2018/12/31

今年は変化が多かった

 今年はとにかく変化が多かった。まず子どもの誕生。そしてそれに伴う引っ越し。新しい生活と仕事場。それらの変化は自然と仕事のスタイルにも影響して、進め方や描き方もそれなりに変わったと思う。このブログをできるだけたくさん書くという習慣も変化のひとつだし、ブログへの集中はまたほかのSNSの扱い方も変えることになった。サイト上のことでいちばん大きかったのは描いたものにキャプションをつけるのをやめたこと。それによっていちいちタイトルやテーマを意識せずに伸び伸びといろいろなものを描けるようになった。タイトルはおろかコメントをなにもつける必要がないとなれば、結構題材選びに抵抗がなくなるものだ。今まで描かなかったタイプのものにも触手が伸びる。そしてそれは、新しい仕事をもたらす。いい傾向だと思う。今まではなにがしたいのかわからない感じに見えやしないかというような心配があったけれど、そんなのは余計だ。それにたとえそうだとしても、なにがしたいかわかりやすいよりも、おもしろいのではないか。少しめちゃくちゃな感じにしていいと思う。

 そう、今まであまりにも真面目に描きすぎた。もちろん仕事は真面目にやるが、それだけの意味ではなく、どこか窮屈な感覚で描いていたように思う。しっかり描けるというところを評価してもらえているのは十分わかっているし、基本は大変重要なことだけれど、ぼくには勢いや柔らかさといったようなものが、いまひとつ欠けていたのかもしれない。と、こうして書いているこの文章も堅苦しさがあるんだけど、とりあえず気にしない。とりあえず気にしないというのも今年なんとなく覚えたところでもある。この場はこの勢いに任せて書き散らす。矛盾しているように見えるけれど、真面目すぎようが遊びがあろうがとりあえず勢いとノリで作り上げてしまうのがいちばん大切。つまりは細かいことは気にしなくていいということなんだ。

 少し軽く描けるようになると、仕事の方も余裕が出てきた。軽く描く、というのは決して手を抜いているわけではないが、気持ちが楽になったのは確か。仕事のやり方そのものにも変化があったが、これはなんと言ってもiPadとアップル・ペンシルのおかげ。下書き作りの自由度と手軽さが断然大きくなった。もちろん紙に描く習慣は忘れていない。いちばん最初のアイデアやイメージは紙に描き出して膨らます。そのあとiPadのペイントアプリである程度まとまったスケッチを描く。それをPSDデータにして母艦のiMacに移し、フォトショップで本作業に入る、という寸法だ。ぼくは下書きにいちばん時間がかかるので、その行程がいくらでもやり直しや編集のきく形にできたのは大変ありがたく、都合がいい。ツールが違うだけで、紙の上ではやる気になれなかった描き方も試せるようになって、そういうのも絵に変化をもたらしたと思う。

 そういう作業への時間のかけ方をいろいろ調整するようになったのは、やっぱり子どもが生まれたからではないかなと思う。前のようなぐだぐだした時間のかけ方はできず、なにごともめりはりをつける必要が出てきたわけ。まだまだそんな器用なことはできないし、別に器用にならなくなてもいいんだけど、少しずつ自分でコントロールはできるようになり始めているんじゃないかなと思う。妻に言わせればまだまだ全然だろうけれど。自分では確かに変化を感じる。

 生活の変化、仕事の変化、作品への変化。そして、当然ながら同時に思考も変わってきたように思う。根っこの面倒な性格は相変わらずだが、なんとなく前よりは展望のあるものの考え方ができるようになってきていて、ちょっとしたことでストレスを感じることも減った。いや、感じるときは感じるんだけど。それでも、嫌なことがあっても、まあそんなものだろう程度にものごとを捉えられるようになったし、つまらないことに頭を悩ますよりは、楽しく好きなことに頭を使おうと思えるようになった。幸運なことにぼくには大好きな世界観があるし、また自分でも創作をしたいという欲求がある。空想の世界に逃げ込むことは往々にしてネガティブに扱われがちだが、ぼくのような人間にとってはそれはこの上ない特効薬にして大きな救いなのである。負の感情を増幅させるよりは、同じ脳みそを駆使して好きなものへの愛情を深めるほうが、自分にとっては生産的である。なんであれまずは肯定の精神を持って対峙するよう意識するだけで、気は楽になる。ひとと話していて、なんだか自分とは相容れない意見が飛び出してきても、とりあえずは「そうですね」の一言を返すという、例のあれだ。よく言われていることだけれどよく言われているなりにこれは効果的だと思う。まあ、なにごとにも限度はあるし、多用しすぎるとなんだか上辺だけの薄っぺらい関係になりそうだが、まずは自分を守るため、自分をコントロールするためのツールにはなる。だいたいその「そうですね」の一言には中身がなくて当たり前なのだ。エアバッグのようなものなのだから。ぼくは「そうですね」よりは「なるほど」のほうが使いやすいんだけどね。だからそう、大抵のことは「なるほど」と思って眺めている。今のところは。

 友達と意見がぶつかりそうになったときは、「なるほど」と思うと同時に、別に言い負かそうとか思わないようにする。言い負かすというか、自分の考えに納得してもらいたい、その考えを改めてほしいとか、そういうのを思わないようにする。そもそもそういう態度が友人を対等に扱っていない証拠だし、正しさをふりかざすなんてもってのほかだ。そいつが一般的に見てかなりヤバいこと言っていたとしても、多分それはそいつが自分で正すべき間違いなのだろう。彼が自分で対処すべき問題であってぼくがどうこうすることではない。余計なお世話だ。そりゃ、ことによれば友達として言わないといけないこともあるんだろうけれど(「君、それは犯罪だぞ!」)、そういうのは極端な話で、あくまでもこの場合は微妙な問題を巡る意見の違いのことで、ほっといてもお互い痛くもかゆくもない場合。そういう人間の違いは、むしろおもしろがる程度がちょうどいいのだろう。全てを共有する必要は全然ない。そういうことに思い至るまではかなり辛いことも多かったけれど、思い至ると気は楽だ。こういう変化も今年の大きいところだと思う。

 そういうのは全部、自分がもともと好きだったものを、より掘り下げて愛着を深めることに意識を向け始めたからかもしれない。『スター・ウォーズ』は当然ながら、「ハリー・ポッター」、「ポケモン」、レゴ・ブロック……。子どもの頃から好きなものを見つめ直すことで、初心に帰る。このことがかなりぼくの心の平穏を保っていると思う。この根幹があるからこそ、新しいものを取り入れることができる。今まで知らなかったものに手を伸ばせる。長らく自分のコアを作らなければと思っていたけれど、コアはとっくの昔に出来ていたわけで、それを顧みずに変に背伸びしていただけなんだな。自分らしさとはなにか、それは子ども時代にあるのだ。

 それで、どうして子ども時代を思い返すようになったかというと、やっぱり子どもが生まれたからだと思う。どうしたってそこに繋がっていく。そういうわけで2018年だった。そうそう、ブログの記事数は過去最多の一年だった。これからもどんどん書いていきましょう。