2018/12/31

今年は変化が多かった

 今年はとにかく変化が多かった。まず子どもの誕生。そしてそれに伴う引っ越し。新しい生活と仕事場。それらの変化は自然と仕事のスタイルにも影響して、進め方や描き方もそれなりに変わったと思う。このブログをできるだけたくさん書くという習慣も変化のひとつだし、ブログへの集中はまたほかのSNSの扱い方も変えることになった。サイト上のことでいちばん大きかったのは描いたものにキャプションをつけるのをやめたこと。それによっていちいちタイトルやテーマを意識せずに伸び伸びといろいろなものを描けるようになった。タイトルはおろかコメントをなにもつける必要がないとなれば、結構題材選びに抵抗がなくなるものだ。今まで描かなかったタイプのものにも触手が伸びる。そしてそれは、新しい仕事をもたらす。いい傾向だと思う。今まではなにがしたいのかわからない感じに見えやしないかというような心配があったけれど、そんなのは余計だ。それにたとえそうだとしても、なにがしたいかわかりやすいよりも、おもしろいのではないか。少しめちゃくちゃな感じにしていいと思う。

 そう、今まであまりにも真面目に描きすぎた。もちろん仕事は真面目にやるが、それだけの意味ではなく、どこか窮屈な感覚で描いていたように思う。しっかり描けるというところを評価してもらえているのは十分わかっているし、基本は大変重要なことだけれど、ぼくには勢いや柔らかさといったようなものが、いまひとつ欠けていたのかもしれない。と、こうして書いているこの文章も堅苦しさがあるんだけど、とりあえず気にしない。とりあえず気にしないというのも今年なんとなく覚えたところでもある。この場はこの勢いに任せて書き散らす。矛盾しているように見えるけれど、真面目すぎようが遊びがあろうがとりあえず勢いとノリで作り上げてしまうのがいちばん大切。つまりは細かいことは気にしなくていいということなんだ。

 少し軽く描けるようになると、仕事の方も余裕が出てきた。軽く描く、というのは決して手を抜いているわけではないが、気持ちが楽になったのは確か。仕事のやり方そのものにも変化があったが、これはなんと言ってもiPadとアップル・ペンシルのおかげ。下書き作りの自由度と手軽さが断然大きくなった。もちろん紙に描く習慣は忘れていない。いちばん最初のアイデアやイメージは紙に描き出して膨らます。そのあとiPadのペイントアプリである程度まとまったスケッチを描く。それをPSDデータにして母艦のiMacに移し、フォトショップで本作業に入る、という寸法だ。ぼくは下書きにいちばん時間がかかるので、その行程がいくらでもやり直しや編集のきく形にできたのは大変ありがたく、都合がいい。ツールが違うだけで、紙の上ではやる気になれなかった描き方も試せるようになって、そういうのも絵に変化をもたらしたと思う。

 そういう作業への時間のかけ方をいろいろ調整するようになったのは、やっぱり子どもが生まれたからではないかなと思う。前のようなぐだぐだした時間のかけ方はできず、なにごともめりはりをつける必要が出てきたわけ。まだまだそんな器用なことはできないし、別に器用にならなくなてもいいんだけど、少しずつ自分でコントロールはできるようになり始めているんじゃないかなと思う。妻に言わせればまだまだ全然だろうけれど。自分では確かに変化を感じる。

 生活の変化、仕事の変化、作品への変化。そして、当然ながら同時に思考も変わってきたように思う。根っこの面倒な性格は相変わらずだが、なんとなく前よりは展望のあるものの考え方ができるようになってきていて、ちょっとしたことでストレスを感じることも減った。いや、感じるときは感じるんだけど。それでも、嫌なことがあっても、まあそんなものだろう程度にものごとを捉えられるようになったし、つまらないことに頭を悩ますよりは、楽しく好きなことに頭を使おうと思えるようになった。幸運なことにぼくには大好きな世界観があるし、また自分でも創作をしたいという欲求がある。空想の世界に逃げ込むことは往々にしてネガティブに扱われがちだが、ぼくのような人間にとってはそれはこの上ない特効薬にして大きな救いなのである。負の感情を増幅させるよりは、同じ脳みそを駆使して好きなものへの愛情を深めるほうが、自分にとっては生産的である。なんであれまずは肯定の精神を持って対峙するよう意識するだけで、気は楽になる。ひとと話していて、なんだか自分とは相容れない意見が飛び出してきても、とりあえずは「そうですね」の一言を返すという、例のあれだ。よく言われていることだけれどよく言われているなりにこれは効果的だと思う。まあ、なにごとにも限度はあるし、多用しすぎるとなんだか上辺だけの薄っぺらい関係になりそうだが、まずは自分を守るため、自分をコントロールするためのツールにはなる。だいたいその「そうですね」の一言には中身がなくて当たり前なのだ。エアバッグのようなものなのだから。ぼくは「そうですね」よりは「なるほど」のほうが使いやすいんだけどね。だからそう、大抵のことは「なるほど」と思って眺めている。今のところは。

