2019/02/23

新しい線の研究


 隔日で締め切りみたいな日々なんだけど、時間の使い方は自分次第なので、隙間のような時間を使ってちょっと落書きをしている。仕事はデジタルメインだけど、そうじゃないところでは紙に描く習慣は、少し残しておきたい。フォトショップのブラシは大好きで、これも立派な画材だと思ってるけど、紙に描くときのペンはやっぱり別に必要になる。フォトショップの自由でダイナミックに描けるブラシに慣れると、どうも今まで使っていたペンでは物足りなくなってくる。落書きだけではなく、たとえば年賀状を描くときにちょっとハガキに絵を描きたいときにも、調子が出ない。なにか工作をするときに、紙細工に直に描き込みたいときも同じ。こうなってくるとまたペン探しをしたくなる。ペン探しは専門学校に入ったときからなんだかんだずっと続いている。フォトショップにしたって、つねに新しいブラシを試している。仕事にせよ自主制作にせよ、そのとき使っているブラシというのは、今のところはこんなものかな、というくらいのもので、完璧ということは全然ないんだな。これは絵の描き方とも同じで、つねに実験という感じ。

 この消防車の絵は、今回新しく触ったペンで線を描いた。色はいつも通りフォトショップ。使ったペンはウィンザー&ニュートンのウォーターカラーマーカー。つまり水彩タッチで描ける筆ペンのようなもので、どうしてこれを使ってみたかというと、少し太い線をやってみたかったから。太いと同時に強弱がつけられて表情を出せるようなものがいい。筆で主線を引くというのにも興味があった。そういうのがうまくできるようになれば、アナログで大きな絵も描きやすいし、空間の使い方もよくなるかもしれない。工作にもちょうどいい。


 同じようなマーカーは結構あって、世界堂の狭い通路で何人も他のお客さんをやり過ごしながら時間をかけて数本選び、家で試していちばんいい感じだったのがこれだった。ボディがちょっと太めなのがかわいい。持ちづらくはない。こういうマーカーのいいところは、強弱がつけられるだけでなく、途中でかすれたり、濃淡が出たりするところ。特に塗りつぶしをやったら結構ムラができて、よかった。全く隙のない完全なベタ塗りというのは、自分でやるにはちょっと味気ない。真っ黒に塗るところにも濃淡がほしい。


 リンダ・カーターのワンダーウーマン。この頭髪のところ、ぼくの思ういい具合のムラができている。スキャンした線画をフォトショップで補正する際にも、少しムラが残るように調整する。これで、画面の中にも少しアナログの雰囲気が残る。それが重要。そういうのがかわいさになると思う。アナログ風のブラシというのを、フォトショップで延々と調合し続けて、このくらいかと思える具合になったところでそれをしばらく使ってみる、というのを繰り返しているのだけれど、今回このマーカーを使ってみてちょっとわかったことがある。アナログの線というのはやっぱり偶発性だ。予期しないところで急に薄くなる、かすれる。そういう不規則さがアナログの線だと思う。今までぼくはフォトショップでアナログ風のブラシを作るとき、線の表面における粒子の「散布」を調節することに重点を置いていた。それをやるとちょっとインクがにじんだような感じになる。ところが、そこはあまり重要じゃなかったんだ。散布も結局は規則的なものでしかなく、線に強弱はつけられるが、散布に変化はつけられない。なによりずっとにじんでいるので絵がいまいち締まらない。鉛筆のような柔らかさがあるので、ゴシゴシ塗ることで微妙な濃淡は出せるが、線を引いていたら急にかすれたり薄くなったりというのとはちょっと違う。というわけで、マーカーで覚えたことを生かして新しいブラシを調合してみよう。

2019/02/14

メール問題一応の解決

 早くも2月中旬だが今月仕事の告知以外全然ブログを書いていないので寝る前に筆を取る。更新する暇がなければ更新しないでいいくらいの気軽さではいたいけれど、書きたいという気持ちは強い。

 しばらく悩みの種だったEメール問題が一応解決の兆しを見た。と言うのも、ずっと連絡が通じないひとが何人かあって、こちらから送信はできているようだが、一切先方からの反応が見られないというのが続いていたのだ。ぼくの性格上こういうときはなにか怒らせてしまったのではないかと焦るのだけれど、複数の相手がそうであること、メールの内容に質問のニュアンスが含まれていようとなかろうと関係がなさそうなことから、なにか技術的な問題らしい。しかし、メールの送信に失敗すればその旨が通知されてくるはずである。それがないということは、送信に成功しながらもどこかで停滞しているのか。このあたりのことはとても疎いので(サーバーというものがなんなのか、説明しろと言われても十分にできるか怪しい)、あとはもうこの症状について思いつくワードを打ち込んで検索するしかないのだが、これが全然あてにならない。どうも最近の検索エンジンというものはアクセスの多い記事ばかり上位にあげ、なおかつこちらの入力した言葉を打ち消して違う候補を引っ張ってきたりするものだから、こういう特殊な現象について調べづらくなっているような気がする。それらしいものがヒットしたとしても、質問サイトに数年前寄せられた質問くらいしか見当たらず、技術的な問題について調べると絶対そういうのに行き当たるのだが、大抵の場合質問者の言葉足らずを冷たい感じに諭す回答ばかりで嫌になる。OSとバージョンを書いてくれなきゃわかりませんとかなんとか。そうして質問者がOSとバージョンを書き込むと、さっきそれを聞いた回答者はその後一切なにも書かなくなる、なんてことがよく見られる。OSとバージョンってそんなに重要なのかな。それがわからないと全然なにもアドバイスのしようがないほど?

 そういうわけでいくら調べても進展はなし。でもいろいろ調べてわかったことは、もう相手のメール受信の設定次第なので相手に対処してもらうしかないらしいということ。それじゃあぼくが打つ手はとりあえずないなあ、ということでしばらく落ち着いていたのだが、先日連絡の途絶えていたひとと電話で話す機会があって、聞けばぼくのメールは全て届いていたらしい。お返事もくれたと。ゾッとする。つまりぼくが向こうのメールを受信できていなかったということだ。しかも、先方は数ヶ月前からぼくにあることを問い合わせていたらしい。さらにゾッとする。なんということだ。大事には至らなかったけれど、ますます解決しなければならなくなった。それも早急に。一体ぼくはほかにどれだけのメールを無視してしまっているのだろう。

 普段使っているメーラー、サーバーのメーラー、さらにサブのGメールと、それぞれの設定を嫌というほど調べたが、いまいちわからない。ゾッとする事件以降、とりあえずの措置として一部のひとたちとGメールでやりとりするようになったので、前よりもGメールの方を頻繁に覗くようにしていたのだが、そこであることに気づいた。Gメールに届き、メインアドレスのメーラーに届かないものがある。独自ドメインのアドレスを使い始める前はGメールを長らく使っていたものだから、前のアドレスに届くものもチェックできるようにと、Gメールアドレスに届いたメールをメインアドレスに転送する設定にしていたのだが、Gメールにしか届かないメールがあるのはどういうことだろう。よくよく確認すると理由は単純だった。Gメールに問題なく届くメールが、メインアドレスの方では迷惑メールに振り分けられていたのだ。なにが相手の受信設定だ、完全にぼくの方の問題である。迷惑メールは開けば開くだけまた届く、みたいなことを聞いていたので、中身を確認せずにフォルダごと削除し続けていたから、その中に普通のメールが一通混じっていてもわからない。まあ、都度中身を覗いたとしても、迷惑メールは膨大な数来るので見つけられたかどうか怪しいが。

