもそんなことを言うひとがいるのかとショックだった。同じ映画を好きなはずなのにどうしてこう考えが違ってしまうのか。映画におけるキャラクターしか頭にないから、感情を持って生きている人間がそれを演じているということを忘れて、EP8やEP9の心配ばかりするようなひとは決して少なくないのだ。残念ながら。
彼女の容態については、一度安定したと報じられたけれど、すぐにそれが間違っているとも話題になった。悪い状態が悪いまま続いていることも安定というのだろうか。それ以降なにも知らせがないけれど、どうか持ち直してほしい。そうしてぼくの頭に浮かぶのは、彼女の愛犬のゲイリーだ。あの子、きっと主人の帰りを待っているだろうなあ。
最初に同棲を始めて以来ぼくらはクリスマスにはローストチキンを丸々一羽食べることになっている。とは言えまだ3年目で去年は出遅れてチキンが買えなかったので2度目である。今回はとても大きいのを買った。前回はぼくが焼いたので、今回は妻に調理してもらった。お腹の中にぎっしりとお米が詰まった鶏の丸焼きはとてもふたりで食べきれるものではなく、半分ほど食べて明日に取っておくことに。もしかしたら本場でもクリスマスのご馳走は年末にかけて食べていくものなのかもしれないな。いっそこちらで言うところのお節料理すらも兼ねているのかもしれない。クリスマスの恩恵に預かれる国の人々は日本人なんかよりもずっとゆっくり過ごせるし。この国で「ハッピー・ホリデー」という言葉がなかなか浸透しないのは、そもそも祝日じゃない上全然お休みにならないからだろうな。冬至過ぎても普通に働き続けるってよく考えるとすごいことだ。
夜中にトイレに入っていると、こつんこつんという奇妙な音が聞こえてきたので、出て見てみると、なんとソファに乗った犬がテーブルに前足をかけてチキンの皿に顔を突っ込んでいるではないか。しっかりかけてあったラップまでわざわざ鼻面でめくりあげている。ぼくがあーっと大声を出すと、妻がむっくと布団から飛び起きてきた。妻が激怒したのは言うまでもなく、犬は朝までケージでひとりで寝ることになった。クリスマスの朝に一緒に布団に入れないのは寂しいが、しょうがない。ケージの中でふてくされて寝ている犬を見るに、折檻に効果があるのか、後悔してもらえるのかは謎だけれど、ともかくびっくりした。鶏肉は前にも食卓に残してあったもの(西武の地下で買った美味しいやつ)をぺろっとやられてしまったことがあったので、もっと警戒しておくべきだった。けれどあんな大きなチキンにどこから手をつけていいか彼もよくわからなかったようで、皿の周りに添えてあったジャガイモやニンジンの類が食べられているだけだった。
犬にはクリスマス・プレゼントのおもちゃを二つ買ってあり、イブに最初のひとつをあげてあったのだけれど、すぐに飽きたね。チキンのほうが興味津々だったわけだ。
アドベント・カレンダーは全て開け終えた。終わってしまったがとても楽しかった。クリスマスにこういう楽しみ方があるとはね。
2016/12/25 日
さあチキンの続きだ。妻も仕事帰りにパンとチーズと生ハムとりんごサイダーを買ってきてくれた。青い染みがたくさん浮かんだ美味しいチーズで最高だった。買っておいたソーセージも焼いた。そんなわけでいろいろあったので、またチキンはそこまで食べ進まなかった。また明日食べればいいのだ。
犬には二つ目のプレゼントをあげた。しばらく遊ぶのだがやっぱり飽きて放置。
クリスマスと言えどサザエさんは相変わらずだったな。妻と長女がお節料理を作っている間、波平は婿と「わしらの仕事はもうないな!」「そうですねえお義父さん!」などとのんきにくつろいでいるのがまた相変わらずであった。
月曜までのイラストを仕上げて寝た。終わっちゃったなあクリスマス。
2016/12/23
『ローグ・ワン:スター・ウォーズ・ストーリー』(2016)感想
昨年のEP7『フォースの覚醒』がニュートラルなSW像を現代的に再解釈して見せた王道的作品だったのに対して、今作『ローグ・ワン』はそのよく知られている英雄譚を裏側から支えるもうひとつの魅力に迫った、まさに根っからの外伝作品と言える。EP7はファンのみならず、SWにそこまで馴染みのないひとも楽しめるようなキャッチーさやポップさが備わった「映画」だったと思うけれど、今作はまるでそれに対するカウンターのごとくこれっぽっちもビギナーに優しいところがなく、徹頭徹尾SWを愛するひとのために作られた「SWユニバース作品」になっている。外伝作品の大前提として本筋を知っている必要はあるだろうから、そのあたりは割り切ってしまっていいと思うし、作る側もある程度割り切っているからこそこれほどまでにおもしろいSW映画になったのだと思う。逆に言えばEP7は多方面に気を使いすぎた作品だったとも言えるが、今作でここまでファン向けに振り切れたのは、EP7で「SWってもともとはこういうものだよね」という普遍的な物語を展開した後だからこそだと思う。
