2019/07/02

あらかじめ設定する必要はない

 そう、映画感想の描き方を模索中である。しばらく安定しないと思う。いや、永久に安定しないかもしれない。仕事でイラストと書き文字による記事を作っていると、どうしても個人的にそういう凝ったものを作る余力がない。観た映画も読んだ本もしっかり感想をまとめないとなあと思っているうちにどんどん摂取した作品が積まれていく。積ん読はしていないが積み感想をしてしまっている。別に仕事ではないし誰かに言われているわけでもないのだが、どこか自分が続けるべきもののようにとらえているので、しばらくなにも書いていないと常にさぼっているという気分になって落ち着かない。かといってどの映画についても同じテンションで描けるわけではないし、無理に描いても楽しくない。仕事じゃないのに楽しくないというのは、もはややる意味がない。もっと気軽に手軽に描ける形式にシフトしたほうが、たくさん描けるのではないか。不安や不満があるのはとにかく描けていないからなので、とりあえず描ける形で描けばいい。簡単なものが基本としてあれば、普通のテンションのものは簡単に描き、ちょっと熱の入るものについてはちょっと手を加えて描くという形にできる。変にシリーズ見出しをつけるとラインが固定されてしまってやはりだんだん続けづらくなるので、それも取っ払う。シリーズ見出しについては、最初の頃はあって、途中から去年まで無くしていたのだが、今年に入ってからはまた入れるようにしていた。途中で無くしたのは、見出しが入るという前提が全体のスペースを窮屈にしているように感じたこと、分類してしまうと融通がきかなくなるといった理由からだったが、今年に入ってまたカチンコ型のマークを入れるようにしたのは、逆になにも形式や縛りがないとレイアウトがつけづらいと思ったから。必ず右上にマークが入ることで、全体の配置もある程度つけやすくなる。ほどほどに制限があったほうが、ぼくの場合はやりやすいのではないかと思う。しかし、結局はそういう決まった形式は自然と身構えてしまうものだし(原稿用紙に作文を書く際に、タイトルを書いて氏名を書いてから、一行空けてから本文を書き出すよりは、なにも前置きなしに書き出したほうが気楽で、かえってすらすらいけるみたいな感じと言おうか)、手軽ではなくなり、重荷になってしまうという結論に至った。

 いや、形式がある上に凝ろうとするせいだろうか?枠があっても中身は手軽な感じだったら続けられたのだろうか。むしろ規格化された形式が中身の手軽さをある程度締める、みたいなことにもなっただろうか。傍目には好きにしろという感じだろうが、ぼくにとっては重要なことだ。いや、本当にそうだろうか?重要だと思い込んでいるだけで、本当に好きにしたら、もしかしたらふっきれるのだろうか。しかし、好きにしようと思った結果がこういう悩みに繋がっているようにも感じる。ほどよく制限がないと、ぼくは自由を前に途方もない気持ちになったりする。どこからどう手をつけていいかわからなくなる。しかしこれを克服するためにも、一度抵抗を感じながらも思い切って通してみたら、その先に行けるのだろうか。そもそも作るものをそこまで整然とさせる必要はない。いっそなにがしたいのかよくわからないくらいの、ぐちゃぐちゃ感があったほうが楽しい。そのほうがアイデアや思考が湧き出ている感じがする。勢いがある。綺麗に見せようとしすぎたのかもなあ。絵は綺麗にしたいが、その並びなど、一貫性とか、連続性とか、そういうものは全然綺麗じゃなくていいのだろうな。それを意識しなくなったらもう少し変わるかもしれない。並びってなんのことかと言えば、ウェブサイトのギャラリーで一望したときの体裁のことなのだが、そういうアーカイブ感を意識しながら作るのがもう間違っている。自分がどういう世界を作っているのか、作れているのかを確認しているつもりだったけれど、そんなの普通に昨日描いたものが今日の自分を縛り付けてしまっている原因だよな。少しは意識していいのかもしれないが、とりあえずサイトに並んだサムネイルの体裁とか、そんなこと考えるのはやめよう(そんなこと考えていたのかと思われそうだが)。体裁だなんて、もっとも取るに足らんものだろう。適当にやっていけば、自然とスタイルは身に付くのだから、あらかじめなにか設定する必要は本当にないのだろうな。自分が毎回違う形で描いているつもりでも、結局全部自分が描いたものとして一貫したものはあるだろうし。たくさん描いたあとでまとめればいいわけであって、ひとつひとつを描いている段階からまとめようとしなくていいのだ。

2019/07/01

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(2019)


 2014年の『GODZILLA ゴジラ』の続編であり、『キングコング: 髑髏島の巨神』を含めた「モンスターバース」シリーズとしては3作目。サンフランシスコの戦いの後、ゴジラが姿を消してから5年。世界各地で怪獣を研究する秘密機関モナークだったが、テロリストの襲撃により南極で管理していた氷塊が崩壊、そこに眠っていたモンスター・ゼロことキングギドラが覚醒する。それを待ち受けていたかのように姿を現わすゴジラ。かつて太古の地球で王座を争ったゴジラとギドラの宿命の対決に呼応するように、モスラやラドンをはじめ世界中で怪獣たち(タイタン)が目覚め、まさに怪獣大戦争の様相を呈す……。

 着ぐるみでないデジタルで描かれた怪獣たちは、作り物としての怪獣というよりは生き物というニュアンスが強い。なので、なんとなく「大きな動物」を見ているような気分だった。前作もそうだったけれど、ゴジラの妙に人間臭い表情がおもしろいし、今回はギドラの3つの頭がちょっとしたトリオ漫才みたいなやりとりをするのがよかった。真ん中がリーダー格(長男?)なのだろうとは思っていたが、それぞれに性格が出ているのも、細かい描写ができるからこそ。もちろんそれゆえに恐ろしさや残忍さみたいなものもよく出ていた。残忍さと言えば、大好きなサリー・ホーキンス扮するグレアム博士が、ギドラに食べられてしまうのはショックすぎた。ゴジラを応援する気持ちに熱が入るというものだ。

 怪獣としてはモスラが一番のお気に入り。日本のオリジナル版を子どもの頃観たときは、ゴジラ以上にインパクトが強く(色のせいだろうか)、東京タワーに繭を張るシーンも絵としてパワーを感じた。例の歌を歌うとモスラが来てしまうので、以後親が脅しで歌うのを怖がった。その歌も今回はかっこよくアレンジされて壮大なテーマとして流れる。テーマと言えば伊福部昭によるゴジラのテーマも真正面からしっかり使われていて胸が高鳴った。多少のアレンジはあるが、それもハリウッド式の盛り上がりがあってよかった。どれだけギドラがパワフルであろうと、この曲をバックにゴジラが大地を踏んで雄叫びを上げれば、誰が本当の王かは一目瞭然である。

 人間たちが皆どこかぶっ壊れているのも、よかった。怪獣プロレスのインパクトが強すぎて人間たちの行動や物語は荒唐無稽に見える?いやいや、そもそもあの世界はぶっ壊れているのでそれでいいのだ。怪獣の存在を平気で受け入れ、畏敬の念を込めてタイタンとか呼んじゃったりして、次から次へと降りかかる災難に対処して適応していく神経の図太さ。あれくらい狂った世界では全くおかしくない。むしろぶっ壊れていなきゃおかしい。そもそもそのぶっ壊れたひとたちのキャラがまたいい。芹沢博士とマディソンちゃん、あなたたち本当に怪獣が好きですね。「全ての生き物に敬意を払っている」という芹沢のセリフもよかったな。やっぱり怪獣は生き物なんだ。

 ところで、次回はついにゴジラとコングの対決が予定されているわけだけれど、宇宙から来た雷を吐くドラゴンでさえ敵わなかったゴジラ。体内に原子炉があって、熱核反応さえ起こしてしまうモンスター・キングに、一見大きいだけのゴリラがどう挑むのだろうか。それだけで気になってしまう。コングも40年間でなにか特殊な変貌を遂げているのだろうか。電気を帯びてパワーアップとか?しかし、バカにはできない。コングはただのコングではないのだ。彼もまた王、キングコングなのである。

2019/06/30

「SPUR」8月号



 「SPUR」8月号の映画レビュー連載では、「COLD WAR あの歌、2つの心」を紹介しています。戦後間も無いポーランドで音楽家ヴィクトルと歌手志望のズーラが出会い恋に落ちるが、やがてヴィクトルは西側への亡命を決意。当時まだ壁が建設されていないベルリンを経由してふたりで脱出するはずだったが、直前にズーラが断念。ヴィクトルは独りでパリへ渡り、ズーラは国に残る。ふたりはそこから15年もの間、鉄のカーテン越しに再会と別れを繰り返すことになるのだった……。タイトルはずばり「冷戦」だけれど、よくイメージされる冷戦の物語ではない。東西の指導者やスパイといった人たちの駆け引きなどはないし、もちろん戦乱も描かれない。ただ隔たれた恋人たちがいるだけ。そんな小さな視点の物語だけれど、めちゃくちゃパワーがあって、そんなラブストーリーを「冷戦」と名付けるところがいい。ポーランドの民族舞踏なども出てきて音楽もインパクト大。大局的なお話だけでなく、個人的な物語もまた時代と世界を持っているんだなあ。

「婦人公論」7/9号



「婦人公論」7/9号、ジェーン・スーさん連載の挿絵。ビヨンセやマドンナなど、一見遠い存在でもつねに自分に寄り添い励ましてくれるポップスターたちについて語られています。