 原因はこれしか考えられない。それまでやりとりをしていたアドレスを、一体どの時点で迷惑メールに指定してしまったのかは全然わからないが、ともかくこれで原因らしい原因はわかった。すぐに迷惑メールのフィルター機能をオフにして、全てのメールを一度受信トレイで受け取るようにする。あっというまにスパムが溜まっていくが、Gメールでしか受信していなかったメールがこちらでも問題なく受け取れるようになった。こんな単純なことだったとはね。いくら調べてもわからないわけだ。最初からこんな単純な原因は考えになかったのだから。

 ついでにもうひとつ解決したことが。これも非常に単純、というかかなりおバカなことだったんだけど、どうやらGメールに届いたメールをメインアドレスに転送するという設定の上に、さらにメインアドレスに届いたメールもGメールに転送するよう設定していたらしい。どうしてそんなことになっていたのか全然覚えがないが、とにかくそれも全て解除したら、届くスパムメールの数が激減した。つまりだね、ふたつのアドレスの間で迷惑メールの転送が延々と繰り返されていたのだ。さすがに昔のように永久にループするような事態にはならず、途中でせき止められていたようだけれど。Gメールの方にやたら「Mail Delivery Subsystem」からのリターンが届いていたのも、別に乗っ取られてスパム発信に使われていたとかいうわけではなく(それらのリターンは普通のメールについて届いていた)、単に転送の問題で出たエラーだったらしい。

 不通だった連絡もつき、迷惑メールも激減してひと安心。メールが届いたか届いていないかわからない状態というのはなんとも落ち着かないし苛立つことで、半年以上そんな感じだったんだけど、どうしても確認したいことがあればやはり電話したり、なにか挨拶することがあれば葉書を書くのがいいようだ。だからやっぱりアナログな方法も残しておかないといけないんだろうなあ。もちろんメールは常に万全の状態にしたい。どうも大変ご迷惑をおかけしました。

2019/02/03

営業報告


 「5歳からの哲学 考える力をぐんぐんのばす親子会話」(ベリーズ・ゴート、モラグ・ゴート/高月園子 訳/晶文社)で、カバーイラストと中の挿絵を描きました。タイトルの通り、親子で楽しめる哲学の本です。イギリスの現役小学校教師と大学哲学教授による共同執筆で書かれた本の、翻訳版。大人と子どもが一緒に考えることのできる内容です。難しいことを簡単に柔らかく、わかりやすく説明することのほうが大変なことですが、そのほうが本質に近いこともあります。余分な情報が少ない分、コアが見えてくる。というわけで大人がひとりで読んでも非常に興味深いです。


 黄色いカバーがいいですね。イラストを引き立ててもらっています。黄色い本をどんどん作りたいですね。





 挿絵も多いのでぜひ。動物やロボットなど、子どもが馴染みやすいキャラクターがモチーフになって、ちょっとした出来事、シチュエーションのお話に沿って、こんなときどう考えたらいいだろう?というような問答が用意されています。
 それにしてもぼくはロボットを描こうとするとだいたい2-1Bとかアイアン・ジャイアントっぽくなる。




 「SPUR」3月号(集英社)の映画レビュー連載では、ニコラス・ホルトがJ・D・サリンジャーに扮した『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』。サリンジャー生誕100周年にあてた映画で、人々の前から姿を隠してしまった伝説的小説家の半生を描きます。一切のノイズを遮断して創作に打ち込みたいという願いは、サリンジャーでなくとも作品を作るひとならわかるんじゃないかなあ。本の装丁にこだわり、イラストレーションによる説明を一切拒否しようとしたり、人付き合いを最小限にしたり、なにもない小屋に閉じこもったり、どこかこう、ミニマリスト的なものを感じる。極端だけれどね。




 「婦人公論」2/12号(中央公論新社)でのジェーン・スーさん連載の挿絵。人生のところどころで生活が一変していく女性たち。全然別々のライフステージを歩んでいながらも、どこかで点と点が結ばれて協力し合えることもある。というところが伝わる挿絵になっていればうれしい。

2019/01/29

娘、つかまり立ちをする

 あっという間に随分大きくなった。転がって移動するようになったと思っていたら、そのうち手足でずり這いをはじめ、そうこうするうちに膝を折ってはいはいの姿勢になり、同時に膝を立てるようにもなり、そうしたらもう正座のようなポーズをして、そのまま適当なところを手で掴んで立ち上がるようになった。これらのことがほんの一ヶ月くらいの間に起きたので驚いている。ある程度思い通りに移動ができるようになると、家中どこへ行っても後を追ってくる。少しでも姿が見えなくなると不安がって泣き顔で追いかけてくるのだ。しかし、ようやく彼女がぼくを追って洗面所までたどり着く頃には、ぼくは用を済ませてリビングに戻るところ。健気にもすぐに方向転換してまた追いかけてくる。姿が見えなくなると追いかけてくる、というのは寂しいという気持ちを覚えたということなので、いよいよこれは心が成長してきた証拠である。

 劇的な成長を見てふと思うのは、彼女の同級生にはまだ生まれてきていない子がいるということ。これはよく妻とも、そういえばそうなんだよなと言い合って不思議がっている。本当に不思議だ。あんまり不思議がると早生まれのひとにはなんだか失礼な話なのだけれど(妻も2月生まれだから、同級生がつかまり立ちするようになった1月にはまだ生まれていなかったわけだ)、そう考えると一年というのは思っていたよりも長い。同じ学年であってもいろいろな段階の子が一緒になるということなんだな。
 
 これは別に一年間のどの時点に生まれたかどうかの話はあんまり関係ないかもしれないが、中学に上がったばかりのとき、随分みんな体格が様々だなあと思った。このあいだまで小学生だったこともあって、まだまだ幼げなやつもいれば、もうほとんど出来上がっておじさんみたいなのもいて、ぼくみたいにでかいのもいれば、小柄なのもいた。さすがに中学の段階になれば月齢なんてもはや関係ないほど同じくらい成長しきっているのだろうけれど、一口に同い年と言っても内訳は様々で、本当は同じ条件で比べてもしょうがないくらい多様だったんだなあと思う。気の合うやつもいれば、全然合わないやつがいるのも全く当然のことで、あそこまで能力とか体格の差に辟易することもなかったなあ。と、そんなのことは大人になって、教室というのをゲームの俯瞰図のように見下ろせるようになったから言えることなんだけれど。