もちろん世界観の追求だけでなく、外伝としての役割も申し分なく果たしている。時代設定はEP3とEP4の間(正確にはEP4の直前)に位置しており、前日譚であると同時に後日譚でもあるわけだ。EP3に登場した兵器が一線を退いて地味なところで使われていたり、レイア姫の養父であるベイル・オーガナや、モン・モスマがEP3に引き続いて同じ役者が演じているところなど、ところどころにプリクエル世界観の延長が感じられ、新旧三部作の間に本作が挟み込まれることで、両三部作の境界が融和してひとつのシリーズとして繋がってくるようにも感じられる。まさにブリッジとしての役割だね。
ベイルやモスマ以外にも過去の六部作から何人ものキャラクターが登場するが、その中でももっともアイコニックで有名なのはやはりダース・ヴェイダーだろう(C-3POとR2-D2も一応登場するけれどカメオ出演程度)。そのヴェイダーは今回初めてその住まいがお披露目され、入浴シーンまで見せてくれるのだけれど、そのヴェイダー城はどこか見覚えのある溶岩の川の上に建っている。あの惑星がEP3に登場した、ヴェイダーがあんな身体になった舞台であるムスタファーであるかどうかはまだわからないけれど、新しく登場した惑星には必ずテロップで名前とどういう特色を持つ星なのかの説明がある中、この火山の星には無いので、観客がすでに一度見たことのある星なのだろうと思われる。いずれにせよヴェイダーがわざわざ火山の中に住んでるという事実はなかなか胸にずっしり来る。きっと苦痛を忘れないように、そこから負の感情をたくさん引き出してダークサイドの力を追求するため、そして戒めのためにわざわざ住んでるのだろうなあと、ぼくは思う。その印象的なロケーションと、バクタ・タンクの中でうごめく手足と頭髪の無い痛々しい姿は、EP3で起こったことを思い起こさせるし、アナキン・スカイウォーカーはもういないのだと思い知らされもする。なによりすごいと思ったのは、EP3によって悪の権化から悲劇の男に印象が変わってしまったEP4のダース・ヴェイダーを、再び悪の権化に更新しているというところ。EP3の悲劇を思い出させながらも、この男は完全に悪に染まって久しいのだという事実を強くつきつけてきたクライマックスのシーンはそのままEP4の冒頭へと繋がるので、第1作目で初めて姿を見せた暗黒卿の印象を「当初のもの」に戻したと言え、さらにそこに深みすら与えている。この偉大すぎるキャラクターを再定義したのは本当にすごいことだと思う。
惑星の名前と役割がテロップで流れたり、そもそもオープニングタイトルがいつものやつじゃなかったり(もちろんあらすじスクロールもない。だってこの作品自体があらすじスクロールの中で語られたことだからね)、本筋のエピソードでは決して見られない禁じ手が多く観られたのも新鮮だけれど、個人的には全然違和感や抵抗はない。むしろ外伝映画だから柔軟にいろいろなスタイルで良いと思うし、一通りプロローグが描かれたあとにタイトルがどーんと出る流れなどは、SWの枠におさまらないイマドキの映画という感じで良かった。惑星のテロップも、数々のロケーションが次々に登場する中で混乱を招かないようにしていたし、テンポの良さにも一役買っていたと思う。EP7が「映画」であり本作は「SWユニバース作品」だと上で書いたけれど、EP7がメイン・エピソードとして従わなければならないルールがたくさんあったのに対し、本作は外伝で自由がきくので、そのあたりは一般的な「映画」に近いものがあったと思う。