2019/06/25

SWタイトル問題


 『エピソード5/帝国の逆襲』より。ダース・ヴェイダーが通信中にオゼル提督を見えない手で処刑し、傍らのピエット艦長をその場で昇進させる場面。息を詰まらせたオゼルが苦痛にあえいでいる間も、表情ひとつ変えずに(それでいて内心怯え上がっているはずなのが伝わってくる)ヴェイダーからの指令を聞くピエット艦長がまたいい感じである。後任者はつねに前任者の無残な最期を脳裏に浮かべながら、恐怖を原動力に仕事に取り組むのである。嫌な職場だなあ。

 と、そんな誰でも知っている名場面の説明はいいとして、今回どうしてもいい加減最終的な決定を下したかったのが、作品のタイトルについて。ご存知のように『スター・ウォーズ』シリーズは副題が面倒である。一作目が後付けで『エピソード4』とつけられたり、かと思えば『エピソード7』にあたる『フォースの覚醒』から、そのようなナンバリングがつかなくなったしまった。オリジナル三部作時代のシンプルな副題を意識してのことだろう。確かにすっきりしていてかっこいいが、9部作並べた際に締まりがない。前の6本については全て話数がついているからである。意図的に話数を抜きにして呼称しているケースやひともいるのだが、それも含めて非常に気持ちが悪いのだ。ましてや9部作でひとくくりにするのなら、やはり全てに数字がついていたほうがいい。数字は、しっかり並ばなくてはならない。なんだか数字に病的なこだわりを持つ吸血鬼のキャラクターのようだが、そしてぼくは決して算数が得意なほうではなかったが、しかし数字は並ばなくてはならない。なにより順番がわかる。ただでさえ順番がわかりづらいSWシリーズ、それはとても重要なことだ。そして、こういう文章で言及するときにも数字で呼んだほうが早い。

 とは言え、副題で呼びたくなるテンションもわかる。数字は便利である反面表情がつきづらく、かえって数字で言われてもどの作品かぴんとこないひともいる。まあそんなひとのことまで配慮してSWに関するテキストを書き連ねる気などないのだが、それでもできるだけわかりやすさは考えたい。たとえばEP5はEP5と呼ぶよりは、『帝国の逆襲』と呼んだほうがわかる。『帝国の逆襲』は『帝国の逆襲』過ぎる。なにを言っているんだと思うかもしれないが、ほかに呼びようがない。単に第5話と呼ぶのは軽過ぎる。5という数字の中に『帝国の逆襲』というワードの強烈さやニュアンスがどうしても含まれない。というのは、まあ、気分的な問題であって好みの話なのかもしれないが、たとえば普通の会話の中で「エピソード5」と言っても恐らく(相手にもよるのだが)「それってどれだっけ」みたいに返ってくるので、副題で呼ぶほうがいい場合もある。逆に副題で呼んだ際に「それって何番目だっけ」と返される場合もあるので頭が痛くなってくるのだが。

 冒頭にもあるように、このブログではとりあえず最初に登場する際に話数と副題をフルで並べた正式なタイトルを書いてから、そのあとは全部数字で略すみたいなことにしているが、テキストはそれでいいとして、イラスト内におけるタイトルがずっと悩みの種だった。

 一体なんでそんなことに延々こだわって悩んでいるのかと思われるかもしれないが、ぼくには重要なのだ。「もうこれで決めよう」とケリがついてすっきりしない限り気持ちが悪くてしょうがないのだ。なにが悩みどころかと言えば、一言で言って絵の締まり方である。テキストでは気にならないことも、絵に書き添えられた書き文字となると、事情が変わってくる。つまり、「エピソード5」まで入れると非常に長ったらしく見えるのだ。さらに言うと、話数を含めることでタイトルに「一本の映画感」がなくなってくるように思える。いや、一本の映画なのには違いないのだが、なんと言えばいいだろうか、第5話、みたいなのがつくことでなんとなく締まりが悪いのだ。ぼくはSWについて書いたり描いたり考えたりすることをそのままライフワークにしているような頭のおかしい人間だが、あくまでSWを映画として取り扱いたい頭もあったりする。だからこそわざわざ公開年を表記している。決してインユニバースに入りすぎない、あくまで一本ごとの映画としての感覚。年号と一緒に監督の名前とか書いてあればよりその雰囲気は出ると思う(さらに締まりが悪くなさそうなのでそれはやらないのだが)。単体として映画ごとの存在感を考えるとき、話数をつけることに抵抗が生まれてくる。もはやそれぞれの作品に話数がついていなかった期間のほうがずっと短くなっているのだが、どこかで副題だけで書いたほうがかっこいい、みたいな気持ちもある。同時に、長々と書いてきているように話数にこだわりたいという気持ちも小さくない。

 前の6部作については、話数込みが正式なタイトルなのだから、そのままそう書けばいい話である。そう、厄介なのは7本目から話数がつかない形が一応の正式タイトルになってしまったことなのだ。一応、と言ったのは、媒体によってはシリーズ全体の整合性を考えて話数をつけて書いている場合があったり、そもそも本編冒頭の宇宙空間を流れる黄色い文字の中にはちゃんと話数がつけられていたりするからだ。

 つまるところ、要点としてはシークエル三部作表記に合わせるのか、6部作のルールにシークエルを合わせるのかというところになる。数字による連続性や順列と、すっきりした副題のどちらを優先するべきか。前者を優先した場合には、シークエルの正式なタイトルを都合よく変えてしまっているという後ろめたさが、後者を優先した場合には、プリクエル三部作世代で話数つきで統一された6部作に慣れ親しんでおきながら、そういうところで気取っちゃうんだ、ははーん、というような声が自分の中で聞こえてくる。そこまで考えたところで思考がもう身動きできない。
 
 しかし、そうやって並べて比べてみたところでどちらのほうがより自分がこだわる要素が多いのかが見えてくる。話数つきには数字による一貫性とともに、やはり自分のこれまでのSWへの親しみ方が含まれている。話数付きこそ、自分が慣れ親しんだSWではなかったか。自分が観ていた頃のSWには、話数がついているのが当たり前だった。数字によって作品同士の関係性が際立ち、意識が時系列の上を移動する。そうだ、SWというのはエピソード群なのだ。結局のところ、副題のみの表記というのは、どこかで気取りがある。話数がついていないほうがスマートだが、それはスマートに見せたいという意識がどこかにあるからなのだ。ではシークエル三部作の正式なタイトルは尊重しないのかと言えばそんなことはなく、あくまでその場合は副題に便宜上話数を付け加えるだけである。そもそもぼくが個人的に描いているものはそこまで正式である必要がない。ぼくの文脈で統一して問題がない。というわけでぼくの中ではSWシリーズは話数をつける形を基本とする。すっきりである。

 ただ、EP9で「スカイウォーカー・サーガ」なるものが完結したあとにくる次のサーガ群が、どういうふうに整列していくのかを考えると、またしても頭が重くなってくる。

2019/06/17

怪我をした動物

 怪我をしたナフシが茂みの中で見つかったのは放課後のことで、最初に見つけたのはどこかのクラスの女の子たちだった。彼女たちは必要以上に騒ぎ立てずに仲間内だけで手負いの動物をなんとかしようとした。ナフシは火星の農村では非常にありきたりな動物で、農作物を狙う害獣とされており、どこかの農場でナフシが罠にかかると、そこの主人が小さなトラックに乗せて近所に見せて回っていたものだ。ジムの家にも一度火星人の農場主がレーザー檻の中で丸まったナフシを見せに来たことがあって、幼いジムはその酷い悪臭に思わず鼻をつまんだものだった。それが生きた獣の匂いだった。日曜の朝にやっている動物アニメに登場するナフシのキャラクターからは全く想像できない匂いだった。実物のナフシは全く可愛らしくもなければ愉快でもなかった。
 だから、学校の裏の茂みで怪我をしたナフシが見つかったと聞いたとき、ジムは正直あまり近づきたくなかった。ジムの父親は農家ではなかったが、入植者として害獣の危険性を知っていたから、常に息子に対して無闇に野生の動物に近寄らないように言いつけていた。ジムはその年頃の子どもたちの例に漏れず、なにをするにもまず親から言われていることを判断の材料にしていた。
 それでも子どもには好奇心というものがあったので、ジムはクラスメイトたちと一緒に茂みを見に行った。すでに最初の発見者たるグループはナフシに飽きて立ち去ったあとだったが、後から来た子どもたちが発見時の興奮をそのまま引き継いでいた。彼らはまるで自分たちが最初に発見したかのような態度で見物に来た連中にあれこれ指図をしていて、最初にナフシを見つけたときどんな様子だったかを説明していた。
 ジムは他の子達の肩越しにその動物を見た。紫色の茂みの中で、濃い緑色の毛皮の塊が丸まっていた。身体に対して頭は小さく、とがった耳と鼻面が突き出していた。目を閉じているのか開けているのかはっきりしない。怪我をしていると聞いていたが、具体的にどこがどう悪いのかよくわからなかった。ただ、ぐったりしているのはわかるし、子どもたちがこれだけ集まって騒がしくしているのに、まるで逃げる様子がなく、その気力も湧かない様子だった。ジムはかつて家の庭先に連れてこられた、罠にかかったナフシを思い出した。ちょうどあれと同じような感じだ。
 その場を仕切っていた子たちが、自分たちでこのナフシの世話をしてやろうと言い出した。明日からここに給食の残りなどをここに持ってきてやろう。ナフシは雑食だから、特別に加工しているものでなければ大抵のものは食べるだろう、ということだった。彼らは獣医ではないので、ナフシの具合がどんなふうに悪いかわからなかったが、動物なんてものは食べれば回復するだろうと考えたのだった。
 成り行きで、その場にいる全員がこの動物の世話をするメンバーに数えられた。ジムは他の皆が非常に乗り気で、張り切っているのを見て、少し戸惑い、本音を言わないことにした。なんだか面倒なことに巻き込まれてしまったなと思ったが、なんとなく放課後にそういう一部の輪の中に加えられたことが少しうれしくもあった。しかし、やはり得体の知れない、あまり綺麗とは言えない野生の動物に関わりたくなかった。

