見ての通り二次創作というか、パロディというか、ファンアート的絵が多い。好きだというのを表現したいという気持ちが強い。その上に成り立っているから、基本的に意地悪な感じのパロディはやらないし、自分なりに愛は表現しているつもりだ。あくまでライフワークの範囲として、たとえばこの絵を勝手にポストカードにして売ったりはもちろんしない。売って欲しいという声もたまにあるがその旨を説明して丁重にお断りしている。そこはファンアートを作る上でのマナーだと思う。というかルールか。とは言え、これらのファンアートはぼくがどれくらい描けるのか、どういうふうに描けるのかというサンプルにもなっているので、間接的にはこれで仕事を得ていると言うことはできる。スヌーピーにしろ『スター・ウォーズ』にしろ、ファンアートから公式的な仕事へと発展した大変幸福なケースもあるので、ファンアートで好きを表現することには意味があると思う。
ただ、そればかりだと自由に使うことのできる絵が少なくなる。たとえば展示の依頼があった際、版権に関係ないプレーンな自作が少ないと結構困る。グッズの依頼があったときも同様。わりと映画や既存キャラクターの絵も展示に組み入れてしまうひとがいるけれど、そういうひとも基本の自作がある程度あるからそれができるわけで、とにかくぼくはバランスがあまりよくないのではないかと思う。自分を構成している好きなものを並べて、それによって自己紹介をしているわけだから、それはそれで悪いことではないのだが(前述のような公式への発展ケースもあるし)、オリジナル作が少ないことに対してどこかで負い目のようなものを感じているのは確か。じゃあ無印のものをどんどん描けばいいのだが、さて、いざ映画やキャラクターと全然関係ない、自分による絵を考えるとき、手が止まる。なにを描けばいいのか。自分の世界観とは何か。オリジナルとは何か。身動きが取れなくなる。批評脳のようなものを育てすぎた結果、ひとの作品について分析することに慣れてしまったため自分の創作が全くできなくなるというのに近いだろうか。いや、そんな混み入った話でもない。ただ単純に描くものがないだけ。
じゃあオリジナルとは何だろうか。この言葉、軽々しく使われてはいるがなかなか重く感じる。オリジナル。果たして完全に自分のオリジナルだと胸を張って言えるものなどどれだけあるだろうか。どれだけ描けるだろうか。なんの版権にも触れない普通の絵って何だろう。月並みな発想だがたとえば風景画。風景画は目の前の風景を描いたもので、その風景はそいつが自力で作ったものではない。山々ならそれは自然が作り出したものだし、田園ならお百姓が作ったもので、街並みは大勢の人間が発展させたものだ。タイムズスクエアの絵を描くとする。そこにはおびただしい数の広告や看板が並んでいる。コカ・コーラの看板も風景の一部だが、当然描き手のオリジナルではない。ブロードウェイ舞台の広告やマクドナルドのアーチも同様。そのまま描き写すひともいれば、色彩の組み合わせですぐに連想できるほど有名なものなら、細部はごまかしたり、あるいはちょっとアレンジしてコカ・コーラやマクドナルドそのものではなくしたりもする。レゴ・ランドのジオラマの街の看板もそういう工夫がされていたね。でも結局それだって言ってしまえば街並みのパロディ化だ。なにか自動車を描く。自動車は自動車メーカーの作品だ。食器を描く。それもまた陶芸家やメーカーの作ったもの。どこのメーカーでもない、普遍的なイメージでマグカップを描く。四角形の横に半円をふたつ重ねた簡単なものだ。しかし、それもまたマグカップという既存の形に過ぎない。元からあるイメージで、マグカップを描こうとしたひとなら必ず描く形である。それはオリジナルか?と、ここまで来るともはや屁理屈である。つまり、オリジナルとはモチーフの問題ではなく、描き方の問題なのだ。線や色、デフォルメ、遠近感の意図的な無視、あるいはどこまでも写実的な描画、その表現の仕方にオリジナリティがくっついてくる。タッチ、なんていう簡単な言葉で片付けてもいいが、とにかくモチーフがどうこうという話ではない(著作権の話はまた別)。