他作品から登場するのは六部作映画の人物ばかりではない。同じく外伝として展開しているアニメ・シリーズ『反乱者たち』のキャラクターたちも本作にこっそり登場している。『反乱者たち』は本作より4年前の時代で、反乱同盟軍が結成される前のまだばらばらだった反乱者たちが帝国相手に戦いを挑むストーリー。ディズニー移行前に展開されていたやはりアニメ・シリーズの『クローン・ウォーズ』の後日譚でもあり、さらに今では旧設定扱いされてしまった昔のスピンオフ作品からのネタの逆輸入、ラルフ・マクォーリーやジョー・ジョンストンのコンセプト・アートを再利用してその絵画のような雰囲気を随所に取り入れるなど、様々なSWユニバースを包括するスピンオフのショウケースと言えるシリーズだ。特に個人的にはマクォーリー画を意識した線や背景などが興味深く、また最近ではレジェンズ(旧設定の世界観)における超人気キャラ、スローン大提督などの逆輸入によって、膨大なユニバースの特におもしろいところをどんどん映像に取り込んでいく様子が楽しい。
『ローグ・ワン』では、『反乱者たち』でおなじみの人物の名前が秘密基地のアナウンスで呼ばれていたり、マスコット的ドロイドのチョッパーが画面の端を横切ったり、主人公パーティが乗り込む宇宙船が基地の発着場や集結する艦隊の中に確認できる。時代設定は近いので、少しは『反乱者たち』のキャラクターが絡んだりしないだろうかと前から淡い希望を抱いては「まあ作品の趣が違うし無いだろうな」と思っていたので、まさかここまで登場させてくるとは思わなかった。とてもうれしい。スピンオフ群を包括する『反乱者たち』の要素が絡んでくることによって、いよいよ本作は映画世界とスピンオフ世界をも繋ぎ合わせ、ユニバースを統合してきている。
ぼくは映画としてのSWももちろん好きだけれど、ここまでSWに熱中したのはやはり膨大な設定が世界観に奥行きをつくっているからだった。小説、コミック、ビデオ・ゲーム、アニメーションなどによって展開された拡張世界は、映画を補完するだけでなく、ぼく自身の創作意欲をもかき立てた。思えばぼくは自分の創作意欲が刺激した作品をとことん好きになってきたと思う。たくさんある、それでいてわりと穴のあったりする愛らしい設定の数々は、ぼくに創作の楽しさを教えてくれた。自分でSW世界の住人を創作するのも、あったかもしれない戦いを創作するのも好きだった。だから『ローグ・ワン』を観て、映画として、SWとしておもしろい以上に親近感も湧いた。自分が思い描いていたものが映画になった、というのはちょっとオーバーかもしれないけれど、本筋じゃない、ジェダイもヒーローも出て来ない知られざる物語を映像にすると、こんな感じになるのかと感慨深かった。やっぱりSWはぼくを刺激する。ぼくもなにかを描きたいと思わせてくれる。
「映像の魔法」って言われて正直ぴんとこないことのほうが多かった。物心ついた頃から『トイ・ストーリー』や『ジュラシック・パーク』があった世代にとって、特撮や特殊効果は驚くべきもの、というよりは当たり前のように楽しめるものという感じが強いと思う。新しいプレイステーションが発売されるたびにグラフィックがリアルになったと騒がれるが、そういうのも別にそこまで感動はなかった。そりゃあ時代を経てどんどん綺麗になっていくのは当然だろうと、そんな可愛げのないことを思ったものだ。そう、ぼくにとってCGは魔法というより、年々綺麗になっていくもの、という感じだった。年々本物に近づいているものという感じ。むしろ進歩しないほうがおかしいという頭だから、全然感動がないわけだ。
しかし、故人が動いて話すのを新作のスクリーンで観られるとなれば別である。死者を蘇らせるという、人類の禁忌が破られたところでようやくぼくは映像の魔法というものがなんなのか理解した。かつてピーター・カッシングはシャーロック・ホームズを演じた際に「生きて呼吸するホームズ」と評されたらしいが、本作のターキン総督はまさに生きて呼吸するピーター・カッシングだった。よく見ればその表情の動きはどこかアニメーション的で、リアルなゲームのキャラという感じは確かにする。けれど、カメラが引いて初めてターキンの全身が映ったとき、思わず涙が出た。ターキンが、カッシングがそこに立っている。その佇まいを見て、大好きなひとと再会できたかのように思えたのだ。