 その場の盛り上がった雰囲気にひと通り合わせてから、ジムは帰路についた。別になにか役割を当てられたわけではないのでひと安心だった。家から毛布を持って来いみたいなことは言われなかった。子どもたちの思いつきで、計画性は一切ない。明日適当に給食の残りを集めて持って行こうくらいのことしか考えていない。どこかの獣医に様子を見せようとか、話の通じそうな先生を選んでことを知らせようとか、そういうことは誰も考えていないだろう。
 ろくな計画もないのに盛り上がっていた皆の熱を思うと、ジムの気持ちはかえって冷めた。冷たいものが広がっていくような感じがして、そういう自分は非常に嫌な子どもなのではないかという気さえしてきた。皆が怪我をしたかわいそうな動物の面倒を見ようと言っているそばで、病気を持ってそうな動物に触りたくないなあなんて考えているなんて、優しくないのではないかと思った。
「なんか、気持ち悪かったね」
 肩のあたりに声がしてそちらを向くと、同じクラスのモンザだった。そういえば先ほどの一団の中に顔を見た気がする。あまり話したことはないが、特に距離がある相手というわけでもなかった。共通の友達がいるので、同じ場に居合わせることも多かった。ジムはあまり女の子と話すのが得意でないから(男の子も別に得意ではないが)、なにか話しかけられるとどう返事しようかなと一旦間を置いてしまうのだが、このときはまさにそのとき考えていたことを言い当てられたような気がしたので、反射的に、そうだね、と答えていた。しかし、答えたあとで一体なにが気持ち悪かったのだろうかと思い返した。
「ナフシが?」
 一応そう聞いたら、モンザは目を細めて口の片端だけが上がった微妙な笑みを浮かべ、首を横に振った。
「怪我した動物を気持ち悪いだなんて、思ってないよ」
 モンザの言葉に、ジムはしまったと思った。これではとても薄情なやつだと思われてしまう。普段言葉を交わす間柄ではないにせよ、この子からそう思われるのはなんだか嫌だった。
「いや、一応聞いただけさ。どっちかと言えば、気持ち悪かったのはあすこにいた皆だね」
 そんなふうに無様に取り繕ったところで、モンザは笑ってくれた。
「そうだね。私が言いたかったのは、あの場がってことなんだ」
「なるほど、あの場か」
 確かに妙な居心地の悪さがあって、あの場から立ち去りたかった。面倒なことに巻き込まれてしまった、なにか役割を押し付けられたらどうしようといった不安。正直に思ったことが言えなさそうな雰囲気。それに、今にして思えば手負いの動物を前にそういう自分の心配ばかりしていたのも、なんだか自分で腹立たしかった。
「でも、かわいそうはかわいそうだ」
 並んで道を歩きだしてから、少ししてからようやくジムは言った。なんとか形になって口から出てきたその言葉にに、モンザは、ふうんと軽く頷いた。
「かわいそうっていうのはでも、共感とは違うよね」
「え?」
「かわいそうっていうのは、なんていうのかな、少し偉そうな感じ」
「えっとお」
 ジムが必死に相手の言わんとしている意味を考えようとしていると、モンザが顔にかかった髪を手ではねのけて、ジムを見据えた。
「たとえばね、先週までクー・アムドが足にギプスしてたでしょ。皆大丈夫かって聞いていたけど、誰もかわいそうとかは言わないし、思わなかったわけ。君、思った?」
「思わなかった」
 本当はそれどころかあまりクー・アムドに興味がなかった。彼が足にギプスをしていたことも、今モンザに言われて思い出したくらいだ。
「たぶんかわいそうなんて言ったら、あの子は怒ったと思うよ。ひとはひとからかわいそうと言われてときに初めて、かわいそうなひとになるんだよ」
「そんなの考えてもみなかったなあ」
「そりゃ、どう考えても不幸なひとというのはいるし、自分を不幸だと思ってるひともいるんだけど、でも、そういうひとをかわいそうと言ったら、それはやっぱり失礼な話だと思うな」
「かわいそうは失礼」
 ジムは繰り返した。とりあえず繰り返すしかなかった。
「そう。ちゃんと助けてあげられないんなら、かわいそうなんて言っちゃだめだよ」
 モンザはそれ以上は言わなかった。だったら、あのナフシはどう表現するべきなのか。彼女自身そこから先を論じられなかったのかもしれないが、少なくともこの時点でのジムにはそこまでで十分だった。今まで考えもしなかったものの見方を知ったような気さえしたのだった。
「本当に明日から皆で世話をすると思う?」
 ジムが尋ねると、モンザはまたしてもゆるやかに首を振った。
「給食の残飯を持ってくだけでは世話とは言えないよ。うちには犬がいるんだけどね、具合が悪くなったとき、それはもう大変だったよ。それに、どうせ最初の1日、2日で皆飽きるよ。皆が飽きるのが先か、あのナフシが死んじゃうのが先かって感じだろうと思う」
「そりゃ随分な言い方だ。でも、多分そうなんだろうなあ」
 それよりジムはモンザの犬が気になった。「犬ってどんな犬?」
「大きいよ。お父さんが地球から連れてきたばかりのときはちょっと元気がなかったんだけど、今はすごく元気で、一緒に遊んでると私のほうが先にくたびれるんだ。犬、見たことある?」
 犬について話すモンザは、先ほどの冷めた感じとは打って変わって目が輝いていた。それを見たジムは、モンザを少しかわいいと思った。でも、僕が怪我をした臭いナフシみたいになったら、さっきみたいに細めた目に半笑いで見てくるんだろうなあ、とも思った。
「図鑑でなら見たことあるよ。いろんな形のがいるよね。その犬、さっきのナフシより大きいの?」
「大きいよ。うちの庭に来るナフシをよく怖がらせて追い返してる」
 それを聞いてジムもなんだか怖くなった。ジムが図鑑で見て気に入っている犬と言えば小さなビーグル犬だった。モンザの家にいるのはきっとシャーロック・ホームズと対決したような大きな犬なのかもしれない。
「今度うちに見にくる?」
 モンザにそう言われて、女の子から招待を受けたのはうれしかったが、内心すっかり怖くなっていた。
「うん、見たいな」
 と言ったものの、明日明後日と日が経つうちにこの話が適当に流れていくといいなあと、少し思うジムだった。
 ふたりの歩いている長い道路が、もうすぐ二手に別れるところだった。ジムの記憶が正しければモンザは彼とは反対の方向へ帰っていくはずだった。この密かな会話はもうすぐ終わってしまう。明日の朝教室で顔を合わせたときに、同じように会話ができるとは限らない。ジムは茂みでうずくまった動物を目にしてからというもの、ずっと胸につかえていた不安を吐き出すことにした。
「ナフシのこと、先生に言ったほうがいいかな」
 それは質問と表明のちょうど中間くらいの言い方で、本当に恐る恐る口に出した感じだった。ジムはその年頃の気の小さい少年の例に漏れず、なにか問題が起こると大人を頼り、大人に確認を取り、大人に承認を得たほうがいいのではないかと考えるタイプだった。その性質によって、彼は同級生たちと多少無茶をする遊びというのができないでいた。彼にとって大人に内緒で怪我をした動物を世話をするというのは、どこかの農場のフェンスをよじ登って向こう側へ渡ったり、建物の屋根に登ったり、自分たちがまだ対象年齢に達していないビデオ・ゲームで遊ぶのと同じくらい危険なことだった。
 なにより、父親から聞かされていたナフシの不潔さや時折見せる凶暴さが怖かった。
「別に言わなくてもばれると思うよ」
 モンザはあっさり言った。「給食の残りをこっそり黙って持っていくなんてこと、あの子たちにはできないよ。どうせ変に騒がしくするだろうし、先生だって馬鹿じゃないからね、いつもと違う皆の様子に気付くと思うよ」
 モンザの冷静な推測や、その観察眼のようなものに、ジムはすっかり驚いていた。この子はこんなふうに教室を見ていたんだ。ジムも級友たちのことを一歩引いたくらいのところで見ることが多いけれど、それでもやっぱり一緒になって遊ぶので(危険のない範囲でだが)、モンザのように考えることはなかった。同時に驚くのは、モンザはそんなふうに周囲を見ていながら、普段から孤立することはなく、少なくともジムの目には皆とうまくやっているように見えることだった。
 ジムは、モンザを大人びていると思った。その大人びたモンザは、このやりとりの中でジムと他のクラスメイトたちとを明確に分けて話していた。もちろん、ひとは誰かと話すとき相手のことだけは他の連中のことと別にして話すものだと、ジムはこのあと知っていくことになるが、それでも、この場では彼は彼女の側の人間であり、彼女が自分の考えを話してもいいと認めた相手だった。もしかすると明日には知らん顔されてしまうかもしれないけれど、今この時間だけ、ジムはモンザと秘密を共有している。それは怪我をした動物を自分たちだけで世話しようという取り決めなんかよりも、はるかに魅力的な秘密だった。
「じゃあ、また明日」
 分かれ道のところで、モンザから切り出した。「ナフシのことはまあ、適当にやり過ごそう。明日も皆に合わせてればいいよ。私もそうするから」
「わかった」
 ジムは言った。「じゃあ、また」
 家に帰ってから、ジムは両親にナフシのことを話さないでおいた。モンザの物言いからは、なんとなく大人には黙っておいたほうがいいというようなことが読み取れたからだ。帰り道に彼女が言っていたのは、つまりは放っておけということなのだと。積極的に関わろうとする必要もなければ、事態を収束させるために大人を関わらせる必要もないということ。ジムでもそれくらいはわかった。あんなふうでいながら、普段から教室でうまいこと振舞っているモンザの言うことは、信頼できる気がしたのだった。