 友達と意見がぶつかりそうになったときは、「なるほど」と思うと同時に、別に言い負かそうとか思わないようにする。言い負かすというか、自分の考えに納得してもらいたい、その考えを改めてほしいとか、そういうのを思わないようにする。そもそもそういう態度が友人を対等に扱っていない証拠だし、正しさをふりかざすなんてもってのほかだ。そいつが一般的に見てかなりヤバいこと言っていたとしても、多分それはそいつが自分で正すべき間違いなのだろう。彼が自分で対処すべき問題であってぼくがどうこうすることではない。余計なお世話だ。そりゃ、ことによれば友達として言わないといけないこともあるんだろうけれど(「君、それは犯罪だぞ!」)、そういうのは極端な話で、あくまでもこの場合は微妙な問題を巡る意見の違いのことで、ほっといてもお互い痛くもかゆくもない場合。そういう人間の違いは、むしろおもしろがる程度がちょうどいいのだろう。全てを共有する必要は全然ない。そういうことに思い至るまではかなり辛いことも多かったけれど、思い至ると気は楽だ。こういう変化も今年の大きいところだと思う。

 そういうのは全部、自分がもともと好きだったものを、より掘り下げて愛着を深めることに意識を向け始めたからかもしれない。『スター・ウォーズ』は当然ながら、「ハリー・ポッター」、「ポケモン」、レゴ・ブロック……。子どもの頃から好きなものを見つめ直すことで、初心に帰る。このことがかなりぼくの心の平穏を保っていると思う。この根幹があるからこそ、新しいものを取り入れることができる。今まで知らなかったものに手を伸ばせる。長らく自分のコアを作らなければと思っていたけれど、コアはとっくの昔に出来ていたわけで、それを顧みずに変に背伸びしていただけなんだな。自分らしさとはなにか、それは子ども時代にあるのだ。

 それで、どうして子ども時代を思い返すようになったかというと、やっぱり子どもが生まれたからだと思う。どうしたってそこに繋がっていく。そういうわけで2018年だった。そうそう、ブログの記事数は過去最多の一年だった。これからもどんどん書いていきましょう。

2018/12/29

最初のクリスマス


 子どもが生まれて最初のクリスマス。当然まだなにもわからないだろうけれど、わからないうちからクリスマスの楽しさは感じてほしい。家にあるものを並べるだけでもなんとなくクリスマスらしくなった。自分のコレクションもそうだけれど、クリスマスの飾りこそいくらでも世の中に溢れているので、こだわって厳選して集めたいところ。雰囲気優先なので、本来はどうかはとりあえず気にしない。自分なりのクリスマス、ジャック・スケリントン流である。


 ベビー・グルートは去年のクリスマスのあとに届いたので、ずっと考えていたこれがこれがようやく出来た。もう少し細かく小さい電飾でもいいかもね。急に思い出してやってみたので、来年は腕からオーナメントを下げたり、もう少し遊んでみよう。グルートには少し気の毒だが。こういうとき大きめのおもちゃは存在感があっていい。子どもも大きいものには興味津々だった。


 もう背中がしっかりしてきたので、自分で座っていられるのだ。着ているのはGAPの子供服で、クリスマス風のSW柄パジャマ。ちょうど去年生まれる前に買ったものだけれど、すでにぴちぴちだった。今回限り。


 座ってこちらに背を向けて、なにかに熱中している姿はいい。なにをしているかというと、クリスマスのビスケット缶を叩いている。



 初めてのクリスマスの贈り物はテディベア。少しリアル造形のものを選んだ。動物っぽいところがいい。首や手足が回るのでポーズもつく代物。マズルが長いと途端に犬っぽく見える。案の定犬がこれを狙っていて隙あらば口でくわえて奪おうとしている。


 ハロウィンの際に買った『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のツリーは、そのままだと少し寂しい感じだったので、手製でオーナメントと、新しく買った赤い玉を追加。手描きのコウモリがいい感じ。結構スカスカなのでもっとたくさんぶらさげたほうがいいかもしれない。


 コロンビアのエンパイア・クルー・ジャケットでもう十分だったんだけど、レゴは欲しいということで、自分には「ハン・ソロのスピーダー」。ルークのランドスピーダーを分解してしまっているので、また作って並べたい。スピーダーをたくさん作ってもおもしろそう。というわけで我が家のクリスマスでした。