 中学行ってショック受けたことなんて挙げたらきりがないんだけど、なによりもまず学年の階級制度ね。学年ひとつ違うだけでひとはあんなにも尊大に振る舞えるのかとひどく驚いたものだ。小学校の頃は上級生だって君付けして遊んでたのにな。完全にその頭で中学上がったからとてもショックだった。ああ、もう年長のひととはレゴで遊べないのかと。なんだかわからないままそんな階級社会に組み込まれてしまったので、困ったものだ。そりゃ確かに迫力のあるひともいたけれど、大抵はぼくなんかより背が低くて幼い顔したやつばっかりで、そういうのが一生懸命怖い顔をして、低くなり始めたばかりの声でがなり立ててるのは可笑しかった。が、誰も可笑しがらないんだな。思っていても全然出さない。本当に誰にも聞かれないところで初めて同級生たちが本音を言ってくれたときにはほっとしたものだ。この階級制度がまだまだピュアなぼくにはあまりにも滑稽で不思議でならなかったので、中学校生活が少し慣れはじめた頃にあった担任との個人面談でこのことを聞いてみた。少しは慣れたか、困ったことやわからないことはないかと言うものだから、聞いたわけだ。こりゃ一体なんなんですか? すると担任は、
「最初はそりゃびっくりするかもしれないね。でも、先輩後輩の関係は社会に出ても一生ついてまわるから、練習だと思ったらいいよ」
 マジかよ。これを聞いたときの絶望といったらない。てっきりあの厳格な階級制度は教師のあずかり知らぬところで勝手に敷かれてるもので、なにかこう、一種のいじめみたいなものだと思ってたから、やめさせたほうがいいんじゃないですかくらいの感じで指摘したんだけど、先生もグルだったか。だめだこりゃ。こんなことを黙認してる学校にこれから三年も通うのかよと、蒼白である。よく耐えたものだ。まあ三年間とは言っても、三年生はもう上がいないので、神経使うのは二年間だけなんだよな。とは言えこの二年が子どもには長い。永久に感じられた。

 当時も滑稽に思っていたので、大人になってからはもはや微笑ましいくらいに思える。なにを怖がっていたのか、みんな同じように子どもだったのにな。もちろんそれも今だから言えることだ。いや、今でもあの年代の強そうなやつは怖いがね。ぼくは自分がすっかり大人になってるという意識が薄いので、というかたまに忘れるので、たまに賑やかな学生グループがいると、絡まれたらどうしようと思ってしまう。

 そこで生まれた月の話に戻る。あの階級制度、学年という線で区切られてはいたけれど、生まれた月で考えたらほとんど同い年みたいなことも当然あったろうね。たとえばおっかねえ先輩が3月末の生まれだったとして、こっちが4月始めの生まれだったら、とか思うと、もうくだらなくなってくる。なにをあんなに威張り腐っていたのだ。そうでなくともほんの数ヶ月同い年みたいな期間もあるわけで、ああ、なんで当時は気付かなかったのだろう。いや、気付いていたら気付いていたでより釈然としなかったか。とにかく、そんなよく考えれば当たり前のことにも、なかなか思い至れないほど感覚を麻痺させる世界だった。娘にはそういうのとは無縁な世界で生きて欲しいものだ。あんなものは知らなくていい。

2019/01/15

とりあえずポケモンを描く




 なんだかんだポケモンを描くのは楽しい。やはりぼくはポケモン・キッズだったか。ゲームは、DSになってからのものもちょっとはやったんだけど、未だに名前がわかるのは第3世代くらいまでなので、もう少しいろいろやり込んでいきたい。最新作はもちろん、未プレイのものはかなり溜まっているはずだ。興味はあれどまだ手に取っていない本同様、これからの楽しみである。だいたいポケモンの名前が言えないなんてダサい。

 いずれにせよ、今も昔も最初の三匹というのは進化するとかわいくなくなるという様式らしい。進化してもかわいいままのやつだっているのにな。特にぼくは真ん中の段階のやつが一番かわいくないように思う。最初はかわいいし、最後もかわいくはないにせよインパクトや完成さがあるんだけど、真ん中は真ん中だけあってどうも中途半端な見た目だ。これが三部作映画だったら真ん中の作品は名作になることも多いのに。リザードとか全然好きじゃなかったなあ。思えばこれまでプレイしたタイトルでは一度も最初に炎タイプを選んだことがないと思う。絶対に草か水を選んでいる。モチーフの動物がそっちのほうが毎回好きなやつ、ということもあるだろうけれど、なんとなく炎は敬遠している。真上に向かって炎を吹いて、翼と両腕を広げた堂々たるリザードンのイラストを初めて観たときは、子どもながらに魅力を感じはしたが、どうもその熱いイメージが、これから冒険をしようっていうときのお供に選びづらいのだ。今度未プレイのものをやるとき、試しに選んでみようか。
 
 ふとプライム・ビデオでアニメの第1シリーズを見返し始めたら、なんとも言い難い感情の波のようなものが押し寄せてめまいがするようだった。単純な懐かしさだけではない。あの無限とも思えた時間の感覚や、毎日少しずつ違うことが起こることの楽しさや未知への恐怖、色の洪水、嫌だったこと、夕食の時間、13インチくらいのブラウン管の光、大嫌いなあいつら、好きなひとたち、ソフトビニールの匂いとか、そういうものが一気にやってきて強烈なものを感じた。子どもの頃夢中だったもの(今でもだいたい全部好きなんだけど)はほかにもたくさんあるが、こういう感覚がやってくるものはポケモンのアニメくらいからしかない。ほかのものは大人になってからもちょくちょく摂取しているせいかもしれないし、ポケモン第1シリーズは放送当時以来観ていないからかもしれないが、とにかく強烈だった。芋づる式に記憶が蘇ってきてそれはもちろん嫌なことも含まれているけれど、なにか逆に新鮮なものを感じた。感覚の中でも特に匂いは記憶を呼び起こすというが、なんだろう、この場合は単に視覚が記憶と繋がっているだけではないような気がする。毎週欠かさず観ていたわけではないので、途中観たことがない話も多いのだが(そもそも第1話からも観ていない。ゲームで炎タイプを避けてきたのに対し、アニメ版で最初に観たエピソードはヒトカゲと出会う回だった)、はっきりと見覚えのあるエピソードはこれを観たとき自分は部屋のどのあたりに座ってテレビを観ていたのかとか、空間の感覚が一気に戻ってくるようだった。さすがに晩御飯までは覚えていないが、その時期の自分がどういう暮らしをしていたのか、日々の楽しみはなんだったのか、そういうものが思い出された。大抵の場合懐古に走るのはみっともないことだとされがちだが、もともと自分がなにを好きだったのかは忘れたくない。そうしてそれは今の情報の多さの中にいると簡単に忘れてしまう。迷ったらスター・ウォーズかポケモンを描けばいいのだ。