 翌朝、ジムは寝坊したわけでもなく普段通りの時間に学校に着いたのだが、すでに教室が騒がしかった。どうやら何人かは早めに登校してナフシの様子を見に行っていたらしいのだが、ことは思い通りにいかなかった。例の茂みに獣の姿はなく、かわりにスコップを持ったサエキ先生がいたのだ。その場においてスコップを持った先生の姿くらい、状況を的確に説明するものはないだろう。
 教室は一階で、窓の外がちょうど例の茂みに続く小道になっているのだが、窓の外にサエキ先生が立っていて、登校してきてだんだん人数が増えてきている生徒たちに向かってことの次第を説明していた。あのナフシはすでに息絶えていたので、皆さんが登校する前に埋めました。
 生徒たちのほとんどは憤っていた。特に張り切っていた中心人物たちは涙を流しながらなにやらわめいていた。どうしてそんなふうに涙を流すのだろうとジムには不思議でならなかった。ナフシは昨日怪我をした状態で見つかっていて、一緒に遊ぶ時間も親密になる時間もなかった。そもそもナフシはそのへんの道でしょっちゅうひかれている。あの子たちはそれを見るたびにあんなふうに泣くのだろうか。もちろん、あのひとたちはなんで泣いているのと、近くにいるクラスメイトに聞くことはできない。それは恐ろしくてできなかった。
 サエキ先生はいつでも冷静でゆったりと話すので、自然と話している相手の気持ちも落ち着いてしまうのだが、今朝もやはり生徒たちは次第に落ち着いていった。落ち着いてくると、生徒の中からいろいろと質問が出てきた。ナフシはどんなふうに死んでいたのか、あの子はどこをどんなふうに怪我をしていたのか、そもそも怪我だったのか、など。
「先生が見たところ、怪我をしていたようです。最初はそのへんで車にぶつかったのかなと思いましたが、よく見ると首のあたりに深い傷がありました。なので、皆さんがどうにかできる怪我ではなかった。少なくとも給食の残りをあげる程度のことではね」
 先生が看病の計画を具体的に言い当てたので、皆は驚いたようだった。モンザの言う通り先生は鋭い。
「でも先生、傷ってどんな傷ですか?首にあったってことは誰かが……」
 再び飛び出してきた質問に、先生はさわやかに笑いながら首を振った。
「あはは、人間の仕業ではないですよ。もちろん、このあたりの農場にはナフシに対する罠をしかけているところが多いですけどね。でも、そういうので出来る傷ではなかったです」
 サエキ先生はそこで少し迷った。「……まあ、皆さんをあまり怖がらせてはいけないとは思いますが……そうですね、なにかもっと大きい動物に噛まれたような跡でした」
 例えば大きい犬みたいな、と先生は付け加えた。
 途端にジムの背筋にぞくっとした感覚が走った。恐怖ではない。恐怖ではないが、あることに気付いてしまったという、一種のショックのようなもの。そして、それに気付いた自分をどこかで得意にさえ思った。
 イヌってなあに先生、と尋ねる声。すぐに先生が、それは地球にいる動物で、人間のパートナーのような存在だと答える。
「きっとあのナフシは、どこかの農場に忍び込んだときにそこの番犬に噛まれたのかもしれませんが、しかし先生の知る限り、このあたりで犬を飼っているようなおうちは思いつきませんねえ。もしかすると、山にマーシャン・ウルフがいるのかもしれません。皆さんも子どもだけで山や森に入ったり、暗くなってから農場のまわりをうろつくなんてことはしないようにね」
 ショックから覚めたジムは、自分が教室の床の上に立っているということを思い出し、その感覚を取り戻した。それから少し遅れて、周囲を見回す。もちろんこっそりと。よく知った顔がいくつも並んでサエキ先生の話に聞き入っている。しかし、その隅の方に、あまり興味のなさそうな顔で立っている女の子を見つけた。
 モンザもこちらを向いた。

2019/06/14

「UOMO」7月号



 「UOMO」7月号(集英社)では、マーケットプレイスサイトの「FARFETCH」について漫画仕立てで解説しています。「集英社の雑誌に漫画を描いた」というのは、文芸やイラストレーションに関心の薄い友達にも自慢ができますね。嘘ではない。

「CREA」6月号




 「CREA」6月号(文藝春秋)はパン特集でした。ぼくは「手みやげにしたいサプライズなパン」という見開きページにイラストを描いています。カラフルなマーブル色のベーグルや、上下で挟んでいるパンが違うサンド、出汁巻卵のホットドッグ、巨大なメロンパン、ミントクリームのたっぷりかかったチョコミントクロワッサンなど、見た目にもインパクトのある変わったパンが大集合しています。もちろんぼくもパンが好きです。美味しいパンはなにもつけなくても平気です。

2019/06/10

1日はそんなに長くない

当たり前のことだけど、最近ようやく気づいた。学校行ったりバイトしてたりするときの感覚を引きずっているせいかどうも、1日は長くていろんなことができると思い込んでいて、その長さに見合った成果を出せないとなんだか駄目な1日だったような気がして気が滅入るが、そもそも1日の長さなどたかが知れている。なにかひとつ済ませられば十分で、もっと言えばなにも進展がなくても別にいいくらいなのだ。1日にいろいろなことをやろうとするからくたびれてしまうのだ。当たり前のことだが、こうして書いておくことで自分で納得できてその気になれるというわけだ。

2019/06/07

渋谷の民泊手引書


 渋谷の新しい観光を考える会より発行、SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS(SPBS)編集、Airbnb協力の配布冊子、民泊手引書のイラストを担当しました。民泊のホストになる人向けの「ホストになりたい人のための手引書」(グリーン)と、民泊をやっている住宅の近所に住む人向けの「隣で暮らす人のための手引書」(レッド)の二種類の冊子と、奥渋谷のローカルマップがセットになっています。


 「ホストになりたい人のための手引書」では「民泊をはじめよう」と題して、届出や諸々の対策、メリットなどが説明されています。


 「隣で暮らす人のための手引書」では「民泊、どう付き合う?」と題して、民泊とはなんなのか、渋谷にどれくらいあるのか、騒音やゴミなどの心配はどうか、困ったらどうすればいいのかといった疑問や不安に丁寧に答えてくれるとともに、民泊があることで地域にはどんなメリットがあるかなどが説明されています。

 付属の奥渋谷ローカルマップも非常に見応えがあり、民泊ホストや利用者でなくとも役立つ情報満載です。SPBSで配布されるので見かけたらぜひ。

「anan」No. 2153



 「anan」No. 2153、「チャージ&デトックス情報局」 のスーパーフード特集に挿絵を多数描いています。アメリカのスーパー、ホールフーズが毎年発表する食のトレンドに基づいて、流行が予感される注目のスーパーフード等について、そのパッケージなどをイラストにしています。バーガーキングがヴィーガン向けに作ったワッパーが気になる。

「SPUR」7月号



 「SPUR」7月号の映画レビュー連載では、ハビエル・バルデム&ペネロペ・クルス夫妻主演『誰もがそれを知っている』を紹介しています。夫妻が扮するのは、今は別々の道を歩む元恋仲の幼馴染で、親戚の結婚式で再会するのだが、そこでペネロペの娘が誘拐されてしまう。犯人は式に参列した親戚や友人の中にいるのではないかと疑われ、脅迫により通報ができないのでハビエルが独自に動く。あんまりがんばるので奥さんからはなんであんたがそんなに一生懸命になる必要があるのとか言われるのだが、それでもがんばる。幼馴染のことがまだ好きだからという単純な理由を見出すこともできるのだが、どこか他人事として済ませられないものを感じているのだろうということがわかる。やがて、ハビエルの知らない秘密が明らかになっていくのだが、映画のタイトルの通り、「誰もがそれを知ってい」た……。小さい街では秘密は秘密ではなくなるのだ。当事者が知らなくとも。というお話。

 ハビエル&ペネロペが夫妻だったこと自体、誰もが知っていることなのだろうけれど、ぼくは今回初めて知った。そういえばふたりとも『パイレーツ・オブ・カリビアン』に出ている。ハビエル・バルデムといえば『ノー・カントリー』のただならぬ雰囲気の殺し屋とか、『007 スカイホール』の悪役が印象的だが、本作では普通のひと。愛すべき平凡な男という感じだが、でもどこかに影があるのがやっぱりらしい。