2018/12/28

営業報告


 今年最後の営業報告です。いつのまにかひと月ごとにまとめて書くようになってるけど、来年からもそんな感じでいいかも。
  「TRANSIT」第42号の韓国・北朝鮮特集、「History of the Koreans」のページにカットを書いています。どういった経緯で今の状態に至るのかをフラットに紐解く内容で、各時代ごとにイメージが挿入されています。
 



 いろいろと難しいところもあるけれど、少し和らげるような絵になったかなと思います。TRANSITは前号もカットを担当しましたが、その厚みに驚きます。読むところが多い雑誌は好きです。今号は付録のハンドブックなども興味深いです。




 「SPUR」2019年2月号の映画レビュー連載では、『バスキア、10代最後のとき』を紹介しています。ジャン=ミッチェル・バスキアと同棲していた女性を中心に同時代人たちのインタビューで構成されるドキュメンタリー。とにかくどんどん表現を変えて、いろいろな意味で一箇所に留まらないひとだったんだなあ、ということがわかります。バスキアと面識もある監督サラ・ドライバーはジム・ジャームッシュのパートナー。ふたりでデートしてるときにふらりと目の前にバスキアが現れたときのエピソードがかわいらしい。
 やり方は絞らないほうがいいんだなと思いました。というわけで今年の仕事はこれくらいにして閉店。また来年。

2018/12/24

『Merry Christmas! 〜ロンドンに奇跡を起こした男〜』(2017)


 今お馴染みのクリスマス、つまりはぼくが好きなクリスマスというのはこの時代から始まったものらしく、その歴史は比較的新しい。キリスト教のお祝いだけでなく、北欧の冬至のお祭りの要素も加わって今の姿となっていて(クリスマス・ツリーなんてその代表で、キリスト教とは無関係の北欧由来のものだ)、そう考えるとぼくたちが本場としてイメージしているクリスマス像も結構カスタマイズされているというわけだ。起源や経緯を忘れてしまうのはよくないけれど、しかし国や地域によって祝祭の形が変わっていくのはおもしろく、またそうやって広がっていくものもあるのではないかと思う。廃れていたクリスマスのお祝いを再発見したディケンズは、クリスマスを発明するとともに、救っていたのかもしれない。自分に合ったクリスマスを楽しみたい。

 「クリスマス・キャロル」そのものは映画も観たことあるけれど、一番イメージが強いのはディズニーのアニメ『ミッキーのクリスマスキャロル』だ。スクルージをスクルージ・マクダック、マーレイをグーフィ、ボブ・クラチットをミッキーといった具合にみんなディズニーキャラクターに置き換えられたもので、親しみを持って名著の内容を知ることができた。ちなみにスクルージ・マクダックの名前はこのスクルージが由来になっている(よくお金を数えてるもんね)。お気に入りはグーフィー扮するマーレイだった。スクルージの前に現れる昔の商売仲間の幽霊マーレイ。グーフィーの特徴である長い手足がおどろおどろしいポーズを取り、身体中に鎖が巻きついたその異様な姿が、子供心に印象的だった。というわけで本作でもマーレイがお気に入りだ。

2018/12/23

記事数100超える

 ついに今年の記事数が100件を超えた。という報告まで記事数稼ぎに見えなくもないが、とにかくたくさん書きたいので書くまで。内容がなんであれたくさん書いたということが数字に表れるのは普通にうれしい。先月からちょっと忙しくて落ち着いてブログ書く余裕なかったけど、落ち着かなくともなんとなく走り書きができるくらいにはなりたい。殴り書きでもいい。だらっとした感じでさらっと書きたい。当然そういう書き物には資料を集めて書くみたいなプロセスが非常に煩わしく、その時点でもはや気軽ではなくなる。調べている間に時間がどんどん過ぎていって息抜きどころではなくなる。前にも書いたようにちょっとした短い時間で書き上げるには、そういう資料性みたいなものはとりあえず考えなくていいと思う。あまりにも間違った知識や情報は書くべきではないんだけど、ちょうどいいところでテンポを大事にしたい。

 絵を描くときもぼくはちょっと資料に依すぎるところがあるから、もう少し想像でカバーしてもいい気がする。まあそれも間違っていない範囲で、ということだけれど。なにからなにまできっちり再現しようとしてしまうのは、見たひとに無知だと思われたくないという気持ちの表れなのだろうか。そしてそれは、逆に自分がひとの絵を見たときにそう思うことがあるということなのだろうか?いずれにせよそういうものを気にしないようになれば、またひとつ変われるような気がする。