このターキン総督を描くにあたって、EP4だけではサンプルが少なかったと思う。EP4には全身が映って歩いたりするシーンはないから、他の作品から動きや佇まいを研究する必要があるし(正確にはこのターキンは丸ごとフルCGではなく、ガイ・ヘンリーという『ハリー・ポッター』シリーズへの出演でも知られる俳優が演じており、顔にCGを重ねているらしい)、顔にしてもEP4以外の作品を参照する必要があったろうと思う。自分のイメージするターキンの顔とは若干違って見えたという意見が希にあるのは、おそらくそのせいだと思う。ハマー作品など(それこそホームズもあったかな?)たくさんの他作品から引用して構成したカッシングなので、EP4のターキンとは違って見えてもおかしくない(もちろん実際にどういうプロセスで作られたのかまだわからないけれど)。でも、キャラクターとしてのターキンよりも、俳優としてのカッシングを追求したのなら、やっぱりそれはすごいことなんじゃないかな。CGの俳優に演技をさせるっていうのは、当のジョージ・ルーカスが繰り返しやりたいと言っていたことだ。ほかでもないSWで映像の魔法を体験できたのはとてもうれしい。ようやく「光と魔法の工房」という意味がわかった。
土壇場になってかなりの部分が撮り直されたという騒動があって、トラブルも多かったみたいだし、最終的に再編集で今の形になったとは言え、画の中のことについてはやはりギャレス・エドワーズのセンスがものを言っているのではないかなと思う。『GODZILLA ゴジラ』のときにすでにミリタリー描写へのこだわりようは伝わってきたから、今度もSWの世界で軍隊描写にマニアックさを出してくるだろうなと思っていたけれど、想像以上だったと思う。武器の持ち方構え方、ディティールなどもそういうのが好きなひとなんだろうなあと思えたし、その趣味がSW世界を描く上で思いの外親和性が高いのだ。それにミリタリー趣味以上に、SWへの愛が強い人なんだなということがとても伝わってくる。センスだとかよりも、愛が一番重要なのかもしれない。
今作ではシリーズにおけるアイコニックな超兵器デス・スターがテーマなのだけれど、その存在は自然とぼくらの世界における核兵器と重なってくる。マッツ・ミケルセンの演じるゲイレン・アーソは惑星を丸ごと破壊できるデス・スターのレーザーを開発する科学者で、ロバート・オッペンハイマーを意識していると言われているし、劇中でデス・スターが出力を弱めたレーザーで地表を攻撃すると、まるで原爆のような爆風が上空高く昇っていく。EP4のオルデラーンの破壊は一瞬で済んだけれど、これは一瞬では終わらない。本作では惑星はひとつも破壊されないけれど、地表にある都市や地形がじわじわと破壊されていく様はとても生々しくて恐ろしいし、現実の兵器にも通じる。ギャレス・エドワーズは『GODZILLA ゴジラ』で描ききれなかった核兵器の恐ろしさをも、本作に盛り込んだのかもしれない。スカリフという、モルディブで撮影された美しい海と点在する砂浜が特徴的な惑星で、デス・スターの放ったレーザーが炸裂して海の上に眩い光のドームが浮かび上がるシーンが、どこかビキニ環礁での核実験を彷彿とさせるのは偶然ではないと思う。
お気に入りのキャラクターはたくさんいる。ベン・メンデルソーン演じる悪役クレニック長官、ディエゴ・ルナ扮するキャシアン・アンドー、ドニー・イェンのチアルート・イムウェ。スカリフ専属のスカリフ・トルーパーも、新鮮だがストームトルーパーの一種だとわかるデザインで好き。過去作からの登場はターキンやヴェイダーはもちろんだが、ドクター・エヴァザンとポンダ・バーバの二人組みの登場もうれしかったし、レイア姫の船ブラッケードランナーの船長であるレイマス・アンティリーズの姿も見られて良かった。このあたりはオタクへのサービスという感じかな。改めてお気に入り度が上がったのは、やっぱりブラッケードランナーの反乱軍兵士たち。白くて大きなヘルメットに襟付きシャツと黒いベストという、EP4の冒頭でばったばったと倒されてしまう名もなきヒーローたちが、実はダース・ヴェイダーの行く手を阻むために、「希望」を紡いでいくためにあれだけ犠牲になっていたとは(「犠牲」もまた本作の重要なテーマだろう)。
第一作、EP4『新たなる希望』をよりドラマチックに深みあるものに補完するだけでなく、SWユニバースとはなんなのか、外伝映画になにができるのかを見せつけてくれた作品になっていると思う。今後も広がり、また深まっていくSW世界の行方が楽しみになった。なによりぼくの創作意欲が燃えてきたのがとてもうれしい。
本筋エピソードの公開と外伝の公開を交互にやっていくいうのは、もしかすると作品を作品で補強してシリーズを掘り下げるだけでなく、誰でも楽しめる作品と、ファン向けの作品という二本の道を用意することでみんなが楽しめるようにするってことでもあるのかもしれないなあ。
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