「婦人公論」6/11号



 「婦人公論」6/11号、ジェーン・スーさん連載の挿絵。お父様が文鳥を飼い始めたというお話。文鳥というとグレーと黒の模様が印象的だけれど、小さい頃はもっとぼんやりした茶色らしい。よくよく思えば雛というのは成体とは全然違うのでそりゃそうか。特に鳥類は鶏のひよこ、ペンギンの雛などを見ても全然違う。

 鳥の飼育といえばぼくの実家では鳩や鶏を飼っていたことがあって、特に鶏がいる頃は結構楽しかった記憶がある。鳩は怪我をして迷い込んだレース鳩で、足缶を取らせてくれるようになるまでうちで世話をしていた。主に父が。足缶を取ればすぐに連絡先がわかるはずだったのだが、鳥好きの父はまだ怪我をしているからとか、慣れていないからとか言い訳をして足缶を調べるのを遅らせていた。飼い主に連絡がついたらあとはあっという間に迎えがきて、随分お礼をされたようにも覚えている。大切なレース鳩だったのだ。鳩のために父が作った小屋(巣箱どころではない、学校のうさぎ小屋ほどの大きさ)は空っぽになったが、間も無く鶏の一団がやってきた。真っ白な羽毛に真っ赤なとさかのオスが一羽と、オレンジ色のような茶色のメスが三羽。小屋は拡張されてかなりの大きさになり、大人ひとりがかがんで入れる広さになった。鳩は見てても大しておもしろくなかったけれど、鶏は歩き回るし、鳴き声はおもしろいし(本当に毎朝例の鳴き声を放つので驚いた)、なにより大きな卵を毎朝産んだのでそれを取りに行くのが楽しかった。朝行って覗くと藁の上に三つほど茶色い卵がかたまって置いてあって、手に取ると温かいのである。まるで農場の生活だ。学校で嫌な行事(陸上大会だの体操大会だの)があると、前の日に鶏を見ながら、ああ、次に鶏を見るときには嫌なことは全部終わっているんだろうなあ、ぼくが嫌な思いしている間もこの鳥たちはここでずっとコッココッコと過ごしているんだろうなあ、いいなあ、などと思っていた。

 鶏のいる日々はわりとあっけなく終わる。狸かなにか、獣の類が網を破って四羽全部食い荒らしてしまったのだ。狸に食べられるくらいならぼくが食べたのになあと今でも思う(具体的になんという種類の鶏だったのかはわからないが)。鳥を飼うのは確かに楽しい。

2019/05/30

ワープ

 出来事を書き出そうと思ったが実際に起こったイベントはどうしても個人的事情が関わるし、ディティールをどこまで書き出すかを考えている時間が惜しいので、まあ書けそうになったときにしよう。時系列は気にしなくていいはずだ。それでも主な出来事を書き留めるのであれば、子どもを連れて初めて帰省をしたのだった。高速バスに乗っているときの体感時間はどんどん短くなってしまい、今度のが一番短かった。大都会の真ん中からトンネルに潜り、途中何回か外に出るものの、あっというまに景色は緑の中になってしまう。高速道路に乗るにしても、もっとこう街並みを間近で見ながら、少しずつ建物の種類が変わっていき、臨海地域に移り、建物の数が減っていき、みたいな移り変わりをぼんやり眺めたいのだが、感覚ではほとんどトンネルだった。さらにぼくはその小旅行のために徹夜で仕事を片付けていたので、バスが動き出して少ししたら寝てしまった。最初のトンネルに入ったあたりで寝ている。すると次に目を開けたら山の中である。これではワープのようなものだ。早いのはいいけど。

 地元のほうは相変わらずで、前よりも田畑を覆い隠すソーラー・パネルが増えたように思えた。両親が宿を取ってくれたので、実家よりもずっと綺麗なところでのんびり過ごす。大雨だったけれど、かえってゆっくりできた。小さい頃から遊びに行っていたレストランホテルだけれど、思えば『トイ・ストーリー』を初めて観たのも、レゴの大きなセットを目の当たりにしたのもその家でだった。いろいろと思い出すことがあった。そうでなくとも、最近思い出すことが多い。夜にチキンを食べ、朝には分厚いトーストにベーコンとスクランブルエッグを食べた。大雨の去った朝はよく晴れていて、親子三人で海辺を歩いた。ばあばにも会えたし、ひ孫の顔を見せることもできた。なにか綿々としたものを感じる。自分に子どもができたとは言え、ぼくも子であり孫のままなのだなあ。老人ホームというものには初めて行った。老人というのもいろいろらしい。

2019/05/29

「山と渓谷」6月号



 「山と渓谷」6月号(山と渓谷社)にて、立山黒部アルペンルートのイラストを見開きで描いています。富山はちょっとしか行ったことがないけれど、ああいう大きな山脈を見ると、太平洋側の呑気な地域で育った自分が見てきた山は、かわいらしい丘みたいなものに思える。本当に大きな山のある地域で夕焼けを見たとき、黒々とした大きな山が壁のように聳えていてどこか恐ろしい感じだったのを覚えている。まだ空は赤いのに、ふもとの道路はもう真っ暗で、車はヘッドライトを照らしていた。結構衝撃的な風景だった。

 大きな山のせいで日の光が半日しか入ってこない村で、みんなで問題の山の土を運び出して低くして、日照時間を伸ばすという絵本があったなあ。子どもの頃はそんな山あるかいなと思ったものだが、ああいう風景を見るとそういう話が切実に思えるし、山の大きなシルエットにただならぬ気配を感じて畏怖を抱くのも不思議なことではない。

2019/05/26

ボバ・フェットのヘルメット完成


 去年の年末から取り組んでいた(というか年末年始で終わらせるつもりだった)手製のボバ・フェットのヘルメットがついに完成。リアルに近い造形をがんばって再現するつもりだったけれど、造形力に限界がありこだわっていたらきりがなく他のことに手がつかず生活に支障をきたすので、ほどよく平面な、イラスト的なもの、あるいは子どもの工作的なものに転換。こっちのほうがぼくには合っていた。


 寸胴というか、円柱状にしたのは作るのが簡単だからだが、着想は『ホリデー・スペシャル』とか『ドロイドの冒険』などのアニメ版のタッチから得た。そちらでは顔や側面のモールドも平らなので真似しやすい。描き込みは最低限にしておいた。


 頭の黄色い模様はキルマークと呼ばれていて、どうやら殺したひとの数らしい。しかし公式の設定かどうかよくわからない。獲物(賞金首)の数かとも思ったが、ボバほどのハンターにしてはちょっと少ない気がするので、その中でも特に殺めた数、みたいなことなのかなあ。なによりこのマークの数が『帝国の逆襲』と『ジェダイの帰還』で違っていたりするのがまたややこしい。単純にハン・ソロを捕らえたから増えた、ということならこれはやはりキルじゃなくてハントした数ということにもなる。冷凍ソロ争奪戦でライバルを殺しているとかいう解釈もできるが……。



 前も書いたように頭頂部と後頭部とで色が若干異なる、のを再現してみた。しかしこういう微妙な色分けを再現しようと思ったばっかりに、全体の緑色のテイストで非常に悩んだ。後頭部が頭頂部より濃くなければならないとすると、頭頂部は自然少し明るめの色のほうがいいということになるが、明るすぎるとちょっと雰囲気が違って見える。元来絵の具を調合するのが下手なので、思うような色が作れず困った。映画もシーンごとに若干色味が違って見えるし(照明の問題もあるが、そもそも衣装がいくつかあって、同じ作品内でも別物のときがある)、コスプレ衣装として定番のカラーはあるが、別にそれに忠実にしたいわけでもない。あくまでイラストの色のような雰囲気にしたい。そうなると数多あるボバ・フェット玩具の色味などを参考にするのだが、これが本当に星の数ほどあって、一時頭がおかしくなりそうだった。黄色が強めの緑なのか、青が強めの緑なのか、暗いのか明るいのか。強めのアレンジを加えてもよかったが、元がデフォルメチックなだけに外し過ぎると全然ボバに見えなくなりそうなのが怖かった。ちなみにぼくはオリジナルのマンダロリアン戦士の格好とかは全然興味なくて、したいと思わない。あくまでボバ・フェットがいいのであって、オリジナルの戦士とかになると、たとえ顔だけボバのそれと同じでも、それはもうSWでもなんでもないような気がする。アニメ版の造形を参考にしたのでアニメ版の色彩も合いそうだったけれど、おそらく王道の色のボバを一度作らないと満足できなさそうだったので、変わり種は次の機会ということで。
 

 というわけで完成して満足。ヴェイダーやトルーパーもいいが、やはり一番好きなヘルメットはボバ・フェットである。この新しいUTの絵はアニメ『ドロイドの冒険』のボバ。アニメ配色もいつか試してみたい。首から下も作るかどうかわからないけど、できたらやる。そしてまた、ガントレットを緑にするか赤にするかで悩むんだろうな。工作は楽しい。