銀河のクルマたち


 ランドスピーダーは至高。基本的にみすぼらしいラーズ農場にあってとてもスマートなフォルム。そこにおなじみの汚れや傷みが施されていて最高にクール。未来カーに見えるのに古びて見える。オリジナル三部作の雰囲気を象徴している。片側のエンジンのカバーが外れているのもとても良い。


 「アナキンのエアスピーダー」という名称になっているが、厳密にはアナキンのものではない。パドメを襲った暗殺者を追うときに駐車場にあった中からアナキンが拝借したものである。とは言えアナキンが乗るメカは基本的に黄色い。EP1のポッドレーサーも黄色い部分が際立っていたし、ナブー・スターファイターはあの通り真っ黄色、EP2で乗るこのスピーダー、EP3では黄色いジェダイ・スターファイターに乗る。さらにアナキンでなくなり、ダース・ヴェイダーとなった途端、緑色の戦闘機に乗り込む。この黄色い乗り物のセオリーは、『アメリカン・グラフィティ』の主役車である黄色いホットロッドを思い起こさせる。特にこのエアスピーダーなんかああいうアメ車の雰囲気がある。EP2はほかにも『アメグラ』っぽいダイナーが登場し、足が車輪になったドロイドのウェイトレスは言うまでもなくローラースケート・ウェイトレスのSW版だ。EP2にはところどころジョージ・ルーカスの個人的な趣味や懐古のようなものが盛り込まれているのがおもしろい。


 不恰好だがそこが良いレイのスピーダーバイク。廃材を組み合わせた自作。スマートではないがそのかわり馬力を感じさせるインパクトがある。ルークのランドスピーダーを横に倒したような形に見えるが、デザインそのものはEP6時のスピーダーバイク案に同じような形のものが残っているのでそこからの引用らしい。初めてスクリーンに登場した際、レイがまたがってエンジンをかけ、動き始めたときに地面の砂がもうもうと巻き上げられるところが良い。レイが集めた廃材を側面のネットに積み込んだりしているときに地面から浮いた状態で完全に固定されているんだけど、荷物を積むときにちょっと沈んだり揺れたりしたら尚良かった。


 実はこの連作はこのハン・ソロのスピーダーを描きたくて始めた。これもやっぱり「ハンのランドスピーダー」という通称らしいんだけど、盗品である。そしてアナキンの乗っていた黄色いのと同様こちらも非常にアメ車的で、プリムスのロードランナーやスターバードの雰囲気。板状のシルエットはのちのミレニアム・ファルコンへの伏線なのか、狭い路地を通り抜けようとして途中で失敗する冒頭のシーンが、あとでケッセル・ランを最速ですり抜けるファルコンの姿へと繋がっていく。ファルコンが船でありながらもどこか「クルマ」的でもあることがわかった。
 このスピーダー、カーブを曲がるときに車体が良い感じに傾いてお尻を振るんだけど、メイキングを見ると実際にタイヤがついていて、普通に走行しているのを撮っていたらしい。だから傾き方とか軋み方がリアルだったんだ。リパルサーリフトの反重力で浮いているはずが、タイヤがついている前提の動きを見せるのがまた可笑しい。

2018/12/22

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(2017)


 遺してしまった妻を日々見守る夫の幽霊の物語、というわけでは全然ないのがおもしろいところ。妻を守ろうとかそういうわけでもなく、ただただ自分が死んだあとの日常を部屋の隅にひっそり佇んで見つめ続けるだけ。そうこうするうちに妻は身辺を整理して、夫と暮らした家から引っ越していってしまう。もちろん夫の幽霊は新居までついていくのだろう、と思ったらこれが家に残ったまま。ここからおや?となる。

 やがて新しい住人一家が越してくる。妻と暮らした家に知らない連中が住み着くのはおもしろくない。地下鉄の幽霊に教わらなくとも多少物に触れられるので、食器を割ったりしておどかして追い出す。するとまた別の連中がやってきて住み着く。またおどかす。気づくと家は空き家を通り越して廃墟になっている。しかし彼はまだそこにいる。彼は妻ではなく家に憑いているのだろうか?