 ちなみに問題の第38話はプライムの一覧にも当然無い。視聴不可能にして永久欠番。でも最近ポリゴンのぬいぐるみとか見るようになったね。あいつに罪はないもの。

2019/01/14

「文藝別冊:総特集 森見登美彦」


 小説家・森見登美彦さん特集の「文藝別冊」(河出書房新社)、「森見登美彦をつくった100作」ページにてカットイラストを描いています。100作なのでそのまま100点。一度に描いたカット数としては最多です。子どもの頃から大人になってからまで、4つの時期に分けてお気に入りの作品が紹介されています。本は書影、映画はポスターやイメージとなっています。エッセイ集「太陽と乙女」(新潮社)の装画に引き続いて森見さんの世界にイラスト添えられてうれしいです。



 絵本や児童文学から始まり、コミックや映画、小説へとその世界は広がっていきます。自分が好きなものがあるとうれしく、まだ触れていない作品には興味が湧いてきます。


 SWはやっぱり第1作目ポスターがかっこいい。



2019/01/07

とりあえず2019年の計画を書き出す

 非常に好き放題の休みだったがそれももうおしまい。明日からまた描いたり考えたりすることが増えるので、その前に一旦今年やりたいことを、実現可能かどうかはさておきひと通り書き出しておきたい。

 まずは絵をたくさん描く。のびのびと。これは放っておいてもやるだろうしやらないとどうしようもない。去年後半はずいぶん描けたから、この調子で続ける。

 ブログをめちゃくちゃ書く。これも今の調子で続ける。去年の年間記事数がいまのところ最多なので、今年はそれを上回るように。書きたい書きたいと思いながらもやっぱり書き逃すことが多いので、もう少し気軽にやりたいな。あと、書くのに時間がかかってしまうこともあるので、できるだけ短い時間で書くことを心がける。本当にすぐ煮詰まっていけない。長文はいいけどくどいのはいけない。

 そもそもブログに集中しようと思ったのはSNSがどんどんやりづらくなってきたからだが、今年はより一層使い方を考えたい。特に半ば放置しているフェイスブック・ページをどうしたらいいか。一応インスタグラムと同期させて同じような内容にしようと思ってるんだけど、果たして。ツイッターとインスタグラムはなんとなく住み分けできるけど、FBはブログがある以上必要を感じないんだよなあ。ブログの更新や新しい絵のアップをし続けるだけのお知らせコーナーでもいいんだけど、それもそれで味気ない。FBだけで見てる場合そんなのはあまりおもしろくないし。いやいや、FBだけで見ているひとのことを考え始めたらそんなの全部のSNSでそれぞれの閲覧者を気にしなきゃいけなくなるので絶対考えないほうがいい。見てるひとのためにやらなきゃというのが多分一番モチベーションの低い動機。どうしたものか。

 SWサイトを作り込む。なんだかすっかりさぼってる、というか忘れてるんだけど、ぼくは一応SWのファンサイトを作ったのだった。今のところはこのブログで書いたことをそのままイラストと一緒に移してるだけなんだけど、せっかくホームページなんだから単なるアーカイブだけでなくもう少し作りたい。とりあえずタイトル通り自分の好きな、自分の思うSWを集めたスクラップ帳みたいにすればいいと思っていたんだけど、それにしてもちょっと方向を決めなさすぎたかも。入門的なページがあるとか、各話解説があるとか、キャラ図鑑があるとか、なにか好きなキャラクターについて掘り下げるとか、そういうのをもう少し、なんとなくでいいから決めてもいいかも。縛りをつくると、また例によって身動き取れなくなりそうなので、ゆるくていいんだけど。

 SWサイトのほかに、「ハリー・ポッター」のサイトも作りたいなと密かに考えている。ホグワーツをホームページで作れたら楽しそう。あまり凝ったことはできないし、すぐ続けられなくなるので、本当に簡単なイラストで教室とか部屋とか、ヴィネット的なものを描いて並べて貼ったりしたい。で、そこまで考えるとそういうのをSWでもやりたいなと思えてくる。デス・スターとか、ジャバの宮殿とか。

 あとは持ち物を減らす。まあこれは一番難しいんだけど、結構コレクションや持ち物が増えてきたところで、一旦整理をしてみたい。やたらに物を処分するのは気がひけるが、物欲や収集にきりがないところもあるし、なにより空間が有限である。好きなもの、大事なものをより愛せるように、比較的どうでもいいものはどんどん手放そう。それはまあライフワーク上の活動も同じで、やりたいことが多いからこそ、やらなくていいことを最初からある程度決めておいたほうがいいかもしれない。向いてないこととか。とりあえずそんなところか。年始に構想する計画としてはずいぶんどうでもいい感じのことばかりだが、思いついたらまた書こう。もっと個人的なことはノートに書き出しておく。

2018/12/31

今年は変化が多かった

 今年はとにかく変化が多かった。まず子どもの誕生。そしてそれに伴う引っ越し。新しい生活と仕事場。それらの変化は自然と仕事のスタイルにも影響して、進め方や描き方もそれなりに変わったと思う。このブログをできるだけたくさん書くという習慣も変化のひとつだし、ブログへの集中はまたほかのSNSの扱い方も変えることになった。サイト上のことでいちばん大きかったのは描いたものにキャプションをつけるのをやめたこと。それによっていちいちタイトルやテーマを意識せずに伸び伸びといろいろなものを描けるようになった。タイトルはおろかコメントをなにもつける必要がないとなれば、結構題材選びに抵抗がなくなるものだ。今まで描かなかったタイプのものにも触手が伸びる。そしてそれは、新しい仕事をもたらす。いい傾向だと思う。今まではなにがしたいのかわからない感じに見えやしないかというような心配があったけれど、そんなのは余計だ。それにたとえそうだとしても、なにがしたいかわかりやすいよりも、おもしろいのではないか。少しめちゃくちゃな感じにしていいと思う。

 そう、今まであまりにも真面目に描きすぎた。もちろん仕事は真面目にやるが、それだけの意味ではなく、どこか窮屈な感覚で描いていたように思う。しっかり描けるというところを評価してもらえているのは十分わかっているし、基本は大変重要なことだけれど、ぼくには勢いや柔らかさといったようなものが、いまひとつ欠けていたのかもしれない。と、こうして書いているこの文章も堅苦しさがあるんだけど、とりあえず気にしない。とりあえず気にしないというのも今年なんとなく覚えたところでもある。この場はこの勢いに任せて書き散らす。矛盾しているように見えるけれど、真面目すぎようが遊びがあろうがとりあえず勢いとノリで作り上げてしまうのがいちばん大切。つまりは細かいことは気にしなくていいということなんだ。

 少し軽く描けるようになると、仕事の方も余裕が出てきた。軽く描く、というのは決して手を抜いているわけではないが、気持ちが楽になったのは確か。仕事のやり方そのものにも変化があったが、これはなんと言ってもiPadとアップル・ペンシルのおかげ。下書き作りの自由度と手軽さが断然大きくなった。もちろん紙に描く習慣は忘れていない。いちばん最初のアイデアやイメージは紙に描き出して膨らます。そのあとiPadのペイントアプリである程度まとまったスケッチを描く。それをPSDデータにして母艦のiMacに移し、フォトショップで本作業に入る、という寸法だ。ぼくは下書きにいちばん時間がかかるので、その行程がいくらでもやり直しや編集のきく形にできたのは大変ありがたく、都合がいい。ツールが違うだけで、紙の上ではやる気になれなかった描き方も試せるようになって、そういうのも絵に変化をもたらしたと思う。