2019/05/25

ディズニーウェディングに行く


 これは5月の連休より前、4月末のことだったんだけど、中学時代の同級生の結婚式に行った。ディズニーランドのアンバサダーホテルである。ディズニーウェディングに参列することもそうそうなさそうなので貴重だった。プロフィールビデオで生い立ちが説明される中、中学時代だけすっぽり抜け落ちているのが可笑しかった。これはしょうがない。いやあ、お互いよく生き残った。



 普通にパークに行ったときにはまず見ない光景なんだけど、一度に4体揃うとなかなかの迫力。というか強烈だった。ぼくは着ぐるみのミッキーに(恐怖で)大泣きしたタイプの子どもだったけど、まじまじと見ていてわかったことがひとつ。鼻面が前に勢いよく飛び出しているのが、その独特の迫力の一因ではないかと思う。ましてや先端恐怖症的にはおっかないものがある。ドナルドの方も飛び出してはいるのだが、鼻に比べれば平らで優しい感じ。

2019/05/12

『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)


 真っ先に浮かぶ感想としては、「すごいものを観た」。非常に長尺であるということは事前に聞いていて、ちょっとよくわからない脅し文句が並んでいるのも目にしてはいたが(トイレに立たないため前の晩から食事をとるなとか)、楽しい映画なら3時間などあっという間だった。逆に退屈な映画なら本編90分でも苦痛である。自分でも驚いたが、3時間飲み物もなしによく集中したと思う。自宅にいるときは30分に一度くらいにコーヒーだの白湯だの入れているが、集中していれば必要ないんだな。

 というわけで内容に触れないわけにはいかないので以下スポイラー・アラート。ブログ・トップ画面で表示される冒頭文章に本題が入らないように稼いだのだ。

 前作『インフィニティ・ウォー』で全宇宙の生命の半分を消滅させたサノスの所業をどうやって帳消しにし、消されたひとたちを元に戻すのか、というのが一番注目されていたところだが、その鍵はアントマンと、彼が脱出してきた量子世界にあった。アントマンは『アントマン&ワスプ』のラストで量子世界に閉じ込められてしまうのだが(量子トンネルの外で彼を呼び戻すはずだった仲間がサノスに消されてしまったから)、5年経って偶然にも脱出を果たす。しかし、彼が向こうで体感していた時間は非常に短く、時間の流れ方が外の世界とは異なっていた。量子トンネルを応用すれば時間を遡ることができ、サノスの企みを阻止することもできるのではないか。こうして悲劇から5年、アベンジャーズは再び力を合わせて最後の大勝負に出るわけだ。アントマンが大きな役割を果たしたのがなかなかうれしかった。

 時間を遡ってどうするのかといえば、赤ん坊のサノスを殺すわけではなく(この作戦はぼくも以前思いつき友達に話すも「とてもヒーローのやることではない」と一蹴されたのだが、劇中でウォーマシンことローディが同じことを提案していた可笑しかった)、かつて各地に散らばっていたインフィニティ・ストーン(サノスが使ったパワーの源であり、これまでの作品にキーアイテムとして登場してきた)を、サノスが収集する前の時点から集めて現代に戻り、消えた人々を呼び戻すのだという。そういうわけで、これまで各ストーンが登場した作品の場面へと、ヒーロー達がタイムスリップするのだが、これがちょっとした懐かしの場面集とその裏側といった感じで、2012年に飛ぶと、一作目『アベンジャーズ』での戦いの最中にあるニューヨーク、2013年は『マイティ・ソー:ダークワールド』のアスガルド、2014年の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』における惑星モラグに行くと、ピーター・クイルがヘッドフォンでレッドボーンを聴きながら踊っているのが見える、といった具合。ストーリー上自然に今までの冒険の一部を思い返すことができるくだりで良かったし、単に観たことある場面ではなく、その裏側や、違う視点が描かれるのがおもしろかった。

 すっかり和解したトニー(アイアンマン)とスティーブ(キャプテン・アメリカ)は、さらに1970年に飛び、アメリカ軍基地(シールド施設でもある)に保管されていた四次元キューブを回収しようとするが、トニーはそこで亡き父ハワードと遭遇する。正体を隠して父親と話を合わせるトニーに、ハワードはもうすぐ息子が生まれるが父親になることをどう受け止めていいかわからない旨を告白する。その当の息子であるトニーにも、今や娘がいた。彼はこのアベンジャーズの反撃に加わることを最後まで渋っていたのだが、それは彼がこの5年の間に家庭を築いていたからだった。再び失敗すれば今ある幸福さえも失ってしまうのではないかという恐怖を、彼は娘の寝顔から感じていたのだ。だからアベンジャーズが現代の時点から人々を復活させようとしたのは、5年間に起こったことを変えないためでもあった。全て無かったことにするには、5年間は長すぎた。トニーの娘モーガンのように新たに生まれてきた命はもちろんだが、その間強く生きてきた人々の時間さえも否定してしまうからではないかと、ぼくなどは思う。

 常に良好な関係ではなかったトニーとハワードだが、トニーはようやくハワードと同じく父親になり、同じ感情を共有するに至った。今までぼくはトニー・スターク、アイアンマンにあまり感情移入してこなかったけれど、今やぼくも父親である。そしてトニーと同じく娘がいる。それだけで十分だ。トニーとモーガンの父娘はもちろん、トニーとハワードの会話には熱いものを感じる。最初から親だったひとなどおらず、子どもが生まれてもなかなかその実感や自覚は持てないかもしれない。よい親とはなにか、親らしさとはなにかも、恐らく正解はない。ただ、ふたりのスタークのように探り探りで親に「なろうとし続ける」しかないのだろうと思う。

 思えば最初の『アベンジャーズ』を観た2012年の夏というのは、非常に惨めな時期だった。仕事は無くほとんど無一文で、なけなしのお金で映画を観たのを覚えている。そこまで興味があったわけではないのに、ましてや『アイアンマン』1と2しか観ていないような状態だったのに、なぜか突き動かされるように観に行った覚えがある。大方ネットで話題だったからだろうと思うけれど、話題だからといって無いお金を出してまで観る人間ではないことはわかってもらえるだろう。とにかく余裕のない頃で、その日の食事も取れるかどうか微妙な有様だった。それでも、この映画は観たい、と強く感じたのだろうと思う。それから7年が経とうとしている。とても余裕に満ち溢れているわけではないにせよ、一応人並みに生活をしている。7年前はお金も無い上にとても孤独だったが、今では結婚して子どももいる。雲の上の存在だった人たちが家に遊びに来てくれるようになった。友達もいる。怖がる必要のない本物の友達だ。

 遠くに来たような気もするが、ぼく自身はずっと同じところにいるような気もする。変わらずに夢中になれるものがある一方で、いつまでも思い出しては嫌な気分になることもある。つまりはいろいろあったわけだけれど、その年月で、自分も父親になったということが、繰り返しになるけれどトニー・スタークと重なるようだ。2008年から観てきたわけではないが、途中からでもリアルタイムで体験できて良かった。見届けられたという満足感でいっぱいだ。アイアンマンに始まり、アイアンマンに終わったところも綺麗だと思う。10年よくやってくれた。あなたはアイアンマンだ。そして、親になってから観るアベンジャーズは熱い。ぼくにもハートがある。

 トニー・スタークはともかく、たくさんキャラクターが登場するので、前からのお気に入りキャラクターが顔を出すと、まるで大勢の中に知った顔を見つけたときのようなうれしさを感じる(なんだそこにいたのか!)。お気に入りの作品、お気に入りのキャラクターは人それぞれあるだろうけれど、ぼくの場合それはスター・ロードやアントマンだった。ユーモラスなキャラクターは友達感が強い。今回スター・ロードの出番はあまり多くないけれど、復活して再登場したときはやはりうれしかった。今回はちょっとトホホな役回りだったなあ。前述のようにアントマンのテクノロジーがみんなの役に立つのもうれしかったし、ネビュラのキャラクターが深くなっていくのも良かった。カレン・ギランみたいなひとは好みだな。お気に入りのひとたちを含めて全員集結してアッセンブルするクライマックスは言うことなし。好きなキャラクターはこれからもどんどん描いていきたい。

2019/05/09

スター・ウォーズの日イベント

 まあ思った通り、連休中やろうと思ってたこと全部はできなかったけれど、もともと立てていた予定は楽しく過ごせたし、ゆっくり過ごせたのでよかった。『アベンジャーズ:エンドゲーム』を観たので、ずっとそのことを考えたりした。遠くから来てくれた友達を案内もできた。ちょうど5月4日でスター・ウォーズの日だったので、六本木のJ-WEVE主催イベントを覗いた。夏日のような暑さで混み合っていたけれど、雰囲気だけ楽しんだ。キッズがたくさん来ていたのが印象的。まだまだ子どもは好きらしい。親の影響もありそうだが。


 去年のコミコンのときからコスプレと写真撮る習慣ができた。天気がいいのでキャプテン・ファズマは遠くからでもかなり目立っていたけれど、近くで見るとダクトテープ大活躍のコスチュームで、そういえば自分も『フォースの覚醒』公開時に作ったヘルメットはダクトテープで仕上げたなあなんて思い出した(結局不恰好になったので処分した)。また作るならやっぱりダクトテープだな。ほかのキャラクターにも使えそうだ。アントマンとか。ただ、ダクトテープは表面が柔らかいので、爪を立てたりすると跡がそのまま残る。傷だらけというのもいいかもね。