 重機がやってきて家が取り壊された。気づくとそこは建設現場になっている。次に気づくと幽霊は家があった場所に建った高層ビルにいる。周囲はすっかり様変わりし、大都市が出来上がっている。なんとなくそこはずいぶん年月が経った未来の世界だということが伝わってくる。どれだけ時間が経とうとも家があった場所に彼はいる。妻でもなく、家でもなく、土地に取り憑いているのだろうか?彼 は気が滅入って(?)ビルから飛び降りる。シーツが落ちるだけなんだけど、とにかく飛び降りる。

 今度はあたりが平原になっている。かつて暮らしていた家の周りの風景に近いが、もっとなにもない。馬車がごろごろやってきて、開拓者の一家が降りてくる。ほとんど野宿みたいな生活をしながら、父親が言う。ここに家を建てよう。しかし次の瞬間には身体中に矢が刺さった状態で一家が地面に倒れている。荷物はめちゃめちゃ。先住民の襲撃にあったのだろう。幽霊は小さな女の子の死体を見下ろす。一瞬で彼女は骸骨になり、それが崩れて地面に還る。幽霊は時間をも越えてこの土地に憑いたのだ。そして彼にとってはあらゆる事象が一瞬のうちに、同時に起こっているのだ。

 やがてそこに家が建ち、夫婦が越してくる。かつての自分たちである……。

 時を越えて同じ場所に居続ける幽霊像、その途方の無さがおもしろい。それがシーツのお化けという究極的に単純でアイコニックな幽霊によって描かれるのが最高。かわいさや可笑しさを感じさせるその姿が画面にいるだけでただならぬ雰囲気が出るし、そのシンプルな姿はときに哀愁を、ときに怒りや恐怖を感じさせるようになる。目穴が二つ空いてるだけなのに、表情が出てくる。いや、表情を考えさせられる。シーツのお化けがここまで偉大とは思わなかった。単純ゆえにインパクトがすごい。

 夫婦の生活や、遺された妻の日常も、じーっと見ていられる。妻のルーニー・マーラが、夫の死の直後に差し入れでもらったパイを黙々ともぐもぐ食べ続けるところなんか、思わず凝視する。どかどかと食べる勢いから、悲しいのか苛立っているのか怒っているのかと想像する。そしてその全部が伝わってくる。言葉が無くても場面を理解しようとじっと観察する感覚は絵本を眺めているときに近い。グラフィック・ノベル的とも言える。そしてシーツのお化けのヴィジュアルはそういう雰囲気とも合っているし、それを際立たせる。ぼくももっと白くて目がちょこんとついただけの幽霊を描きたい。

2018/12/21

エンパイア・クルー・ジャケット


 去年コロンビアがエコーベースの制服をモチーフにしたジャケットを出したとき、『帝国の逆襲』のノルウェーロケでスタッフとキャストたちが着たユニフォームの方も出してほしいなあと思っていたんだけど、今年それが実現した。とてもうれしかったし、この上着はずっと憧れだったので、思い切って購入。暖かい上に軽い上着というものを今まで着たことがなかったので、袖を通してさらに感動する。もう硬くて重い古着は着れない。重ね着の必要もないので身体も疲れない。しかもアーヴィン・カーシュナーやマーク・ハミル、キャリー・フィッシャーたちとお揃いである。


 サイズはMで、身長180センチ、体重60キロ台のぼくにはぴったり。Lサイズも腕の長さなど十分でよかったけど、余裕があるぶんシルエットが少し崩れる。こういうのはあまりヒラヒラしないほうがかっこいい。



 このワッペンが最高だ。タグは小冊子になっていてワッペンと同じ絵柄のステッカーもついていた。


 肩のストライプが昔のスキージャケットの雰囲気もあってかわいい。実物は写真を見る限りオレンジ色のところに少しグラデーションがかかっていたようだ。


 「CREW」の名札はマジックテープになっているので、付属している白紙の名札に自分の名前を書いて付け替えることができる。うまく書けるか心配なのでとりあえず保留。最高の上着が手に入ったのでどんどん着たい。特にぼくは上着のポケットにたくさんものを入れるのが好きだ。大きなポケットには文庫本も入れてしまう。冬は寒いけれど、そうやって上着の中に自分の部屋の一部を持ち歩いている感覚は、とても楽しい。

2018/12/16

『最後のジェダイ』から一年

 この一年のあいだにそれなりにいろいろ考えたり思ったりしたけれど、やっぱりぼくは『スター・ウォーズ』と名がついて発表されたものは大前提として受け入れて、受け入れた上でここのこの部分がどうのこうのと考え続けるのが好きなんだな。そもそも作品を受け入れるか受け入れないか、否定するか肯定するかみたいな次元でストップするのは残念過ぎるし、SWオタクが気にするのって作品の正当性とか是非とかよりもその中に出てくる技術とか仕組みとかそういう部分じゃなかったっけと少し思ったりもする。それも、これはおかしいおかしいではなく、おかしくならないように理屈付けるのが醍醐味のような気もする。