 そういう作業への時間のかけ方をいろいろ調整するようになったのは、やっぱり子どもが生まれたからではないかなと思う。前のようなぐだぐだした時間のかけ方はできず、なにごともめりはりをつける必要が出てきたわけ。まだまだそんな器用なことはできないし、別に器用にならなくなてもいいんだけど、少しずつ自分でコントロールはできるようになり始めているんじゃないかなと思う。妻に言わせればまだまだ全然だろうけれど。自分では確かに変化を感じる。

 生活の変化、仕事の変化、作品への変化。そして、当然ながら同時に思考も変わってきたように思う。根っこの面倒な性格は相変わらずだが、なんとなく前よりは展望のあるものの考え方ができるようになってきていて、ちょっとしたことでストレスを感じることも減った。いや、感じるときは感じるんだけど。それでも、嫌なことがあっても、まあそんなものだろう程度にものごとを捉えられるようになったし、つまらないことに頭を悩ますよりは、楽しく好きなことに頭を使おうと思えるようになった。幸運なことにぼくには大好きな世界観があるし、また自分でも創作をしたいという欲求がある。空想の世界に逃げ込むことは往々にしてネガティブに扱われがちだが、ぼくのような人間にとってはそれはこの上ない特効薬にして大きな救いなのである。負の感情を増幅させるよりは、同じ脳みそを駆使して好きなものへの愛情を深めるほうが、自分にとっては生産的である。なんであれまずは肯定の精神を持って対峙するよう意識するだけで、気は楽になる。ひとと話していて、なんだか自分とは相容れない意見が飛び出してきても、とりあえずは「そうですね」の一言を返すという、例のあれだ。よく言われていることだけれどよく言われているなりにこれは効果的だと思う。まあ、なにごとにも限度はあるし、多用しすぎるとなんだか上辺だけの薄っぺらい関係になりそうだが、まずは自分を守るため、自分をコントロールするためのツールにはなる。だいたいその「そうですね」の一言には中身がなくて当たり前なのだ。エアバッグのようなものなのだから。ぼくは「そうですね」よりは「なるほど」のほうが使いやすいんだけどね。だからそう、大抵のことは「なるほど」と思って眺めている。今のところは。

 友達と意見がぶつかりそうになったときは、「なるほど」と思うと同時に、別に言い負かそうとか思わないようにする。言い負かすというか、自分の考えに納得してもらいたい、その考えを改めてほしいとか、そういうのを思わないようにする。そもそもそういう態度が友人を対等に扱っていない証拠だし、正しさをふりかざすなんてもってのほかだ。そいつが一般的に見てかなりヤバいこと言っていたとしても、多分それはそいつが自分で正すべき間違いなのだろう。彼が自分で対処すべき問題であってぼくがどうこうすることではない。余計なお世話だ。そりゃ、ことによれば友達として言わないといけないこともあるんだろうけれど(「君、それは犯罪だぞ!」)、そういうのは極端な話で、あくまでもこの場合は微妙な問題を巡る意見の違いのことで、ほっといてもお互い痛くもかゆくもない場合。そういう人間の違いは、むしろおもしろがる程度がちょうどいいのだろう。全てを共有する必要は全然ない。そういうことに思い至るまではかなり辛いことも多かったけれど、思い至ると気は楽だ。こういう変化も今年の大きいところだと思う。

 そういうのは全部、自分がもともと好きだったものを、より掘り下げて愛着を深めることに意識を向け始めたからかもしれない。『スター・ウォーズ』は当然ながら、「ハリー・ポッター」、「ポケモン」、レゴ・ブロック……。子どもの頃から好きなものを見つめ直すことで、初心に帰る。このことがかなりぼくの心の平穏を保っていると思う。この根幹があるからこそ、新しいものを取り入れることができる。今まで知らなかったものに手を伸ばせる。長らく自分のコアを作らなければと思っていたけれど、コアはとっくの昔に出来ていたわけで、それを顧みずに変に背伸びしていただけなんだな。自分らしさとはなにか、それは子ども時代にあるのだ。

 それで、どうして子ども時代を思い返すようになったかというと、やっぱり子どもが生まれたからだと思う。どうしたってそこに繋がっていく。そういうわけで2018年だった。そうそう、ブログの記事数は過去最多の一年だった。これからもどんどん書いていきましょう。

2018/12/29

最初のクリスマス


 子どもが生まれて最初のクリスマス。当然まだなにもわからないだろうけれど、わからないうちからクリスマスの楽しさは感じてほしい。家にあるものを並べるだけでもなんとなくクリスマスらしくなった。自分のコレクションもそうだけれど、クリスマスの飾りこそいくらでも世の中に溢れているので、こだわって厳選して集めたいところ。雰囲気優先なので、本来はどうかはとりあえず気にしない。自分なりのクリスマス、ジャック・スケリントン流である。


 ベビー・グルートは去年のクリスマスのあとに届いたので、ずっと考えていたこれがこれがようやく出来た。もう少し細かく小さい電飾でもいいかもね。急に思い出してやってみたので、来年は腕からオーナメントを下げたり、もう少し遊んでみよう。グルートには少し気の毒だが。こういうとき大きめのおもちゃは存在感があっていい。子どもも大きいものには興味津々だった。


 もう背中がしっかりしてきたので、自分で座っていられるのだ。着ているのはGAPの子供服で、クリスマス風のSW柄パジャマ。ちょうど去年生まれる前に買ったものだけれど、すでにぴちぴちだった。今回限り。


 座ってこちらに背を向けて、なにかに熱中している姿はいい。なにをしているかというと、クリスマスのビスケット缶を叩いている。



 初めてのクリスマスの贈り物はテディベア。少しリアル造形のものを選んだ。動物っぽいところがいい。首や手足が回るのでポーズもつく代物。マズルが長いと途端に犬っぽく見える。案の定犬がこれを狙っていて隙あらば口でくわえて奪おうとしている。


 ハロウィンの際に買った『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』のツリーは、そのままだと少し寂しい感じだったので、手製でオーナメントと、新しく買った赤い玉を追加。手描きのコウモリがいい感じ。結構スカスカなのでもっとたくさんぶらさげたほうがいいかもしれない。


 コロンビアのエンパイア・クルー・ジャケットでもう十分だったんだけど、レゴは欲しいということで、自分には「ハン・ソロのスピーダー」。ルークのランドスピーダーを分解してしまっているので、また作って並べたい。スピーダーをたくさん作ってもおもしろそう。というわけで我が家のクリスマスでした。