 去年のコミコンでも撮ってもらったドラマ『マンダロリアン』のガンファイター。あれからいろいろ新情報が出たけれど、それでもその完成度が色褪せることは全然ない。調べればいろいろな資料が手に入る時代だけれど、少ない情報で絵とか衣装を作るのはやはりセンスが試されるのだろうなあ。一作目公開当時のコスプレなんかも、資料が少ないぶん適当なひともいれば、だからこそ気合いの入っているひとが結構いたということが、残ってる写真からもわかる。そういえば、去年このひとを見て自分もボバ・フェットを出来に関わらず一回作ってみようという気になったのだけれど、この連休が始まる頃についにヘルメットが完成した。運ぶ方法がちょっと用意できていなかったので、このイベントでは断念したけれど、持って来れたらよかったろうなあ。いずれ被っていろんなひとと撮りたい。

2019/05/03

時間はあまりに茫漠なので

 改元が決まった頃にも書いたけれど、これでとうとう生まれ育った年代が終わったわけである。もうとっくに平成生まれということで珍しがられることもなくなったけれど(90年代生まれも同様)、これからは、かつて自分が子どもの頃大人たちに抱いていたような遠さみたいなものを、自分の中にも持っていくことになるんだろうな。もちろんこれは、元号の関係ない文化圏でも同じことで、だいたい10年ごとに区切られた年代の中でひとは大人になったり年寄りになったり、お子様扱いされたり、懐かしんだりする。なんにしても、こういうタイミングで子どもが生まれて親になったというのは、ある種の巡り合わせだろうと思う。娘自身にしたって、旧時代の超末期に生まれて、これから先元号と同じ調子で年を重ねていくことになる。もしかすると、後々になって父親と同じ元号なんて嫌がるかもしれないけれど。でも、元年に1歳は覚えやすいよ。

 時間そのものが人工的なものかどうかはさておき(このあたりのことは詳しくない。惑星や恒星の動きが時間をもたらしているのであれば、宇宙自体が時間を生んでいると言えるだろうし)、しかしこうして時間というものを、キリストが生まれてから100年ごと、その内の10年ごと、あるいは君主在位期間で区切って時代を定義しようというのは、意味のないことではないと思う。いろいろな区分があってややこしいこともあるけれど、しかしそれだけ時間の流れには視点やバリエーションがあるということで、たとえばアベンジャーズの新作を観ている3時間ならあっという間だが、田舎でバスを待っている1時間は半日くらいに思えたり、いやそれはちょっと違うが、まあとにかく自分の中でも人生がいろいろな時期に分けられるのである。そうでなければ時間とはあまりにも茫漠で捉えどころがなく、いつなにが起こったか思い出すこともできないだろう。ちなみにぼくは現代史を考えるときにやっぱりスター・ウォーズ1作目公開の1977年を起点にしがちである。1977年よりあとか前かで頭に印象付けているところがある。つまりはそういうことだ。

「世界のへんな肉」(白石あづさ著/新潮文庫)装画


 白石あづささんの「世界のへんな肉」(新潮文庫)の装画を担当しました。世界各地でいろいろな動物(あまりこちらでは食用のイメージがないものが主)を食べてきた記録で、旅行記としても読むことができます。ぼくはジビエとかは好きですね。

「HAIRMODE」6月号



 女性モード社の「HAIRMODE」でのヴィンテージTシャツ紹介コーナーの挿絵。6月号のテーマは「大学」で、カレッジTシャツが紹介されています。キャンパスの芝生に、学生でないカップルが遊びに来ている図。

 


 そういえば5月号を紹介しそびれていた。テーマは「70年代ロック」でした。ライブハウスに来ているカップルの図。ライブハウスというのをよく知らないので結構調べたけれど、雰囲気出ているだろうか。いつか行くこともあるだろうか。

「SPUR」6月号



 「SPUR」6月号の映画レビュー連載では、5月17日公開の『アメリカン・アニマルズ』を紹介しています。00年代に実際に起きた大学生たちによる希少本強奪事件を描く。白昼堂々図書館の展示室に強盗に入るという無謀な犯行もインパクトがあるが、学生たちの稚拙な動機や計画が形作られていくところがメインでもある。途中で事件を起こした本人たちの証言も挟まれ、時折4人それぞれの記憶が食い違ったりもするのもおもしろく、事件がどんどん伝説みたいになってくる。彼らの人生がいっときの出来心(というからには結構用意があったわけだが)でいかに狂ったかも語られる。ぼくはどうも自分が子どもの頃、十分にどう過ごしていたかを思い出せる年代に起こったこと、あるいはその頃を描いた映画とかに弱いんだなあ。

「婦人公論」5/14号



 ぼやっとしていたらあっという間に改元してしまったけれど、とりあえず溜まっている告知から。「婦人公論」5/14号のジェーン・スーさん連載挿絵。ファム・ファタルというのは魔性の女といったような意味で、本人になにか自覚があるわけではないけれど、どうも異性たちが絡んでくるというスーさんのお友達のお話。時折SNS上でコンタクトを取られるもののそれ以上のことはなにもなく、それ以上は踏み込んでこないということで、一方的に額装されて遠巻きに気にされているようなイメージに。

2019/04/29

適当に休む

 フリーランスと言えども一緒に仕事するのは会社に勤めているひとたちなので、世間が連休となればぼくのほうも急いでやらないといけないものが減る。特に長い連休になるので前もって仕事の量はセーブしたし、中には延ばしてもらったものもある。いい機会なのでちゃんと休みたい。と言ってるそばからこんな時間にブログなど書いているわけだが。描きたいものややりたいことが多いので、退屈はしないのだが(行きたい催しや観たい映画もあるし)、逆にあれもこれもとなって結局休まらなかったりする。休みの間にこれをやろう、なんていう目標みたいなものを持ってしまうと、それが達成できなかった場合に非常に落ち込んだり後悔したりするので、そういうのもやめたほうがいい。それは普段も同じことで、あまり計画を詰めすぎるとうまく運ばなかった場合のストレスがすごい。なにか失ったり痛い目を見たりしていないのに、悲しくなってしまう。おおまかな目処をつける程度で、適度に行き当たりばったりのほうが、ぼくの場合はいいのかもしれない。とりあえず連休は、前もって入っている予定だけ楽しめれば、あとは適当にやろう。無理して満喫しようとするとろくなことがない。無理している時点でそれは違う。楽しいことは楽しもうとして楽しむものではないのだ。

2019/04/16

「フイナム・アンプラグド」issue 9 「惑星移住」イラスト



 「HOUYHNHNM Unplugged(フイナム・アンプラグド)」issue 9(Rhino編集・講談社刊)の「惑星移住」特集ページにて、見開きで火星都市のイラストなどを描きました。昭和の空想科学っぽいヴィジュアルですが(「火星での暮らしはこうなる!」みたいな)、内容は最新の研究や開発に準じた宇宙入植についてのお話。火星だけでなく、月の洞窟の中や、木星の衛星エウロパの地表を覆う氷の下の海中なども地球人の移住先の候補として登場します。火星の都市は昔から言われているように、地表にドーム型の都市を建設するやり方が考えられているそう。

 この仕事をしていたのはちょうどレイ・ブラッドベリの「火星年代記」を読んでいたときだったので、ロマン溢れる火星世界へのイメージがかなり膨らんでいた。もちろん「火星年代記」における火星はかなり幻想的な世界なので、今回そこまで取り入れることはなかったけれど、とにかく火星という世界観について考えるきっかけになった。

 ちなみにページのノド(左右ページの真ん中、束にあたる部分)付近にある球体が4つ合体して脚の生えたメカは、かつてフォン・ブラウン博士が構想して雑誌「コリアーズ」で発表した月面着陸船、ムーンランダー。高さは約49メートルで、地球軌道上で造船して月に送られる計画だったらしい。そのスケールの大きな計画にクラっとくる。実現しなかったというのがまたいい。地球人の宇宙開発の違うバージョンやルートが存在したかもしれない、なんていう想像も膨らむ。比べ物にならないと思うけれど、ぼくの絵もなにかそういう想像や空想を掻き立てるものになればと思う。

スター・ウォーズEP9 ティーザー所感


 タイトルは『The Rise Of Skywalker』。邦題はまだ出ていないけれど、「スカイウォーカーの復活」とかだろうか。プリクエル3部作、オリジナル3部作、今回のシークエル3部作、合わせて9部作をスカイウォーカー・サーガとして区分するというような話もある(ということはスカイウォーカー・サーガではないSWを展開する予定ということだ)。ここで言うスカイウォーカーとは、もはや個人名やいち家族の名前ではなく、「フォース」や「ジェダイ」と並ぶひとつの概念だろう。9部作を通して繰り広げられた伝説全体の象徴、現象としての「スカイウォーカー」みたいな。単にスカイウォーカー姓の人物がRiseするというだけのお話ではないと思う。もちろん、現時点でスカイウォーカーの末裔であるカイロ・レンことベン・ソロは重要な立ち位置だろうけれど。

 とにかくティーザーの中で驚くのは、海の向こうに見える不気味な残骸と、暗転して聞こえてくる笑い声である。残骸はデス・スターのクレーター周りの部分であることがわかるし、笑い声はもちろん銀河皇帝パルパティーンことダース・シディアスのそれである。セレブレーション・シカゴでのパネル中継でティーザーを観たわけだけれど、上映終了後に会場が明るくなると、ステージ上にはなんと皇帝役のイアン・マグダーミドの姿が。これは皇帝が登場ないし絡んでくること確実である。そう来たか。スカイウォーカー伝説は最初から最後までその影にパルパティーンが潜んでいたということだ。それは宿命の関係であり、表裏一体。伝説の最後にこの最強のシス卿が現れることで、今回の3部作もまた前の6部作と接続し、9部作全体に一本の道が出来る。終わらせ方としてはとても綺麗ではないだろうか。