ファンアートは好きだという気持ちを表現できるし、運が良ければ(ものが良ければ)公式側から引っ張り上げてもらえる。オーケー、それはいいだろう。そこには意義があるし、そういうケースがある以上公式側も勝手に金銭を得ない限りファンアートをダメとは言っていない(黙認に近いだろうと思う)。でも、全部二次創作だと前述のような弊害も出て来る。別にそこまでプライドが高いわけでもないので、いつまでもひとの作ったものの魅力を借りながら描いていくことに抵抗はそれほどない。ただやっぱり、自分自身を維持するためにも、あるいはもう少し先へ進めるためにはプレーンな自分のモチーフは必要になってくる。両立できればそれが一番いい。やっぱりSWの絵を描くのは楽しいし、描いてないと具合が悪くなるし。そもそもぼくがこれくらい仕事ができるようになったのも、映画や本のイラストレビューを描き始めたからだった。それよりも前、全然仕事がなかった頃というのは変に自分の絵にこだわりながら、それでいてファン的感覚もあって、それを素直に表に出せなかったものだから、中途半端だった。そんなことだからどれだけ描きためても仕事に繋がるような作品群が出来上がらない。どれくらい描けるのかが伝わらないからね。いきなり最初から「ぼくの考えた宇宙人」の絵では見せられた側も困るというものだ。それで、誰もが知っている普遍的作品の引用という方向にシフトしていった。「それっぽいもの」を描くことから、「そのもの」を自分の線で描くことにしたわけだ。対象がお馴染みのものなら画力が伝わりやすい。商業イラストレーションというのは一概には言えないにせよ、要望されたもの、あるいは商品などすでに世の中にあるものを描く場合が多い。もちろん映画も定番のテーマだ。だから、すでにあるものを描く、というのはイラストレーターとしては別にいけないことではなく、むしろ正攻法のひとつだったのだろう。とにかくお金が無くて途方に暮れていたので、いろいろと焦って悩んで、無理なこともしたものだけれど、結局は昔から慣れ親しんだ「好きなもの」が道を開いてくれた。そういう経緯がったから、ぼくはファンアートを軽視できないのだ。
語弊を恐れずに言えばニセモノの魅力みたいなものはあると思う。もちろん勝手にディズニーのグッズを作ってネットで売っているのを肯定はしない。趣味に毛の生えた小遣い稼ぎならまだしも(それだって結構苛立つが)、規模によっては本物が被る被害も大きいだろう。本物が得るはずだった対価を奪っているわけだからね。ただ、アジアの露店(日本にだってある)で売られているニセモノのロゴが入ったTシャツを、けしからんと思うよりは、可笑しくて微笑ましく思う感覚はどこかにあるし、現にパチモンのコレクターは多い。オフィシャルな商品でも最近だと「これじゃない」系のデフォルメが施されたものがあるよね。ニセモノの言い知れぬゆるさや可笑しさみたいなものは、しかるべき手順を踏めばアレンジとして成立するのだ。ゆるさにオリジナリティが生じていることもあるはずで、ぼくのファンアートにいまひとつ足りないのは、そういうデフォルメの部分ではないかと思う。いや、十分奇妙に解釈したSWを描いているとは思うのだが、まだまだ対象をしっかり描くこと(それも大切なことなんだけど)に集中しすぎていて崩す余裕があまりない。そこはもしかしたらオタク的細かさのせいなのかもしれない。もう少しニセモノのゆるさを出して、品良く崩すことができれば(崩す、という言葉には多少ネガティブな印象があるが、言い換えれば柔らかくすることだ)、モチーフがなんであれもう少しオリジナリティが出るのではないか。それを発展させていくことで、映画やキャラクターと関係ない、自分のモチーフがようやく生まれて来るのではないか、とちょっと思う。最初は中途半端に「それっぽいもの」を描いていて、それが素直に「そのもの」を描くようになり、今度また「そのもの」から「別物」、つまり自分を作ろうとしている。回り道になったのかもしれないが必要なプロセスだったとは思う。