2018/12/28

営業報告


 今年最後の営業報告です。いつのまにかひと月ごとにまとめて書くようになってるけど、来年からもそんな感じでいいかも。
  「TRANSIT」第42号の韓国・北朝鮮特集、「History of the Koreans」のページにカットを書いています。どういった経緯で今の状態に至るのかをフラットに紐解く内容で、各時代ごとにイメージが挿入されています。
 



 いろいろと難しいところもあるけれど、少し和らげるような絵になったかなと思います。TRANSITは前号もカットを担当しましたが、その厚みに驚きます。読むところが多い雑誌は好きです。今号は付録のハンドブックなども興味深いです。




 「SPUR」2019年2月号の映画レビュー連載では、『バスキア、10代最後のとき』を紹介しています。ジャン=ミッチェル・バスキアと同棲していた女性を中心に同時代人たちのインタビューで構成されるドキュメンタリー。とにかくどんどん表現を変えて、いろいろな意味で一箇所に留まらないひとだったんだなあ、ということがわかります。バスキアと面識もある監督サラ・ドライバーはジム・ジャームッシュのパートナー。ふたりでデートしてるときにふらりと目の前にバスキアが現れたときのエピソードがかわいらしい。
 やり方は絞らないほうがいいんだなと思いました。というわけで今年の仕事はこれくらいにして閉店。また来年。

2018/12/24

『Merry Christmas! 〜ロンドンに奇跡を起こした男〜』(2017)


 今お馴染みのクリスマス、つまりはぼくが好きなクリスマスというのはこの時代から始まったものらしく、その歴史は比較的新しい。キリスト教のお祝いだけでなく、北欧の冬至のお祭りの要素も加わって今の姿となっていて(クリスマス・ツリーなんてその代表で、キリスト教とは無関係の北欧由来のものだ)、そう考えるとぼくたちが本場としてイメージしているクリスマス像も結構カスタマイズされているというわけだ。起源や経緯を忘れてしまうのはよくないけれど、しかし国や地域によって祝祭の形が変わっていくのはおもしろく、またそうやって広がっていくものもあるのではないかと思う。廃れていたクリスマスのお祝いを再発見したディケンズは、クリスマスを発明するとともに、救っていたのかもしれない。自分に合ったクリスマスを楽しみたい。

 「クリスマス・キャロル」そのものは映画も観たことあるけれど、一番イメージが強いのはディズニーのアニメ『ミッキーのクリスマスキャロル』だ。スクルージをスクルージ・マクダック、マーレイをグーフィ、ボブ・クラチットをミッキーといった具合にみんなディズニーキャラクターに置き換えられたもので、親しみを持って名著の内容を知ることができた。ちなみにスクルージ・マクダックの名前はこのスクルージが由来になっている(よくお金を数えてるもんね)。お気に入りはグーフィー扮するマーレイだった。スクルージの前に現れる昔の商売仲間の幽霊マーレイ。グーフィーの特徴である長い手足がおどろおどろしいポーズを取り、身体中に鎖が巻きついたその異様な姿が、子供心に印象的だった。というわけで本作でもマーレイがお気に入りだ。

2018/12/23

記事数100超える

 ついに今年の記事数が100件を超えた。という報告まで記事数稼ぎに見えなくもないが、とにかくたくさん書きたいので書くまで。内容がなんであれたくさん書いたということが数字に表れるのは普通にうれしい。先月からちょっと忙しくて落ち着いてブログ書く余裕なかったけど、落ち着かなくともなんとなく走り書きができるくらいにはなりたい。殴り書きでもいい。だらっとした感じでさらっと書きたい。当然そういう書き物には資料を集めて書くみたいなプロセスが非常に煩わしく、その時点でもはや気軽ではなくなる。調べている間に時間がどんどん過ぎていって息抜きどころではなくなる。前にも書いたようにちょっとした短い時間で書き上げるには、そういう資料性みたいなものはとりあえず考えなくていいと思う。あまりにも間違った知識や情報は書くべきではないんだけど、ちょうどいいところでテンポを大事にしたい。

 絵を描くときもぼくはちょっと資料に依すぎるところがあるから、もう少し想像でカバーしてもいい気がする。まあそれも間違っていない範囲で、ということだけれど。なにからなにまできっちり再現しようとしてしまうのは、見たひとに無知だと思われたくないという気持ちの表れなのだろうか。そしてそれは、逆に自分がひとの絵を見たときにそう思うことがあるということなのだろうか?いずれにせよそういうものを気にしないようになれば、またひとつ変われるような気がする。

銀河のクルマたち


 ランドスピーダーは至高。基本的にみすぼらしいラーズ農場にあってとてもスマートなフォルム。そこにおなじみの汚れや傷みが施されていて最高にクール。未来カーに見えるのに古びて見える。オリジナル三部作の雰囲気を象徴している。片側のエンジンのカバーが外れているのもとても良い。


 「アナキンのエアスピーダー」という名称になっているが、厳密にはアナキンのものではない。パドメを襲った暗殺者を追うときに駐車場にあった中からアナキンが拝借したものである。とは言えアナキンが乗るメカは基本的に黄色い。EP1のポッドレーサーも黄色い部分が際立っていたし、ナブー・スターファイターはあの通り真っ黄色、EP2で乗るこのスピーダー、EP3では黄色いジェダイ・スターファイターに乗る。さらにアナキンでなくなり、ダース・ヴェイダーとなった途端、緑色の戦闘機に乗り込む。この黄色い乗り物のセオリーは、『アメリカン・グラフィティ』の主役車である黄色いホットロッドを思い起こさせる。特にこのエアスピーダーなんかああいうアメ車の雰囲気がある。EP2はほかにも『アメグラ』っぽいダイナーが登場し、足が車輪になったドロイドのウェイトレスは言うまでもなくローラースケート・ウェイトレスのSW版だ。EP2にはところどころジョージ・ルーカスの個人的な趣味や懐古のようなものが盛り込まれているのがおもしろい。


 不恰好だがそこが良いレイのスピーダーバイク。廃材を組み合わせた自作。スマートではないがそのかわり馬力を感じさせるインパクトがある。ルークのランドスピーダーを横に倒したような形に見えるが、デザインそのものはEP6時のスピーダーバイク案に同じような形のものが残っているのでそこからの引用らしい。初めてスクリーンに登場した際、レイがまたがってエンジンをかけ、動き始めたときに地面の砂がもうもうと巻き上げられるところが良い。レイが集めた廃材を側面のネットに積み込んだりしているときに地面から浮いた状態で完全に固定されているんだけど、荷物を積むときにちょっと沈んだり揺れたりしたら尚良かった。


 実はこの連作はこのハン・ソロのスピーダーを描きたくて始めた。これもやっぱり「ハンのランドスピーダー」という通称らしいんだけど、盗品である。そしてアナキンの乗っていた黄色いのと同様こちらも非常にアメ車的で、プリムスのロードランナーやスターバードの雰囲気。板状のシルエットはのちのミレニアム・ファルコンへの伏線なのか、狭い路地を通り抜けようとして途中で失敗する冒頭のシーンが、あとでケッセル・ランを最速ですり抜けるファルコンの姿へと繋がっていく。ファルコンが船でありながらもどこか「クルマ」的でもあることがわかった。
 このスピーダー、カーブを曲がるときに車体が良い感じに傾いてお尻を振るんだけど、メイキングを見ると実際にタイヤがついていて、普通に走行しているのを撮っていたらしい。だから傾き方とか軋み方がリアルだったんだ。リパルサーリフトの反重力で浮いているはずが、タイヤがついている前提の動きを見せるのがまた可笑しい。