 パネル中継でティーザーを観られてよかった。深夜だったけれど、一緒に観ている友達とLINEでやり取りしながらというのも一興。中継ではイベントのテンションが伝わってくるし、前述のようにイアン・マグダーミド登場という演出など、朝起きてからとっくにアップされた動画をひとりで観るのとは全然違う充実感がある。アメリカでのSWセレブレーション、一度行ってみたいなあ。

2019/04/10

マーベル・データバンクは難しい

 『アベンジャーズ』シリーズからなるマーベル・シネマティック・ユニバースを、原典のコミックのことも絡めて体系的に網羅したデータバンク・サイトがあったらいろいろとわかりやすいのではないかと、友達と話題になった。現状でもないわけではないが、ひとによって深度はばらばらだし、最近の傾向として映画の話はキュレーション・サイトみたいなところばかりヒットする(ぼく自身映画サイトに寄稿していることはさておき)。個人のブログもあるにはあるけれど、全体を網羅というわけにはなかなかいかない。ウィキ形式のサイトは個人的に読みづらいし、項目ばかり増やして記事の中身がすかすかなんていうのが多すぎる。SNSの書き込みにもへえ〜と言いたくなる設定の説明があったりするけれど、まとめられていないので残念。書くこと書きたいことがあるのなら、ツイッターだけじゃなくブログでもいいからまとめて書き出したほうが絶対いいと思うんだけどなあ。

 かえって映画雑誌の特集や別冊などでアメコミ映画を解説している号のほうが、時系列や簡単な用語集などあって参考になる場合がある。個人ホームページの文化が廃れた今、やっぱりそういうところは本や雑誌が強いのだとわかる。もちろん本はあとで更新ができないので(版は重ねるが)、もしMCU大全みたいなものが出るとすれば、『エンドゲーム』が終わって一息ついたところで、だと思うけれど。

 もし大真面目にちゃんとMCUについてまとめるのであれば、ドラマ・シリーズもカバーしなければならない。ぼくも映画のシリーズは好きなので、個人的にいろいろまとめてみようとは思ったのだが、いかんせんこのドラマ・シリーズというのを全然観ておらず、全部観る気にもなれない。少しでもフォローしきれない部分があるのであれば、全体的なものは作れないなあと思って頓挫する。もし映画シリーズしか知らないでデータバンクみたいなものを作っても、中途半端なものになるし、作る意味がない。読む意味もない。映画がコミック版からどういう引用をしているのか、コミックではなにがどう描かれているのか、映画の裏側をドラマ・シリーズは描いているのか、そういう関係を整理したいからこそデータバンクが必要なのだ。映画を観ればわかることだけわざわざもっともらしく書いたってしょうがない。そういうわけで全てを網羅したデータサイトを作るには、コミックを初期から最新まで体系的に理解し(できることなら全て読み)、ドラマも全て視聴して細部まで記憶している必要があるので、とてもいち個人では無理な話。だから今もそこまで良質なものが存在しないのだろう。しばらくは断片的なものを集めて自分なりに整理するしかない。しかし、あれだけ相互に関係した映画たちが集合した一大シリーズ、百科事典的な存在がないのはもったいない。あったらより楽しいのになあ。一応断っておくけれど現状数多あるマーベルのファンサイト、ブログ等を否定するものではありません。

お休みの前がハード

 ゴールデンウィーク進行というやつでひいひい言っている。普段より二週間くらい早めのスケジュールになるので大変である。気分的には4月は半分しかない感じ。休みに入る前にいつもよりハードになるのなら普段通りのお休みのほうがいいような気もするが、もちろんまとまった連休も必要なのでしょう。今度のGWは珍しく遠方から友人(まだ会ったことないひと)が遊びに来るので、いつもよりは遊びの予定があって楽しみ。フリーランスで仕事しているとはいえ、なんだかんだ周りがお休みであればこちらも急ぎの用が無かったりするので、結局はぼくもお休みのような感じ。もちろん休みの間にやらないといけない場合もあるけれど、思えば最近はそういうのが減ったような気がする。ぼくがうまいことできるようになったのか、以前よりしっかりした相手と仕事ができているのか。両方かな。少なくとも自分では結構できることが増えてきた気がする。描けるものも。相変わらずころころと線の具合が変わるけれど、妻曰く傍目からは大した違いはないらしい。ぼくには先週描いたものと今日描いたものが全く違って見えるけれど、それは自分だからか。自分よりも他人のほうが、ぼくの絵をぼくと結びつけて捉えているのかもしれない。自分では、去年描いた絵はすごく遠く感じられるけれど、ほかのひとには、ぼくの絵に変わりないものね。

2019/04/04

若干感覚過敏かもしれない

 いわゆるチック症である。これはもう子どものときからぼくのこと知っているひとは嫌というほどぼくの顔が歪んだりぐしゃぐしゃ動いたり瞬きがやばかったりするのを、見たことあると思う。これのせいで随分生きづらさも感じたし、これさえなければ毎日はもう少し楽しかろうと思っていたが、さして努力をするタイプでもないので親になった今でも治ってない(治るものなのかどうか謎だ)。

 この先も恐らくは付き合っていかなければならないものだろうと思うけれど、しかしどうして自分が無意味な動作を繰り返すのかというのはいつも考えている。原因がわかればそれを取り除くことができるかもしれない。これまでなんとなくわかっているのは、その動作が「どんな感じか」をもう一度確認したくてやっているらしいということ。それが延々繰り返されるわけだ。今の感覚をもう一度確認してみよう。それがもう一度では終わらない。一度繰り返したら、またもう一度確認したくなるから。要するに気になるのだ。顔が。顔のいたるところが気になる。

 チックは気にしないことが肝心、というのを聞いたことがある。でも気になってしまうのがチック(だんだんなにを言っているのか自分でもわからなくなってきた)。シンプルなことだが、実行するのはなかなか難しい。

 どうして顔が気になるのかはわからない。とにかく気になる。ムズムズする、とでも言えばわかりやすいのかもしれないけれど、ムズムズという擬音がこの感覚をうまく言い表せてるとも思えない。今思いついた表現を使うなら、モワモワというような感じだ。モヤモヤとは違う、モワモワ。顔の中心から放射状にモワモワが広がっている。なに言ってるんでしょうねこいつは。

 ところで、花粉症がひどいのでマスクをして出かけたら、なんだか妙に顔が楽だった。顔が楽ってちょっと意味がわからないけれど、なんとなくモワモワが軽くなる。なにかが顔に触れているといいのだろうか。確かに、手で顔をおさえていると楽だ。頬杖をつく癖がついたのも恐らくそのせいだし、夏目漱石が写真でやっているような具合に頭おさえる癖もそう。だから、小学校の卒業式の練習で、黙って両膝の上に両手を置いているのが苦痛だった。そういうときは眉間がモワモワする。もちろん顔に触れたりすると先生が怒る。「我慢が足りない!」

 前にも書いたように花粉症用のメガネもするようになったんだけど、それもやっぱり着けていると楽だ。花粉症が楽ていうのももちろんあるが、顔が守られている感じがする。思えば、サングラスかけているときもそうだった。サングラスは他人と目を合わせないで済むから好きだったんだけど、守られている感じもよかったんだ。

 と、いうようなことを妻に話すと、あんたそれは感覚過敏かもしれないよと言う。音や光、感触に過敏というやつで、そういうひとはマスクやサングラス、ヘッドフォンをして過ごすととても快適らしい。おお、確かにそれ全部着けていたらぼくは完璧に守られる。ぼくは大きな音も大変苦手で、生活音もそうだけれど、音楽ガンガンのところにいくと具合が悪くなる。人生で一度だけ行ったビーチフェスは音楽を楽しむどころではなかった。まあ、ああいう場所が純粋に音楽を楽しむところなのかは甚だ疑問なのだけれど(言うな)。

 近頃はなんでも分類されていて、なんにでも名前がついている。それぞれの認知度が上がったいうのもあるし、症状を抱えるひとが以前よりもそのことを発信しやすくなったというのもあるだろう。実際にどうかは置いておいて、今ぼくが書いているこれもそうだ。そして、ぼくは症状に名前がつくと、よりそのことを意識してしまうタイプ。暗示にかかりやすいわけだ。だから、妻から感覚過敏の話を聞いてから、やけに感覚が過敏になった気がした。とは言え、その言葉を知るよりも前から顔がモワモワしていたのは事実だし、そこに名前がつき、同じひとが大勢いるということがわかるだけでも、言い知れぬ不安が少しは軽くなるというものだ。もしかすると、顔のモワモワはもっと違う名前で呼ぶことができるのかもしれないが、とりあえず感覚過敏というラベルをつけるだけでも、その正体がわかったようで気が楽になる。

 結局のところ、ストームトルーパーのヘルメットをかぶって過ごすのが理想だとは思うけれど、なかなかそうもいかないので、ぼくの大きな頭に合うヘッドフォン、こめかみを締め付けないサングラスを見つけよう。近すぎる世界に対してできることはそれくらいだ。