 いずれにせよぼく自身はあまり作品そのものに対する批評的な脳は持たないようにしたいし、自分だったらこうする、みたいなのもやめておこうと思う。創作は好きだけれど、それはまた別の話で、そういうのはテレビでスポーツ見ながら俺が監督だったらどうのこうのと文句を言ってるオヤジと変わらなくて(奇しくも監督というところでも同じ)、あんまりかっこうのいいことではない。かっこうの悪いことはあんまりしたくない。そりゃ、自分が思うストーリーとか、観たいものは結構あるし、創作も絵を描くのも好きだから、自分でリイマジネーションしてみたくもなるんだけど、それはそれとして、大前提としてひとさまの作ったものや仕事にケチはつけるべきではないんだよ。

 出されたものは黙って観る。ひとの作品を好き勝手に作り変えるよりは、ひとの作品を受けたあとで、それを尊重しながらそこからなにかを派生させるほうがいいと思う。たとえば今回で言えばローズのバックグラウンドを自分なりに考えてみるとか?ぽっと出てきてさあっと去ってしまったDJの経歴とか?本物のマスター・コードブレイカーの普段の仕事ぶりとか?EP7のラストでは全然違う鳥が飛んでたのに直後のEP8で島にはポーグしかいなかった理由を無理やり考えてみるとか?そういう感じ。そうありたい。あと登場人物や監督の性別、人種のこととかよりもデス・スター論争みたいなものを論じたい。その方がSWだと思う。

2018/12/13

短い時間で作る

 別に制限時間ではないが、最初からこれくらいしか時間をかけない、というふうにしておくと気が楽になったりする。現に最近描いたものは極力時間をかけないことを心がけている。仕事だとそうはいかないけれど、遊びの絵だとそういう実験はいくらでもできる。何日もかけて描く大作とかはあまり興味がない、というか、そんなに長い時間同じものを描き続けられない。次から次へとバリバリと描いていくに限る。それが楽しいし、絵の数も増える。コレクション気分で描いているところがどこかにある。ブログの記事もせいぜい15分くらいで書けるものだけ書いていければいいんじゃないだろうか。それを少しずつ貯めていって小説のようにしていくとか。要するに集中力がないんだよな。1時間もやっていると疲れてくる。最初に思いついたものをとりあえず基礎に考えていく。もちろんそれがかえって制限になることもあるから、気をつけないといけないけれど。しかし、大抵の場合いろいろ考えた挙句最初に思いついたものに戻ってきたりもするので、まあそういうものなのかもしれない。広がりは求めたほうがいいけれど、無闇にもっと出来るはずだと思わないほうがいい。出口が見えなくて辛くなる。今はこれくらい、と思うだけでいろいろ開ける。そろそろ10分なのでこれくらいに。

39.7度の熱にかかる

 ノロウィルスというやつでどこでもらってきたかはわからないけれど、決定的に体調を崩したのはあのファミレスでハンバーグを食べてから。今でもお熱くなったプレートから溢れそうなほどの脂が沸き出すあの映像が蘇ってくる。しばらく脂っぽいものとか、味の濃いものは避けたい。お店の名誉のために言えば、別に翌日ニュースになったりはしていないし、そもそもぼくはそれよりも前からちょっと体がおかしかった。必ずしも食べ物で感染るわけでもないらしいし、ほかのみんなが平気な食べ物にひとりだけ当たってしまうこともある。主な症状は書くまでもないけれど、なんだか自分が上にも下にも穴の空いたただの筒、パイプになったような気分だった。なんて余裕をもって表現できるのはすっかりよくなっているから。そうだ、人間はただの筒でしかないのだ。それを思い知ったあとにやってきたのは驚くほどの高熱で、体感的にはそこまで高いとは思わなかったんだけど、測ってみるとほとんど40度というデジタル数字が出て、普段から暗示を受けやすいたちだから、そういうふうに具体的な数字を示されるとなんだかその気になってしまい、どんどん気分が悪くなった。脳がふつふつ言っているような感じで、血液もぶくぶく言ってそうだった。死ぬかと思った。妻が言うにはうわ言で両親を呼んでは涙をつうっと流していたらしい。覚えがない。そういうひとの心があったか。これは夢なのかどうかわからないけれど、これまでずっと頭の中でどこか塞がったような感覚があったんだけど、熱の中ではそれが開け放たれて、いろんなイメージが流れてきて、ああいうこともやって、こういうこともやらないとなあ、なんていうことを考えながら寝ていた。ずいぶん時間をかけて熱が下がっていったけど、頭は軽く感じられた。そりゃあれだけ高熱になっていれば軽く感じるわけで、別に体調崩す前より軽くなったわけでもなさそうだけれど、気分的にはすっきりである。コミコンに行って楽しくて帰ってきてから一週間考えてきたことだけど、やっぱり著しく欠如しているのは他者への関心である。頭の中が塞がったようになるのは、風通しが悪くなるのは新しい場所へ行き新しい人間と会わないせいではないだろうか。そんなことはずっと前からわかっていた。ベタすぎて避けていただけだ。しかし今やベタと向き合うときが来たのだと思う。