2018/12/22

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(2017)


 遺してしまった妻を日々見守る夫の幽霊の物語、というわけでは全然ないのがおもしろいところ。妻を守ろうとかそういうわけでもなく、ただただ自分が死んだあとの日常を部屋の隅にひっそり佇んで見つめ続けるだけ。そうこうするうちに妻は身辺を整理して、夫と暮らした家から引っ越していってしまう。もちろん夫の幽霊は新居までついていくのだろう、と思ったらこれが家に残ったまま。ここからおや?となる。

 やがて新しい住人一家が越してくる。妻と暮らした家に知らない連中が住み着くのはおもしろくない。地下鉄の幽霊に教わらなくとも多少物に触れられるので、食器を割ったりしておどかして追い出す。するとまた別の連中がやってきて住み着く。またおどかす。気づくと家は空き家を通り越して廃墟になっている。しかし彼はまだそこにいる。彼は妻ではなく家に憑いているのだろうか?

 重機がやってきて家が取り壊された。気づくとそこは建設現場になっている。次に気づくと幽霊は家があった場所に建った高層ビルにいる。周囲はすっかり様変わりし、大都市が出来上がっている。なんとなくそこはずいぶん年月が経った未来の世界だということが伝わってくる。どれだけ時間が経とうとも家があった場所に彼はいる。妻でもなく、家でもなく、土地に取り憑いているのだろうか?彼 は気が滅入って(?)ビルから飛び降りる。シーツが落ちるだけなんだけど、とにかく飛び降りる。

 今度はあたりが平原になっている。かつて暮らしていた家の周りの風景に近いが、もっとなにもない。馬車がごろごろやってきて、開拓者の一家が降りてくる。ほとんど野宿みたいな生活をしながら、父親が言う。ここに家を建てよう。しかし次の瞬間には身体中に矢が刺さった状態で一家が地面に倒れている。荷物はめちゃめちゃ。先住民の襲撃にあったのだろう。幽霊は小さな女の子の死体を見下ろす。一瞬で彼女は骸骨になり、それが崩れて地面に還る。幽霊は時間をも越えてこの土地に憑いたのだ。そして彼にとってはあらゆる事象が一瞬のうちに、同時に起こっているのだ。

 やがてそこに家が建ち、夫婦が越してくる。かつての自分たちである……。

 時を越えて同じ場所に居続ける幽霊像、その途方の無さがおもしろい。それがシーツのお化けという究極的に単純でアイコニックな幽霊によって描かれるのが最高。かわいさや可笑しさを感じさせるその姿が画面にいるだけでただならぬ雰囲気が出るし、そのシンプルな姿はときに哀愁を、ときに怒りや恐怖を感じさせるようになる。目穴が二つ空いてるだけなのに、表情が出てくる。いや、表情を考えさせられる。シーツのお化けがここまで偉大とは思わなかった。単純ゆえにインパクトがすごい。

 夫婦の生活や、遺された妻の日常も、じーっと見ていられる。妻のルーニー・マーラが、夫の死の直後に差し入れでもらったパイを黙々ともぐもぐ食べ続けるところなんか、思わず凝視する。どかどかと食べる勢いから、悲しいのか苛立っているのか怒っているのかと想像する。そしてその全部が伝わってくる。言葉が無くても場面を理解しようとじっと観察する感覚は絵本を眺めているときに近い。グラフィック・ノベル的とも言える。そしてシーツのお化けのヴィジュアルはそういう雰囲気とも合っているし、それを際立たせる。ぼくももっと白くて目がちょこんとついただけの幽霊を描きたい。

2018/12/21

エンパイア・クルー・ジャケット


 去年コロンビアがエコーベースの制服をモチーフにしたジャケットを出したとき、『帝国の逆襲』のノルウェーロケでスタッフとキャストたちが着たユニフォームの方も出してほしいなあと思っていたんだけど、今年それが実現した。とてもうれしかったし、この上着はずっと憧れだったので、思い切って購入。暖かい上に軽い上着というものを今まで着たことがなかったので、袖を通してさらに感動する。もう硬くて重い古着は着れない。重ね着の必要もないので身体も疲れない。しかもアーヴィン・カーシュナーやマーク・ハミル、キャリー・フィッシャーたちとお揃いである。


 サイズはMで、身長180センチ、体重60キロ台のぼくにはぴったり。Lサイズも腕の長さなど十分でよかったけど、余裕があるぶんシルエットが少し崩れる。こういうのはあまりヒラヒラしないほうがかっこいい。



 このワッペンが最高だ。タグは小冊子になっていてワッペンと同じ絵柄のステッカーもついていた。


 肩のストライプが昔のスキージャケットの雰囲気もあってかわいい。実物は写真を見る限りオレンジ色のところに少しグラデーションがかかっていたようだ。


 「CREW」の名札はマジックテープになっているので、付属している白紙の名札に自分の名前を書いて付け替えることができる。うまく書けるか心配なのでとりあえず保留。最高の上着が手に入ったのでどんどん着たい。特にぼくは上着のポケットにたくさんものを入れるのが好きだ。大きなポケットには文庫本も入れてしまう。冬は寒いけれど、そうやって上着の中に自分の部屋の一部を持ち歩いている感覚は、とても楽しい。

2018/12/16

『最後のジェダイ』から一年

 この一年のあいだにそれなりにいろいろ考えたり思ったりしたけれど、やっぱりぼくは『スター・ウォーズ』と名がついて発表されたものは大前提として受け入れて、受け入れた上でここのこの部分がどうのこうのと考え続けるのが好きなんだな。そもそも作品を受け入れるか受け入れないか、否定するか肯定するかみたいな次元でストップするのは残念過ぎるし、SWオタクが気にするのって作品の正当性とか是非とかよりもその中に出てくる技術とか仕組みとかそういう部分じゃなかったっけと少し思ったりもする。それも、これはおかしいおかしいではなく、おかしくならないように理屈付けるのが醍醐味のような気もする。

 いずれにせよぼく自身はあまり作品そのものに対する批評的な脳は持たないようにしたいし、自分だったらこうする、みたいなのもやめておこうと思う。創作は好きだけれど、それはまた別の話で、そういうのはテレビでスポーツ見ながら俺が監督だったらどうのこうのと文句を言ってるオヤジと変わらなくて(奇しくも監督というところでも同じ)、あんまりかっこうのいいことではない。かっこうの悪いことはあんまりしたくない。そりゃ、自分が思うストーリーとか、観たいものは結構あるし、創作も絵を描くのも好きだから、自分でリイマジネーションしてみたくもなるんだけど、それはそれとして、大前提としてひとさまの作ったものや仕事にケチはつけるべきではないんだよ。

