2018/12/16

『最後のジェダイ』から一年

 この一年のあいだにそれなりにいろいろ考えたり思ったりしたけれど、やっぱりぼくは『スター・ウォーズ』と名がついて発表されたものは大前提として受け入れて、受け入れた上でここのこの部分がどうのこうのと考え続けるのが好きなんだな。そもそも作品を受け入れるか受け入れないか、否定するか肯定するかみたいな次元でストップするのは残念過ぎるし、SWオタクが気にするのって作品の正当性とか是非とかよりもその中に出てくる技術とか仕組みとかそういう部分じゃなかったっけと少し思ったりもする。それも、これはおかしいおかしいではなく、おかしくならないように理屈付けるのが醍醐味のような気もする。

 いずれにせよぼく自身はあまり作品そのものに対する批評的な脳は持たないようにしたいし、自分だったらこうする、みたいなのもやめておこうと思う。創作は好きだけれど、それはまた別の話で、そういうのはテレビでスポーツ見ながら俺が監督だったらどうのこうのと文句を言ってるオヤジと変わらなくて(奇しくも監督というところでも同じ)、あんまりかっこうのいいことではない。かっこうの悪いことはあんまりしたくない。そりゃ、自分が思うストーリーとか、観たいものは結構あるし、創作も絵を描くのも好きだから、自分でリイマジネーションしてみたくもなるんだけど、それはそれとして、大前提としてひとさまの作ったものや仕事にケチはつけるべきではないんだよ。

 出されたものは黙って観る。ひとの作品を好き勝手に作り変えるよりは、ひとの作品を受けたあとで、それを尊重しながらそこからなにかを派生させるほうがいいと思う。たとえば今回で言えばローズのバックグラウンドを自分なりに考えてみるとか?ぽっと出てきてさあっと去ってしまったDJの経歴とか?本物のマスター・コードブレイカーの普段の仕事ぶりとか?EP7のラストでは全然違う鳥が飛んでたのに直後のEP8で島にはポーグしかいなかった理由を無理やり考えてみるとか?そういう感じ。そうありたい。あと登場人物や監督の性別、人種のこととかよりもデス・スター論争みたいなものを論じたい。その方がSWだと思う。