2018/12/03

瑞丸、東京コミコンに行く

 

 なんとなくしばらくイベントを敬遠していたところがあるんだけれど、それではいけないと、思い切って東京コミコンに足を運んだら、これがとても楽しかった。オンラインの友達を誘ったので、ようやく彼らと会って遊べたというのも大きいけれど、とにかく良い週末だった。



 いきなり会えたのがこの新作ドラマシリーズ『マンダロリアン』の、まだ名前すら発表されていない、それどこから腰から上くらいの写真しか出ていないキャラクターのコスプレ。


 まだなんの情報も出ていない時期にこのひとに会えただけでも行ってよかった。手作り具合も最高です。ぼくもボバ・フェットの衣装を、どんな出来でもいいから一度作りたい。


 SWの目玉ブース、ミレニアム・ファルコンの視点でヤヴィンの戦いに向かっていく特別映像。ルークやヴェイダーいる溝まではたどり着かなかったけど、よくできてた。





 SWと言えば玩具の展示。S.H.フィギュアーツの新作展示を見るのはわりと憧れていた。「ディスプレイ・オンリー」が多かったけど、この中からどれだけ実際の発売になるのか。今のところエイリアンのキャラクターが少ないので、このヨーダとイウォーク、ジャー・ジャーはぜひ出して欲しい。






 あとはこのあたりの特撮映画の展示。アメコミ作品メインみたいなイメージも強かったけれど、わりといろいろな映画がまんべんなくあったと思う。ので、基本的に映画が好きなら楽しいはず。さらに言えばハリウッド作品だけでなく、東宝や円谷などの特撮をはじめ国内ものもたくさんあって、まあとにかくなんでもありだった。ポップカルチャー博覧会とでも言えばいいか。

 一度行けばどんなものかわかってすっきりするだろうとか、一度行けば満足するだろう、気がすむだろうなんてことを思って行ったわけだけれど、結局来年もまた行きたくなった。人間にはやはり祭りが必要なようだ。次はもっとコスプレのひとと写真を撮りたいな。少なくともSWキャラのひとにはどんどんお願いしたい。マンダロリアンは大好きだから迷いなく行けたけど、ほかのキャラはなんかどういうポーズで撮ったらいいかなんてことを気にして迷っちゃった。関係ないのにな。むしろそういうのはコスプレしてるひとが誘導してくれる。あとは自分でもヘルメットかライトセイバーを持っていこうかな。自分が被ってると写真も撮りやすそうだし、より楽しそう。楽しいのがいちばんだ。こうやっていろいろと考えているだけでも楽しい。いろいろ大変そうだけど、毎年続けてほしいなあ。

営業報告




 「FRaU」12月号(講談社)の山陰特集にいくつかイラストを描いています。いろいろな言い伝えのあるスポットを紹介するミステリーツアーのページです。各スポットにナビゲーターとしてコメントされているのは小泉八雲の曽孫、小泉凡さん。
 結婚する前に青春18切符であのへんまで行ったなあ。鳥取砂丘でC-3POとR2-D2のフィギュアの写真を撮った。



「SPUR」2019年1月号(集英社)の映画レビュー連載では、「フランケンシュタイン」の著者メアリー・シェリーがその哀しい怪物の物語を生むまでを描いた『メアリーの総て』を紹介しています。この映画を観て、改めて「フランケンシュタイン」をちゃんと読んでみたんだけど、ボリス・カーロフ扮するユニバーサル・モンスターとはまた違った怪物の姿が知れてよかった。年齢とか性別とかはぼくとしてはあんまり関係ないんだけど、それでもやっぱりこんなボリュームのこんなストーリーを18歳で書いたっていうのには驚く。で、それは18歳になるまでにそれなりの経験をしているからでもある。そこのところがこの映画では描かれるというわけだ。



「婦人公論」12/11号(中央公論社)のジェーン・スーさん連載挿絵を描いています。今回はストリップ劇場に行ったお話。スポットライトの当たり方とかがいい感じに塗れた。

やっぱり11月はだめっぽい

 たぶん寒くなり始めで体調崩すせいもあるかもしれないけれど、変な忙しさだった。でもそのぶん絵を描くのはかなり楽しくなってきた。遊びで描くぶんには形式を持たず、構えない線で描きたい。何度でもやり直せるデジタルツールで線を引くわけだから、もっと生き生きとした線を怖がらずに引けるはずだ。やり直す時点で計画した線になってしまうかもしれないけれど、許容できる線と失敗した線というのは、やっぱりある。気にせず描き出してみるに限る。11月はブログの更新がまた減っちゃったけど、それも別に義務にする必要ないので、まあいいだろう。義務にはしないけど、たくさん書きたいというのはあるんだよなあ。とりあえずくたびれたのでたくさん寝るようにしたい。