 出されたものは黙って観る。ひとの作品を好き勝手に作り変えるよりは、ひとの作品を受けたあとで、それを尊重しながらそこからなにかを派生させるほうがいいと思う。たとえば今回で言えばローズのバックグラウンドを自分なりに考えてみるとか?ぽっと出てきてさあっと去ってしまったDJの経歴とか?本物のマスター・コードブレイカーの普段の仕事ぶりとか?EP7のラストでは全然違う鳥が飛んでたのに直後のEP8で島にはポーグしかいなかった理由を無理やり考えてみるとか?そういう感じ。そうありたい。あと登場人物や監督の性別、人種のこととかよりもデス・スター論争みたいなものを論じたい。その方がSWだと思う。

2018/12/13

短い時間で作る

 別に制限時間ではないが、最初からこれくらいしか時間をかけない、というふうにしておくと気が楽になったりする。現に最近描いたものは極力時間をかけないことを心がけている。仕事だとそうはいかないけれど、遊びの絵だとそういう実験はいくらでもできる。何日もかけて描く大作とかはあまり興味がない、というか、そんなに長い時間同じものを描き続けられない。次から次へとバリバリと描いていくに限る。それが楽しいし、絵の数も増える。コレクション気分で描いているところがどこかにある。ブログの記事もせいぜい15分くらいで書けるものだけ書いていければいいんじゃないだろうか。それを少しずつ貯めていって小説のようにしていくとか。要するに集中力がないんだよな。1時間もやっていると疲れてくる。最初に思いついたものをとりあえず基礎に考えていく。もちろんそれがかえって制限になることもあるから、気をつけないといけないけれど。しかし、大抵の場合いろいろ考えた挙句最初に思いついたものに戻ってきたりもするので、まあそういうものなのかもしれない。広がりは求めたほうがいいけれど、無闇にもっと出来るはずだと思わないほうがいい。出口が見えなくて辛くなる。今はこれくらい、と思うだけでいろいろ開ける。そろそろ10分なのでこれくらいに。

39.7度の熱にかかる

 ノロウィルスというやつでどこでもらってきたかはわからないけれど、決定的に体調を崩したのはあのファミレスでハンバーグを食べてから。今でもお熱くなったプレートから溢れそうなほどの脂が沸き出すあの映像が蘇ってくる。しばらく脂っぽいものとか、味の濃いものは避けたい。お店の名誉のために言えば、別に翌日ニュースになったりはしていないし、そもそもぼくはそれよりも前からちょっと体がおかしかった。必ずしも食べ物で感染るわけでもないらしいし、ほかのみんなが平気な食べ物にひとりだけ当たってしまうこともある。主な症状は書くまでもないけれど、なんだか自分が上にも下にも穴の空いたただの筒、パイプになったような気分だった。なんて余裕をもって表現できるのはすっかりよくなっているから。そうだ、人間はただの筒でしかないのだ。それを思い知ったあとにやってきたのは驚くほどの高熱で、体感的にはそこまで高いとは思わなかったんだけど、測ってみるとほとんど40度というデジタル数字が出て、普段から暗示を受けやすいたちだから、そういうふうに具体的な数字を示されるとなんだかその気になってしまい、どんどん気分が悪くなった。脳がふつふつ言っているような感じで、血液もぶくぶく言ってそうだった。死ぬかと思った。妻が言うにはうわ言で両親を呼んでは涙をつうっと流していたらしい。覚えがない。そういうひとの心があったか。これは夢なのかどうかわからないけれど、これまでずっと頭の中でどこか塞がったような感覚があったんだけど、熱の中ではそれが開け放たれて、いろんなイメージが流れてきて、ああいうこともやって、こういうこともやらないとなあ、なんていうことを考えながら寝ていた。ずいぶん時間をかけて熱が下がっていったけど、頭は軽く感じられた。そりゃあれだけ高熱になっていれば軽く感じるわけで、別に体調崩す前より軽くなったわけでもなさそうだけれど、気分的にはすっきりである。コミコンに行って楽しくて帰ってきてから一週間考えてきたことだけど、やっぱり著しく欠如しているのは他者への関心である。頭の中が塞がったようになるのは、風通しが悪くなるのは新しい場所へ行き新しい人間と会わないせいではないだろうか。そんなことはずっと前からわかっていた。ベタすぎて避けていただけだ。しかし今やベタと向き合うときが来たのだと思う。

2018/12/03

瑞丸、東京コミコンに行く

 

 なんとなくしばらくイベントを敬遠していたところがあるんだけれど、それではいけないと、思い切って東京コミコンに足を運んだら、これがとても楽しかった。オンラインの友達を誘ったので、ようやく彼らと会って遊べたというのも大きいけれど、とにかく良い週末だった。



 いきなり会えたのがこの新作ドラマシリーズ『マンダロリアン』の、まだ名前すら発表されていない、それどこから腰から上くらいの写真しか出ていないキャラクターのコスプレ。


 まだなんの情報も出ていない時期にこのひとに会えただけでも行ってよかった。手作り具合も最高です。ぼくもボバ・フェットの衣装を、どんな出来でもいいから一度作りたい。


 SWの目玉ブース、ミレニアム・ファルコンの視点でヤヴィンの戦いに向かっていく特別映像。ルークやヴェイダーいる溝まではたどり着かなかったけど、よくできてた。





 SWと言えば玩具の展示。S.H.フィギュアーツの新作展示を見るのはわりと憧れていた。「ディスプレイ・オンリー」が多かったけど、この中からどれだけ実際の発売になるのか。今のところエイリアンのキャラクターが少ないので、このヨーダとイウォーク、ジャー・ジャーはぜひ出して欲しい。






 あとはこのあたりの特撮映画の展示。アメコミ作品メインみたいなイメージも強かったけれど、わりといろいろな映画がまんべんなくあったと思う。ので、基本的に映画が好きなら楽しいはず。さらに言えばハリウッド作品だけでなく、東宝や円谷などの特撮をはじめ国内ものもたくさんあって、まあとにかくなんでもありだった。ポップカルチャー博覧会とでも言えばいいか。

 一度行けばどんなものかわかってすっきりするだろうとか、一度行けば満足するだろう、気がすむだろうなんてことを思って行ったわけだけれど、結局来年もまた行きたくなった。人間にはやはり祭りが必要なようだ。次はもっとコスプレのひとと写真を撮りたいな。少なくともSWキャラのひとにはどんどんお願いしたい。マンダロリアンは大好きだから迷いなく行けたけど、ほかのキャラはなんかどういうポーズで撮ったらいいかなんてことを気にして迷っちゃった。関係ないのにな。むしろそういうのはコスプレしてるひとが誘導してくれる。あとは自分でもヘルメットかライトセイバーを持っていこうかな。自分が被ってると写真も撮りやすそうだし、より楽しそう。楽しいのがいちばんだ。こうやっていろいろと考えているだけでも楽しい。いろいろ大変そうだけど、毎年続けてほしいなあ。