2018/11/28

『ハン・ソロ』のひとたち

 『ハン・ソロ』のブルーレイを見返しているうちに好きなキャラがどんどん増えたのでどんどん描く。この感じでほかのエピソードのキャラも描いていったらとても楽しそうだ。SWのキャラばかり描いていていいのか、と自問していたが、描くのが楽しいならそれでいいはず。これに関してはモチーフそのものよりは、線や雰囲気をアピールできればいいと思う。


 ベケット一味のパイロット(兼料理番?)、リオ。4本腕のお猿。声を当てたのはジョン・ファブロー。軽口でいいキャラだったけど、猿キャラをチューバッカに譲るためかいちばん最初に死ぬ。ティーザーポスターとか、レゴなどの玩具ではこの絵のように青い体毛が首回りを覆ったデザインだったけど、映画本編ではこのあたりはすっきりして、もっと毛足が短くて毛色も暗い見た目になっていた。玩具メーカーに前述のデザインが渡されている感じから、おそらく直前で変更になったと見る。理由は知らない。


 帝国軍のズザナ・ラット伍長。ほとんどはっきり映らないキャラで、「その場にいた」くらいのひとだけど、劇場パンフレットではバストアップ写真と名前が載っている。スタイルがいい。オリジナル三部作だと帝国軍のユニフォームはもっとよれよれで着ているひとたちもあんまりスタイルよくないんだけど(あくまで垢抜けない悪役という感じ)、新作の帝国軍はかっちりきっちりしている印象。ズザナ・ラットを演じるのはイギリスの女優兼ダンサー兼モデルのズザ・テハヌ。綺麗。モブキャラは演者の名前を少しいじってキャラ名になることがあるから、いいなあ。上下ともに印象的な名前。なんとなくだけど、イギリスのガチの英語の地名とか苗字て、アメリカの英語とはまるで違う独特さがある。スコットランドの地名とか全く読めない。


 惑星コレリアでハンをはじめ孤児たちを囲っていたギャングの一員、モロック。ボスであるレディ・プロキシマ(こいつもかなりすごい見た目だったので描きたい)に仕えているわけだが、ジャバ・ザ・ハットでいうところのビブ・フォーチュナみたいなものか。ビブと違うのは、逃げ出したハンとキーラを追いかけて自らトラックを運転する行動派なところ。あのトラック・スピーダーの無骨さもよかったな。ちなみにこいつが放つ猟犬クリーチャーは、本物の犬が着ぐるみを着て演じている。EP4のバンサ方式だね。本物の動物が演じるからすごく説得力のある動きをする。ところでモロックはMolochと書くんだけど、これは古代中東の神モロク(モレクとも)と同じスペル。豊作の神にして人身御供の儀式で有名で、牛や山羊などと一緒に人間の赤ちゃんを生きたまま焼いて捧げるらしい。なるほど、だからモロックは孤児たちをこき使っているのかもしれない。杖の持ち手にはおびただしい数の人間が合体したレリーフになっているのも不穏。人間が優位に立つ帝国の支配下で、こういう杖を持って(なんならこの杖で宇宙港にいたストームトルーパーを威圧する。コレリアでかなり影響力のあるギャング団とあって、帝国軍もおいそれと手出しできないようだ)闊歩するあたり、人間に対してなにか恨みでもあるのかもしれない。頭部を覆うこの白い蛇腹やマスクが幼虫みたいでいい。


 列車強盗の際に列車を守ろうとする特殊ストームトルーパー、レンジ・トルーパー。分厚い防寒着に毛皮、ごつい磁力ブーツを身につけたごちゃごちゃ感がおもしろい。ストームトルーパーがムートンコートというのもいい。彼らはこんな大げさな装備でやっと列車の上でバランスを取っているのに対し、ハンたちは特別な装備のない軽装でひょいひょいと動き回る。ところでクローン・トルーパーの足の裏にも磁力パッドの設定があったような。まああれは申し訳程度の補助的なもので、これはもっと本格的なものなのだろう。足を接地させたときと、離したときとでランプの点滅が変わるんだけど、ちょっと『ゴースト・プロトコル』を思い出すね。そもそも列車の上でやりあうのも『ミッション・インポッシブル』だ。これ、もっと機動性が高ければスター・デストロイヤーやデス・スターの地表でも活動できそう。宇宙戦の中じゃすぐやられちゃいそうだけど。小惑星の表面で作業するときにも使ってそう。